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オオカミくん、落ち着いて! 年下御曹司の終わらない執着愛 3

第三話

翌朝、見知らぬ部屋で目覚めた紗英は、心臓が止まりそうになった。
 すぐ隣に、延の寝顔があったからだ。
 凜々しい眉、研いだような輪郭を前に、昨夜の出来事を思い出す。途端に、ざっと血の気が引いた。転げるようにベッドを下り、そこからは無茶苦茶だった。
 四つん這いになり、床に落ちている服をかき集め、それを抱えて玄関へ走り、愚かにも靴を履いてからワタワタと身につけて。
 部屋を飛び出しながらも、腰が抜けそうだった。
(どうしよう。しちゃった。いただいちゃったよ、元教え子……!!)
 マンションのエントランスから駅へは、直結だからまだいい。しかし頭が混乱しすぎていて、改札機には三回も引っかかった。四回目には、駅員に声を掛けられもした。
「いかがしましたか、お客さま」
「あ、い、いえ、なんでもないです」
 もうだめだ。後ずさりし、すぐ側にあったカフェに立ち寄る。と、今度は寒いのにアイスコーヒーなんて買ってしまって、カウンター席で項垂れる。
「はあ……」
 それにしても、なんてことをしてしまったのか。後悔しても、しきれない。
 紗英から襲ったわけでも、誘ったつもりもないけれど、なんの危機感も抱かずに部屋に入ったのはいけなかった。世間一般ではこんなとき、合意うんぬんと男を責めるものだろうが、紗英は全面的に自分が悪いのだと思う。
 なにしろ、紗英は延の元家庭教師だ。勉強面でその役割を終えても、彼を教え、導く存在であるべき、というところは変わらない。
 延が過ちを犯したなら、それは紗英の責任でもある。
 気負いすぎかもしれないが、そのくらいの覚悟で関わってきた。
『──どうしたの、それ』
 あれは確か、誘拐未遂事件から三か月ほど経った頃。
 怪我の治療やらなにやらで、しばらく休んでいた家庭教師のバイトを再開するため、久々に相賀美家を訪れたときのことだ。
『るせぇ。見んな』
 延は泣き腫らした顔をしていた。
 くっきり二重の瞼は厚ぼったい一重になり、充血した瞳は兎のようだ。
『何があったのよ。もしかして学校の廊下をぞろぞろ這っている蜘蛛を追いかけて森に入ったら、ボスの大蜘蛛に喰われそうになって半泣きで逃げてきたとか!?』
『某魔法学校じゃねえよ。見んなっつってるだろ。知らねえフリしとけよ』
『じゃあ……もしかして、居酒屋で泣くほど辛いシシトウにあたった?』
『大酒飲みのおまえと一緒にすんな! くそっ、とっとと授業やりやがれ』
『駄目よ、延。くそ、なんて汚い言葉を使っちゃ。POOP、caca、あるいは』
『てめえ、いっそ帰れ!!』
 紗英としてはどうにかして延に笑ってほしかったのだが、その日は授業が終わってもまだ不機嫌で、見送りの際にも目を合わせない始末だった。
 よほどのことがあったのだろう。人間関係がうまくいっていないとかなら、事が大きくなる前にご両親の耳に入れておいたほうがいい。
 それで翌日、紗英は大学で講義を受けたあと、王美堂本社に寄るつもりだったのだが。
『あ、紗英っ』
『ちょっと、こっち来て。今夜はみんなで呑むからね!』
 しかし、友人たちに捕まってしまった。
 久々に会って盛り上がったとかじゃない。
 彼女たちを突き動かしたのは、紗英の交際相手──いや、数日前に紗英が同じサークル内の男と別れたこと、だった。
 紗英は黙っていたのに、あろうことか男のほうがSNSに書き込んだらしい。
『ここはあたしらの奢りよっ。あんな甲斐性なし、とっとと忘れちゃいな!』
