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今日、本気できみを抱く 美形な紳士と蜜約関係 3

第三話

柚の決意も懸念も、すべて佐伯の曲解によって弾かれてしまった。いったい何を間違えたのか、それとも出会いからして間違っていたのか。頭を悩ませたが、その問いに答えてくれる者は、残念ながらそばにはいなかった。
 エレベーターの着いた先は、エントランスではなく、地下にある立体駐車場だった。
 そこには佐伯が所有する超高級車に勝るとも劣らないクラスの車がズラリと並び、まさに圧巻のひと言に尽きる。
「あの、佐伯さん? ここは」
「見ての通り、駐車場だけど」
「それはわかります! なんでここに連れてこられたのかを聞いているんです」
「車に乗る以外に、駐車場に来る理由があるのか? まさか泳ぎにきたとでも?」
 すげなく言い放った佐伯は、以前と同じように優雅な仕草で助手席のドアを開けて柚を乗せると、自身も運転席に収まった。
「きみ、明日は仕事か?」
「はい。早番ですけど……どこへ行くんですか?」
「早朝勤務なら、あまり遠出はできないな」
 まったく会話が噛み合っていない。首を傾げて佐伯を見ると、彼は柚の疑問を見透かしたように付け足した。
「じゃあ、ゆっくり話ができるところへ行こうか」
 佐伯の言葉と共に駐車場を抜け出した車は、夕闇に暮れる都心から首都高に乗ると、湾岸方面へ進んでいった。つまり『Four gardens』の方へと向かっていることになる。
 佐伯はどこに行くとも言わずに、静かに高級車を操っている。柚はもう答えをもらうのを諦めて、隣の端整な顔立ちの男を観察することにした。
 この男と出会ってから半月ほど経つが、ずいぶんと振りまわされている。気付けば佐伯の言動にいちいち反応してしまい、思考が彼に占拠された状態だ。
 考えてみれば、晴臣のことを思い出す暇もなかった。
 誕生日当日には、これ以上ないというくらいに落ちこんでいた。だが、佐伯と会ってからというもの、感情が忙しなく動いている。認めたくはなかったが、彼のおかげで気持ちを持ち直すことができたのだ。
 整った顔立ち、均整の取れた体鏸、おまけに柚とは比べ物にならないような上等な生活をしている男。佐伯に関する情報は見てわかるものばかりで、あとはなにもわからない。
 佐伯は少なくとも柚の職場を知っているというのに、これでは不公平な気がする。唯一聞き出したパーソナルデータといえば、恋人はいないということだけだ。
 別に趣味だの好みのタイプだのといった話が聞きたいわけではない。ただ、知りたかったのだ。この男が、自分をそばに置く理由を。
「ああ、見えてきたな」
「あ……!」
 しばらく物思いに耽っていた柚は、佐伯の言葉で視線を上げた。
 窓の外に現れたのは、東京湾に面した葛西臨海公園内にある大観覧車だった。関東では最大級の観覧車で、通勤時に電車の中から毎日眺めている。日没と共に色鮮やかにライトアップされる光景は、慣れ親しんだものだ。
「乗ったことは?」
「え、いえ……近くにいると、なかなか機会がなくて」
 電車に揺られながら、いつかは乗ってみたいと思って眺めていたが、いつでも行けるという気持ちから実現できずにいる。
「それなら、ちょうどいいな」
 首都高を降りた車は、すぐに公園内の駐車場に滑りこんだ。すでに陽は沈んで辺りは薄暗く、ライトアップされた観覧車は闇の中に咲く花火の様相を呈し、見る者の目を楽しませている。
「あの、佐伯さん、もしかして……」
「多分、きみの予想は当たってる。行こうか」
 潮の香りが鼻をかすめ、緩く吹き抜ける風が柚の髪をふわりと揺らす。
 ごく自然に引き寄せられて、佐伯の胸に身体を預けるような形で寄り添った。これではまるでカップルのようだ。抗議の目を向けたものの、涼やかな瞳は不遜に細められただけだった。
 柚に対する佐伯の行動は、恋人同士のそれによく似ていた。彼の体温に慣れ、このままそばにいれば自分はどうなってしまうのか──勘違いしてしまいそうで怖くなる。
 複雑な面持ちで大観覧車を真下から見上げていると、チケットを買ってきた佐伯にいざなわれ、観覧車へと乗りこんだ。
「あの、お金払います」
「別にいいよ。気になるなら、今日の働きに対する報酬だと思えばいい」
 対面に座っている佐伯の目が、窓の外から柚へと向けられる。優雅に足を組んだ男は、からかい混じりに続けた。
「あんまりしつこいと、その口を塞ぐぞ」
「っ……」
 ゴンドラ内にふたりきりなのだと今さら気付いた柚は、彼から逃げるように目を背けた。
 一周を約十七分で回るという大観覧車は、地上に下りるまでの間、当然どこにも逃げ場がない。ゆっくりと上昇して地上から離れていく密室は、まだ周囲の眺望を楽しむほどの高度に達していなかった。あと十五分は居心地の悪い思いをするのかと思うと、気が遠くなりそうだ。
「塞いでないうちから黙りこむのも、いかがなものかと思うけどね。男慣れしていないわけでもないだろ」
「……男慣れ、というか、佐伯さんに慣れないだけです」
 佐伯に指摘されるまでもなく、この男を前にすると妙に力が入り、ともすれば挙動不審になっている。仕事でVIPを相手にする時ですら、ここまで動揺したり、心を波立たせたりすることはないのだが。
「なるほどね。じゃあこれから慣れてもらわないとな。時間はあるわけだし」
「……無理です。佐伯さんは、わからないから。なにもかもが、謎だから……怖いです」
「わからないなら、これから知ればいい」
 佐伯の低く艶やかな声が、やけに耳の奥にこびりつく。景観を案内するアナウンスがゴンドラ内に流れているが、まったく耳に入ってこない。
 佐伯は突然立ち上がり、柚の隣に腰掛けた。驚いて彼の顔を凝視する柚を横目に笑みを深め、視線をふたたびゴンドラの外へと向ける。
「最初からなにもかも理解していたら、知る楽しみがないしな」
「……恋愛感情を持つな、って言った人の台詞とは思えませんけど」
「それは、俺を恋愛対象に見てるって聞こえるけど?」
「ち、違います! 佐伯さんが、紛らわしい言い方をするからです」
「それは失礼。ほら、そろそろだ」
 ゴンドラはいつの間にか頂上近くとなり、東京湾近景の夜景が目に飛びこんできた。
