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どうしてもあなたに抱かれたい! 叔父(仮)に極限まで愛されるキケンな恋 1

第一話

 春めいた陽気の中に、汗ばむ初夏の兆しをぽつぽつと感じはじめる四月の終わり――
 緒方結香(おがたゆいか)は駅前のカフェで、ニコニコと全力の作り笑いを振り撒いていた。
「こちらは甘川悟司(あまかわさとし)くん。俺がコンサルに入らせてもらっている会社の社長の息子さんなんだ。すごく働き者で、気が利く子でね。お父さんもとてもいい方でさ」
 ボックス席の向かい側からそう言ってくるのは、緒方晟(あきら)。結香の叔父だ。今年で三十八歳になるこの叔父は、自分の隣に座る青年にそれとなく目配せする。
「は、初めましてッ! ご紹介にあずかりました、甘川悟司ですッ! 二十五です!」
 明らかにボリュームを間違えた彼の自己紹介は店内に響き渡り、そこかしこの席から失笑を買っている。が、ガチガチの上に真っ赤になった彼に、その失笑は聞こえていないらしい。背筋を伸ばしすぎて反り返っている始末だ。
「これ、俺の姪っ子の結香。可愛いだろう? 二十二歳なんだ」
 そんな晟の自慢に、甘川は間違えたボリュームのまま、頭がもげそうな勢いで力いっぱい頷いた。
「ハイ! めちゃくちゃ可愛いですね! アイドルみたいです! いや、本物のアイドルより可愛いと思います!」
「やだ……恥ずかしい……」
 うっすらと頬を染め、照れた素振りを見せながら、結香は自分の長いストレートの黒髪をひと房取ってその頬を隠した。注文したカフェオレには口を付ける気にもならない。
(……やだもぉ……もっと声小っちゃくして……ほんと恥ずかしい……)
 図らずとも、心の声と口にした声は一致――まぁ、ほぼほぼ一致している。周りの席からの視線が痛い。
 洒落たジャケットに身を包み、本来ならサラサラの髪を後ろに緩く撫で付けた晟は、甘川青年の発言に「そうだろう」と満足げに頷き、結香のほうに向き直った。
「何度か話してみたんだけど、いい子でね。結香に紹介したいなと思ったんだ」
「そうなんだぁ~」
(な・ん・でッ!)
 今度は心の声と真逆なことを口にして、隙のない完璧な愛想笑いで「うんうん」と頷く。そのまま晟に静かな怒りを含んだ視線を向けてみれば、ぴゅーっと目を逸らされた。
 ピキッ――
(叔父さんが一緒に出掛けようって誘ってくれたからデートだと思って付いてきたのに! 誰よこの人! なんでこんな声大っきい人紹介するの!? 意味わかんないっ! わたしが叔父さんのこと好きって知ってるくせに!)
 そう、結香の想い人は晟。この十六歳年上の叔父に、もう長いこと恋している。
 四歳のときに『叔父さんと結婚する!』と言って、『そこは〝お父さんと結婚する〟でしょう!?』と父親を泣かせたのが最初。
 格好よくて、落ち着いていて、そして誰より結香に優しく、ときには親よりも溺愛してくれる晟に恋するのは、結香にとって太陽が東から昇って西に沈むのと同じくらい当たり前のこと。
 中学生で自分の晟への気持ちを自覚してからしばらくは、その想いをあたためてきたのだが、大学進学を決めた十八歳のときに、当時三十四歳だった彼におもいきって告白したのだ。
『わたし、叔父さんが好き!』
 結果は玉砕。
 彼に『ははは。ありがとう。俺も結香が好きだよ』とは言われたが、付き合ってくれるはずもなく、ていよくあしらわれた形だ。
 相変わらず可愛がってはもらえるものの、女としてではなく、あくまでそれは姪っ子として。十八歳はさすがに子供すぎたのか――
 そして二十歳(はたち)の成人式。結香は再び晟に告白した。
『叔父さん、わたし、叔父さんが男の人として好きなの。わたしと付き合って』