 行きつけの居酒屋に連れて行かれ、ビールの中ジョッキを手渡される。
 同席したのは同じゼミに籍を置く女友達八人だ。根明だからか、紗英は学生時代、交友関係は浅くてひたすら広かった。
『ええと、別にわたし、そんなにショックでもないんだけど……、うん、でも奢ってくれるって言うなら、せっかくだからいただいちゃう。ありがとっ』
『そうそう、どんどん呑んでどんどん食え。つうかさ、普通はさ、彼女が顔に怪我なんかしたら心配するでしょ。傷痕が残ったって、俺は気にしないって言うでしょ』
『お見舞いにも行かずに別れ話するなんて、何様だよ。しかも自分ばっかりショックを受けた体でSNSに傷心ポエム晒すとか、人としてどうなのって話よ』
『あー、いやあ、まあ、それはさ、わたしが取っ組み合いなんかしちゃったから。恐れおののいて逃げ出したとすれば、責められない気がするんだよね』
『紗英は器が大きすぎるのよ!』
 表向き、紗英の額の傷の原因はただの喧嘩ということになっている。
 誘拐犯と死闘を繰り広げたなんて、誰にも言えない。
 延は被害者だが、それでも、御曹司が誘拐されかけたとなれば、天下の王美堂の企業イメージは揺らぐ。たとえ同情されたとしたって、それが事業にプラスに働くかと言えばノーだろう。
 延の両親から、できれば内密にと頼まれたこともあって、紗英は当時の恋人にすら事実を伏せた。
 彼には申し訳ないとは思ったが、だからと言って、こっそり本当のことを耳打ちしよう、そうまでして寄り添ってほしい、などとは考えられなかった。
(好きか嫌いかと聞かれれば、好きではあったんだけど……うん)
 何にでも簡単にハマって夢中になるわりに、紗英は恋愛に限ってどっぷり浸かった経験がない。こんな自分はどこかおかしいのではないかと、たまに悩むこともある。
 すぐに忘れるが。
 ジョッキに口をつけようとすると、後ろからバンっと背中を叩かれる。
『紗英、あたしらがついてるよっ』
『ぐっふ……鼻に、鼻に入っ……』
『あんなチリメンジャコみたいな奴、単位落として留年すればいい!』
『言い得て妙ー。って、そのジャコ、昨日は散々だったみたいよ』
 咽せ込む紗英をさて置いて、彼女たちは芋焼酎を片手に会話を転がしていく。
『いやさ、あいつが駅前で警察に囲まれてるのを見たって子がいてさ。何かやらかしたのかと思ったら、なんかね、誤解で逮捕されかけたらしいのよ』
『えーっ、警察沙汰!? 痴漢冤罪みたいな?』
『じゃなくて。小学生の男の子がさ、あいつを指さしてわんわん泣き始めたのが事の発端。で、その子のお兄さんだかお父さんだか、一緒にいた保護者があいつをこう、すぐさま押さえ込んで警察に突き出したらしいんだよね』
 昨日。小学生の男の子。わんわん泣く。紗英の脳裏には、前日、目の当たりにしたばかりの延の泣き腫らした顔がぱっと浮かんだ。
 まさか──いや、考えすぎだ。
『それって、結末はどうなったの?』
『勘違いで申し訳ないことをしたって、そこそこの額の慰謝料をもらったらしいよ。その少年、資産家の子供だったとかで、ポケットマネーをぽんとね。結果、ジャコ野郎が儲かったところがムカつく』
 やはり、延なのではないか。
 一緒にいた保護者というのを、SPと仮定するとすべてに納得がいくのだ。
 わんわん泣いている延を見て、SPは只事ではないと思ったはずだ。昨日、泣き腫らした延の顔に、紗英が驚いたように。そして、すぐさま男を捕まえた。
 延が指を差していた男を。
(誘拐未遂事件があったばかりだもんね。警戒して当然よね)
 犯人グループはすでに逮捕されたものの、相賀美家は依然ピリピリしている。
