今日、本気できみを抱く 美形な紳士と蜜約関係 1
第一話
カーテンの隙間から射しこむ光に瞼をくすぐられ、ゆっくりと意識が覚醒する。
今日の日付や曜日が思い出せずに一瞬焦ったが、すぐに休日であることに思い至って安堵すると、本城柚(ほんじょうゆず)は鉛のような重い身体に眉をひそめた。
カラカラに喉が渇いている。頭が痛むのは、いわゆる二日酔いというやつだろう。朦朧とする思考でそう結論づけると、溜め息混じりにベッドから身体を起こした。
おぼつかない足で立ち上がり、薄暗い部屋の中を見渡すと、足もとには昨日着ていた服が脱ぎ散らかしてあった。正確には服だけでなく、ブラジャーやストッキングも散乱していた。その惨状は柚の頭痛を余計に酷くする。
無造作に投げられたそれらの後片付けをしなければと思いつつ、とりあえず見ないことに決めた。実は部屋の惨状よりも、昨日の自分の行動が気になっていたのだ。
柚の勤めるホテルの三期先輩であり、よき友人でもある村野菜摘(むらのなつみ)と二十一時半頃まで飲んでいたのは記憶している。しかし、問題はその後。いくら二日酔いの頭を巡らせても、柚にはそれ以降の記憶がまったくと言っていいほど欠如していた。
無事に家に帰ってきているということは、村野が酔いつぶれた自分を家まで連れ帰り、わざわざ介抱してくれたのだろうか。そうであれば、大変な迷惑をかけたことになる。
後で謝罪の電話を入れなければと思いつつ、ふらつく足取りでドアの前までたどり着いた、次の瞬間。声を出す間もなく、目の前のドアが開いた。
「……痛っ」
ドアは見事に顔面を強打し、その場にうずくまる。衝撃で一瞬頭痛が吹き飛び、その代わりに燃えるようにおでこが熱くなった。
(う、痣になったらどうしよう……ゲストの前に立てなくなっちゃう)
二日酔いの頭で考えたのは、まず仕事のことだった。だが、間を置いてハタと気付く。
ひとり暮らしの部屋で、どうして勝手にドアが開くのだろうか。
(まさか、どっ、泥棒……!?)
「……おい。大丈夫か」
嫌な想像をして青ざめた柚の耳に、心地良い低音が届いた。
泥棒にしては、かなりの美声の持ち主である。いや、この場合、泥棒にしてはずいぶんと親切であり、紳士的と言ったほうが正しいか──。
間の抜けた感想だが、それも仕方のないことだ。この声で愛を囁かれた日には、腰砕けになること請け合いである。柚でなくとも、思わず聞き惚れてしまうだろう。
「頭を打ったのか。見せてみろ」
「は……え?」
床に落ちていた視線が、強制的に上向かされる。美声の持ち主が膝をつき、柚の顎に指をかけたためだ。
視界に入ってきたのは、見ず知らずの男だった。吐息がかかるほど至近距離で顔を覗きこまれ、思わず息を呑んだ。銀の細いフレームの奥に見える涼しげな瞳に、まっすぐに通った鼻梁、薄い唇──ひと言で表すならば、紛れもない美形である。しかも、滅多にお目にかかれないであろう“極上の”だ。
「……おい?」
時間にすればほんの数秒。うっかり今の状況も忘れ、目の前の男に見入っていたが、その声にハッと我に返った。
「……どっ、泥棒……っ!」
「……誰がだ」
美声が幾分呆れたような響きをもって柚の耳に届く。男は「その様子なら平気そうだな」と言って立ち上がった。
「あ、あの……っ」
(泥棒でなければ誰なんだろう)
顔面の痛みに耐え、恐る恐る視線を上げると、改めて男の姿を見据えた。
自分よりも頭ひとつ分以上高い身長の男は、対峙しているだけでも威圧感がある。職業柄、有名人や政財界の要人と接することも少なくないが、目の前の男はそれらの人物に勝るとも劣らない存在感を示していた。
ごくりと唾を飲みこんだ柚は、警戒心を出しながらも、どこか場にそぐわない気の抜けた声を男に向かって投げかけた。
「あの……どちら様ですか?」
満開に咲き誇っていた桜が徐々に散り始めていた四月上旬。柚は三年間付き合っていた恋人に別れを告げられた。しかもそれが、二十四歳の誕生日一週間前というなんとも間の悪い時期に重なってしまい、彼──岡野晴臣(おかのはるおみ)に別れを切り出された時は、驚きと戸惑いとで涙も出なかった。
