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おまえしか欲しくない 美形御曹司の愛は少しばかり重めです!?  2

第二話

 その後、ミカは一時間ほど明義のことを考えて悶えていたが、なんとか気持ちを切り替えて出勤した。
 勤務先のホテル〝ラグジェ東京〟のオフィスエリアに向かい、自分のデスクがある営業部販売企画課のドアを開ける。
 すると同僚の小柳双葉(こやなぎふたば)が、慌てた表情で近づいてきた。
「おはよう双葉。何かトラブルでも起きた?」
「ミカ、大変よ! ついさっきホテルを爆破するってメールが来たらしいの!」
「……は?」
 一瞬、あまりにも非現実的な内容に脳が理解してくれなかった。
 しかしこういった非常事態に対応する訓練も受けているため、上司からお客様の避難を命じられてすぐにホテルエリアへ走る。
 各部署から総出でお客様を庭園に誘導したり、マスコミの対応をしたりと、週明けからとんでもない事態になった。
 しかもビジネス客の中には、「仕事に遅れるから」と精算せずに去っていくお客も少なくないため、その対応にてんやわんやだ。
 オンライン旅行代理店経由だと、クレジットカードで決済済みのお客も多い。それにチェックアウト時の混雑を避けるため、事前精算を好む方もいる。
 だがラグジェ東京は基本的に預り金(デポジット)支払いの後に、チェックアウト時の精算になっている。そのため未精算が積み重なり、宿泊部長が頭を抱えていた。
 そして警察による爆発物の捜索で営業停止となったため、レストランや宴会の予約客に事情を説明し、系列ホテルのお店や宴会場に振り替えてもらう。
 しかし当日では連絡が行き届かず、ホテルを訪れたお客にはハイヤーを出すことになった。
 それでもお客がさばききれなかったため、タクシーチケットを配って回る。
 キャンセルになる予約も多く、ホテルに原因があるわけではないもののクレームが途切れない。
 損害額もどんどん増えていき、総支配人の顔が土気色になっていた。
 全スタッフで対応している間、警察が広いホテル内を徹底的に捜索した。が、爆発物と思われるものは見つからなかった。
 イタズラの可能性が高まってくると、現場ではやり場のない怒りと徒労の声があちこちから漏れてくる。
 その日は夕方まで外部からの立ち入り禁止となったものの、社員たちは誰も帰ることは叶わなかった。ホテルは二十四時間稼働しているため、安全確認が取れたらすぐに営業を再開せねばならないのだ。
 本日の予約がすべてキャンセルになっていようが関係ない。飛び込み客だって来るかもしれない。
 だが一部屋も清掃していないという大問題が残っている。
 そこでハウスキーパーだけでなく、フロントやコンシェルジュ、管理部門の社員たちまで駆けつけて一斉に取りかかった。時間との戦いなので人海戦術だ。
 もちろんミカも、総支配人までも作業着に着替えて参加する。ベッドシーツやタオルを取り換え、バスルームと洗面所を洗って客室を塵一つなく綺麗にしていく。
 ラグジェ東京を含むラグジェリゾート&ヴィラグループでは、入社したスタッフのOJT研修は客室清掃から始まる。ミカも大学卒業後、総合職として入社した年にハウスキーパーとして働いたし、フロントやレストラン、宴会サービス部門も担当した。そのため清掃にまごつくことはない。
 ちなみに総支配人もそれを経験しているため、「これをやるのは何十年ぶりかな……」と呟きながら掃除をしていた。そして正規のハウスキーパーから、「ベッドシーツに手を突いた皺が残っています。やり直しです」と指摘されて落ち込んでいた。
 しかしへこんでいる余裕さえない。次は調理補助が待っている。
 レストランや宴会部は料理の仕込みがまったくできていないため、休みのスタッフや系列ホテルから人を借りる必要があり、その手配や宴会場の準備に追われて休憩さえ取れなかった。
 そういったもろもろの業務が終わったのは午後十一時すぎ。正確にはすべて終わったわけではなく、総支配人がスタッフへ帰宅を命じたのだ。
 ヘロヘロになったミカは、同じく疲れた表情の双葉と一緒に帰ることにした。夕方からフロントを手伝っていた双葉も疲労の色が濃い。
「とんでもない一日だったわ……」
「精算せずに出て行ったお客様、全員連絡取れた?」
「まだよ。去り際に部屋番号を聞き取っていたけど、嘘の番号を言ってたお客様もいるのよね。それに連絡が取れても支払ったって言い張る方もいるし……」
「散々だわ……」
 二人してため息を漏らしながら最寄り駅に向かい、違う路線へと別れる。互いの自宅は反対方向にあるのだ。
 目的駅で電車から降りたミカは、家に食べるものはあったかと自問する。昼食はなんとか取れたものの、それ以降、何も口にしていなかった。お腹が空いた。