 真剣な告白だった。いや、十八歳の頃も真剣だったが、月日が結香の想いを更に強くしたのだ。
『ううん……そう言われてもなぁ……』
 返ってきたのは困ったような苦笑い。だがある意味では結香の真剣な想いが伝わったのか、晟は結香に男を紹介するようになった。
 実力ある部下や後輩、取引先で見付けた好青年――誰も彼もが将来有望とされる若い男たち。しかもひとりやふたりじゃない。今日の甘川青年で通算五人目。二十歳で晟に告白してから、半年に一度のペースで新しい男を紹介されている計算になる。
 こんな扱いをしてほしくて告白したんじゃない。十八歳の頃のように、軽くあしらわれただけのほうがまだよかった。どうして好きな人に振られた挙げ句、その人から他の男をあてがわれなくてはならないのか。
(ひどいよ、叔父さん……)
 なんでもないように結香から目を逸らしているその横顔が、憎いくらいに整っている。
 野性味あふれていて体格もいいし、一見、無表情の強面に見えるが、それは落ち着いているだけ。昔は老け顔だったらしいが、見た目に年齢が追いついた今では一周回って逆に童顔に見えるほどに若々しい。お腹なんてちっとも出ていないし、白髪もない。
 額に掛かる前髪、高い鼻梁、凛々しい眉、整った顔立ちもさることながら、首筋から喉仏にかけてのラインなんて完璧で、大人の男の余裕と色気が遠慮なく香ってくるようだ。正直、二十代前半の甘川青年が洟垂れ小僧に見える。男として成熟した晟の足元にも及ばない。引き立て役もいいところだ。
 甘川青年も顔は整っているほうだし、もちろん長所はあるのだろうが、結香は既に自分の理想とする男性(ひと)を見付けている。笑顔は振り撒いたとしても対応は――
「ゆ、結香さん、このあと、ふたりで食事でもどうですか!」
「叔父さんと一緒なら!」
「あ、えっと、じゃあ! 三人で食事して、そのあとふたりで映画でも!」
「叔父さんと一緒なら!」
 溌剌とした笑顔と「叔父さんと一緒なら!」の決め台詞を盾に、完全なる塩対応を決め込む。
「明日、仕事だからそろそろ帰らないと。わたし、独り暮らしを始めたばかりで、部屋もあまり片付いてなくて」
 まだ陽は高いが、今日という貴重な一日を知らない男と会うことだけに費やしたくないのが本音。すると、甘川青年がまた声を大きくした。
「結香さん! 俺が送りますよ!」
 結香はテーブルを回ると、晟の腕に自分の腕を自然に絡ませた。そしてにっこりと問答無用の笑みを弾けさせる。
「叔父さんがいるから大丈夫ですっ! 今日も叔父さんの車で来たし。ねっ、叔父さんっ!」
(嘘ついて知らない男の人と会わせたんだから埋め合わせしてくれなきゃダメ! 今からわたしとデートして!)
 笑顔の裏に抗議を含んだ視線を向けると、晟が決まり悪そうにこめかみを掻いた。
「ん……まぁ、うん、そうだな」
「あっ、確かにそうですよね」
 叔父がいるのに初対面の男が送る必要があるわけもなく――しかし、甘川青年は食い下がるように結香を見つめてきた。
「あの、今度メッセ送ってもいいですか?」
「あ、はい……でもわたし、すごく返事遅いタイプなんですけど……それでもいいですか?」
 本当は「やめてもらえます?」と言いたいところだが、晟からの紹介という手前そこまでは言えない。それでも予防線を張って返事の確約をしないくらいは、結香はこの甘川青年に興味がなかった。結香には今も昔も晟しか見えていない。
 晟だけが特別――
 結香がスマートフォンを出してメッセージアプリのID交換に応じると、甘川青年はホッと息をついた。
「連絡先教えてもらえないのかと思いました」
「叔父さんの紹介なのにそんな~」