大学時代から付き合ってきた彼の突然すぎる別れ話に思うことは多々あったが、それを伝えることはできなかった。
『社会人になってからすれ違いが多かったし、正直気持ちが冷めた』
そう淡々と語る晴臣を前に、ただ黙って頷くしか選択肢は残されていなかったのだ。
事実を受け止めて心の整理をつけるには、経験も時間も足りなかった。
その結果。酒で気持ちを紛らわすという、最もお手軽な方法を選ぶことになる。
「柚っ! もうやめなさいってば!」
「せんぱーい! 飲まなきゃやってられませんよぉっ……」
晴臣に別れを告げられて一週間後──つまりは柚の誕生日当日。何杯目かもわからないグラスを手にすると、先輩の村野に窘められた。
柚と村野は、都心にほど近い大型テーマパークに隣接するホテル『Four gardens』のホテルスタッフだ。外資系のホテルも多く進出し、顧客獲得にしのぎを削る業界において、『Four gardens』は、国内でもトップクラスの稼働率を誇る一流ホテルである。
入社して右も左もわからなかった柚の研修を担当してくれたのが村野だった。
当初はハウスキーピング部門に所属していた村野は、去年の秋に辞令が下り、かねてより希望を出していたフロントへ配属になった。インバウンド効果で海外からのゲストが増加していたが、堪能だった語学をさらに磨いて対応している。仕事への熱意とスキルアップのために努力を怠らない姿は、憧れであり目標だ。
この一週間、努めて普通に過ごしてきたつもりだったが、姉同然の村野が柚の異変を見逃すはずはない。たまたま一緒になった更衣室で詰め寄られ、渋々と恋人と別れたことを伝えたところ、「あんた、誕生日は空けときなさい」と、酒席に誘われたのだった。
「すみません、先輩。……せっかくのお休みなのに。ヤケ酒に付き合わせちゃって」
サービス業であるホテルは、一般企業のように土日・祝日に休めるような勤務体系ではない。加えて、部署によっては泊まりや早朝からの勤務もある不規則なシフト制だ。
日頃の疲れから、休日は一日中眠っていることも少なくない。にもかかわらず、村野は柚の誕生日を祝うために、同僚にシフトの変更を頼んでまで空けてくれたのである。
感謝しつつも、投げやりな気分が湧き上がってくるのを抑えられないまま、柚はグラスの中身をひと息に飲み干した。
「バカね。いいのよ、そんなこと。今日はあんたの誕生日なんだから、誕生日特権よ」
元気づけるように明るく言い放った村野は、おかわりを店員に求めた。
今日、彼女が連れてきてくれたのは、都内にある創作料理の居酒屋『青葉』だ。
居酒屋といってもチェーン店のような喧噪はなく、和を意識して作られた店内は大人の隠れ家といった雰囲気で、柚も気に入っている店だった。
大好きな先輩である村野と共に、お気に入りの空間で過ごせる誕生日。これで晴臣とのことがなければ、間違いなく最高の気分で酒を楽しめていたはずだ。
「なんで……わざわざ誕生日前に言うんですかね……」
確かに学生時代とは違って会う時間は減っていたが、それでも気持ちは変わらずにいると信じていた。
しかしそんな風に思っていたのは自分だけで、だんだん気持ちが冷めていく晴臣に気付けなかったのだ。
「ホント、間抜けですよね、わたし」
酒の力で気が緩み、今まで我慢してきた気持ちが一気に溢れ出す。目頭が熱くなるのを感じた柚は、村野に心配をかけたくなくて誤魔化すように俯いた。
「誕生日前でよかったんじゃないかな」
「え……」
聞こえてきた声にふと視線を上げると、優しい眼差しとかち合った。
新たなグラスを差し出してくれたのは、『青葉』副店長の千川総司である。
千川はもともと、『Four gardens』直営のフレンチレストランで働くコックだったが、柚が入社する二年前に退職し、この店で働き始めたのだという。
同時期にホテルで働いていたわけではないが、柚にとって村野同様に頼りになる先輩で、どこか親近感を持っていた。
千川は細い目を眇めると、柚に小さくうなずいてみせた。
「これからまた、本城さんの新しい一年が始まるんだ。別れから始まる一年よりもいっそ清々しいじゃないか」
「ちょっと、千川さんったら」
たしなめる村野の言葉を無視して、千川は言葉を続けた。
