きみの全部が好きすぎる 幼馴染み年下ドクターの20年越し激甘執着愛 1
第一話
夏の夜空を見上げて、小さな人差し指が星を追いかける。
「ねえ、鈴菜(すずな)ちゃん、ながれぼしどれ?」
甘えるような声は甲高い。近所に住む二歳下の男の子は、鈴菜のことを実の姉のように慕っていた。
「流れ星は、たまにしか見れないの。だから、願いごとの準備をしておくんだよ」
「ぼくね、おねがいきまった! はやく、ながれぼし来ないかなぁ」
彼がぴょんとジャンプすると、やわらかな栗色の髪がふわりと揺れる。少しクセのある明るい色の髪は、幼稚園の絵本で見た天使に似ていた。
ベランダの手すりにつかまってつま先立ちするふたりは、あちらこちらに視線を向ける。どこかで、星が流れるのを待っているのだ。
「北斗(ほくと)くんの名前は、星からつけたのかもしれないね」
「しってる! ママがいってた。ほくとしちせいっていうんだ」
ふたりが顔を見合わせて笑っていると、鈴菜の視界の隅をひゅうん、と横切るものがあった。
「あっ、流れ星!」
「えっ、どこ? どこにあるの?」
それは、ほんの一瞬だった。
細く尾を引いて、星が空を流れていく。
たしかに見たと思うけれど、気づいたときには消えていくため、鈴菜にも絶対に見たという確信はない。
「鈴菜ちゃん、ながれぼし、どこ?」
「もう消えちゃった」
「ええっ、やだ。ぼくも見たい! おねがいしないとダメなんだもん!」
涙声になる男の子に、鈴菜はしゃがんで視線を合わせる。
声だけではなく、彼の目にはぷっくりと涙が浮かんでいた。きれいな二重まぶたの、大きな目。どこかから、夏の匂いがしている。
「北斗くんのお願いってなーに?」
「……ながれぼしにいうんだから、ひみつだよ」
「でも、もしかしたら同じお願いかもしれない。そしたら、わたしがお願いしておいたから大丈夫じゃない?」
「ほんとに?」
「だから、お願い教えてくれる?」
「うん。あのね、ぼくね……」
鈴菜ちゃんと、ずっとずっと一緒にいられますように。
その言葉とともに、透明な涙がつうと頬を伝った。
なんてかわいい子なんだろう。鈴菜は、幼い男の子を前ににっこりと笑みを浮かべる。
「じゃあ、やっぱり大丈夫だよ。わたしも、北斗くんとずっと仲良しでいられますようにってお願いしておいたから」
「おなじ?」
「同じだよ。ね?」
「鈴菜ちゃん、ゆびきり」
小指をこちらに向けて、彼が泣き顔で笑った。
「うん、指切りしよ。ゆーびきーりげんまん、うそついたらはりせんぼん、のーます、ゆーびきーらない」
「えへへ、ヘンなの。ゆび、きらないの?」
「そうだよ。だって、北斗くんの指がなくなったら大変だもん」
「鈴菜ちゃんのゆびも、きったらやだ」
「ね」
顔を見合わせ、ひたいがくっつくほどの距離で。
ふたりは全身で夏を感じている。
「あのね、鈴菜ちゃん」
「うん?」
「ぼく、ほんとにずっと鈴菜ちゃんといたいの」
だからね、と彼は恥ずかしそうに目を伏せる。
「だから、鈴菜ちゃん、大人になったらぼくと…………」
結婚してくれる?
