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本日より、モテ同僚の妻になりました。 策士なスパダリの愛は止まらない! 1

第一話

「ん……?」
 目に飛び込んできた見知らぬ光景に、私、猿渡(さわたり)くるみは目を瞬かせた。
「ここ、どこ……?」
 天井が高いとまず思った。
 高い位置から落ちている深い藍色のカーテンの覆う範囲を見るに窓も大きい。シックなグレーの壁には、古いモノクロの風景写真が飾られ、まるでホテルの一室のようにしゃれた空間を形作っている。
 それに肌に触れる感触が、いつもと違う。なによりも、背中が温かい。いや、身体全てが温もりで包まれていて、離れがたい。
 しかしふと、つるりとして冷たいなめらかなこの感触が身体の下に敷かれたシーツだと気づいた瞬間、叩かれたみたいに頭が覚醒した。
 ……シーツ? 
 なんで、身体にシーツが直に触れているの!? いつも私は寝るときに着るのはくったくたになるまで育てたガーゼのパジャマと決めている。どんなに暑くたって裸で寝たことなんてない!
 ていうか、このシーツの感触なに? うちのベッドのシーツは真冬以外は白のパイル地一択。こんなつるつるしてない! あとこれ何色? ブルーグレー? なんでシーツに色ついてるの? そもそもこの身体を包んでいるこの温もりは!?
「……これは……」
 見知らぬ部屋、馴染みのないベッド、そして覚えのない温もりときたらもう疑う余地はない。
 ――私、やっちまったのでは!?
 まさかの、ワンナイトラブとやらを!!
 待って、人生で一番のやらかしじゃない!? 
 私は思わずこれまでの人生を思い出す。
 うーん、幼稚園の時、サンタさんがくれたおもちゃを一日で壊してしまったことの方が辛かったかな。いやいや、小学校の時、ベッドから落ちて骨折したことの方が痛かった。でも一番ダメージを喰らったと言えば大学受験の時、受験票を忘れたことの方が……って、今そんなことを呑気に考えている場合じゃなくて!
 ……相手、誰?
 見知らぬ相手なのか、はたまた見知った相手なのか。心当たりが全然なさすぎて、怖くて後ろを振り返れない。
「待って、昨日は……」
 そう、昨日は勤め先の飲み会で、二次会で部署のプロジェクトメンバーとたらふく飲んで騒いで……そこまでは覚えている。でも肝心なその後、この謎のおしゃれ空間に辿り着くまでの記憶がスポーンと抜けている!
 酒は飲んでも飲まれるな。先人たちの教訓は思い出せるのに!
 ……どうしよう。どうしたら、いいの?
 ワンナイトの後、朝のお作法なんて皆目見当もつかない!!
「んうぅ……」
 そんな私の気持ちを知ってか知らずか、小さなうめきのような声と共に、背後にいる誰かが身動ぎした。
 その拍子に目の前へ腕が下りてくる。たくましい、男性の右手。もちろん、何も身に着けていない。
「……っ!?」
 その手首に並んだ特徴的なみっつのほくろを見て、私は息を呑んだ。
「うそ、でしょ……」
 だってそのほくろに、見覚えがありすぎたから。
 この推理が間違ってなければ、私をくるむように抱いているその男の名は、犬飼彰志(いぬかいしょうじ)。
 昨日一緒に飲んでいた、会社の同期だ。
 もちろん、いかがわしい関係では全くない。清らかクリーンなただの同僚だ。
 そんな相手と、裸(推定)でベッドにイン。
「いやいやいや」
 あり得ない。いや、ワンチャン、裸になっただけって可能性も……なんて思いたくても、身体の状態がどう考えても事後です。
 だってなんか腰だるいし、股関節違和感あるし! 
 何より私パンツはいてないし!!
「……ま、まずは確認」
 驚きのあまりその場でのたうち回りそうになる自分を奮い立たせる。
 さすがにこのままはダメだ。
 拘束されているわけじゃない。そっと目の前の腕をよけて、私は犬飼(推定)の懐から抜け出した。温もりから離れたせいか、部屋の空気がひやりと肌を撫でる。やっぱり素っ裸だった(わかってた!)。
 そして恐る恐る振り返れば。
「ひぃっ!」
 驚きすぎて喉から変な音が出た。
 やはり私を抱きしめていたのは、犬飼だった(確定)。
 犬飼は、綺麗な男だ。凛々しい眉とすっと伸びた鼻が形作る、整った甘い顔立ちはそこいらのアイドルなんか蹴散らすくらい格好がいい。
 けれど目を閉じていると二十六という実年齢よりも少し幼く見えた。
 いつもはさっぱりとわけている前髪が乱れて額を隠しているせいもあるかもしれない。伏せられたまつげが女の私よりずっと長い。
 ふっくらした唇が少しだけ開いて息を吐き出している様は、びっくりするくらい魅力的だった。
「んん……」
 思わず見惚れそうになったその時、まるで何かを探すように、犬飼の手がシーツを探った。やばい、起きちゃうかも!
 慌てて空いたスペースに転げ落ちていた枕を押し込む。すると犬飼は満足したのかぎゅっと枕を抱きしめ、また寝息を立て始めた。
「……ふぅ」
 私は額に滲んだ汗をぬぐい、すばやく現状確認に戻った。
 とにかく服を着なければ!