 使用人たちの身辺をもう一度調べ直し、関係者に緘口令を敷き、屋敷周辺の見回りを警察にお願いして。延の両親は在宅で仕事をするようになり、延の外出は日中だけだ。
 結果、家族団欒の時間が増えたらしく、そのこと自体は良かったと思うのだが。
『あのさ、延。ひとつ聞いてもいい?』
 翌々日が家庭教師の日だった。
 キリのいいところで休憩を取りつつ、紗英はそう切り出す。
 この間、泣き腫らした顔をしてたのはどうして? もしかして、勘違いで誰かを警察に突き出したりした? そう尋ねるつもりだった。もし本当に、件の小学生が延だとして、あまりにも偶然が過ぎる気がしたからだ。
 すると、いきなり目の前にカラフルなものが差し出される。
 花束だ。
『これ、おまえにやる。あ、余ったからっ』
 花束が余るとは、一体どういう状況か。
 面食らいつつも、紗英はそれを両手で受け取った。
『ありがと……きれい』
 小ぶりのひまわりを中心に、明るい黄色を基調としたアレンジメントだった。
 はつらつとした雰囲気が、紗英の好みにぴったりだ。爽やかなロイヤルブルーのリボンで束ねられていて、しっかりとした重みには高級感がある。
『花束なんて、初めてもらったかも。切り花って贅沢よね。女子になった気分』
『紗英は女子だろーが。ガサツだしゴリラだけど、俺、き、嫌いじゃねえし』
『ゴリラって、まだ言うの。あのね、そんな物言いだからモテないのよ。わたし知ってるのよ。延が同級生の女の子から人気で、でもすぐに愛想を尽かされちゃうこと』
 情報源は相賀美家の家政婦だ。春、新学期には女子が大勢押しかけてくるのに、夏になる頃には潮が引くようにいなくなるんですよ、と苦笑していた。
『あれは俺がフってんだよ。小学生に言い寄られたって、別に嬉しくねーし』
『こーら。自分を大きく見せるの、やめなさい。延は自然体が一番いいんだから』
『うっ……うっせえ! 大きく見せてなんかいねえし、事実だしっ』
 両耳が真っ赤になっているのは、怒りの所為だろうか。なんにせよ、ヘソを曲げるとは理不尽だ。ゴリラと罵られたのは紗英のほうなのに。
 そのまま黙るかと思いきや、延はすぐに『なあ』と話しかけてくる。
『もしかして、鉢植えの方がよかったか?』
 珍しく、不安げな問い方だった。
『ううん! 鉢植えはすぐ枯らしちゃうから、こういうほうが気が楽。てか、これ、余ったからくれたんじゃないの? 鉢植えのほうが、ってどうして聞くの』
『ききき聞いてみちゃ駄目なのかよ』
『いちいちつっかかんないの。あ、ねえ、ひまわりの隣の、白いカーネーションみたいなの、なんだろ。かわいい』
『ああ、それは確か、トルコキキョウ』
『へえ、キキョウってこういう花だったっけ? 延、詳しいのね』
 こんなに立派な花束、どこに飾ろう。想像すると、なんだか楽しくなってきた。
 実家の間取りを思い浮かべ、玄関かな、そういえば花瓶あったかな、などと考えを巡らせていた紗英は、延が次にボソッと零した言葉で我に返った。
『元気、出たかよ』
 えっ、と問い返しそうになる。
 意外すぎて、声にならなかったが。
『……俺だったら、こんな簡単に、別れ話なんかしない』
 小声で付け足された言葉に、頭の中でパタパタと仮定ドミノが倒れていった。
(やっぱり)
 延は知っている。紗英が、恋人と別れたことを。
 どこからどんなふうにしてその情報を手に入れたのかは謎だが……いや、ひょっとしたらSNSかもしれない。元彼の傷心ポエムだ。自慢げに、誰でも閲覧できる状態で公開されていたし、紗英も彼をフォローしているから見つけるのは簡単だ。
 まさかそれで、延は元彼を困らせるような真似をした?
 なんのために?
