今日、本気できみを抱く 美形な紳士と蜜約関係 2
第二話
幸いと言うべきか、不幸だと嘆くべきか、柚は仕事を定時で終えた。残業でもあればそれを理由に断ることもできたのだが、人生うまくいかないものである。
佐伯に指定された新木場駅は、『Four gardens』の最寄り駅から二駅の距離だ。電車に揺られることほんの数分で、目的地に到着した。
ホームから階段を下りていくと、ラッシュ時ということもあり、構内は乗降客で溢れ返っている。りんかい線や有楽町線に乗り換える人波に紛れて改札に向かった柚は、佐伯の姿を探そうと目を凝らしたが、その必要はなかった。
人の群れに紛れることなく、存在感を示してたたずんでいたのだ。
柚に気付いた佐伯は、昼間に見せた営業用の顔ではなく、ひと癖もふた癖もありそうな笑みを浮かべた。
「昼間はどうも。本城さん」
「こちらこそ。佐伯様にラウンジをご利用いただけて光栄です」
「勝山さんお勧めのスタッフが本城さんだとは思わなかったよ。見た時は驚いた」
「とてもそうは見えませんでしたよ。ポーカーフェイスがお上手なんですね」
なにを白々しくと思いつつ、柚もめいっぱいの営業用スマイルを浮かべて佐伯に応じた。とにかくこの男に負けてはならないと、妙な対抗心を燃やしてしまう。
「あの場では知らないふりをするほうが得策だろ。それとも数日前にひと晩過ごした仲だって、勝山さんに言ってほしかったのか?」
「……人聞きの悪い言い方しないでください」
「本当のことだろ」
しれっと返されて言葉に詰まった柚は、早くもこの場に来たことを後悔していた。どうも性格に難があるこの男に、柚のような単純な人間が対抗できるはずもない。
ガックリと肩を落とした時、佐伯は「行くぞ」と言って腰に手を回してきた。
「え……きゃあっ!?」
「変な声を出すな。目立つぞ」
「じゃあ手を離してくださいっ」
「今さらこれくらいで騒ぐことはないだろ。俺はきみの下着姿まで見ているんだし」
鼻で笑うような台詞に、柚は再度言葉を詰まらせた。周囲からは確かに視線を感じるし、ただでさえ職場に近い駅だ。他のスタッフに目撃されれば面倒になるのは目に見えている。もっとも目立っているのは、佐伯の際立った容姿によるところも大きいのだが。
これ以上問答していても埒が明かない。そう判断すると、渋々ではあるが腰を抱かれたまま佐伯を仰いだ。
「どこに行くんですか?」
連絡事項があればこの場で済ませてほしいところだが、どうにも様子が違うようである。
佐伯は意味ありげな視線を向け、「着けばわかる」とだけ言うと、有無を言わさず歩いていく。りんかい線の改札前を素通りし、駅を出ようとしたところで、柚はたまらず声をかけた。
「あの……逃げませんから、離れてもらえませんか」
手は軽く腰に添えられているだけなのに、自分の身体ではないように動きがぎこちない。正直、とても歩きづらいのだ。
「逃げない? 別にきみを連行しているつもりはないんだけどね」
添えている手に力を込めた佐伯は、柚の耳もとに近づくと、艶を含んだ声で囁いた。
「ずいぶんつれないな。酒を飲んでいる時は、大胆に俺を誘うくせに」
「さっ、誘ってません」
「覚えてないだけだろ? なんなら思い出させようか」
「……お断りします!」
またしても柚の負けである。このまま一生この男にたった一夜の醜態をネタにゆすられるのではないかという、被害妄想じみた考えまで浮かんでくる。
(その前に、一生なんて付き合わないってば)
内心とは裏腹に、はたから見れば仲の良いカップルのように寄り添い歩く。駅前に広がるロータリーまでやってくると、ドイツ製有名メーカーの高級車が目に飛びこんできた。
街灯の光を反射させたシルバーのボディは、路線バスや小型車がひしめく中でひと際大きな輝きを放っている。スリーポインテッド・スターと呼ばれるエンブレムを見れば、車種に疎い柚でも車名がすぐに出てくるくらい有名な、超が付く高級車である。
無駄に大きな存在感は、隣で柚の腰を抱きながら平然とする男のようだ。
