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どうしてもあなたに抱かれたい! 叔父(仮)に極限まで愛されるキケンな恋 2

第二話

追い出した結香の気配が玄関先から消えて、リビングに戻った晟はドサッとベッドに倒れ込んだ。さっきまで結香が駄々を捏ねながらしがみ付いていた枕から、彼女が纏う甘やかな香水――晟が昔買ってやった、リンゴとなにかの花――の匂いがふんわりと香ってきて、そしてそれに気付いてしまう自分に頭が痛くなる。あざとさと素直さが同居した女の匂い。似合うと思って買ったのは自分だが、この匂いは正しく結香そのものだった。
 残り香から逃げるように仰向けになって、腕で視界を塞ぐ。
『晟さん、好き。大好き。愛してるの。本気よ』
 自分に真っ直ぐな眼差しと、ひたむきな恋慕を向けてくる結香が、日に日に女に見えて――いや、もう既に随分前から彼女を女として見ている自分に反吐が出る。
「はぁ……」
 結香が愛おしい。
 好きだとか愛だとか恋だとか、もうそういう次元ではなく、単純に結香の存在自体が愛おしいのだ。あざと可愛いことをするくせに、無邪気で素直。家族が大好きで、わがままで、一途。天真爛漫という言葉がピッタリな子。
 結香は贔屓目なしに可愛らしい子だった。天使が間違えて地上に生まれたといってもいい。生まれたての結香を腕に抱いたとき、晟は初めて愛おしいと思った。
 たったひとりの可愛い姪っ子。
 なんでもしてやりたい。護ってやりたい。喜ぶ顔が見たい。辛い目に遭ってほしくない。幸せになってほしい。あの子の幸せが自分の幸せ――そういう叔父としてのまともな愛情が確かにある。でもそのまともな愛情の真横にあるのは、たったひとりの可愛い姪っ子を、女として見て、女として愛している、男としての異常な愛情だ。口に出せる想いならまだよかった。
 自分からの愛を乞うあの唇を「口付けて奪いたい」
 愛らしさを詰め込んだあの瞳(め)を「自分しか見ないようにしたい」
 女らしく魅惑的に育ったあの身体を「徹底的に犯して孕ませたい」
 華奢で折れそうなあの手脚を「縛ってどこにも行けないようにしたい」
 輝かしいあの子の人生(みらい)を「自分の側で終わらせたい」
 ――いつからそんな目であの子を見るようになってしまったのか……。でも、自分の想いに気付いたきっかけは確かにあったように思う。
 十八歳の結香が今よりもっと拙い想いをくれたあの日――
『わたし、叔父さんが好き!』
『ははは。ありがとう。俺も結香が好きだよ』
 そう笑って応えたあとの結香の表情(かお)に、柄にもなく動揺してしまったのを覚えている。
 晟は最初、結香の告白が告白だとはとらえていなかったのだ。彼女は普段から、『叔父さん、大好き!』と言ってくれていたから、それと同じだと思ってしまった。
 でも違った。晟の答えを聞いた結香は泣きそうな表情(かお)をしていて、自分の受け取り方が間違っていたことに気付いたのだ。
『まじか……』
「若い娘にありがちな、年上の男に憧れる気持ちだろう」と、揺れる気持ちを静める傍らで、「叔父と姪 結婚」のキーワードで法律を検索して、「血縁関係のない叔父と姪は結婚できます」なんて答えに辿り着いたとき、結香は晟の姪ではなく、ひとりの女になった。
(結香は駄目だ。絶対に駄目だ)
 そう思う一方で、男としての自分が、叔父であろうとする自分を嘲う。
 またまたぁ~本当は結香から告白されて嬉しかったんだろ? 赤ん坊の頃から知っている娘だぞ? 十六も年が離れているんだぞ? 俺は保護者みたいなもんで、ゆいはまだ子供で……。だったら、まともな叔父と姪の距離だったと自信を持って言えるか? いつまでもベタベタ甘やかした自覚はないのか? 自分を男として意識するように仕向けた接し方をしていなかったか? 合い鍵なんか渡して、自分の部屋への出入りを許したのはなんでだ? 今まで一度でもアレを女として見たことはなかったのか?
『俺も好きだよ』と応えたその言葉は、本当に叔父として?
