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おまえしか欲しくない 美形御曹司の愛は少しばかり重めです!?  3

第三話

 そして翌日の土曜日。午前中にさっそく四月一日と滝谷が本契約を交わすために来館した。
「改めまして、ラグジェ東京販売企画課の相沢です。四月一日様と滝谷様の結婚式を、心を込めてお手伝いさせていただきます」
「相沢さんが引き受けてくれてよかったわーっ!」
 満面の笑みである滝谷に対し、四月一日は無表情なので怖い。決して目を合わせようとはせず、こちらの鼻辺りを見ているような気がする。それでも滝谷が話しかければ柔らかく微笑むから、その差異がなんだか物騒に感じられて怖い。
 ミカはもっぱら滝谷へ話しかけることにした。
「ブライダルフェアのアンケートでは、お式の希望が六月となっております。お変わりはございませんか?」
「ないわ。やっぱりジューンブライドがいいの」
「六月の花嫁様、素敵ですよね。来年の六月はまだ予約が空いております。ご希望のお日にちはございますか?」
「うーん、休みの日ならいつでもいいのよね」
「ではお日柄のいい休日にしましょうか。この日曜日と土曜日が大安となっております」
 タブレット画面でカレンダーを表示すると、滝谷は笑顔で土曜日を選んだ。
 このようにして決められることを笑顔でサクサクと進めていく。
 婚礼はマニュアルが存在するため、ミカのような他部署の人間でもなんとか進めることはできる。なので一見、手慣れているように見せているが、内心では緊張しっぱなしだった。
 ミカは婚礼課に配属されていた間、ウエディングプランナーのアシスタントについており、メイン担当者になった機会はそれほど多くない。
 ミカが一人で担当したカップルといえば、家族と親族のみが参加する少人数ウエディングや、ウエディングフォトのみといった小さな案件ばかりだ。
 今回は規模が大きいため、ウエディングプランナーがサブ担当者として一人ついている。たいへんありがたいが、本音では替わってほしい……
 心の中で泣きながらも契約について順に説明していく。打ち合わせ回数や解約(キャンセル)料などの重要なことを伝え、仕事用のスマートフォンで二人とメッセージIDを交換した。
 無事に契約が結ばれてミカは胸を撫で下ろす。二人をホテルの玄関まで見送ってようやくホッとした。
 婚礼課に戻ると、サブのウエディングプランナーがはげましてくれた。
「ブライダルは久しぶりなのよね? それにしてはちゃんとできていたわ。ミスがないよう私もチェックするから一緒に頑張ろう」
「はい!」
 本職のウエディングプランナーから褒められて気分が上昇する。こうなったらやるしかないので、前向きに取り組もうと思った。四月一日はともかく、滝谷の信頼を裏切りたくない。
 ここで仕事用のスマートフォンが震え出す。画面を見れば四月一日の名前が表示されていた。
 ――さっそく来たわ。
 お叱りを受けると覚悟していたが、早すぎではないだろうか。滝谷はそばにいないのか。
 ミカはすぐに婚礼課の事務所を出て人気(ひとけ)のない従業員用通路へ向かうと、通話アイコンをタップする。
 その途端、四月一日の罵声が轟いた。
『どういうことだ相沢! 俺たちの担当から外れるって約束したのは嘘だったのかよ!』
「申し訳ありません。お断りすることは難しい状況になりました」
『言い訳するな! 今からでも辞退しろ!』
「私もそうしたいのですが、滝谷様が了承してくださいません。できれば四月一日様の方からも説得を――」
『できるわけねぇだろ! いいか、おまえが断われ! 絶対だぞ! おまえが担当なんて俺は許さねぇからな!』
 最後までこちらの話をまともに聞こうとせず、通話が切れた。ミカは沈黙したスマートフォンを見て悲しくなる。
 ――滝谷様ってあの男のどこがよくて結婚するのかしら? いいのは顔だけじゃない。
 泣きたい思いで事務所に戻る。一応、婚礼課の課長に四月一日の不満について伝えておくことにした。
 婚礼は華やかな仕事と思われがちだが闇の部分も多く、お式を無事に執り行うためには情報共有が大事なのだ。
 たとえば新郎の浮気相手が式場契約を勝手にキャンセルしようとした、とか、新婦の元カレがウエディングドレスに赤いペンキを塗ろうとした、とか、結婚に反対する親と親族が挙式に参列しない、とか……
 公にできないトラブルが、そこそこの頻度で発生する。
 なので新郎新婦やその家族に問題がある場合は、対策を早めに考えねばならなかった。
 ――まあ、新郎の父親がマグロ解体ショーをやったときや、新郎新婦がドレスとタキシードで自作のヘビメタを歌ったときの対応より、ずっと楽だわ。
 前者は参列者に好評だったが、後者はドン引きだった。それでも婚礼スタッフは笑顔で粛々と準備を進めなければならない。
 ミカが課長へ四月一日のことを話せば、彼は呆れた顔になった。
「四月一日様が恋人を説得すればいいのでは? こっちも正規のプランナーに替えたいんだから」
「ですよねぇ……」
 心の底から当事者同士で話し合ってほしい。滝谷さえ意見を変えてくれれば済む話なのだから。
 疲労を感じつつ事務手続きを済ませ、ブライダル相談会にヘルプとして参加する。その後、本来の業務を片づけてから退社することにした。
 従業員出入り口からホテルを出て駅に向かう。公園のそばを通り過ぎようとしたとき、背後から「相沢」と呼びかけられて驚いた。
「四月一日様……」
 いったいいつから待ち構えていたのか。疲れた表情の彼が目を血走らせて近づいてくる。
「担当者の件、断ったか?」
「……同じことを申し上げますが、私の一存では決められません」
「まだ俺たちに付きまとう気かよ」
 お客様相手とはいえ、ここまで話が通じないとさすがにうんざりしてきた。
「お約束が守れなかったことは申し訳ありません。ですが私では本当に断ることができないのです。四月一日様の方から滝谷様へ――」
「ふざけんなよ! 俺の幸せを壊すつもりか! 何様のつもりだ!」
 男から怒声をぶつけられて、恐怖ですくみ上る。ホテルにこういうお客はいないわけではないので対応は学んでいるが、ここには男性スタッフや警備員がいない。