どんな人種が乗っているのだろうと横目で見ていると、佐伯がポケットから取り出したキーをその高級車に向けた。小さな電子音と共に、ロックの解錠音が耳に届く。
「どうぞ」
佐伯はごく自然に、助手席のドアを開けて柚を中へと促した。
「まさか、佐伯さんの車なんですか……?」
「他人の車のキーを開ける趣味はないよ」
どうやら車というものは所有者に似るらしい。あるいは、所有者が自分にふさわしい車体を選ぶのだろうか。触れるのも躊躇する外観と、他者を寄せつけない圧倒的な高級感を示す車を前に、柚は素直に乗ることができない。
「……佐伯さんって、何者なんですか?」
佐伯のマンションもこの車も、普通のビジネスマンが持てるような代物ではない。
ましてこの男はせいぜい二十代後半から三十代前半といったところだ。たとえ大手の企業に勤めていたとしても、手取りは知れているだろう。
いったいどういう立場の人間なのか。戸惑いの眼差しを向けると、彼は優美な仕草で胸ポケットから煙草を取り出して火を点けた。
「いいね。“様”が抜けたってことは、多少距離が縮まったわけだ」
「誤魔化さないでください」
「事実だろ」
ともすれば冷たく見える端整な顔に、表情が宿る。人を試しているような、性質の悪い──しかし一度目にすると癖になりそうな微笑だ。
紫煙を燻らせながら瞳を伏せた佐伯は、「吸い終わる前に乗ってくれ」と不遜に言い放つと、ついでのように付け加えた。
「そう急がなくても、追々わかるだろ。時間は“たっぷり”ある」
たっぷり、を強調されて、そんなに時間をかけてたまるかと思いつつも黙って従う。悔しいことに、口で敵わないことはすでに学習済みである。
柚が乗りこむと、静かにドアが閉められる。遅れて乗りこんできた佐伯は煙火を消すと、ゆっくりとアクセルを踏んだ。
滑るようにロータリーを抜けた車は、ほどなくして首都高に入り、東京方面に進んでいく。車の免許を持っておらず、移動手段はほぼ電車のみの柚にとって、車窓から眺める車や街路灯が発する光の渦は新鮮にだった。
「綺麗……」
「いつもきみが眺めている『Four gardens』の眺望ほどじゃないだろ」
「それは、比べる対象が違うというか。……素直に感動させておいてください」
じろりと睨みつけると、佐伯は「それは失礼」と軽く受け流し、悠然と車を操っている。
この男の前だと妙に落ち着かない。ホテルで働くようになり、オンとオフの使い分けには長けてきたはずが、ことごとく調子を狂わされている。
「ほら、着いたよ。本城さんも来たかったんじゃないか?」
「あ……!」
夜のドライブの終点は、三日前に訪れた創作料理居酒屋『青葉』であった。どこに連れて行かれるのかと身構えていたが、よく見知っている店を見た途端ホッとする。
駐車場に車を入れて店の前まで来ると、佐伯が格子戸を開く。すると、タイミングよく千川が出迎えてくれた。
「いらっしゃい、おふたりさん。珍しい組み合わせだな」
「この前は、ご迷惑をおかけしてすみませんでした……!」
「いや、俺はこの男に任せちゃったしね」
深々と頭を下げる柚に、千川は「気にしなくていい」と言って、隣で涼しい顔をしている佐伯を見た。
「俺の可愛い後輩をいじめてないだろうな?」
「人に任せたのは千川さんでしょう。なにを今さら。あなたからの頼み事は、これでもしっかり請け負っているつもりですよ」
佐伯と千川の楽しげな応酬をビクビクしながら聞きつつ、黙ってふたりの後に続く。まさに、触らぬ神に崇りなしである。
カウンター席を素通りした千川は、店の奥にある座敷へと通してくれた。促されてひとまず腰を下ろした柚だったが、驚きを隠せずに辺りを見回す。
「あの……千川さん? どうして座敷なんですか?」
『青葉』の座敷は予約しか受け付けておらず、カウンターやテーブル席と比べると料金が格段に跳ね上がる。座敷用のコース料理は創作懐石料理を中心に組まれ、厳選された旬の素材を使用した逸品料理には、著名人のファンも数多くいると千川から聞いていた。