 その答えの裏は、「叔父さん紹介でなければ、初対面のあなたと連絡先の交換なんてしたくありません」である。しかし、たとえ晟の紹介であっても、初対面の男とふたりっきりにはなりたくない。いわば連絡先交換は晟の顔を立てた結香最大の譲歩だ。
「甘川くん、今日は時間取らせて悪かったね。結香と仲良くしてやって」
「はい! 素敵な姪っ子さんを紹介してくださってありがとうございました! 結香さん、またね!」
 声もさることながら、大きく手を振ってくる甘川青年に見送られて、結香は晟と共にカフェを出た。そして店を出るなり、あっと言う間に笑顔を引っ込めてムスッと膨れる。
「叔父さんの嘘つき」
「……嘘はついてないだろ。一緒に出掛けようとしか言ってないし」
 確かにそうだが、結香は晟とふたりっきりだと思っていたのだ。少なくとも、紹介したい男がいると言われたなら、付いてこなかった。
「せっかく可愛くしたのに」
 下ろしたての七分袖の白カットワークレースブラウスと、ひざ上丈トレンチスカートのコーデは男ウケ抜群だったはず。メイクだって透明感を重視してアイドル風に仕上げた。大好きな晟とデートだと思ったから張り切ったのであって、知らない男に見せるためにお洒落したんじゃない。
 結香が悲しげに眉を下げると、晟の大きな手がそっと頭を撫でてきた。
「似合ってる。可愛い」
「!」
 真っ直ぐ贈られる賛辞にぽっと頬が染まる。
「ほんと?」
「ああ。本当、本当」
「~~~~!」
 自分でもチョロいとわかっているけれど、大好きな晟に〝可愛い〟と言ってもらえるだけで、気分が上向いてくる。結香は晟の腕にギュッと抱き付いた。
「じゃあ、可愛いゆいちゃんとアイスデートして」
「アイスぅ? さっきの店で食えばよかったじゃねぇか。パフェかなんかあったろ」
「叔父さんとふたりで食べたいの!」
「わかった、わかった」
 晟はあっさりと頷いて、「新しくできた店があった気がする」なんて言いながら歩いていく。
 スラックスのポケットに自分の手を入れはしてても、腕に絡んでくる結香の手を晟は決して振りほどいたりはしない。そのことが結香を安堵させる。
「アイス食べたら、お洋服見るの。付き合ってね」
「ああ」
「晩ご飯の材料ないから、帰りにスーパー寄ってね」
「ああ」
 自分の望んだデートができることに満足して、結香は男を紹介されたことは水に流すことにした。


「う~ん……足疲れたぁ~」
 バッグを投げ出した結香は、1LDKに置かれたセミダブルベッドに着替えもせずに倒れ込んだ。グレーの布団カバーに顔を埋めると、ほんのりと晟の匂いがする。
(叔父さんの匂い……好き……くんくん)
 布団をキュッと掴んで匂いを堪能していると、スーパーの買い物袋を両手に持った晟が部屋に入ってきた。
「ったく……自分の部屋に帰れよ」
 ブツブツと言いながら晟は、買った食材をひとりで冷蔵庫へ詰めていく。
 そう、なにを隠そうここは晟の部屋。結香の部屋は別にある。
 就職にあたって独り暮らしをすることになった結香が選んだのは、なんと晟と同じマンション。晟とは部屋も階も違うし、特別会社が近くなるわけでもなかったが、少しでも晟と一緒にいたくてここに決めたのだ。愛娘の独り暮らしに微妙な顔をしていた結香の父も、「晟と同じマンションなら安心か」と快く許可してくれた。
「晩ご飯、一緒に食べよ? わたしが作るから。ね?」
「んー」
 結香がベッドに転がりながら言うと、晟は「しょうがねぇな」と頷いてくれる。
 食材を冷蔵庫へ入れ終わった晟は、ハンガーラックが一体化したアイアンシェルフに脱いだジャケットを掛け、そのまま床に座りスマートフォンを触りはじめた。
 ベッドと小振りなローテーブル、そしてローテーブルと同シリーズのアイアンシェルフとブックタワー、ベッドがある部屋はシンプルで機能的だ。不必要な物を持たない彼らしい。