 わたわたと周囲を見回すと脱ぎ捨てられた服が床に点々と散らばっている。
「うっわ……」
 ……我ながら引く。下着ポイ捨てダメ絶対。
 いや、いかにずぼらな私だって、普段だったら服を床に脱ぎ散らかすなんて余程じゃなきゃしない。
 いつまでもここに居てはまずいだろう。いや、本人がだめって言ったわけじゃないけど、私がいたくない。
 混ざり合った衣服の中から自分のを探して身に着ける。手が震えてブラウスの小さなボタンが留めづらい。
 それにしたって、なにがどうして私が犬飼とこんなことになってるわけ?
 昨日は飲み会。そこから導き出される解は……!?
「いや酒でしょ」
 ふたりとも酒にやられた。
 それ以外考えられない。
 だって別に、犬飼は私のことなんて好きじゃないもの。
「……うっ」
 自分で思って自分で傷つく。
 なぜなら私は入社して以来……いや、入社する前からずっと、犬飼に恋をしているから。
 もちろん、叶う見込みなどない、完全無欠な私の片想い。
 ちらりと犬飼を見る。彼は無防備に気持ちよさそうに眠ったまま。
 こんな姿を見るの、初めてだ。
 というか、寝顔なんてただの同僚なら絶対に見られないスペシャルオフショット!
 出来ることならずっと見ていたい。いや、撮影して永久保存版にしたい! ……でも、そんなことしたら盗撮である。犯罪、ダメ、絶対。
 犬飼が目覚めて私を見た時、どんな反応をするのだろう。
 きっと、驚く。
 ただ、彼の綺麗な眼が見開かれるだけならいい。
 もしも……「こいつとやらかした」なんて、一瞬でも思われたら。……私はきっと立ち直れない。
 今せっかくほどよい距離感で同僚としてうまくやっていけているのに、台無しにしたくない。
 何より私と関係を持ったことが、犬飼にとってマイナスになってしまったら。
 想像しただけで、怖くなる。
 私は最低限の身支度を整えると、逃げるようにして犬飼の眠る部屋を出た。
 幸いなことに私がそこを出るまで、犬飼はぐっすり眠ったままだった。

 昨日は、私と犬飼の勤め先である大手総合商社角高(かくたか)第一食料本部の決起会だった。
「今後も生産者と消費者が価値を共有できる動きを広げていくようなプロジェクトが増えることを期待しています。社員それぞれの強みを生かし、新たな試みへの挑戦していきましょう。このキックオフが今期の始まりをしっかりと後押しできるような有意義なひと時にしたいと思っています。ぜひ、気軽に声をかけてください」
 金屏風を背にした社長の挨拶が終わると、歓声と拍手が巻き起こる。
 昨年新たに就任した社長は、数代ぶりに創業家の出身だった。五十代半ばだというのに、その整った顔立ちと華々しい経歴が経済紙を賑わせたことは記憶に新しい。
 入社して三年になるけれど、社長自ら足を運んでくれたのは今回が初めてだ。これも人身掌握術のひとつなのだろう。
 角高は総合の名がつく通り、幅広い商品・サービスを取り扱っており、仕事内容は多岐に渡る。その分従業員数も多いため、同じ事業部に所属していても取り扱う商品が違えば普段は全く交流もない。
 飲み会があっても、せいぜい同じプロジェクトメンバーや近しい者同士程度の規模だ。
 けれどこの半期の始まりに行われる決起会だけは別で、事業部ごとにホテルの宴会場を貸し切って盛大にキックオフするのが慣習になっていた。
 会社主催の宴席なんて時代にそぐわないと言う人もいる。しかし多くの社員にとって、雲の上のような取締役や、いつもはすれ違うだけの他部署の人と話せるいい機会であることもまた事実だった。
「犬飼さん、あのコンビニチェーンの話聞きましたよ」
「すごいよね! 企画立案から契約までひとりでやったんだって?」
「いえ、僕はただ、企画から関わらせてもらっただけですから」
「謙遜しないで詳しく教えてよ!」
 ひと通りの挨拶と乾杯が終わって、歓談が始まるなり人垣ができた。社長や他の取締役以外でその中心にいるのは、犬飼だった。
 さすが第一食料本部で、誰もが一度は話したいと思う社員ナンバーワン!
