戻る

きみの全部が好きすぎる 幼馴染み年下ドクターの20年越し激甘執着愛 2

第二話

 小学校一年生の秋に、鈴菜はその男の子を初めて見かけた。
 自宅マンションの向かいにある公園は、友だちと遊んだ帰りにいつも使う抜け道だ。十七時のチャイムが鳴るまでに家に帰るのが、母との約束。母は時短勤務で十六時に仕事を上がり、十六時半までに家に帰ってくる。
 その日も、鈴菜は幼稚園から仲良くしている同じクラスの友だちと遊んで、約束の時間に間に合うよう走って帰る途中だった。
 きい、きい、とブランコの揺れる音がする。
 日が暮れてくると、子どもたちは三々五々帰路につく。公園で遊んでいる子はまだいるけれど、なぜかブランコに目を向けた。
 鈴菜よりも年少と思しき男の子が、ひとりでブランコをこいでいる。夕日を浴びたやわらかそうな髪の毛はキラキラと光っていて、思わず目を細めた。
 よく見ると、茶色い髪はくるくると甘いカールを描いている。天然パーマなのかもしれない。その姿は、幼稚園のころにお気に入りだった絵本の中の天使に似ていた。
 ――きれいな髪の毛。目が大きくて、色が白くて、ほんものの天使みたい。
 家路を急ぐ足を止めて、鈴菜は自然と男の子に見入っていた。
 男の子は遠くを見ながらブランコをこいでいる。きい、きい、と小さく軋む音が小動物の鳴き声のようだった。その音をかき消すように、十七時のチャイムが鳴りはじめる。
「あっ!」
 約束の時間に遅れてしまう。鈴菜は弾かれたように駆け出して、目の前のマンションに向かった。
 それから何度か、同じ男の子を見た。
 彼はいつもひとりだった。友だちと遊んでいる姿を見たことがない。それに、そばに母親らしき人がいたこともない。
 幼稚園のころ、鈴菜はひとりで遊びに行くのを禁止されていた。マンションの向かいにある公園すら、母か父と一緒でなくてはいけない。
 ――でも、あの子はいつもひとり。お母さんはいないのかな。
 小柄で、手脚が棒のように細い子ども。きれいな顔立ちをしているけれど、いつも唇をきゅっと引き結び、ブランコをこいでいる彼のことが、鈴菜はやけに気になった。
「あのね、お母さん。いつも公園に男の子がひとりでいるの」
 ある日の夕食の席で、鈴菜は彼のことを母親に話してみた。
「ひとり? 何歳くらいの子なの?」
「わかんないけど、わたしより小さいと思う」
「お母さんと一緒じゃないんだ?」
「うん。いっつも、ブランコに乗ってるの」
 きい、きい、とあのブランコが揺れる音が脳裏に響く。
「髪の毛がくるくるでね、天使みたいなんだよ」
「ああ、鈴菜が幼稚園でいつも読んでた絵本に出てくる天使?」
「そう! あの天使みたいなの」
「そっかぁ。今度、お母さんも鈴菜の天使に会ってみたいな」
「たぶん、ピアノの帰りだったらいると思う」
 鈴菜は週に一度、母と一緒にピアノ教室に通っている。毎週水曜日の十五時半から一時間。その日だけ、母は十四時に仕事を終えて帰ってきてくれるのだ。小学校に入って、ひとつだけ習いごとをしてもいいと言われたときに、バレエと迷ってピアノを選んだ。
「じゃあ、今週のピアノの帰りにいるかな」
「きっといるよ!」
 そんなやりとりがあった、次の水曜日。
 その日は朝からしとしとと冷たい雨が降っていた。十月の雨は、落葉した木々を濡らしている。
 ――もしかしたら、今日はいないかもしれない。だって、公園にいたらびしょびしょになっちゃう。
 お気に入りの長靴と傘で、母とふたり、ピアノ教室の帰りに公園横を通るとき、鈴菜は少しだけ祈るような気持ちになっていた。
 いつもはあの子がいるかな、と期待して公園を歩くけれど、今日だけはいないでほしい。こんな雨の日にひとりでブランコに乗っているのは、きっととても寒いし、寂しいから。