「お、明日雨だって」
「えーやだぁ~。雨嫌い~」
「朝、駅まで車で送ってやるよ」
「やった! 叔父さん大好き!」
 ベッドから下りた結香は、自分のスマートフォンを持って彼の胡座の上にちょこんと座った。
 晟とアイスデートで食べたジェラートの写真を、日記代わりのSNSにアップする。その傍らで晟も、自分のスマートフォン片手にネットニュースなんか読んでいる。
 自分の膝に座ってくる結香に、彼は「どけ」なんて絶対に言わない。それどころか、あいた手で結香の髪をゆっくりと撫でるのだ。膝に乗ってきた猫を愛でるのと変わらない。
 晟に撫でられながら、結香は両脚を前に投げ出しておもいっきり彼に背中をもたれさせた。スマートフォンを放り出して、晟を見上げる。
 身長一八〇を超える晟は筋肉質で肩幅も広い。小柄な結香はすっぽりと包まれてしまう。こうして体重をかけて背中をもたれさせても晟はビクともしない。ただ結香が滑っていくだけ……
 結香の身体がズルズルと滑り落ちそうになると、晟は髪を撫でていた手をとめて、結香のお腹に手を回し、抱き寄せて座り直させてくれた。そして結香の頬をぷにぷにと指で突いて、また丁寧に髪を撫でてくる。その一連の動きは流れるようで迷いはない。なぜならそれは、もう何回も――何百回、何千回も繰り返された当たり前の日常だから。
(距離感バグってるの、わたしじゃなくて叔父さんのほうだと思うんだけどな? わたしはこんなにドキドキしてるのに……)
「仕事は慣れたか?」
 スマートフォンを片手でスライドさせながら、晟が聞いてくる。結香は晟の肩口に後頭部をぐりぐりと擦り付けるように首を横に振った。
「入社ひと月で〝慣れた〟って言う人はいないと思いまーす」
「それもそうだな。悪かった。こんなときに男紹介して。いい奴だったからさ。結香にピッタリだと思って」
 スマートフォンから視線を外さない晟に、結香はムッとして振り返った。
「わたしにピッタリってなに? わたしが好きなのは叔父さんだって知ってて、そういうこと言うんだ?」
「…………」
 ようやくスマートフォンから離れた晟の手は、同時に結香からも離れた。それが寂しい。
 ずっと本気なのに、晟は結香の気持ちを知っていて知らない振りをする。そのくせ、こうやって昔と変わらず結香を膝に抱いて、宝物のように撫でるのだからたちが悪い。
 諦めきれないのは、この人がくれる愛情のせい。
「わたしは叔父さんが好き!」
「んなこと言われても……」
 胸元に縋り、真っ直ぐに目を見て打ち明ける結香を見て、晟は脱力したように天を仰き、ため息をつく。
「なんで駄目なの? 叔父さん、わたしのこと好きでしょ? 世界で一番愛してるでしょ?」
 畳み掛ける結香は自信満々だ。自分は晟に愛されていると信じて疑わない。だってずっとこの人に大切にされてきた。今だって大事にしてくれている。
 それがたとえ女としてではなかったとしても、自分は彼に愛されている。
「そりゃあ、可愛い姪っ子だし。おまえのためならなんでもしてやりたいと思ってるよ」
(ほら! わたしのこと好きじゃん!)
 返ってきた答えに満足して、結香は更に迫った。
「じゃあいいじゃない。結婚しよ?」
 ずいっと身を寄せる結香を膝に乗せたまま、晟は後ろに両手を突くと苦笑いした。
「いやいやいや、それとこれは話が違う」
「なんで? 年が離れてるから?」
「年以前の問題。家族だぞ? おまえに手ぇ出したら、俺はおまえの親父に殺されるって」
 その戯けたような言い草が、十八歳の結香を『ははは。ありがとう。俺も結香が好きだよ』と言いながら、あしらったときとまるで同じなんだから腹が立つ。
(わたしは本気なのに!)