 高速道路を通る車のライトが、光の奔流のように連なっている。千葉方面は『Four gardens』をはじめとするホテル群や巨大テーマパークが夜を彩る輝きを放ち、東京方面はレインボーブリッジや東京タワーが見渡せる。まさに宝石を散りばめたような世界が広がっていた。
「すごい……」
「さすがにここまで来ると、見晴らしが違うな」
 都内の景色を独り占めしているかのごとく贅沢な眺望が目の前に広がっている。普段抱えている小さな悩みが吹き飛んでしまいそうなほど心躍る光景に、柚は佐伯がいることも忘れるくらい夢中になっていた。
「そんなに気に入ったなら、今度は昼間に来ようか。富士山が見えるらしい」
「はい、見たいです!」
 勢いよく返事をして振り返った柚は、深く考えずに返事をしてしまった自分に狼狽した。素直に答えてしまったのはなぜなのか、己の気持ちがわからない。
 佐伯から視線を外し、また窓の外へ目を遣る。しかし彼は柚の身体を囲いこんで手をつくと、肩口から景色を眺めた。
「あの辺りが『Four gardens』だな」
「え、えぇ。そうです」
「本城さん、緊張してる?」
 佐伯が声を出すたび、かすかに耳もとに息がかかる。振り返れば触れてしまいそうなくらい彼が近くにいると思うと、意識せざるを得ない。
 緊張で硬く身を縮こまらせる柚に、佐伯はふと笑みを零した。
「そんなに怯えられると、期待に応えたくなるな」
「期待……?」
「そう。きみの怯えた態度を見ると、どうもいじめたくなる」
「なに言って……」
 佐伯は腕を伸ばすと、柚を包みこむように後ろから抱きしめた。柚はあまりの驚きで声も出せずに、佐伯の腕の中でかすかに身じろぎするしかできない。
 ゴンドラは頂上からゆるゆると降下を始め、夜景が遠ざかっていく。しかし今の柚は、すばらしい眺望を名残惜しむよりも強く、佐伯に意識を奪われていた。
「離してください……佐伯さん」
「嫌だと言ったら?」
 このまま佐伯の体温を感じていると、なにか取り返しのつかないことになりそうな気がする。本能的に危機感を覚え、彼の体温を振り払うように声を上げた。
「どうしてこんな……セクハラです……!」
「きみが嫌がっていれば、そうなるかもな」
「嫌、です。こんなふうに、触れられるのは……」
「それは、まだ“ハルオミ”を、忘れられないから?」
 思わぬひと言に、柚は言葉を失った。なぜ晴臣のことを──そう口をつくよりも早く、心臓が握りつぶされたような痛みに襲われた。それは治りかけていた傷口を、不意を突かれて引っ掻かれたような感覚だ。
 弾くように彼の腕を振りほどき、不信を隠さずに睨みつける。
 柚の怒りや戸惑いを正面から受け止めていた佐伯は、ふと自嘲気味に瞳を伏せた。
「いじめすぎたみたいだな。悪かった」
 佐伯の指が、柚の強張りを解くように優しく頬に触れる。いたわるような、なだめるようなその仕草に、柚はようやく息を吐き出した。
「……佐伯さんは、どうしてわたしに構うんですか? たいして面白みもないのに。よっぽど時間が有り余ってるんですね」
「俺はそんなに暇人じゃないよ」
「じゃあ、物好きなんですね。たったひと晩の責任を取らせるために、こんな手間をかけるんですから」
 やさぐれた物言いをした柚に、佐伯は答える代わりに苦笑を浮かべただけだった。
 ゴンドラが地上へ到着して扉が開く。佐伯は先に降りて、柚に手を差し出した。無視することもできずに手を取ると、彼はそのまま歩き出した。
「佐伯さん、もう離しても平気ですから」
「でも、離す理由もないだろ?」
 わかったようなわからないような理由を付けて、佐伯は手を離そうとしなかった。
 彼の指は冷たく、ぬくもりを求めるように柚の指に絡まっている。もしかして寒いだけじゃないだろうかと可愛げのないことを思いつつも、心のどこかでは多分違うであろうこともわかっていた。
 口も性質も悪いけれど、悪い人間ではないのだ。
 実際、書斎に引きこもって書類の束に囲まれていたところを見ると、決して時間が有り余る生活をしているわけではなさそうだ。にもかかわらず、佐伯は柚のために時間を割いてくれた。
 彼に振りまわされて、晴臣のことを考えずに済んでいる。あくまでも結果論だが、佐伯が柚を救ったのは事実だ。
 人を惑わせる言動をとる男に対し、反発心はある。だが柚は、佐伯尊という男に対し、悪い印象はないことに気づいていた。
「なんだか園児を引率している気分だな。こうして手を引いて歩いていると、大きな子供と歩いているみたいだよ」
「……その大きな子供に、迫ろうとするくせに」
「心外だな。俺は半裸で眠っているきみに手を出さない程度には、紳士のつもりだけど」
「じゃあ、眠っていなければ手を出すんですか?」
 駐車場までの道すがら、佐伯と軽口を叩きながら歩いていく。繋がれている手は、彼の性格を表すように力強い。
 潮風がコートの裾を翻し、柚はつい足を止めた。佐伯は振り返ると、繋いでいないほうの手で柚の顔にかかる髪を払い、冷えた指先で頬に触れた。
「そうだな。意識がハッキリしている状態じゃないと、つまらないだろ」
「なにが、です?」
「たとえば……ほら」
 佐伯の指が頬を滑り、視線を合わせるように上半身が折り曲げられた。端整な顔が突然至近距離に迫り、柚は驚きと戸惑いで目を見開く。
「意識がないと、こういう反応が見られない」
 艶を含んだ漆黒の瞳と、色気を帯びた低音が柚をとらえた。すぐさま目を逸らそうとしたが、一瞬早く顎を掴まれて、強制的に持ち上げられてしまう。
「佐伯、さん……っ、からかうのは、いいかげんにしてください」
 わからないならこれから知ればいい──そう佐伯は言った。だがこの男は、言葉とは裏腹に、知りたいと思うことを決して教えてはくれない。
 非難と不信がない交ぜになった瞳を向けると、佐伯の唇がかすかに歪んだ。
「きみは俺を怖いと言ったけど、俺もきみは怖いかな」
「……どうして、ですか」
「どうしてだと思う?」
 質問を質問で返されて言葉に詰まった柚は、佐伯の視線に晒されて体温が高くなる。
 不思議な高揚感だった。
 一段と強まった風にもかまわずに、ふたりとも互いから視線を外さない。
 ゆっくりと近づいてきた佐伯の瞼が緩やかに伏せられ、唇が自分のそれに触れるのを、柚はまるでスローモーションの映像を見るように眺めていた。
(どうしてキスなんてするの……?)