 そんなの、紗英のために決まっている。紗英を悲しませたから。だから。
 この花束だって、余ったわけではないのかもしれない。延が、わざわざ用意したのかもしれない。紗英を元気づけるため、そのためだけに──。
(まったく、もう)
 仔細予想がついてしまったから、紗英はあえて尋ねるのをやめた。
 やり方に大いに問題があるものの、慰謝料を持ち出したあたり、延はその問題に気がついていないわけじゃない。もちろん、なんでもお金で解決しようという姿勢は褒められたものではないけれど、今は咎めるべきときではない気がしたのだ。
 それより、あんなにやんちゃで傲慢だった延が、紗英の気持ちを慮った。自分さえよければかまわなかったあの頃よりも、誰かの気持ちを考えて動くようになった。
 そのことをまず、認めてやりたかった。
 そして紗英は思ったのだ。
 勉強だけでなく普段の生活も、延のお手本になれたら、と。
 延に立派な背中を見せられるよう、日々精いっぱい生きていこうと。
「……どこがお手本なのよ……」
 呟いて、紗英はふやけた紙ストローを手慰みにする。
 冷えたコーヒーなんて飲む気になれず、まだ一口も減っていない状態だ。
 こんなことなら、早々に延の家庭教師を辞めていればよかった。受験が終わった時点で、手を切るべきだったのだ。立派な背中なんて、いつ見せられた? 考えれば考えるほど、失敗しかしてこなかった気がして、無力感に襲われる。
 それにしても……。
 無理やり押し倒したくせに、延の手は終始丁寧だった。
 何度も、大丈夫か、痛くないか、と尋ねられたし、動くときはつねに思い遣るようで、紗英の気持ちいいところを一生懸命に探していた。最後だって、かろうじてだが、中に出されはしなかった。抵抗させてもらえなかったことを除けば、紗英はベッドの上で、そこそこ大切に扱われたのだ。
 だから、ますますわからなくなる。
 そもそもどうして延は、突然あんなことをしたのか。
「──紗英!」
 すると、斜め後ろからいきなり呼ばれた。反射的に顔を上げて見たのは、ニットにジョガーパンツという薄着でカフェに飛び込んでくる延の姿で……。
「え、延」
 気分的には、くるりと背を向けて、脱兎のごとく逃げ出したかった。
 昨日の今日で、ほとぼりも冷めないうちに明るい場所で顔を合わせるなんて、あまりにも気まずい。実際は、立ち上がることすらできなかったけれど。
「来い」
 手首を掴まれ、強引に店から連れ出される。
 咄嗟には、トートバッグしか持てなかった。アイスコーヒーをカウンターに置き去りにしたまま、通勤客が行き交う駅構内を、小走りの状態で引っ張って行かれる。
「阿呆。勝手に出て行ってんじゃねえっ。心配しただろうが!」
「……心配?」
「そうだよ。ゆうべの影響で女は色々あるだろうが。しんどいとか、痛いとか、怠いとか……。なんで余裕かまして、こんなところでコーヒーなんか飲んでんだよっ」
 早口で言う延は、怒り心頭に発するといった雰囲気だ。心配されている……のだろうか。ぐいぐいと引っ張られる手首を、紗英は半信半疑のまなこで見つめる。
 昨夜、ラーメン店に向かうときには、紗英のほうから握った手。
 あのときは、なんとも思わなかった。大きさも、温度も気にならなかった。
 それなのに今はやたらと、骨張った指や掌の広さ、汗ばむほどの熱さがそれぞれはっきりと感じられて、頭が沸騰しそうになる。
「ねえ、どこに行くの、延」
「……」
「ねえってば!」
 強く腕を引くと、延はやっと立ち止まって振り返った。
 狭い通路に、ひと気はない。延が住むマンションは駅直結で、エントランスを出たところがすでに駅構内なのだ。グレーの壁に沿って、ほんのりオレンジ色のアッパーライトが足もとから空間を照らしている。
「俺の部屋に戻る」
「戻って、どうするの」
「今日くらい、面倒を見させろよ。メシとか、身の回りの世話とか、ひと通りのことはする。俺、ゆうべは無我夢中で……ちゃんと気を遣ってやれなかっただろ」
 ボソボソと言う延の頬は、照れをそこに閉じ込めたみたいに紅潮している。
 初体験のときだって、こんなに優しい言葉を掛けられたことはなかった──いや、嬉しいと思ってどうする。延は元教え子だ。学生だ。これまで大人として彼を導いてきた立場の紗英が、異性として見ていい相手じゃない。
「大丈夫よ、初めてでもないんだし。延が気にすることじゃないわ」