 通行人もこちらへチラチラと視線を向けるだけで、関わり合いになりたくないとばかりに立ち去っていく。
 ミカは背中に冷や汗が垂れ落ちるのを感じた。
 ――この状況はまずい。
 職場を離れてまで彼に付き合う義理はないことと、鬼気迫る姿に警戒心が膨れ上がったことで、ミカはその場から走って逃げ出した。
 駅へ向かい、改札口の駅員がいる近くで振り返れば、四月一日らしき男が追ってくる様子はなかった。急いでホームに向かう。
 ――怖かった……歴代のUG客の中でもトップレベルのヤバさじゃない。
 ラグジェ東京にもブラックリストが存在し、ホテルの利用料金を支払わずに逃げる〝スキッパー〟や、スタッフに暴力を振るって警察沙汰になったお客もいる。四月一日からはそういったお客と同じ気配があった。
 しかも彼はミカが何時に退社するかなど知らない。休日に恋人を放って憎い相手を何時間も出待ちするなんて、普通の精神状態とは思えなかった。
 四月一日は逆玉の輿といえる立場だから、もし滝谷と破局するようなことになったらミカを逆恨みしそうな気がする。
 やはり担当は変えてもらおうと思った。上司にこの件を報告すれば配慮してくれるかもしれない。信頼してくれる滝谷には申し訳ないが、このままでは己の身が危ないような気がする。
 ――というか、滝谷様って結婚相手を考え直した方がいいんじゃないの? 四月一日くんって本当に顔だけじゃない。
 とはいえそこまで他人が口を挟むことではない。
 尋常ではない疲労を感じて、ミカは電車を降りると自宅までとぼとぼと歩いた。
 しかしその途中、人の気配がついてくるような気がして不安になる。
 ――気のせい? でも靴音がずっとついてくる……
 たまたま自分と同じ方角へ帰る人なのかもしれない。けれど試しに歩調を緩めてみたら、背後の靴音もゆっくりになって追い抜こうとはしない。
 心臓がバクバクと激しい鼓動を叩く。必死に安全対策研修会で習ったことを思い返した。
 ――振り向いちゃだめ。スマホを持ってすぐに警察へ通報できるようにする。自宅に向かわずコンビニやスーパーなどの明るい場所へ行く。そこで時間を潰してから自宅へ向かう。部屋に入る前に周囲を見回す……
 しかしコンビニは通り過ぎてしまった。この辺りは住宅街なので他の店舗もない。
 どうしよう、どうしよう、と焦りながらスマホを握り締める。手に汗が滲んで落としそうだから、焦って余計に冷や汗が止まらない。
 混乱しているうちにマンションが見えてきた。エントランスに背の高い人影が立っていることに気づいて息を呑む。
「……明義」
「お疲れ」
 いつもと同じ態度の彼に途方もない安心感を覚えた。一瞬、彼が神様のように見えて脚が震え、よろめいてしまう。
 明義が慌てたように支えてくれた。
「どうした、体調が悪いのか?」
「駅から、誰か、あとをつけてきて……」
「なんだと?」
 唸るような声を出した明義が周囲を見回す。駅に向かう方角で視線を止めると、ミカの体をマンション入り口の段差に座らせる。
「ちょっと待ってろ。怖かったら部屋に入れ」
 そう言い置いて勢いよく駆け出していく。
 ミカが驚いていると争う声が聞こえてきた。数秒後、「いでででででっ!」と明義ではない男の情けない声が響く。
 ――この声って四月一日様では。まさかここまであとをつけてきたの?
 戻ってきた明義は、不審者の両腕を背中側で拘束して、引きずるようにその男を連れている。やはり四月一日だった。
「ミカ、こいつに心当たりはあるか?」
「うん。うちのお客様」
「はあぁ?」
 明義が珍しくすっとんきょうな声を上げる。
 直後に四月一日が吠えた。
「てめぇっ、明義だろ! 放せ馬鹿野郎!」
「俺を知ってるのか?」
「忘れるわけないだろ! このイケメンがっ!」
 眉をひそめる明義に、ミカが「高校時代のクラスメイトで四月一日くんよ」と説明すれば彼は目を見開いた。
「おまえ、エイプリルフールか!」
「うるせえ! それ言うんじゃねぇよ!」
 そういえば彼はそんなあだ名で呼ばれていた。
 ミカが懐かしい気持ちでいたら、明義が彼の背後から首を絞めるようにつかんで力を込める。
「ぐるじぃ……」
「ミカをつけ回しやがって、なんの用だ。理由によっては警察に突き出すぞ」
「まっ、待ってくれ!」
 四月一日だけでなくミカも焦る。
 警察沙汰になればこのことが滝谷へ伝わるかもしれない。迷惑なお客だが彼の幸せを壊したいとまでは思わないのだ。
「待って明義、お客様の個人情報は部外者には言えないの。四月一日くんと二人で話をさせてくれない?」
「危険すぎる。俺は聞いていないからここで話せ」
 ……この位置で話を耳にしないなど不可能だが、そういう建前にしたいのだろう。ミカとしても、四月一日と二人きりにされるのは本音では怖いので頷いた。
 明義が四月一日の首から手を離して腕も解放する。
 ミカは四月一日へ、ホテリエとして背筋を伸ばして相対した。
「四月一日様。私はあなたが整形したことは、滝谷様だけでなく会社にも伝えておりません。今後も誰にも話さないとお約束します。私と四月一日様はブライダルフェアで初めてお会いしただけの関係で、お式が終われば二度と関わることはありません。信じていただけないでしょうか?」
 ミカの真剣な表情と声に、やがて四月一日はうなだれた。
「……昔の俺、ブサイクだったじゃん」
 いきなり話が変わって面食らう。しかも横から明義が、「俺は前の顔の方が味があってよかったけど」と茶々を入れてくる。
「明義、黙ってて」
 聞いていないことになっているだろうと睨めば、四月一日がため息を吐いて明義を見上げた。
「俺、こいつみたいになりたかったんだよな。息をしてるだけでモテてたじゃん。明義を好きじゃない女子なんていなかったし」
「ミカがいるだろ」
 明義がこちらへ指を指してくる。その通りなのにミカは胸がちくっと痛んだ。
 四月一日が苦く笑う。
「こいつとは幼馴染みなんだろ、女のうちに入らねーよ」
 その言い方にカチンときたが、口を挟みたくないので唇を引き結んだ。
「明義を見るたびにさ、顔がよければ人生勝ち組だなって思ったんだよな。それで浪人したときに整形したんだ」