その問いに、なんと答えたのか。
鈴菜はもう思い出せない。
あれは、遠い夏の記憶。
あの子は今、どこで暮らしているのだろう――。
渋谷駅から七分ほど歩いたところにある喫茶店は、これまでに何度も待ち合わせに使った店だ。
彼を待って、最長二時間、ひとりで電子書籍を読んでいたこともある。
スマホの充電が目減りしていくのを横目に、物語のクライマックスで彼が到着したときには小さくため息をついたのを覚えている。
先週、梅雨明けが発表されていたはずなのに。
今日は朝からしとしとと雨が降っている。
窓ガラスの向こう側で、水滴がつうと流れていった。
冷房の効きすぎた店内に、海堂(かいどう)鈴菜は小さく身震いをする。
彼女の前には、先月婚約したばかりの恋人が座っていた。疋田健司(ひきたけんじ)。同期入社で、知り合って七年。猛アプローチに負けてつきあってからはもう二年になる。
鈴菜は小柄で、昔から友人たちに「ちょっと不幸顔」と言われてきた。貧血気味で、母譲りの色白も影響してか、イニシアティブを握りたいタイプの男性から好まれがちだ。
ふたりの働く会社の常務を父に持つ健司は、まさしくその気質を持っていた。
結婚したら仕事を辞めていいよ、と彼は言う。鈴菜にできる仕事なんて、若手の女性に代わってもらっても構わないんだから。
その言葉が、自分の婚約者を侮蔑していることに彼は気づかない。
――そんな男と婚約したのは、わたし。
そして今、鈴菜はおそらく面倒な事態に巻き込まれようとしている。
店に入ってからコーヒーを注文する以外、だんまりを決め込んでいた健司の隣には、昨年入社した若い女性社員が座っているのだ。
神妙な空気と、口を開くタイミングをはかっている彼らを見れば、言われることに想像もつく。女性のほうは泣きはらした赤い目をしていた。
今日は水曜日。
仕事帰りだというのに、彼女はどこで泣いていたのだろう。
そんな、余計な心配をしながらアイスコーヒーのストローを口に含む。ひと口吸い上げたところで、健司が「悪い」と低い声で告げた。
「先月、鈴菜のお母さんとうちの実家に挨拶をして食事会もした」
常務である健司の父は、鈴菜を大歓迎してくれた。都内に広い敷地を持つ、彼の実家。広すぎるリビングで、健司の父は楽しげに酒を飲んでいた。一方、彼の母親はキッチンとリビングを往復してばかりで、ほとんど席に着いていなかった。
「婚約して、これからふたりで結婚に向けて準備をしていく。その覚悟はできているつもりだった。だけど、どうしても俺は彼女との関係を終わらせられなくて――」
「ごめんなさい、海堂さん」
女性のほうが、テーブルにひたいがつくほど頭を下げる。今のところ、健司は「悪い」とは言ったけれど、明確な謝罪の言葉を口にしていなかった。
――わたしは、あなたの名前を知らない。だけど、あなたは知ってる。それは、きっと疋田くんから聞いたからだね。
それとも、社内の噂で耳にしたのだろうか。会社役員の息子である健司が婚約したとあって、鈴菜も知らない社員からお祝いの言葉をもらった記憶がある。
「藍里(あいり)は悪くない。悪いのは俺だ」
「でも……」
「鈴菜、ほんとうに全部俺のせいなんだ。彼女とは、昨年からふたりで会ってた。俺には鈴菜がいるってわかっていたのに、藍里に惹かれる気持ちを止められなかった」
ここまで、鈴菜は沈黙を守り切っている。何を言えばいいのかわからないし、自分が何か言うターンではないという気持ちもあった。
けれど、別に冷静なわけではない。
膝の上に置いた手は、指先がひどく冷たくなっている。冷房のせいだけではなかった。
ふたりがこれまでの関係を語りはじめると、自分はここにいるべきなのかすらわからなくなって、窓の外に視線を向ける。
日の暮れた渋谷の坂道を、傘を差したスーツ姿の人たちが歩いていく。駅へ向かう者が多いけれど、駅から歩いてくる者もいて、同じ道をそれぞれの理由で異なる方向へ向かう誰かに思いを馳せた。
「わかってほしい。俺たちは、おまえを傷つけたいわけじゃなかったんだ」