「すごいなぁ……」
 皆に囲まれる犬飼を私は少し離れた場所から眺めていた。正直、こんなに人の中心にいるのが似合う男を、私は彼以外に知らない。
 犬飼はその甘く整った顔立ちと、一八〇センチと恵まれた体格だけでも十分衆目を集める男である。
 けれど人が彼の元に集まるのは、外見だけでなく中身も大きいと私は思う。なにしろ彼はとんでもないひとたらしなのだ。
 まず人の顔を驚くほど覚えていて、挨拶を欠かさない。
 物腰は柔らかく話し方は穏やかで気配り上手。いつも笑顔でフォローしてくれる。
 不機嫌だったり疲れた顔を人に見せたことなんてない。
 さらに要領もよくて仕事もめちゃくちゃできる。
 ――およそ欠点が見つからない男。それが犬飼彰志という人間だった。
「まあそりゃあんな大きな取引まとめたら誰だってちょっと話聞きたいよね」
 もしも私が他部署の人間なら、みんなと同じように突撃していたかもしれない。
 私と犬飼は第一食料本部にある、コーヒー事業部に所属している。
 角高における飲料の主力商品といえば、コーヒー豆だ。取扱量は国内トップを誇り、世界最大級のインスタントコーヒー製造・販売会社を子会社として有し、日本向けのみならず世界へ向けた販売を行っている。
 上半期、犬飼はコーヒー事業部にとってひとつ大きな契約をまとめた。
 大手コンビニチェーンが新たに展開するカウンターコーヒー。そのラインナップのひとつとして犬飼が提案したフェアトレードコーヒーが採用されたのだ。
 昨今、サステナブルな観点から嗜好品を楽しむ人が増えている。その結果、生産者や環境に配慮したコーヒーが求められることが多くなった。
 わざわざフェアトレード、「公正な取引」という名称がつけられるのは、コーヒー豆は生産国と消費国の間で公正な取引が行われているとは言い難い現状から。
 コーヒー豆の生産国はその多くが発展途上国で、欧米や日本などの先進国に輸入される。そのためどうしても生産側の立場が弱くなってしまっていた。
 フェアトレードコーヒーは、生産国から遠く離れた先進国の国際市場で値段を決めるのではなく、継続して適正な価格で取引を行い、生産者の生活水準や地位を向上させるための取り組みだ。
 もちろんこれまで流通しているコーヒーに比べれば割高になる。けれどそれを販売することはブランドイメージの向上に繋がり、顧客に新たな選択肢を示すことができる、というわけだ。
 入社して三年しか経ってない人間が出来る契約とはとても思えない。
「はーすご」
 私はどこか清々しい気持ちで人垣の中の犬飼を眺めた。
 そんな完璧な男の同期として入社して、三年。
 片や、大きなプロジェクトの中心で手腕を発揮し、片や私は、ようやくアシスタントから抜け出せたばかり。
 同じ部署の同期だというのに私と犬飼との差は開く一方だ。
 きっと犬飼のような人間が、会社の中枢へと進んでいくのだろう。
 あまりにも実力の差がはっきりとしすぎていて、嫉妬すら湧いてこない。
 もちろん私だって私なりに頑張ってはいる。
 食べることが好きだから、食品の流通に関わりたいってこの会社に入って、念願かなって食料事業部に配属になって、一生懸命やってきた。客観的に見て、年齢なりのキャリアは積めていると思う。
 でも犬飼は「特別な人」だ。
 たとえばマラソンでも、トップランナーと完走御の字の記念出場じゃ、同じコースを走っていても意味が違う。覚悟も違う。そのくらい、差がある。
 だからむしろ同期として「いけるとこまでいってくれ!」みたいな応援する気持ちの方が強かった。
 彼が笑っているのを見ると、胸がふわっと温かくなる。
 やっぱり好きな人が笑っていてくれると、嬉しくて、幸せな気持ちになるよね。
「さーて、食べるぞぅ」
 決起会は会社主催だからフードメニューが結構充実している。ホテルのご飯を思う存分楽しむせっかくの機会だ。ニコニコ顔の犬飼見ながらたくさん食べて帰ろう……なんて、気分良く思ってたのに。
「また犬飼の奴にやられたな」
「あいつ出来過ぎだろ。腹立つわ」
「あの面だからなぁ。悪いことでもしてんじゃねぇの?」
 背後からハハハ、と下卑た笑いが聞こえる。思いのほか近くから犬飼をやっかむ男性社員たちの声が聞こえてきて、一気にご馳走がまずくなる。
 しかも見知らぬ人ではなく、どこの誰とわかる相手だから、なおさら。あれは隣の部署である第二食料本部の人たちだ。
「……最悪」
 目の前に綺羅星の如く輝く相手がいると、自分の出来なさ加減ばかりが見えて、落ち込んでしまうこともあるだろう。
 うまくいってる人間に文句を言いたくなる気持ちもあるだろう。
 ……でも、本人の見える場で言うのは、いくらなんでもひどすぎる。
 私はさり気なくその人たちから離れる。正直、同じ部署で同期ってだけでこの手の悪口に巻き込まれてしまうことが、これまで何度もあったからだ。
 不思議なことにこの手の文句を言う人は、みんな自分と同じように不満を抱いていると思い込んでいる。自分がすべてなのだ。
 真面目に彼を見ていれば、自分と比べても仕方ないと誰だってわかるのに。
 だって犬飼は小手先だけで仕事しているわけではない。努力していることは、近くにいればいるほど知っている。だから同じ部署の人たちはあんなこと言わない。もしも思っていたとしても、他人の耳がある場所でわざわざ口にしない。
「なんなのよ、あいつら」
 なんだか腹が立ってきて、私は料理を次々口に放り込む。
「……っと、いけないいけない」
 ちゃんと味わって食べなきゃ。
 だってせっかく会社のお金で食べられる絶品中華なのに、あんな奴らのせいで美味しく食べられないなんてもったいなさすぎる。
