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本日より、モテ同僚の妻になりました。 策士なスパダリの愛は止まらない! 2

第二話

「終わってる……」
 もうお酒は抜けているはずなのに、記憶喪失なんてシャレにならない。でもそれだけ衝撃的だったといえば、その通りで。
「何杯飲んだっけ……」
 覚えているのは三、四杯までだ。その後もきっとたくさん飲み続けたのだろう。慣れたビールの味に油断してしまった。ビールならいくら飲んでも前後不覚になったことはないから。
 頭の奥がつきりと痛む。そりゃ二日酔いにもなるってもんだ。
「酒は飲んでも飲まれるな……はぁ」
 ため息交じりに鍵を開け部屋に入ると、もう耐えきれなかった。私はずるずるとその場にへたり込み、顔を両手で覆って、叫ぶ。
「なんでちゃんと覚えてないのよ私のバカー!」
 酒の勢いでも過ちでも――好きな人との初めてだったのに!!

「でも寝顔、可愛かったな……」
 布団がかかっていたから、犬飼の裸は見えなかった。けれど目に入ってしまったむき出しの肩とほくろの並んだ腕を思い出すと顔が熱くなる。
「肩っていうか二の腕もすごかったぁ……」
 思わず玄関でほう、と私はため息をつく。
「あの腕で、ぎゅってしてもらえたのかな……」
 全く記憶はない。
 でも多分いつもの彼らしく、優しく、気遣ってくれたのだろう。
 だって身体に残っていたのは違和感やだるさだけで、痛みだとか不快感はないのがその証拠だ。
 仕事の時だってそうだ。フォローはさり気なく、マメで、優しくて、仕事も早くて、本当に完璧すぎる。
「ワンナイトまでスマートですね……はぁー無理無理無理……」
 私は玄関から這うように移動し、ベッドにダイブする。
「あぁ~」
 慣れたカバーの匂いと感触に、まるで湯船に浸かった時みたいな情けない声が出た。見知らぬ場所じゃなくて、自分のテリトリーはやっぱり安心する。
 七階建ての単身者用賃貸マンションが私の城だ。間取りは1Kでベッドが半分を占領する部屋はお世辞にも広くはない。けれど会社へ乗り換え無しで行けるしオートロックだし、十分な物件だと思っている。
「……てか、お給料大して変わらないはずなのに、なんであんな家に住めるんだろ」
 犬飼の家は明らかに普通の賃貸マンションではなかった。築浅っぽかったし、セキュリティもしっかりしてたし。駅に近くて都心にある会社にも近い立地から考えるに、社会人三年目には手が出ない物件のように思える。
 何か副業でもしてるんだろうか。でも投資とか上手くやってそう。
「……いや、謎のままにしとこう」
 そこ追及したって答えが用意されているわけじゃないし、どうでもいい。
 だって何より今はしっかり目に焼き付いた寝顔とむき出しの肩、そしてワンナイト(かなり確定に近い推定)の事実だけでお腹いっぱいだ。
 これでエッチの真っ最中の記憶まであったら……思考回路が持ったかどうかわからない。
「覚えてなくて逆によかったかも……って、うっわ、酷い顔!」
 ベッドサイドに置いてある鏡に映った自分の顔は、ある意味ホラーだった。
 手櫛もいれていないブラウンに染めたセミロングの髪はくしゃくしゃで、アイラインが溶けて小さな目の下を真っ黒にしている。ファンデもどろどろで毛穴丸見え。最悪最低の顔。
「犬飼が起きる前に帰ってこられてホントよかったわぁ……」
 こんな顔見たらきっとドン引きされただろう。
 普段同期として情けないところばかり見せてしまっているのに、女としてあり得ない顔まで見せてしまうのは申し訳なさすぎる。
「よーし!」
 ひとしきりじたばたして、ようやく気持ちが落ち着いた。
 いい加減どろどろの顔をどうにかすべく、シャワーを浴びることにする。
 二十六歳、まだ曲がってはいないけど、そろそろ化粧したまま寝るのはさすがに気になってくる年頃です。
「でもちょっとくらいは覚えときたかったかも……」
 念入りにスキンケアを施しながら、ひとりごちる。
 浴室の中で改めて身体を観察してみても、感覚以外に残ったものは何もなかった。
 状況証拠だけでも一生の思い出だ。
 だけど気持ちが落ち着いてくると、犬飼のあの手が、あの唇が、私にどんなふうに触れたのか何も覚えていないのは……あまりにも勿体なさすぎるように思えてくる。
 だって絶対に二度とないもん!
 まあ覚えてないのは結局全部、自業自得なんですけど!