「どうしたって今はつらいだろうから、そうだな……来年の今日、本城さんが笑っていられればいいんだよ」
「……来年って、気が遠くなりそうです」
今がこんなに辛いのに、来年のことまで考えられないというのが正直な気持ちだった。
恋人と別れた実感が、ゆっくりと身に染みていき心を抉る。ふとした隙間を縫っては晴臣との思い出が蘇り、胸が締め付けられる。そんな状態で、前向きになれるはずがない。
差し出されたグラスにヤケ気味に口をつけると、中身はただの水だった。
「千川さん、これお水じゃないですか」
「口をつけるまで気付かないってことは、それだけ酔ってるってことだろ。そろそろやめておかないと、悪い男に付け込まれるぞ」
「……別に、それでもいいです」
「なんだ、大胆だな。本城さんは。じゃあ俺が持ち帰ろうか」
「千川さん!」
村野がすかさず睨みつけると、軽く肩を竦めた千川は、空いたグラスを下げながら付け足すように言った。
「一年待てないなら、そうだな……新たな出会いを見つければいい。そうすれば、前の男なんてすぐに忘れられる」
「じゃあ千川さん、柚に似合いそうな人を紹介してくださいよ。あ、千川さんみたいないかにも遊び慣れてますって人はダメよ?」
「紹介してもいいけど、俺の知り合いも性質が悪いのが多いからなぁ」
「……タチ、悪くてもいいです。こんなふうに落ち込んでいるより、ずっと……」
本人を無視して話を進める村野と千川に、怪しい呂律で参戦しながら、徐々にふわふわとした感覚に包まれていった。
──そして目覚めると、激しい頭痛を伴い、なぜか極上の美形が目の前にいたというわけである。
(全然記憶にない……いったい何があったの!?)
我を忘れるほど飲んでいたとはいえ、行きずりの男と一夜を共にしたことなど今までに一度たりともない。
では、この目の前にいる男の存在をどう説明すればいいのか。柚は見当もつかず途方に暮れていた。
「人に訊く前に、まず自分が名乗るのが礼儀じゃないのか?」
男は隙のない所作でネクタイを締めながら、混乱の極みにいる柚の顔を覗きこんできた。
多少癪に障ったものの、言われてみればもっともだと思い直して口を開こうとする。だがそれよりも早く、男の美声が遮った。
「ああ、その前にやることがあるか」
くっ、と口の端を歪めた男は、柚の頭のてっぺんから爪先まで視線を巡らせた。
眼鏡の奥の瞳が柚の全身を映し出す。値踏みされているような視線は決して心地の良いものではなかったが、男に吸い寄せられるかのように目が離せない。
「まさか、朝から誘っているわけじゃないだろ」
「え……?」
男の端整な顔に目を奪われていた柚は、次の瞬間、全身から火が吹き出しそうな羞恥を味わった。キャミソールに下着一枚という、なんとも悩ましい格好で立っていたからだ。
男の鼻先でドアを思いきり閉めると、急いで床に散らばっていた服を掻き集めた。見ず知らずの人間の前で半裸を晒していられるほど、羞恥心がないわけではない。服を身に着けつつ、全裸じゃなくて良かったと心から思った。
急いで身支度を整え、おずおずとベッドルームのドアを開ける。
実は服を着ている間にある事実に気付いたが、それを直視する勇気はない。一縷の望みを求めてドアを開くも、現実は甘くなかった。そこは見慣れた部屋ではなく、モデルルームを思わせるような高級感溢れるリビングだったのである。
(やっぱり……あの人の部屋に泊まってたんだ……)
いくら恋人と別れたばかりで傷心だったとはいえ、あまりにも軽はずみな行動だ。しかも、一切の記憶をなくしているのだから、救いようがない。
青い顔をして動こうとしない柚に、座り心地の良さそうなソファに身を預けていた男は、自分の目の前に座るように促した。
「佐伯尊(さえきたける)です。どうぞ、かけてください」
そこで初めて名乗った男は、先ほどのベッドルームでのやりとりとは打って変わって慇懃な口調だった。
まるで上司を前にしたような緊張感を味わいながら、勧められるままソファに腰を下ろす。すると佐伯は、昨晩の柚の様子を淡々と語り始めた。