 大学合格した友だちとは連絡を絶っていたため、ちょうど人間関係がリセットされていた。今なら家族以外にバレないと思い、学費をちょろまかして顔を変えたという。
 明義が汚物を見るような目で四月一日を見下ろした。
「おまえ、最低だな」
「うるせえ。大学は奨学金で行ったからいいだろ」
「待って、大学に行けば四月一日くんを知ってる人も一人ぐらいいるんじゃない?」
「ああ、だから通信制大学に行った」
 その返事にミカも明義も微妙な顔つきになった。ここにいる三人は高校時代、特進クラスに在籍していたのだ。
 通信制大学が悪いわけではないが、あの勉強漬けの日々を思い返せばなんとも言えない気分になってくる。
 しかし四月一日は満足そうに微笑んでいた。
「ほんと、この顔にしてよかったよ。俺なんて学歴が高いわけでも仕事ができるわけでもないのに、真面目なふりをしていればモッテモテなんだぜ。志穂とも付き合えて逆玉だし」
「…………」
「これで志穂の名字に変えれば、俺のことに気づく奴は誰もいなくなる。もう少しなんだ」
 確かに四月一日という珍しい名字でなければ、ミカも彼を元クラスメイトだと気づかなかっただろう。
 しかし彼の〝顔さえよければ人生勝ち組〟という思想に物言いをつけたくなる。
 たとえ顔がよくても、自分は四月一日と関わりたくない。できれば仕事でも会いたくない。
 それに彼の言い分には、明義を同類としているような印象があってたいへん腹立たしい。彼はそんな人じゃないのに。
 ――あんたと一緒にするな。
 怒りからミカが口を開こうとしたとき、先に明義が声を出した。
「で、おまえのくだらない話とやらは終わりだな? もう帰れ。二度とミカをつけ回すな。でないと逆玉の相手とやらに卒業アルバムを送りつけるぞ」
「ちょっと明義!」
 せっかく四月一日が落ち着いてきたのに蒸し返さないでほしい。ミカは蒼ざめる四月一日へ、言い聞かせるように話しかけた。
「当ホテルは四月一日様と滝谷様がご成婚されないと挙式費用をいただけません。なのでお二人の関係を悪化させることはあり得ないのです。ご理解いただけますか?」
「……ああ、そうか……」
 納得したように四月一日が頷いた。……それぐらい指摘される前に思いついてほしかったと心から思う。
 明義が、「さっさと帰れ」と圧をかけると、四月一日は肩を落として来た道を戻っていった。
 ミカは肺の中を空にするほど大きな息を吐く。
「疲れたわ……」
「予想外のモンスターに成長したな、あいつ」
「本当よぉ。というか明義、四月一日くんの事情をよく理解できたわね」
「おまえたちの話を聞いていればわかるだろ。逆玉の女に整形したことを知られたくなくて、過去を知るミカに脅迫まがいのことをしたってところだろ?」
「そう、うちのホテルで挙式することになってね。結婚相手の方に私が担当を指名されちゃって、断れなくって」
「災難だったな」
 そう言いつつ明義が頭を撫でてくる。
 ……男性にこんなことをされたら腹立たしいと思うはずなのに、なぜか嬉しく感じて己の心情に戸惑った。しかもさりげなく背中を押され、マンションのオートロックシステムの前まで導かれる。
「……もしかしてうちに来るの?」
「土産を持ってきた」
 明義がボストンバッグを持ち上げる。
 ミカはものすごく疲れて言い争う気力がないのと、助けてくれたのもあって素直に部屋へ通すことにした。
「お腹空いた……」
「駅弁を買ってきたんだ。食べないか?」
 大阪出張の帰りに購入したという。きちんと保冷袋に保冷剤と一緒に入っており、なんと三つもあった。
「なんでこんなにあるの?」
「シェアしようと思って」
「そっか。――みんな大阪の駅弁?」
「どうだろ。新大阪駅に全国の駅弁をあつかってる店があるだろ。選ぶのに迷ったから店員が勧めるものを買ってきた」
「ああ、あそこね。懐かしいわ」
 ミカはラグジェ東京に転勤となる前、大阪のホテルで働いていた。
 ラグジェリゾート&ヴィラグループは、総合職の新卒社員を地方に配属するのが伝統だ。
 そこからジョブローテーションを繰り返して、六年から八年ほど勤めた後、本社の管理部門に配属される。
 ミカも販売企画課に配属となった時点で、次の異動は本社勤務だろうと思っている。だから大阪へ行く機会なんて旅行ぐらいしかないため、懐かしかった。
 しかも弁当以外に有名な豚まんとロールケーキまであって、食べ物ばかりのお土産に小さく噴き出した。
 今の関係でジュエリーなどの高価なものを渡されたら、困惑して受け取れないだろう。さすが幼馴染みだけあってよくわかっている。
「めちゃくちゃ嬉しい。ありがとう」
「ああ」
 三つの弁当を温めて、二人で少しずつ食べることにした。いろいろな味を試すことができて楽しい。
 ……自分の部屋で明義と食事をしていると不思議な気分になる。もし自分が彼の求婚を受け入れたら、こうして暮らしていくのかと想像して。
 その直後、なんで結婚する未来を思い浮かべているんだと自分にツッコミを入れる。
 考えまいと思うのに妄想してしまうのは、やはり心がグラついているからなのか。
 恋愛初心者が恋愛する前に肌を許してしまい、その相手にプロポーズされたら嫌でも意識するだろう。
 ――でも私、どうしても結婚したいわけじゃないし。結婚できたらいいなとは思うけど、できなかったらそれでいいとも思うし。
 両親は放任主義なので、「早く孫の顔を見たい」などとは言ってこない。親戚もうるさく言う人はいない。
 職場に恵まれたこともあって、生涯独身でも生きていける環境がある。
 ただ、自分を望んでくれる男なんて今後は現れないと思うから、明義の求婚に頷いてしまえと自分の中で悪魔が囁く。彼が打算で求婚するなら、自分も打算で受け入れてもいいのではないか、と。
 明義が告げたように、彼となら穏やかな家庭が築けるかもしれない。
 伊達に二十年近くも友人をやってきてないのだ。彼が情に厚い男であることも知っている。
 ――私が沖縄に配属されて、友だちと会えなくて寂しいって言ったら、ちょくちょく遊びに来てくれたもんなぁ。
 OJT研修後、最初に配属された沖縄では友だちどころか同期さえおらず、まだ同僚ともそれほど親しくなっていなかったため、常に休日を一人で過ごしていたら軽いホームシックになった。