柚たちが祝い事で利用する時ですらテーブル席の宴会用プランで、座敷には足を踏み入れたことがない。『青葉』の座敷は予約も難しければ、たとえ予約できたとしても懐具合が厳しいこと請け合いの場であった。だが。
「佐伯が予約したんだよ」
「えぇっ!?」
さらりと告げられ、柚は正面に座る佐伯に視線を移した。
「……佐伯さんって、な」
「本城さん、なにを飲む? この前みたいにがぶ飲みはしないでくれよ。せっかくの料理の味がわからなくなるしな」
「あの時は……っ」
言いかけて、柚は話題をすり替えられていることに気が付いた。佐伯は、自身の素性を問われることを嫌って話を逸らしたのだ。この話題にあまり触れられたくないようだ。
一連のやりとりを見ていた千川は、「ずいぶん仲良くなったんだな」と笑っているが、不本意な評価である。
「仲良くというよりは、いじめられてるんです」
「へぇ? やっぱり本城さんには酔ってもらうか。そんな口はきけなくなるだろ」
「……もうしばらくお酒は飲みません」
「適量で済ませればいい話だ。介抱されたいのなら、期待に沿えないことはないけどね」
不敵に笑う佐伯にやりこめられた柚は、迂闊に話すのをやめようと誓った。いちいちこの男に反応していては身が持たない。
「仕事が終わったばかりだろ。すぐに料理を出すから待っててくれ」
早く食事にありつきたかったこともあり、「お願いします!」と、喜んで返して口を噤む。
(また佐伯さんのペースに巻き込まれてる。……せっかく『青葉』の座敷に来られたんだから、お料理を楽しまないとね)
柚の判断は賢明だったのか、その後はごく普通に料理を堪能し、終始穏やかな時間が流れた。季節の野菜を織り交ぜた天ぷらは絶品だったし、個室で食すコース料理は単品料理とは違った趣向を凝らしていて、普段にはない贅沢なひとときを味わえた。
「すっごく、おいしかったですね……!」
「お気に召したようでなによりだ。その食べっぷりを見たら、千川さんも安心するだろ」
デザートを食べ終える頃には、すっかりリラックスしていた。
柚が最後のひと口を味わっていると、佐伯は眼鏡の奥の切れ長の目を緩ませる。その言葉から、今日この場は柚や千川のために設けてくれたのだとようやく察した。
人を振り回す困った男だが、そのくせごく稀に優しさを見せる。あの日、失恋で落ち込んでいた柚に気持ちを吐き出させてくれたことからも、佐伯の気遣いが窺えた。だからこそ、強引な行動をされても拒みきれないのだ。
「連れてきてくれてありがとうございます。おかげで千川さんに謝罪できました。それに、お座敷のお料理も堪能できましたし」
「礼を言われるほどのことはしていないよ。ここに連れてきたのは、話をするついでだ」
素直に礼を受け取らなかったが、彼の雰囲気は幾分か柔らかに変化している。意地悪でも不遜でもない佐伯の“素”の表情に、柚の本音が零れ落ちる。
「佐伯さん……いつもそういう顔をしていたらいいのに」
「……そういう顔?」
「柔らかい顔です。自覚ないですか?」
即答すれば、佐伯は虚をつかれたような表情を見せた。そんなに意外なことを言ったつもりはなかったのだが、なぜか興味深げな視線を注がれる。
「本城さん、面白いね、きみ」
スッと立ち上がった佐伯は、柚の隣に腰を下ろした。先ほど『柔らかい』と称した表情はもうそこにはない。代わりに艶を含んだ視線をたっぷりと注がれ、無意識に後ずさる。
「佐伯さん?」
「酔えば自分から絡んでくるのに、素面だと逃げるんだな」
大きな手のひらで頬を撫でられて、さらに大きく後ずさった柚は、背中に壁を背負ってしまった。整いすぎて一見体温を感じさせない容貌が、視界いっぱいに広がっていく。
なぜ自分が詰いつめられているのか理解できないまま、彼から目を背ける。
佐伯は車の運転があるために、アルコールは飲んでいない。ということは、素面で柚との距離を縮めているわけである。