千川がまだ『Four gardens』で働いていた頃からの付き合いだという佐伯もまた、柚と同様に昨晩『青葉』を訪れていたのだそうだ。そこで千川に柚を紹介され、挨拶程度の会話を交わしたのだが、そのうちに柚が酔いつぶれてしまった。その後に世話をしてくれたのが佐伯だという話だった。
「村野さんは翌日早朝からの勤務だと言って先に帰っていたし、千川さんはまだ仕事中だったんでね。俺が介抱を仰せつかったんだ」
「本当に申し訳ありませんでした……! 初対面の方にご迷惑をおかけして、どうお詫びしていいか……」
目の前で優雅にコーヒーに口をつけていた秀麗な男に向かって、苦情を受けたとき以上に平身低頭、床に頭を擦りつける勢いで頭を下げた。
それこそ記憶を失くしてしまいたいほどの失態に、ただ頭を下げるしかできない。
「自分の許容量もわからずに酔いつぶれるまで飲むのもどうかと思ったが……千川さんの頼みをむげに断るのも忍びなくてね。やむなくこの状況になったというわけだ」
「も、申し訳ありません」
「しかしきみは、顔に似合わず大胆なんだな。恐れいったよ」
「ど、どういう意味、でしょうか」
佐伯は表情を変えることなく柚を眺めていたが、ふと口の端を引き上げた。
「自分から服を脱いで、俺の首に絡みついてきた。引きはがすのに苦労したよ」
「嘘です、そんな……」
ありえない──そう思いつつも、ほんの数十分前までの自分の格好、そして今置かれている状況が、事実だと物語っている。
頭の中が真っ白になって絶句したとき、佐伯が肩を竦めた。
「残念ながら、嘘をつく理由はないな。本当に覚えていないのか?」
射すくめるような眼差しに、どくりと心臓が音を立てる。
この男との間に、いったい何があったのか。なんとか思い出そうとして頭を抱えていると、佐伯がおもむろに立ち上がった。目の前にやってきた彼が、じっと顔を覗き込んでくる。
「『忘れたいのに、どうすればいいかわからない』……そう言ってきみは、泣きそうな顔で笑っていた」
(あっ! そういえば、そんな話をしたような気が……)
会話の断片が脳裏に思い浮かんだ柚は、必死に記憶をたぐり寄せる。
このところの寝不足が祟り『青葉』で眠ってしまった柚だが、次に目覚めたときは見覚えのない部屋のソファだった。
『ああ、目が覚めたのか』
困惑して起き上がると、目の前の男が状況を説明してくれた。
千川の後輩だという男は、佐伯と名乗った。酔い潰れた柚の介抱を頼まれたものの、眠りこけていたため仕方なく自身の家に連れてきたという。携帯を確認したところ、千川からも同様のメッセージが入っていた。
酔っ払いの介抱など、佐伯にしてみれば迷惑以外の何物でもない。まだ酔いが完全に醒めていないとはいえ、その程度の常識はある。謝罪の言葉を口にした柚が、申し訳なさと情けなさとで自己嫌悪に陥ったときである。
『泣きたいときは泣けばいい』
放たれた言葉は予想外のものだった。
どうして初めて会った男に、隠していた気持ちを言い当てられてしまったのか。動揺していると、察した佐伯が苦く笑った。
『タクシーの中で言っていただろ。「忘れたいのに、どうすればいいかわからない」って。答える前に眠ってしまったが』
どうやら酔いに任せて弱音を吐いてしまったらしい。
しかし、彼の助言はもっともだと思う一方で、素直に聞き入れられなかった。
泣いてしまえば、張り詰めていた気持ちが崩れ落ちてしまう気がして怖かった。誤魔化して平気なふりをしていれば、いつかつらさも薄れていく。そう思って、この一週間を過ごしてきた。
それなのに、初めて出会った男の言葉が、胸の奥のしこりを解してしまう。
『……っ』
じわじわと目の奥が熱くなり、ぐにゃりと景色が崩れていく。
これまで堪えてきた感情が一気に溢れ、嗚咽に肩を震わせた。三年間の思い出が、晴臣と過ごした時間が、涙となって頬を濡らす。
『涙には、自浄作用があるらしい。今夜は何も考えずに、ゆっくり眠ればいいよ』
言葉と同時、佐伯は柚を自身の腕の中に囲った。彼の胸に押しつけられるような体勢だが、気にする余裕などなかった。今はただ、目の前にある胸に縋って泣くしかできない。
初めて会った人間だからこそ、感情をさらけ出せたのかもしれない。
そうして眠りに落ちる直前まで、柚は佐伯の腕に縋っていた。
(そうだ、わたし……!)