 気付かないようにしてきた、自分と結香の異常な距離の近さに、このとき晟は気付いた。一度は確実に気付いたはずなのだ。
 でも再び会った結香が『叔父さんっ!』と呼んで、自分に抱き付いてきたとき――晟は結香を突き放さなかった。彼女からの告白も自分の動揺も葛藤も全部なかったことにして、今まで通りに、いや、今まで以上に結香を溺愛したのだ。
 結香が誇れる叔父であろうとする一方で、結香を最優先にし、結香のために己の持てるすべてを使い、結香の望みを叶える。どろどろに甘やかして盲愛した。そんな姿は、愛しい女の心変わりを恐れている哀れな男そのものだったはずだ。そして同時に、晟が純粋に結香を愛した時期でもあった。
 二十歳になった結香が二度目の告白をしてくれたとき、うまく応えられなかった。法が引いてくれるはずの一線が自分たちにはないことも、彼女を女として見ている自分にも気付いていたから。そしてなにより、彼女が未だに気持ちをくれることを喜んでしまったどうしようもない自分を、知られたくなかったのだ。
 ――自分は彼女に相応しくない。
 結香の気持ちを受け入れるわけにはいかない。それは結香を人の道から外させる行為だ。
 彼女はいつか自分の手から離れ、他の男の手を取る日が来る。それが現実だし、彼女のためだ。なら、その男は自分が納得できる男であってほしい。大切なあの子を幸せにできる自分以外の男が必要だ。
 そうして晟は結香に男を紹介するようになった。結香と年も近く、顔もよく、身元もちゃんとしていて、信頼でき、将来性のある好青年。自分が連れてきた男に結香が惚れるなら、納得できると思ったから。
 でも連れてきた男を結香がいやそうにするのを見て、あろうことか晟は安堵してしまったのだ。比較されて選ばれることに優越感を抱いた醜悪な男としての自分を見た瞬間だった。
 今日もそうだ。中途半端な距離のとり方をしている。はっきりと一線を引きながら、せっかく引いたそれを有耶無耶にしてしまいかねない態度を取っている。
 結香を泣かせてでも突き放さないといけないのに、それをしない。したくない。だからふと思うのだ。
 自分は本当に、結香を他の男に任せる気があるのだろうか? と。
(……甘川くんは好みじゃなかったみたいだな。もっと違う子を紹介しないと)
 晟は視界を塞いだまま、手探りでベッドサイドから一通の封筒を取った。
『わたしたちは結婚できるもんっ! だって血が繋がってないじゃない!』
 頭の中に結香の言葉がこだまする。
(そうだよ、ゆい。俺たちは苗字が同じだけの他人だ……)
 結香に連なる祖父、父親、母親、叔父――生きている緒方の家族の中で、叔父の晟だけが彼女と血縁がない。
 だから、余計に駄目なのだ。結香が姪っ子だからという以前の問題だ。晟という人間がもう駄目なのだ。緒方の家族の中で晟だけが異質。
 晟は手にした封筒をぼんやりと眺めた。
 その茶封筒には、蚯蚓(みみず)ののたくったような字で、宛先と晟の名前が旧姓で書かれている。――ツツミアキラ、と。
 この名で晟を呼ぶのはひとりしかいない。この手紙の差出人は塚原正臣(つかはらまさおみ)。晟の実の父親だった。
 塚原正臣という男は実に醜悪な人間だった。指定暴力団四代目荒川(あらかわ)会傘下の蔵本(くらもと)組に籍を置く生粋のヤクザ者で、組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律違反、殺人、殺人未遂、銃砲刀剣類所持等取締法違反、器物損壊で懲役二十三年の実刑判決を喰らっている。対立していた指定暴力団(そしき)の組長を殺したのだ。発砲殺人が厳罰化傾向にある昨今なら、きっと無期懲役になっただろう。
 大規模な抗争だったらしい。先に手を出したのは塚原が所属する蔵本組。車で移動中の愛風(あいふう)会直系の風間(かざま)組組長と若頭を狙撃したのだ。その実行犯が塚原正臣。
 風間組の若頭は生き残ったが、組長は即死。組長の弔い合戦から大規模抗争に発展。双方、死者負傷者逮捕者を多く出し、最終的には蔵本組の解散で幕を閉じた。鉄砲玉を差し向けた蔵本本人が風間組の人間に殺されたのだ。
 鉄砲玉だった塚原も死ねばよかったのに、奴は死ななかった。この男は抗争が始まる直前、海外に高跳びしたのだ。このとき晟は四歳。まぁ、つまり妻子を捨てたわけだ。
 塚原に捨てられた母、芙美子は二年後、六歳になった晟を連れて緒方尊と結婚した。ヤクザ者に籍を入れるなんて常識がなかったことが幸いした形だ。当然、晟も塚原に認知されていなかった。