「鈴菜、あの子」
 先にブランコを指さしたのは、母だった。
 母の人差し指の先に、濡れ鼠の男の子がいる。こんな日にも、あの子はブランコに乗っていた。けれど、今日はブランコが揺れていない。いつもは宙を蹴る両足が地面を踏みしめている。ただ座って、じっとうつむいて、髪の毛も上着も靴もぐっしょりと濡れているのが遠目にもわかった。
「あの子だよ、天使」
「ちょっとここにいて。車道に出たらダメよ」
 母は、水たまりを避けて公園へ駆けていく。男の子に近づき、二言三言、声をかけたのがわかった。
「あっ!」
 男の子は、突然ブランコから立ち上がると鈴菜がいるのとは反対方面へ走っていく。バシャバシャと水飛沫を上げるうしろ姿を見送って、あの子の家は公園の向こうにあるのかな、と鈴菜は考えていた。
「逃げられちゃった。お母さん、あやしい人だと思われたかな」
「あやしい人?」
「うん。知らない人に声をかけられても、ついていっちゃいけませんって、鈴菜も学校で習ったでしょ?」
 幼稚園のころから、何度も聞いた言葉だ。お菓子をあげると言われても、知らない人についていってはいけません。実際に、見知らぬ大人から声をかけられた経験はない。だが、少なくとも自分の母親をあやしい人だと思われるのは、なんだか嫌な気持ちがする。
「お母さんはあやしくないよ」
「うん、鈴菜にとってはお母さんだからね。でもあの子には、知らないおばさんだから」
「でも、お母さんは優しいし、いつもニコニコしてるし、それに……」
「ありがとう。鈴菜の気持ちは嬉しいけど、お母さん少し心配だな」
「どうして?」
「優しくてニコニコしてる知らない人に話しかけられても、ついていっちゃダメだからね?」
「うん!」
 元気よく返事をしたものの、心のどこかに小さな棘が刺さっていた。もしかしたら、あの子はもう公園に来ないかもしれない。あやしい人に話しかけられたら、怖くなってもおかしくない。だけど、自分の母親をそう思われるのは腑に落ちない気持ちもある。
 翌日、鈴菜は学校が終わると自宅の窓から、ずっと公園を見ていた。
 あの子が来るのを、待っていた。
 十五時を過ぎたころ、男の子はやってきた。ほかの子どもたちがブランコを使っているのを見ると、彼は鉄棒の横にあるベンチにちょこんと座る。何をするでもなく、ただ座ってブランコが空くのを待っていた。
 声をかけに行こうかとも考えた。けれど、いつも彼は鈴菜が公園を通るとき以外、どうしているのか知りたくなった。鈴菜もまた、窓ガラスに張りつくようにしてじっと彼を見つめつづける。
 一時間も過ぎただろうか。
 親子連れが減り、ブランコで遊んでいた子どもたちが去っていくと、彼は当たり前のようにブランコに近づき、ゆっくりと地面を蹴る。最初は小さくスイングしていたブランコが、だんだんと高く上がっていく。
 不意に、不安が胸を締めつけた。
 あの子が、あのまま遠くまで飛んでいってしまうような気がして、鈴菜は玄関に向かうと靴を履く。そのまま、マンションの階段を駆け下りて公園へ向かった。
 ブランコは、部屋から見たときと同じく大きく揺れている。いつもは座ってブランコをこいでいるあの子が、今日は立ちこぎをしている。
「ねえ!」
 学校では、いつも先生から声が小さいと言われる鈴菜は、これまでの人生で初めてと言っていいくらいの大きな声で、男の子に呼びかけた。
 驚いたように、一瞬目を瞠って、彼が鈴菜を見る。髪の毛と同じで、目の色も茶色がかっていた。
「ねえ、いつもここでブランコ乗ってるよね。わたし、あそこのマンションに住んでるの。あの……」
 その続きは、何を言えばいいのかわからなくなる。何度も、頭の中では話しかける練習をしたはずなのに、いざとなったら言葉が逃げていく。