 マンションに近づいたとき、男性が入り口の前に立っていることに気づいた。
 夜遅いのもあって警戒心も露わに近づけば、振り向いたその人の顔を見て「あっ!」と声を漏らす。
 明義だ。彼のことを完全に忘れていた。
「お疲れ。大変だったようだな」
 明義は持っていたビニール袋を持ち上げる。
「夕飯、食べないか?」
「なんで……」
「腹減っているかと思って」
 その言葉に空腹を思い出し、お腹が「くうぅー……」と切ない音を鳴らす。羞恥で頬を染めるミカだったが、明義は笑わなかった。
「ホテルのことはSNSで知ったよ」
「そっか、ネットを見る余裕もなかったわ」
 それでこちらが夕食を食べていないかもと見越し、差し入れてくれたのか。……その気持ちはとてもありがたいのだが。
「えっと、嬉しいんだけどもう遅い時刻だし、カップ麺ぐらいはあるから」
「この時間にそんなもん食べたら太るぞ」
 ウッと言葉に詰まる。
 ミカは今年の四月にラグジェ東京の営業部に異動したが、その前は沖縄と大阪のホテルに配属されており、フロントや料飲部門で立ち仕事をしていた。その頃は深夜にカロリーの高いものを食べても太らなかったが、今はオフィスワークが中心で、体力的に楽だけれど運動不足になりつつある。
 脳裏に豚になった自分の姿を思い浮かべて激しく迷った。
「これ、鶏むね肉のおろし煮とワンタンスープ。作ったのは家政婦さんだけど、夜食用にカロリー低めだってさ」
「……ここで受け取っちゃ、駄目?」
 料理だけ置いて帰れと、失礼なことを言っているのはわかっている。でも夜中に男を部屋に上げることに警戒心が消えない。
 すると明義は鞄から何かを取り出し、端っこをつまんで吊り下げた。
 ミカのブラジャーだ。
「忘れ物」
「返して!」
 飛びついたが、かわされて素早く鞄にしまわれる。
「話がある」
 明義がマンションを顎でしゃくる。中に入れろとの仕草に、ミカは疲れていたのと空腹とで、抵抗する気持ちも失せてしまった。
 オートロックを解錠して中に招き入れる。そのかわり部屋に入ってすぐブラを返してもらった。
 とにかくお腹が空いていたので、冷凍ご飯を温めて差し入れをいただくことにする。
「美味しそう。明義は食べないの?」
 彼はローテーブルの正面に座って、「俺はもう食べた」と麦茶を飲んでいる。
 ……そんな何気ない姿でさえ格好いいと思ってしまうのは、肌を許したせいだろうか。今まで明義にときめくことなど一度もなかったのに。
 複雑な心境になりつつも箸を取る。
「すごく美味しい。この家政婦さんの味、好き」
「それならまた持ってくるよ」
 家事代行サービスを定期利用しているとのことで、食事は作り置きのおかずをメインに頼んでいるそうだ。
「ううん、それはいいわ。明義のものじゃない」
「おまえのためなら構わない」
 きっぱりと告げる明義が、真正面からじっと見つめてくる。
 彼は目力が強くて、いつもこんなふうにまっすぐ瞳を射貫いてくる。その眼差しは今までと同じような気がするのに、心が「違う」と訴えてくるから落ち着かない。
 それはたぶん、彼を幼馴染みの親友ではなく、一人の男として見るようになってしまったせいだろう。
 ミカは気まずげに視線を茶碗へ落した。
「……家政婦さんを雇うなんてすごいね。明義の部屋もすごかった」
 話を変えたつもりだったが、部屋との単語から今朝のことを思い出して体が火照ってしまう。墓穴を掘った気分だ。
「単に自炊も掃除も面倒くさいだけだよ。あと、部屋は投資用に買った不動産の一つ。会社に近いから住んでるだけで好んで暮らしてるわけじゃない」
 投資用だとしても、一等地に建つマンションの一室を購入するなんてすごい。自分には住宅ローンを返せるとは思えないし、それ以前に今の年収ではローン審査に通らないかもしれない。
 明義なら一括でお買い上げしていそうだが。
 何しろ彼は、精密機器メーカー大手〝コミネテクノロジー株式会社〟の小峰(こみね)社長の息子なのだ。
 コミネテクノロジーは医療系の精密加工技術と生産設備に強みがあり、その分野ではトップクラスの売り上げを誇っている。
 まごうことなき上流階級の住人で、自分のような一般家庭の庶民とは住む世界が違う。
 ただ、本人はまったくそう思っていない。
 それというのも彼は小峰社長の養子だったりする。実父はまだ明義が幼稚園の頃、交通事故で夭逝したという。
 それから十年ほどがたって、母親が小峰氏と出会い再婚したと聞いた。
 だから明義と出会った当時、彼も自分と同じ一般家庭に生まれた子どもで、地元の公立小学校に通っていた。
 明義は以前、義父との仲は普通だと言っていた。でも大学卒業後はコミネテクノロジーに入社せず、外資系証券会社に就職している。
 家業は歳の離れた三人の弟妹(ていまい)たちに任せるつもりで、実家とは距離を置いているらしい。