 逃げようと思えばいくらでも逃げられた。しかし柚は佐伯から逃れず、佐伯もまた柚を逃しはしなかった。
 触れたのはほんの一瞬。だが確かに唇は重ねられ、互いのぬくもりを感じ取っていた。
 外灯の明かりが届かなくなった場所。夜空に浮かぶ冴え冴えとした月だけがふたりの姿を照らす中、そっと柚から離れた佐伯は、ふと笑みを零すと静かに低音を発した。
「……行こうか。このままじゃ風邪をひきそうだ」
 佐伯に手を握られた柚はなにも言えずに、ただ手を引かれて歩いていく。地に足が付いておらず、まだ観覧車に乗って地上高くにいるような浮遊感を味わっていた。
 それはごく軽く触れるだけの短いキス。だが、柚の心も身体も燃えるように熱くし、とても風邪を引くような状態ではなかった。


 五月の初旬、大型連休に浮き立つ世間とは対照的に、柚はほぼ休日がない状態で勤務に就いていた。
 空と陸の交通網ともに混雑のピークだと流れるニュースを横目に、混雑を極めるのはなにも交通網ばかりではないと密かに嘆息する。
 世間一般の休日は、サービス業に従事する人間にとっては書きいれ時である。今年は連休が土日にかかるとあって、企業によっては十日も休日があるらしい。なんとも羨ましい話だが、多忙なのは今の柚にはありがたい。
 祝日の早朝出勤はビジネスマンや学生がいないせいか、平日と違って駅構内もホームも人影もまばらだ。春特有の生暖かい強風に吹かれながら、柚は眠い目を擦りつつ、ホームに滑りこむ車体を眺めていた。
 海沿いの高架橋を走るこの沿線は、特に風の影響を受けやすく、よく電車の遅延に見舞われる。そのため、通勤時間は余裕を持っていなければいけない。出勤時間の一時間前にはホテルに着くように家を出るのが常だ。
 五分遅れで到着した電車は、ほぼ貸し切り状態だった。座席に腰を落ち着けると、窓の外の景色にぼんやりと目を向ける。
 強風の影響で徐行運転している列車は、通常よりも景色がゆっくりと流れていた。陽光を反射して、キラキラと輝く東京湾の水面は、風に揺れて大きく波が立っている。
 やがて前方に見慣れた大観覧車が姿を現すと、列車は葛西臨海公園駅に到着した。時間調整でしばらく停車するという車内アナウンスが流れる中、視界の端で大観覧車を捉えた柚は、逃れるように膝の上に視線を落とした。
 この前、触れるだけのキスを佐伯と交わした。
 なぜ、とか、どうして、という思いが、ずっと胸を強く締めつけている。
 佐伯の口づけを拒めずに、受け入れてしまったからだ。
 あの後、佐伯は別段変わった様子もなく、そのままアパートの前まで送り届けてくれた。
 狼狽えている柚を知ってか知らずか、『また都合のつく日を連絡してくれ』とだけ言うと、やけにあっさりと車を走らせて行ってしまう。
 結果、アパートへ戻った柚は、ひとり悶々と考えこむことになる。
 なぜ自分は、キスを拒まなかったのだろうか。雰囲気に流されたのだとか、佐伯が強引だったのだとか言い訳してみても、キスをした事実が変わることはない。
 彼の真意も気になるが、なによりも自分の行動が理解できない。
 柚はいわゆる“遊び”で、男性と付き合ったことは一度もない。一夜限りの関係はもちろん、軽い気持ちで異性とキスを交わすような性格でもなかった。
 思わせぶりな態度に憤ることもあるが、なんだかんだと佐伯に救われている。しかしそれが恋と直結するかといえば、必ずしもそうではないはずだ。
(それなのに、どうして……)
 彼の唇の感触が、体温が、観覧車を見ると蘇ってくる。葛西臨海公園駅を通るたび、あのキスを思い出すのかと思うと、どうしようもなく胸の奥が締めつけられた。
 佐伯とは、あれ以来会っていない。『連休中のハウスキーピング作業は無理です』とメッセージを送ったところ、『都合の良い日を改めて連絡してくれ』と簡潔な返信がきた。
 忙しさで身体は辛かったが、佐伯と会わずに済むことにどこかホッとしていた。
 これ以上彼に近づけば、育ってはいけない感情がどんどん大きくなって、自分でも制御できなくなりそうで怖かったのだ。
 佐伯と交わしたキスを、意味のあるものにしてはいけない。何度も頭の中で繰り返しながら、ひたすら意識を他へ向けるように努力した。


「──本城、寝不足か? クマができてる」
「え……本当ですか」
 怒濤の朝食時間が終わり、息を吐く間もなく『vista』で行われるパーティの設営に取りかかろうとしていた柚に、柳が声をかけてきた。
 クリスマスシーズンと並び、最も稼働率の高い時期であるため、ホテル全体は活気に溢れている。その一方で、連休の後半はスタッフの疲労もピークに達していた。柚も例外ではなく、連休に入る前から早番・遅番のシフト関係なく残業が続いていたためか、顔に疲れが出ていたようだ。
「確かに忙しいけど、気は抜くなよ。注意力散漫は苦情(コンプレ)の元だからな。……まぁ、この忙しさもあと一日だ。なんとか乗り切れ」
 柳の言うコンプレ──すなわちコンプレインは、ホテルにおいて一番避けなければいけない事態である。ゲストからコンプレインが上がるということは、満足のいくサービスを提供できなかったことを意味しているからだ。
 ひと口にコンプレインといっても、客室のアメニティの種類からレストランのメニュー、スタッフの対応に至るまで内容は様々だ。柚は幸いなことに名指しでコンプレインを受けたことはなかったが、ラウンジ全体として受けた時は落ちこんだものだった。
 ホテル業は、ゲストが寛げる空間とサービスを売っている。すべてのゲストに満足していただき見送ることが、ホテルスタッフとしての責務である。だが、残念ながら100%の満足を提供できない場合があるのも事実だ。
 柚を励ます柳も、この連休中はずっと出勤していたはずだ。しかも自らシフトを組んでいるからか、他のスタッフよりもタイトなスケジュールをこなしている。アシスタントマネージャーが誰よりも動いているのだ。自分が音を上げるわけにはいかない。
「はい、頑張ります!」
 笑顔で答えて気合いを入れると、パーティの設営に向かった。


 大型連休が明けた月曜。ラウンジのスタッフは、ようやく順繰りに公休が取れることになった。柚は、週末に連休を取れるシフトが組まれている。連続勤務は精神的にも体力的にも辛かったが、週末の連休を目標に、この日も気力だけで業務をこなしていた。
 次の高稼働は、お盆休みに入る八月で、それまで稼働率は比較的安定している。もちろん五月から六月はブライダルシーズンで、その関係のゲストの利用も多いが、それでもこの大型連休に比べればマシだろう。
 今日は『vista』に会議の予約が一件入っているだけなので、定時に上がれる。