その言葉に、ふと我に返る。
そうか、と鈴菜は今さら気づいた。
一夜の過ちならば、目をつぶるつもりでいた。
あるいは、すべてを清算するから許してほしいと言われても、同じ対応になると思っていた。
――そうじゃないんだ。わたしのほうが、邪魔者なんだ。
今、ここで、誰かひとり主人公を選ぶとしたら、それは確実に自分ではない。
互いの実家にも挨拶を済ませ、会社にも結婚するつもりだと報告をし、婚約者の立場にいると思っていたけれど、鈴菜こそがふたりの恋路を邪魔する異物なのだ。
「……うん」
うなずいたのは、彼らの言い分を理解したという意味ではない。ほかに、言葉が見つからなかった。
鈴菜を傷つけるつもりでなければ、なぜこんな場で聞きたくもない話を聞かせるのか。
答えはただひとつ。
健司は、婚約者の鈴菜ではなく彼女を守ると決めたから。
「俺たち、本気なんだ。本気で藍里と生きていきたいと思ってる」
だったらなぜ、鈴菜に結婚しようなんて言ったのだろう。
「もちろん、鈴菜との婚約も嫌々したわけじゃない。その、年齢的に男として責任を取るべきだと思ったというのもなくはないんだけど」
見えないハンマーで、後頭部を殴られた錯覚に陥る。
たしかに健司と鈴菜の交際は、彼のほうから強引に押し切られた部分があった。つきあってからはすぐに粗雑に扱われ、自分という存在の価値に悩んだこともある。
それでも、鈴菜は自分が彼とつきあうことを選んだのだと、そう思ってきた。
結婚だってそうだ。
年齢で自分の人生を憂うつもりなんてない。三十近くなったら結婚しなければいけないなんて考えは、毛頭なかった。
――だけど、疋田くんからしたら違ったんだね。わたしが二十九歳だから、責任を取らないといけないと思ってプロポーズをしたってことなんだ。
浮気、あるいは本気の恋を説明されたときよりも、よほど心臓が痛い。
彼から下に見られている自覚はあった。それでも、かわいそうだから結婚してやらなきゃ、と思われていたなんて、さすがに想像したこともなかった。
鼻の奥がツンとして、目頭が熱くなる。
鈴菜は奥歯をぎゅっと強く噛み締めて、泣きそうな自分を必死に押し止めた。
ここで泣いたら、きっと勘違いをされる。健司を好きだから、奪われることを嘆いていると思われる。それは絶対に嫌だった。
「婚約を破棄してほしい。頼む、鈴菜」
結局、頼むと言うときにすら健司は頭を下げなかった。謝ったら死ぬ病気なのかもしれない。
考えてみたら、これまで一度も鈴菜は彼から謝罪されたことがないような気がする。
二時間待たされたときも、会社でミスを押しつけられたときも、セクハラめいた発言の尻拭いをさせられたときだって、彼から謝られたことはなかった。
――そっか。そういう人だって気づかなかった、わたしがバカだったんだな。
「うん、わかった。会社には、なんて言えばいい? 疋田くんが説明してくれるの?」
「ああ。俺のほうでうまくやっておくから、鈴菜は何も言わなくていい」
明らかにほっとしたのがわかる声で、彼が言う。さて、何も言わなくていいとは、何も言うなの意味だろうか。
つきあって二年、結婚を約束して二カ月。両親に挨拶をして、会社に結婚予定を報告してから一カ月。
婚約を解消すると決まって、二分。
けれど、彼らにとってはもっと早い段階から決まっていたことなのだとわかっている。自分が知らなかっただけで、世界はいつも鈴菜には見えないところで動いていた。
「ほんとうに、何も言わなくていいからな。鈴菜だって嫌だろ。会社で、若い子に男を盗られたなんて言われるの」
「……それ、本気で言ってる?」
年齢で人を判断するような価値観は、持ち合わせていない。少なくとも、彼と彼女の関係について鈴菜は健司に言われるまで一度も、自分より若い女性に婚約者を奪われたという屈辱は感じていなかった。
「そういうことを言うやつもいるって話だよ。いちいち目くじらを立てることじゃないだろ。社会人、何年やってるんだ」
