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本日より、モテ同僚の妻になりました。 策士なスパダリの愛は止まらない! 3

第三話

 ゆっくりと押し当てられた唇はぴたりと私の唇を塞いでしまう。その柔らかく湿った熱を感じて、頭がくらくらした。
 多分、近づいて来た犬飼を拒むことも避けることも出来たと思う。でもそれをしなかったのは私だって確認したかったからだ。
 だって、この一週間、毎日考えた。何度も何度も、思い出そうとした。
 犬飼はどうして私を誘ったのか。
 どういうふうに私に触れたのか。
 どんな声で、どんな言葉を私に囁いたのか。
 身体に残った感覚はとても頼りなくて、思い出にするには儚過ぎて。
 だから知りたくなってしまった。
「あ……」
 でも口づけに浸りきるよりも前に、唇はほどけてしまう。なんだかそれがひどく寂しくて、甘ったれた声が出た。
「猿渡」
「ひゃっ……」
 焦れたように犬飼が私を抱き寄せた。ふたり用ダイニングテーブル分の距離など、あっという間に縮まってしまう。
「んっ、ぁ……」
 後頭部に回された手は、私を逃すつもりなんてなかった。
 再び唇が合わされば、口づけはすぐさま深くなる。差し入れられた舌に私が応じれば、もう止まらなかった。
 犬飼の舌は巧みに私の口腔を探り、撫でる。舌先が触れる感触と混ざり合う水音が同時に内側から響いてくるようだった。
「はふ……ん……」
 角度を変え、より深く、より激しいものを求める口づけは、私から思考をすぐさま奪ってしまう。
 こんなキス、したことない。
 こんなに情熱的で、こんなにあからさまなキスは、初めて。
 そう思った次の瞬間、いや、と自分自身が否定する声が聞こえた。
 これ、知っている。
 私の身体は、犬飼の唇を覚えている。自覚すると同時に、喜びと欲求が湧き上がるのが分かった。
 もっと、もっと欲しい。
 一度味わったものだからこそ、二度三度と欲しくなる。私は素直に欲求に身を任せ、ただ犬飼の口づけに酔った。
「ふぁ……っ」
 不意に力が抜けて膝がかくりと折れた私の身体を犬飼が抱き留めてくれた。
「あ……」
 たくましい腕に包まれると、ふわりと覚えのある匂いを鼻が感じる。シトラス系の爽やかでありながら、どこか甘い匂い。
 それを感じた瞬間、ぶわっと脳裏に知らない記憶が広がった。
 ――くるみ。
 犬飼が目を細めて私の名を呼ぶ。声も口元も嬉しそうに緩んでいるのが可愛い……なんて思って気づく。彼から一度も下の名前で呼ばれたことなんてない。
「ね、ねえ、犬飼……」
「ん?」
 応じた声は、知らない記憶とトーンが同じで、なんだか夢みたいで頭が混乱する。
「私のこと、くるみって、呼んだこと、ある……?」
 私の質問に、犬飼の様子がどこか嬉しそうに変わる。
「記憶、戻ったのか?」
「今急に、なんか犬飼がくるみって呼んだの、思い出して」
「他には?」
 犬飼の大きな手が、私の背を撫でる。ゆっくりゆっくり、私の中の何かを引き出すように。
「わ、わからない……」
「キスをしたら、思い出した。なら、それ以上のことをしたら、きっともっと思い出す。……そう思わないか?」
「あ……」
 触れ合った下肢に犬飼の硬い感触を覚える。さすがにこれが何なのか知らぬほど、初心ではない。
「……っ!」
「今度こそ、忘れることはないよな。今日は、お互い素面だ」
 態度でキス以上……その先を望まれて、私は知らずこくりと喉を鳴らしてしまう。
「俺は、きちんと確かめたい。猿渡、いや、くるみは、どうしたい?」
 ほんの、一週間前。
 あの夜のことを私は、どうしたい?