その顔は妙に艶やかで、油断すると吸いこまれてしまいそうなほどの色気を放っていた。
「……どいてもらえませんか」
「断る、と言ったら?」
背中を壁に押しつけた柚の身体を囲うように、佐伯は壁に両手をついた。
素性は知らないが、それなりの地位を築いているらしい男。しかも極上の美形が、なんの間違いか今現在、互いの体温を感じられるくらい近くにいる。
まるで佐伯の部屋で目覚めた日と同じようなシチュエーションだ。息を詰めた柚は、彼の涼しげな瞳を見つめることしかできない。
「それは、きみの癖? まっすぐに人の目を見る。うっすら頬を染めて……まるで、誘っているみたいだな」
「……そんなこと、あるわけないです」
「へぇ? ……絶対に?」
「ぜ、絶対です!」
佐伯は今にも覆いかぶさりそうな体勢のまま、柚の耳もとに口を寄せた。
「じゃあ本城さん、きみに頼んだハウスキーピングの話をしようか。まず都合の良い日をピックアップしてくれ。その中から俺が選んだ日に来てくれればいい」
「え、あ……はい」
柚は、話の転換についていけず間抜けな声を出した。
なぜこの体勢で、いきなりハウスキーピングの説明を受けなければならないのか。そう反論したくとも、近すぎる距離に動揺してうまく言葉が出せない。
「期間はこの前言った通り、次の働き手が見つかるまで。その間それなりの働きをしてくれれば、相応の報酬を払おう」
「え? だってこれは、迷惑をかけたお詫びで……」
「それなりの働きをすれば、と言っただろ。もし俺が気に入らなかったら無料奉仕だ」
佐伯は尊大に言い放つと口の端を上げた。まるで自分が柚の雇い主だと言わんばかりだ。
「わかりました! だから離れてください」
「ああ、まだ最重要事項が残ってる」
「……なんですか」
「俺に対する余計な詮索はしないこと。それと……俺に、恋愛感情を持たないこと。この二点を守ってくれれば、あとはきみのやり方に任せる」
提示された条件は、柚の心にかなりの衝撃を与えた。
確かに佐伯は容姿端麗である。しかし面と向かって『俺に惚れるな』とは、たいそうな自信家だ。この男じゃなければ一笑に付す台詞だが、大多数の人間が認めるだろう美形だからこそ、嫌味であり腹立たしい。
「……ご心配なさらなくても、天地がひっくり返ってもありえませんから」
「本当に?」
極上の容姿を持つ佐伯に笑顔のひとつでも向けられれば、恋に落ちる可能性もあるかもしれない。だが、恋をする条件はそれだけではない。
柚にとって恋愛とは、安心感を与えてくれるものだ。佐伯が相手では、安心どころか、常に緊張と妙な感覚──自分のすべてが奪われていくようで落ち着かない。そんな人間に恋をすること自体、考えられなかった。
「天地がひっくり返っても、俺に恋愛感情は持たないんだろう? だったらこの程度で動揺しないはずだ」
「そっ、それとこれとは、話が違います」
とんだ曲解である。佐伯の胸を押し返しながら反論したが、なおものし掛かってきた彼は誘うように囁いた。
「違わないよ、ほら。しっかり拒絶してくれないと、このままキスすることになる」
涼やかな瞳が、揶揄するように柚を見つめる。
このままではマズイと、頭の中でけたたましく警報が鳴り響く。それなのに、柚は俯くしかできなかった。今できる唯一の抵抗と言っていい。そもそもこういった場面に慣れておらず、男性に迫られた時のうまいかわし方など知らないのだ。
「どうして……こんなことするんですか。わたしは、絶対に……」
「物事にはね、“絶対”は、存在しないんだよ、本城さん」
佐伯の指が柚の顎を持ち上げて、艶やかな視線が絡められる。
吐息が交わり、あと少しで唇が触れる距離である。気を抜けば、押し切られてしまいそうな危うい空気感があった。
沈黙の流れる中、柚は身動きひとつせずに目の前の相手を見つめた。先に目を逸らせば、意識ごと飲みこまれてしまいそうな気がしたのだ。
やがて佐伯はフッと息を吐くと、柚から身体を離して立ち上がった。
「本城さんは、見かけによらず芯が強そうだな」
