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きみの全部が好きすぎる 幼馴染み年下ドクターの20年越し激甘執着愛 3

第三話

「心療内科、ですか?」
 入院してから四日が過ぎた。相変わらず咳は出るけれど、微熱まで体温は下がってきている。
 そんな中、診察中に心療内科の医師を紹介されて、鈴菜は当惑に眉を寄せた。
「ああ、いや、そんなに警戒しないで。せっかく総合病院に入院したんだし、調子が悪そうだからよかったら診察を受けてみないかなと思って」
 そうは言われても、心療内科である。
 医師もかなり言葉を選んで話してくれているが、こうして紹介するからには鈴菜に必要な治療だと判断したのだろう。
 ――わたし、そんなに弱ってそう? 精神的に、何か問題がありそう……?
「熱のせいもあるのはわかるんだけど、眠っているときにうわ言がつらそうだと看護師から話があったんだ。それに、海堂さんはかなり自制的というか、無理をするタイプだね。今回も、倒れるまで仕事を休んでいなかったんでしょう?」
「……はい。そう、ですね」
 特別無理をしている自覚はなかったけれど、たしかに限界まで自分を酷使して、結局入院する羽目になった。否定できる要素はない。
「なので、体だけじゃなく心も疲弊しているかもしれない。そう身構えなくてもいいので、診察を」
「わかりました。よろしくお願いします」
 思ったよりも強く診察を勧められて、これ以上拒むのもよくないと、鈴菜は頭を下げた。
 ――婚約を解消されて、会社にも居づらくて。たしかに、心の具合がよくないって言われたら、そうかもしれない。
 入院で会社を欠勤する件に関しては、すでに連絡をしたあとだ。時勢柄、病院が見舞い客を制限していることも伝えてある。家族であっても、予約をしなければ入院患者に会うことはできない。
 今は、会社の人間に会わずに済むのがありがたかった。
 そんな気持ちを見抜かれたようで、少しだけ気恥ずかしくもある。
 どちらにせよ、長期的な入院ではない。熱が下がって症状が落ち着いたら、あとは自宅療養でいいと聞いていた。だったら、ここで治療できることはすべて治療し、元気な自分に戻って退院したい。
 ――会社に戻るしか、道はないんだもの。
 たとえそこに、元婚約者と彼の恋人がいるとしても、鈴菜にはすぐ転職するようなあてもなかった。

 心療内科の医師とふたりで話をしてみて、自分で思うより今の自分が弱っていることに気づく。
「なるほど。あまり長時間連続して眠るのは得意ではないということですね」
「そう、かもしれません」
「それに、お話を聞いていると不安に感じることが多いようです。息苦しいとか、鼓動が速く感じるとか、そういった経験は今回体調を崩す以前からあったんですか?」
「……少し、ありました」
 だが、悪化したのは――認めたくないけれど、あの雨の降る水曜日からだ。
 健司が藍里を連れてきた日。
 ――北斗くんに再会して、ゆっくり眠れていると思ってたけど……。
 彼は、毎日かならず病室に顔を出してくれる。鈴菜にとっての、精神安定剤のような存在だった。
 今の自分を知らず、幼いころの思い出話に花を咲かせる。それは、幸せだった過去を繙くような時間だ。会社での鈴菜を知らない相手だからこそ、安心して話ができる。
「少し、眠りやすくするお薬を処方します。それと、眠りを深くするお薬も一緒に試してみましょう。ただし、今は気管支炎の症状が落ち着いていない状態なので、薬の量はかなり少なめにしておきますね。眠っている間に、発作のような咳が出て呼吸に問題が起こっては大変ですから」
「わかりました」

 不安だから、不安を減らすために薬をもらう。けれど、その薬を服用することに不安を覚える。
 なんとも言えない負のループに感じたけれど、実際に処方された薬を飲んだ結果、朝まで一度も目が覚めることなくぐっすり眠った。
 という話をすると、北斗が大きくうなずく。
「必要な治療を受けられて、よかったです。睡眠不足は健康の大敵ですからね」
「うん。自分で思っているよりも、ダメージを受けていたってことなのかな。少しだけ、悔しいけど」
「悔しい、ですか?」
 北斗には、会社での――というより、婚約解消された件について話していない。
 自分のあまり好ましくない現実から切り離された場所にいたかった。
 ――でも、隠しておくって逆にその事実を意識しているみたいで嫌だな。