「……しばらくお酒はやめとこ」
 お酒の飲みすぎ、ダメ、絶対。私はぽかりと自分の頭をこぶしで叩く。
 ようやく身ぎれいになった私はベッドにダイブする。そして、お供のぬいぐるみを抱きしめて眠りの中に逃げ込んだ。
 だからだろうか。夢を見た。
 犬飼と初めて会った、あの日のことを。

 それは辛い就活の真っただ中だった。
「はぁ……疲れた」
 第一志望の二次面接を終えた帰り道。いわゆる圧迫面接というやつで、ネチネチと圧をかけられながら意地悪な質問を繰り返されるのはかなり堪えた。
 まあでもねちっこい応答なんて、就活ではままあることだ。三次に進めるのならこのくらい耐えなきゃ……と思っていたのに。
「えっ」
 急に、目の前が暗くなった。
 くらり、と視界が歪んで、まずいと思った私は咄嗟にその場にしゃがみこんだ。でもそれは悪手だった。そのまま、激しい頭痛と動悸に襲われ、立てなくなってしまったのだ。
「うぅ……」
 歩道で膝を抱え力なくうずくまる私をよけた人たちが、舌打ちしながら通り過ぎていく。通行の邪魔になっているのはわかったけれど、どうしても動けない。
 気にかけてくれる人などいなかった。当然だ。誰だって面倒ごとには関わりたくない。
 はやく、はやく治まれ! そう念じながらじっとしているしかなかった。
「……君、具合悪いの?」
 だから優しく気遣うような男の人の声が聞こえた時は、一瞬空耳かと思ってしまった。
「あたま、痛くて……」
 俯いたまま答えると「ちょっとこっち来ようか」と声の主は私を歩道の端に移動させてくれた。人の邪魔にならなくなっただけで、少し気持ちが落ち着く。
「顔色よくないね。救急車を呼ぼうか?」
「大丈夫、です。多分、ただの貧血で、ちょっと休めば、なんとか」
 元々以前から貧血傾向があって、この症状にも覚えがあった。今日はプレッシャーや緊張、さらに疲労のせいで症状が強く出てしまったのだろう。
「ならちょっと待って」
 声の主はそう言うと、ぱっと走って行ってしまった。
「あ……」
 お礼も言えなかった。追うことも出来ず私は下を向いたままため息をつく。
 けれどすぐにこちらに向かって駆けてくる足音が聞こえた。
「すぐ効くかどうかはわからないけれど、よかったらこれ、飲んで」
 俯いた視界に、すっと差し出されたのはストローが付いたパック飲料だった。
 パッケージの「一日分の鉄分」の文字と、差し出した右手首にみっつ並んだほくろが目に入る。
「あ、ありがとうございます」
 わざわざコンビニまで出向いて買ってきてくれたのか。なんて親切な人なのだろう。
「あ、ストロー刺せる? やろうか?」
「いえ、もう本当に大丈夫です。すみません、もう少し休めば平気だと思います」
 飲むまで世話を焼いてくれそうになって、私は慌ててその先を固辞した。
「そう? じゃあ僕はこれで。……無理しないようにね」
「はい、ありがとうございました」
 最後まで私を気遣いながら、男性は去って行った。
 連絡先を聞いておけばよかった、と思ったのは体調が回復してからだ。
 それどころか彼の顔も見ていなかった。覚えているのは、スーツ姿の恐らく若い男性であること、そして優しい声と右手首のみっつ並んだほくろだけ。
 だから入社後の新人研修で犬飼の声を聴いた時は本当に驚いてしまった。
 でも考えてみれば角高の面接帰りの出来事だったのだから、そういうこともあるだろうと思えた。
 もちろん声だけなら別人の可能性もあった。でも手首のほくろを確認したらもう、間違いなかった。
「これって運命!?」なんてひとりで興奮してしまったっけ。
 でも、助けてもらったお礼を伝えたくて、研修中犬飼の様子を一生懸命うかがっていたら、わかってしまった。
 彼は誰にでも親切で、優しいと。
 その証拠に、私が感謝を伝えたら、案の定犬飼はほとんど覚えていなかった。
 私にとっては特別だった親切。
 だけどきっと彼にとっては当たり前の行動のひとつでしかなかったのだ。
 ――私だけならよかったのに。
 ――彼の優しさを、気遣いを、独占できたらいいのに。
 犬飼の態度に落胆した時。彼への気持ちが恋であることを理解してしまった。
 偶然じゃなくて運命、なんて思った時点でとっくに気づけって話だけど。
 以来ずっと、私は一方的に犬飼に恋をしている。
 同じ部署に配属になり、間近で懸命に業務に取り組む姿を見て、尊敬が深まると共に好きという気持ちもどんどん強くなった。
 でも、この気持ちを伝えるつもりは全くない。
 だって彼にとって私は、ただの同僚でしかないから。
 そんな状態で告白しても、ただの自己満足だ。それどころか、異性として見ていなかった相手から告白されても困惑しかしないだろう。
 助けてもらったあの時のように、迷惑は絶対かけたくない。
 だから彼にとって一番いい関係、いい同僚・同期でいようって、決めた。仕事で彼の役に立つことこそが、あの時の恩返しになると信じて。


 週明けの月曜日のオフィスは、どことなく慌ただしい。そんな中、私はそろそろと入り口からデスクの並んだフロアを覗き込む。
「まだ来てないな、よし……」
 我ながらなにがよしなのかはわからないけれど、とりあえずまだ犬飼の姿が見えないことにホッとする。
 週末散々考えたけれど、とりあえず犬飼とのことは「なかったこと」にするつもりだった。
 なにしろたった一晩関係をもっただけだ。しかも、酒の勢いで。
 となればここはスマートにいくのが大人ってもんだろう。
 こうなると記憶が無いのは幸いだ。
 たった一晩の過ちで、昨日真っ当に縮められた距離――同僚として気安く話す立場を、手放したくない。
 だったら「なかったこと」にするのが一番!