 それを明義に愚痴ったところ、彼は連休を使って沖縄まで遊びに来てくれたのだ。
 当時の休みは平日しか取れなかったため、ミカは彼の休暇に合わせることができない。
 しかし明義はまったく気にせず、ミカの仕事終わりに飲みに誘って憂さ晴らしをさせてくれた。
 そのうち閑散期(オフシーズン)になると土日の休みももらえたため、明義の休暇に合わせて沖縄を案内した。観光客が行かないような穴場を探して、彼を連れていったこともあった。
 大阪に配属されてからも明義との付き合いは続いて、ミカは彼と会えるのがとても嬉しかった。
 ――でも、これまで一度も甘い雰囲気になることはなかったのよね。私は豊のことが好きだったから……
 そこであることに気づいて愕然とする。
 豊が沙綾と付き合うようになってからも恋心は消えなかったのに、明義と一夜を共にしてから一度も豊のことを思い出していないと。
 たった一度の情交の方が、長年の恋より重いのかと呆けてしまう。
「――聞いてるか? ミカ?」
 明義の声でハッとする。我に返れば、正面にいる明義と目が合った。彼はいつもの無表情だが、その綺麗な瞳にはこちらを案じる気持ちが滲んでいる。
 明義はあまり感情を顔に出さず、無表情が鉄板だ。でも長い付き合いで、なんとなく喜怒哀楽を感じるようになった。
 だから今、心配をかけているとわかる。
「ごめん。ボーッとしてたわ」
「疲れてるんだろ。あんなヤバい男につけ回されたら当然だ」
 四月一日のことを思い出していたわけではないが、精神的に疲労を感じていたのは本当なので曖昧に笑っておく。
 明義はすでに弁当を食べ終わっており、「お茶、もらうから」と冷蔵庫から麦茶をおかわりしている。
 ミカが慌てて食事を再開したとき、「さっきの話だけど」と彼はしゃべりながら元の位置に座った。
「ごめん、聞いてなかった」
「だろうな。おまえ、明日は休みか?」
「えっと、明日も、仕事で……」
 本当は休みだけれど、とっさに嘘をついてしまった。それを言うと再び押し倒されるような気がして。
 ……彼との結婚に気持ちが傾いているのに、なぜ逃げるのだろう。罪悪感で胸がしくしくと痛む。
 明義は無表情に残念そうな雰囲気を滲ませて、「そうか」と呟いた。
「じゃあさ、七月か八月にまとまった休みが取れるって言ってただろ。あれって決まったのか?」
 ホテル業界の社員は土日祝祭日や大型連休、春休みや夏休みなど、お客様が休みの日が繁忙期となる。ラグジェ東京では繁忙期を避けて交代でまとまった休みを取得していた。
 七~八月はホテル業界のハイシーズンの一つになり、ミカは沖縄のリゾートホテルに配属されていた間、この時期にまとまった休みなど一度も取れなかった。
 しかし現在配属されている営業部は、婚礼を含む宴会場(バンケット)を担当しており、七月、特に八月はオフシーズンだったりする。
 真夏に汗だくで結婚式を挙げようとする人は少ないし、お盆休暇の前後はビジネス宴会予約が減少する。
 九月になると婚礼件数が一気に増えるため、営業部は七月から八月の間に連休を取ることが推奨されていた。ただしお盆期間中は、ブライダルフェアなどのイベントが連日開催されるため取得できない。
「……今年は、七月下旬に七日間よ」
「七日間ってことは土日が含まれているよな。その日は俺に付き合ってくれ」
「何に?」
「デート」
「でっ、な、なんで!?」
「デートしたいから。さっき助けてやった借りを返してもらう」
 ウグッと米粒が喉に詰まった気分になった。まさか報酬を望まれるとは……
 とはいえ助けてもらったのは事実であるし、デートぐらいならまあいいか、とも思う。
 ――沖縄や大阪にいた頃だって、予定を合わせて遊びに行ったこともあるし。
 強く拒否できないのは、すでに絆されている証かもしれない。チョロい。
 迷いながらもミカが承諾すると、立ち上がった彼がすぐ隣に腰を下ろす。
「なに?」
 身を固くしたのは押し倒されたときのことを思い出したせいだ。しかも全身をまさぐられた記憶まで脳裏に浮かび、一瞬で体の芯が熱を持つ。
 彼を見続けることができなくて顔をそらした。
 すると明義が両手をこちらの頬に添えて、見つめ合うよう顔の向きを強引に戻す。おかげで首からグギッと音が鳴った。
「いだだっ」
「なんで顔をそらすんだ」
「……深い意味はないわよ」
 今まで明義の顔を見て、感情を揺さぶられることなどなかった。それなのに今は目が合った途端、ドキドキして直視できない。
 しかもそういうときはお腹の奥が疼いて、脚の付け根へ体液が垂れそうになる。
 猛烈に恥ずかしい。痴女になった気がして穴があったら入りたい。
 だから明義を見たくなくて眼球だけ横にそらした。その直後、いきなり唇を塞がれる。
「んんっ、はっ、や……っ、あぅんっ、ふぅっ、んんぅっ」
 すぐに舌が潜り込んですり合わされる。唾液をまとったぬるついた舌の感触に、気持ちいい、との言葉が脳裏に浮かんでのぼせそうになった。
 ――明義とのキス、気持ちいい……
 舌を結ぶような深い絡み合いも、唾液を混ぜて飲み下す行為も、すべて気持ちいい。
 だから頬に添えられた彼の手はそれほど力が込められていないのに、振りほどくことができなかった。口内をまさぐる舌と快感に陶酔してしまう。
 くちゅくちゅと唾液を練るみたいな卑猥な音が頭の中で響くたびに、口から遠く離れた腰が疼いた。下半身から力が抜けていく。
 明義が満足するまで舌も唇も執拗に舐められて吸われて、彼が離れた頃になるとミカは座っていられなかった。
 倒れそうになり、両手を床について体を支える。
「ベッドまで運ぼうか?」
 耳元で囁かれる声は、彼の部屋で聞いた情欲にまみれたものだ。ここで頷いたら絶対に朝まで放してもらえない。
「……いい。お風呂に入るから」
「風呂も入れてやるけど?」
「もう寝るっ」
 それ以上、誘惑しないでと涙目で睨みつける。
 明義が指の背でこちらの頬を優しく撫でてきた。
「ヤバい奴が来て疲れてるもんな。――帰るよ」
 明義の顔に名残惜しいとの感情が滲んでいるから、ミカは胸がときめいて居心地が悪くなる。打算でプロポーズしたくせに、まるで熱烈に愛しているような錯覚を抱かせるのだから、なんてたちが悪い男だろう。