「思い、だしたい」
 だってずっと好きだった人との触れ合いだ。……一から十まで全部覚えておきたかった。私の宝物になるはずだった。
「そうだな。じゃあ、ふたりで、思い出そう」
 私は犬飼の言葉に深く頷いた。
 犬飼と抱き合いながら、寝室へと向かう。
 なぜだか気が急いて、私たちはキスしながら互いの服を剥ぎ取り合った。
 一枚、また一枚、と身体から服が離れるたびに適当に放っていくと、廊下から寝室の中まで見事な服の道の完成だ。
 もしかしたら、あの日もこんな感じだったのかな。
 そう思うと少し可笑しくなってしまう。
「ん?」
 私の口元が上がったことに気づいた犬飼が、からかうように指で唇を撫でる。
「前も、今みたいにしたのかなって」
 すると犬飼も一週間前を思い出したのかふふっと笑う。
「だろうな」
 お互いほぼ裸みたいな状態になって、ベッドに雪崩れ込んだ。
「……ひゃっ、んんっ!」
 大きなベッドのスプリングを背中に感じる間もなく、覆いかぶさってきた犬飼に荒々しく唇を塞がれる。
「ぁん、ん……ふぁっ……!」
 最初の口づけと違って、もう遠慮はなかった。
 ねじ込まれた舌が我が物顔で私の口腔を味わい尽くす。息を継ぐように角度を変え、歯をなぞり、口蓋を撫でる。
 最短距離で身体を燃え上がらせようとするかのように。
「んっ、んん!」
 感じる場所を的確になぞられ、私の身体に快感の火が灯る。キスひとつでこんなにも激しく燃えるものなのだろうか。こんなの、知らない。
「んあっ」
 強く吸われて、また、脳裏に覚えのない記憶が閃く。
 コーラの甘い香り。
 ざらついた舌の味。
 触れた肌の感触。
 行動をなぞれば、繫がりが切れていた記憶が不意に、浮かび上がってくる。
 知っている。私は、キスで身体がここまで熱くなることを、知っている。
 思わず閉じていた瞼を開くと、ばちん、と犬飼と目が合った。
「……っ!?」
 犬飼の瞳が笑みの形に蕩ける様を見て、身体をぞくぞくと悪寒に似た快感の奔りが駆け抜ける。そんな私を見て犬飼の笑みがますます深くなる。
「……俺のキス、気持ちいい?」
「ん……わ、わかん、ない」
 素直に認めるのは、なぜか抵抗があった。私ばかりが余裕を無くしているのは、どこか不公平だと思ってしまう。
 とはいえ私の経験値など大して高くもないのだから、起死回生の方法などすぐに出てくるはずもない。それでもできることなら対等でいたい。
 多分私のそんなあがきなど、犬飼はお見通しだ。私を見つめている瞳が、甘くそして欲望に光る。
「……じゃあ、もっとだな」
「ち、ちょっと待って」
「待たない」
「あぁっ」
 仰向けになった私はすでに犬飼の大きな身体で動きを封じられてしまっている。だから彼のなすがまま、だ。
「こんなにふにゃふにゃになってるくるみを前にして、酔っぱらった俺が待てたと思う?」
 耳元で下の名前をはっきり呼ばれて、それだけで身体がぶるりと震えた。
 欲望を露わにした犬飼の声と真夏の風みたいな吐息はひどく艶っぽくて、私の何かを疼かせる。
「い、今は酔ってないじゃん」
「くるみ」
「な、名前呼ぶの、やめて」
「なんで? 可愛いじゃん。……くるみ」
「耳やめてって」
「くるみは耳が弱い。オーケー、覚えた」
「ひぁっ!」
 温かく湿った犬飼の舌が耳に差し込まれて、その濡れた感触とくすぐったさに私はびくりと身体を跳ねさせる。
「あっ、やっ、だめ! みみ、食べたら、だめぇ……!」
 そのまま耳朶を飴玉のようにしゃぶられると、水音と共にさっき身体を駆け抜けた快感の迸りがまた、私を襲う。
「俺、ひとつ覚えてることあるんだ」
 私の耳朶をもてあそびながら、犬飼はうっとりと言う。
「……くるみの『だめ』は『気持ちいい』だって」
「あぁぁっ!」
 私の耳を散々味わった犬飼の舌が首筋を辿り、ゆったりと鎖骨へと這っていく。その艶めいた感触は私を悶えさせる。
「ひぁっ」
 不意に、ちくっと指で弾かれたような痛みを覚える。目で追えばそこには犬飼の唇が付けた朱い痕があった。あの夜にはなかった、明確な証拠。
「……俺のもの」
「え……?」
 犬飼の小さな呟きは、肌のざわめきにかき消されてしまう。
「あ……あぁ……んっ」
 ひとつ、ふたつ、と犬飼は私に痕をつけていく。そのたびに私は身を震わせ声を上げてしまう。ひどく甘ったるい声を自分が出せることに、私は内心で驚いていた。
 これが初めてではない。いや、二度目なのだけれど、犬飼以外の相手との経験はある。その人のセックスで快感を覚えたことはほとんどない。
 経験豊富だという友達にそれとなく尋ねても「初めてならそんなもの」と言われたし、快感を楽しむというよりはひとつになっているという実感を喜んでいたという感じだ。
 でも犬飼との行為は、何もかもが気持ちよかった。
 好きだから?