「あの、あのね」
 ザッ、と音がして、男の子がブランコからジャンプして砂地に降りた。年上の男子たちが、そうやって遊ぶのを見たことがある。けれど、鈴菜は怖くてできない。
「……すごい」
 感嘆の声をあげると、男の子は驚いたように目をパチパチさせた。
「すごいね。ブランコから、ジャンプできるの、すごい。わたしより小さいのに」
「もっとたかくても、できるよ。ぼく、こわくないんだ」
 舌足らずな、子どもらしい声が聞こえてくる。初めて、あの子と話せた。
「それに、よつばのクローバーがいっぱいあるとこもしってる。すごい?」
「うん、すごい。どこにあるの?」
「こうえんの、あっちのほう。でも、ひみつなの」
「秘密なんだ、そっか……」
 しゅんと肩を落とした鈴菜に、男の子が慌てて口を開く。
「でも、おしえてあげてもいいよ!」
 焦った声が、かわいかった。
「いいの?」
「……とくべつね」
「わたし、鈴菜。阿見原鈴菜っていうの。あなたは?」
「ぼくは――」
 きりゅうほくと、と彼は名乗った。漢字はわからない。小学校一年生の鈴菜には、『きりゅう』も『ほくと』も馴染みのない音だった。
 それからというもの、鈴菜は週に二回か三回、ほくとと遊ぶようになった。
 一度だけ、彼の母親が公園に迎えに来たことがある。大きな目をした、ほくとに似た顔立ちの人だ。
 ちょうど鈴菜の母が、ふたりにおやつと飲み物を持ってきてくれたときだったので、母親同士が何か話していた。あまり楽しそうではないように思った。母が困ったように愛想笑いをしていたから、そう感じたのだ。
 けれど、それ以降、母はほくとを家に招いて遊んでいいと言うようになった。きっと母親同士で、何かを話したのだろう。
 ほくとの名前は『桐生(きりゆう)北斗』と表記するのも、母から教えてもらった。
 北斗は、保育園にも幼稚園にも通っていなかった。午前中は寝ていて、お昼にごはんを食べたら夕方まで外で遊んでいなければいけないのだという。
「空がくらくなったらかえっていいの。それまで、おかあさんのおともだちがおうちに来てるから、かえってきちゃだめーって」
「そうなのね。じゃあ、うちで夜ごはん食べていく?」
「いいの?」
「北斗くんのお母さんが、たまにだったらいいよって言ってたの」
「やったー」
 鈴菜の母は、北斗の母と連絡先を交換したようだった。帰りが遅くなったときには、彼の住む公園の向こうにあるアパートまで送っていくこともある。父が早く帰宅したときは、車を出してくれる日もあった。
 ひとりっ子の鈴菜にとって、北斗は弟のような存在だった。家の中に、子どもがもうひとりいる。それは、不思議な感覚だ。
 ふたりはおやつを分け合い、ゲームで遊び、アニメを観て、夜には別々の家に帰る。
「ねえ、お母さん。北斗くんがうちの子だったらいいのにね」
 無邪気に告げた言葉だったが、母は困り笑いで黙って鈴菜の頭を撫でた。
 子どもの鈴菜にはわからなかったけれど、父も母も北斗の家が普通ではないことに気づいていたのだろう。彼は母親からネグレクトを受けていたのだ。ごくまれにではあるけれど、母親の友人という男性から殴られることもあったという。
 冬が過ぎて、春が来て、夏の終わり。
 北斗を送っていった母が、なぜかそのまま連れて帰ってきた。
「北斗くん、どうしたの?」
「……今日は、北斗くんのお母さん、どこかにお出かけみたい。だから、うちにお泊まりしようか」
「いいの?」
「いいよ。鈴菜のお部屋に、北斗くんのおふとん準備するね」
「北斗くん、お泊まりだよ。一緒のお部屋で寝よう」
「うん。ぼく、おとまりはじめて」
 それがいかに奇妙なことかも知らず、子どもたちははしゃいでいた。