柚の腕を引いて片笑んだ佐伯は、どことなく楽しげである。
非難の目を向けた柚は、「意味がわかりません」と言って距離を置いた。近くにいては、なにをされるかわかったものではない。
「そのままの意味に捉えてくれ。美しい景色に素直に感動できるのなら、褒め言葉も素直に受け取ればいい」
どうやら佐伯は先ほどの車内での会話を引き合いに出しているらしく、「芯が強い」とは褒め言葉のようだ。だが、その言葉を素直に受け取ることはできなかった。
柚は猜疑心旺盛なタイプではない。にもかかわらず、佐伯との会話では、今までに経験がないくらい言動を疑ってかかっている。極めて珍しい現象だ。それを成長と呼ぶのか、可愛げがなくなったと称するのかは、判断が難しいところだろうが。
「……結局、わたしは佐伯さんのお眼鏡にかなったんでしょうか」
柚は、いろいろと言いたいことを飲みこむと、一番重要な部分だけを口にした。
もともとは佐伯がハウスキーパーにと望んで始まった話であり、彼がノーと言えばそれで終わる。
佐伯は柚に視線を流すと、「そろそろ出よう」と襖を開き、そして彼にしては珍しく、裏を感じさせないまっとうな笑みを浮かべた。
「来週、きみの都合のいい日を連絡してくれ」
その後。『青葉』を出て柚をアパートまで送り届けると、佐伯はその足で自身のマンションに戻った。
リビングに入ってソファに腰を落ち着け、煙草を咥えて火をつける。紫煙を燻らせながら思い返すのは、先ほど別れたばかりの柚のことだ。
(それにしても、予想外だったな)
柚と初めて出会った日。介抱することになったのは成り行きだ。それは彼女に説明した通りで嘘はない。もっとも、あえて伝えていなかったこともあるのだが。
(傷つくとわかっていて思い出させることもないだろ)
あの日の朝、動揺していた柚に事の経緯を説明したところ、かなり恐縮していた。記憶が曖昧だったが少しずつ思い出したようで、みるみるうちに青ざめていたのが印象的だ。
だが、彼女は“あの夜”の出来事をすべて覚えているわけではない。それは、言動から見ても明らかだった。
「……なかなか、面白くなりそうだ」
深く吸い込んだ煙をゆっくりと吐き出し、ひとりごちて笑みを零す。
佐伯は仕事の都合で、つい最近まで米国にいた。幼いころから海外生活が長かったため、異国の職場でも不自由はなかったが、とあるプロジェクトの責任者になり帰国した。新年を迎えてすぐのことだ。
ようやく日本での生活基盤が整ったため、旧知の千川の店へ赴くことにしたのである。
柚の話は、千川から聞いていた。『Four gardens』時代の後輩が可愛がっている新人で、たまに一緒に店に来るのだと語っていた。『仕事が好きでたまらないって、おまえと同じ人種だよ』とも。
人当たりはいいが好き嫌いの激しい千川が、好意的に人を評すのは珍しかった。わずかに興味を抱いた佐伯は、『機会があれば会ってみたいですね』と答えたのだが──最悪のタイミングで初対面となった。
酔っ払った柚を引き受けたのは、千川に貸しを作る意味もあった。佐伯の目的にあの男が必要だったからだ。後々の益を考えれば、ひと晩くらいベッドを貸す程度どうということはない。
佐伯にとって予想外だったのは、柚が意外に仕事への情熱を持っていたことだった。
『これからは、仕事に生きるんです。もう恋愛なんてしなくていい……』
マンションに戻る車中で、柚は譫言のように呟いた。『青葉』ではずっと下を向いていたが、今は毅然と顔を上げている。
──酔いが覚めて記憶があるかどうかは微妙なところだな。
柚にペットボトルの水を差し出した佐伯は、ひそかに苦笑を浮かべた。これまで失って落ち込むほどの恋をしたことがないからか、彼女の在りようが羨ましかったのだ。
『なにがきっかけであれ、仕事に打ち込むのは悪いことじゃない。きみはまだ若いし、いろいろな道を選べるはずだ』
『道……それなら、やっぱり……「Four gardens」の一員として……頑張りたいなぁ。わたし、今の職場が大好きなんです』