 いや、以前の相手も当時ちゃんと好きで付き合った相手だった。
 何が、違うのだろう。
 その答えは、これから犬飼が教えてくれるのかもしれない。
「ひゃっ、んあぁっ!」
 犬飼の大きな手が私のふくらみを確かめるように揺さぶる。ピンク色の頂はまるで何かを期待するかのごとく膨らみ、己の存在を示しているように見えた。
「あっ、ああんっ!」
「これ、好き?」
 色づいた先端をつまみ押しつぶしながら、犬飼が問いかけてくる。
「や……恥ずかし……」
 あまりにもあからさまな質問に耐えられなくて、私は熱くなった顔を両手で隠してしまう。
「思い出したいんだ。あの夜のことを。くるみのことを全部覚えていたい。だからほら、教えて?」
 顔を覆っていた手を優しく除けられた。そして犬飼はまるで「待て」と命じられた犬を思わせる縋るような眼差しを私に向けてくる。この瞳に逆らえる女なんて、いるのだろうか。少なくとも私には、無理だ。
「す、好き……」
「ん。じゃあ、いっぱいするな」
「やっ、あぁぁぁぁっ!」
 片方の頂は指でいじられ、もう片方を食べられると、あまりの快感に身体がびくびくと跳ねてしまう。尖った部分を爪でひっかけるようにかりかりと刺激されると、吸われながら舌で弾かれると、その強すぎる快感に私はただ声を上げるしかできない。
「気持ちいい?」
 私の胸を吸いながら、犬飼が嬉しそうに笑う。
「わたし、ばっかり、やだぁ」
「これは確認だから、ね? いっぱいさせて」
「やっ、んっ、だめぇぇっ」
 私が思わず発した「だめ」の言葉に、犬飼が笑みを深めるのがわかった。
「了解。……もっとだね」
 再び唇が塞がれる。それは先ほどの口づけよりずっと激しく、そして執拗だった。喘ぎも呼吸も奪われたまま、胸への愛撫も続けられる。
「んっ、んんー!」
 私はただ与えられる刺激に、注がれる快感に身体を震わせるしか出来なくなってしまった。
「ね……みんな、こんな風に、なるの?」
 息を継ぐためにほどけた唇から、勝手に問いが零れ落ちた。口にしてからまるきり初心者みたいだなと気づいたけれど、一度口から出てしまった言葉はどうしようもない。
「ん?」
 犬飼はどういう意味? とでも言いたげに首を傾げてみせる。けれどその声色とその瞳は先ほどのすがるような眼差しとはまるきり違っていた。黒々としたその瞳にあるのは、肉食獣のそれに似た強く容赦のない光。
「くるみは、誰と俺を比べてんの?」 
 まるで真意をただすように質問が重ねられる。その間にも、私を高める指の動きは止まらない。
「ちが……ひぅっ!」
 きゅ、と強く頂を指で押しつぶされ、目の前にちかちかと光が瞬いた。あまりの快感に舌が上手く回らなくなる。でも、誤解されたくなくて、私は首を横に振りながら必死に言葉を続けた。
「私、こんなに、気持ちよくなったの、初めてで」
「んん?」
 なぜか犬飼は目を見開いて、また首を傾げてみせる。
「どうしたらいいか、わかんなくて」
「くるみ、待って」
 正直な気持ちを話しているうちに、どんどん恥ずかしくなってくる。
「だから、犬飼とした人は、みんなこんな風に、なるのかなって、思ったの!」
 羞恥心を隠すように犬飼の制止を振り切ってまくし立てた。ひと息でいっても結局恥ずかしいものは恥ずかしい。
 するとなぜか犬飼は一瞬ぎゅっと何かを堪えるように目をつぶった。
「あ……」
 けれどすぐにぱっと表情が変わる。
 それはどこか凄みすら感じさせた先ほどまでと百八十度違う蕩けそうな笑顔だった。
「……嬉しい」
「えっ?」
「俺で、くるみが気持ちよくなってくれるのが、めちゃくちゃ嬉しい」
「んっあっ」
 私の肌をまさぐっていた犬飼の手が、止める間もなく下肢へと伸びていく。下生えを撫でてその指が向かったのは、私の隠された場所だった。
「ひゃあぅっ!」
 すでに湿り気を帯びていたその場所は、なんの抵抗もなく犬飼の指を飲み込んでしまう。
「ホントだ。すごい……もう、濡れてる」
「やっ、ダメ、それ、待ってぇ、あぁぁっ!」