 鈴菜の部屋に友だちが泊まりにくるのも初めてのことで、ふたりは夜遅くまで話をした。他愛もない話だ。好きなおやつのことや、公園の四つ葉のクローバーをいくつ見つけたか。ブランコをどのくらい高くまでこげるか、そんな話。
 北斗の母親は姿を消した。
 三日ほど、鈴菜の家で一緒に過ごしたあとに、両親は相談して児童相談所に連絡をしたらしい。ちょうど夏休みが終わる時期だった。
 新学期が始まって、鈴菜が学校から帰ってくると北斗の姿はなくなっていた。
「鈴菜、北斗くんはずっとうちにはいられないの。北斗くんには、北斗くんのおうちがあるでしょう?」
「じゃあ、北斗くんはおうちに帰ったの?」
「……おうちじゃなくて、たぶん施設に預けられていると思う」
「しせつって? どこにあるの?」
「鈴菜、ちゃんと聞いて。北斗くんはね――」
 北斗くんはどこ、どうしてうちにいたらダメなの、と泣いたのを覚えている。母は答えてくれなかった。おそらく、どこにいるのか知らなかったのだと思う。
 九月も半ばを過ぎたころ、母が「北斗くん、おじいちゃんとおばあちゃんと暮らすことになったんだって」と言った。けれど、祖父母の家がどこなのかは母も知らない。当然だ。考えてみれば、母親同士は連絡先を交換したものの鈴菜の母は北斗の母の名前すら聞いていなかった。大人は、名字だけを呼び合ってアドレス帳に電話番号を登録することがある。ママ友ならば特に、北斗くんママという呼称で事足りてしまうのだ。
 そんな大人の事情を知らず、鈴菜は泣いた。
 あの子は、遠くで幸せに生きている。
 幼かった鈴菜は、夏の夜空の思い出を心の奥にしまって鍵をかけた。

 

「僕の名前は、桐生北斗です。小さいころ、鈴菜ちゃんのおうちでよく遊んでもらいました」
 想像もしなかった返答に、二十九歳の鈴菜は息を呑む。
 自分でも忘れていた名前を、こんなところで耳にするだなんてありえない。だが、彼が嘘を言っているとしたら、どこで北斗の名前を知ったのか。
「ほんとに、北斗くん……?」
「そう、僕だよ。思い出してくれたんですね、鈴菜さん」
 目を開けようとすると、まぶたの上に置かれた彼の手がそっと制してくる。
「今は、まだ眠っていてください。また会いに来ます。だから、今夜はゆっくり休んでくださいね――」
 彼の声は、雨の日の子守唄のように静かで優しかった。
 ほんとうは、もっと話したい。あれからどうしていたのか、聞きたい。
 今はどんな大人になって、どんな顔をしているのか。知りたいのに、鈴菜の意識はゆっくりと微睡(まどろ)みに落ちていく。
「思い出話は、今度にしましょう。僕はどこにも行きません。あなたのそばに、ずっといます」
 ――ずっと?
 そんなわけがない。
 誰も、ずっと一緒になんていてくれないのに。
「ほんとうです。ずっと、ずっとあなたのそばにいたいんです。だから、まずは体を治しましょう。元気になったら、また一緒に流れ星を探しましょうね」
 鈴菜は、もう一度夢を見た。
 今度は悪夢ではなく、北斗の手のようなあたたかでやわらかな、幸せな夢だった。

 

 朝になると、昨日より格段に呼吸が楽になっていた。
 とはいえ、まだ熱は高い。朝の検温で、三十八度を超えている。もしかしたら、深夜に会った北斗は夢だったのかもしれない。高熱のときは、夢と現実の区別がつかないことがあるからだ。
「そういえば、海堂さんは桐生先生とお知り合いだったんですね」
 検温に来た看護師に話しかけられて、鈴菜は「先生?」と首を傾げる。
「先生から、そう聞きましたよ」
「桐生……北斗先生……」
「あ、そうです。血管外科の若い先生です」
 北斗が実在するだけではなく、彼は医師だというではないか。
 ――あのときの男の子が、お医者さんになったの?