 そういった身の上話は、沙綾と豊も含む四人での飲み会で大まかに聞いたことがある。ミカはだいぶ酔っぱらっていたため、『ふーん』と相槌しか打たなかったが。
 プライベートをあまり詮索したくなくて、おいしいご飯を食べることに集中する。
「――ごちそうさまでした。美味しかったわ。それにすごく助かった」
 食欲という人間の三大欲求の一つが満たされ、鬱屈した気持ちが晴れていく。現金なものである。
 気分よく食器を片づけようとしたら明義に止められた。
「話があるって言っただろ」
「今日はめちゃくちゃ疲れているから、早く休みたいんだけど」
「結婚しないか」
 聞き間違いかとミカは激しく目を瞬いた。
「……誰と?」
「俺と」
「はああああぁっ!?」
 突然のプロポーズに思いっきり仰天する。
「ちょっ、どういうことよ!」
「親から見合いをしつこく勧められているんだ。それを避けたい」
 話を聞くと、お相手は実家の取引先企業の社長令嬢だという。明義はそのお嬢様が駄目なのではなく、しがらみの多い相手と結婚したくないそうだ。
「家庭にビジネスを持ち込むようなもんだろ。気が詰まる」
「じゃあ親御さんにそう言ったらいいじゃない」
「言ったさ。でも、とりあえず会ってみろってしつこいんだよ。おふくろが人柄を気に入ったとかで、付き合ってみれば気が変わるって決めつけてくる。俺は結婚が仕事の一環だなんてごめんだ。窮屈な人生を死ぬまで送るつもりはない」
 かといって優雅な暮らしを求めて、男を搾取するような女とは絶対に結婚したくないという。
 それはミカも共感できるので深く頷いた。
「お見合いしたくないって理由はわかったけど、なんで私との結婚につながるのよ」
「結婚するなら信頼できる普通の女性がいい。俺の周りではミカしかいない」
 信頼との言葉にほんの少しときめいたが、すぐさま気持ちを引き締めた。
「そんな打算まみれのプロポーズ、私が頷くと思う? ご両親を説得した方が早いわよ」
「おふくろが熱心すぎて無理だな。俺だけが親父の実子じゃないから、せめていいとこのお嬢さんと結婚させてあげたいって考えてるんだよ。」
「……そう」
 彼の母親――小峰涼子(りょうこ)がそこまで意欲的な理由を知っているため、声が小さくなった。
 涼子は小峰社長と再婚後、三人の子宝に恵まれている。つまり四人産んだ子どものうち、明義だけが夫と血のつながりがないのだ。
 そのことに対して明義以上に引け目を感じているらしい。
 そして彼女の夫は、家庭では完全なるイエスマンだという。なので明義のお見合いにも反対しないとのこと。
 仕事においては厳格な社長も、家では愛妻の尻に喜んで敷かれていると聞いたとき、ミカは心の中で、「なんかわかる」と頷いたものだ。
 明義の母親は、男を骨抜きにするほどの美女なのだ。
 彼女を最後に見たのは高校の卒業式だが、あいかわらずものすごい美しさで、さすが明義の実母といったところだった。教師や父兄の視線を集めまくっており、卒業式だというのに食事に誘っていた保護者の男性もいたほどで。
 涼子は学生時代に結婚したので明義を産んだのはかなり若いときらしく、高校を卒業した長男がいても若々しい外見だった。
 なんでそのような個人事情を知っているかというと、小学生の頃、自分と沙綾と豊の母親が集まって話しているのを聞いてしまったのだ。子どもは結構、親の話を聞いているし理解している。
 だから涼子の苦労も知っていた。
 彼女は看護師として働いていたため、夫と死別後もそれほど経済的に困らなかったそうだ。両親、つまり明義の祖父母からの援助もあったらしい。
 だが夫というパートナーを失った、まだ若く美しい彼女を他の男は放っておかなかった。
 一方的な恋心を抱いてストーカーになる男や、「将を射んとせば先ず馬を射よ」とばかりに明義へ付きまとい懐柔しようとする男もいた。
 美しすぎるというのも厄介なのだと、子ども心に思ったものである。
 ――なるほど、苦労したお母さんから見合いを勧められて、断っているけれど永遠に逃げられないというわけね。
 考え込んでいたミカは伏せていた顔を上げる。
「つまりドラマみたいな契約結婚をしたいってこと?」
「いや、普通の結婚だ。式も挙げて夫婦として暮らして子どもを作って、死ぬまで添い遂げる」
 夫婦の三組に一組は離婚していると言われるこの時代に、生涯を共にすると言われてミカの顔がじわじわと熱くなってくる。
 赤面したところを見られたくなくて再びうつむいた。
 ――明義って、結婚する気があったんだ。
 女性関係が華やかだと豊から聞いていたが、恋人にそっけなくて冷淡だとも聞いていたので、恋愛はするが結婚はしないのだと勝手に思い込んでいた。
「でもさ、それだったら本当に好きになった女性と結婚した方がいいわよ」
「俺はそうは思わない」
「なんで?」
「恋愛と結婚は別だから。恋人が結婚に向かない性格だと、結婚生活なんて続けられないだろ」