 このところ多忙を極めてずっと気を張っていたおかげで余計なことは考えずに済んだが、こうして通常業務に戻ると後回しにしていた問題が頭をもたげる。
 “佐伯尊に対する自分の気持ちについて”である。
 昨晩、今週末に都合がつくと連絡を入れたのだが、まだ返事は来ない。大抵その日のうちに日時指定のメッセージを寄越す佐伯が、である。どうにも気分が落ち着かず、気付けば連絡を待っている自分に頭を抱えたくなった。
 昼の休憩に入り、社員食堂に足を運んだ柚は、すぐさま携帯を確認したが、やはり佐伯からの返信はなかった。
 連絡がないのは、今週末の都合が悪いのだ。それならそれで、別の予定を入れればいい。
 そうは思っても、どうしても気持ちが佐伯へ向いてしまう。
 大きく溜め息をつき、食べかけのサラダを口に運ぶ。すると、背後から肩を叩かれた。
「お疲れ。難しい顔してどうしたのよ」
「菜摘先輩!」
 ひらりと手を振って隣に座ったのは村野だ。
 部署が違うと、同じ館内にいても顔を合わせることは少ない。それに加え、村野はフロントスタッフで勤務体系が違う。今回は大型連休で高稼働だったことから、プライベートで食事に行くこともできなかった。
「誕生日のときは、本当にすみませんでした」
「気にしなくて平気よ。で、どうだったの?」
 村野と話すのは、誕生日を『青葉』で祝ってもらって以来である。酔って醜態を晒したことへの謝罪はメッセージで送っていたものの、直接謝りたいと思っていた。
 しかし姉御肌の彼女は、頭を下げる柚に、『そんなことはどうでもいい』とばかりに興味津々で“佐伯と過ごした夜”について尋ねてくる。
「せ、先輩……ここではちょっと……」
「大丈夫よ。誰も聞いてないわ」
『Four gardens』の社員食堂は、ホテルのスタッフだけではなく、直営店以外のレストランスタッフや物販スタッフの利用もあるため、かなりの広さをとっている。窓こそなかったが、観葉植物がさりげなく配置されており、全体的に照明も柔らかだ。常に人の出入りはあるものの快適な空間である。
 今はちょうど客足が落ち着いたレストランの厨房スタッフが、食堂の一角に固まって昼食をとっているところだった。柚たちからは離れているので、大声で話さない限り互いの会話の内容までは聞こえない。
「それとも、ここで話すにはまずいことしちゃったの?」
「違いますってば! もう」
 とんだ誤解だ。けれど、そうとも言い切れないのがつらいところだ。
 柚は、村野に事のあらましを話して聞かせた。
 誕生日の夜は胸を借りて泣きじゃくり、その後は彼のベッドで眠っている。これまでの人生でもなかなかないレベルでのやらかしだったことや、『恋愛感情を持つな』という契約で、期間限定のハウスキーパーになったこと。
 佐伯と関わるうちに、どん底だった気分を立て直すことができた。
「そういう意味では、感謝してるんです。……すっごく不本意なこともありますけど」
 先日のキスの件はさすがに憚られたが、それ以外は正直に経緯を語った。
「恋愛感情を持つな、ねぇ」と話を聞き終えた村野は、「ずいぶんと上から目線ね」と苦笑交じりに続けた。
「謎よねえ、佐伯さんって。柚をまんまと手玉に取るあたりは癖がありそうだけど、悪い人じゃなさそうよね。それなのに、何を悩んでるわけ?」
「わからないんです。佐伯さんもですが……自分のことも。もっと、慎重な性格だったはずなんです、わたし」
 迷惑料代わりに、ハウスキーパーとして働くのはいい。だが彼の言動は、恋愛感情を持つなという言葉とかなり矛盾している。
 そして自分自身の気持ちもまた、今では掴みきれていない。なによりも一番の悩みどころはそこかもしれない。
「あの人に振りまわされるのは困るのに、救われてもいるんです」
「いい傾向だと思うけどね。なんだかんだ言って、柚は元気になったわけだし」
「……というよりは、落ち込んでいる暇がなくなったというか」
「同じことよ。ウジウジしているより、ずっといいわ。失恋したからってこの世の終わりなわけじゃないし、そのうち新しい恋だってする。今は、そのための準備期間なんだって考えればいいのよ」
「準備期間……」
「あのままだと、立ち直るのも大変だったでしょ? せっかくの機会だし、佐伯さんとの時間を楽しんだっていいと思うわ。何事も経験よ」
 姉と慕っている村野からの助言は、凝り固まっていた意識を解きほぐす。
 劇的な環境の変化に対応しきれずに、知らずと焦っていたのかもしれない。自分の気持ちすら整理できていないのに、出会って間もない男の気持ちなど理解できなくて当然だ。
(来年の同じ日に笑っていられればいいって、千川さんも言ってたっけ)
 焦ってなにかを得ようとせずとも、流れに身を任せてみるのもいいのかもしれない。佐伯がどういうつもりでも、恋愛感情を持つなという契約を守ればいい。それだけのことだ。
「ありがとうございます、先輩。気持ちが楽になりました」
「そう? それならいいけど。慎重さも必要だけど、悩みすぎないようにね」
 からりと笑って村野が言う。彼女の明るさや強さは、憧れであり目標だ。仕事面でも私事でも、かなり助けられている。
 改めて感じていると、テーブルの上に置いていたスタッフ専用の携帯が音を立てた。柚はすぐさま手にとって応答する。
「はい、本城です」
『今、食堂か?』
「そうですが……なにかありましたか?」
 着信は柳からだった。いつもは冷静沈着なアシスタントマネージャーは、珍しく焦りを感じさせる声で言い放つ。
『休憩を切り上げてすぐに事務室に来い』
 通話が切れると、異変を察知した村野が眉根を寄せる。
「何かトラブル?」
「……そうかもしれません。事務室に行ってきます」
 柳の様子にただならぬ気配を感じながら食堂を出ると、柚は急いで事務室に向かった。
 ホテル内には各部署ごとに振り分けられた部屋があり、事務作業やミーティングなどはこのスペースで行っている。
 ラウンジの脇にある事務室へ駆けつけた柚が、緊張してドアを開く。すると、パソコンに向かっていた柳が難しい顔をして振り向いた。
「柳さん? あの、なにかありましたか?」
「こっちに来い」
 柳に促されて中に入った柚の背筋に、冷たい汗が流れ落ちる。
 開放的なホテル館内とは対照的に、事務室はパソコンが数台置かれたデスクと応接セットが並んでいるだけで窓ひとつない。スタッフが出はらって柳しかいない室内は、重苦しい空気に包まれていた。
 おずおずと傍らに立った柚に、柳は無言で『vista』の予約状況が表示されたパソコン画面を指さした。
「これは、おまえが受けた予約だな?」
 柳の言葉に、柚は素直に頷いた。