 最初の男にヤクザ者を選んだのは母の人生最大の失敗だっただろうが、二番目の男に情にあふれる優しい普通の男を選んだのは、母の人生最大の成功だっただろう。
 母の結婚を機に、晟は堤晟から緒方晟となり、新しい家族に迎え入れられた。が、晟の苗字を緒方に変えても、養父と養子縁組することだけは母が許さなかった。
 それでも幸せだった。真面目で人のいい養父は、実の子と分け隔てなく愛情を持って接してくれたし、年の離れた義兄はこれでもかと可愛がってくれた。初めて普通の暮らしをさせてもらったのだ。
 その暮らしが終わったのは、十五歳の頃。海外逃亡していた塚原が逮捕されてからだ。あの大規模抗争から実に十年近くが経っていた。
 塚原の逮捕と同時に、母が死んだ。自殺だった。晟がヤクザの子だと優しい養父には伝えていなかったらしい彼女は、自分の過去(ひみつ)がバレるのを恐れていたのだろうか。それとも脅されでもしていたのか。息子を置いてあっさりと逝った。
 実父がヤクザで、しかも逮捕されたことを知り、母が死に――晟は荒れに荒れた。緒方の家を飛び出し、学校も行かずに夜の街を彷徨った。品行方正を絵に描いたようなあの家にいてはいけないと、子供心に感じていたのだ。
 誰に似たのか、年齢以上に見える外見を利用してホストのマネごとをしていたときに接触してきたのが荒川組の幹部。一時期その人の世話になっていた晟は、本職と半グレ連中との中継役として、短い間で一目置かれる存在になっていた。
 飲酒喫煙なんて可愛いもので、運びの指示役や配当の分配、トンだ奴への私刑(リンチ)参戦、今ではどれも時効だが、他にも人には言えないようなことを散々やった。
 母が頑なに晟を養父と養子縁組させなかった理由は、ヤクザの血を引く晟が将来こうなることを予見していたからだと言われたら、誰もが頷く荒れっぷりだっただろう。少年院送りにならなかったのは、緒方の養父と義兄が晟を連れ戻しに来たからだ。
 緒方の家族は晟を見捨てなかった。血の繋がりもないのに、養子縁組もしていないのに、母はもう死んだのに――晟を家族として本気で心配して、本気で怒って、本気で泣いてくれたのだ。今、振り返ってみても、彼らに連れ戻されなければ、あのまま荒川組の幹部のもとで、晟は半グレどころか、本職のヤクザになっていただろう。そういうギリギリのところまで堕ちていたのだ。
 そしてなにより晟を裏の世界と暴力から遠ざけたのが、結香の誕生だった。
『この子を護ってやってくれ』
 そう言って義兄は、生まれたばかりの結香を晟の手に抱かせた。十六歳離れた無垢でか弱い存在は、ちょっと力を入れるだけで壊れてしまいそうで、怖くて愛おしい。そしてなにより、こんなに汚れた晟にさえ、懐いて、想いを寄せて、純粋な笑顔を向けてくれる存在で。
 この子に恥じない人間になりたいと思ったのだ。
 十六歳で半グレ連中や暴力団との縁をスッパリ切るのと同時に、実父との縁も切った。裁判も傍聴しなかったし、面会もせず、手紙が来ても一度も返事を送らなかった。裏の世界や暴力と決別したのだ。
 真面目に高校に通い、大学にも行かせてもらった。新卒で大手コンサルティングファームに就職し、三十歳で独立、起業もした。人生の立て直しができたのは、緒方の家族と結香のおかげだった。
 暴力団と縁を切り戻ってきた晟に、緒方の養父は養子縁組を提案してきた。それは、母がいなくても、晟を自分の子とする彼の決意のあらわれだったんだろう。有り難い話ではあったが、晟はそれを断った。
 養父と養子縁組すれば、連れ子の晟に相続権が発生してしまう。母が死んで、他人の自分を実子同然に金と愛情と時間をかけて育ててくれた人から、これ以上もらおうなんて図々しい真似はしたくなかった。でも、養父と義兄は納得していないのか、未だに養子縁組の話をする。そのたびに晟は感謝の気持ちを述べて、やんわり断っていた。
 縁を切ったと言っても、やっぱり晟はヤクザの息子なのだ。自暴自棄になったときに荒川組の幹部が接触してきたように、いつ何時、トラブルに巻き込まれるかわからない。本当なら、結香だけでなく緒方の家族そのものと縁を切るのが一番いいのだということもわかっている。けれども縁を切ったからといっても関係なく絡んでくるのがあの連中なのだ。片足を突っ込んだ晟にはそれがいやになるほど身にしみている。
 そして危惧していたトラブルが、うん十年越しに向こうからやってきた。