 断言されてミカは渋い顔になった。心情的にその言葉を否定したいのだが、恋愛未経験者なので否定する根拠がないうえ、悲しいことに少し心当たりがあるのだ。
 ミカは婚礼部門に配属されていた時期があり、ウエディングプランナーのアシスタントとして何組かの結婚式を担当した。
 そしてラグジェリゾート&ヴィラグループでは、挙式したカップルにその後もホテルを利用してもらえるよう、様々なアフターサービスを用意している。
 結婚記念日のディナーチケット、ティーラウンジで使える優待券、ホテル宿泊の割引券や無料券、イベントやセミナーへの招待などなど。
 しかし挙式後、わずか数年で破局を迎えてしまい、サービスが使われないカップルも少なくなかった。
 銀婚式を祝うプランだってあるのに、そこまで続く夫婦はどれぐらいなのか……
 実例を見てしまうと、明義の言葉に真実味を感じてしまう。
「つまり、私が結婚生活に向いてるって言いたいの?」
「というか、俺はおまえの性格を知り尽くしているから、おまえとなら結婚して穏やかな家庭が築けるって判断したんだ」
「えぇー……」
「でなけりゃ腹に飛び蹴りをくらわした女と結婚しない」
 自分の顔が、今度はうんざりとしたものに変わった自覚があった。飛び蹴り事件は大人になると黒歴史なので、思い出させないでほしい。
 ミカは腕組みをすると天を仰ぎ、「うぅーん……」と思い悩む。
 明義の言い分は理解できた。彼はリスクの少ない人生をプランニングした結果、家庭内トラブルを避けるため、恋人ではなく幼馴染みを選んだということだ。
「でも、そんな結婚って幸せなの?」
「何をもって幸せとするかは人によるが、俺は結婚するからにはおまえを幸せにする」
「……そう」
 いちいちきゅんとすることを言わないでほしい。再び胸がときめいてしまったではないか。
「結婚って赤の他人が一緒に暮らすってことだろ。揉めるに決まってるんだから、少しでもトラブルが起きないよう努力しないといけない。それには理解のある相手が必要だ」
「まあ、それはわかるけど……」
「夫婦の不仲って人生においてかなりの比重を占めると思うんだよ。家庭がギスギスすればメンタルがやられて仕事に不調をきたすし、何より子どもに悪影響を及ぼすだろ。親が揉める姿なんて子どもに見せたくない。そんなリスクを負うよりおまえの方がいい」
 ここまで求められて嬉しくないわけじゃないのだが、愛を告白されたのではないところが複雑だ。素直に喜べない。
 ただ、彼の結婚観は頭ごなしに否定できなかった。
 婚活なんて相手の条件を吟味して、パートナー候補と会って結婚できるかどうかを見定めるのだから、それと同じだ。
「私的には、あり寄りのなし、だね」
「俺の考えは理解できるが、結婚はしないということか」
「まあね。そういう考えの人だっているだろうし」
「なら十分だ」
 いきなり明義が立ち上がった。帰るのかなと思った直後、ローテーブルを回って押し倒してくる。
「なんでえぇっ!?」
「あり寄りのなしってことは、あり寄りのありに変えられるってことだろ」
「そんなわけあるかぁっ! あっ、んんぅーっ!」
 叫んだ直後に口づけされて抗議を止められる。唇が開いていたせいで最初から舌の侵入を許してしまった。
 しかも明義が目を開けたままだから、その眼差しが強すぎて心が撃ち抜かれるようで反射的に瞼を閉じる。
 視界が閉ざされたせいか、口の中で暴れ回る舌の動きをしっかり感じてしまう。気持ちいい、と。
 逃げようとしても執拗に追いかけられ、こちらの舌の裏までねっとりとすり合わせてくる。上あごや歯茎まで舐め尽くされて、吐息ごと奪うようなキスにクラクラした。
 ――まずい、このままじゃ流される。
 グッと手を握り締めて彼の鳩尾(みぞおち)に拳を叩き込んだ。
「グゥ……ッ!」
 苦痛で呻く明義が蹲って床に倒れ込む。
 ミカは急いで彼から離れると距離を取った。
「ごめん、殴って」
「クソッ、おまえの手が早いことを忘れてた……」
「いやいや、同意のないキスは犯罪だから。あとさすがに今日は疲れたから休みたい」
 そこで明義も今日の爆破予告事件を思い出したのか、床に転がったまま渋々と頷いた。
「……また来る」
 不承不承と言いたげな声と表情で、明義は帰っていった。ミカは鍵とドアガードをかけてベッドに倒れ込む。
 今日は踏んだり蹴ったりの一日だった。あまりにも考えることが多すぎて頭がパンクしそうだ。
「結婚なんて無理よぉ」
 長年の恋を失ったばかりで、いくら初めての相手だからといって、そうそう簡単に気持ちは切り替えられない。
 ――それに明義との結婚って格差婚になるのよね。ちょっと怖い。
 ラグジュアリーホテルに勤務していると、上流階級の生活を垣間見ることがある。
 一泊数十万円するエグゼクティブルームの連泊客が、百貨店の担当外商員を呼びつけて商品を優雅に選ぶということもある。