「実は、ちょっと前に婚約を解消したの。ううん、したっていうとわたしが望んだみたいだけど、相手のほうから婚約を解消したいと申し出があったんだ」
「……婚約していた、と」
 いつも明るく優しい北斗の表情が、一瞬で険しくなる。不穏を秘めた瞳に、鈴菜は慌てて顔の前で右手を振った。まだ左腕には点滴がつながっている。
「あ、でも、別に未練とかそういうのはないから。それに、あとになって考えてみたら、わたしも相手のことをちゃんと好きじゃなかったなって」
「そうなんですか?」
 振っていた手を、北斗が両手でぎゅっとつかんできた。そのまま、自分のひたいに鈴菜の手を当てる。まるで、何かに祈っているようだった。
 ――子どものころと同じ感覚でいるのかもしれないけど、さすがにちょっと、緊張する。
 だが、彼は弟のような存在だ。彼もまた、鈴菜のことを姉のように思ってくれているのなら、あまりさわらないで、とは言いにくい。
「うん。そうなの。でも、ほら、相手がうちの会社の常務の息子でね、わたしたちの婚約は社内のみんなが知っていたから、別れたってなるとなんとなく……」
 周囲の同情の目が痛かった。
 そこまで言う前に、北斗がわかったとうなずく。
「それはたしかに、いたたまれないですね。心も体も疲れていたら、風邪をこじらせるのも当然ですよ」
「あはは、そうだね」
 ずいぶん体調は戻ってきている。明日には点滴も抜けそうだと言われていた。
 退院したら、北斗と頻繁に会うこともなくなる。少し寂しいけれど、大人になって再会した幼なじみとこれ以上の関係を望むものではないだろう。
「でも、よかったです」
「何が?」
「鈴菜さんが、誰かのものになっていなくて嬉しいという意味です」
 自分が誰かのものかどうか。そんなことを考えたことはなかった。
 過去に恋人がいた時期も、婚約者がいた時期もあるけれど、いつだって鈴菜は鈴菜のものでしかなかった。
「鈴菜さん、退院してしばらくは療養が必要です。担当医からも、そう言われていませんか?」
「うん。わかってる。会社も、退院後すぐ出社しろとは言わないから」
「ひとり暮らしは危険です」
「え?」
「だから、僕と暮らしましょう、鈴菜さん」
 ――えええええ!?
 あまりに唐突すぎる申し出に、声も出なかった。
「僕はこれでも仕事が忙しいほうなんです。だから、鈴菜さんが退院してしまったら会う時間もあまりなくなってしまうと思います。そんなのは嫌じゃないですか」
「嫌、というか、あの」
「それに、僕たちには約束がありますよね?」
「約束って?」
「覚えていないんですか?」
「あ、えーっと……」
「いいんです。鈴菜さんが覚えていてくれなくても、僕は覚えてますから」
 だから、一緒に暮らしましょうね。
 あひるの子は、白鳥に。
 幼かった彼は、美しい青年医師に。
 鈴菜の手を取った北斗が、夢見るように微笑んだ。
 そして、鈴菜は――。

 

 七月も、残り数日で終わりを迎える。
 久々に病院着以外の衣服を身に着けて、髪を高く結ぶ。窓から見える空は抜けるように青く、なんだか退院日和の気がした。
 午前十時に最後の回診を終えて、荷物もまとめ終わっている。
 ――休職、どうしようかな。
 昨日、心療内科の医師から「疲れているなら、休職という手もあるよ」と提案された。それまで、考えたこともなかったので、目から鱗が落ちるようだった。
 どうしようか考えている時点で、その選択肢が視野にある。けれど、婚約解消からの入院、そのまま休職ともなれば、周囲の目が気になってしまう。
 ――そうやって、人の目を気にするのが悪いクセなのかもしれないけど。
「鈴菜さん、準備はできましたか?」
「あ、おはよう」
 病室にやってきた北斗は、今日は白衣ではなく夏物の涼しげなセットアップを着ている。ドルマンスリーブのジャケットとパンツはブルーグレーのやわらかな素材で、手脚の長いスタイルを際立たせていた。
 ――私服だと、雰囲気が違って……。どうしよう。いつもよりかっこよく見える。
 彼のことを、魅力的な男性として意識するのをなるべく避けようとしてきた。ひとりの男性として見てしまったら、一緒に住むなんて無理だ。
 今日、退院したら一度マンションに荷物を取りに行って、鈴菜は北斗の部屋に同居する約束になっている。
 彼が一緒に住もうと提案してきた日から、しばらくかたくなに断ってきた。だが、最終的に鈴菜が根負けして、彼のマンションで暮らすことを約束したのである。