 硬くて長い指が私の中を探っていく。襞をかき分け、優しく、けれど容赦なく。
 より強い快感を覚える肉芽を撫でられると、声を我慢できないだけでなく、腰が勝手に揺れてしまう。
「これ、気持ちいい?」
 荒い吐息の問いかけに交じって、ぐちゃりと淫らな水音が聞こえる。そんな音すら私を追い詰めていく。
 犬飼の指はひたすらに私の内側の粘膜を擦り、溢れる蜜をかき出すように出入りを繰り返した。身構える間もなくその数を二本、三本と増やされたのがわかる。
「ああっ、やぁっ、だぁ、ああんっ!」
 口から洩れるのは、喘ぎか強すぎる快感に侵される恐れから出る意味のない制止の言葉ばかり。
 そして快感に緩み開いたその場所は、悦びいさんで犬飼を飲み込んでいく。
 指を抜き差しされながら胸を食べられると、そのあまりの快感に身体が大きく跳ねてしまう。
 けれど暴れる私を犬飼は優しくベッドに縫い留め、さらに快感で攻め立ててくる。
 こんな音がするほど、感じたことなんて、今までない。
 だからどうしていいかわからない。
 ないない尽くしで私はただ、声を上げるしかない。
「えっ、やっ、それ、ほんとだめっ、待ってぇぇぇっ」
 硬くこごった頂を舌で包むように舐め上げられながら、犬飼の指が敏感な芽を撫でるたびに、指が内側を押すたびに、目の前に光が瞬く。
「あぁぁっ、な、なにっ、これ……っ! へん、に、なるぅ!」
 知らないはずなのに、そこに辿り着いたことなんてないはずなのに、私は目の前で点滅する光が何を示しているのかがわかってしまう。
 私は今、絶頂へと、追い詰められている。
「いいよ、イっても。くるみは、指でもちゃんとイケるはずだ」
 胸を食みながら犬飼が笑みを浮かべる。
 その表情を見て、ふと思う。
 私は彼は私がどんなふうに感じて、どんなふうに乱れたのか、覚えているのかもしれない。
 だったらなぜ、いま確認しようとしているの?
 けれどそんな疑問は次々と注がれる強すぎる快感に流されて考える間もなく消えていく。
「ああっ、イク、イっちゃうぅぅっ!!」
 目の前の光の瞬きが大きく広がるのと同時に、身体の奥で快感が弾ける。そして私は絶頂に辿り着いてしまった。
「―――っ、ぁあ……」
 まるでぴんと張っていた糸が切れたみたいに、強張った身体から不意に力が抜ける。
「上手にイケたね。偉い」
「んっ、あ……」
 ご褒美のように、犬飼が私の頬に唇を落とす。快感の果てを見た私にとって、それすら刺激になってまた身体がびくんと反応してしまう。
「気持ちよくなってるくるみ、すごくかわいい」
 汗で額に張り付いた前髪を指先で優しくのけてくれる犬飼の表情は、一見穏やかに蕩けているように見えた。でも私を見つめる瞳だけは、欲望をたたえて爛々と光っている。まるで、獲物を前にした肉食獣のように。
 犬飼はゆっくりと起き上がり、ベッドボードに手を伸ばす。取り出したのは、避妊具だった。
 ……そうだ、抱き合ったという事実にばかり気を取られていたけれど、一番大事なことじゃないか。
 顔色が変わった私の言いたいことを察したのか、犬飼は「大丈夫」と苦笑する。
「あの時もちゃんとしてる」
「なんで、わかるの?」
 すると犬飼は苦笑しながら避妊具のパッケージを破り、まるで見せつけるようにベッドの傍らに放り投げた。……なるほど、それは記憶が無くても、わかる。
「……子供か。それもいいね。結婚したんだし」
「えっ」
 準備を終えた犬飼がにこりと笑って、首を傾げた。その手は緩く曲げられた私の両膝を掴んでいる。
「……いい?」
 この先に進む許可を求められて、私は呆然となった。
 それは私を見つめる犬飼の眼差しが、これまで見たことのあるどれとも違う――壮絶な色気と男の獰猛さを滲ませたものだったから。
 呼吸すら忘れて、私は向けられた視線に囚われる。
「くるみ」
 催促するように名前を呼ばれる。
 私は、ただ頷くことしか出来なかった。
「あ……」
 私の足を割り開き、犬飼が伸し掛かってくる。快感にとろけ蜜を零している場所に彼の熱があてがわれて、知らずこくり、と喉が鳴った。