 商品の搬入を手伝ったときは、こんな世界もあるのかと、ただただ驚いた。
 彼らが使うお金の額は一般人が想像するよりはるかに多く、身に着けているものも一流品だ。
 会社員が奮発してブランド物を持つというレベルではなく、衣食住のすべてがハイクラスのものに囲まれている。
 真の富裕層に生活費の概念がないというのも、ホテルに入社してから初めて知った。
 彼らは月にいくらと使うお金を定めていないため、欲しいものは欲しいと思ったときに買うし、値札を見ない。
 明義の住居だって、今自分がいる1Kの部屋と比べたら雲泥の差だ。彼との結婚など想像するだけで尻込みしてしまう。
 ――それに結婚ってお互いの家族が関わってくるから、私は明義にふさわしくないと思うんだけどな。
 一人っ子のミカにとって家族と言えば両親で、特に問題があるわけではないのだが、実母が明義の母親を嫌っているのだ。
 飛び蹴り事件を起こした際、母親と共に明義の家へ謝罪へ向かったとき、涼子を見てその美貌を羨んだのだ。
 帰宅後に母が、『明義くんのママ、私より美人なんてずるいわ』と意味不明なことを漏らし、その後もことあるごとに涼子の美しさに不満を漏らしていた。
 あの母親なら、明義との結婚など許さないと思う。
 ミカの母親は相沢姫子(ひめこ)と言い、外見は守ってあげたくなるような可愛い女性だ。涼子とは系統がまったく違う美人である。
 そして超ポジティブな思考を持つ宇宙人だったりする。
 娘のキラキラネームは素晴らしいと本気で思っており、人とは違う名前を付けた自分を誇っていた。やることのすべてが善意で、自分の思う通りにならないのは周りが悪いと心から思っており、話が通じない。
 沙綾と豊の母親は、よく実母と仲良くしてくれたものだ。まあ家が隣同士のうえ子どもたちの仲がいいため、逃げられなかったという理由かもしれない。そうだったら本当に申し訳ない。
 ミカは母親と考え方が合わず、物心ついたときから自分はおかしいのかと悩んだことも多い。特に父親が妻をとても可愛がって夫婦仲がいいため、ミカは家庭で疎外感を抱くことも少なくなかった。
 沙綾と豊に相談して、母親の方がイレギュラーなのだと納得するまで時間がかかった覚えがある。
 ――そうよ、お母さんのことを言えば明義も私と結婚したいって思わないんじゃない?
 ただこのとき、自分以外のことで彼の人生においてリスクになることに、胸の奥がちくっと痛んだ。けれどそのことを深く考える時間も精神的な余裕もない。
 ミカはシャワーを浴びて睡眠を取ることにした。


 ホテルは翌日から通常営業に戻った。爆破予告をした犯人については、警察が威力業務妨害の疑いで捜査しているという。
 それから二日後の水曜日、ミカは上司の販売企画課長に呼び出された。
「相沢さん、今日残業できる? なんか予定はある?」
「ありません。大丈夫です」
「じゃあさ、お客様に挨拶へ行ってくれる? ひと月前のブライダルフェアに参加したお客様がレストランに予約を入れたんだ」
 婚礼課からの依頼によると、そのカップルの案内をしたのがミカだという。
 そういえば自分が企画した婚礼商品の反応を調べるのもあって、案内を手伝った記憶があった。
 ホテル内の見学やブライダル相談会はほぼ毎日開催しているが、やはり力を入れているのは土日祝日のブライダルフェアだ。参加者の数が平日とは段違いなので。
 ブライダルフェアは基本的に予約制になっているものの、当日に見学だけでもしたいとホテルを訪れるお客も少なくない。
 ハイクラスのホテルは基本的に「NO」と言わないため、予約なしのお客様でもスタッフをやりくりして受け入れている。さすがに試食会は参加できないが、施設の見学だけでなくドレスの試着もできるだけ対応していた。
 ミカが担当したそのカップルは飛び込み客だった。
 彼らはラグジェ東京へアフタヌーンティーを楽しみに来たのだが、ブライダルフェアのパンフレットを見て、参加できるものなら参加したいとスタッフに声をかけた。
 それから一ヶ月たってレストランに来るということは、おそらく他のホテルや結婚式場を見て回り、ラグジェ東京に決めようか迷っているのだろう。そういうお客は少なくない。
 ブライダルフェアでは試食会に参加できなかったため、料理の味を確かめて不満がなければ挙式の契約をする、といった考えのはず。
 そこで案内を担当したミカに、挨拶という名のご機嫌うかがいに行ってほしいとのことなのだ。当ホテルはあなた方を忘れてはいません、歓迎しますよ、とのアピールだ。
 婚礼スタッフではないミカは、彼らが本契約をしてもその後は特に関わらない。しかし成約にこぎつけたことでミカも評価され、ちょっとした手当が支給される。残業代もきっちりもらえるので断る理由はない。
 ここ数年、世界規模の感染症の影響で、宴会や婚礼市場は低迷し続けていた。それがやっと復調の兆しを見せているのだ。