「ちょっと、疋田さん!」
先ほどまで許しを請うていた健司のモラハラ発言に、藍里のほうが焦った声を出す。
「こういうのって、誰かが言ってやらないとわからない人間もいるんだ。あくまで俺は親切心で……」
「その親切心は、もうわたしに向けてくれなくて大丈夫。今までありがとう。それから、お幸せに」
左手の薬指にはめていた婚約指輪を抜き取ると、テーブルの上にコツンと置いた。ふたりで指輪を選んだことも、もう二度と思い出したくない。
財布から千円札を一枚取り出し、鈴菜は席を立つ。
「ほんとうに、申し訳ありませんでした」
最後の言葉は元婚約者からではなく、その隣に座る女性から聞こえてきた。
店を出ると、空はすっかり暗い。けれど、いつしか雨は上がっていたようだった。
濡れた傘を手に歩き出す。坂を下っていく途中で、数人とすれ違った。
雨が降っているときは役立つ傘も、雨上がりには長くて持ちにくい邪魔者でしかない。それがなんだか、自分に重なる気がしてきて、鈴菜は傘の柄をきゅっと握り直す。
大丈夫。降っても晴れても傘の価値に代わりはない。そして、自分も。
――傷ついたのはプライドで、心じゃなかった。わたしは、疋田くんのことをほんとうに好きだったのかな。
週明けの月曜日、鈴菜は重い気持ちで西新宿を歩いていく。出勤時間、都庁方面へ向かう人の波は逆らうことを許さない。もちろん、いつだってこの波とうまくやってきた。社会人生活も七年目。会社へ行きたくない日だって、自分の機嫌を取るのにも慣れている。
――だけど、今はうまくできない。先週末のことを考えると、足が重い。
水曜日に婚約を解消したあと、木曜日に健司が部署の上司に報告をしたらしい。それから、瞬く間に噂は社内を駆け巡り、ふたりの破局が報じられた。
鈴菜の働くカメオトレーディングカンパニーは、それなりに名の知れた一部上場企業である。もとは輸出入業を主戦場として大きくなった会社だが、最近は医療機器の輸入で有名だ。
鈴菜は、入社以来ずっと企画部で働いている。入社して三年は、北欧家具をメインに催事企画を担当していた。近年は、海外で流行したスーパーフードから、アメリカの先端医療機器の手配まで多岐にわたって関わっている。
カメオトレーディングカンパニーの企画部は、イベント直前など多忙な時期もあるけれど、平常業務としては定時に帰れるいい職場だ。
その職場が、婚約解消以降とても居心地の悪い場所になってしまった。
女性社員たちは、独自のネットワークで健司が浮気していたことに早くもたどり着いている。だからこそ、鈴菜を見る目が同情に満ちていた。
「疋田さん、ひどいよね」
「やりきれないでしょ。いつでも話を聞くよ」
最初から、健司への不満を聞き出したいのが透けて見える。
彼に対して思うところがないとは言わない。
だが、誰かに話して溜飲が下がるとも思えなかったし、当事者以外の人間が事態に踏み込んでくるのは鈴菜の望むところではない。
たしかに今回の件で、自分は被害者に見えるかもしれない。でも、相手にだって相手の気持ちがある。
「ありがとう。お互いに納得して決めたことだから。いろいろお騒がせしてごめんね」
だから、鈴菜の答えはいつも同じだった。
多くを語らない――どころか、ほとんど何も言わない鈴菜に対して、心配性の彼女たちは物足りなさそうにしていたけれど、考えを変える気はない。おそらく自分は少し頑固なのだろうと思う。
実際よりも弱そうに見える外見へのコンプレックスを持っている。だからこそ、弱みを人に打ち明けられない。
しかし、女性社員たちからすれば鈴菜のそういうところが「あの子って、いい子でいたがるよね」という評価につながってしまった。
さらに悩ましいのが、婚約破棄されたかわいそうな鈴菜に声をかけてくる男性社員がちらほらいたことである。営業部で健司のライバルとされている社員を筆頭に、社内でも人気の男性たちが「気晴らしに飲みにでも行こうよ」と鈴菜を誘ってきた。