水を飲みながら、柚は『Four gardens』がいかに優れたホテルなのかを語った。正体不明になるほど酔っているというのに、仕事への愚痴がいっさい出ない。なかなか珍しいことだと妙に感心してしまう。
──なるほど。千川さんが気に入るわけだ。
自分の仕事への愛情を彼女は持っていた。未来への希望と期待に溢れている。新人特有の青臭さと、それに勝る情熱。話を聞いていると、自らが新人だったころを想起させる。
誰しもが、彼女のような心持ちで職に就くわけではない。たとえ最初は夢を語っていても、いつしかその輝きは失せてしまう。業務が流れ作業になっていくのだ。それは責められることではないし、当たり前の光景とも言える。
『……きみのように職場に愛情を持って仕事を楽しんでいる人が、これからもそのまま働けるように願うよ』
『嬉しい、です……わたし、本当は……そう言ってもらいたかったのかも……』
語尾が怪しくなってきた柚は笑みを見せたが、限界を迎えたのか瞼を下ろす。左右に揺れる頭を自身に寄りかからせ、そのあどけない寝顔につい微笑んだ。
それから部屋に連れ帰り目覚めた柚は散々泣いた。しかし翌朝目覚めたときは、やはり会話の内容をすべては覚えていなかった。
だが、佐伯の記憶にしっかりと刻み込まれている。失恋に涙を流すほど一途で、それなのに恋愛だけに生きているわけではない。
柚の不器用でまっすぐな気性は好感が持てる。
「さて、どう転ぶかな」
煙を吐き、ソファに深く背を預ける。
千川のみならず、勝山も柚を気に入っていた。彼らは柚のホテル愛を好ましく感じているし、佐伯も同様の感情を抱いた。彼女のようなスタッフが部下にいれば、育ててみようと思ったに違いない。
(まあ、それだけでもないが)
何かが大きく変わる予感がする。仕事でもプライベートでもこの手の直感を外したことのない佐伯は、変化の兆しを楽しもうと決めた。
『Four gardens』メンバーズ・クラブラウンジのシフトは、他のスタッフとの兼ね合いを考えて、月の半ばから組み始める。そのため、どうしても外せない用事がある場合は、月の初めに申告しなければならない。つまり、急な休みは取りにくいのだ。
そう説明したうえで公休日を佐伯に伝えたところ、『大丈夫だ』と返答があり、ハウスキーパーとして初仕事の日時が決定した。
土曜の午後。柚は佐伯に指定された通り、彼のマンションへ向かって歩いていた。
佐伯が居住するのは港区にある地上五十五階、地下三階からなるタワーマンションである。都内でも屈指の高級住宅街にそびえ立つマンションは、さながら天に向かって伸びているバベルの塔のようだ。緑豊かなマンションの敷地内を歩いていた柚は、まるで公園の中を散策している気分で、メインエントランスへと進んだ。
御影石を使用した豪奢な階段を上ると、マンション内からコンシェルジュと思しき人間が恭しく頭を垂れた。ネームプレートに『大石』と書かれた男性は、柚の勤める『Four gardens』に勝るとも劣らない洗練された身のこなしだ。一流ホテルスタッフ並みの教育を受けていることが想像できる。
以前来た時に顔を覚えられていたのか、大石はにこやかに「佐伯様より伺っております」と言って、中へ通してくれた。
案内されたのは、居住スペースでは最上階となる五十三階。柚にとっては二度目の訪問となるわけだが、正直、前回の訪問──というよりは、宿泊といったほうが正確なのだが──は、予期せぬ緊急事態であり、周囲を見渡す余裕などなかった。見回してみると、気後れしてしまいそうなマンションである。
隅々まで磨き抜かれた廊下を進み、佐伯の部屋の前で立ち止まると、コンシェルジュより連絡があったのか、インターホンを押すよりも早くドアを開けて出迎えてくれた。
「今日は酔ってないみたいだな」
「当たり前です」
開口一番で皮肉めいたことを言うと、佐伯は半身を開いて柚を中へといざなった。黙って後に続いた柚は、改めて見る部屋に茫然とした。