 しかも「帰るよ」と言ったくせに、こちらを見つめたまま動こうとしない。おまけに彼の瞳がミカを欲していると気づいてしまう。
「……帰らないの?」
「帰ってほしいのか?」
「自分で言ったんじゃない!」
 ムキィーっとミカが喚いたら、珍しいことに明義の唇が弧を描いている。
 彼は素早くミカに口づけ、「じゃあな」と告げるとボストンバッグを持って部屋を出て行った。
 その後ろ姿を見送ったミカは、やがて床に倒れ込む。
「……そんなにキスしないでよおぉ」
 両手で顔を覆い、硬いフローリングの上で身悶える。
 こちとら恋愛未経験者、つまり男という生き物が女に対して何を考ているのか、さっぱりわからないのに。
 幼馴染みの親友と酔った勢いで肌を合わせて、打算でプロポーズされて、危ないところを助けてもらって、頷いてもいいかなと心がグラついて……それなのに土壇場で逃げようとしてしまう。
 たぶん不安なのだ。
 確かに明義となら穏やかな家庭が築けるかもしれない。けれど愛もないのに死ぬまで添い遂げることが、心のどこかで信じられなかった。
 もし彼が真実に愛する人を見つけたら、打算で選んだミカなどすぐに捨てられるかもしれない、と。
 このことを明義に指摘してやろうかと思ったが、すぐに考え直した。どうせ「結婚してから愛情を育てればいい」とか言うに決まってる。口では勝てない。
「……そうだ、お母さんのことを話すの忘れたわ」
 あなたの母親をうちの母親が嫌っているから結婚は難しい、と言ったら彼はどうするだろう。説得するのか、親など関係ないと無視するのか。
 短いながらも婚礼部門で働いていたため、結婚は当人同士だけでなく、両家の親が深く関わってくることを知っている。
 親の意向を無視して結婚することはできるけれど、それは親子の間に深い溝を作って、のちのち大きなトラブルを引き起こす原因となるのだ。
 ――花嫁のお父様が酔っぱらって、『貴様に娘はやらん!』って新郎にお酒をぶっかけた挙式もあったわね……
 泣き出す花嫁。怒り出す新郎の両親。応戦する花嫁の両親……と収拾がつかなくなって後始末が本当に大変だった。
 思い出すとつらくなるため、ミカはシャワーを浴びてさっさとベッドへもぐりこんだ。


 七月下旬、ミカの夏季休暇は土曜日の今日から始まった。
 休暇の初日は昼までゴロゴロと惰眠を貪る予定だったが、朝の八時に明義が迎えにくる約束になっていたため、脳内で文句を垂れながらも身支度する。
 八時きっかり、マンションに着いたとのメッセージが届いた。エントランスから屋外へ出ると、すでに気温が上がり始めて朝の爽やかさが薄らいでいる。今日も暑くなりそうだ。
「ねえ、早すぎじゃない? 休みの日ぐらい寝坊したいんだけど」
「到着まで二時間ちょっとかかるから、今出たらちょうどいいんだよ」
 なんとなく明義から、いつもよりウキウキしているような気配を感じた。無表情なのは変わらないものの、抑えきれない喜悦が滲んでいる。まるで遠足前の子どもみたいだ。
「どこ行くの?」
「着いてからのお楽しみ」
 教えてくれないうえ、カーナビも使わないので本当に行き先がわからない。まあ、自分はデートプランなんて思いつかないし、おまかせした以上は文句を言わないのがマナーだと思うので黙っていた。
 コインパーキングへ歩いていくと、不意に明義が「可愛いな」と呟いた。
「犬か猫でもいた?」
「いや、おまえが」
 その言葉に絶句する。今まで明義に見た目のことを言われたことなどなかったのだ。
 思わず立ち止まってまじまじと眉目秀麗な顔を見上げたら、明義が眉をひそめる。
「俺だって嫁のことぐらい褒めるぞ」
 嫁との言葉に、心臓が本当に一センチほど跳ね上がった気がした。
「……嫁になると決まったわけじゃないわ」
「必ずイエスと言わせてやる」
 背中に手を添えられて歩くよううながされる。その感触にミカはドキドキしながらも、ほんの少しモヤッとした。
 ――好きな子じゃなくって嫁……まあ恋愛と結婚は別って言いきる人だから、とにかく結婚したいのね。
 こういう何気ない言葉に、胸の奥で不安感がくすぶる。現れるかどうかわからないけれど、彼が本当に愛する人の登場が怖くて。
 ――だって明義の周りって常に女の子がいるじゃない。その中に私よりずっと美人で立場も釣り合ってて、面倒くさい母親もいなくて性格がいい子って絶対にいる。
 先日、四月一日が言っていたように、高校時代は明義を好きじゃない女子なんてほとんどいなかった。
 中学校は別々なのでその頃の状況は知らないが、高校では入学式から彼の周りに女子が群がり、ミカは挨拶に近づくことさえできなかった。
 そのぐらいモテていたのだ。現在進行形で続いているだろう。
 ――明義と結婚したら、今度は既婚者でもいいって女が近づいてきそう。
 女の嫉妬は陰湿で狡猾で恐ろしいと学んでいる。しかも徒党を組んで攻撃してくるから、たまに身の危険さえ感じるほどだった。
 それというのも高校時代、明義と親しくしていたら女子たちに激しい嫉妬を向けられ、嫌がらせを受けるようになったのだ。
 明義とはただの幼馴染みと説明したのだが、今度は彼を紹介してとか、連絡先を教えてとか、彼を狙う女子にしょっちゅう絡まれた。
 それが嫌で彼女たちを避けていると、『あのキラキラネーム、明義くんを独り占めしようとする性格ブスだわ。顔もブス』とか、さんざん貶された。持ち物をゴミ箱に捨てられたり、すれ違いざまにわざとぶつかってきたこともある。……ぶつかりおじさんかと本気で呆れた。
 おかげで一時期、明義に話しかけられないよう彼を避けまくった。
 それが気にくわなかったのか、ある日突然、明義が自宅にやって来たのだ。あのときは腰を抜かすほど驚いた。
 彼は小学生まで近所で暮らしていたけれど、母親が再婚した際に都心へ引っ越していった。そのため地元で見たのは三年ぶりだった。
 ミカの母親に明義が見つかったらまずいと思い、慌てて公園まで引きずって、明義を嫌って避けたわけではないことと、その理由を説明した。
 彼は女子の陰湿さを知っているようで、それからは学校で話しかけてくることはなくなった。そのかわり休日になると豊の家へ遊びに行くようになり、そのたびにミカも呼び出されて、沙綾を含む四人で遊んだり勉強したものだ。