蘇った昨晩の記憶で蒼白になった柚に、佐伯が薄く微笑んだ。
「その様子だと思い出したみたいだな」
正しく指摘され、羞恥が一気にこみ上げてくる。
正体不明になるまで酔った挙げ句、子どものように大泣きして眠りこけてしまった。それも、縁もゆかりもない相手の前で、だ。穴があったら入りたいとは、まさに今の柚のためにあるような言葉だろう。
「……後日改めてお詫びに伺います。見苦しい姿をお見せして申し訳ありませんでした。まさか、初対面の方に愚痴を聞かせて泣くなんて……自分が情けないです」
冷静になればなるほど、己の醜態を恥じ入ってしまう。
佐伯からしてみれば面倒なことこのうえない状況だったはずだ。少なくともこの男が、柚の面倒を見る義理はないのだから。
「別に気にしなくてもいいよ。俺も千川さんの頼みを、半分しか聞けていないからな」
「半分ってどういうことですか……? それに、お詫びをしないわけにはいきません」
一宿の恩義、それに何より、失恋の傷を慰められている。今まで泣けなかった柚に、泣き場所を提供してくれたのだ。おかげで、気持ちはずいぶんと楽になっている。
「へぇ? 律儀なんだな」
大きな手のひらが肩に置かれ、胸の鼓動が高まった。
至近距離で見る男の顔にどきりとする。動揺し過ぎて忘れかけていたが、佐伯はとんでもない美形だ。否応なしに視線が吸い寄せられてしまうほどに。
思わず目を泳がせると、目の前の男が笑った気配がした。それと同時、柚の耳もとに彼の唇が近づいてくる。
「それなら……身体で詫びてもらおうか」
綺麗な低音が耳をくすぐる。それだけでも脳内の回路を麻痺させるのに、佐伯の台詞は柚の思考を完全に停止させた。
「冗談……ですよね?」
ぽつりと漏らした柚の言葉に、佐伯は切れ長の目を細めて口角を上げると、「本気だ」と簡潔にひと言で返した。
「詫びたいなら、身体で詫びてもらう。それ以外は受け付けない」
佐伯の声はいたって冷静で、それが当然だと言わんばかりの傲慢さだった。柚は顔を引き攣らせたまま、不敵な笑みを浮かべる男を凝視した。
「いくらなんでも、そんなことできません……っ」
「なぜ? 詫びるという言葉は嘘だったのか」
肩に置かれていた手が、柚の顎を捉える。その目は逃がさないとばかりに柚を射抜き、動きを封じこめる力を持っていた。
「嘘じゃありません……けど、だからって」
迷惑料代わりに身体を差し出すなんてできるはずはない。そんなに簡単に男に身を任せられるような性格であれば、もとより失恋でこれほど傷ついていなかっただろう。
「ご迷惑をおかけしたのは謝ります。だからって、身体を要求するなんて酷すぎます!」
いくら酔っていたとはいえ、迂闊な行動をした自分にも非はある。それに、恋を失った痛みを和らげてくれたこの男に恩義を感じてもいる。
だが、あまりに理不尽な要求をされるのは我慢できない。
佐伯の手を振り払った柚は、断固として拒否すべく彼を睨んだ。
はたから見ればラブシーンさながらに見つめ合っていたふたりだったが、不意に佐伯は低く喉を鳴らすと、おかしそうに笑い声を上げた。
「なにか勘違いしていないか」
先ほどまでの緊張感はどこへやら、佐伯はひとり笑みを漏らしている。
存外笑い上戸のようだが、笑いのツボがどこにあったのか見当もつかない。困惑していると、ひとしきり笑った男が説明を始める。
「きみはあの一流ホテル『Four gardens』のスタッフなんだろ?」
「え? はい……そうですけど……」
「ちょうどハウスキーパーを探していてね。見つかるまでの間、君に務めてもらいたい」
「……は?」
思わず間抜けな声を上げた柚に、佐伯はますます表情を崩す。言動にどことなく愉悦が見えるのは、けっして見間違いではないだろう。
「俺としては、きみが想像した通りの方法で詫びてくれてもいいけどね」
するりと頬を撫でられた瞬間、佐伯の言葉の意味を理解し、ソファから落ちてしまいそうな勢いで端へと移動した。
佐伯の『身体で詫びろ』云々は、柚が想像するような行為ではなく、部屋の清掃をすることだったのである。
(信じられない……もう、恥ずかしすぎる……)
佐伯に触れられたせいか、それとも自分の思い違いへの恥じらいからか。燃えるように熱い頬を両手で覆いながら、柚は泣きたい気持ちを我慢して俯いた。
(わざわざ紛らわしい言い方しなくてもいいのに……!)