「お父さんは、わたしのこと好きすぎるから、誰を連れてきてもマジギレすると思うし。だから無視!」
「無視してやるなよ。猫可愛がりしてるひとり娘に無視されたら可哀想だろ」
「お母さんはいいって言ったもん!」
「はぁ? 知子(ともこ)さん、んなこと言ったのかよ。冗談もたいがいにしろって」
 晟は目を剥いて驚いてみせながらも、次の瞬間には歯を見せて笑うのだ。他人の前では無表情が多い晟も、昔から家族の前では屈託なく笑う。
 結香の晟への気持ちは昔からの上に、家族には筒抜け。特に結香の母は晟を気に入っているから「知らない人にお嫁に行くよりは安心できるわよねぇ」と言っているのに。この調子だと晟は十中八九本気にしていない。
「本当だもん。叔父さんだって、わたしのこと大好きだからその年までずっと独身なんじゃん。知ってるんだから」
「あ、おま……それ言っちゃーだめだろ。結婚できないオッサンに対する嫌味か」
「嫌味じゃないよ。わたしと結婚しよって言ってるじゃない。叔父さん……叔父さんがわたしのこと大好きなのと同じくらい、わたしも叔父さんが大好きだよ。叔父さんのお嫁さんになりたいの」
「だーかーらー」
 晟は困り顔ながらも優しく目を細めて、結香の頭をぽんぽんと軽く撫でてきた。その眼差しは、いつも結香を見つめてくれるときと同じ。愛おしさにあふれている。何度も見てきた眼差しだから、彼が本気で拒絶しているわけではないんだと結香にはわかるのだ。
「俺等は家族なの! 叔父と姪は結婚できないの。おわかりかい?」
「わたしたちは結婚できるもんっ! だって血が繋がってないじゃない!」
「…………」
 結香の叫びに、晟が一瞬で真顔になる。
 そう、晟と結香に血縁関係はない。結香の祖父、緒方尊(たかし)と、三十一年前に再婚した女性、堤芙美子(つつみふみこ)の連れ子が彼、晟なのだ。祖父には亡くなった前妻との間に、当時十八歳の息子がいた。それが結香の父である緒方祐希(ゆうき)。
 両親の再婚を機に緒方家の一員となった当時、晟は六歳。それまでひとりっ子だった祐希は、年の離れた義弟が可愛くてしかたなかったらしく、その可愛がりは現在も続いている。
 自分を可愛がってくれた義兄の娘を晟が可愛がらないわけはなくて、結香は晟に溺愛されて育ったのだ。
 結香が二歳の頃、晟は大学進学をきっかけに家を出たから、一緒に暮らした期間は短いし、当然のことながら結香にその時期の記憶はない。記憶はなくても、晟は頻繁に実家に帰ってきたし、そのたびに結香を可愛がってくれた。大切に抱き締めて、ずっと見守ってくれた。惜しみない愛情を注いでくれたのだ。
 十六歳離れた彼は結香にとって叔父というより、年の離れたお兄ちゃんに近く、一番身近で、一番頼りになって、一番自分を愛してくれる、ただの親戚とはまた違う特別な男の人なのだ。
 だから彼と血が繋がっていないと知ったとき、悲しいとは思わず、逆に嬉しかった。彼と結婚できるから――
「ゆい」
 短く晟が結香を呼ぶ。この呼び方をするときはいつも本気のときだ。だから結香も聞くしかない。聞きたくないのに……
 彼は浅く息を吐いて、結香を正面から見据えてきた。
「あのな、血縁云々の前に倫理観の問題だ。まともな叔父は姪に手を出さねーの。知っとけ。俺はおまえが一番大事だから、おまえが間違ってるときはそう言うし、駄目なものは駄目だってはっきり言うよ」
「……ダメじゃないもん……」
 結香は俯いて小さく呟いた。
 倫理観の前に、法がふたりを許しているのだから、彼が言っていることは正論であって正論でない。駄目だと思っている――思い込んでいるのは晟だけだ。
「じゃあ、叔父さんって呼ぶのやめる。名前で呼ぶ」
 そう言いながら晟のシャツの胸元を前後に引っ張ってごねる。晟は晟で結香にされるがまま、無抵抗に頭を前後に揺らした。
「なんだそりゃ。んなことしたって、駄目なものは駄目――」
「晟さん、好き。大好き」
「…………」
 晟の動きがとまって、視線が泳ぐ。そんな彼を捕まえて、結香はぐっと顔を近付けた。