 自分は豊に会う口実ができて嬉しかったから、呼ばれるたびにホイホイ出向いた覚えがある。
 そこで再び思い知る。豊のことを久しぶりに思い出したと。明義と一夜を共にしてから、まったく豊のことを考えなかったと。
 ――なんて薄情な……でも明義が毎日連絡してくるんだもの。顔が見たかったとか話したかったって言われたらときめくじゃない。
 大阪土産を持ってきた日から今日まで、明義が部屋に来ることはなかった。彼に短期の海外出張が発生し、そのせいで猛烈に忙しくなったのが原因だ。
 それでもメッセージは毎日届くうえ、週末はビデオ通話がかかってきた。忙しいだろうにマメなことである。
 ――婚活してる人ってこんな感じなのかしら? 大変そう。
 そして自分は彼のマメさが嬉しいと感じ始めている。このまま会う時間を増やしていたら、そのうち陥落しそうなので複雑だ。
「――ミカ、眠ってていいぞ」
 黙り込んでいたので眠いと思われたようだ。
「大丈夫。ドライブって久しぶりだから起きていたいの」
 沖縄では車がないと不便な地域で暮らしていたため、ハッチバックを購入し、よく島内を探索していた。
 しかし大阪へ転勤した際に必要性を感じなくなり手放している。東京でも車を買おうとは思わないので所有していない。
 とはいえドライブ好きなので乗っているだけで気分が上がってくる。
「この車、いいわね。素敵」
 SUV車らしいが、それっぽくない流線型のフォルムが美しい。さすがイタリアの高級スポーツカーのメーカーだ。すごく格好いい。
「ねえ、後で運転させて」
「俺はまだ死にたくない」
「どういう意味よ!」
 そんなふうにときどき言い合いをしながら東北自動車道を走る。途中のサービスエリアで休憩してさらに北上すると、ミカはなんとなく目的地に気づいた。
「もしかして日光へ行くの?」
「そう」
「嬉しい! 東照宮(とうしょうぐう)に行きたい!」
「そのつもり。おまえ神社とか好きだろ」
「うん!」
 母親がパワースポット巡りが好きだったのもあって、子どもの頃はよく寺社に連れていかれた。当時は興味もなくてつまらなかったが、大人になると清涼な空気を吸うだけでも癒される。
 様々な人間を見続ける仕事に就いているため、人や俗世から離れたいという逃避の表れかもしれない。
 東京を出て約二時間半後、日光東照宮に到着した。
 先に東照宮宝物館に寄って展示物を鑑賞し、カフェで一服してから東照宮を拝観する。豪華絢爛な建造物や彫刻を見学し、三猿や眠り猫もスマートフォンで撮りまくった。
 すべての社殿を見て回ってもまだまだ早い時刻なので、奥社まで行くことにした。
 しかし二百七段の石段がかなりきつい。途中で立ち止まって休憩する。
「おかしいわ、体力仕事してるのに……」
「おまえ、四月からデスクワークに変わっただろ。座ってると体力なんてあっという間に衰えるぞ」
「そういう明義だってデスクワークじゃない」
「おれはジムに通うのが趣味だから」
 そういえば引き締まった体をしており、よけいな贅肉なんて見当たらなかった。
 ……こんなときだというのに彼の裸を思い出してしまい、一瞬で顔面が熱くなってしまう。
「どうした。熱中症か?」
 顔を赤くするミカを見下ろして明義が眉根を寄せる。彼の大きな手のひらが額に添えられた。
「そこまで熱くないな。水を飲め」
「うん……」
 ペットボトルのミネラルウォーターをちびちび飲んでいたら、彼がハンカチで額や首筋を拭いてくれる。
「……自分でやるわ」
「いいから、じっとしてろ」
 こんな観光地で類稀なイケメンがそういうことをやると、ものすごく目立つからやめてほしい。特に女性観光客がチラチラと視線を向けてくるので居たたまれない。
「……もう大丈夫よ。行きましょう」
 なんとか石段を上りきって意外と広い奥社を参拝する。
 そして帰りは楽だろうと思っていたが、手すりがないのでちょっと怖い。慎重に下りていたら明義が肘を差し出してきた。
「つかまってろ」
 ……ここで拒否するのは大人げないとわかっているので、素直に甘えることにした。でも気恥ずかしくて、ついつい憎まれ口を叩いてしまう。
「もう、ここに来るって教えてくれたら、ちゃんとスニーカーを履いてきたのに」
 今日はパンプスに淡いブルーのシャツワンピースという組み合わせだ。この後も観光地を回る予定なので、歩きやすい靴や服装の方がいいに決まっている。
「それはすまない。詫びに抱き上げて運ぼうか?」
「うぐっ……」
 衆人環視の中で抱き上げられる妄想を浮かべ、脚がもつれた。体がグラついた瞬間、明義が密着して支えてくれる。
「やっぱり抱き上げようか」
「結構です!」
 ご年配の方々から向けられる生温かい視線に、ちょっと泣きそうになった。

 東照宮を出る頃はちょうどお昼だった。
 湯波そばをいただいて一息入れてから、今度は二荒山(ふたらさん)神社と輪王寺(りんのうじ)を参拝する。さすがに歩き続けたせいで、夕方になると脚がパンパンだった。
「疲れたわ……」
「俺も。脚がだるい」
「それなら私が運転しようか?」
「いや、なんだか元気になってきた」
 軽口を叩きあいながら車に乗って帰路に就く。……と思っていたのに、しばらく走っていたらどこかの敷地に入った。車が何台も停まっているので駐車場だろう。
「ここ、どこ?」
 明義が無言で車から降りたのでミカもつられて降りる。
 駐車場のそばには邸宅のような重厚な建物があり、その大きさから個人の住宅とは思えなかった。
「まさか旅館?」
「ああ。今日はここに泊まる」
 驚いて明義を見上げると、彼は前を向いたまま目を合わせようとしない。後ろめたいときの反応だ。
「泊まりだなんて聞いてないんだけど」
「今言った」
「喧嘩売ってんの!?」
 さすがにこれはないだろうと眦(まなじり)を吊り上げる。
 明義は気まずそうに視線を明後日の方角へ向けた。
「おまえ、ハイクラスのホテルや旅館に泊まるのが好きって言ってただろ」
「どういうこと?」
「大阪にいた頃、しょっちゅう一人旅に行ってたじゃないか。勉強も兼ねてって」
 長くサービス業に携わっていると、サービスを受ける側になりたいと思うことがある。同業他社の接客を知ることは学びにもなるし気分転換にもなるため、ミカはちょっとお高めの宿泊施設に泊まるのが好きだった。