 晟は宙に掲げていた手紙をぐしゃりと握り潰して、目を細めた。
 この春、刑期満了で出所した実父からの、会いたいという手紙(しらせ)。
 刑期満了したからなんだというのか。この男は未だにヤクザだ。会いたい? こっちは会いたくない。晟は宙に掲げていた手を手紙ごとパタンと落とした。
 今までずっと塚原からの手紙を無視してきた晟だが、今回ばかりはそうもいくまい。会いたくはないが、一度会って、もうかかわるなと釘を刺したほうがいいのかもしれない。塚原は晟の住所を知らないから、緒方の実家に送ってくる。この手紙もだ。出所したあのヤクザ者が、緒方の家族に絡まないとも限らない。しかも緒方の実家には、義兄夫妻と養父が同居している。結香もその家に定期的に帰るのだ。
 彼らの安全を確保しなければならない。それは緒方の家で育ててもらった自分の義務だ。
「まともな叔父は姪に手を出さない……知っとけ……俺」
 たったひとりの可愛い姪っ子を女として見る自分が、どうしようもない人間(クズ)だということはわかっている。まともな倫理観を持ち合わている風を装っても、十五、六の自分がやらかしたことは、言い訳のしようもない。出自は自分ではどうにもならなくても、あれは自分でどうにかできたことだった。
 自分で自分を一番軽蔑しているからこそ、彼女を自分のものにしてはいけないのだ。
 晟はのそりと起き上がると、手紙に書かれた番号へ電話をかけた。

        

「竣工はスケジュール通りやね。よかったわあ。ゴールデンウィークはちゃんと休めそうで」
 ラフにワイシャツの袖を腕捲りした依頼人(クライアント)に同意して、晟は手にしていたバインダーを閉じた。
 晟は三十歳のときに起業した、戦略系コンサルティング会社を経営している。ざっくり言えば、経営層の相談役だ。戦略立案、マーケティング戦略、新規事業立案、M&Aや人事など、クライアントの悩みに最適な提案をするのが仕事だ。
 新卒で入った大手コンサルティングファーム勤務時に担当していた企業のうち、関西拠点の企業の大半が、晟の独立に付いてきてくれたこともあり、起業八年目の今も経営は順調。社員も増え、駅前のビルをワンフロア借りて、三十名体制で運営している。最近はオンラインミーティングも増えたが、ヒアリングのために出向することも依然として多い。雇われていたときは全国各地を飛び回らなくてはならなかったが、独立して関西を中心に活動している今は出張はほぼない。結香との時間が大幅に増えたし、ついでに金も増えた。起業は晟にとっていいことずくめだったと言える。
 独立前から付き合いのあるこのクライアントは、関西ローカルチェーンの豚まん屋。他地区では馴染みはないだろうが、約四十店展開しており、関西では頻繁にテレビCMも流れている。ただ今、四十一店目となる新店舗の開店準備中。
 連休に職人を使うと高く付く。明日からゴールデンウィークということもあり、スケジュールのチェックのために朝からクライアントと共に現地に赴いて、進行状況を視察しているところだった。
「問題ありませんね。このまま予定通りオープンフライヤーの印刷にかかりましょう。念のためにデザインの最終チェックをお願いします」
「了解了解。連休明けにメールしますわ。あと緒方さんに相談あんねんけど、いつがあいてる?」
「この間キャンセルが出たので今月末があいてますよ。来月だと半ばまでは埋まってるんで、応相談なんですが」
 スマートフォンで予定を確認しながら晟は答えた。
「じゃあ、今月末押さえてもらっていい? 新メニューを開発したんよ。それでなぁ、価格設定とか、新しい機械買うかレンタルにするかどうかとか、広告打つかも迷うてるし。まず緒方さんにも金額出してもらってからーって思ってな。その前に食べてもらわなあかんねんけど」
「新メニューですか、いいですね。食べに行きますよ。どこの店舗に行けばいいですか?」
「ならフライヤーのメールと一緒に、細々したの送っときますわ。よろしく!」
 頼りにしてもらえるのは嬉しい。晟は月末の予定を入れて、次のクライアントのもとへと車を走らせた。


 視察一件、クライアントとの定例会が二件、協力会社とのオンラインミーティングが一件。一日の仕事を早めに切り上げた夕方十八時過ぎ、指定された駅前のコインパーキングに愛車を駐めた晟は、ネクタイを緩めて目を閉じた。考えないといけないことは多かったが、今は考えたくない。