玄関から廊下を抜けた正面には、二十畳ほどのリビングにダイニングキッチン。左手には半月ほど前に柚が眠りについていた寝室がある。窓からは部屋全体に陽が射しこみ、その先にはさぞかし見事な眺望が拓けているだろうことが窺えた。
今の心境を表すとすれば、「早く代わりのハウスキーパーが見つかってほしい」である。
柚はどちらかといえば接客が主な仕事であり、ハウスキーピングの経験は少ない。なによりもホテルの客室と一般家庭では勝手が違い、その道のプロと比べれば仕上がりは見劣りしてしまうはずだ。
キョロキョロと視線を部屋中に巡らせていた柚に、佐伯は眼鏡の奥の瞳を細めた。
「道具類は玄関の脇の物置にある物を好きに使ってかまわない。俺は向こうの書斎にいるから、なにかあったら呼んでくれ」
「わかりました……あの、佐伯様」
「“様”付けは堅苦しいからいいよ」
「ですが」
「否定の言葉は必要ない。……返事は?」
「……かしこまりました」
反論は許さない口調に、様々な言葉を呑みこんで返事をし、心の中で舌を出す。すると佐伯は、柚の片頬に触れて端整な顔を近づけてきた。
「さ……佐伯さん!?」
「きみの『なにがなんでもこんな男の言う通りにならない』って気概はなかなか面白い。でも、今度、堅苦しい言葉遣いをしたら……」
フッと佐伯の息遣いが耳の奥に響いた。耳たぶに口を寄せられて肩を震わせると、艶を含んだ楽しげな声が後に続く。
「この前『青葉』でしなかった分も含めて、きみを味わうことになるかもな」
「なっ……」
「じゃあ、後はよろしく。本城さん」
全身から熱が放出し、発火しそうな勢いで体温が上がった柚をリビングに残し、佐伯は書斎へと消えていった。
(……あの人、なにを考えているんだろう?)
『俺に、恋愛感情を持たないこと』
確かに佐伯はそう言った。しかし彼の言動は、柚を惑わせているとしか思えないようなものばかりだ。
高級マンションに住み、高級外車を乗り回す男。加えて、身なりも見た目も極上に良い。そのうえ、ここぞというときに優しさを見せるのだから、とんだ人誑しぶりである。
いちいち鼓動を跳ねさせずに済むには、かなり時間が必要になりそうだ。
(もうっ! 最近、佐伯さんのことばっかり考えてる気がする)
心の中で叫んだ柚は、複雑な思いに駆られつつ物置きに向かった。
窓から射しこむ光が室内に影を作り、外の景色が藍に染まる時間。ようやくひと通りの作業を終えた柚は、ついその場に座りこんだ。
バスルームからベッドルームまで磨き上げたはいいものの、力の入れ具合を間違ったのか、作業が終わる頃にはすっかり力を使い果たしてしまった。
てっきり仕事ぶりをチェックされるのかと思っていたが、予想に反して佐伯は柚の仕事を妨げるような行動はとらなかった。それどころか、書斎からまったく出てきていないから肩透かしを食っている。
(……忙しいのかな)
一瞬声をかけるのを躊躇したが、いつまでも他人様の部屋でモタモタしているわけにもいかない。重い腰を上げると、一度も開かなかった書斎をノックした。
「終わりました。こちらのお部屋はどうしますか」
「あぁ、お疲れ様。ここはかまわないよ」
仕事部屋なのだろう。ドアの隙間からは、パソコンや書類らしき紙の束が無造作に散らばり、左右の壁は書棚に占拠されているのが見える。他の部屋は寝室でさえも生活感がなかったが、ここだけは佐伯の存在を感じさせた。
「もうこんな時間か」
書類の束に埋もれるようにして置いてあったデジタルの時計は、ちょうど十八時になったところだった。この部屋に来て作業を始めたのが十三時半を回っていたから、かれこれ四時間半を費やしたことになる。
「……時間がかかってしまって申し訳ありません」
「そういう意味で言ったんじゃない。ずいぶんと卑屈にとるんだな」
「勉強したんです。佐伯さんとの関わり方を」
「俺とどうやって関わろうとしてるんだ? きみは」
ニヤリと意地の悪い笑い方をした佐伯に一瞬眉を寄せかけた柚は、負けじと笑顔を作って彼を見据えた。