 ――絶対に、そういう目で見たりしない! 北斗くんは、わたしにとって大事な幼なじみなんだから。
「今日からお世話になります」
「鈴菜さんのお世話なら、喜んでします」
「忙しいのに?」
「どんなに忙しくても、します」
 一応こちらが年上なのに、なんだかすっかり面倒を見てもらっている。入院中からそうだったから、退院後は気をつけなくてはいけない。今日、鈴菜が着ているワンピースも、彼が買ってきてくれたものだ。
 ふたりの間である程度の取り決めはできていて、生活費は支払わない代わりに鈴菜が家事をすることになっている。
 母とふたりで長く暮らしていたので、若いころから家事を分担するのには慣れていた。おかげで、ひとり暮らしを始めたあとも食事や掃除、洗濯で困ったことはない。唯一、鈴菜の得意分野だ。
「荷物、これだけですか?」
「うん。急な入院だったしね」
「持ちますよ」
「大丈夫、自分で――」
 入院中に増えたものがある分、重くなったトートバッグを北斗がひょいと持ち上げる。
「あ、自分で……」
「いいんですよ」
「待って、持てるから」
「このくらい、持たせてください。それに、鈴菜さんは存在しているだけで俺にパワーをくれてますよ」
 ときどき、北斗は表現が過剰だ。たしかに幼かった彼にとって、鈴菜――というか、鈴菜の家族は救いのひとつだったかもしれない。だからといって、存在しているだけでというのは大げさにすぎる。
「もう、北斗くんってたまに外国の人みたいだよね」
「そうですか? 長くヨーロッパにいたからかもしれません」
「えっ、そうなの?」
「はい。小学校三年から、わりと最近まで日本を離れていました」
 ――でも、十四歳のときに府中のマンションに来ていたって……。
 疑問が顔に出ていたのだろうか。北斗は照れたように笑って、
「鈴菜さんのマンションに行ったのは、一時帰国のときです。嘘じゃありませんよ?」
 と背を向ける。
 せっかくの休みだというのに、こうして鈴菜の退院に付き添ってくれる。もしかしたら、退院に合わせて休みを取ってくれたのかもしれない。
 ――そんなふうに、優しくされたら勘違いしそうになる。
「嘘だなんて思ってないよ。でも、ごめんね」
「どうして謝るんですか?」
「わざわざ一時帰国したときにマンションまで来てくれたんでしょう? 無駄足を踏ませてしまったから」
「それは、鈴菜さんのせいじゃありません。それに、困った顔をされると寂しいです。鈴菜さんは、いつでも僕の隣で笑っていてくださいね」
「おもしろくもないのに笑えないよ」
「ああ、拗ねてる顔もかわいいです」
「もう!」
 こんなに甘やかしてくれる美形の青年とふたり暮らしだなんて、心臓がいくつあっても足りない。この先の日々に一抹の不安を感じながらも、頬が自然とゆるんでしまう。
 北斗との生活に、不安よりも大きな期待を抱いているのが自分でもわかっていた。
 誰か。
 助けてほしいときに、名前を呼んでもいい『誰か』。
 恋人でも友人でも家族でもなくても、幼なじみという関係は特別だ。
 ――期待しちゃ、ダメ。北斗くんは、恩返しをしようとしてくれてるだけだから。それだって、わたしが彼に何かをしたわけじゃない。わたしは、ただ……。
 北斗と遊ぶのが好きだった。
 ただそれだけの、子どもだった。
 ――なのに、そんなに優しくしないで。
 体は回復しても、鈴菜の心はまだ弱っている。今、優しくされたら、きっと――。

 

 鈴菜は、東京都の二十三区外で生まれ育った。
 一般的に東京と聞いてイメージするのは、おそらく二十三区内。もっと限定する人にとっては、山手線の内側と言われる。
 生活費に困ることはなかったが、だからといって分不相応な暮らしを望んだこともない。いわゆる高級マンションとは縁のない人生だ。
 それが――。
「……このリビング、何畳あるの?」
 JR山手線の代々木駅から徒歩十四分。駅からの距離はあるものの、渋谷区千駄ヶ谷に建つ築浅のマンションの一室で、鈴菜はしゃがみ込みそうになった。
「たしか、変形の三十五畳と聞いています。変形なので、実測より狭く感じるかもしれませんね」
 そういうことではない。
 どちらかというと、広すぎて驚いたのだ。
 三階建ての二階フロア、すべてが彼の居住区画だと聞いていた。外から見て、首を傾げていたものの、中に入ったらいっそう悩ましい気持ちになる。広すぎるのではないかという疑問に対し、さらに広い部屋が見えてしまったのだ。
 ――ひとり暮らしで、この部屋?