 身体が強張る。次に来るであろう、衝撃に備えるように。
「ん……んっ、あぁぁ……っ」
 ずぶり、と犬飼の分身が私の中に入り込んでくる。まるでその存在を誇示するかのように、緩慢とも言えるくらい、ゆっくりと。
 だから犬飼の熱さを、硬さを、重さを、何もかもを私は鮮明に感じ取ってしまう。どくどくと脈打つ血管のうごめきが薄い皮膜越しだというのに、敏感な粘膜を通じて伝わってくる。
「あ、あ……や……」
 いっそのことひと息に押し込んでくれたらいいのに。そう思って身構えた時に閉じていた眼を開く。
「え……?」
 笑っているかと思った。余裕綽々で、私のことを見下ろしているかと思った。
 でも、全然違った。
 何かを堪えるかのごとく眉を寄せ唇を引き結んだ犬飼がそこにいた。
「くるみ、苦しくない?」
 そのひと言で、犬飼がどれだけ私を気遣ってくれているのかわかってしまった。
 私の反応を愉しむのではなく、ただ傷つけないためにこの人は、優しくゆっくり動いてくれているのだ。
「……なんで?」
「ん?」
「なんで、そんなに、優しい、の?」
 投げ出していた腕をのろのろと持ち上げて、汗の滲んだ犬飼の頬に触れる。男性のくせにきめの整った綺麗な肌だ。
「なんでだと思う?」
 困ったような笑みで、犬飼は私の問いかけをはぐらかす。それもきっと、彼の優しさなのだ。
 犬飼はどこまでも優しい。私を傷つけることなんてしない。
 でも私を優しさで守るために、我慢してほしいわけじゃない。
「……ねえ、あの夜、どんな風だったの? 私は、犬飼と、どんな風にひとつになったの?」
 私は自分自身が映る瞳を見つめながら、続けた。
「優しくなんかしなくていい。早く、思い出させて。お願い……」
 もう片方の手も伸ばして犬飼の頬を包み、懇願する。焦れているのが、自分でもわかった。
「人が必死に自制してるってのに。……くるみが悪いんだからな?」
 私を見つめる犬飼の瞳が燃え上がる。その炎はあっという間に私を飲み込んだ。
「んあぁぁぁっ!」
 私をゆっくりと拓いていた熱塊が、一気に最奥まで突き込まれる。その衝撃に私は背を反らせて声を上げた。
 そしてなんの迷いも躊躇もなく、律動が開始される。
「あっ、ああっ、やっ、あぁぁっ!!」
 そのまま強く深く刺し貫かれたまま揺すぶられ、私は犬飼がどれだけ我慢していたのかを突き付けられた。
「くるみはっ、奥が好きっ、だよなっ!」
「やぁんっ、あっ、んぁっ!」
 激しすぎる抽送の勢いのせいで、腰が持ち上がり、いつしか太ももが胸についてしまうくらい身体を折り曲げられていた。垂直に杭を打ち込むみたいに、真上から犬飼が私を攻め立ててくる。まるで、私に思い知らせようとするかのよう。
「ふ、ふかいぃぃ……っ、あぁぁっ!」
 これまで誰も辿り着いたことのない場所まで、犬飼はすべて暴いた。だからもう身体だけでなく頭の中まで犬飼のことでいっぱいになってしまう。
 満たされて、失われて、また、満たされて。波のように押し寄せる快感に私はただ溺れ、のまれ、もみくちゃにされた。
 目の前で光が瞬く。それが限界の合図であることを、なぜか私は知っている。
 ああ、犬飼が、教えてくれたんだ。
「い、ぬかい」
「彰志」
「ぁんんっ、えっ」
 私を揺さぶりながら、犬飼が懇願するような口調で言う。
「名前で呼んで。じゃなければもっと酷くしちゃうよ」
「えっ、ああっ、し、しょう、じっ。あぁぁっ!」
 もう何も考えられない。だって薄い皮膜を挟んでいても、犬飼の熱と質量が生々しく伝わってくる。身の内から湧き上がる恐怖を感じ、私は犬飼にしがみついた。
 はち切れそうなほどにみなぎった熱杭が、私を殺してしまう。
 そんな恐れと、それと同じくらいの期待が、私に嬌声を上げさせる。
 じりじりと手足の先から甘い痺れが広がってくる。
「ああっ、もうっ、もうダメっ」
 限界が近い。だって何かが追ってくる。先へ進めと攻めてくる。だめ、だめ、だめ――!