「佐伯さんの言うことを、いちいち真に受けないこと。それと、言葉の裏を読むことです」
「なるほど、学習したわけか。でも、まだ甘いな」
首を傾けておかしそうに呟いた佐伯は、「自分の手の内を簡単に話したらダメだろ?」と言いながら、柚の頭を軽く撫でた。
「さて、じゃあそのあたりの話をじっくり聞かせてもらおうかな」
煙草の匂いと共に柚の前を通り過ぎ、佐伯はベッドルームへ足を向けた。まさか「ベッドの上で」などと不埒なことを言わないだろうかと思いつつ、リビングで佐伯を待つ。
本当は早く挨拶を済ませて退散したかった。このままここにいてはからかわれるのがオチで、無駄に体温を上げる羽目になってしまうからだ。
ところが佐伯はベッドルームから上着を持って出てくると、柚の肩をポンと叩き、「行くぞ」と玄関に向かった。
「あ、お出かけですか? じゃあわたしはこれで帰りますね」
「なに言ってるんだ。じっくり聞かせてもらうって言っただろ? 今後のために親交を深めるのも必要だと思わないか?」
そう言って佐伯は柚を外に促した。仕事内容をチェックされるとばかり思って身構えていたが、いささか拍子抜けして佐伯に従う。すると佐伯は廊下に出た瞬間、新木場駅でそうしたように、柚の肩を引き寄せた。
「さ、佐伯さん……!?」
「なにか問題が?」
「大アリです!」
空とぼけて顔を近付けてくる佐伯に、思わず大きな声を上げた。ただでさえ美形を直視するのは心臓に悪いのだが、ふたりしかいないので目を合わせないわけにもいかない。柚は狼狽えつつ、彼の涼しげな瞳と向き合った。
「こういうことは、良くないと思うんです」
『俺に、恋愛感情を持たないこと』と佐伯は言った。ということは、恋愛感情を持たれてはいけない理由があるからだ。性格はさておき、見た目だけは極上の男なのだから、彼女のひとりやふたりいてもおかしくはない。
(そうだ。どうして今まで思いつかなかったんだろう)
苦しまぎれに口をついた言葉だったが、よくよく冷静になれば当たり前の話である。
そんなことすら失念するほど佐伯に翻弄されていたのだ。おかげで失恋に浸る間もないが、距離感を間違えてはいけない。彼とはあくまで契約関係でしかないのだから。
佐伯の腕から離れた柚は、努めて冷静に彼に向き直った。
「その……恋人に誤解されるような真似は、やめたほうがいいと思います」
「恋人、ね……本城さんは、やっぱり面白いね」
興味深そうに柚を眺めていた佐伯は、端整な顔に微笑を浮かべた。心なしか、意外なものに出会った時のような、物珍しさをはらむ目つきをしている。
「最初の印象とはまるで違うな」
「最初って、あれは……忘れてください。……どうかしていたんです」
「忘れようにも忘れられないよ。強烈すぎて」
「……意地悪ですね」
誕生日の一週間前という時に晴臣に振られ、半ば自棄になっていた。だから普段では考えられないほど前後不覚に陥るまで酔っぱらい、目の前に現れた佐伯に縋ってしまった。
「忘れてください。仕事は代わりの方が見つかるまでは、きっちりこなしますから」
一番惨めな時に出会い、なぜか関わることになってしまったが、これ以上は近づかないほうがいい。いらぬ誤解を周囲に与えるのは避けたかったし、柚としても佐伯に接していると変に落ち着かない気分になるのだ。
それは、恋と呼べる感情ではないかもしれない。だが、後々面倒になりそうな芽は摘んでおいたほうがいい。そう、厄介な感情が育つ前に、封印してしまったほうが賢明だ。
「なるほどね。じゃあ誤解されて困るような存在がいなければいいというわけか」
佐伯の腕がふたたび柚の肩に回されて、半身が密着する。人の話を聞いていないのかと非難の声を上げる直前、佐伯の声がそれを制した。
「きみが心配しているような女性は俺にはいないよ」
「……え?」
「誤解されて困るような存在はいない。なにか問題が?」
不遜な物言いに閉口した柚は、結局佐伯に肩を抱かれたままエレベーターに乗りこんだ。