「あ?」
「延に何かしてもらわなくても、ひとりで平気だから。じゃあ、これで」
 掴まれている手を引き抜こうとするも、させてもらえなかった。
 かえってぎゅっと強く握られ、変な汗が背中に滲む。
「それでも、一旦戻って来い。これっきりにされたら困るんだよ」
「……っ」
「あ、いや、誤解すんなよ。次の約束が欲しいなんて、まだ欲張るつもりはねえから。突っ走りすぎた自覚くらい、俺にだってあるんだ。だからこそ、まずはちゃんと話す時間が欲しい。昨日のこともひっくるめて、ケジメというか──」
 瞬間、紗英は耐えきれず、持っていたトートバッグを延の口もとに押し付けた。
 どうして昨夜あんなことをしたのか、知りたかったはずだ。
 話し合えるなら、直接尋ねればいい。そう思うのに、今はもはや何も聞きたくなかった。延の口調が深刻そうだったのも、あわせて紗英の危機感を煽っていた。
 今、これ以上踏み込んだら、戻れなくなる。そんな気がする。
「おい」
 トートバッグを押し退けた延は、顔をイライラと引き攣らせて言う。
「何すんだ、こら」
「ね、やめとこ?」
「は?」
「やめようよ。話し合いとか、これ以上、問題を大きくするの。心配しないで、昨夜のことは忘れるから。わたし、大人の女だし? ワンナイトはノーカンっていうか」
 もちろん嘘だ。体だけの割り切った関係が結べるほど、紗英は器用じゃない。
「……それ、冗談なら笑えねぇからな」
「本気よ。昨夜のことは、延も悪夢を見たと思って忘れてくれない?」
「なんだよ、悪夢って」
「ほら、二十歳のうら若き青年が、こんなオバサンを相手にするなんて、勢いだとしても黒歴史になりかねないじゃない。だから、とにかくなかったことに」
 何もなかったことにして、元に戻ろう。
 そう言おうとすると、振り払うように手首を離された。
「一生覚えとけ、ボケ!」
 言い捨てて、延は足早に去っていく。
 その気配が廊下から消えるとともに、小石がざらっと降ってきた気分になった。
 胸のあたりが、ガサガサして重苦しい。何も考えられず、しばし立ち尽くす。
 マンションのほかの住人がやってきて、慌てて駅へ戻ろうとしたが、やはりうまくいかなかった。改札にもまた引っかかり、乗り換えには失敗し、自宅にたどり着いたときにはすでに昼だった。
 
 
 その後、延からの連絡はぱったりと途絶えた。
 以前はスマートフォンにメッセージが、最低でも三日にいっぺんは届いていた。
 メシ食ったかとか、残業終わったかとか、紗英が公開したメイク動画を観たとか。
 そんな他愛のない情報も知れなくなって、延の状況がわからなくなって初めて、紗英はああ、他人なんだと実感させられた気がした。
「さて今日は、大正ロマンなモガ風アイメイク。まずは頼りなさげな下がり眉を描いていく。眉潰し用の接着剤を使って、眉頭は目頭より内側、本来より少々上に……」
 撮り溜めたメイク動画に、声を入れながらも考えてしまう。
(このまま、フェードアウトするのが一番いいんだよね)
 なかったことにして元通りに、と最初は考えた。でも、あの晩のことを忘れるなんて、紗英のほうができそうにない。いくら切り替えが早い性格とはいえ、顔を合わせたらきっと、思い出してギクシャクしてしまう。
 延のためにも、二度と会わないと決めよう。
 もともと紗英は、延から離れようとしていた。潮時だと考えていたのだから。
 けれど、スマートフォンが鳴れば急いで飛びつく。延からの連絡ではないと知れば、ほっとすると同時に何故だか寂しいような、がっかりした気持ちになる。
 何をしていてもそんな調子だったから、メイク動画の編集は進まず、SNSの更新も滞った。仕事にも身が入らないまま、二週間が過ぎて行った。
 
 
「物流業の未来に、かんぱーいっ」
「ロジスティーックス!」
 部長の音頭で乾杯し、表情ばかりは笑顔でウーロンハイのグラスに口をつける。
 職場の飲み会が催されるのは久々だ。
 本当は食欲もないし、居酒屋でどんちゃん騒ぎをする気分でもない。けれど誰かと一緒にいれば、延のことを考えずに済む。だからありがたい機会と言えなくもなかった。
「小咲係長、どうしたんですか。全っ然、食べてないじゃないですか」
 部長が耳まで茹でだこみたいに赤くなった頃、席にやってきたのは本日の幹事にして入社一年目の中田だった。元野球部の肉体派でフォークリフトの扱いもうまいため、パートの主婦たちに絶大な人気を誇るホープだ。