「し、彰志ぃ! しょう、じぃ……っあぁぁぁっ!」
 犬飼の名を呼ぶと、私を穿つ熱杭を打ち込む腰の動きがより一層激しさを増した。
 私に向けられた犬飼の眼差しは熱く、、強く、そしてまだ優しさを残している。
 それがたまらなくて、私は知らずより身体を密着させるように犬飼に足を絡めていた。
 ぐっと深く、犬飼の熱が私の奥の奥へと入り込むのが、感覚だけでわかった。新たな刺激がさらに私を乱れさせる。
「くるみ……くるみ!」
「も、イく、イっちゃうっ、イク――っ!!」
「……っ!!」
 押し寄せる快感の大波に私が飲まれるのとほぼ同時に、犬飼が私の唇に噛みつくようなキスをした。そして私から呼吸と声を奪ったまま、腰を強く叩きつける。
「んっ、んんっ、んー!!」
 次の瞬間、暴かれきった内側に熱が放たれるのが皮膜越しに伝わってきた。
 それを自覚した途端、犬飼を包んでいる場所が自我を持ったかのように離すものかと戦慄く。私の中でびくびくと跳ねる犬飼の熱い塊。
 これも、知ってる。
 不意に、脳裏に感覚が蘇る。
 それはあの夜は夢でもまぼろしでもなかったという確かな証だった。
「――っ、あぁ……」
 蘇った感覚を逃したくなくて私は犬飼にみっともなくしがみついた。犬飼もまた、私を抱きしめてくれた。
 多分そうして一分の隙もなく抱き合っていたのはそう長い時間ではなかったのだろう。どちらからともなく力が抜けて唇が解ける。
「ん……」
 でもなぜか名残惜しくて、私は一度離れた唇をまた犬飼のそれへと押し当てた。ちゅ、と音を立てて犬飼も応じてくれる。
「くるみ……思い出した?」
「……ちょっとだけ、なら」
「はは、ちょっとか」
 汗に濡れて額に張り付いた私の前髪を優しく除けながら、犬飼が笑う。そしてゆっくりと身を起こすと、私の中から優しく出て行った。
「んあっ」
 限界まで押し広げられていた場所から強大な質量が失われていく。それがどこか寂しくて、私は身体を震わせて耐えた。
 そのままベッドサイドに手を伸ばした犬飼をぼんやりと眺めながら、甘い快感の余韻に浸ろうとした、その時。
「……ひゃっ!?」
 ぬかるんだ場所に再び熱を感じて、私は身体を跳ねさせた。
「えっ、い、犬飼!?」
「彰志。名前で呼んでって、言った」
「いやそういう問題じゃなくて」
 慌てる私に犬飼改め彰志はにやりと笑う。その瞳には先ほど目の当たりにした壮絶な色気がちらついている。
「まだ思い出したの、ちょっとだけだよな?」
 だったら、と犬飼は避妊具のパッケージを咥えると、そのまま噛みちぎって封を開けてしまう。
「……ならもう少し、思い出したくない?」
 誘う態度は言葉よりももっとあからさまで、私は知らずごくりと喉を鳴らしていた。
 まだ足りない、と犬飼は視線で私に訴えてくる。罪悪感を煽るあの笑顔で。
「あ……」
 今しがた味わったばかりの快感を思い出して、身体が震えた。
 だってあんなの初めてだった。
 気持ちよすぎてどうにかなってしまいそうだった。
 でも、あれをもう一度するとなると、自分がどうなってしまうのか見当もつかない。
「くるみ」
 ダメ押しするみたいに、名前が呼ばれる。
 震える身体は求めていた。
 もっと彰志を味わいたい、と。
「彰志……」
 名を呼ぶと、色気たっぷりの笑みが返される。……それを見たらもう、こらえ切れなかった。
「……もっと、思い、出したい、です」
「くるみが望むなら、いくらでも」
 彰志はそう言うと、微笑みながら私の足を抱えなおした。

「ん……」
 瞼を開くなり飛び込んできた見慣れない光景に、私は目を瞬かせる。
 深い藍色のカーテン、シックなグレーの壁、そこに飾られた古いモノクロの風景写真。肌に触れるシーツの感触。
 そして身体を包む、温もり。
「――っ!?」
 さすがに二度目ともなれば、自分の状況はすぐに把握できてしまう。
 前回と違うのはこのベッドの上で行われたことをしっかりばっちり覚えている点だろう。
 で、でもワンチャン夢、という可能性は……。
「おはよ」
 耳元で囁かれた挨拶によって、完全になくなった(だよね、わかってた)。
 それは、まあそうだろうね。私の頭の下に犬飼の腕があるし、なんなら身体ごと包まれちゃってるし!