 ラウンジに隣接する小規模ホールの『vista』は、幅広い用途で使用される。プランによっても異なるのだが、『vista』の場合、二時間単位で予約を受け付ける。パーティなどでは、ホテル直営のフレンチレストラン『Un temps du jardin(アンタンドゥ ジャル ダン)』のシェフによるコース料理が用意されることになっていた。
 柚を始めとするラウンジスタッフは、『vista』単体での利用予約を受ける一方で、ブライダル部門で成約したゲストが選択するプランによっては、優先的に『vista』を確保しなければいけない。
 ホテルには他に、大小合わせて四つの宴会場があるが、中でも『vista』は正餐三十名の使い勝手の良さに加えて、東京湾やテーマパーク、そして四つの庭が見渡せる眺望とあり、ゲストの人気も高かった。
 五月から六月は特にブライダルシーズンということで、土日はすべてパーティの予約で埋まっていたはずだ。
 柳は一度大きく息を吐き出すと、厳しい表情を浮かべた。
「ここ見てみろ。……六月末の土曜日」
「はい……って、これ……!」
 パソコン画面を見た柚は、次の瞬間驚いて柳を凝視した。マウスをクリックし、六月末日を大きく映し出した柳の眉間には深い皺が刻まれている。
「この日、同じ時間にもう一組予約を受けてる。どういうことだ? 本城」
 六月の末日、もともと決まっていた披露宴とは別の予約がリストに加えられていた。それは柚が受けたもので、ラウンジの常連客である勝山から頼まれたものである。
「勝山様の予約……本当に、この日時で間違いないんだな?」
「そ、そうです。すみません、わたし……!」
「謝罪は後回しだ。まず、他の宴会場の空きがないか、各セクションに確認しろ!」
「はっ、はい……!」
 柚はすぐさまデスクの内線を手に、他の宴会場を仕切る部署や、カフェなどのテナントにも連絡を取って予約状況を確かめた。しかし六月の大安ということもあり、どの時間も空きはないという。
 六月でなければ他の宴会場も空いていただろうが、いかんせん時期が悪かった。
 柚が勝山から予約を受けたのは、ちょうど三カ月前のことだ。柚と同じ年頃の娘の婚約が決まり、『内輪で婚約披露パーティを開きたい』と相談され、予約状況を確認したうえで希望を受け入れたはずだった。
 だが、予約は二重に受け付けられている。完全に柚の確認ミスであり失態だった。
(どうしよう……どうしようわたし……)
 ラウンジスタッフとして働いて二年目。ようやく仕事にも慣れてきたところだ。けれど仕事に慣れるにつれ、どこか気の緩みや慢心が出てきたのかもしれないと思うと、最近の自分の浮かれぶりを恥じずにはいられない。
 贔屓にしてくれている勝山の祝いの席に携われることは、自分のことのように嬉しかった。だからこそ自分の失態で、祝いの席に水を差すような真似をしたくない。
 その一心で、ひたすら方々に電話をかけたのだが……何度確認しても、思うような結果は得られなかった。
「──本城、おまえもう今日は上がれ」
 通常業務の間を縫って各部署へ電話をかけたが、結局すべて空振りに終わった。
 柳も尽力してくれてはいたものの、宴会場やテナントはどこもタイトにスケジュールを組んでいて、入りこむ隙は見当たらなかった。それでも諦めきれず、テナントに直接出向こうとしていたのだが、柳に制止される。
「この時期じゃ無理だ。明日、マネージャーが出勤する。報告してから勝山様に謝罪だ」
「でも……」
「本城!」
 普段声を荒らげることのない柳の大喝に、柚はビクッと身体を竦めた。
 柳は大きく息を吐くと、柚の肩を叩いた。
「今日はもう帰れ。おまえにできることはない」
「わかり……ました」
 柚は柳に一礼すると、逃げるように更衣室に駆けこんだ。ロッカーに背を預け、ずるずるとその場に座りこんで膝に顔を埋める。
(わたしのせいだ。とても楽しみにしてくださっていたのに……っ)
 どうにか時間をずらして二組を引き受けられないかと考えたが、その前後にも挙式披露宴が入っているため不可能だった。
 今回の件で自分が叱責されるのはかまわない。ただ、柚を信頼して祝い事を託してくれた勝山に申し訳ない気持ちと、ホテルの信用を失墜させてしまうことだけが、心に重くのしかかっている。
『Four gardens』を貶めるような仕事をしないように──それは柚が仕事をするうえでの規範だった。小さな失敗は数多くあったが、これほど大きなミスは初めての経験だ。
 この失態で、自分の今までのあり方すべてが間違っていたような気持ちになってくる。
 落ちこんでいる場合じゃない。今するべきなのは、一刻も早い事態の収拾だ。しかし現状では、どうすることもできない。
 柚はのろのろと身体を起こし、ロッカーから私服を取り出して着替え始めた。ふと姿見に映った自分の顔を見ると、明らかに表情が硬かった。顔色も悪く、今にも泣きそうな顔をしているのが情けない。
 足取りも重いまま更衣室を後にしようとした時、バッグに入れていた携帯が鳴った。
「……もしもし」
『本城さん? 佐伯だけど。今、話しても?』
「佐伯……さん?」
 相手を確認せずに出た柚の耳に聞こえたのは、佐伯の声だった。思いもよらなかった男からの電話に、言葉を失って沈黙を作ってしまう。自分のミスで頭がいっぱいで、彼からの連絡を待っていたのをすっかり忘れていたのである。
『連絡が遅くなってすまない。今週末の話だけど』
「あ……はい」
 佐伯は外で電話をかけているのか、低音に混じって風の音が聞こえてきた。まるで間近で囁かれているかのように耳をくすぐる美声に、普段ならば動揺を隠そうと必死だったはずだ。だが今は、そういった感情のすべてが麻痺し、ひたすら自己嫌悪に陥ってしまう。
『どうした? やけに元気がないな』
「……そんなこと、ないです」
『仕事は終わったのか?』
「はい。……今、更衣室にいて」
 話題を変えた佐伯に、反射的に返事をする。すると佐伯は、『じゃあ今から新木場駅に』と尊大に言い放ち、返答も聞かずに通話を終わらせた。
「え……佐伯さん?」
 切れた電話に問いかけるも、当然声は聞こえない。
 とてもそんな気分になれないのに、なぜいつも強引なのか。考えたものの、電話口でもわかるほど沈んでいたのかと、至らなさになおさら落ちこんだ。
 青ざめた顔を隠すために化粧を直し、すぐにホテルを後にした。
 最寄り駅で電車を待っている間に、『この前のロータリーにいる』と佐伯からメッセージが入った。
 彼に呼び出されるたび、わざわざ呼びつけずとも済む話ではないかと何度思ったことだろう。しかし心の中でいくら文句を言ったところで、拒むことができない。契約云々というよりも、あえて見ないふりをしている感情がそうさせるのだ。