勝手に勘違いしたのは自分だが、明らかに佐伯は誤解をするように仕向けていた。つまりこの男は、柚をからかっていたわけである。
『俺の知り合いも、性質悪いのが多いからなぁ』
不意に千川の台詞が柚の頭を過る。目の保養どころか、見ているだけで精気を吸い取られてしまいそうな極上の美形だが、佐伯の性格は極悪である。
「それで、どうする? 俺はどちらでもかまわないよ」
「……できればどちらもお断りしたいです」
「詫びると言ったのはきみだろ?」
にべもなく言われてしまい、グッと喉を詰まらせた。その通りなので返す言葉もない。
口もとに笑みを浮かべながら立ち上がった佐伯は、ソファにかけてあった上着を手に取った。袖を通す仕草ですらやけに様になっていて、その美しさに目を奪われてしまう。
この男は危険だ。端麗な容姿に騙されて不用意に近づけば、取り返しのつかない火傷をしそうな気がしてならない。
ホテルスタッフとして数多くのゲストと接してきたが、ゲストでなければ関わり合いになりたくない人間も中には存在する。
佐伯にはそれらのゲストに対峙した時と同様の思いを抱いてしまうのだが、その一方で、彼の一挙手一投足に目が釘付けになってしまう。
「本城さん?」
佐伯は答えを促すように、ふたたび距離を詰めてくる。
「わっ……わかりました。ハウスキーパーを務めさせていただきます」
柚はどちらを選んでも自分にとって不利になるふたつの選択肢から、渋々ハウスキーパーの役目を選んだ。
本城柚二十四歳の春は、こうして波乱の幕を開けたのである。
『Four gardens』は、十一階からなる建物のうち、三階から十一階までが客室で、一、二階にはレストランや宴会場といった施設が入っている。
柚が現在所属しているのは、『メンバーズ・クラブラウンジ』と呼ばれる部署だ。
クラブラウンジはホテルの最上階に位置し、九階から上の客室──ジュニアスイート以上の宿泊者が利用可能なスペースだ。宿泊者以外では、年間契約を結んだゲストのみしか利用できず、訪れるゲストのほとんどがVIPである。
配属されてからの半年間は、緊張の連続で何度もミスをしたものだ。今でこそ顔馴染みのゲストも増えて、会話もそつなくこなせるようになってはきたが、まだ先輩スタッフのサービスには足もとにも及ばない。時に厳しく叱責されることもあるけれど、柚は『Four gardens』で働けることに誇りを持っていた。
「おはようございます!」
ラウンジに着くと、すでに朝食の準備を始めていた先輩スタッフと挨拶を交わし、今日の予定を確かめながら準備に加わった。
宿泊者は和食か洋食の各レストランを選択して朝食をとるのだが、ジュニアスイート以上の宿泊者はラウンジで食べることも可能だ。そのため早番スタッフはまず朝の予約状況を確認し、各レストランの厨房から予約人数分の朝食をラウンジまで運ぶのだ。
ラウンジの前面にある大きな窓の外には『Four gardens』の名の通り、四季の花々や草木に彩られた庭園、さらにその先には東京湾や巨大テーマパークの景色が広がっている。最上階の眺望を目にするこの時間は、柚の心を和ませてくれた。
「なんだよおまえ、やけに張り切ってんな」
ラウンジ内にあるカウンターでひそかに気合いを入れていると、メンバーズ・クラブラウンジのアシスタントマネージャーである柳裕貴が怪訝な顔をした。
柳は細く整えた眉を八の字にし、さらに続ける。
「このところずっとヘコんでたくせに、なにかいいことでもあったのか?」
「えっ、ヘコんでなんか……」
「ゲストの前では取り繕ってたみたいだし、別にいいけどな。アシマネ舐めんなよ? 見るところはちゃんと見てるんだ」