 さて、この部屋の家賃はいくらでしょうか、なんて言われたところで、まったく想像がつかなかった。もちろん、北斗はそんなことを言わない。
「鈴菜さんの部屋はこの奥です」
 リビングにつながるドアを指さして、彼が鈴菜をうながした。
「開けていいの?」
「もちろんです」
 ドアを開けると、向かって左手に大きなクローゼットがあり、反対側に窓、窓の下に真新しいベッドが置かれている。ベッドフレームはロータイプのフロアベッドだ。
「ベッド、よかったら横たわってみませんか?」
「え、でも」
 躊躇しているのをよそに、彼はガーゼケットをめくった。
 ――家主がここまでしてくれているのを、無下にはできない!
 鈴菜はベッドの脇にしゃがみ込み、両手をついてマットレスの上に移動する。手のひらをついたところから、沈み込むのと同じ力で持ち上げてくる感覚があった。
 静かに横たわると、思っていたよりも固い。
 いや、次第に体が接した部分がゆっくり沈んでいく。
「え、何これ。すごい。知らない感覚……!」
「僕のお気に入りのマットレスなんです。セミオーダーで、身長、体重、筋肉量などを考慮してセッティングしてくれるメーカーで――」
「ちょっと待って」
「はい」
「身長と、体重と、筋肉……」
「筋肉量ですね。さすがに、そこは目分量なんですが」
「どうしてそんなの、わかるの!? まさか、カルテを――」
「見ていればわかりますよ。好きな人のことですから」
 しん、と空気が音を消した。そんな錯覚に陥る。
「す……?」
 ――今、好きって言った。え、言わなかった?
「好きな人のことです。聞こえましたか?」
「待っ……、あの、え、えっ……!?」
 鈴菜は、ベッドの上に正座するしかできなかった。少なくとも、彼と自分の間には二十年も離れていた時間がある。そばにいるから好きになると言い切れるものではないし、二十年離れていたからといって好きでいられないと判断する理由もない。
 だからといって。
「む、無理でしょ。だって北斗くんはわたしにとって、弟みたいな存在で……っ」
 今の自分を、彼は知らない。
 幼いころは二歳の差は大きい。北斗から見れば、鈴菜はなんでも知っているお姉さんだったかもしれないけれど、二十九歳と二十七歳のふたりはぜんぜん違っている。
「僕は昔から、鈴菜さんのことを姉だなんて思ったことはありません」
「……ひどい」
「ひどいですか? 好きだと言っているのに、弟扱いするほうがよほど残酷だと思います」
「う……」
 それについては、彼に理がある。失礼な態度だったのは認める。
「それは、ごめんなさい。だけど、わたしたちお互いに幼いころしか知らないんだよ。再会していきなり、好きと言われても……」
 大人同士の間で交わされる「好き」には、多くの意味があると思う。その中でも、恋愛感情であることを意図して伝えた場合、なんらかの答えを求めるものだ。
 北斗が言う「好き」は、鈴菜の恋人になりたいという意味なのか。はたまた、性的な関係を結びたいという意味なのか。ほかに――ほかには、どんな理由で人は誰かに「好き」を伝えるのだろう。
「鈴菜さんは、僕があなたに恋愛感情を抱いていることにも気づいていなかったんですよね」
「……はい」
「昔から、ずっと、鈴菜さんが好きでした」
「…………はい、あの、ありがとう」