彼らもまた、常務の息子である健司を蹴落とすチャンスを狙って、鈴菜から話を聞き出したかったに違いないのだが、周囲の女性たちからはよく見られない。
当然、鈴菜はすべての誘いを断った。
理由は女性社員に対してと同じく、何も話したくなかったからだ。それに婚約を解消されたとたん、遊び歩いていたらどんな目で見られるか想像に難くない。
鈴菜が沈黙を守っている間に、社内では健司の浮気相手が藍里だと知られていた。
二十九歳の婚約者を捨てて二十三歳の浮気相手を選んだ。それが一方的に事実として認識されていく。
健司の話から判断するに交際期間がかぶっていたのは否めない。けれど、藍里を浮気相手と呼ぶのは乱暴だと思う。
現に彼は藍里を選んだのであって、彼女こそが本命ということになる。
出会う順番が違っていれば、最初から藍里と恋をしていたのだろう。だとしたら、彼らの物語において鈴菜こそが脇役であり、悪役である。
それにしても、結婚が決まって初めて自分が主人公みたいな気持ちになった直後に、やっぱり脇役だと自覚させられるだなんて虚しいものだ。
海堂鈴菜は生まれてこのかた二十九年間、ずっと自分のことを脇役だと感じて生きている。
ごく平凡な家庭に生まれたことも、両親が離婚したことも、身長が平均より低いことも、脇役の原因ではない。
いつもどこかで、思っている。
主人公になれる人は最初から決まっていて、自分はそうではないのだと。
もっと若いころには、自分の物語の主人公になりたいと思った日もある。だけど、脇役だって悪くない。バイプレイヤーがうまくなければ、主役は輝かないことを知っている。いいバイプレイヤーになれているかどうかは別として、なんにだって活路はあるということだ。
――活路、か……。
取引先へのメールを送り終えた鈴菜は、小さく息を吐いて席を立つ。
オフィスフロアの隣にあるフリースペースで、自販機のコーヒーを買った。
いつもはアイスコーヒーをブラックで飲むが、今日は朝から空咳が続いている。胃の具合もよくない。
ホットのカフェオレを手にフロアへ戻ろうとしたとき、総務部の女性社員ふたりが歩いてくるのが見えた。かすかに嫌な予感を胸に、曖昧な微笑で会釈しようとすると、
「海堂さん、大丈夫?」
「聞いたよ。ひどいよね、疋田さん」
まさしく今いちばん聞きたくない話題が、彼女たちの口から語られる。
「わたしは大丈夫。心配してくれてありがとう」
無難な言葉を選び、なんとか口角を上げた。けれど、相手はそれで納得してくれそうにない様子だった。
「無理しないで。つらかったらいつでも話、聞くよ」
「そうそう。こういうのって、ぱーっと話して楽になったほうがいい」
善意で言ってくれているのかもしれない。わかっているのに、疑心暗鬼になる自分が嫌だ。
「ね、そのうち、飲みに行こうよ」
「おいしいもの食べて、おいしいお酒飲んで、やなこと全部忘れちゃうの。それで次に行こ!」
ぽん、と肩に置かれた手には、ジェルネイルが施されている。きれいなネイルの軽やかさと裏腹に、その手をひどく重く感じた。
「そうだね。そのうち、うん」
カフェオレを手に、席に戻る。咳をすると、頭の奥がずき、と痛んだ。風邪をひきかけているのかもしれない。
午後の仕事を終えるころには、かすかな寒気が肌をひりつかせていた。
まだ月曜日だというのに、自宅に帰り着くころには全身がひどい倦怠感に襲われていた。梅雨が明けて、急に気温が上がったのも影響しているのだろうか。
「ただいま」
誰もいないマンションの玄関で、パンプスを脱ぎながら鈴菜は小さく息を吐く。
右手にはコンビニで買ってきたサラダとおにぎりの入ったエコバッグ、左肩にかけた仕事用のトートバッグをひとり用のソファに置いてから、天井を仰いだ。
京王線つつじヶ丘駅から徒歩九分のマンションに引っ越してきたのは、四年前。
それまでは、母とふたりで暮らしていた。さらに以前は、両親と三人だった。