 すると、五分もしないうちに、助手席の窓が短く叩かれる。緩慢な動きでそちらを見れば、グレーのワイシャツを着た男がいた。まだら白髪に無精ヒゲ。上背はある。痩せているせいか、眼がやたらと鋭い。
 塚原正臣。晟の実父だった。
(はぁ……わかんねぇと思ったんだがなぁ……)
 三十三年会っていなくても、案外わかるものらしい。
 別れた頃の記憶は朧気でも、半グレ時代、荒川組の幹部に塚原の写真を見せられたことがあったから、そちらの印象のほうが頭に残っている。今思えば、写真の男と現在の自分はどことなく似ていた。これが血なのかと思うとなんとも恐ろしい。
 目の前の男は、養父より若いまだ六十代半ばのはずなのに、実年齢よりも老け込んで見える。体格はともかく、彫りが深く、奥目な目元は昔と変わらない。将来自分はこんなふうになるんだろうか。
 頭をひと掻きすると、晟はドアロックを解除した。ドアが遠慮がちに開けられて、奴が腰を屈めて車内を覗き込んでくる。
「そこのホテルに泊まっとんのや。来ぃひんか?」
 自分たちの再会が感動に満ちあふれたものになるとは微塵も思ってはいなかったが、「ちょっと呑みに行こうぜ」というような軽薄な第一声にうんざりする。
「いい。乗ってくれ」
 誰がヤクザの根城に行くものか。相手がこいつひとりとは限らないじゃないか。車に乗るように促すと、塚原は「そうか?」と言いながら、助手席にどっかりと座った。
「ええ車やなぁ。元気しとったか?」
「ふん」
 運転席のシートに背中を預けた晟は、叩くようにサンバイザーを下ろした。別に夕陽が眩しかったわけじゃない。この男と会っているところを人に見られたくなかったのだ。サンバイザーを下ろした程度で隠れるものでもないが、そうしたい心理が働いた。
「別れたときゃ、まだガキやったんにな。もうええ年か。おめぇ、嫁さんは?」
「いるわけねぇだろ」
「ふぅん」
 塚原は胸ポケットからくしゃった煙草を取り出すと、ソフトケースに捩じ込んでいた百円ライターに手を掛けた。
「やめろ。俺の車は禁煙だ」
 強めに言うと、塚原の目が丸くなってこちらを見る。
 晟は仕事で飲食業のコンサルに入ることもある。飲食業界の依頼人に煙草は匂いだけでもよく思われないのだ。それもあって、晟は煙草は喫まない。
「そうか。ええ車だもんな。しかたね」
 ごねずに聞き入れてくれたのが意外だ。しかも目を細め、軽く歯を見せたその笑い方が、自分と似ていてますますいやになる。
「……この車やるよ。その代わり、もう連絡してこないでくれ。あんたとの縁はとうの昔に切れてるんだ」
 思い出話も近況報告もいらない。晟の希望はただそれだけだ。
 自分や緒方の家族にかかわろうとさえしなければ、ヤクザをやってようが、どこでなにをしてようが知ったことではない。愛着もなければ、欠片ほどの親子の情もないのはお互い様のはず。自分に会いたいと言ってきた理由だって、どうせ金に決まってるのだから。
「いんや、切れてないね」
 粘ついた声が耳に纏わり付く。塚原は胸ポケットに煙草を押し込みながら、片尻を浮かせて晟のほうに身体を寄せてきた。
「切れないんだよぉ、アキラぁ。血は水よりも濃いつーやろ?」
「…………」
 知ってる。だから鬱陶しいんじゃないか。
 顔も仕草も、似たくもないのに似てくる。この男から自分が生まれたことが、鳥肌が立つほどおぞましかった。
「くれるつーてるとこ悪いんやが、この車、俺の趣味じゃねーんだわ。俺ァやっぱ現金のほうがええな。気前よく一本頼むわ。おまえ、会社儲かっとんのやろ? なんかほら、コンサルの」
 どこまで調べているのやら。自分の起業した会社にまで言及されて目眩がする。しかも車より現金がいいだと? この車は国産クーペのハイエンドスポーツカーだ。新車なら千五百万は軽く超えるし、中古でも八百万はくだらない。つまりこの場合の一本は、百万ではなく一千万か。
 手切れ金が惜しいんじゃない。現金の移動は目立つから車をやると言っているのに……
「車体番号偽造車(目玉抜き)にして、売ればいいだろ。バイヤーにツテくらいあんだろうが」
 盗難車のマネタイズはヤクザの十八番だ。どこの組もルートがある。高級車の窃盗なんてCAN(キヤン)インベーダーによる手口が確立されてるし、盗んだ物で法定刑が変わるはずもなく、高級車だろうがスーパーのおにぎりだろうが、十年以下の懲役又は五十万円以下の罰金と一律決まっている。つまり、五十台やって六億売り上げても懲役十年以下。下手すると懲役三年未満のションベン刑で出てくる。ローリスクハイリターンでやたら金になるから、半グレ連中でもやる奴は多い。