「愛してるの。本気よ」
「あー……」
 唸るような声を漏らしながら、晟は結香を膝から下ろして立ち上がった。
「飯。俺が作ろうか?」
 そう言う晟の目は結香を見ない。それが悲しくて、結香は彼を追いかけた。
「話逸らさないで」
「俺が作るわ」
 ポンポンと結香の頭を軽く撫でて、晟はキッチンに入り冷蔵庫を開ける。
「えっと、なに作るんだっけ? 照り焼き? あ、棒棒鶏(バンバンジー)って言ってたっけ?」
 もう彼の中で話は終わったのだろう。これ以上は聞かないという明確なサインに、結香はキュッと唇を噛んで目を閉じた。引かれた線がくっきりと濃い。
 確かに晟は結香に甘いし優しいが、この件に関してだけは、一貫して絶対に踏み込ませない線を引くのだ。
 結香を可愛がるだけ可愛がり、愛情を注ぐだけ注いで、こうして突き放すのだからひどい。
「……棒棒鶏。叔父さんは、もっとお野菜食べたほうがいいから。キュウリとトマトだけじゃなくて、もやしとレタスも追加する」
「おー具だくさんだな」
 渋々立ち上がり、晟の側に寄る。受け取った鶏肉のパックをのろのろと開封する結香の横で、晟が米を仕込んだ。
(はぁ……)
 心の中でため息をつく。
 結香がいつものように〝叔父さん〟と呼んだ途端、明らかに晟の空気が安心したものに変わった。彼が望んでいる距離感はこれなのだ。普通よりもうんとずっと親しい叔父と姪。あくまで叔父の立ち位置のまま、結香を愛でたいのだろう。でも、結香が女になることは受け入れない。
 受け入れてくれないのなら、愛情を注ぐことをやめてくれたらいい。枯らすためには栄養を断つのが一番なのに、彼は真逆のことをする。彼がやめないから、結香はもうパンク寸前だ。普段から結香に興味も持たず、素っ気ない人だったならば、結香がこんなにも彼に恋することはなかったはずなのに……
 結香を護り、大切にして、ときには宝物のように触れて、必要以上の愛情を惜しみなく注いで、結香を恋する女に育てたのは他の誰でもない彼だ。
 女として育った感情が、晟を求めて藻掻く。受けとめてもらえない恋心が、行き場をなくして苦しい。
 結香がしゅんと落ち込んでいると、晟は結香の頭をそっと自分の肩に抱き寄せてきた。
(……ほら……こういうこと先にするの、いつも叔父さんじゃん……)
 結香は開封途中のパックをキッチン台に置いて、晟にギュッと抱き付いた。
「甘えん坊め」
 そう言いながら包み込むように抱き締めて、優しい手つきで撫でてくれ、頬をすり寄せる結香を受けとめてくれる。
 家族みんなで行った花火大会で迷子になった七歳の結香を、いの一番に見付けて抱き締めてくれたときと同じだ。泣きじゃくる結香をそうやってあやしてくれた。彼の中で結香はきっとまだ幼い女の子なんだろう。もう幼くなんかないのに。心も身体も大人の女なのに。彼は昔と変わらず結香を撫でて抱き締める。
「おまえはもうちょっと他人と……家族以外の人間とかかわったほうがいいな」
「……女友達ならいっぱいいるよ」
「男を言ってんだよ。世の中、いい男がいっぱいいるんだぞ?」
「…………」
 晟のひと言に、結香はむくれて押し黙った。黙ったまま晟の胸に顔を埋め、強くしがみ付く。他人なんてどうでもいい。結香は自分にとって大事なのはなにか、ちゃんとわかっている。
「叔父さんはわたしのこと嫌いなの?」
「ばーか。俺がおまえを嫌いなわけないだろ」
「じゃあ、好き?」
 じっと見上げると、晟は目を細めてコツンと額を重ねてきた。
「当ったり前だろ? おまえが世界で一番大事だ。おまえが幸せになることだけが俺の望みなんだ。ゆいもわかってくれるよな? 俺を他人にしないでくれ。おまえの家族でいさせてくれ」
 ――家族。
 晟の言う家族と、結香の言う家族は、似ているようで違う。
 晟は家族でいたい。結香は家族になりたい。
 晟と結香は家族だ。普通の叔父と姪よりも親しくて、仲良しで、親戚というより、家族という言葉がしっくりくるほどに近しい。