「そ──そんなことない。美味しいよ、砂肝」
 笑顔で頬張ってみせたものの、味なんてわからなかった。
「中田くんこそ、ちゃんと食べた? ここの会計、社員会費なんだからお腹いっぱい食べて帰ったほうがいいわよ。とくに、単価が高いやつ」
「それ、前回も前々回も聞きました」
「あはは、やだなぁ。同じこと何回も言っちゃうなんて、もう歳かも」
「笑ってる場合じゃないですよ。いつも誰より食べるのに、どうしたんですか。もしかして、具合でも悪いですか? タクシー、呼びましょうか」
 心配そうに言う中田の肩は、ハイゲージのニット越しでも筋肉が隆々としているのがわかる。流石は元ピッチャーだ。そういえば、と紗英は思い出す。
 中田ほどではないが、延も、そこそこ筋肉質な体つきをしていた。
 小さい頃は女の子より華奢だったのに、いつの間にあんな一丁前の、鍛え上げられたような体型になっていたのだろう。ぱっと見、背の高さや脚の長さばかりに目が行きがちだったけれど、上半身なんて──。
「小咲係長?」
「えっ、あっ、なんの話だっけ!?」
「やっぱりタクシー呼びますね」
 紗英はぼんやりしていただけなのに、中田はやはり体調不良を確信したようだ。
 ちょっと待っててくださいね、と小言で告げて、スマートフォンを片手に行ってしまった。数分後、戻ってきた中田に連れられて、さりげなく店を出る。
「もうすぐ来ると思います、タクシー。五分くらいで着くって電話で言ってました。部長たちにはうまいこと誤魔化しておきますから、気にせず休んでくださいね」
「何から何までありがと。楽しい席で、気を遣わせちゃってごめんね」
「そうやって、気を遣ってるのはいつも係長のほうじゃないですか」
「ふふ。そう思うのは、中田くんが気遣いのできる人だからよ」
 後輩にまで気を遣わせてしまって、情けない。
 そろそろ切り替えなければ。延のことは、忘れなければ。でも、どうやって? 自然と俯く紗英の隣、並んで車道を眺めながら中田はぼそっと言う。
「……そう言ってくださるのは、係長くらいです」
 焼き鳥店のすぐ前の道路は、細いY字路になっている。
 右、左、とスムーズに分かれて進む車の列は、まるでコンベアの先で行き先ごとに振り分けられていく段ボールみたいだ。このままずっと、頭を空っぽにして眺めていたくなる。
「係長」
「うん? ここ寒いから、戻ってていいわよ」
「いえ。その、せっかくの機会なので、係長にお話ししたいことがあって」
「なあに? 仕事のこと?」
 もしかして、転職したいとかだろうか。
 だとしたら引き留めなければ。優秀な中田に辞められてしまっては痛手だ。と、そこまで考えたところで、がしっと両肩を上から掴まれる。びっくりして見上げれば、中田は緊張の面持ちで紗英を見下ろしていた。
「仕事とは関係ない話です。係長、年下は嫌いですか!?」
「は……え、どうしたの、いきなり」
「いきなり、じゃないです。入社直後から、ずっと気になってました。新人の僕にも気を遣ってくださって、いつも前向きになれる言葉を掛けてくれて……僕はっ」
 わけがわからず、紗英はポカンとしてしまう。
 学生時代に恋人がいたとはいえ、恋愛ごとにはすこぶる疎いのだ。自ら誰かに恋した経験も、片想いにもだもだしたり、勇気を振り絞って告白したりしたこともない。
 係長、と中田はいよいよ切羽詰まった顔で間近に迫った。
 紗英は戸惑い、目をしばたたかせながら固まるしかない。
 そのときだった。
「失礼します」
 左斜め後ろから、低い声がする。
 直後には腰を抱かれ、声がしたほうに引き寄せられていた。
 必然的に、肩を掴んでいた手が離れる。途端、驚いたように見開かれる中田の目。紗英はその視線の先を見上げ、そして同じように目を剥いた。
「なんで……」
 延。
 どうしてここに、延が。
 立ち尽くす紗英のすぐ横に立ち、延は軽く中田に頭を下げる。
「失礼ですが、紗英を連れて帰っても?」
「あ、は──はい。問題ありませんが、あなたは」
「僕は相賀美と申します。彼女の元教え子です。……今のところは」
 そう言って、紗英の腰に腕を回し、踵を返す。
 そのまま連れ去られそうだったから、紗英は我に返って延を止めた。
「待って。今、タクシーが来るのよ。中田くんが呼んでくれたの。だから」