「いいですよね、桐生先生。爽やかで、優しくて」
「……そう、ですね」
 今の彼を、鈴菜はまだ知らない。シルエットから、長身なのはわかっている。あとは、手が大きいこと。天使のような子どもだった彼は、どんな大人に育ったのだろう。
「また顔を出すって言ってましたよ」
「あ、はい。ありがとうございます」
 何にお礼を言っているのか自分でもわからぬまま、鈴菜はベッドの上で頭を下げた。
 朝食は、七分粥と煮物、おひたしと納豆が出たけれど、粥を半分食べるのが精一杯で、食べている最中に何度も咽(むせ)てしまった。
 昼を過ぎて熱が四十度近くなり、点滴が追加される。
 食事の時間以外は、ほとんど眠って過ごした。寝ても寝ても、まだ眠れる。体のどこかが狂っていて、睡眠時間の概念がなくなっているようだ。
 ときどき水分を摂取して、あとはひたすら目を閉じて、時間が過ぎるのを待つ。起きていても、できることはきっとない。それどころか苦しいだけだ。
 夕方に目を覚ますと、窓が西向きなことに気づく。夕日が病室を橙色に染めていた。立ち上がり、点滴のスタンドを押しながら、カーテンを引いた。窓の下の景色を初めて見ることに気づく。
 心のどこかで、北斗が来てくれるのではないかと待ち望む気持ちがある。
 けれど、必死で希望に蓋をしめた。待っていて、来なかったらきっと寂しくなる。今は特に、いつもより気持ちが弱っているから、あまり期待したくなかった。
 ――だけど、期待したくないと思ってる時点で、やっぱり期待しちゃってるんだろうな……。
 意識してからは、彼の訪れを待って過ごすことになる。昨晩は、顔も見られなかった。
 たしか北斗は鈴菜よりも二歳下、今は二十七歳になっているはずだ。
 年齢的に考えると、研修医でもおかしくない。医療の現場に詳しくはないのだが、まだ新米と言われる年齢だと思う。
 ――おじいさんとおばあさんに引き取られたあと、がんばって勉強してお医者さんになっただなんて、北斗くんはすごい。昔から、聡明な子だった。
 幼い北斗の、あたたかな手。
 思い出そうと目を閉じるも、浮かんでくるのは昨晩の大きな手のほうだった。
 あんなふうに、誰かに優しく触れられたのはいつぶりだろう。そう思って、鈴菜は小さく嘆息する。
 ついこの間まで婚約していた。それなのに、婚約者と触れ合った記憶がないだなんて、ほんとうに婚約していたのだろうか。
 ――まただ。もう終わったことなのに、ぐるぐる同じところで悩んでも仕方ない。
 新人のころに上司から言われて、心に残っている言葉がある。考えるのはいいけれど、悩むのはやめたほうがいい、というものだ。
 考えるのは建設的であり、現状を打破しようとする行動だ。しかし悩むのは、ただ同じことを脳内で再生して、痛みを思い出してわかったふりをすることだ、と上司は言っていた。
 すべてに同意するわけではない。たとえば必要な悩みというものは存在するし、何度も思い出して悩むことでしか答えを見つけられないときもある。
 だが、きっと今は違う。
 健司との関係については、もう終わりを迎えたのだ。しかも、鈴菜は彼への想いを残していない。それなのに、自分の悪かったところや、つきあっていた間の違和感を数えても、何かを改善できる話ではないと思う。
 ただ、心のどこかにモヤモヤと濁った感情があるのだ。
 それはもしかしたら、誰からも必要とされない自分を感じてしまうせいなのかもしれない。結婚しようと言ってくれた人は、簡単に手を離した。その事実が鈴菜を悩ませる。悩んだところで、過去は変えられない。わかっている、わかっているのに。
 コンコン、と控えめなノックの音がした。
 返事をするより先に、スライドドアが静かに動く。そこに立っていたのは、白衣姿の長身の男性だった。
 ふわりとゆるめのパーマをかけた髪に、すべらかなひたい。眉は左右きれいな対称で、白目が青みがかったように透明だった。整ったパーツの中、上唇が少し厚めでかすかな甘さを感じさせる。
 ――お医者さん……?
 こちらを見て、端整な顔立ちの青年がパッと花がほころぶように微笑んだ。
 その瞬間。
 鈴菜の心臓が、妙に大きく鼓動を打った。
「鈴菜さん、起きていたんですね」
「え……、あ、はい」
「よかったです。昨晩より、顔色もよくなっています」
 ――この声、もしかして、この人が……!