 でも結香は知っているのだ。晟と自分は、叔父と姪より――今よりもっと近しい家族になれる。だが晟はそれを望んでいない。
(叔父さん……わたしに『幸せになって』って言うなら、叔父さんがわたしを幸せにしてよ……)
 諦められないのは晟が優しいから。彼が結香の幸せのために、いつかは折れてくれるんじゃないかと思ってしまう。気持ちを叫び続けていれば、優しいこの人が絆されて、自分を女として見てくれるんじゃないかと。だって彼は、結香のことを誰よりも愛してくれているのだから。
 晟は額を離すと、ポンポンと結香の頭を撫でた。
「ほら、機嫌直せ。可愛い顔が台無しだぞ」
「ん……」
 あしらわれて泣きたくなるのに、撫でてくれる手が優しいから、慰められて涙が出ない。晟の引く一線が切なくなるのに、そんな結香の気持ちを慰めてくれるのもまた、晟しかいないのだ。
 結香が晟から手を離して料理を始めると、彼は結香の頬を二、三回突いて、そのまま側にいてくれた。


「食ったら帰れよー」
 一緒に夕飯を食べ終わったあとの晟の第一声に、結香はぷくっと膨れてそっぽを向いた。
「ええ~移動するの面倒くさい。ここにいちゃだめぇ?」
 結香の部屋はこの部屋の二階上。間取りも同じ1LDKだ。晟の側にいたくて選んだ部屋だが、近いようで実は遠い距離。
「だったら最初から自分の部屋に帰ればよかっただろ」
「むぅ……」
 結香が自分の部屋に帰らず、この部屋に来た理由なんてわかりきっているくせに、晟はそんなことを言う。
 立ち上がらせようと自分に向かって伸びてくる晟の手からヒョイッと逃げた結香は、彼の匂いのするベッドに飛び乗った。
「いーやーだー。とーまーるぅー。叔父さんと一緒にねーるぅー!」
 うつ伏せになって枕にしがみ付き、足をばたつかせながら駄々を捏ねる。
「なに言ってんだか……明日仕事だろ? 早く帰って、風呂入って、とっとと寝ろ」
 取り付く島もない晟の言い草に、結香はますます膨れてその顔を枕に押し付けた。
(お酒飲んで酔っ払ったら居座れるかな? 今度お酒持ってこよ……)
 晟は酒類を好まない。煙草も喫(の)まないし、賭け事もしない。三十歳のときに起業したコンサルティング会社を経営していて、仕事一筋で生きている。女性の影もない。いや……過去にはあったような気もするが、晟に近付こうとする女は結香がことごとく排除してきたから今はいないはず。だから一番身近な女は結香に違いない。というか、他に女がいてたまるか!
「お酒飲んで、すぐ寝ちゃえば泊めてくれるだろうし、そこから既成事実を――」
「ん? なんて? 聞こえない。もしかして、なんか企んでるんじゃないだろうな?」
 ギシッ……ベッドが軽く軋んだ次の瞬間、背中に重なった晟の体温と重みに、結香は小さく息を呑んだ。
「あっ」
「白状しろ。この悪戯っ子」
 耳や首筋に晟の吐息が触れて、心臓がドキドキする。
(~~~~っ!)
 ピッタリと背中に重なった晟の身体を意識しないなんて無理だ。普段、抱き締められるのと全然違う。しかもここはベッド。でもそんな結香の胸の内はお構いなしに、彼の手が伸びてきて、枕を抱きかかえていた結香の手を左右それぞれ掴んできたのだ。それがちょうど結香を後ろからベッドに組み敷くような格好で――
「ゆい……」
 甘くハスキーな声に呼ばれて、お腹の奥がきゅんっと疼き、その疼きを中心に身体が一気に熱くなっていく。
(叔父さん……このままわたしを――)
 次の瞬間、ぺりっと効果音が出そうな勢いで、結香はベッドから引き剥がされて、抱えていた枕が足元にポトリと落ちた。
「へ?」
 掴まれた両手を万歳するような格好で、キョトンと目を瞬く。その間に結香はベッドから下ろされ、右手にスマートフォン、左手にバッグを持たされていた。
「用意できたな。明日、駅まで送ってやるから。じゃ! おやすみ!」
 晟は結香を玄関の外にポイッと放り出すと、それだけ言い捨てて有無も言わさず鍵を掛けた。しかも結香が合い鍵を持っているからドアロックまで!