「お、おはよ……」
「もう起きる? 今何時だっけ」
 ベッドサイドの時計を確認しながら、犬飼はふわ、とあくびをする。
「んー九時半か、俺はもうちょい寝たい」
 そう呟いた犬飼は腕の中の私を優しく抱き寄せる。まるで夢みたいなシチュエーションにくらりときた頭をぶるぶる振って私はなんとか正気を保つ。
「あの……二度寝の前に、何がどうなったのか、聞いても、いい?」
「くるみ、もしかしてまた覚えてないの?」
 私の問いかけに犬飼が心配そうに問い返してくる。
「いやさすがに……っ!」
 言った途端、昨夜の記憶が頭に蘇って、顔から火が出そうになる。
 恥ずかしすぎて、言いたくない!
 でも、思い出したいと願ったのは私の方だ。ここで覚えてないなんて言ったら、失礼なような気がした。
「……覚えてるよ」
 羞恥心から、つい、拗ねたような口調になってしまう。それが気に入らなかったのか「本当に?」と犬飼が疑ってくる。
「俺に可愛くおねだりしてきたこととか、上手にイケたこととか、ちゃんと覚えてる?」
「そういうのは忘れてよ! ていうかいちいち言わないでよ!」
 明け透けすぎる質問に、思わず大きな声を出してしまった私に、犬飼は笑いながら「ごめん」と謝ってきた。
「だってくるみが覚えていないかもしれないと思ったら、つい確認したくなって」
「覚えてるって言ってるじゃん……」
「うん、だから、どこまで覚えてるのか、教えて? 初めての夜のことは思い出した?」
 初めての夜の記憶は、お酒のせいかまだ断片的だ。
 そして昨夜の行為によって、記憶の断片はすっかり経験として身体に刻まれてしまった。
 もう、まるきり覚えていないとは言えない。
 でもそれを素直に口にするのは恥ずかしすぎる!
「やだ」
 可愛くないのは百も承知で私はぷいっとそっぽを向いた。
「教えてよ」
「ひゃうっ!」
 すると催促するみたいに耳を食まれて、途端に昨日の熱がぶり返してくる。
 目を逸らしたくても、初めての夜と違って昨夜の記憶は鮮明過ぎてどうしようもない。
 最初は若干押された勢いあった。でもきちんと同意したのも覚えてるし、二度目は私から求めてしまったことも、ちゃんと覚えている……だけど。
「覚えてるけど、言いたくない……」
「聞くの俺だけなのに?」
「い、犬飼に一番言いたくない!」
 思わずなじるように呟くと、犬飼が「ほら、忘れてる」と苦笑する。
「彰志。昨日名前で呼んでって言ったのに」
「いきなり名前でなんて呼べないよ」
「じゃあたくさん呼んで慣れるしかないな。ほら、彰志、言ってみて」
 促しながらも、どこか楽しそうな気配が伝わってくる。
 ……これは絶対面白がっている!
 そう思うとこっちも意地になるというか、負けるもんかって気持ちになってしまう。別に勝負しているわけでもないのに。
「犬飼ってたまに根性論出してくるよね。やれば出来るって平気で言うけど、世の中には頑張ってもやれない人もいるの!」
「昨日はいっぱい呼んでくれたのに?」
「だからそういうの忘れてって言ってるじゃん!」
 私が素直に名前を口にできないのは、恥ずかしいことをわざわざ掘り起こす犬飼が悪いと思う!