 ラグジェリゾート&ヴィラグループも需要の獲得に力を注いでいる。
 宴会場と婚礼施設を改装し、礼拝堂(チャペル)はホテルブランドにふさわしい華やかで上品な空間に、神殿は和と洋が調和する優美で厳(おごそ)かな空間に、それぞれ生まれ変わった。
 ウェブCMおよび動画サイトのラグジェ東京公式チャンネルでは、海外の有名ファッションモデルを起用したウエディングムービーを配信し始めた。
 これがSNSで好評を博し、若い女性たちの心をつかんだようでブライダルが盛況だ。
 結婚式が集中する春と秋のお日柄がいい土日は、すでに挙式予約が埋まりつつある。ブライダルフェアや見学会も千客万来だ。
 この波に乗ってお客様を一組でも多く獲得したかった。
 ミカは婚礼課から回されてきた本日のお客様のアンケートデータを見て、彼らが誰なのかすぐに思い出す。
 ――女性が滝谷志穂(たきやしほ)様、男性が四月一日賢司(わたぬきけんじ)様。……あの方たちか。
 美男美女カップルなので顔を思い出すことも容易だ。……ただ、男性の方に引っかかっていた。
 彼の名前が高校時代のクラスメイトと同姓同名なので。
 四月一日なんてとても珍しい名字だからよく覚えている。しかも生年月日が同じだ。
 それほど親しいわけでもないクラスメイトの誕生日を覚えていたのは、彼が定番にしている自己紹介が印象深かったから。
『名字が四月一日でも、四月一日生まれではありません。誕生日はクリスマスでキリストと一緒です!』
 今回のお客様も十二月二十五日生まれ。生まれた年も自分と同じ。
 これでまったく知らない別人である方が確率は低いと思う。間違いなく本人だと思うけれど、彼に気安く声をかけることはなかった。
 それというのも四月一日の顔が、記憶にあるクラスメイトとまったく違っていたのだ。完全に別人で、ごく普通の容姿だった彼が、目鼻立ちの整ったイケメンになっていた。
 よくよく見れば昔の面影はあるものの、最初に二人を案内したときは元クラスメイトだと気づかなかった。
 ――それに四月一日様、私の目を見ようともしなかったのよね。早く帰りたそうな雰囲気だったし……。お相手の滝谷様がうちのホテルで挙式したいと熱心だったから、渋々ついてきたという感じだったわ。
 他に結婚式を挙げたいホテルや式場があるのか、単に不愛想なだけなのか。
 なんとなくだが、挙式に関して女性側に決定権があるような印象だった。男性は強く反対できないといった雰囲気だったと記憶にある。
 まあ、百のカップルがいたら百通りの事情があるだろう。
 ミカは深く考えることをやめて、その日の夜、ラグジェ東京のフランス料理店〝エトワール〟へ向かった。
 支配人(マネージャー)に挨拶をしようとバックヤードへ顔を出せば、なんと沖縄時代にお世話になった元上司がいた。現在は横浜にあるホテルで、料飲部門のマネージャーに出世している。
「おっ、キラキラネームじゃないか。久しぶりだな」
 ミカは思わず苦笑する。沖縄のホテルでラウンジに配属されていた頃、サービスを一から叩き込んでくれた人だ。
「キラキラネームじゃなくて相沢ミカです」
「とうとう改名したのか?」
「いえ、いずれ改名します」
「通称かよ!」
 わはは、と笑って短く会話をしてから彼は去っていった。今日は横浜のホテルに異動となる人材について話を聞きに来たという。
 ――あいかわらず豪快な人だった。
 あれでフロアに立てば、穏やかな笑顔を絶やさない物腰の柔らかなサービスマンになるのだから、プロはすごい。
 ミカは店舗のマネージャーに挨拶をしてから店の入り口で待機する。予約のお客様を待つ間、先ほど言われた改名についてぼんやりと考えた。
 昔ネットで調べて、十五歳以上であれば親の同意なしで改名手続きができると知った。
 しかしパソコンの検索履歴からそのことが母親にバレてしまい、すさまじい親子喧嘩が勃発した。
 最終的に、『私がつけた名前を変えたら家から追い出すからね! 学費も出さないから!』と理不尽な脅しを受けたことと、父親からも諭されて諦めることにした。そのかわり大学を卒業したら必ず改名してやると決意した。
 ……しかし社会人になってからは仕事に慣れるまで忙しなく、後回しにしていたら名前に対する意識が少し変わってきた。
 それは――
 ここで例のカップルが腕を組んで近づいてきたことに気づき、ミカは背筋を伸ばして笑顔を浮かべる。
「いらっしゃいませ、お久しぶりです、四月一日様、滝谷様」
 ミカの存在に気づいて、なぜか四月一日の顔色が悪くなった。しかし滝谷の方はパッと表情を明るくする。
「覚えててくれたんだ。確かブライダルフェアで担当した人よね」
「はい、キラキラネームの相沢です」
 滝谷が小さく噴き出した。
「そうそう、すごい名前だったわよね。なんだったかしら?」