「俺の領分(シノギ)じゃねぇんだよ。ツテ使うのもタダじゃねぇ。あんだよおまえ、現金ねぇのかよ。チッ……なら緒方のオッサンに――」
「親父にせびるつもりか! ふざけんなよ!」
 外に聞こえるのも構わず怒鳴り付けると、塚原の口角が瞬時に下がった。柔和に細まっていた目も、温度をなくして鋭く尖っている。
「黙れ。クソガキ。おまえの親父は俺や」
「認めない。俺は――」
「うっせぇ、おまえは俺の子や!」
 激昂した塚原に遮られて睨み付けると、奴は落ち着きなく親指の爪を噛んで舌打ちした。
「……緒方の野郎、俺の女房寝取った挙げ句にアキラまで手懐けて親父面しやがって、何様やねん? クソったれが……」
 小声でぶつくさと呟いているが、よく聞こえない。
 塚原は口から手を離し、ねめ付けるように晟を見上げてきた。
「ええかよう聞けよ。認める認めないの話じゃねぇ。おめぇの血、ぜーんぶ抜いて、緒方の血と入れ替えようが、おめぇは緒方の息子にはなれねぇ。どうあったっておめぇは俺の息子で、おめぇの親父はァ俺なンだよ!」
「黙れ。戸籍上は他人だ」
 言い返しながら、握り込んだ拳を振り下ろさないようにするので必死だった。苛立つのは塚原の言葉が正しいからだ。生みの親より育ての親。晟がどんなに緒方の養父を慕って、どれほど強く望んでも、養父の本当の息子にはなれやしない。戸籍上、この男が他人だとしても、自分の中にこの男の粗野な血が流れていることは、その昔にいやというほど実感している。
 塚原は「ハッ」と鼻で嗤うと、急に声のトーンを穏やかにして、晟の頬をペチペチと軽く撫でてきた。荒事で年季の入った手はカサついていて、割れた皮膚が痛い。しかも右手の甲の親指付け根に反社お約束の三ツ星の刺青なんてあって、自分の母親はこの男のどこがよかったのかと本気でわからなかった。
「なんやおまえ。そんなことかいな。認知しとらんから拗ねとんのか? んん? 認知なんかしたらホラ、ろくなことなんねぇだろうが。俺ァ結構恨まれてっからよ。芙美子から聞いてねぇの? ――ったく、しけた面(ツラ)しやがって。結構可愛がってやったろ? ほらぁ、おめぇがガキの頃さぁ。俺が自転車買ってやったのは覚えてねぇーのかよ、乗り方教えてやったやろ」
「…………」
 そんなこと覚えていない。でも六歳で緒方の家に来たときには、既に自転車にも補助輪なしで乗れていて、「運動神経がいい」と褒められたのは覚えている。それはつまり、晟に教えた人間がいるということだ。この男の言う通り、父子(おやこ)をやっていた時期もあったんだろう。それも、どうせこいつの気まぐれだろうが。妻子を捨てて海外逃亡する男がいい父親のはずがない。そのくせこの男が父親であることに拘るのが理解できない。理解したくもなかったが。
(自転車一台で父親面すんなよ、クソが……)
 塚原は再び胸ポケットに手をやって、煙草を取り出すと火をつけた。やめろと言ったのに結局吸うのか。
 ゆっくり吐き出された煙が不愉快で、晟は眉を寄せた。これは知っている臭いだ。昔の自分と同じ臭い。知らず知らずのうちに、父親と同じ銘柄の煙草を好んでいたのか。また見付けた自分と塚原の共通点に頭痛がする。
「ぶっちゃけ金はどうでもええ。俺も腐っても男や。息子にタカるほど落ちぶれちゃぁいねぇ。まぁ、くれるっつーなら貰うけど」
 独特の言い回しにため息が出る。金と引き換えに、今後かかわらないという条件は呑むつもりはないらしい。じゃあ、なんのために呼び出したのか。晟が探るように見つめると、塚原は遠慮なく足元に煙草の灰を落とした。
「俺ァな。組持つことになってんだわ。塚原組な。もともとそーゆー条件で鉄砲玉引き受けてお勤めも果たしてっからな! あ、おまえ、荒川のお偉いさん、わかる? おまえもガキの頃世話になったんだってな。聞いたぞー。十五、六で、殺しと〝強(ごう)〟が付く犯罪(ヤツ)以外全部やったって? やるじゃねーか。さすが俺の子」
「…………」
 荒れていた時代を、その原因に誇らしげに言われると虫唾が走る。まともな親なら「なんてことをしたんだ!」と泣いて怒るところだろうに。
 だがこの男は泣くどころか、「よくやった」と言わんばかりに口角を上げた。
「もちろんおまえの席もある。若頭や」
「は?」
(まさかこいつ、俺にヤクザをやれって言ってんのか?)