キッパリと言い切られてしまい、苦笑しながら曖昧にうなずいた。
このところ、ということは、晴臣と別れてからの柚は、傍目にもわかるくらい落ちこんでいたのだ。
公私共に親しい村野ならばともかく、柳にまで見破られるとは思わなかった。
少なからず表情や態度に出ていたのだと自己嫌悪に陥るが、それと同時に首を捻る。特別いいことがあったわけではない。ただ、佐伯尊との出会いでわずかに救われ、同じくらいに感情が忙しなくなっているだけだ。
佐伯のマンションで目覚めてから三日が経つ。しかし、その間に彼からの連絡はない。ホッとする一方で、常にあの男について考える羽目になっている。
(佐伯さんのハウスキーパーって……いつから始まるのかな。清掃の研修はしたことあるけど、家の掃除とは勝手が違うし)
ホテルのハウスキーピングとは、簡単に言えばゲストが使用した部屋を清掃する仕事で、いわばホテルの裏方業務だ。
先日の佐伯は、『「Four gardens」のスタッフなら完璧な仕事ができるはずだ』とでも言いたげな口振りだった。ホテルの名誉を守るためにも、気の抜けない作業になるだろう。
「まあ、元気になったならいいんじゃないのか。本城はそれだけが取り柄なんだし」
「それだけですか……」
「そう言われたくなかったら働け。今日は『vista』で午後から会議が入ってる。朝食が終わったら設営作業だからな」
ラウンジに併設された小規模ホール『vista』は、契約している企業や個人に貸し出しを行っている。会議からちょっとしたパーティまで、その用途は様々だ。使い勝手のよさから人気も高く、『vista』に予約が入るとラウンジは忙しくなるのである。
(佐伯さんに気を取られてる場合じゃない。しっかりしないと)
意識を切り替えると、目の前の仕事に集中する。
ラウンジで受け付けている朝食の時間帯は、午前七時半から九時半までだ。十時のオープンまでに片付けを終わらせなければならず、バックヤードは毎朝戦場である。
ようやくオープンを迎え、次はホールの設営に入った。今日はまだ会議だからマシだが、これがパーティともなればさらに人数も時間も必要になる。手際が求められる作業のため、無心で仕事に臨めた。
「本城、勝山(かつやま)様がお見えになってるぞ」
設営が完了しラウンジへ戻ったところで、柳から声をかけられた。
勝山とは、柚がクラブラウンジへ配属される以前からのゲストだ。ホテルの取引先である大手電機メーカーの社長で、その地位に似合わず気さくにスタッフにも声をかけてくれる人物である。
地位があることを鼻にかけるゲストも少なくない中、物腰が柔らかで穏やかな勝山は、スタッフたちに人気の人物だ。来店の際に交わす会話は、柚も密かに楽しみにしている時間だった。
柳に断りを入れると、勝山の座っている窓際の席へと歩み寄っていく。しかし次の瞬間、頭の中が文字通り真っ白になってしまった。
「やぁ、本城さん。今日は、大事なお客様と一緒でね。イケメンだろう?」
勝山は対面に座る男を見ながら、恰幅の良い身体を揺するように笑った。
「ああ、勝山さんがおっしゃっていたスタッフが彼女なんですね」
「普段から世話になっていてね。本城さんがいたから、娘の婚約披露パーティをここでやろうと思ったんだ」
勝山の言葉を受けてゆっくりと柚を仰ぎ見た男は、切れ長の目を細めて口角を上げた。
「お話は伺っていますよ、本城さん」
そこには、ほんの三日前、柚に選択の余地を与えることなくハウスキーパーを命じた男──佐伯がいたのである。
(どうしてこの人がここにいるの……!?)