「だから、あなたを探していたんです。もう一度、会いたかった。もう一度だけじゃなく、会えたらずっと一緒にいたいと思っていました。それでも見つからなくて、そうしている間に僕はどんどん歳を取っていく。もしかしたら、もう二度と会えないんじゃないかと思ったこともあります。再会する前に、あなたが誰かと結婚しているかもしれないと悩んだ夜もあります。だけど、こうして僕たちは会えた。僕は、鈴菜さんに会えたんです」
 北斗の声は、決して大きくない。
 優しくて、甘やかで、どこか静かだ。
 ――だけど、伝わる。ほんとうに、ずっとわたしを探していてくれたんだって、その気持ちが伝わってくる。
「だから、再会できたからには全力であなたを愛したいんです。それだけが、僕の二十年来の願いだったんですから」
「北斗くん」
「鈴菜さん、お願いです」
 ベッドに正座する鈴菜と目線を合わせるため、彼がフロアに片膝をつく。やわらかな黒髪が、ふわりと揺れた。
「ちょっ……、あの、何を」
「僕が、あなたを愛することを許してくれませんか?」
「……そんなの、わたしがどうこう言えることじゃないよ」
「だったら、好きでいてもいいんですね?」
「っっ……」
「鈴菜さん」
 これは、いったい何を求められているのだろうか。
 北斗はキラキラと目を輝かせて、幸せそうに微笑んでいる。彼の言葉をそのまま受け止めるなら、好きでいていいかどうかということになる。
 ――でも、それってわたしが許可すること? 許可をしたら、北斗くんの気持ちを受け入れる意味になるの?
「……わからないよ。だって、北斗くんの気持ちは北斗くんのものだし。それにわたしたち、お互いを知らない。北斗くんは、今のわたしを知らないのに」
「僕はどんな鈴菜さんでも受け止める覚悟はできています。だけど、今のあなたを知らないと言われたら、そうですね――」
 数秒考えて、彼が小さくうなずいた。
「これから、もっと鈴菜さんのことを知りたいです」
「ひどい人間かもしれないよ。北斗くんが後悔するような、嫌なことをするかもしれない」
「ふふ、それはそれでおもしろいじゃないですか。どんな嫌がらせをしてくれるのか、楽しみにしていますね」
「……」
 顔を真っ赤にする鈴菜を覗き込み、北斗は輝く笑顔で目を細める。心臓が高鳴るのを止められないのは、鈴菜のせいではないと思う。
 彼の言葉がやや一方的なのはさておき、こんなに自分を欲してくれる人が今までいただろうか。欲しているだけではない。北斗は、鈴菜を大切にしてくれる。
 ――婚約者にすら、大切にしてもらえなかったのに?
 その感情が、涙をにじませた。
「鈴菜さん?」
「あ、違うの。ごめんなさい」
 急いで指で目元を拭う。傷は自分で思うより深かった。誰かに不要だと言われるのは、きつい。
「僕のほうこそ、すみません。困らせてしまいましたね」
「そうじゃないの。北斗くんのせいじゃなくて……」
「元婚約者のせい、ですか?」
「……それも、きっと違う。わたしが、自分を大切にしなきゃいけなかったのに、誰かに大切にしてもらえなかったって、甘えているだけなの」
 わかりにくい説明は、説明になっていない。
 誰かのせいではなく自分が。
 自分を大事にしなくてはいけなかった。
「僕には鈴菜さんの気持ちが全部わかるわけじゃないから、勝手に解釈します。その上で、僕はあなたを大事にしたいので、鈴菜さんが許してくれるまで手は出しません。安心してくださいね」
「……は、はい?」