 ……というか、それ以外の解決法が思いつかなかった、というのが正しい。
 私の恋愛経験は大学時代の大して長続きしなかったもので止まっている。初心者ではないけれどマスターには程遠い。
 そんな私が同じ会社、それも好きな相手と一晩共に過ごす(ただし、記憶なし)の最適解なんてどんなに頑張っても導き出せなかったのだ。
「おはよう!」
「ひゃうっ!」
「どうしたの? めちゃくちゃ挙動不審だけど」
 突然背後から声をかけられて思わず肩を跳ねさせた私を見て笑ったのは、雉野さんだった。
「あの……実はちょっと先週末の飲み会の記憶怪しくて」
 私が言うと雉野さんは「ああ」と苦笑する。
「あー、あの後たっぷり飲んじゃった?」
「はい……もしかして何か失敗していたらと思ったらちょっと……」
「大丈夫でしょ。あの犬飼君が一緒だったんだし。ほら、前に飲みに行った時も結構飲んでたけど、くるみちゃんの酔い方って誰かに迷惑かけるような感じじゃないじゃん」
 けれど雉野さんはそこで言葉を切り、少し声を潜めた。
「……むしろ可愛い。めっちゃ笑い上戸だもんねっ」
「わ、忘れてください……!」
「何言っても『うふふふ』って笑ってただけであの時は可愛かったなー。でも記憶怪しくなるならもう少し控えた方がいいかもね」
「心に刻みます……」
「大丈夫だって! なんなら本人に聞いてみればいいじゃん。おーい犬飼君!」
「えっ!?」
 雉野さんが突然肩越しに犬飼を呼んだものだから、私は動揺のあまり手に持っていたバッグを取り落としてしまう。
「雉野さん、おはようございます」
 こちらに手を振りながら近づいてくる犬飼は、当然いつものように、いや、いつも以上に格好良かった。
 ブラックに白ストライプ柄のかっちりとしたスーツに艶のあるレジメンタルタイを合わせたコーディネイトは朝だというのにめっちゃ色気が溢れまくっている。
 それどころか向けられた笑顔がぴかぴかと光って見えて、そのあまりの眩しさから私は思わず顔を背けてしまう。
「おはよう、猿渡」
「お、おはよっ」
 不自然だとは思いつつも、犬飼から一歩距離を取りながら挨拶を返す。だって今は彼の顔がまともに見られない!
「金曜はありがとな。遅くまで付き合ってくれて。楽しかったよ」
「う、うん」
 私が身体を硬くしたまま頷くと、犬飼はにこやかに「落ちてるよ」とバッグを拾い私に渡し、颯爽と去って行った。その様子は、これまでとなんら変わりは無くて。
「ほら、大丈夫じゃない?」
「そう、ですね」
 雉野さんの言葉に、なぜか拍子抜けしてしまう。
 なかったことっていうか、本当に全然普通、これまで通りだ。 
 そりゃ毎日顔を合わせる同僚と関係持っちゃったら、なかったことにするよね。
私だってそうしようとしたし。
 やっぱり犬飼はすごいなぁ、あんな自然な振る舞い私には無理かも……と思って、ふと気づく。
 もしかして、犬飼も覚えてない、とか? 
 そりゃそうだ。私が記憶無くすくらいだから、犬飼だって相当飲んでるはず。じゃなきゃあんな間違いは起こさない。
「……っ、よかった……」
 私も知らないことを、犬飼も知らないならよかった。私のぐちゃぐちゃな顔見られてなくて、本当によかった。
 私はほっと胸を撫でおろす。
 OK、これですべて元通り! 