 本当はそんなことより、ただ離れたかった。もう会わないつもりだったのだ。このまま、ずるずると連れて行かれるわけにはいかない。そもそも一緒にいるのも怖い。
 延にまた何かされるのでは、という意味だけの「怖い」じゃない。
 一緒にいたら、己を保てなくなりそうで──。
 すると目の前に、タイミングよく黒塗りの車両が滑り込んできた。ボンネットの表示板に『迎車』と赤ランプで表示されたタクシー……これに違いない。
 すると誰が動くより先に、延が後部座席のドアから車内に頭を突っ込んだ。運転手になにやら話し、いくらか支払い、すぐに紗英のもとへ戻ってくる。
「行くぞ」
「え、ちょ、延っ」
 再び腰をがっちりホールドされ、中田には肩越しに会釈するくらいしかできなかった。ほぼ駆け足の状態で、行くこと数分。延の愛車の電気自動車は、まるで乗り捨てたかのように斜めに路肩に停められていた。
「アパートまで送る。それでいいだろ」
「じ、自分で、電車で帰るわ」
「いいから乗れよ。今日は、誓って何もしない」
 強引に助手席に乗せられ、シートベルトまでとめられてしまう。覆い被さられるような格好になって、息が止まるかと思った。あの晩の延の体温を一瞬、思い出して動けなくなる。腰から下に、甘い痺れが回る──どうしよう。
 どぎまぎして焦点も定められずにいるうちに、車は発進していた。延はハンドルを片手で操作し、車道に出てから、囁くようにぼそっと言う。
「……怯えんなよ」
 怯えてなんかいない。
 そう言いたくても、声にならない。どうしてだろう。胸のあたりが詰まる。
 無言のまま、車窓を流れるカラフルな夜景を横目でやり過ごす。紗英の自宅アパートまで、十五分ほどだ。以前ならば、なんでもないことをわいわい言い合って、あっという間に潰せる時間だった。けれど今は息をするのも苦しくて、一生この時間が続くのではないかと思うほど居づらかった。
「ほら」
 アパート前で車が止まると、見覚えのある紙袋を差し出される。
 あの日、慌てて逃げ帰ったために、忘れてきてしまった王美堂の化粧品だ。
「あ……ありがと」
「これがないから、新しい動画、出せないんだろ」
 つまり延はこれをわざわざ届けるために、紗英を訪ねて行こうとしていたのだろう。それで偶然、居酒屋の前でタクシーを待っているのを見かけた、と。
 いや、だが、動画を公開できなかったのはコスメの所為ではない。ないのだが、どう答えたらいいのかわからず、うん、と頷く。その先、言葉は続かなかった。
 後ずさるように車を降り、ドアを閉める。逃げ去るのもあからさまで、せめて見送ろうと路方に立っていると、運転席の窓が開く。
 そこから身を乗り出すようにして、延は言った。
「紗英、週末、休みか」
「え、あ、うん」
「じゃあ、土曜朝、八時にここな」
「ここ……って」
「迎えに来る。動きやすい格好で、防寒だけはしっかりしとけ。じゃあ」
「ち」
 ちょっと待って、とは言わせてもらえなかった。
 延はまるで紗英の返答を封じるように、アクセルを踏み込み行ってしまう。
 住宅街の路地を右へ流れ消えるテールランプを、紗英は茫然と見送った。
(土曜って……八時にここ……って)
 迎えに来るとはどういうことか。いや、普通に考えたら、どこかへ一緒に行こうという意味に決まっている。しかし、何をどうしたらそんな話になるのか。
 もう会わないつもりだったのに。
 紗英はまたもや呑み込みきれない事態を前に、口をあんぐりと開けて立ち尽くすしかできなかった。

 

 このまま別れたら、二度と会ってもらえない。
 そんな予感がしたから、延は、強引だと知りつつも次の約束を取り付けた。捨て台詞的に押し付けて帰ってきた、と言ったほうが正しいかもしれない。
「……必死かよ。ちくしょう」
 ハンドルを操作し、一路自宅を目指しながら自嘲してしまう。
 今夜、居酒屋の前で出くわしたのは、偶然じゃない。
 紗英の所属部署は、定期的にあの店で親睦会を催す。紗英から、そう聞いていた。
 時期的にそろそろだろうと、ここ数日、仕事帰りに様子を見に行っていたのだ。ばったり会った体でもなければ、合わせる顔などなかった。
 延はこの二週間、寝ても覚めても罪悪感でいっぱいだった。
 詫びたいが、詫びていいものかどうか。ごめん、とは許しを乞うのと同義の言葉で、しかし延は許されたいわけじゃない。なかったことにもしたくない。