「どんなに好きで、あなたを抱きしめたくても、キスしたくても、それ以上のことをしたくても――」
「ま、待って! 北斗くん、何を言ってるの!?」
 慌てた鈴菜が身を乗り出すと、彼はクックッと喉を鳴らして笑った。
「焦りました?」
「……当たり前でしょ」
「僕のことを、意識してくれましたよね」
 世にも美しい笑みで、北斗が立ち上がる。
 彼は右手をこちらに伸ばし、何も言わずに優しい目で鈴菜を見つめていた。
 この手を取って。
 僕と一緒に来て。
 彼の長い指は、ときに唇より雄弁に懇願してくる。
「……北斗くん、もしかして」
「なんですか?」
「わたしのこと、困らせて楽しんでるでしょ!」
「あー、バレましたか。だって鈴菜さんの困ってる顔、かわいすぎるのが悪いんですよ?」
 彼の手に重ねた鈴菜の指先が、かすかに震えていたことを北斗は気づいているだろうか。
 ――わたしを、好き。北斗くんが、わたしを……。
「これからよろしくお願いします、鈴菜さん」
 満足げに、彼が笑った。
 ふたりだけの日々が始まろうとしている。

 

 夢を見た。
 幼いころの、あの公園。ふたりは四つ葉のクローバーを探していたはずが、飽きてシロツメクサで花冠を作っている。花冠にネックレス、ブレスレット、そして指輪を身に着け、日なたで転がるふたりは子猫がじゃれるように遊んでいた。
「鈴菜ちゃん、おはなのおひめさまみたい」
「じゃあ、北斗くんはお花の妖精だね」
「ようせい?」
「妖精はね、フェアリーなの。小さくて魔法が使えて、羽もあるんだよ」
「おひめさまとけっこんできる?」
「できないよ。お姫さまは王子さまと結婚するの」
 鈴菜の言葉に、北斗の表情がみるみるうちに悲しげに歪んでいく。
「やだ。ぼく、ようせいやだ。おうじさまがいい」
 泣きそうな彼の茶色い髪が、日に透けてきらめいている。大きな目にたまった涙は、宝石のようにきれいだった。
「でも、北斗くん天使みたいなのに」
「てんしは、おひめさまとけっこんできる?」
「うーん……」
 考え込む鈴菜を見つめて、北斗が両手を組む。小さな手には、草で切ったこまかな傷が走っていた。
「天使は、人間じゃないからお姫さまと結婚しないと思う」
「じゃあ、てんしもやだぁ」
「だったら、一緒に天使やる?」
「!」
 目を瞠った北斗が、大きくうなずいた。
「いっしょにてんしがいい!」
「そうだよね。一緒がいいよね」
「うん!」
「そしたら、これはティアラじゃなくて天使の輪ね」
「てんしのわ!」
 花冠を頭の上に持ち上げて、ふたりは天使ごっこを楽しんだ。羽のない天使たちの幸せな時間。
 あれは、遠い春の記憶だったのだろうか。それとも、ただの夢なのか。
 真新しいベッドで目を覚ました鈴菜は、まだ夢の中にいるような気持ちであくびをした。

 千駄ヶ谷にある北斗のマンションで暮らしはじめて、三日が過ぎた。
 普通に考えて、二十数年ぶりに会う幼なじみが同じ屋根の下で生活するというのは、あまり一般的ではない。世の中ではこういう生活を同居、ルームシェア、もしくは同棲と呼ぶ。
 ――わたしたちは、何もない。だからこれは同棲ではなく同居だと思う。
 ただし、彼は鈴菜を好きだと言ってくれている。
 そのことを考えると、体中の力が抜けてくたくたとしゃがんでしまいそうになる。鈴菜だって、今までつきあった人もいた。告白されたことだって、初めてではない。
 ――でも、相手が北斗くんだと思うと……!