 うん、この麻婆豆腐、花山椒が効いてて美味しい。春巻きはやっぱり鉄板の味だよね。よだれ鶏はさっぱりしてて食べやすいなぁ。壺焼きチャーシューもジューシーでイイ感じ……。
「くるみちゃーん!」
「ふぁいっ」
 雑念を振り払うように噛みしめて食べている私に声をかけてきたのは、栗色のショートボフに大ぶりのピアスが印象的な雉野(きじの)さんだった。
 雉野さんは私の新入社員の時のトレーナーで、現在進行形でお世話になっている六つ上の先輩だ。つい突っ走りがちな私を戒めてくれるいい人である。
「がっつきすぎ~。なんかリスみたいになってるよ」
「んっ、半期に一度のホテルご飯なんで、欲張りすぎちゃいました。ただ飯最高です」
 すると雉野さんはやれやれとばかりに肩をすくめてみせた。
「くるみちゃんが食に走るとき~、それはなんか腹立つことがあったとき~!」
「うっ」
 歌うように言われて私が思わず返答に詰まると、雉野さんはにこっと笑う。
「まーたどこぞの誰かの遠吠え聞こえちゃったんでしょ? こういうとこだとよく響くよね~」
 私がわかりやすいのか、雉野さんが鋭いのか、先輩にはいつも気持ちを見透かされてしまう。そして明るく嫌な気分を軽くしてくれるのだ。
「ほんと、優しいですよね、雉野さん」
「私にそんなこというのくるみちゃんだけだよ~! ありがとっ!」
 雉野さんはお礼を言ってくれたけれど、私からすると「負け犬」をあえて口にしないのは優しさだと思う。実際、文句言ってた人たちのいい話は最近聞こえてこない。
「それにしたって今回も犬飼君大人気ね~」
「まあ仕方ないですよ。あんな大仕事成し遂げちゃいましたし」
「企画立案から現地の交渉まで全部やられちゃったらねぇ。先輩として立つ瀬がないわ」
「いや、私バケモノなんじゃないって思ってます」
 真顔で言った私に雉野さんは「バケモノって!」と笑ったけれど、実際やってることはそのくらい凄いのである。
 プロジェクトとして動いていたのだから、もちろん全て彼個人で成し遂げたわけではない。けれど彼が最大の功労者であることは誰もが認めるところだ。
「あの調子じゃ早々に経営企画室あたりに引き抜かれちゃうかもね~!」
 現場である程度実績を上げたのち、経営に関わる部署に異動するのは、角高のわかりやすい出世コースだ。
「そうなったら困っちゃいますよー。部署目標達成が一気に怪しくなりますもん」
「目の保養もなくなっちゃうしね」
「えっ、それは別に」
「でも熱い視線送ってたじゃ~ん」
 人に囲まれた犬飼を指さしながら雉野さんは言う。さり気なく見ていたつもりだったのに傍から見ると違ったらしい。
「い、いやぁ、みんな果敢に突撃してるなーって」
 いつしか犬飼を囲んでいる人のほとんどは女性ばかりになっていた。これもいつものことだ。私がやんわり誤魔化すと雉野さんは「はいはい」と小さく頷く。
「で、くるみちゃんは参戦しないの?」
「しませんよ。犬飼相手にそんな気持ちになりませんって」
 あの見た目にあの優秀さだ。当然入社以来犬飼ははちゃめちゃにモテている。
 けれど社内で誰かと付き合ったという話は伝わってこない。
「えー本当に?」
「じゃあ雉野さん、犬飼の隣空いてたら行きます?」
「行かないわね~。あんなお肌艶々してる男の隣なんて絶対ヤダ」
「私も同じくです」
「そんなことないって~! くるみちゃん可愛いからいけるって~!」
 犬飼のような完璧な男性のお相手は、同じように完璧な女性でなければ務まらないだろう。私みたいなごくごく普通な女じゃそもそもスタートラインにも立てない。実際、犬飼を囲んでいる女性社員たちはみな、綺麗で優秀な人ばかりだ。
 別に私だって、ふた目とみられぬ容姿というわけじゃない、とは思う。
 ちょっとタレ目が気になるけど、可愛いって言ってもらえることもあるし。……ただし、言ってくれるのは雉野さんみたいに年上の女性ばっかりだけど。
 そんな私がみんなの憧れの人にアタックなんておこがましいにもほどがある。
「ていうか、そもそも社内恋愛する気ないみたいですよ、犬飼」
 男だけの席で恋愛の話になった時、「同じ会社はちょっと」と漏らしていたと聞いている。
「へぇ、入れ食い状態なのにね」
 雉野さんはふふっと不敵な笑みを浮かべて続ける。
「そんなこと言って五股くらいしてたりして!」
 あのルックスと要領の良さ、さらにそこへ分け隔てのない優しさが加わればそのくらいやってのけそうでは、ある。でもそれは、できるかできないかで言えば前者だというだけ。
「雉野さん。そもそも犬飼はそんな不誠実なことしないと思います」
 真面目で、誰に対しても誠実な対応をする彼が、複数の女性とお付き合いなどするとはとても思えない。
「五股どころか、すでに社内でハーレム築き上げちゃってたりして~!」
「ハーレムって、どこの石油王ですか! ……まあ、ファンクラブはありそうですけどね」
 これまで私に探りを入れてきたり、話を聞きたいと寄ってきた女性たちを思い出す。三年で軽く両手足は超えている。
「おっ、何かいい情報持ってるんじゃないの? くるみちゃーん」
 雉野さんの眼がきらりと光る。結構ゴシップ好きなんだよね、雉野さん。
「まあ同じ部署の同期ってだけで色々聞かれることありますけど」
 私は割と人から話しかけやすく見えるらしく、みな気軽に犬飼のことを尋ねてくるのだ。女性からすれば男性より同性の方が尋ねやすいのはわかる。
「付き合ってる人いるの? ならかわいいもんで、連絡先教えてくれっていうのが一番多いですね」
 同じプロジェクトのメンバーなので、一応個人の連絡先は交換してある。でも、それはあくまで仕事で必要だから得たものだ。
「ふーん、教えたの?」