ゲストとしてホテルに来館するのはまだわかる。しかし、勝山とラウンジに来るとは完全に予想外の事態だ。絶句した柚に、佐伯は静かな微笑みを湛え右手を差し出した。
「初めまして、佐伯尊です」
明らかにうさん臭い、というよりも、営業用スマイルと言ったほうが表現として正しい。
そう思うのは柚が佐伯の別の顔を知っているからなのだが、残念ながらこの場で言及はできない。
「本城と申します。勝山様には、日頃より大変ご贔屓にしていただいております」
負けじと必死に笑顔を貼りつけて、差し出された手を握り返す。なんとも空々しい挨拶だと内心で思いつつ手を離そうとした時、柚の鼓動が大きく鳴った。誰にも気付かれない程度に、一瞬だけ人指し指を軽く握られたのである。
「……ごゆっくりどうぞ。失礼いたします」
やっとの思いでそれだけを言うと、一礼してふたりの前から立ち去った柚は、まだ収まらない鼓動を誤魔化すようにしてカウンター内で洗い物を始めた。
(な……なんなの? あの人……)
はたから見ればただ握手をしたにすぎない。だが佐伯は、初対面を装いながら、わざとふたりの繋がりを意識させるような行為をしたのだ。
一瞬だけ見せた、ふてぶてしく、それでいて怜悧な佐伯の瞳が頭の中にチラつき、やけに心が落ち着かない。まるで獲物を狩るハンターのような計算高さを思わせる瞳だ。
勝山の前では微塵も見せないあたりが、処世術に長けているのか、それとも社会人として本来あるべき姿なのか。判断が難しかったが、おそらく外面がいいだけだろうと思った。もしくは、相当面の皮が厚いか、である。
なに食わぬ顔で勝山と談笑する佐伯に、叶うならば握り拳のひとつでもお見舞いしてやりたいほどだ。
(勝山様は、あの人を大切なお客様だって言ってたけど……何者なんだろう?)
千川の知り合いならば身元の怪しい人間ではないだろうと思っていたが、勝山とラウンジへ訪れたところを見ても、その予想だけは間違いなさそうだ。
佐伯のマンションは、柚の住む部屋が三つは入りそうな広さの高級マンションで、部屋の調度類も高級なものが多かった。彼の身なりや物腰からしても、それなりの地位についている人物であることが窺える。柚がこれまで仕事上接してきたVIPに近い印象を彼に抱いたのも納得である。
だが、身元が確かだからと言って、人間性まで保証されたわけではない。それが一番の悩みどころだ。
佐伯との契約は、ハウスキーパーが見つかるまでの間というだけで、期間などは具体的になにも決まっていない。互いの連絡先だけを交換し、あの日、柚は逃げるようにして自宅へと帰っている。
(今からでも断りたい。でも、あの人は納得しないだろうし)
そんな堂々巡りが頭を過りながらも手だけは動かしていると、悩みの根源が勝山と共に席を立った。
「今日はこれで。またゆっくり寄らせてもらうよ」
「お待ちしております」
勝山を出口まで見送るためにカウンターから出ても、あえて佐伯とは視線を合わせないようにする。
しかし佐伯は、そんな姿をあざ笑うかのように、すれ違いざまに柚にしか聞こえない程度に小さく低音を響かせた。
「今日の十九時、新木場駅改札」
ハッとして顔を上げた時には、佐伯と勝山の後ろ姿しか見えなかった。ドアを開けて彼らを誘導していた柳に怪訝な目を向けられて急いで頭を下げるも、今しがた聞いた佐伯の声に鼓動が跳ねている。
今日のシフトは早番で十七時までの勤務だが、定時で業務が終わるわけではなく、引き継ぎやもろもろの雑務もある。すべてを終えて急いで電車に飛び乗っても、十九時に着くかどうかは微妙なところだ。
──と、そこまで頭の中で計算した柚は自分が佐伯の誘いに前向きな気持ちでいることに気付き、焦ってそれを否定する。
おそらく用件は、佐伯の都合と柚のシフトのすり合わせだろう。ハウスキーピングを引き受けたはいいが、柚はシフト勤務のため、そうそう佐伯の都合に合わせられない。
(まさか、今日からいきなり作業ってことはないよね? ないと信じたい)
そもそも互いの連絡先を知っているのだから、わざわざ会う必要性があるのだろうか。 仕事中でなければ、一方的な約束に文句のひとつも言いたいところである。
柚は空いた席のティーカップを下げながら、頭の中を切り替えるべく息を吐く。
身勝手だと腹が立つ。しかし、彼に慰められたのは事実だ。
耳の中に残っている佐伯の声に急かされるように、時計を気にしながらこの日一日の業務をこなす羽目になった。