 本当は、強引に抱いてしまった翌朝、告白してしまいたかった。
 おまえのことがずっと好きだったんだ。おまえが俺の初恋で、おまえ以外好きになったことはない。そう正直に伝えるつもりだった。
 玉砕したってかまわなかった。子供扱いされたまま、縁を切られるよりマシだ。
 けれど何も言わせてもらえず──。
 あのときは苛立った。ムカついた。せめて怒れよ、無理やり抱いたんだぞ。横っ面を叩くのもまだ早いと思うほど、俺は子供なのかよ、と。
 しかし結果的に、縁が切れなくてよかったと今は思う。
 やはり離したくない。誰にも渡せない。というのは、あの中田とかいう男が紗英に迫っているのを目撃した所為もある。
(どっからどう見てもあいつ、紗英に告白してただろ。紗英のほうはわかってなさそうだったけど)
 鈍感にも程があるが、そこに今回は救われた格好だ。もし紗英が中田の告白を受け入れたり、男として意識し出したりなどしたら、太刀打ちできない。
 なにせ中田はれっきとした社会人で、その点、紗英とは対等なのだ。
 帰宅して、玄関に車の鍵を置いたところで、スマートフォンが短く震える。
 ──土曜って何? 何を考えてるの
 紗英からのメッセージだ。
 返信のしようがない。というのはあの誘いが思わず口から出たもので、もとから何か計画していたわけではないからだ。
 ──悪いようにはしない
 短く返すと、紗英からの返信はなかった。
 風呂から出ても、日付けが変わっても、夜が明けても。
 わかった、と了承の返事を寄越さないあたり、不本意ではあるのだろう。が、行かないとも言わない以上、紗英は約束を受け入れたのだと延は理解する。付き合いだけは長いから、そのくらいはなんとなく予想がつくのだ。
 そこから必死に頭を捻り、予定を組んだ。
 紗英が喜びそうなところ。少しでも楽しんでくれそうなところ。ひいては、延からの誘いを断らなくてよかったと思ってくれるところ。
 その程度で、身勝手に抱いたことを挽回できるとは思えないけれど、それでも。
 ──一応、用意したけど、これでいいの?
 土曜、つまり当日の朝になって、再び紗英からメッセージが届いた。
 歯磨きをしながら確認すると、メッセージの下には自撮り画像が貼り付いている。
 大ぶりのリュックを背負い、マウンテンパーカーを着込んだ紗英の鏡越しの写真だ。いかにもこれから富士登山でもします、といったふうで、確かに防寒は完璧だ。しかし、何をどう解釈してこうなったのか。
 ──アウトドアじゃねえし
 反射的にそう送って、すぐさま後悔する。しまった、このテンションでは子供の頃と変わらない。男として見てもらいたいのに、自ら墓穴を掘ってどうする。
 すぐさまフォローをしようとすれば、手の中のスマートフォンがバイブレーション、ぱっと怒ったクマのスタンプと短い文章が表示される。
 ──動きやすい格好って言ったじゃない!
 ──だからってなんで山登りの装備になってんだよ
 ──山じゃないの? じゃあ海?
 ──この寒空の下で海に行きたいか?
 ──今の時期なら牡蠣よね
 ──あのな
 ──あのね、悪いのは延なんだからね。そうやって、のらりくらりして!
 気付けばすっかり元通りだ。
 それでは不服だと思っていたはずなのに、なんだかほっとする。紗英があえて元のように接してくれているのかと思ったら、ひたすら申し訳なくて、とにかく有難くて、そして、敵わねーな、と実感させられた気がした。
 しゃがみ込んで「はあ」とため息をつく。
(やっぱ、めちゃくちゃ好きだ……)
 張り詰めていた気持ちが、一気に流れ出て行く。
 三時間後、シャツにカーディガン、ミドル丈のコートを羽織って部屋を出る。手荷物をまとめたボディバッグを後部座席に置き、運転席に乗り込む。
 エンジンをかけようとすると、紗英からまた画像が届いた。
 ──わかった。これならどうよ?
 写っていたのは、オーバーサイズのトレーナーをミニ丈のワンピースとして着こなした紗英……ヤバい、かわいい。かわいい。かわいい。破壊力ありすぎだろ。
 思わずハンドルに突っ伏し、悶絶してしまう。
 とはいえ、すらりとしたその脚を、たとえ黒タイツを穿いているとしてもほかの男に晒すのは癪で、防寒しろって言っただろ、とそっけなく返答した。

 


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