 ……と言いたかったけれど、そうは問屋がおろさなかった。

「……り、猿渡!」
 名を呼ばれてハッと我に返ると、犬飼がすぐ側にいた。あの、ぴかぴかの笑顔で。
「ひぇっ!」
 あまりの近さに動揺するあまり、反射的に座っている椅子ごと後退って机にぶつかってしまう。
「あっ」
 すると傍らに積んであったファイルが雪崩を起こし、崩れたファイルは中身が残っていたコーヒーカップをなぎ倒し、デスクが真っ黒になった。ほんの一瞬で。
「猿渡、立って!」
「えっ、えっ!?」
 あまりのことに呆然となった私を動かしたのは犬飼だった。素早く私を机から離すと、ファイルをどかし、カップを寄せ、ささっとコーヒーを拭いてくれた。手際が良すぎて全く私が何かする間もなく机は綺麗に片付いてしまう。
「大丈夫、書類とパソコンは無事だよ」
「ご、ごめん、私……」
「気にしなくていい。それより、もう行こう」
「行くって、どこに?」
「定例のミーティング。始まるよ」
「えっ、もうそんな時間!?」
 犬飼に腕時計の文字盤を指さされ、そこに表示された時刻に驚く。声をかけてもらわなかったらすっかり忘れていたかもしれない。
 急いで準備して会議室に駆け込んで、なんとかギリギリ開始時間には間に合った。
「おいおい、ミーティングの時は五分前行動で頼むよ」
 ばたばたと席につく私と犬飼にリーダーが苦笑しながら注意してくる。
「すみません! さっき私がコーヒー零しちゃって、犬飼はそれに巻き込まれただけなんでっ」
 こんなことで犬飼の評価が下がったら大変だ。私は腰を下ろしたばかりの椅子から立ち上がって頭を下げる。
「いいよ。次からは気をつけて」
 リーダーも他のメンバーも笑って許してくれた。ひとの優しさが沁みる。
 本当に今日は全然だめだ。……というか、ここ一週間ずーっとだめだ。
 今だって失敗してしまったことよりも、迷惑かけちゃったことよりも……今右隣に座っている犬飼のことが気になって仕方がない!
 ……なんでこんな風になってしまったんだろう。
 これまでだってミーティングの時隣に座るなんて数えきれないくらいあって、そんな時はちょっとラッキーくらいの感覚だった。
 なのに今、犬飼が腕が触れそうなくらい近くにいることに、私は動揺しっぱなしだ。心臓の音がびっくりするくらいうるさくて、落ち着かない。
 これまで通り普通に「何もなかった」ようにしていなきゃいけないのに。
 ――普通って、一体どんな感じだったっけ?
 当たり前のことがもう思い出せないくらい、私は強く強く犬飼を意識してしまっている。
 知らぬが仏、と言う。
 確かに知らなければ「ない」ことと同じで、想像すらできない。
 でも私は、中途半端に犬飼のセクシャルな部分を知ってしまった。
 おかげでその、意識しすぎてしまうわけで……。
「……っう!」
 右の二の腕をトントンとつつかれて、肩が必要以上にびくんを跳ねた。つついてきたのは、犬飼のボールペンのノック部分だ。
「犬飼、な、なに?」
「さっきからしんどそうだから、大丈夫かなって」
「へっ!? だ、だいじょぶだよっ!」
 どうやら私の挙動不審な態度は、犬飼からは体調不良のように見えたらしい。
「ならいいけど。なんかあったら言えよ?」
「う、うん、ありがと」
 顔を近づけひそめた声で言われて、ますます心臓がうるさく鳴る。
 ……大丈夫だろうか、私。
 これからも犬飼と一緒に仕事、していけるだろうか。
 記憶がなくても「あったはず」のことを「なかったこと」にするのは、ものすごく大変なのだと、今更思い知っても遅い。
 アダムとイブがりんごを食べてもう楽園にいられなくなったように、ひとに言えない経験をした私は、もう以前のようには戻れなくなってしまったのだろうか。
 犬飼の顔を見るたびに、思い出さずにいられない。
 スーツの下にある筋肉に覆われた身体とか、なめらかな肌から直接伝わってきた体温とか、子供みたいな寝顔とか。
 会社の他の人は絶対見たことのない犬飼の姿を――。
「猿渡、本当に大丈夫? めっちゃ顔赤いけど。空調の温度下げてもらうか?」
「だだだ、大丈夫っ!」
 ……今ちょっと人に言えない妄想に入りそうになってしまった。

「うぅ……疲れた」
 長かった金曜日の仕事がようやく終わって、新しい週末がやって来る。
 身勝手な感情にずっと振り回され続けたせいで、ずっと緊張しっぱなしだった。おかげで仕事に身が入らず、プロジェクトメンバーにずいぶん迷惑をかけてしまった。
 もちろん、その中には犬飼もいる。彼の態度は相変わらず、これまで通り親切で優しい。
 変わったのは、私だけ。
「……本当に、駄目だ私」
 犬飼が視界に入っただけで、あの朝見た姿を思い出してしまう。
 ずっと、見ているだけでいいと思っていた。
 ただの同僚であればいいと思っていた。
 でも今は、それだけじゃ全然満足できてなくて。それどころか、分不相応で勝手な期待を抱いて、変な妄想に憑りつかれて、ひとりじたばたしている。
 それは、ずっと心の奥に閉じ込めてきた「好き」の先を求めているようで。
 私……自分で思っていたよりもずっとずっと、犬飼のことが好きだったんだ。
「はー不毛」
 だって犬飼の中では、「なかったこと」になっているのだから。