「美しい力と書いて、びゅーてぃぱわあと読みます。この名前のせいで子どもの頃はどれだけ理不尽な思いをしたか」
 よよよ、と泣き真似をすれば滝谷にめちゃくちゃ受けた。フレンドリーな雰囲気になったので、話しながら夜景が楽しめる窓側の予約席まで案内する。
 ミカは宴会やフロントなどの接客業についてから、初めて自分の名前をポジティブにとらえることができた。なにせお客様はミカの名前を忘れても、「あのキラキラネームの人」と存在を思い出してくれる。
 たまに名前を聞いてドン引きするお客もいるけれど、そこは笑い話にすればいい。
 昔は名前を指摘されるたびに腹を立てていたが、ホテルに勤務してからというもの、キラキラネームで呼ばれるのは些細なことだと思えるようになった。もっと大変なUG客と遭遇するようになったので……
 UGとは、undesirable(アンデザイアブル) guest(ゲスト)――ホテルにとって望ましくないとか、好ましくないお客のことをいう。
 ミカは沖縄のホテルでフロント業務に就いていた頃、特大のモンスタークレーマーに遭遇して考えを改めた。警察沙汰になるほどのクレーマーのトラブルに比べたら、キラキラネーム笑われるくらい可愛いものだと。
 それを明義に漏らしたら、『俺に飛び蹴りした奴のセリフとは思えない』と言われて口喧嘩になった。
 ……そこまで思い出したときお腹の奥が疼いたため、慌てて明義のことを頭から追い出す。今は仕事中と意識を切り替えた。
 四月一日たちに、ちょうど今週の土曜日にブライダル相談会があるため、特別に予約を入れずとも必ず対応することを伝え、食事中の接客はレストランサービス係に任せてミカは下がる。
 どうかうちのホテルを選んでくれますように、と祈りつつ店舗を出た。自分は挨拶のみなので後は婚礼課に任せたらいい。
「――おい。相沢」
 驚いて振り返ると、四月一日が小走りで近づいてくるところだった。その整った顔で名字を呼び捨てられることに違和感を覚えつつも、営業スマイルを浮かべて頭を下げる。
「はい。何か御用でしょうか、四月一日様」
「そういう堅苦しいのはいいから。俺のこと気づいてるんだろ? 普通にしゃべってくれ」
 予想通り、元クラスメイトだったらしい。
 ――整形したのかなって思ってたけど、やっぱりそうなんだ。
 今の美容整形の技術はすごいと感心していたら、四月一日が苦い顔つきになる。
「おまえ、俺たちの担当から降りてくれないか」
「四月一日くんはこのホテルで挙式すると決めたの?」
「……志穂が、ここがいいって言い張るんだよ。ホテルの結婚式の動画があるじゃん。あれに出てるモデルのファンだから」
 そうですか、と相槌を打ちながら、四月一日が追いかけてきた理由をなんとなく察した。おそらく彼は整形したことを恋人に知られたくないのだろう。
「わかったわ。四月一日くんの担当は私以外のスタッフに引き継いでもらうから」
 ミカはウエディングプランナーではないので、もともと彼らの結婚式まで関わらない。
 四月一日はホッとした表情になり、「今後は俺たちに関わらないでくれよ」と告げてレストランに戻っていった。
 その後ろ姿を見送ってミカは複雑な気持ちを抱く。秘密を抱えて結婚生活を送るのは、心理的な負担になると考えないのだろうか、と。
 ただ、それは自分が気にすることではないと思ったので思考を切り替えた。
 婚礼課には、例のお客様は本契約できそうだと伝えておく。
 オフィスに戻ってスマートフォンを見ると、明義からメッセージが来ていた。……一夜を共にしてからというもの、彼は毎日メッセージを送ってくる。長い付き合いなのに、これほどマメな男だとは知らなかった。
 メッセージには、明日から土曜日まで福岡へ出張なので、戻ってきたら土産を渡しに行くとある。
 月曜日の去り際、『また来る』と言っていたが本当に来るらしい……
 ――明義のお眼鏡にかなう結婚相手って、そんなにいないのかしら。
 男性からこれほど熱心にアプローチを受けたことがないため、ただただ戸惑う。もともと豊以外の男性に興味を持てなかったため、恋愛事には疎いのだ。
 そして困っているのは、明義に嫌悪感を抱かないことである。生理的に無理となれば彼とも戦えると思うのに、やはり肌を合わせたからなのか心がグラついている。
 ――体から籠絡されるって、こういうことを言うのかも。でも失恋したばかりで他の男に乗り換えるってのはなぁ……
 自分は融通が利かない性格なのだろう。片想いの男に義理立てする必要などないのに、気持ちの切り替えが早いことを不実だと考えている。
 だから一番の親友である沙綾にこのことを相談しにくかった。
 沙綾が豊との交際を始めてから、なんとなく二人と疎遠になっていた。幸せな彼らを見るのがつらくて、でも幸せになったことが嬉しくて、それなのに素直に祝福できない自分が情けなくて。
 沙綾も遠慮があったのか、いつしか連絡が途切れてしまった。