 かすかに当惑しているのが、表情に出ていたのだろう。青年が、小さく肩をすくめた。
「昨日の今日なのに、もう忘れてしまったんですか? 僕です。桐生北斗ですよ」
「ほくと、くん」
 忘れていたというよりも、昨晩は彼の顔が見えていなかった。
 ――でも、北斗くんはわたしの顔色までわかってる。もしかして、暗かったせいじゃなく、熱で朦朧としていたから見えていなかったのかな。
 驚きを隠せぬまま、鈴菜は窓際に立って彼をじっと見つめた。
 彼は穏やかな表情で病室を歩いてくると、鈴菜の手から無言で点滴のスタンドを受け取る。彼にうながされてベッドへ戻った。
「布団をかけますね」
「ありがとう……」
 横たわって見上げる北斗は、びっくりするほど背が高い。
「あの、久しぶり。大きくなったね」
 鈴菜の覚えている彼は、当時まだ五歳か六歳だった。二十年以上が過ぎたのだから、成長しているのは当然のことだ。
 けれど、言わずにいられない。
 目の前の北斗は、一八〇を超える長身の青年だった。
 茶色かった髪は、あのころより黒くなっている。ぽちゃぽちゃにやわらかかった頬は精悍に男性的な輪郭を描いて、手も足も、何もかもが鈴菜の知る北斗ではないのだけれど――。
「鈴菜さんも大きく――あまり大きくはないけれど、僕が守りやすい体格差になりました」
「えっ?」
 冗談めかして笑う表情は、大人びているけれどたしかに鈴菜の知る彼だった。
 目尻が下がって、口角が上がり、子どもみたいにくしゃっと笑う。そこに、幼い北斗のかけらを見た気がする。
「嘘です。大きくなりましたよ。まあ、僕が縦に育ちすぎた感は否めませんが」
 ベッド脇の椅子を引くと、北斗が長い脚を折りたたむように腰を下ろした。白衣の下は、上下ともに医療用のスクラブを着用している。濃いブルーグリーンが、北斗にはよく似合っていた。
「北斗くんは、おじいさんと暮らしてるって聞いていたんだけど……」
「はい。母が育児に向いていなかったので、児童相談所が祖父母に連絡してくれたんです。ああ、もうずいぶん昔のことなのに、あのころの鈴菜さんをよく覚えています。あなたは、僕にとって神さまみたいな人だったから」
「神さま? それを言ったら、北斗くんは天使みたいにかわいかったよ」
「それ、たまに言ってましたね。絵本の天使に似ていると」
「懐かしい。好きだった絵本なの。タイトルも思い出せないなぁ」
「そのうち、一緒に探しましょう」
 至極自然な仕草で、彼はベッドサイドの水差しを持ち、鈴菜の口元に運んでくれる。
「ありがとう」
「どういたしまして」
 ひと口飲むと、水の冷たさに自分の体が発熱しているのを思い出した。体のだるさを忘れるくらい、北斗との再会に心が躍っていると自覚する。
 天使のようにかわいかった子が、すっかり大人の男性になって現れたのだ。気持ちが高揚するのも仕方がない。
「また会えるなんて、驚いた。よくわたしだってわかったね」
「ずっと、探していましたから」
「……わたしを?」
「はい。あなたを、鈴菜さんを、探していたんです」
 脚を組んだ北斗が、膝の上で両手を持て余している。長い指に、短く切った爪。外科医だというからには、手術もするのだろうか。
「そっか。両親が離婚して、引っ越して、名字も変わったから」
 阿見原鈴菜を探しても、海堂鈴菜にたどり着くまでには時間がかかるのかもしれない。
「僕の祖父母が住んでいるのは鎌(かま)倉(くら)なんです。六歳の子どもには、鎌倉から府中までの距離が絶望的に遠かった。あのころは、あなたに会いに行くこともできませんでした」
「うん、そうだよね」
「母が府中に住んでいたこともあり、祖父母は僕をそちらに行かせたがらなかったのもあります」
「……」
 彼の母親は、北斗と面差しのよく似たきれいな女性だった。
 しかし、祖父母のもとで育てられるに至った理由を考えると、北斗を母親に会わせたくないと思う気持ちもよくわかる。
「十四歳の春に、祖父母に嘘をついてひとりで鈴菜さんの住んでいたマンションまで行ったことがありました。どうしても、あなたに会いたかったから」