 しかし今はそのような話をしているのではない。
「確かにそうだけど、泊まるための準備を何もしていないのが問題なのよ」
「それなら用意した」
「何を?」
「おまえの着替えとか化粧品とか、必要なものはここに送っておいた」
「はあぁっ!?」
 女性が宿泊に必要とする品を、予約した部屋にあらかじめ用意したという。
 ……そこまでするのかとドン引きした。
 ミカが口を半開きにして固まっていたら、明義が自身の首筋をさすりながら視線を地面に落とす。
「泊まるって言ったら、おまえはここに来ないだろ」
「それは、そうかもしれないけど、でも……」
「どうしても嫌なら、諦める」
 ミカの目を見ないで呟く声がものすごく沈んでいる。表情は変わらないのに、めちゃくちゃへこんでいるのがわかった。
 ……そういう態度はずるいんじゃないかと思う。いつもは強引なくせに土壇場で弱いところを見せるなんて、彼に心がグラついている自分は慰めたいと考えてしまうではないか。
 このとき建物からスタッフらしき男性が出てきた。
「いらっしゃいませ。ご案内いたします」
 駐車場で揉めているカップルがいたので、わざわざ出迎えにきたのかもしれない。そしてスタッフの目の前で、「帰ります」とは同業者として言いにくかった。
 当日不泊でもキャンセル料は百パーセント徴収できるが、宿泊料金に含まれない飲料や物販の売り上げがゼロになる。
 高級宿だとオリジナルブランドを展開している場合もあり、アメニティなどは館内でお客様に使ってもらうことで購入につなげている。だから宿泊してもらわないと利益は出ないし、口コミも期待できない。
 と、やはり同業者目線で考えてしまった。仕方なく明義のシャツをつかむ。
「行きましょう」
「……いいのか?」
「こういう騙し討ちみたいなこと、もうしないでね。泊まるって言ってくれたらちゃんと考えるから」
「すまない。ありがとう」
 そっけない口調なのに喜んでいるのが感じられるから、じわじわと頬が熱くなってくる。
 ここまでして私と泊まりたかったのかと、結婚するための手段だとわかっていても胸が高鳴ってしまう。
 嬉しくて腹立たしいという矛盾した感情に悩まされつつ館内に入る。その途端、複雑な気持ちは一瞬で吹っ飛んだ。
「わあ、素敵」
 そこはクラシックな建造物に、現代の洗練されたインテリアをうまく融合させた、美しく上品、かつ落ち着ける空間だった。
 いい香りが漂うロビーには芸術作品が多数展示されており、通り過ぎるだけなのがもったいないほどだ。後で見に来よう。
 スタッフに案内されたのはガラス張りの広いラウンジで、ウェルカムドリンクを飲みながらチェックインするという。渡されたフリードリンクメニューには、ソフトドリンク以外にアルコールの種類が豊富だった。
「ねえねえ、シャンパン飲まない?」
「飲む」
 ここに来たときの気まずさなどどこへ行ったのやら、美味しいシャンパンを味わいながら美しい庭園を眺める。グラスが空になるタイミングで、「お部屋にご案内します」とスタッフが声をかけてきた。
 いい気分で部屋へ向かうと、そこはリビングとベッドルームが一対になっているスイートルームだった。
 しかも大きな部屋風呂があり、ちゃんと源泉を引いているという。部屋で温泉に入れるというのも贅沢だが、これほど広い部屋風呂は初めてなので感動した。
 しかしベッドルームにダブルベッドが二台並んでいるのを見て、視界に入れないようそっと目をそらす。
 さすがに男と二人きりで宿に泊まって、何もせずに寝るなんてことはありえない。それを込みで宿泊に頷いたのだ。
 それでもやっぱりドキドキして口から心臓が飛び出そうになる。景気づけのアルコールが足りなかったようだ。
 もう一度ラウンジに行くべきかと思ったとき、リビングの隅に積み重ねられた平たい箱が目に入る。超有名なインポートファッションブランドのロゴが印字されていた。
 おそらく明義が告げた着替えとやらだろう。このブランドを選ぶあたり、さすがセレブだと感心する。
 箱の山の隣には見たことがある黒いボストンバッグがあった。こちらは明義の荷物とのこと。
「ねえ、開けていい?」
 服が入っている箱を指して聞けば、明義が頷く。
 中を検(あらた)めてみると濃紺のサマードレスがあった。ロングシルエットは一見、知的なデザインに見えるが膨らんだ袖がほんのりと甘さを与えてくれる。生地に光沢があるのも素敵だ。
 しかも一着ではなく、淡いグレージュ色のAラインドレスもある。
「なんで二着?」
「観光で汗をかいただろ。風呂に入った後の着替える用と、明日の分」
 素晴らしい気遣いだと感動する。館内着があるので着替えは一着でいいと思うが、その思いやりが嬉しい。
 ただ、ドレス以外の箱に下着が入っているのを見て唇を引き結ぶ。これを明義が選んだのかと思えば、名状しがたい気分になった。
 このとき明義が開けた箱を覗き込んでくる。
「そのドレス、おまえに似合いそうだな」
「え? 明義が選んだんじゃないの?」
「俺は女物の服とかわからないから、うちに出入りしてる外商に任せた」
 小峰家のプライベートを担当する外商員へ、ミカの写真を見せて明義が知るミカの普段の服装を伝えたところ、女性スタイリストに依頼して選んでくれたという。
 ちなみに小峰家の事業を担当する外商員は別にいるというから、すごい。
「外商員ってそんなことまで頼めるのね。でも下着のサイズまでなんで知ってるの?」
「おまえのブラ、俺が預かったことあるだろ。なんとなく覚えていた」
 そういえば明義の部屋に忘れたことがあった。サイズを覚えるほど、まじまじと見ていたのかと複雑だ。
「……お風呂入る」
「じゃあ俺も――」
「私は大浴場に行くから」
「えっ」
 明義が目を見開き、予想もしないといった表情になっている。彼の無表情を崩したことで、ミカは満足そうに微笑んだ。
 スタッフの説明では、大浴場にもアメニティとタオルは用意されているとのこと。なので館内着を宿のオリジナルバッグに入れて、「行ってきます」と部屋を出る。
 宿泊棟からそこそこ離れている大浴場へ向かう途中、赤くなっているだろう頬を押さえた。
 ――明義、すっごく驚いてたわ。そんなに私とお風呂に入りたかったの?