 それでも結婚式の招待状が届き、喜んで出席し、心から祝福したことでわだかまりを解消したと自分は思っている。けれど今でも相談しにくい心理であるなら、やはり心に引っかかっていることがあるのだろう。
 ――それに沙綾って明義と相性が悪いのよね。明義とのことを相談したらキレそう。
 沙綾と明義はなぜか反りが合わず、お互いに反目し合っていた。
 といっても沙綾はミカと豊、明義は豊とミカ、とそれぞれ親しい付き合いを続けているため、なんとなく四人で行動する機会が多かった。
 そういうときはたいてい沙綾と明義が火花を散らすため、自分と豊は面白がって見ていたことも多い。
 ――懐かしい……昔みたいにみんなで、愛だの恋だの関係なく遊べたらいいのに。
 そこでミカはクスッと微笑む。そんなもの、保育園時代まで時間を戻さねば無理に決まっている。
 そしてそこまで時間が巻き戻ったら明義と会えない。
 彼がいない。
 そう思った瞬間、どうして明義が出てくるのよ、と複雑な心境になった。

 金曜日、販売企画課に出勤すると、上司と婚礼課の課長に会議室へ呼び出された。
「昨日、滝谷様がブライダルの契約をするってご連絡をくださったんだけど、お式の担当は相沢さんにお願いしたいそうだ」
「相沢さんがとても感じのいい人だったからウチに決めたんだって」
 ミカは上司の言葉に、「ありがたいことです」と冷静な顔をしつつも嬉しいと思った。こういうのが接客の醍醐味だと思う。
 ただ、四月一日は自分を排除したいと思っているのだから、これは滝谷一人の意思なのだろう。彼は反対しなかったのか。
「あの、私が婚礼スタッフではないことはお伝えしましたよね?」
「もちろん。相沢さんが別部署の人間で、今後は正規のウエディングプランナーが担当するって伝えたよ」
 ブライダルフェアの接客担当と、実際に挙式を手伝う者が別の人間であることは、他のホテルや結婚式場でも結構多い。施設側は、『契約後は担当者が変わります』とは言わないのだ。
「それでも私が担当するのでしょうか?」
「どうも滝谷様がね、担当が変わるなら契約はしないって言うんだ」
 意外とわがままなお客様だった。まあ、ホテルにはそういう方も少なくないので、よくある事態ともいえる。
 そしてこういうとき、「お客様の要望にノーと言わない」が効いてくるため嫌な予感がした。
「滝谷様ってね、お父様がTAKIYA(タキヤ)ホールディングスの社長で、創業家の方なんだ」
「えっ、知りませんでした」
 TAKIYAホールディングスといえば、国内の製薬会社ランキングでトップテンに入る大手企業だ。確かに彼女のプロフィールには、『職業:会社員、お勤め先:TAKIYA製薬』と書かれている。
 ただ、企業名と同音の名字だからといって、経営者の家族とは決めつけられない。
 ではなぜわかったかと聞けば、なんとラグジェリゾート&ヴィラグループの社長と、TAKIYAホールディングスの社長につながりがあるそうなのだ。
『娘の結婚式をラグジェ東京でやるって決めたから、よろしく』
 との伝言が我が社の社長のもとへ来たとのこと。そのような関係があるとなれば、滝谷の要望を断ることなんてできない。
「あれ? でもそんな伝手(つて)があるなら、滝谷様はブライダルフェアに参加する必要なんてなかったのでは?」
「滝谷様は結婚式場を親に決められたくないそうで、ご自身で選ぶことになっているんだって」
「なるほど、それで」
 企業経営者の家族が結婚するときは、子どもより親が気合いを入れて取り仕切ることも多い。しかし滝谷家は娘の自由にしているらしい。
「滝谷様のお式だけど、招待客が二百名を超えるようで、かなりの予算をかけるそうだ。頑張ってほしい」
「それを聞いて、よけいにプランナーさんが担当した方がいいと思いました」
「私たちもそう思うんだけど、お客様の要望にはなるべく応えたいし。それにほら、婚礼はキャンセルが発生し始めているだろ」
 先日の爆破予告事件のせいで、恐ろしいトラブルが起こったホテルで慶事はふさわしくないと、仮契約のお客様のキャンセルが増えていた。
 そんな状況でラグジェ東京を選んでくれた滝谷様はありがたい存在だ。しかし四月一日との約束がある。
「あの、ご相談がありまして……」
 四月一日は高校の同級生で、秘密にしたい過去があり、それを滝谷に知られたくないため、当時を知るミカと関わりたくない……と、整形のことは伏せて話せば、上司たちは難しい顔になった。
 しかし判断は早かった。
「四月一日様には申し訳ないが、たぶん滝谷様の意見が通る」
 どうやら四月一日が滝谷家に婿入りするそうで、彼は恋人にあまり強く主張できないらしい。
「では私は……」
「滝谷様には何も言わないで、四月一日様だけに説明するしかない」
「そうなりますね……」
 面倒なことになったとミカはため息を呑み込んだ。