 帰り際最近の様子を心配した雉野さんが「ご飯でもいく?」と誘ってくれた。けれどまだこの気持ちは人に話せる段階じゃないし、食事を楽しめるとも思えない。だから申し訳ないけれど断ってしまった。仕事のフォローもしてもらってるし、雉野さんには今度お詫びしなければ。
 ひとりでどこかに行く元気もなくて、金曜日の夜だというのにおとなしく家に帰る。
「冷蔵庫の中、何あったっけ……」
 いつも食材の買い出しは週末だから、冷蔵庫の残りはだいぶ心もとない。
 コンビニかスーパー寄って何かお惣菜買えばよかったな……なんて思いながら郵便受けを開けると。
「ん?」
 チラシやダイレクトメールの中に、見慣れぬ長3封筒が混じっていた。差出人は区役所市民課。
「なんだろ?」
 区役所から通知が来る理由が思いつかない。首を捻りながら部屋に行き、封を切る。入っていたのはA4の用紙が一枚だけ。
「戸籍届出受理連絡通知書……?」
「あなたからの戸籍届出については、下記の通り受理されましたので通知します」というそっけない文面の後に続いているのは、届け出の年月日、届書名、そして届出人の、氏名。
 出されたのは、婚姻届。そして届出人は私と――犬飼彰士(しょうじ)。
「って、誰よ!?」
 似た名前……犬飼彰志なら知っている。でも彰士なんて人は知らない。
「で、でもここまで一緒なら、犬飼の知り合い、とか?」
 犬飼なんてそこまで多い名字でもない。もしかしたら知っているかもしれない。見知らぬ人と婚姻届出されるなんて、あり得なさすぎる!
 慌てて犬飼に連絡する。善は急げというではないか。
「あ」
 携帯の通話ボタンをタップしてから、そういえば、これがプライベートでかける初めての通話だったと気づく。でも今そんなことはどうでもいい。
 幸いなことに通話はすぐに繋がった。
『どうした? 猿渡が俺に電話かけてくるなんて珍しいな』
「どうしたもこうしたも大変なの! えっと、犬飼の知り合いとか親戚に犬飼と似てる名前の人っている?」
『……どういうこと?』
「うーんと口で説明するのちょっと面倒だから、今から会えない? 犬飼今どこ?」
『家の近くのコンビニだけど』
「じゃあすぐにそっちの最寄りまで行くね! 駅で待ってて! よろしくっ!」
 強引に約束を取り付けると、私は通知を手に帰ってきたばかりの家を出た。
 犬飼とは同じ沿線だけど、彼の方がずっと会社に近い。さきほど乗ったのとは逆の電車で犬飼の最寄り駅へと向かう。……つい一週間前に利用したばかりだ。勝手はわかる。
 改札を出ると連絡するまでもなく、犬飼が待っていた。
 通勤着そのままの私と違い、部屋着なのだろう、Tシャツにジーンズ、それにパーカーを羽織っただけというかなりカジュアルな恰好だった。
 こんな時だっていうのに、初めて見たラフな姿に思わずときめいてしまう。ああ、本当に私ってばどうしようもない!
「ごめん、急に」
「別にいいけど、どうした?」
「えっと、道端でさらっと出来る話じゃないから、とりあえずどっか入らない?」
 しかし週末の宵の口だ。いくつか当たってみたものの、駅前のカフェやファミレスはどこも満席で席待ちが発生していた。
「この辺であと落ち着いて話せるところって……」
 居酒屋なら、と思ったものの、お酒のある場所はちょっと抵抗がある。何しろそれで大失敗した記憶も新しい(ないけど)。
「なあ猿渡。今の時間だとこの辺り混んでるし、よかったらうち来ないか?」
「えっ!? でも」
「ここで待っていても時間食うだけだし。本当にすぐ近くなんだ」
 それは知っている。なにせ一週間前そこからこの駅まで歩いたから。
「ほら、行こう」
 促すように背中をぽん、と叩かれる。
「う、うん」
 こちらから押しかけておいて拒否することも出来ず、私は一週間ぶり二度目の訪問をすることになってしまった。

 犬飼の住むマンションは繁華街のあるエリアから、歩いて十分もしない場所にある。
「ホントに近いね」
 知ってはいたけれど初めてのような顔をして呟く。
「うん、おかげで少し寝坊できてる」
 一週間前の私も、同じように並んでこの道を歩いたのだろうか。状況証拠だけが積みあがっていて、事実はどこにあるのかわからない。
「片付いてなくて、悪いけど。どうぞ」
「お邪魔、します」
「適当に座って」
 前に来た時は見なかったリビングダイニングに通される。
 黒とグレーを基調にしたインテリアはあの日見た寝室と同じようにシックで落ち着いた雰囲気だ。間接照明とか観葉植物がさり気なく置かれてるのがすごく犬飼っぽい。
 ただ、散らかってはいないけれど、寝室とは違いところどころに生活感があった。
 ソファには無造作にたたまれたブランケット。ローテーブルにはティッシュケース、テレビやエアコンのリモコンたち。さらに充電ケーブルが束ねられずくしゃっとなったまま置かれている。
「猿渡、夕飯済ませた?」
 しげしげと部屋を眺めていたら、犬飼が冷蔵庫を開けながら尋ねてくる。
「えっ、ううん、まだ」
 何しろ緊急事態だったから、夕飯のことなんてすっかり頭から抜けていた。言われて途端に空腹を自覚する。
「じゃあ、まずはご飯だな。今作るよ」
 話しながら犬飼は冷蔵庫からてきぱきと食材を取り出す。
「えっ!? いいの?」
「なんか苦手なものとかある? まあ、簡単なものしかできないけど」
「特にない、けど。でも、迷惑じゃない?」
 突然押しかけてご飯(しかも手作り!)をご馳走になるなんて、あり得ない!