 電車がホームに滑りこむと、発車を告げる軽やかな音楽が流れてくる。柚はひと目でテーマパーク帰りだとわかる集団と共に、鮮やかなラインカラーの車体に乗りこんだ。
 車内には仕事帰りのビジネスマンに混じり、土産物袋を持った家族連れや学生と思しき面々がひしめいている。
 もしかしてこの中には、『Four gardens』の宿泊客もいるかもしれない。当たり前の事実に思い至り、車内にいる人々を見ていることが辛かった。視線を落とすと、入社した当初厳しく叩きこまれた仕事の規範が脳裏を過る。
『ホテルスタッフにとってはただの一日でも、ゲストにとっては大切な一日なんだ』
 新人研修が終わり、メンバーズ・クラブラウンジに配属された柚が、まず初めにマネージャーに言われた言葉である。
 自分たちにとっては毎日繰り返される仕事のうちの一日だが、ゲストにとってはそうではない。宿泊する日を楽しみに、遠方よりはるばる訪れてくれた特別な一日なのだ。
 そう教えられた柚は、できる限り、ゲストひとりひとりに対して誠実でいようと思った。マネージャーの言葉を聞いて以来、最上の空間を提供し、最高のおもてなしをするために、日々努力してきたはずだった。
 にもかかわらず、今回の失態である。時には日々に忙殺され、初心を忘れることもないとは言えない。けれどそれを仕方のないことだと言えないし、言ってはいけないのがサービス業──ホテルに従事する人間としての誇りだろう。
 迷妄する思考は、到着を告げるアナウンスで中断された。
 人の波に流されるようにホームに降り立つと、五月中旬にしては冷たい空気に身震いしながら、足早に構内を抜けた。
 佐伯はすでにロータリーに着いていた。シルバーの車体に均整の取れた身体を寄りかけるようにしてたたずんでいる。柚は重い気分を引きずりながら彼の前に立った。
「お待たせ……しました」
「まだ冷えるな。話は中でしようか」
 佐伯は、静かに助手席のドアを開いた。柚が乗りこむと運転席に収まった彼は、いつかのように首都高へは乗らずに、都内の外れに進路を取った。
 車内は走行音すらせず、道の起伏で少し揺れる程度で、眠気を誘われそうな乗り心地だ。今日でなければ、夜のドライブを楽しめていたかもしれない。
 しばらく車窓に映る夜景を眺めていたが、黙って運転をする佐伯に視線を移した。
 街路灯が彼の相貌に深い陰影を刻み、端整な顔を際立たせる。いつ見ても非の打ち所がない男で見蕩れてしまうが、今の柚は失態を犯した直後で精神的に余裕がない。佐伯と会うことですら、罪悪感を覚えてしまう。
「あの……お話ってなんですか」
 痺れを切らしたような口調に、佐伯は一瞬だけ柚を見遣り、また視線を前へ戻した。
「声を聞いたら、顔が見たくなってね。なにか他の理由が必要だったか?」
「わざわざ呼び出されたので……何か急用だったのかと」
 いつもなら佐伯の発言に食ってかかるところだけれど、そんな気にはなれない。ただ、なんとかしなければいけないと、焦りばかりが募っていく。
(わたしに、なにかできることはないの……?)
 自問自答を繰り返すが、明瞭な答えは得られなかった。唇を噛み締めて無力感に苛まれていると、佐伯がぼそりと呟く。
「本城さん、やっぱりきみ……」
「え……?」
「いや、いい」
 佐伯はそれ以上なにも語ろうとしなかった。
 やがて車窓に見慣れた風景が現れると、ほどなくして車は柚のアパート近くにあるパーキングに滑り込む。
「本城さん、なにかあっただろ」
「なんですか? 急に……別に、なにも」
 ない、と言いかけて、思わず息を呑んだ。シートベルトを外した佐伯が、柚の顎を掴んだからだ。常に人を食った態度の男だが、いつもとは違い怯んでしまうほど真剣な眼差しを向けてくる。
「きみは嘘が下手だな。すぐ顔に出る。それに、顔に似合わず強情だ」
「なっ……」
「いいから話してみろ。まさかまた失恋したわけでもないだろ」
 挑発的な台詞を吐き、佐伯は柚を見据えた。
 居たたまれず視線を逸らそうとするのに、彼はその選択肢を与えてはくれず、それどころか距離を縮めてくる。銀のフレームの奥の瞳はどこまでも冷静で、柚の罪悪感を暴き立てるかのようだ。
「……仕事で、ミスをしたんです。だから、佐伯さんに話すようなことじゃ」
「ミス? それは、今にも泣き出しそうな顔をするほどの?」
 佐伯に指摘され、柚はハッと身を竦めた。化粧で顔色は誤魔化せても、表情までは繕うことができなかったのだ。
 こうも感情が顔に出てしまうようでは、この先仕事に支障をきたすのではないか。柚は小さく息を吐くと、自嘲的に呟いた。
「ダメですねわたし……。サービス業に向いてないのかも」
「向き不向きはあるだろうが、少なくともきみには贔屓にしてくれるゲストがいるだろ。勝山さんだって、そのうちのひとりだし」
「でも、そのお気持ちを……わたしは……」
「本城さん?」
 不意に出た勝山の名前に、心臓がぎりぎりと締め付けられた。考えてみれば、佐伯は勝山と関わりがあるのだから、名前が出てもおかしくはない。
 柚は膝の上で拳を握ると、精いっぱい明るい声で佐伯に告げた。
「送っていただいて、ありがとうございました。土曜日に、お伺いしますね」
 これ以上、自己嫌悪に飲みこまれそうな自分を晒したくはなかった。
 シートベルトを外し、ドアに手をかける。しかし、なぜか佐伯の腕に阻まれてしまう。
「ここで逃がすと思うか?」
「っ……離してください」
「残念ながら、離せと言われて離すほど優しくないんだよ、俺はね」
 高圧的ともとれる佐伯の言葉に、反発よりも先に怖くなる。弱っている時にそばにいれば、誕生日の夜そうしたようにきっと彼に寄りかかってしまう。
 仕事の失態を慰めてもらうような真似は絶対にしたくない。それは今まで柚を支えてきた矜持だった。
「お願いします、佐伯さん。今日はもう……」
「まったく……ここまで強情だと、泣かせたくなるな」
 頼りなく瞳をさまよわせている柚の腕を引き寄せると、佐伯は強引に唇を奪った。
 なんとか抗おうとしたものの、後頭部を固定されて身動きが取れない。
「んっ、ぅ……」
 閉じていた唇をこじ開け、舌先が侵入してくる。有無を言わせない行為なのに、舌の動きはやけに優しい。まるで慰めるようなその感触は、隠そうとしている感情まで呼び起こされた。
 なぜこの男は、自分が弱っている時にいつも現れるのだろう。これでは、彼の胸に飛びこみ泣いてしまいそうだ。
 最初の出会いで不覚にも縋ってしまったが、今は状況が違う。恋愛感情を禁止され、佐伯に惹かれそうになる心を踏み留まろうとしている今とは。