幼いころ、一家は府中市にあるマンションに住んでいた。製薬会社で研究員として働く父と、旅行会社のプランナーの母。どちらも仕事は忙しかったけれど、鈴菜の学校行事にはいつもそろって参加し、土日や祝日ともなれば遊園地や動物園、高尾山や河口湖に出かける仲のいい家族だった。
両親は、鈴菜が十五歳のときに離婚している。
母に引き取られたあとも高校を卒業するまで、父は養育費を支払い、月に一度会いに来てくれた。鈴菜が大学に入学した年の夏、父はアメリカの研究所で働くため日本をあとにした。以降は、数年に一度、帰国したときに食事をしている。
母とは、就職してからもふたりで住んでいた。けれど、四年前に母が再婚して東京を離れることを決めた。最初は鈴菜をひとりで残していけないと母は悩んでいた。
互いに支え合って生きてきたからこそ、離れがたい。そう思ってくれる気持ちはわかる。
だが、母には母の人生があり、鈴菜には鈴菜の人生がある。離れていても、家族であることは変わらない。
そして、鈴菜は初めてひとり暮らしをするようになった。
最初の二年は、少し寂しかった。ペット可の物件に引っ越して、猫を飼うことも考えた。土日祝日に、ひとりで食べる食事はなんだか味気なくて、だんだん料理をしなくなってしまった。
そのころ、同期入社で以前からよく話しかけてくれていた疋田健司が飲みに誘ってくるようになった。
あとになって聞いた話だが、彼は入社したときから鈴菜に興味があったらしい。寂しさだけが理由ではなかったけれど、強引な健司に流されるようにふたりのつきあいは始まった。
――また、ひとりになっちゃった。でも大丈夫。今夜は早く寝て、風邪が本格化しないように……。
バッグの中のスマホが、着信を知らせる。液晶には、母と表示されていた。
「もしもし、お母さん?」
『鈴菜、もうおうちに着いた?』
「あ、うん。さっき帰ってきたところ。どうしたの?」
尋ねてから、愚問だったと気づく。婚約解消したことを土曜日に伝えたから、心配してくれているのだ。
『ううん。鈴菜どうしてるかなと思って』
「……大丈夫。ちょっと風邪っぽいけど、元気だよ」
『そう。そっちはもう梅雨明けしたんでしょう? 暑くなってきたんじゃない? あなた、暑いの苦手だから』
とりとめのない話をしてくれるのは、母の優しさだとわかっている。傷口に触れないように、そっと慰めてくれるのだ。
「心配しすぎ。今からごはんだから、切るね」
『ちゃんと食べないとダメよ。あ、そうそう。仙台の長茄子のお漬物、送るからね』
「ありがとう。それじゃ、またね」
『おやすみ』
寝る時間にはだいぶ早いが、母は夜の電話の終わりにいつも「おやすみ」と言う。その四音に心が毛羽立つのは、ひとり暮らしをしていると「おやすみ」を言う機会が減るせいだ。
――でも、考えてみたら疋田くんとは寝る前の電話なんて最近はほとんどなかった。おやすみを言ったのがいつだったか思い出せない。
おにぎりのパッケージを開けようとして、海苔が破れてしまった。健司との関係性と重ね合わせて、鈴菜は思わず「ダメだなあ、わたし」とつぶやく。
結婚しようとしている相手と、ろくに電話もしていなかった。その時点で、問題があることに気づくべきだったのに。
丁寧に開封すれば、おにぎりの海苔は破れないと知っている。
いつでも、どんなときでも、留意していなければ、人間関係だって破損してしまう。
破れた海苔をパッケージごとゴミ箱に捨てて、鈴菜はぱくりとおにぎりにかじりついた。子どものころに、行楽で食べた味を思い出す。今日は、かつての三人家族だったときをやけに考えている。感傷的になっているせいだろうか。
――そういえばあのころ、近所に住んでいた年下の男の子とよく遊んだ気がする。髪の毛が茶色くてふわふわで、幼稚園で読んだ絵本の天使みたいな……。
おにぎりひとつで、胃が――というよりも胸が苦しい感じがして、サラダは冷蔵庫に入れた。シャワーを浴びて髪を乾かすと、二十一時になるより早くベッドにもぐり込む。
お気に入りのガーゼケットにくるまって、目を閉じて。
ひとりの部屋は、咳の音がよく響く。