 恥ずかしさ、申し訳なさ、むずがゆさ、そしてどうしようもない高揚がこみ上げてくるのだ。
「……はあ、こんなことばかり考えてないで料理仕上げちゃおう」
 キッチンに立つ鈴菜は、フライパンをコンロにかけて油のキャップを開ける。今夜のメニューは麻婆豆腐と手作りの餃子、バンバンジー、トマトと卵のごま油風味のスープ。ニンニクとショウガをたっぷりすり下ろしたので、手がなかなかの刺激臭だ。
 料理のほとんどができあがって、洗面所でハンドソープを泡立てる。さすがは外科医というべきか、北斗は手洗い専用のブラシを持っていた。鈴菜の分も準備されているので、ブラシを使って爪の間も丁寧に洗う。
 ――まだ、近くだとにおうかな。
 とりあえず食事の支度はできた。時計を確認すると、北斗の帰宅予定時間を少し回ったところだった。
 そろそろ、帰ってくるだろうか。
 大病院の外科に勤務している北斗は、勤務時間こそ決まっているものの、急な手術があれば帰りが遅くなることもある。
 不意にスマホが鳴って、鈴菜は慌ててテーブルに駆け寄った。もしかしたら、北斗からの連絡かもしれない。
「あ……」
 しかし、届いたメッセージは会社の上司からだ。
 入院中に心療内科で診察も受けていた鈴菜は、可能なら少し仕事を休んで療養することを勧められている。北斗もそれに賛成していた。むしろ、生活費は面倒を見るから彼のマンションでゆっくり過ごしてほしいとまで言ってくれているほどだ。
『海堂さん、体調はいかがですか? 休職について、担当医の見解と海堂さんの気持ちをお伝えいただきありがとうございます。まずは仕事よりも心身の回復を優先すべきと考えますので、担当医の判断に基づき休職の手続きをしていきましょう。つきましては――』
 そこまで読んだところで、玄関のドアが開く音がした。
 一緒に住んで気づいた、北斗のステキだなと思うところ。それは、ドアの開閉のときにかならず最後まできちんと閉めることだ。鈴菜は、ドアを静かに閉める人が好きだ。
「ただいま」
 リビングのドアを開けて、腕に麻のジャケットをかけた北斗が破顔する。
「おかえりなさい。暑かった?」
「かなり暑いですね。今日は熱中症で運ばれてくる患者さんが多くてERがパンクしてましたよ」
「すぐに食事の準備ができるから。あ、先にシャワー浴びる?」
「いえ、食後にします。お腹が減りました。手を洗ってきますね」
 彼は、うしろ手にドアを閉める。今日も、静かに。
 キッチンの上にあるウォールキャビネットを開けて、スープ皿を取ろうと手を伸ばす。
 ――小さいころは、どうだったかな。
 思い出そうとすると、浮かんでくるのは鈴菜より華奢で小さい手だ。ドアの開閉をするのではなく、鈴菜の手をきゅっと握ってくる、その手。
 天使みたいな愛らしい子だった。
 あのころ、たぶんドアを閉めるのは北斗ではなく鈴菜の役目だったのだろう。
 高いところのものを取るのも、口の周りについた食べ物を拭くのも、遠くまで飛んでいったボールを取りに行くのも――。
「取りましょうか?」
「ひゃ!」
 急に背後から声が聞こえて、思わず飛び上がりそうになる。北斗が戻ってきていたのにも気づかなかった。思い出に浸りすぎていたようだ。
「危ないですよ」
 バランスを崩しかけた体を、背後から抱きとめられる。背中が、彼の胸に当たった。両腕が鈴菜を包み込む。
 危ないと言いながら、彼のフォローは危なげがない。
 鈴菜が小柄なせいもあるけれど、細身に見えて筋肉質な北斗は軽々と支えてくれるのだ。
「……あ、ありがとう」
「いえ、僕のほうこそ驚かせてしまってすみません。何を取ろうとしていたんですか? 取りますよ」
「あ、うん。スープのお皿をお願いします」
「これですね」
 ひょいと食器をふたつ取り出し、シンクに置いてくれる彼を見上げた。
「北斗くんは、身長一八〇センチ以上あるよね」
 目算だが、少なく見積もってそのくらいはありそうだ。
「鈴菜さんは一五三くらいですね」
「……当たり」
 マットレスをオーダーするのに、彼は当てずっぽうではなく確実に鈴菜の身長を言い当てていたのがわかる。悔しいけれど、ぴたり、その数値で間違いない。
「じゃあ、俺の身長も当ててください」
「え……っと、わたしより二十五センチは高い、よね。もっと?」
 右手を真上に伸ばして、鈴菜は彼との身長差を測ろうとする。
 その手を、北斗が頭上でつかんだ。まるで、ダンスを踊るかのような優雅な手つきだった。