「ごめん、私手土産のひとつもないし、駅のあたりで何か買ってくればよかった!」
 慌てる私に犬飼はふっと「いいよ」と微笑んで続ける。
「別に、ひとり分もふたり分も手間は同じだから。でも俺の料理だからな。そんな期待するなよ」
 聞きなれない「俺」という一人称に、ドキッとする。
「犬飼って、俺、とか言うんだ」
 いつも聞くのは柔らかい「僕」だったから、ちょっと意外。でも、似合わないってわけじゃない。
「今はプライベートだからね 多少緩め」
「緩めって、じゃあ会社では意識してびしっとしてるんだ。二十四時間あんな感じかと思ってた!」
「いや、猿渡の中での俺はどんな超人だよ」
「超人って、そういうのスパダリって言うんだよ。スーパーダーリン。仕事もばっちり、家もこんなおしゃれ、それで料理まで出来るなんて、さっすが!」
 犬飼は仕事だけじゃなくて、家事も要領よくぜーんぶ出来ちゃう感じあるよね。いかにも過ぎて笑っちゃう。
「いや、ひとり暮らしで料理できないと逆に悲惨だろ」
「だって犬飼なら作ってくれる人いたんじゃないの?」
「いない」
「えっ?」
「そんな人、ひとりもいないよ」
 でも、思いのほか強く言い返されて、会話が途切れる。
「あ、そ、そっか」
 急に居たたまれない心地になって、私はため息を飲み込みながら目の前のダイニングチェアに腰を下ろした。
 ダイニングテーブルの上には、無造作にダイレクトメールや封書が積まれている。それをぼんやり見ながら、私は自己嫌悪に陥っていた。
 だって今のやりとり、すごいセクハラっぽかった。
 これまでこんな話、犬飼に直接したことなんてないのに。雉野さんとネタにすることはあっても(いやそれも結構アウトだけど)本人に言っちゃ駄目だとわかっていたのに。
 そもそも先週飲んだ時に彼女はいないって犬飼からちゃんと聞いてたのに。
「……浮かれすぎ」
 小さく呟いて、自分を戒める。そうだ、私は浮かれていたんだ。
 素面で犬飼のテリトリーに入って、ご飯作ってもらえるなんて、あり得ないことが目の前で起きて……浮かれすぎて、不安になってしまった。
 本人の口から、誰かほかの人がいると言ってもらいたかった。
 じゃなければ、期待してしまいそうだった。行きつけのバーや家に連れて来てくれるのは、特別な意味があるんじゃないかって……。
「……何考えてるの、私」
 そもそも今、迷惑かけに来たようなものなのに。私は犬飼にこれ以上何を求めているのだろう。
 妄想のし過ぎで、おかしくなってしまったのかもしれない。
 ぎゅっと腿の上で手を握りしめた、その時。
「はい」
 ざっと雑に紙の束がよけられて、テーブルに軽い音を立てて皿とピッチャーが載せられる。
「それ、先食べてて。飲み物これしかないけど」
 皿に盛られていたのはトマトのカプレーゼだ。水で満たされたピッチャーの中には薄切りのレモンが浮いている。よく冷えているのだろう、ピッチャーは薄く汗をかいていた。追加、と伸びてきた手がその横にグラスをふたつ置く。
「えっ、い、いつの間に!?」
「切ってオリーブオイルかけただけだぞ。あと塩焼きそばな。すぐできるから」
 私が呆然と見守っている間に、犬飼はさっともやしを洗い、ねぎを刻み、シーフードミックスと共に炒め始める。その様子は手慣れていて、日ごろから料理をしていることは一目瞭然だった。
 そして言った通りあっという間に塩焼きそばも出来上がる。
 ごま油の匂いが食欲をそそる焼きそばとカプレーゼが目の前に並べられると、現金なお腹がぐうと鳴った。
「ほら、食べよ」
 書類の確認しに来ただけなのに、なんで私は犬飼と向かい合ってご飯を食べてるんだろう。しかも彼お手製。状況が全然わからない。 
 でも首をひねっていたのは食べるまでだった。
「えっ、なにこの焼きそばすっごく美味しい!」
「お腹空いてたらなんでも美味いだろ」
「そんなことないって! 満腹でもこれなら食べちゃうよ!」
 お世辞でもなんでもなく、焼きそばは美味しかった。ちょっとショウガが効いててピリッとしているのがいい。濃いめの味付けだけど、それがばっちり決まってる。
 カプレーゼだって切っただけ、なんて言ってたけどこっちもすごく美味しい。驚くべきことにバジルまであしらわれている。しかも生バジルだ。
「適当メシで悪い」