その夜は、浅い眠りに落ちるたび自分の咳で目が覚めて、うつらうつらと短い奇妙な夢を見ていた。夢の隙間のどこかに、名前を思い出せない小さな幼なじみの姿があったような気がする。
あの子は今、どこで何をしているのだろう――。
七月が、泡になった人魚姫のように弾けて消えていく。一秒一秒は長く感じるのに、一日は溶けるように早い。そう思うのは、鈴菜が本格的に風邪をこじらせているせいもある。
金曜日の昼前、東北支社の担当者から電話を受けた。話している間は、なるべく咳き込まないようにこらえた結果、電話を切った直後にひどい咳が出た。胸の奥からこみ上げる深い咳を繰り返しているうちに、脳貧血のときのような血の気の引く感覚があった。
「海堂さん、大丈夫?」
声をかけてきた隣の席の女性社員に、返事をする余裕もない。
――痛い。咳するたび、喉も胸も頭も目も、すごく痛い。
折しも昨日の朝から月経が始まり、今日は体が重く、熱っぽさも感じていた。市販の鎮痛剤を服用しているのに、あまり効果を感じられない。
この一週間、体調不良が続いているため、仕事の進みが悪かった。
金曜日を乗り切れば、土日に休んで回復できる。そう自分に言い聞かせ、かろうじて出社してきたのだが――。
引きかけた波が、さらに激しい咳になって戻ってくる。
鈴菜は右手で口を覆い、左手で肋骨の真ん中を押さえた。手を当てたところで胸の痛みが治まることはなく、だんだん頭がぼうっとしてくる。ああ、酸欠かもしれない、と気づいたときには遅かった。
「海堂さん、海堂さん……!?」
ご心配をおかけしてすみません、大丈夫です。ちょっと早退して病院に行ってきたほうがいいかな――なんて、頭の中では返事を考えているけれど、実際には声に出すこともできなかった。その時点で、鈴菜は椅子から崩れ落ち、床に倒れ込んでいたからだ。
朦朧としたまま、同僚が呼んでくれたタクシーに乗って渋谷にある病院へ向かう。救急車を呼ばれそうになったところを、なんとかタクシーにしてくれるよう頼み込んだ。上司は、同行を申し出てくれたけれどそれも頑として断った。
体調管理も仕事のうち。七年目にもなって、こんな失態をさらす自分がみじめだった。
渋谷区にある蓬山(ほうざん)大学病院に到着し、一時間ほど待ったあとで診察室に入る。胸の音を確認された段階で呼吸音がよくないと言われた。さすがに、そこは自覚がある。そもそも呼吸するたびにヒューヒュー、ゼーゼー、嫌な音がする。
レントゲン写真を撮影し、再度診察室に呼ばれる。季節外れのインフルエンザか、はたまたマイコプラズマか。そんな予想に反して、ただの風邪をこじらせて急性気管支炎を発症していると医師から説明があった。もちろん、厄介なウイルスには感染していないほうがいい。
熱とCRP値が高いため、即入院を告げられた。家に帰って入院準備をしたいと言ったが、それも却下される。点滴を受けながら絶望していると、若い看護師が、
「最近は手ぶらで入院できるので、大丈夫ですよ」
と微笑みかけてくれた。
なんでもそろうのと、いったん家に帰れるかどうかは、また別の話だ。入院に必要なものの中には、心の準備もある。
けれど、そんな悠長なことを言っていられる状況ではなかった。鈴菜はそのまま病室に運ばれ、ベッドで眠りにつく。短い悪夢を、連続して見た。内容はあまり覚えていない。ただ嫌な気持ちだけが胸の底に残る。
夕方、点滴のおかげで少し熱の下がったタイミングを見て、看護師が書類を持ってきてくれた。
急な入院だったため、食事は明日の朝食から出ると説明があった。医師からも、今日は食事はしないよう指導されている。どちらにしても食欲はないので、食べられないのは問題ない。
何度も眠りに落ちて、何度も汗だくで目を覚まして。
合間に咳き込んでは水を飲んだ。
真夜中を過ぎて目を覚ましたとき、個室でよかったと安堵する。こんなに咳をしていては、大部屋だったら申し訳なく思う。病院側の配慮ということではなく、ほかの病室は埋まっていたのだ。