「もうっ!! 可愛いゆいちゃんを放り出すなんてひどいっ!」
 閉まったドアに向かってぷりぷりと怒ってみせるが、開く気配はない。
 渋々自分の部屋に帰ってきた結香は、リビングに置いた白いちゃぶ台の前にペタンと座ってため息をついた。
 まだ身体に晟の体温と重みが残っているような気がして、ベッドに組み敷かれたときのことを思い出してしまう。
『ゆい……』
 あんなふうに抱き締められたら、あんなふうに名前を呼ばれたら、結香がドキドキしてしまうのは当然なのに。思わせ振りな態度を取って、こんなに好きにさせておいて、叔父と姪だからなんて言って一線を引く。
「叔父さんのバカ……わたしのこと、好きなくせに……」
 にゃにゃん♪
 持っていたスマートフォンが、可愛い猫の鳴き声でメッセージの着信を告げる。
(叔父さんかも!)
 そう思って急いで見ると、画面に表示されていたのは「甘川悟司」の名前で、落胆が隠せない。今日、晟にこの甘川青年と引き合わされたんだった。
『今日は会えて嬉しかったです。結香さんみたいな可愛い子を紹介してもらえるなんて』
(はぁ……また増えた……)
 メッセージは開かずに画面をスクロールする。甘川青年の他にも男の名前が並び、それぞれ未読メッセージが溜まっていた。全員、晟が紹介してきた将来有望な青年たちだ。
『もうすぐ四月終わるけど仕事は慣れた? 結香ちゃんは可愛いからモテるでしょ。困った男がいたら言いなよ。俺が追い払ってあげるからね』『就職おめでとう。お祝いしてあげたいんだけどいつが都合いいかな?』『勤務先は広告代理店だったね。君に依頼したいけどできる?』『取引先から映画の試写会チケットもらったので結香さんと』――並ぶメッセージの冒頭を見ただけでも気が重い。
(読みたくない……返事したくない。はぁ……いやだなぁ……)
 彼らは結香を気に入ってくれたのか、結構しつこく――いや、定期的にメッセージを送ってくる。晟から紹介された手前、結香も当たり障りのない返信をしているのだが、全員に返信するのもひと苦労だし、正直、億劫で疲れる。全員好みじゃないし、興味もないからなおさらだ。かといってあまりに失礼な態度を取るわけにもいかない。
 晟は自分が紹介した青年たちとのやり取りに結香が頭を悩ませているなんて、夢にも思っていないんだろう。
(全部叔父さんのせい!)
 もうこれ以上、晟に男を紹介されるのはうんざりだ。
 晟に結香の気持ちが伝わってないとは思えないし、晟だって結香のことを好きなはず。今日だってあんなに結香を抱き締めてくれた。優しく頭を撫でて、好きだと言ってくれた。彼は結香が嫌いで女として見てくれないわけではないのだ。
 倫理観の問題だと言っていた。一線を引くのは、彼の中に〝結香は姪だ〟という強い固定観念があるからだ。でも結香たちに血縁関係はない。系図上は叔父と姪であっても、男女の仲になってもなんの問題もない関係。それが晟と結香。
(倫理観がなに? 年の差がなに? 血は繋がってないんだから、周りの目とかどうでもいいじゃない!)
 そう、結香には関係ない。結香は晟が叔父だから恋しているわけではない。背徳感を楽しんでいるわけでもない。ただ、晟が好きなだけ。好きになった人がたまたま系図上の叔父だっただけの話。違う形で出会ったなら、晟が叔父でなくても彼に恋しただろうし、晟がどんな人でも好きになったと思う。それぐらい結香にとって晟は特別な存在なのだ。
(なにかきっかけ……きっかけがあれば……)
 晟の引いた一線。それをたった一度でも越えてさえしまえば、きっと彼は結香を拒絶できない。彼はそういう人だ。彼に結香を捨てるなんてことできやしない。
「そうよ! 叔父さんはわたしのこと好きなんだから!」
 彼が本気にしないのなら、実力行使に出るまでだ。
 結香は壁に掛けたカレンダーを見て、来週に控えたゴールデンウィークに狙いを定めた