「ううん、全然! 人に作ってもらったご飯なんて、お正月に帰省した時以来だよ。すごい美味しい!」
「御馳走するならもっと定食みたいなの出せればよかったんだけどね。ひとり暮らしだと麺ばっかになるんだよな」
「わかる。意外とお米って余るよね」
 一日分と考えると、私には一合はやや足りなくて二合だとちょっと多い。少しずつ残るご飯が面倒で、つい食べきれる量だけ調理できるパスタやうどんなんかの麺に手が伸びてしまう。
 私よりも食べる量が多いであろう犬飼も同意するように数度頷く。
「余った分は冷凍すればいいって言うけど、いっつも半端な量になるし、やっぱ食べるなら炊き立て食べたいしな」
「だよね。お弁当とか作れば余らないし節約にもなるんだろうけど、そこまではなかなか手が回らないしね」
「あと三食自分のメシは、正直飽きる。そんなレパートリー無いからさ」
「わかるー! やっぱひとりだと自分の好きな味付けばっか作っちゃうもん」
 いつも同じ味付けだと失敗は無いけど発見もない。そして、好きなものでも続くと飽きてくるものだ。
「自分の作ったもの美味いって食べてくれる人がいたら、飽きないのかもな」
「へっ?」
 不意に犬飼が真っすぐ私を見る。視線がずどんとぶつかって、心臓がぎゅっと掴まれたような気がした。
「この焼きそば、よく作るんだよ。でも今日は特別美味しく感じる。きっと、猿渡のおかげだな」
 そう言うと犬飼は破顔した。穏やかに口の端を引き上げるのではなく、頬がきゅっと高くなって目の端に少しだけ皺が寄る、会社じゃ見たことのない顔。
「えっ、やっ、そんな……」
 急に、鼓動が速まる。
 さっきまでは他愛もないやりとりができていたのに、もう、できない。
 狼狽えたせいで手に何かが当たり、ばらばらっと音を立てて床に散らばる。どうやら先ほど犬飼がテーブルの端に寄せた紙束を落としてしまったらしい。
 それだけ、至近距離で喰らった笑顔の破壊力が凄まじすぎた。
「あっ、ごめん!」
 慌てて落ちたダイレクトメールや封書を拾う。
「え?」
 けれどその中に、見覚えのある封書が一通あった。差出人は、区役所市民課。私が今日、受け取ったものとまるきり同じだ。
「ねえっ、なんでこれ犬飼も持ってるの!? 私のとこにも来てるんだけどっ! ていうかこの話をしに来たんだけどっ!」
「あー、それ?」
 私が拾い上げた封筒を犬飼はさっと取り上げると、中身を出した。どうやらすでに封を切って確認していたらしい。
 犬飼はぺらり、と折りたたまれた紙を開いて私に掲げてみせる。
 そこに記載されていたのは「犬飼彰志」と「猿渡くるみ」の名前で。
「えっ」
「どうやら俺たち、結婚したみたいだな」
 犬飼はまるで天気の話をするみたいに、何てことはない風に言った。
「……は?」
 あまりにもさり気なさすぎて、一瞬何を言われているのかわからなかった。でもすぐに我に返る。
「いやいや、えっ!? 嘘でしょ!?」
「残念ながら、嘘じゃなさそうだ。ほらここ」
 とん、と届け出日付を指で示される。
「飲みに行った日だろ?」
「えっ、違うよ? これ土曜日だよね」
 記されているのは一週間前、ふたりで飲んだ金曜日ではなく土曜日の日付だ。
「多分、出した時には日付変わってたんだと思う。時間外に提出したからこうして通知が来たっぽい。婚姻届の受け付けは二十四時間だからね」
 どうやら時間内に提出すると、わざわざ確認の通知は来ないらしい。
「じゃあ、本当に……」
 私と犬飼は結婚してしまった、ということ? あまりの衝撃に思考が停止する。
「猿渡はどこまで覚えてる? あの日のこと」
「……えっと、バーでお酒飲むところ、まで」
「それはもうほとんど覚えてないってことだな」
「……ごめん」
「あの日、だいぶ飲んでたからな……多分酔った勢いで婚姻届を出した、というのが可能性として一番高いと思う」
「いやそれ一番ないでしょ!」
「しかし現実にこうして通知が来てるじゃないか」
「で、でも私の通知、犬飼じゃなかったよ?」
 慌てて私も自分のバッグから通知を取り出し犬飼に突き付ける。
 そこに私の名前と並んで記載されている名前は「犬飼彰志」ではなく「犬飼彰士」だ。
 けれど犬飼は私の通知をひょいと取り上げ確認すると「あー、これ間違いだな」と簡単に言った。