「帝国(ていこく)ホテルのアフタヌーンティーには心惹かれましたけど、個人情報ですから」
「偉いじゃん。私なら教えちゃうかも~」
「ちなみにすでにそれやって同期会出禁になった人いますよ」
 普段他部署との横断的な交流が難しい分、同期の繋がりは社内の情報を得る貴重な縁だ。そのため、ルール違反をして同期会から締め出されるのはかなりの痛手である。アフタヌーンティー一回ではとても釣り合わない。
「うっわ~、浅はか!」
「ですよねぇ」
「おう、雉野! お疲れ!」
 気づいたら近づいてきていた男性社員数人が声をかけて来る。
「……っ!?」
「猿渡さんも、お疲れさま」
「お、お疲れさまです……」
 応えた声が尻すぼみになってしまったのは、彼らが先ほど犬飼の悪口を言っていた第二食料本部の人たちだったからだ。こっそり移動したおかげで、私に聞かれていたなんて気づいていないのだろう。
「第一は相変わらず犬飼君絶好調だなぁ」
「ホント、犬飼様々よ」
「今からでもうちに来る気ないかな、彼」
「だめに決まってるでしょ~」
「だよなぁ、ハハハ」
 さっきは悪口を言っていたくせに、調子よく話す彼らにため息をついてしまいそうになる。まあ、こっちもたまたま聞こえただけだし、誰だって本音と建前ってものがあるし。
 でも犬飼の悪口言ってたくせに雉野さんには調子のいいことを言う人を、私個人が嫌だと思うのは自由なわけで。
 話をしたくなくて、春巻きを噛り付く。雉野さんには申し訳ないけど、食べることに夢中ですアピールさせてもらおう。
「猿渡さんは犬飼のとこ行かないの?」
 けれどそんなアピールは通じなかったらしい。
 沢渡(さわたり)という先輩社員がニコニコ笑いながら話しかけてきた。
 確か、私よりふたつ年上。昔アメフトをやっていたとかで、すごく体格がいい。でも整った男らしい風貌とは裏腹に行動も発言も軽くて、女性の噂が絶えない。正直ちょっと苦手なタイプだ。
「わざわざここで話すようなことはないですし」
 なんかみんな同じこと質問してくるなぁ。別にわざわざ決起会で話さなくても、犬飼とは会社でいくらでも話す機会はあるし。むしろ同じ部署の私が近づいたら睨まれちゃうよ。
「やっぱくるみちゃんが犬飼のこと興味ないってマジだったんだな」
「……んぐっ!?」
 唐突に下の名前を呼ばれて、春巻きが喉に詰まりそうになる(いきなり何!?)。
「ははっ、何してんの?」
 胸を叩く私を見て沢渡さんは面白そうに笑う。いや、こっちはそれどころじゃないんですけど!?
「……いえ、ちょっとびっくりしちゃって」
「俺と話すのってそんな緊張する? マジで?」
 なんとか春巻きをウーロン茶で流し込んだ私を沢渡さんはまだ笑っている。いや緊張はしてない。名前いきなり呼ばれて驚いただけです。
「えっと、私沢渡さんに下の名前お教えしましたっけ?」
 仕事で接点はゼロだし、正直顔とよくない噂くらいしか知らない人だ。それは向こうだって同じはず。興味を持たれる理由がよくわからない。
「くるみちゃん、前俺に書類届けてくれたでしょ」
「ああ」
 少し前に、沢渡さんが総務に申請した書類が間違って私の元に届いたことがあった。名字が似ていたから間違えたらしいのだけど、個人情報が含まれる書類だったから、普通ならあり得ないミスだ。
 ただ、私も確認せずに中身を見てしまったので、それを謝るために直接沢渡さんに届けたんだよね。彼との接点はそのくらいしかない。
「あの時飴つけてくれたじゃん。イチゴのすっげぇ可愛いやつ」
「はぁ」
 別に沢渡さんだからつけたわけじゃなくて、書類を渡す時にお菓子を添えるのは割と普通にしていることなんだけど。しかも元々は雉野さんがしてくれたことを真似しただけなんだけど。
「そのお礼ちゃんと言ってなかったと思って! くるみって名前可愛いし、こっちで呼ぶ方がいいだろ?」
「いえ、お礼は頂いてますし、名前は一応仕事の場ですから、ちょっと……」
 ちゃんと覚えていないけれど、ありがとうくらいは言われたと思うし、名前で呼ばれるのは全然よくない。ていうか、いきなり名前で呼ばれて正直困惑している。
「えー雉野はよくてなんで俺はダメなわけ?」
「それは……先輩ですし」
 雉野さんと沢渡さんじゃ付き合いの長さも深さも違う。親しみをこめて名を呼んでくれる良き先輩である雉野さんと目の前のこの人じゃ、比べる対象にすらならない。
「俺も先輩じゃん」
「でも、私沢渡さんのことあまり存じ上げませんし」
 すると沢渡さんは我が意を得たり、とばかりににやりと笑って言った。
「じゃ、もっとお互いのこと知るために、この後飲みに行こう!」
「えっと、みんなで……ですか?」
「なに言ってんの、ふたりでだよ」
「それはちょっと……」
「ああ、ここにいたか」
 強引な誘いに困っていると、突然犬飼がぬっと話に割り込んでくる。いつの間に!?
「噂をすると影ってやつだねぇ」
 割り込んできた犬飼を見て雉野さんが笑う。
「また僕の悪口言ってたんですか?」
「またって何よ。犬飼は今日もモテモテだねって話してただけ」
 ね、と雉野さんから話振られて、私は大きく頷いてみせる。
「モテモテって、そんなことはないですよ」
 犬飼はそう言うとわざとらしく肩をすくめてみせた。
「でも、あまりにも声をかけられすぎると少し困るかな」
「うわ、贅沢な悩み!」
「僕も話したい人いるからね」
 思わず感嘆の声を上げてしまった私に犬飼はその整った顔でにこりと笑う。途端にぱっとライトが当たったみたいに輝いて見えたのは私だけじゃないはずだ。
 自分の顔面がどれだけの威力を持っているのか、知っているからこその笑い方。くるとわかっていても思わずうっと唸ってしまう。
 顔面偏差値高すぎるのはある意味罪だね!