 ギュッと顔を顰める。だが、塚原は怯むどころか晟に顔を近付けてきた。
「アキラ。俺と一緒に来い。いつまで赤の他人と家族ごっこしとんのや。極道のイロハは俺が教えたる。俺ァ、前の組で麻薬と拳銃の密輸担当(シノギ)してたんだぜ。まだそのルートはあんだよ。俺が死んだら跡目はおまえだ。俺のもんは全部おまえにやる」
「ふざけんなよ。おまえいっぺん死ね」
 こんなの親じゃない。晟は吐き捨てて顔背けた。
 裏の世界に片足突っ込んだ自分を引き上げてくれた緒方の家族がいる。養父こそが自分の本当の親だ。あの人たちのためにも、そしてなによりも自分が結香の叔父であり続けるために、裏の世界や暴力とは決別すると誓ったのだ。
「おうおう、見よう見まねでそれらしい脅し(カマシ)してんな。三点かな、いい子ちゃん」
 煙草を持った手でこめかみを掻き、眉も口も歪ませて愉しそうに嗤う塚原の声が、吐き気を催すほど不愉快でたまらない。もうこれ以上話を聞く必要もない。相手にするだけ無駄だ。
「降りろ。俺はヤクザにはならない。俺はあんたとは違う」
 断言した晟を無視して、塚原は尖らせた口からフーッと煙を吐いた。
「なぁー。緒方のオッサンに孫――」
「結香に手ぇ出すつもりか! 殺してやる!」
 頭が真っ白になるよりも早く、晟は塚原に掴みかかり、あふれる殺意のままにその胸倉を一気に締め上げた。塚原の痩せた身体が持ち上がり、座席からわずかに浮く。そうすることに躊躇いなんて微塵もなかった。この男が結香に近付くなんてあってはならない。絶対にあってはならないのだ。
 だが塚原は、助手席ドアに身体を押し付けられながらも、なんでもないように煙草を吸って、その煙で輪っかを作って遊んでいた。
「ほー? どーすんのや? ん?」
「おまえを乗せたままこの車を突っ込ませてやる」
 地を這うような低い声が出た。脅しでもなんでもなく本気だった。目の前はブロック塀だ。それなりにダメージはあるはず……
 けれども塚原は相変わらず煙草をくゆらせ、煙をもわりと晟に吹き付けてきた。
「じゃあ、おまえが掴まなきゃなんねぇのは、俺の胸倉やのうてハンドルやな。ほれ」
 煙草を咥えながら晟の手首を掴み、ギリギリと捻じ上げながらハンドルへと押し戻す。その塚原の力の強さは、晟に引けを取らない。今でこの強さなら、若かりし頃はどれほどだったのか。しかも余裕綽々で笑ってるんだからたちが悪い。
(この野郎……年喰ってるくせに……今も現役かよ)
 ハンドルを握らせた晟の手をポンポンと叩いた塚原は、ヤニで黄ばんだ歯を見せた。
「まー。おまえの反応で、緒方の孫がおまえにとっても大事なのはわーった。しかも名前からして女やな。姪っ子が可愛いか? ん?」
「…………」
 ハッタリかまされたんだと気付いたときにはもう遅い。
 晟が射殺さんばかりに睨むと、塚原はヘラヘラしながら鼻で嗤った。
「んだよ、拗ねんなよ。おまえが言うなら別になんもしねぇよ。つーかさぁ、おめぇ、口で言う前にアクセル踏めよぅ。ダボが。四の五の言わずに黙って全力で踏め。そして突っ込め! そこまでやって百点満点の脅し(カマシ)や。おまえのは五十点。ムカついたんやろ? せやったら黙らせなあかん。俺なら踏むわ。手本見せたろか?」
 まるで心配するように苦言を呈されて、晟は睨みながら歯噛みするしかなかった。
 確かに晟は本気だったのに、屁の突っ張りにもならない。それどころか塚原は、親が子に自転車の乗り方を教えるように、脅しのかけ方を大真面目にアドバイスしてくるのだ。