「ほら『志』と『士』って漢字似てるじゃないか。この手のミスはよくあるだろ? 俺の親戚も同じように間違われてひと悶着あった」
「で、でも公式の文書でしょ?」
「ただの通知だよ。それより俺、さっき確認したし」
 犬飼はズボンのポケットを探ると、今私がしたように折りたたまれた紙を広げてみせる。
「ん?」
 個人事項証明と記載された書類には、犬飼の名前と本籍地。とりあえずそのまま記載事項を確認していくと、「婚姻」の欄に先ほど見た届け出日付。
 そして、配偶者氏名の欄には――私の名前がばっちり印字されている。
「なに、これ」
「さっきコンビニでとった戸籍抄本。俺たち、間違いなく結婚してる」
「いやいやいやそういうことじゃなくて! ていうか確認とか以前に撤回しないと! なんかこう、訂正とかできるよね!?」
「無理だ」
「えーーーー!!」
 思わず叫んでしまった私に、あっさりと首を振る。
「戸籍の変更が簡単に撤回できたら意味ないだろう。だから不受理届とか間違いを防ぐための制度があるわけだし」
「そ、そんなの知らないよ!」
 結婚なんて考えたことが無かったし、間違いを防ぐ制度なんてあることすら知らなかった。でも、私が知らなかっただけで、もしかしてこれって一般常識!?
 だって目の前の犬飼は平然とした顔で言う。
「俺たちの場合、本人が望んで出してるって判断されるだろうから……多分無理じゃないかな」
「そんな!? どうしたらいいの!?」
 パニック状態の私に、犬飼はわざとらしく首をかしげてみせた。
「どうもこうも、このまんまでいいんじゃない?」
「は? このまんまって……」
「せっかく結婚したんだし。このまま夫婦でやっていこうってこと」
「はぁっ!? そんなわけにいかないでしょ!?」
「一番手っ取り早い撤回は離婚届出すことになるけど、猿渡は戸籍にバツをつけたい?」
「そ、そういうわけじゃないけど、結婚だよ? 勢いでするものじゃないし」
「いや、勢いって案外大事だろ」
 私の言葉尻ばかり拾う犬飼の応えに、思わず頭を抱えてしまいそうになる。
「ち、ちょっと待って。だって私だよ? あり得なくない?」
「逆に猿渡から見て、俺はあり得ないわけ?」
 あり得ないどころか、入社前からずっと好きでしたよ! でもそんなこと、本人を目の前にして言えるわけもない!
「そ、そういうことは言ってないでしょ! ただ、常識的に考えてって話」
「この際常識的とかどうでもいいよ」
「結婚だよ!? どうでもいいって……」
 そこで犬飼は箸を置くと、食べかけのお皿を脇によけてずい、と私の方に身を乗り出してきた。
「とりあえず、試しに夫婦やってみるのはどう?」
「だからそういうことじゃないって」
 思わず逃げるように身を引いた私に、犬飼はふう、と大きなため息をつく。
「さっきから猿渡はずっと『そういうことじゃない』って言ってるけど、なら猿渡的には今回の件をどうしたいわけ?」
 改めて問われ、答えられなかった。
 だって明確な答えがあるわけじゃない。
 これまでの拙い恋愛の中で、結婚なんて意識したことなかった。どうしたいのかなんて、わかるわけがない。
「……俺と結婚するの、嫌か?」
 真っすぐ眼を見て質問を重ねられ、今度こそ逃げられないとわかった。だってあの、罪悪感をめちゃくちゃ煽ってくるあの悲し気な表情なんだもん!
「嫌、では、ないよ」
 私が言葉を絞り出すと、「じゃあ」と犬飼が畳みかけてこようとするのを慌てて制した。
「……ただ、混乱、してる。わかんない」
「なら余計に試してみるべきなんじゃないか? 頭で考えてるだけで全部わかった気になるのは間違いに繋がる」
「でも、試すって……」
 夫婦のお試しって、全く想像がつかない。
「なあ猿渡。俺のこと嫌でも嫌いでもないよな? だってあの日、俺たち……」
「待って待って待って! 犬飼覚えてたの!?」
「状況的に考えたらわかるだろ?」
「でも私、本当に覚えてないから!」
「猿渡」
 思わず身体の前でぶんぶんと振った手が、掴まれる。はっと思った時には、身を乗り出した犬飼の顔が目の前にあった。
「俺もちゃんと覚えてない。……だから、確認しよう。どうして俺たちが、夫婦になったのか」
 確認したら、どうなるの?
 そんな私の疑問は犬飼の唇に吸い取られてしまった。