「雉野さん、この後リーダーがプロジェクトメンバーで二次会しようって言ってるんですけど、どうします?」
「いいね! くるみちゃんも行くでしょ~?」
 ちらり、と向けられた視線で雉野さんが助け舟を出してくれたことを察する。
「そうですね。みんなとパーっと行きたいです!」
「じゃあ決まり。猿渡、店決まったら連絡するから。現地集合で」
「了解」
 来た時と同じ唐突さで、犬飼はパッと身を翻し去っていく。それが妙に様になっているからすごい。
「あ、あっちにデザートある! くるみちゃん取りに行こ! じゃそういうことで~」
「は、はいっ。すみませんっ」
 頼もしい先輩に手を引かれ、沢渡さんたちから離れる。
「いやー犬飼君ナイスタイミングだったね!」
 声が届かなくなったところで、雉野さんが苦笑する。
「沢渡はな~。ちょっと面倒なやつに目をつけられちゃったかもねぇ、くるみちゃん」
「いや、気まぐれですよきっと」
 あの軽さと理由のこじつけからすると、顔を見たからとりあえず誘ってみたって感じだろう。決起会を合コンか何かと勘違いしてるに違いない。交流が目的だけどそういうのはよそでやってほしい。
「以前にも似たようなことありましたし」
 これまで決起会で他部署の男性社員から声をかけられたことは何度かある。
「えっ、そうなの!?」
「はい。でもその後改めて誘われたりとかないですよ。私ってお手軽に声かけるのにちょうどいいんでしょうね」
 他部署の人から声をかけてもらうのは、嬉しい。でも、一緒に働く仲間として話したいからではなくて、男女の出会いのひとつとして声をかけられるのは、なんとなく落ち込んでしまう。
 諸先輩方からすれば対等に仕事の話をする相手だと思われていないのだろう。
 入社以来ずっと頑張っているつもりだけど、ただの女の子扱いされるのは地味にしんどい。しかも誰もが真面目なお付き合いというよりは、目についたから声かけてみた、という感じなのでさらに辛い。
「そんなことはないよ~。ねえねえ、犬飼が話したい相手って誰だと思う~?」
 ため息をついていた私を雉野さんが肘でつついてくる。
「さあ? 誰でしょうね」
 少なくとも彼に群がる女性たちではないらしい。性格が悪いかもしれないけれど、それは少し、嬉しかった。

 気心の知れた相手とすごしていたら時間はあっという間だ。プロジェクトメンバーだけの二次会を終えると、すでに二十二時を過ぎていた。
「じゃ、今日は本当にお疲れ様でした! 今期も頑張りましょう!」
「お疲れ様でした!」
 店の前で解散すると、自然と使う路線が同じ者同士で連れだって駅に向かう感じになる。
「もう少し、飲んでいきませんか?」
 私と雉野さん、それと犬飼とリーダーの四人になったところで、珍しく犬飼が三次会を提案してきた。
「いや俺はちょっとやめとくわ。明日子供と朝から出かける約束してるから」
「うーん、私もちょっと眠くなってきたから帰りたいな~」
 家族のいるリーダーと疲れた雉野さんはここで切り上げたいようだ。
「そうですか。僕はもうちょっとだけ飲みたい気分だったんですが」
 ふたりに断られ、犬飼が至極残念そうに言った。
 途端にいつもの麗しい笑顔は、蓄音機で死んだご主人様の声を聴くたれ耳の犬のように変わる。
 犬飼が人を動かせるのは、その笑顔だけではない。むしろ今のように悲し気な落ち込んでいるような、そんな顔の方がやばい。
 この表情を前にすると誰もが犬飼の望みを叶えてあげなくては、という気分になってしまうのだ。すっごい罪悪感刺激してくるというか。
「うーん、くるみちゃんせっかくだしお付き合いしてあげたら~?」
 同じように罪悪感を抱いたのか雉野さんがそんなことを言いだした。
「まだ終電までは時間あるし。たまには同期同士で飲むのもいいんじゃない?」
「そうだな。プロジェクトが本格的に始まればふたりで協力して仕事してもらうことも増えるし、いい機会じゃないか」
「えっ、でも」
 これまで三年間、ずっとただの同僚であるために頑張ってきた。だからなるべく彼とは適切な距離を保ってきたつもりだ。
 それなのに急にふたりきりで飲みに行くって……いや別にやましい気持ちは全然ないけど、いやあるけど、戸惑うというか、どうしたらいいかわからないというか。
「猿渡がよければ、どうかな?」
「……少し、だけなら」
 悲し気に潤んだ眼差しを向けられると、私から断れるはずもなく。
 ……ふたりきりで飲みに行くことになってしまった。
「近くにいい店があるんだ」
 リーダーと雉野さんを見送り、犬飼が連れて来てくれたのは駅近くの路地にひっそりとあるバーだった。
 カウンターのみのこぢんまりとしたお店で、若い店主は犬飼を見るなりにこりと親し気に「いらっしゃいませ」と微笑んだ。どうやら一見ではないらしい。
「いつも来てるの?」
 カウンターに腰かけながら尋ねると、犬飼は笑顔で頷いた。
「ここ静かだし、美味しいお酒出してくれるから時々ね。……何飲む?」
 ちらりと辺りを見回しても、メニューのようなものは見当たらない。
「えっと……私あんまりこういう店に慣れてなくて。お勧めとかある?」