――部屋、暗いな……。
慣れない場所にひとり、見上げた天井はどこか他人行儀で、鈴菜は孤独を噛み締める。
子どものころから暗所があまり得意ではなかったけれど、ひとり暮らしになってからは暗闇と孤独がひどく類似して感じるようになった。結果、夜はフロアライトをつけたままで寝る。病室には、当然そんなものはなくて、消灯後の室内は不安の密度が高く思えた。
――大丈夫。ひとりは、慣れてるもの。
何度も自分に言い聞かせる。ひとりでも眠れる。ひとりでも食べられる。ひとりでも仕事に行ける。ひとりでも――生きて、いける。
だけど、ひとりは寂しかった。
二十九歳という自分の年齢を考えれば、外では大人らしく振る舞うべきだ。実際に、そうしようと努めている。いつまでも小さな子どものように怯えてはいられない。
それでも、息をするだけで肺が痛む夜には、心の奥に閉じ込めた弱くて幼い自分が姿を現す。
ひとりじゃ眠れない。ひとりじゃ食べられない。ひとりじゃ仕事なんてできない。
――ひとりで生きていくなんて、わたしにはできないよ。助けて、誰か。誰か……。
婚約や結婚は、鈴菜にとってある種の約束だった。社会的な契約ではなく、もっと原始的でもっとささやかで、もっともっと大切な約束のはずだったのに。
どうしようもなく苦しくてつらくて寂しい夜に、名前を呼んでもいい『誰か』。
友だちにも同僚にも、両親にすら助けを乞うことができなくなった大人の自分が、唯一頼っていい相手こそが婚約者であり、結婚相手なのだと、そう思っていた。
――疋田くんのことを、恋人としてちゃんと愛せていなかったから、わたしじゃなくてあの子を選んだ。そういうことなんだよ。彼が悪いわけじゃない。彼女が悪いわけじゃない。だから、誰にも言えなかった。わたしは……。
弱くて、脆い。
それをひた隠しにして、生きている。
――それを知られるのが怖かったから、婚約解消の理由を誰にも話せなかったのかもしれない。わたしは、自分を守っていただけ。誰かのためじゃない。いつだって、自分のことしか考えていなくて……。
目を閉じて。
ただ、自分の呼吸と咳だけが聞こえる真っ暗な中にいたから気づかなかった。
「そんなこと、思わなくていいんですよ」
低くでやわらかな声が、鼓膜を震わせる。
「っ……、だ、れ……?」
薄くまぶたを持ち上げると、暗がりに男性の輪郭が見えた。すらりとした長身で、手足が長い。右手が鈴菜のひたいをそっと撫でる。
「あなたは強くて優しい人です。自分を責めないでください」
「でも、わたし……」
「目を閉じて。夜は怖くなんてありません。安息のための時間なんですよ」
なぜだろう。鈴菜は言われるままに、目を閉じていた。
突然病室に入ってきた見知らぬ男性だなんて、ほんとうならば暗闇よりも孤独よりも怖いはずなのに、彼の声に安堵する自分がいる。
「海堂……鈴菜さん」
――あなたは、誰……?
「……阿見原(あみはら)ではなく、海堂さんなんですね。だから、見つけられなかった」
それは、久々に聞く父の名字だった。たしかに、かつて鈴菜は『阿見原鈴菜』と呼ばれていた。あれはもう、十四年も前のこと。
「どうして……」
知っているの? あなたは、誰ですか?
聞きたいのに、激しい咳で声が途切れる。
「ああ、ベッドを少し起こしましょう。角度があるほうが楽になるかもしれません」
優しい夜を凝縮したような声で、彼が言う。それからすぐ、モーターの音がしてベッドのリクライニング機能が作動した。背上げで、上半身が自然と持ち上げられる。
「水を少し飲んでください。口を開けて――」
「ん……」
幼い子どものように彼の言葉に従って、鈴菜はふた口、水を飲んだ。
ただそれだけのことで、彼の言うとおり少し楽になった気がする。不思議な人だ。優しくて、どこか懐かしい。
「あなたは、誰……?」
まぶたの上に、あたたかな手が置かれる。大きくて、指の長い手だった。
「鈴菜ちゃんは、僕のことを覚えていませんか?」
――鈴菜、ちゃん?
「僕の名前は――」