「こっから目の前(あすこ)の塀までやと近すぎやから、もっと走らせてスピード持たせてから突っ込め」だの「助手席のエアバッグは取り外したか」だの「掴んだら一気に締め上げて気絶させてから拉致ってボコれ」「だいたいこの車みたいな2ドアクーペは後部座席(うしろ)の使い勝手があかんから拉致に向いとらん」だの、身振り手振りで犯罪指南に余念がない。話が通じないどころじゃない。頭のネジがぶっ飛んでいる。
 気分よさそうに喋っていた塚原は、ふと思い出したように話を変えた。
「あとおまえな、人に向かって〝死ね〟とか〝殺してやる〟とか物騒なこと言うとんちゃうぞ。あかんやろ! 誰がおまえにンなこと教えやがったんや。緒方のオッサンか? どーりで素人くせぇはずや。あんなぁ、言葉には気イ付けなあかん。脅迫罪になんで。まぁでも、落ち込むなや! おまえヤクザの素質あるわ。やっぱ俺の子やな!」
 ニカッと溌剌とした笑顔で励まされて、晟は表情を消した。無性に殴りたくなる笑顔を前に、無言で下を向いてハンドルに置いた拳を握り締める。強く握り込みすぎた拳が色をなくして、ブルブルと震えた。尋常でない殺意が迸る。
 だが、晟の殺意には気付かないのか、そもそも気付くつもりがないのか、塚原は照れくさそうに首の後ろを掻いた。
「まぁ話し足らん気もすっけどさぁ、俺も出てきたばっかでさぁ、こう見えてもいろいろと忙しいわけよォ。昔の奴らが毎日毎日あっちからこっちから挨拶来てさぁ、寄ってたかって飲ませてくれンだわ。組で盃事(さかずきごと)もあるし、事務所も用意しねぇとだし、おまえに継がせる組だからさぁ、俺も親父として、してやりたいことが山ほどあるわけよ。ってことでさ、あらかた準備できたらまた連絡するわ。ほなな」
 軽くポンポンと晟の肩を叩いて車から降りた塚原は、両手をポケットに入れ、煙草をふかせながら足早に去っていく。
 ダンッ――!
 握り締めた拳をハンドルに叩き付けた晟は、車内の空気がビリビリと震えるほどの大声で叫んだ。
「クソがッ!」
 通りがかりの人がギョッとした顔でこちらを見るが、取り繕う余裕がない。肩で息を繰り返し、怒りの形相で奥歯を噛み締めた。塚原に向けた嫌悪感はそのまま自分にも向いた。
(最悪だ……)
 優しい養父にあんなに大事に育ててもらったのに、簡単に手が出た。暴力と決別し、なりたい自分になるために、心を入れ替えて生きてきたはずなのに、抱いた殺意さえも本物で、一瞬で昔の粗野な自分に戻っていたのだ。
 結香に恥じない人間になると誓ったのに。
 さっきの自分を結香に見せられるか? いや、見せられない。
 自分がヤクザの息子だということも、過去の自分がやらかした過ちも、結香にだけは知られたくない。知られたくないことばかりだ。結香になにひとつ堂々と言えるものがない。その上、姪として接するべき彼女を女として見ている。こんな自分の存在は、結香にとって害にしかならない。もっと早く離れるべきだったのに、離れたくなくて。告白されたときに突き放さないといけなかったのに、突き放したくなくて。ズルズルと側にいて、結局こんなことになってしまった。あの男は、これからどんな脅しをかけてくるつもりなのか考えたくもない。養父、義兄夫婦、そして結香――誰に手を出されても許せないが、特に結香は駄目だ。結香だけは――
 なにが正解だった? 荒川組の幹部に拾われたとき、緒方の家に戻らずに、あのまま裏の道に進んでいればよかったのか? そうしていれば、少なくとも結香に危険はなかっただろう。いや、そもそも母親が死んだときに自分を見失わなければ、荒川組との接点もなかったし、塚原が晟を自分の跡目にと思わなかったかもしれない。
 しかし、今となってはどれも〝たられば〟だ。
「ほんと最悪だ……」
 晟は静かに独り言ちると、運転席のシートに背中を預け、宙を仰いで目を閉じた。