 どちらかというと私は飲むより食べる方が好きだ。友達も似たようなタイプが多くて、集まるとなるとご飯がメインの店になる。
 だからこういった純粋にお酒を楽しむ店はちょっと敷居が高く感じて来たことがなかった。カクテルも当然、市販されていたり、居酒屋などにもある定番のものしか知らない。
「ビールは飲めるよね。ならドッグスノーズはどうかな? さっぱりしていて飲みやすいよ」
 耳慣れない名前だったけれど、犬飼が勧めるなら間違いないだろう。
「じゃあ、それで」
「僕もビールのカクテルにしようかな。……ディーゼルとドッグスノーズで」
「かしこまりました」
 注文を済ませてしまうと、途端に沈黙が落ちた。
 ふたりきりになるのは、初めてじゃない。でもいつもは会社で、仕事中だ。
 仕事から離れて、改めてふたりでいるのは、これが多分初めて。
 ……何を話せばいいんだろう。
 こんな時さり気なく会話を組み立ててくれるのはいつも犬飼の方で、私はただ彼から投げられたボールを返せばそれでよかった。
 でも今夜の彼はなぜか静かに並んだ酒瓶を眺めている。だから私は、その横顔を盗み見ることにした。
 あえて明度が落とされたバーの照明が浮かび上がらせる犬飼の横顔は、会社で見るものとはまるきり違って、胸が騒いだ。
 かっこいいなと、素直に思う。
 そう思うとなんだかあまりにも雰囲気が良すぎるせいか、変に緊張してきてしまう。
 ていうか、こんな店、普通ひとりで来ないよね。
「ね、ねえ! ここって、もしかして、彼女とよく来る店じゃないの? ただの同僚でも女連れてきたらまずくない?」
 口にしてすぐ、しまった、と思った。いきなり彼女の話なんて、セクハラじゃないか。
 でも犬飼は一瞬驚いたように目を瞬かせはしたけれど、ははっと笑った。
「付き合っている人はいないし、同僚と飲みに行くのにまずいもうまいもないよ」
「なら、いいけど……。やっぱ今は色々あるじゃない? ハラスメント的な」
 今まさに私がしました! と挙手するのはちょっとできなくて、言い訳じみたことを続けてしまう。
「猿渡はそんなことしないだろう」
 そこで犬飼は言葉を切ると、申し訳なさそうに表情を曇らせる。
「むしろいつも迷惑かけてるのは僕のほうだよ。……ごめん、周りがうるさくて」
 どうやら私が犬飼の個人情報を守っていたことは伝わっていたらしい。
「それこそ犬飼のせいじゃないじゃん。でもまあ、モテる男は辛いよね」
「好きな相手にモテなきゃ意味ないよ」
「うわ、それこそすごいモテる男の台詞って感じ!」
「お待たせしました」
 少し場が盛り上がってきたのを見計らったように、カウンターにすっとオーダーしたカクテルが差し出された。
「こちらドッグスノーズです」
 私の前に置かれたグラスは、見慣れた小麦色。対して犬飼の前に置かれたのは、真っ黒だった。
「なんか、見た目まんまビールですね」
「ビールとジンを合わせています。ジンは無色ですから、見た目の変化はあまりありませんね」
「ディーゼルは黒ビールとコーラ。こっちは似た色同士」
「へぇ」
 店主さんと犬飼の説明に、なるほどと頷く。カクテルというとカラフルな飲み物のイメージが強かったけれど、こういうのもあるんだ。
「乾杯」
 グラスを合わせひと口飲むと、ビール特有ののどごしに、ピリッとした爽やかな風味が加わっていてとても飲みやすい。
「どう?」
「美味しい。全然甘くないんだね。カクテルって甘いものばっかりかと思ってた」
「猿渡は甘い飲み物好きじゃないだろ?」
「よく知ってるね」
 甘いものは嫌いじゃないけど、飲み物は無糖のものが好きだ。
 でも別に、それを周囲に言いまわってるわけじゃない。ランチミーティングやプロジェクトメンバーの集まり以外で一緒に飲み食いしたことがない犬飼が知っているのは驚きだった。
「コーヒーはいつもブラック。一緒に試飲してたら覚えるよ。仕事中も甘いの飲まないし」
 なるほど、そういうことか。確かに犬飼は人の顔や名前だけでなく、そういった細かな好みもしっかり覚えている。
「犬飼って、ほんと凄いよね。同僚の好み全部覚えるなんて普通出来ないよ」
 彼が人から慕われるのは、まず彼が人のことを覚えて反応してくれるからだ。自分に関心があるとわかると、嬉しくなるもの。
「そう? 僕にとっては普通だけど」
「出来る人はみんなそう言うんだよ。私は真似できないもん」
「みんながみんな同じことする必要はないから、猿渡は猿渡のままでいいと思う」
「そ、そっか」
 褒められたのが照れくさくて、私はドッグスノーズをぐいっと呷った。爽やかな炭酸が喉を滑り落ちていく時に、アルコールを強く感じる。
 でも今酔っているとすればそれはお酒にではなく、犬飼にだと思う。
 だって「そのままでいい」なんてさ、好きな人から言われたい言葉ベストテンに入っちゃうよ。
 それを角高イチの色男である犬飼から言われちゃったら、対応に慣れた私でもさすがに平静ではいられませんわ。
 動揺と一緒にカクテルをごくごくと喉を鳴らして飲むと、あっという間に飲みきってしまった。やっぱりビールののど越しのおかげだろうか。
「気に入った?」