「もしもくるみが本当に望むなら、昨日のこと忘れてもいいよ」
「本当に!?」
 思わず身をよじるようにして振り返ると、犬飼はにやっと笑った。
「忘れたら、また思い出すまですればいいだけだし」
「意味ないじゃんそれ! 犬飼ってこんな意地悪だったっけ?」
「意地悪なんてしているつもりはないよ。むしろ、されてるのは俺の方」
「完全な言いがかりなんですけど」
 思わず顔を顰めると、犬飼は笑い声を上げた。ほら、面白がっているのはそっちじゃないか。
「ねえ、くるみの知っている俺ってどんなの?」
「どんなって……」
 真正面から問い直されて、思わず言葉に詰まる。
「えっと、優秀で、優しくて……親切?」
「……それ、会社での『僕』だよね」
「だって会社以外の犬飼のことなんて、知らないし」
「そうだね。だからとりあえずくるみはうちに住もっか」
「は?」
 何がだからなのかさっぱりわからない私に、犬飼はにっこり笑って続ける。
「一緒に住んで、俺のこともっとよく知ってよ。もう忘れないように」
「えっ、えっ、でも」
「駄目かな?」
 そう言うなり犬飼は静かに目を伏せる。その意気消沈した様子は悲しみに打ちひしがれた寂しい犬を思い起こさせ、私の罪悪感をちくちく刺してくる。
「じゃあ今日からスタートな」
「えっ、今日!?」
 驚き戸惑う私に犬飼は事も無げに「そう、今日」と頷きを返してくる。
「いや今日すぐはちょっと無理、じゃない? だって何も用意してないし、一度仕切り直した方が……」
 元々ちょっと会って話したかっただけなのに、犬飼の家に来て、なぜか入籍していて、さらに一緒に食事をして、トドメにこういうことになってしまったけれども……まだ何かの間違いって可能性は残っている(と思う)。
「仕切り直す? なぜ? こういうことは早い方がいい。ほら試しに、ね?」
 口調は優しいくせに畳みかけて来る犬飼に怯んでしまいそうになる。けれどここで負けたら同居だ!
「いやなぜも何もおかしさしかないって! そりゃ結婚を考えてる恋人同士とかだったらあり得るかもだけど」
「もう結婚しているじゃないか」
「記憶にございません!」
「酷いなぁ、昨日あんなに確認したのに」
「ひぁ……っ!」
 犬飼の手が私の項を撫でる。
「だ、だって付き合ってないし」
「結婚したらつき合うも何もないだろ」
「でも……」
「なあ、くるみは何がそこまで引っ掛かっているんだ? 俺たちはもう、少なくともただの同僚ではないだろう?」
 昨日は酔った勢いではない。その時点で私たちは「同僚」という関係から逸脱してしまった。
「だって犬飼は私のこと好きじゃないでしょ? 好きでもない相手の私と結婚なんて申し訳なさすぎるよ!」
 私は彼のことが好きだ。でも彼とどうにかなりたいなんて大それたことは望んでいなかった。
「……どういう意味、だ?」
 聡明な犬飼にしては珍しく、驚いたように目を瞬かせながら問い返された。
「犬飼の邪魔になることはしたくないの。犬飼はこれからもっとバリバリ仕事して、もっとすごいプロジェクトを成功させる人だよ。私じゃ釣り合わないでしょ?」
 そりゃ確認なんてしておいて何言ってんだって話だけど……でも犬飼の将来を考えたら私なんかが側にいていいわけがないんだ。
「釣り合わないって……なんだよそれ」
「言葉通りだよ。同僚としても女としても、私は犬飼にふさわしくないってこと」
「えっと……本気か?」
「本気に決まってるでしょ!」
 そう言い放ってから困惑で眉をひそめる犬飼を見て今の状況を思い出す。……抱き合いながらする話じゃないわ。
「……ごめんっ」
 慌てて彼の腕の中から逃れようと両手で胸を押したけれど、びくともしない。
「なんで?」と問うように犬飼を見れば、彼は先ほどまでの戸惑いをふっと消して微笑んだ。
「なあ、そんなに小難しく考える必要はないよ。……お試しって言ったろ?」
「あ……」
 つつ、と犬飼の指が項からゆっくり背骨を伝うようにおりていく。その刺激は知らぬ間に快感に結び付けられていて、身体がびくんと震えてしまう。
「やめるのはいつだってできる。……少なくとも、身体の相性は悪くないよな? 最後の決断をするのは、もっと一緒に過ごす時間を増やして、お互いのことを知ってからでもいいと思うんだが」
「う……」
 ぞわぞわと悪寒に似た感覚が肌を粟立たせる。
「くるみは、どう思う? 俺のこと、知りたくない? 試すだけ、試してみようよ」
 さらにじっと見つめられると、まるで酔ったみたいに頭がくらくらしてくる。
「えっと……お試し、なら……」
「後悔はさせないよ」
 ついに根負けした私に、犬飼はなぜかとても嬉しそうに微笑んだ。

 


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