 ようやく唇が離されると、柚は目の前にいる男に非難の目を向けた。
「な……んで……こんな時に、キスなんて……」
「へぇ? “こんな時”じゃなければいいんだな」
「違います……っ」
 込み上げてくる涙を流すまいと、きつく唇を結ぶ。ここで泣いてもなにも解決はしないとわかっているからこその意地だった。
 車内は沈黙に包まれた。このまま外へ出ることもできたが、それも憚られた。冷静に考えれば、佐伯が心配してくれたとわかるからだ。方法は褒められたものではないが、彼の行動によりほんの少しだけ冷静さを取り戻している。
 いつから降り始めたのか、雨音が耳に届く。濡れたフロントガラスにすら気づかないくらいに視野が狭まっていたのが情けない。
 周囲の状況が見えてくると、雨粒が車体を叩く音が聞こえてくる。フロントガラスを打ちつける雨は、まるで今回の失態を責めるかのようだ。
 そんなはずはないのに、思考が自虐的になっている。自覚してため息をついたとき、やや考えこんでいた佐伯はおもむろに口を開いた。
「今日はこのまま帰ろうと思ったけど……気が変わった」
「え……っ」
 言うが早いか、佐伯は車をパーキングから出し、柚のアパートとは逆方向へと走らせた。
「佐伯さん、いったいどこへ……」
「きみが話したくなるまで、適当に車を走らせる。勝山さんとは知らない仲じゃないし、気になるのは当然だろ?」
 佐伯は解放するつもりがないのか、車は雨に煙る街中を疾走する。
 降りることも叶わず困惑していると、普段使っている最寄り駅が見えてきた。急な雨に降られた人々が、駅や店先に駆けこんでいく。その光景はどこか現実感がなく、画面越しの映像を見ているようだ。幾分か冷静さを取り戻せたものの、まだ頭の中が整理されていないのだろう。
(こうしていても、埒が明かない)
 柚は言葉を選びつつ、慎重に口を開いた。
「……わたしのミスで、勝山様のお祝いの席を、お断りしなければいけないんです」
 他の予約と同日同時刻に勝山の予約を受けてしまったこと、ブライダルシーズンで宴会場の空きがないことを、順を追って説明していく。途中、情けなくて言葉を詰まらせもしたが、自分の失態を隠さず話した。
「なるほどね。ダブルブッキングか」
「明日マネージャーと一緒に、勝山様にお詫びに伺うことになっています。信頼を置いてくださっていたのに、それを考えると申し訳なくて……」
 今の状態を佐伯に話すことで、ようやく自身の置かれた状況を受け止める。仕事中にできなかったのは、動揺が深かったうえに渦中にいたから。それが第三者に話すことで、冷静になれたのだ。
 柚の告白に黙って耳を傾けていた佐伯は、突然ハンドルを大きく切った。
 目的地もないまま進んでいた車は、主の明確な意思を感じさせるように走り始める。景色が見る見るうちに後方へと流れていき、スピードに比例して雨を除けるワイパーの動きも速くなった。
「佐伯……さん? どうしたんですか?」
 急な方向転換に驚き、佐伯の横顔に問いかけた。
 すべてを告白すれば、てっきり解放されると思っていたのだが、その兆しは見られない。
 それどころか車はアパートから遠ざかり、都心部へ向かって走っているようだ。
 戸惑っている柚に、佐伯は前を向いたまま答えた。
「きみは、どんな方法を使っても勝山さんのパーティを開きたいと思うか?」
「……どういう意味ですか?」
「言葉通りの意味だよ」
 その言葉の意味を訊いているのだと言外に語るかのごとく顔が険しくなるのを感じていると、隣の男が柚の心を見透かしたように不敵に口角を上げた。
「不満そうだな。要は、『Four gardens』以外のホテルに、勝山さんを案内できるのか、ってことだ。……その覚悟があるなら、希望に応えられるかもしれない」
(どういうこと……?)
 今日一日、なんとかリカバーできないかと奔走していたが、彼の提案はまったく別の視点から放たれたものである。
 六月のブライダルシーズンは、『Four gardens』の宴会場や店舗はもとより、他のホテルもすでに予約で埋まっているはずだ。簡単にパーティをねじ込める状況でなく、だからこそ問題はより深刻なのだ。
 現状では、勝山の予約を断り、宴会場が空いている他の日── 早くて七月の下旬に再予約を受けるというのが最良の代替案だった。
(だけど……)
 勝山の予約を受けた日程でパーティを行うならば、他のホテルや店舗までを視野に入れたほうが正しいのかもしれない。
 やがて車は彼の居住するタワーマンションの地下駐車場へと滑りこんだ。
 なぜマンションに来たのかと問うより先に、佐伯は駐車スペースに車を収めると、柚の顔を覗きこんでくる。
「さて、どうする? あとはきみと……ホテル側の決断次第かな」
 静かな声は、予想以上に柚の心に重くのしかかる。
「……本当に今から、他のホテルの宴会場を押さえられるんですか?」
「俺はできないことは言わないよ」
 自分の一存で決められる話ではないが、このままでは確実に勝山の予約を断らなければいけなくなる。
 自らの失態で、勝山の祝いの席を潰すわけにはいかない。そしてなによりも、ゲストを最優先に考えて動くことこそが、自分にできる誠意の見せ方なのではないか。
 膝の上で握っていた拳に視線を落としていた柚は、意を決して佐伯に向き直った。
「上司に連絡しますから、待ってもらってもいいですか」
「わかった。それならひとまず、コンシェルジュカウンターへ行こうか。この時間なら、大石がいるはずだ。彼に宴会場の予約をねじこんでもらう」
 なぜここで大石の名前が出てくるのだろうかと、自分の親と同じような歳の頃であろう男性を思い浮かべる。
 マンションのコンシェルジュマネージャーである大石は、住人のニーズに合わせて対応するのが仕事だ。しかし、住人の無理難題を聞き入れるための存在ではないだろう。
 幾ばくかの不安を抱えつつ、地下駐車場からエレベーターで一階に上がると、グランドロビーと呼ばれる広々とした空間に出た。
 柔らかな照明が大理石の柱や床を照らしている。高級感溢れるしつらえは、マンションというよりは格調高いホテルのようだ。ロビーを進むと、佐伯の言葉通りに、コンシェルジュカウンターに控える大石の姿があった。
「お帰りなさいませ。佐伯様、本城様」
 佐伯と柚の姿を認め、大石がコンシェルジュカウンターの中から深々と頭を下げる。軽く頷いた佐伯は、挨拶もそこそこに用件のみを投げかけた。
「六月末の土曜、『evangelist(エヴァンジェリスト)』の宴会場を押さえられるか? 内輪の婚約披露パーティ。小規模宴会場で、午後の二時間。どうだ?」
「それはまた……この時期に難しい注文ですね」
(『evangelist』……!?)