「うん、これ飲みやすいし、すごく美味しいね」
「じゃあ次も同じので」
 犬飼は空いたグラスを私からさっと取り上げ、スマートにおかわりをオーダーしてくれる。この手慣れた感じ、本当にモテるのわかる(二度目)。
「今日、付き合ってくれてありがとうな」
 犬飼は私と違いゆっくりとカクテルを楽しんでいる。
「私だけしか付き合えなくて残念だったね」
「そんなことない。前からずっと猿渡とゆっくり話したいって思ってたから、嬉しいよ」
「えっ、なんで!?」
 ずっと同期の同僚、同じプロジェクトメンバーという立ち位置でしか話したことはない。しかもプロジェクトの中心メンバーだった犬飼と違って、私はほぼサポートしかしていないのだ。話してみたいと言われる要素が全く思いつかない。
「猿渡が提案してた『ウーマンコーヒー』のこと、気になってて」
「そんなのよく覚えてたね」
 プロジェクトで提案したフェアトレードコーヒーは、生産者に正当な対価を支払う取り組みだ。
 私はその中でもさらに搾取されている女性に焦点を当てるのはどうか、と提案した。
 実は、コーヒー栽培に女性の従事者はとても多い。
 けれどこれまであまり表面化していなかったのは、生産地において重労働を担っているのは男性というイメージが強すぎたせいだ。実際のところ、大変な摘み取り作業の七割以上は女性が従事していると言われているのに。
 産地や労働者全体をフォーカスすることはもちろん大事。けれどより大変な立場にいる人たちにピントを合わせることで問題が明確になると私は考えた。
 けれど日本ではまだフェアトレードの取り組み自体が浸透しているとは言えない。そんな中で対象を「女性」と限定するのは間口を狭めることになると指摘され、私の提案は採用されなかった。
 確かに犬飼の提案と私のそれを比べた時、理想に走り過ぎていたことは一目瞭然で、仕方ないとすぐに諦めてしまった。
 犬飼に言われるまですっかり頭から抜け落ちていたくらいだ。
「僕は、あれすごくいいと思ってた」
「本当!? ……お世辞でも嬉しいな」
 同僚のボツになったアイディアまでしっかり覚えてくれているなんて、犬飼ってばホント優しいしすごい!
 なんて噛みしめていたら、犬飼は少しだけ苛立ったように早口で言った。
「お世辞なんかじゃないよ」
「でも、間口を狭めるって」
「いや、むしろ対象を限定すれば消費者は相手のことを想像しやすくなる。こういうのは、顔が見えるっていうのが一番大事だよ。僕にはない視点で、本当にすごいと思った」
 言葉には、熱があった。それが犬飼の低くてそれでいて甘い声で伝えられると、嘘やおべんちゃらの類とは違うように聞こえてしまう。
「深い視点を持てる猿渡のこと、僕はずっといいなと思ってた」
「そ、そっか……」
 カウンターでよかった、と心から思った。
 優秀な同期から対等な同僚として認めてもらえたことが嬉しすぎる。今向かい合って彼の眼を見て話していたら、泣いてしまいそうだった。
「犬飼にそんなこと言ってもらえるなんて……仕事頑張ったかいがあったかも! やる気出ちゃうなぁ!」
 わざとおどけるように言うと、隣で犬飼がふっと笑った。
「そりゃよかった」
 さり気なく伸びてきた犬飼の右手が、カウンターの上の私の左手をぽんぽんと優しく叩く。
「今は時期尚早ってだけだ。いつか猿渡の提案も実現できるよ。それまで一緒に頑張ろう」
「う、うん」 
 仮に私の提案が実現するとしても、きっと辿り着くまでは何年もかかるだろうし、そもそも仕事として成立しない可能性の方が高い。
 おそらくその頃になれば優秀な犬飼はコーヒー事業部ではなく、もっと上の役職にいるだろう。一緒なんて無理だ。
 でも、犬飼がそう言ってくれたことが嬉しくて誇らしくて、なんだか、胸がいっぱいになってしまう。
「ほら、もう一回乾杯」
 差し出されたグラスに私のグラスを合わせる。そしてぐっとカクテルを飲んだ。するするとビールが喉を落ちていくのが心地いい。
「……っ、ぷはぁ」
 勢いで飲み干して思わず風呂上がりみたいな声がでた。すると犬飼が隣でくすくす笑う。
「いい飲みっぷりだな」
「だって尊敬してる同期に認めてもらえて、嬉しかったんだもん」
「……尊敬かぁ。僕てっきり猿渡に嫌われてるんだと思ってたよ」
「そんなことないよ! すごい尊敬してる!」
「でも僕と話すの嫌そうだったし」
「嫌っていうか、緊張はしてたかも」
「同期なのに?」
「だからこそ、負けたくない! ってなっちゃうの! うふふふふ」
 思わず笑ってしまった私につられたのか、犬飼もははっと声に出して笑った。
「そっか、張り合われていたのか」
「でも、もうここまで差ができちゃうと張り合おうなんて思わないけどねー。うふふ、このお酒ほんと美味しいねぇ。もっと飲みたい!」
 飲み口の爽やかなお酒のせいか、だんだん楽しくなってきた。
「飲みたい気分なら今夜はとことん付き合うよ」
「お、言ったね? よーし、同じのまたください!」
 新しいお酒が来て、また乾杯する。
 最高に、素敵な夜だった、と思う。
 ――でも、それ以降の記憶がない。
 気が付いたら、なにがどうなったのか犬飼の腕の中にいたわけで。