 そういえば四月一日がストーカー行為をした夜、明義とのキスでふにゃふにゃになった自分へ、『風呂も入れてやるけど?』とか言っていた。
 異性と風呂に入ったことがないミカには恥ずかしい行為だが、女慣れしている明義には普通のことらしい。
 それを考えた途端、胸の奥でチリッとした痛みを感じたので不思議だった。ドキドキしすぎたのかもしれない。
 そんなことを考えていたら大浴場に着いた。メイクを落として中に入る。
「おお、広い」
 しかも他の宿泊客が誰もいない。これほど広い空間を独り占めとは思ってもいなかったので嬉しい。体と髪を洗って泉質を楽しむことにした。
 内湯だけでなく露天風呂もゆったりとした大きさで、陽が沈みつつある情景を眺めて温泉に浸かるとは贅沢である。
 そこそこ長い間、大浴場でのんびりしていたが他のお客は来なかった。部屋風呂があれだけ広かったらそちらを利用するのかもしれない。自分も明義と恋人同士だったら、迷わず彼と一緒に部屋風呂へ入っただろう。
 そのことを想像したら体が熱くなってきた。肌が火照るのは温泉のせいだけじゃない。
 ――まあ明義とは初めてじゃないし。……いまだにエッチしたこと思い出せないけど、乱暴なことしないと思うし。
 彼との情交で覚えているのは、一夜を共にした翌朝のことだけ。混乱するミカをキスと手管だけで快楽の果てへと導き、好きなだけ翻弄した。爽やかな朝に背を向ける行為はなかなか忘れられない。
 明義は逃げようとするミカを決して逃がさなかったけれど、手つきは優しくて丁寧だったと思う。おかげでとても大事にされているような錯覚を抱いた。
 よほど場数を踏んでいるのか、処女の自分でさえ彼はセックスがうまいのだと、おぼろげに察するほどで。
 友人との猥談で聞く限りでは、男は基本的にベッドでは自分勝手だという。愛撫などそこそこに突っ込んで射精し、一方的に満足して終了。賢者タイムがあるので甘いピロートークなど妄想でしかないとのこと。
 明義もそうなのだろうか。
 ――うーん、なんとなく違う気がするけどなぁ。でも期待して後からガッカリしたくないし。
 悶々と夜のことを考えていたらのぼせてきた。慌てて温泉から出て身支度を整える。
 てくてくと部屋へ向かっていると、ラウンジの横を通り抜けようとするとき、「ミカ」と名前を呼ばれてびっくりした。
 ラウンジのソファに座る明義が手招きしている。彼も館内着を着ているから風呂に入ったようだ。
「何してるの?」
「湯上がりにビール飲んでる。おまえもどうだ?」
「飲む!」
 明義の右隣に腰を下ろすと、すかさずサービスマンが近づいてくる。フリードリンクにある地ビールを頼むことにした。
「あー、おいしい! 風呂上がりのビール最高!」
 おっさんくさいうえにすっぴんだが、明義が相手なので気にしなかった。
 このとき彼が左手を握ってきたため驚く。しかも握り締める手を見つめながら、肌の感触を確かめるように撫でてくるではないか。
「えっ、なに?」
「すべすべだな。……俺が洗いたかった。ミカと風呂に入りたかった」
 鼻からビールを噴き出すかと思った。いや、ちょっと鼻に入った。
「ケホッ、……急に、どうしたの」
「急じゃない。ここの予約をしたときから楽しみにしていた」
 ……彼はこんなキャラだったろうかと、驚愕のあまり口をあんぐりと開けてしまう。
 明義といえばもっとクールで、何事にも動じない淡々としたイメージがあった。もちろん根は優しくて情に厚いのも知っているが、無表情でめったに笑わないので、冷静沈着なイケメンとの人物像が固定化しているのだ。
 しかも彼はあまり他人に興味をもたない。クラスメイトや親しくしている人と普通に話しはするが、親友と呼べるほど仲がいい人は少なかった。現在まで付き合いが続いている友人なんて、自分と豊と沙綾だけかもしれない。
 そんな孤高な男が、女の手を握って「お風呂でイチャイチャしたかった」と未練がましく零している。この人はいったい誰だろうと混乱した。
「えっと、そんなに私とお風呂に入りたかったの?」
「入りたい」
 即答されて、もにょる。これがもにょるという感覚なのだと感動するぐらい、もにょもにょした。
 ミカはクラフトビールを飲みながら考える。明義はこちらが承諾しなければ風呂場に乱入してくることはないだろう。でもこれだけ楽しみにしている姿を見て、聞かなかったことにするのは酷ではないか。
 肌を見られるのは猛烈に恥ずかしいけれど、今夜彼とベッドを共にするのは既定路線なのだ。そこまで一緒に入浴したいというなら、叶えてあげるべきなのではと絆される。
「……まあ、いいけど」
 明義がパッと顔を上げて見つめてくる。その目力の強さに、ちょっと発言を後悔するが後の祭りだ。
「約束だからな」
「うん……」
 この決意を後悔するのは、それほど後のことではなかった。

 

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