「さあ、どう思いますか?」
「そうだなあ。一八五センチ、とか」
「惜しい。一八二センチです」
 つかんだ手を離して、北斗が炊飯器を開けてごはんをよそってくれる。家事は鈴菜の分担のはずなのに、いつだって彼は協力的だ。
「大きくなったんだねぇ」
「なんですか、急に。しみじみしている鈴菜さんもかわいいですけど」
「べ、別に急じゃないよ。実際、大きくなったでしょう?」
「はい。今なら、鈴菜さんを抱っこできるくらいになりました」
「……しなくていいからね?」
「してもいいということですか?」
「違う!」
 慌てた鈴菜を見て、彼はひそやかに笑う。完全にからかわれた格好だ。
「昔は、わたしが抱っこしてあげてたのに」
「そうでした。あのころは、鈴菜さんがとても大きく、大人に思えました」
 ――大人って。わたしも七歳か八歳だったのに。
 子どもにとって二歳の差は大きい。当時の北斗から見れば、鈴菜が大きく見えたのも納得できる。
 実際、彼の前で自分はお姉さんぶっていたと思う。北斗のことを弟のように思っていたのだから、なおのことそうしていただろう。
「今だって、年齢的には北斗くんより大人なんだよ?」
「それはそれは、小さいお姉さんですね」
 さも愛しげに目を細めて、彼は鈴菜を見下ろしている。どうあがいても、もう北斗を抱っこしてあげることはできない。何より、ふたりは姉弟ではなかった。そういう意味では、彼にとっては最初から鈴菜は姉のような存在ですらなかったのかもしれない。
「次からは、高いところのものを取るときには僕を呼んでください」
「いつでも北斗くんに取ってもらうわけにはいかないと思うの」
「でしたら、鈴菜さん用に脚立を買いましょうか。それとも――」
「わざわざ買わなくて大丈夫だよ。わたしは、ずっとここに住んでるわけじゃないんだから」
 今は、療養させてもらっているだけ。
 彼の厚意に甘えているけれど、鈴菜には自分のマンションがある。
「ずっといてくれても、僕は構わないんですが」
「わたしは構うの」
「わかりました。脚立は却下のようなので、次回からはこうします」
「えっ、ちょ、待って!」
 言葉と同時に、北斗が鈴菜を抱き上げた。意味がわからなくて目を白黒させていると、彼がいたずらっ子のような目をして笑う。
「これなら、高いところにも手が届きますよね。それに、わざわざ何かを買うわけでもありません」
「う、わかった。わかったから! 待って、これ、高い、落ちるっ、怖いから!」
「落としませんってば」
「無理っ……!」
 いつもよりかなり高くなった目線に、鈴菜は怯えて北斗にしがみついた。位置的には彼の頭を両腕で抱える体勢になる。
 両胸を彼の顔に押しつけていることなんて、動揺している鈴菜にわかるはずがない。
「す、鈴菜さん、首、絞めてます」
「お願い、下ろして、高いの苦手なの」
「わかりました。あの、ちょっと腕をゆるめて……」
「だ、だって離したら落ちちゃう!」
「っっ……」
 いっそう強く抱きついて、鈴菜はぎゅうっと目を閉じた。
「……仕方のないお姉さんですね」
 そう言って、北斗はキッチンの床にそっと下ろしてくれる。安堵と同時に、自分の胸元に残る感触から、何をしたのかを理解した。
 ――今、わたし、自分から北斗くんの顔に胸を……!
「あ、あの、北斗くん」
「すみません。ちょっと、こっち見ないでください」
 彼は左手のひらを向けて、顔をそむける。不快な思いをさせてしまっただろうか。
 ――どうしよう。わざとじゃないんです! ただ怖かっただけなの!
 そんな鈴菜の思いとは裏腹に、かすかに赤面した北斗が視線だけをこちらによこした。
「さすがに、少し、なんというか」
「うん……。あの、ごめんなさい。わたし……」
「好きな子と密着するのは、照れますね」
 はにかんだ笑顔に、胸がぎゅっとせつなくなる。
 彼が整った顔立ちをしていることも、笑顔が甘いことも、自分を好きでいてくれることも、知っているはずなのに。
 今さら、そのすべてをあらためて感じてしまう。
 この人はほんとうに、自分を好きでいてくれるのだ、と。

 


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ご愛読ありがとうございました!
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