「そうだったの?」
 だが、二歳下の北斗が十四歳の春というからには、鈴菜の両親が離婚をしたあとに違いない。彼があのマンションを訪れても、そこに阿見原家はもう暮らしていなかった。
 そのことを話すと、北斗が寂しげに微笑む。
「はい。誰もいませんでした。鈴菜さんも、優しかった鈴菜さんのお母さんも、車に乗せてくれたお父さんも……」
「来てくれていたなんて知らなかった。ごめんね。わたしも、北斗くんがいなくなったあと、手紙を送りたいと母に言ったことがあったんだけど」
 母も、北斗の祖父母の住所を知らなかった。
 もしかしたら調べることはできたのかもしれないが、新しい環境で生きていかなければいけない北斗を慮って、母はそうしなかった可能性もある。
 八歳と六歳のふたりには、離れてしまったら連絡を取り合う方法もなかったのだ。
「――だから、偶然検査室に移動する鈴菜さんを見て、天にも昇る気持ちになりました。あんなに探して見つからなかったあなたが、僕の働く病院にいたんです」
 やや興奮した感じの声に、鈴菜はもう一度、先ほどと同じ質問をする。
「ほんとうに、よくわたしだってわかったよね。顔だけで、わかるもの?」
「すぐにわかりました。カルテを見せてもらって、名前も鈴菜さんだったから間違いないと確信しました」
 彼の目は、キラキラと輝いている。大好きなおもちゃを前にした子どものように、あるいは瞳の中に星を閉じ込めているかのように。
 ――あのころとは違う。わたしは、変わってしまった。
 美しい青年医師となった北斗もまた、当時とは違う。けれど、彼はもともと白鳥だったのだ。みにくいあひるの子として育てられていた幼少期と変わったのは、彼がほんとうの自分を取り戻したから。
 ――わたしとは、違う。わたしはもう、きっと北斗くんみたいにキラキラな目で笑えない。
「鈴菜さん?」
「……ううん、なんでもない。声をかけてくれてありがとう。具合が悪いと心細くなっちゃうから、知らない人だらけの中で北斗くんがいてくれて嬉しいよ」
 母には、入院のことを伝えないつもりでいる。退院してから話すことはあるかもしれないが、今知ったら、きっと母はすぐにでも飛んでくるだろう。
 だから、言わない。
 母には母の人生があるのだから、三十近くにもなって迷惑をかけたくなかった。
「ご両親が離婚されたとおっしゃっていましたが、名字が変わっているということは、鈴菜さんはお母さんに引き取られたんですよね?」
「え、あ、そうだけど」
「連絡はされないんですか?」
「うん。今はね、母も再婚して東京を離れているの。――入院って、保証人がいるのかと心配していたんだけど、必要なくてほっとした」
 なるべく明るく話したつもりだったが、北斗の表情はかすかに曇っている。余計なことを言って、彼を心配させたくはない。
「だったら、僕が毎日お見舞いに来ます」
「北斗くんが?」
「はい。同じ病院で働いているんですから、顔を出すくらいは許してくれますよね?」
 ――それは、嬉しいけど……。
 久々に再会した幼なじみ相手に、そこまでしてくれなくてもいい。そう思いながら、鈴菜は自分の言い方が悪かったせいで、彼を気負わせてしまったのかもしれないと反省した。
「ありがとう。気持ちだけでじゅうぶんだよ。北斗くんは、仕事で病院にいるんだから、そんなに気にしないで」
「毎日、来ますね?」
 返事を求めているというよりは、有無を言わせぬ強い意思を感じさせる語尾で、北斗はすっと立ち上がった。
「それじゃ、今夜はゆっくり眠れるよう祈っています。悪い夢は、僕が引き受けますよ」
 来たときと同じく、彼はやわらかな微笑みを残して病室を出ていった。
 なんだか、すべてが夢のようで。
 幼かったあの子が、大人になって現れるだなんて、あまりに不思議すぎて。
 北斗の言葉があったからなのか、あるいは昨晩よりも体調がよくなったからなのか、鈴菜は悪夢に悩まされることなく眠ることができた。