 単刀直入に要望を伝えた佐伯にも驚いたが、それよりもまず、その後に出たホテル名に狼狽する。『evangelist』が柚の知っているホテルであるならば、今から予約を入れることは不可能に近い。
 ところが大石は、表情を変えることのないまま、黙って首を縦に振った。
「確認を取ってみましょう。少々お時間をいただいてもよろしいですか」
「あぁ。二階で待たせてもらう」
 柚をいざない、ロビー中央から二階へ通じる螺旋階段へ向かう佐伯に、大石はひと言付け加えた。
「お名前をお出ししてもよろしいでしょうか」
「かまわないよ。任せる」
「かしこまりました」
 ふたりの簡素なやり取りを聞いた柚は、不安を隠せずに大石を振り返る。
 大石は柚に微笑みかけて一礼すると、カウンターに控えていた若者の男性に何事かを指示し、奥の扉へと消えていく。
 佐伯が“できないことは言わない”主義だとすれば、大石は“できないことでもなんとかする”タイプであることが窺える。
 難しい注文だと言いながら、決して態度に表すことはない。プロのサービスマンとしての彼のあり方は、柚の心に深く刻みこまれた。
「ひとまずは大石に任せよう。少し時間はかかるかもしれないが」
「……はい」
 祈るような気持ちで大石が消えた扉を見ていた柚は、佐伯の後に続いてロビー中央の螺旋階段を上がった。
 吹き抜けになっている二階には、ライトブラウンを基調としたラウンジスペースが広がっていた。前面には大きな窓が配されており、敷地内に広がる庭園並みの緑地がうっすらとライトアップされている様子が見える。
 佐伯に促されてソファに腰掛けると、心地良い革の質感が柚を包みこむ。グランドロビーよりも落ち着いた照明が室内を照らし、利用者が寛げる空間が創り出されていたが、残念ながら今は雰囲気を楽しむ余裕はなかった。
「佐伯さん、『evangelist』って……あの『evangelist』のことですか?」
 柚は先ほどより気になっていたことを、目の前の男に問いかけた。長い足を組んで深くソファに身を預けていた佐伯は、右の口角を持ち上げて答える。
「きみの想像する『evangelist』で間違いはないと思うけど、他に心当たりがあるのか?」
「私が訊きたいくらいです……っ」
 腹が立つほど悠長に答える佐伯を睨みつけると、彼は眼鏡のつるに指をあてながら笑みを深めた。
「大石は『evangelist』の元総支配人なんだよ。今でも『evangelist』に顔がきく」
「大石さんが……?」
『evangelist』は、日本でも五指に入る超一流ホテルである。
『伝道師』の名を冠するこのホテルは、『Four gardens』と並び称され、最近多くみられる外資系ホテルの中において、知名度も稼働率も他を圧倒していた。
 大石と初めて言葉を交わした時、上品な身のこなしを見て、ホテルスタッフのような印象を持ったが、どうやら間違いではなかったらしい。
 だがいくら彼が元総支配人といえども、この時期にそう簡単に宴会場が確保できるとは思えない。『evangelist』の名は、創業者が掲げるホスピタリティの礎石、その理念を世に伝える者という意味があるのは広く知られるところだ。無理を通せば道理が通らない。元総支配人の頼みとはいえ、ホテルの理念に反することをするとは考えがたかった。
「コーヒーをお持ちいたしました。大石は、もう少々お時間をいただくと申しております」
 先ほど大石から指示を受けた若いコンシェルジュがラウンジへ上がってきた。大石の部下であろう若者の立ち居振る舞いは、大石というすばらしい手本の下で日々精進していることが想像できる。
 至れり尽くせりの対応にひたすら恐縮していた柚に、佐伯の興味深げな視線が注がれた。
「緊張しているな。サービスを受けるのは慣れてないのか」
「……慣れてないというか、落ち着かないです」
「なるほど。だがもしきみが“一流”を目指すなら、他の人間の仕事ぶりも参考になるんじゃないのか」
「そう……ですよね」
『Four gardens』に就職して以来、文字通り『Four gardens』に育てられてきた柚は、良くも悪くも他のホテルや他業種のサービスを知らずにいる。
 まだ入社して二年目、ようやく仕事に慣れてきたところで、日々失敗を犯さないようにするだけで精いっぱいだった。しかしこれからステップアップを目指すのであれば、佐伯の言ったように勉強も必要になってくる。この先、ホテルスタッフとして生きていくのなら、ゲストとしてサービスを受けるのも勉強のうちのひとつだろう。
 知識も経験も足りず、なにより勉強不足であることを痛感する。
「ところで、連絡は入れなくていいのか」
「あっ、はい……連絡を取ってみます」
 グランドロビーに目を遣ると、大石の姿はまだ見えない。バッグから携帯を取り出した柚は、ソファから腰を上げた。
 佐伯から少し離れた場所で、メンバーズ・クラブラウンジの事務室に直通電話をかける。
 だが、時間帯が悪いのか、何度コールしても電話が繋がらない。柳の携帯へもかけてみたが、接客中なのかやはり出てもらえなかった。
 仕方なく、事情を説明したメッセージを作成し、連絡がほしい旨を記して柳へ送る。勝手な真似をしたことを叱責されるかもしれないが、今はそれほど多くの選択肢は残されていない。ただ、ゲストに対し誠実でいたいという想いだけが、柚を突き動かしていた。
「佐伯様、本城様、大変お待たせいたしました」
 柚が電話を終えたのと同じくして、大石が螺旋階段を上がってきた。佐伯と柚の中間に立って頭を下げると、落ち着いた声音で続ける。
「ご要望は、『evangelist』総支配人に申し伝えました。調整に時間がかかるため、お返事は明日になりますがよろしいでしょうか」
「はい。ありがとうございます……!」
 大石は、「まだお礼を言っていただける働きはしておりません」と謙遜したが、急な予約にもかかわらず断られなかった事実は大きい。
 もともとある予約の隙間を縫って予定を組み込むのはそうとう難しいが、無理だとは言われなかった。つまり、調整の余地があるということだ。
 わずかな可能性が出ただけでも、今はありがたい。そして、この希望の糸を繋いでくれたのは、間違いなく佐伯だった。
「お膳立ては整った。あとは俺じゃなく、きみの仕事だ」
 佐伯の声にハッとした柚は、慌てて頭を下げて礼を告げる。
「本当に……感謝してもしきれません。どうして、わたしのためにこんな……」
「さあ、どうしてだろうな?」
 ふっと微笑む彼からは、やはり本心が見えない。けれど、数時間前まで途方に暮れていたのが嘘のように気持ちが上向いているのは、間違いなく佐伯のおかげだ。
(この人が、ここまでしてくれるのは、いったいどうして……?)
 佐伯の行動を思い、胸がかすかに騒ぎ出す。
 しかし今は、自分の心に目を向けている暇はない。柚は早鐘を打つ心臓の音を誤魔化すように、小さく首を左右に振った。

 


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