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諦めて僕のものになりなさい 慇懃無礼な秘書の愛は甘い猛毒 2

第二話

 おかしな約束が交わされた日から三日。
 つまり父の葬儀の日からも三日経った日。
 東城家の応接間で菜桜子が隼弥と結婚を前提に同棲すると継母に告げると、予測した通りの反応が返ってきた。曰く、「恩知らず」「嵯峨根さんにどう説明するつもり」「身の程を弁えなさい」など。
 更には「父親が亡くなったばかりなのに、何を考えているの」と罵られたのには、唖然とした。
 そもそも先に菜桜子へ婚姻を迫ったのは継母の方だ。それなのにこちらがいざ嵯峨根以外の男性と籍を入れると告げたら、非常識呼ばわりとは。
 呆れてものが言えないとはこのこと。
 だがそんな時でも冷静さを崩さない隼弥が「明日には離れを取り壊すと聞きましたので、今日中に菜桜子さんの荷物を僕の部屋へ移動し、同棲を始めます」と宣言すれば、継母の怒りは頂点に達した。
「そんなこと、私が許すわけがないでしょう!」
 奇声混じりの罵倒と共に、手近なものを投げつけられ、危うく怪我をしそうになった。
 驚いたのは、隼弥が身を挺して菜桜子を庇ってくれたことだ。
 重い硝子の置物が飛んできた時には、流石に痛みを覚悟したのだが、何と彼が菜桜子を抱きかかえ、自らが身代わりになってくれた。
「あっ」
 ゴッと鈍い音と振動が響く。
 ソファーの上で身を強張らせていた菜桜子が閉じていた目を恐る恐る開くと、絨毯の上に硝子の破片が転がっていた。
「真野さん……っ!」
 彼の広い胸に守られた菜桜子には傷一つない。だが彼は凶器となった置物を背中で受け止めたはずだ。ほんの少し寄せられた眉は、隼弥の苦痛のほどを示していた。
「大丈夫ですかっ?」
「問題ありません。菜桜子さんは?」
「私は、何ともありません……真野さんが庇ってくださったので……」
 本当なら、重く硬い硝子が直撃していたのは自分だった。そう思うと、心底戦慄する。これまで継母には色々なものを投げつけられたが、命の危機を感じたのは初めてだった。
 ――それだけ私が地獄を見ないのが、面白くないのね……
 世間体が大事な彼女が、継子に洒落にならない大怪我を負わせてしまう可能性に思い至れないほど。
 継母は顔を真っ赤にして肩で息をしていた。
「貴女は黙って私の言う通りにしていなさい!」
「奥様、菜桜子さんは成人した一人の人間ですよ? そのように強制することは、誰にも許されません」
「私は生さぬ仲のその子をずっと育ててあげたのよ。今こそ恩を返すべきでしょう!」
「失礼ながら、それは随分心得違いかと」
 金切り声を上げる継母に一歩も怯まず、隼弥は悠然と構えていた。まだ背中が痛むだろうに、そんな素振りは一切見せない。
 改めて座り直すと眼鏡の位置を中指で直した。
「僕の知る限り、返すべき恩はありませんね。親が子を養育するのは義務です。そして社長はその責務をきちんと果たした。奥様は特に関わっていらっしゃらなかったと記憶しております」
「な……っ、真野、お前誰に口をきいているの!」
 これまでは常に父の一歩後ろに控え、面と向かって口答えすることがなかった隼弥の変貌振りに驚いたのか、継母は全身を震わせていた。
 血管が切れかねないくらい、こめかみには青筋が浮いている。目は血走り、普段なら余裕を滲ませている表情は見る影もなかった。
「奥様、それくらいになさった方が身のためですよ。社長は遺言書を残していたはずです。まさか改竄(かいざん)や隠蔽などはないと信じたいですが、そちらがその気なら僕としても白黒はっきりさせなくてはなりません」
「……え?」
「い、言いがかりはやめて頂戴! そんなこと私がするはずがないでしょう!」
 菜桜子は父の遺言書なんて、考えたこともなかった。葬儀の場で継母に『遺留分だけ』だと言われ、疑う発想も持っていなかったのだ。
 しかし今、彼女の反応を見ると違うのかもしれない。
 別に遺産が欲しいとは望んでいないが、継母の狼狽え振りはとても不自然に思えた。
「ええ。僕もそこまで奥様がするとは本気で考えてはいません。犯罪ですからね」
 ニコリと作り物めいた笑みを隼弥が浮かべる。室内の空気は、完全に彼に掌握されていた。
 遠回しに警告している。少なくとも菜桜子にはそう見えた。
 継母も同じように感じたのか、頬を小刻みに痙攣させしばし押し黙る。
 重苦しい空気の中、隼弥だけがまるで平然としていた。
「社長の下で、色々な人脈を築かせていただきました。法律の専門家や、警察の上層部にも。とても感謝しております。こんなに早く社長が亡くなられなければ、もっと勉強させていただけたのに、本当に残念でなりません。――ああ、先ほどの件に関しては運悪く僕に置物がぶつかってしまっただけですし、訴える気はありませんので、ご安心ください」
 駄目押しの台詞に、継母の顔色が赤から青へと変わっていった。後ろ暗いところがあるのだろう。明らかに瞬きの回数が増えている。
 隼弥に対し何か言うことは諦めたのか、継母は忌々しげに菜桜子を睨み付けてきた。
「――話が終わったのなら、とっとと出ていきなさい。離れは何が残っていても明日一番で取り壊すわ。嫌なら今日中に運び出すのね!」
 完全に捨て台詞だ。
 その程度しか、菜桜子を攻撃する材料が見つからなかったに違いない。
 もう会話は終わりだと言わんばかりに立ち上がり、継母はさっさと応接間を出て行ってしまった。
 まるで嵐。しかし顔色一つ変えず隼弥が腰を上げた。
「では僕らも行きましょう。運び出したい荷物は概ね纏めてあるとおっしゃっていましたね?」
「は、はい……どうせ処分されたくないものはあまりありませんので……それより背中は大丈夫ですか?」
 床には硝子が転がったままだ。改めて見てもとても重そうで、ぶつかればかなりの痣になるに決まっている。下手をしたら骨だって折れかねなかった。
「平気ですよ。腕も動きますし」
 言いながら彼がグルグルと腕を回す。痛みを堪え無理している様子はなく、菜桜子はひとまずホッとした。
「でも、病院には行きましょう。後から何かあっても困ります」
「僕の心配をしてくれるのですか? 優しいですね。それとも自分の庇護者がいなくなっては、困るからでしょうか」
 皮肉げな口調にどう返せばいいのか迷い、結局菜桜子は口を噤んだ。
 隼弥の言葉を否定しきれない自分もいるのを、感じていたせいもある。彼の身体を案じるのは本当だが、その根底に打算がないと胸を張って言えるだろうか。答えは否だと薄々察していた。
 ――私、何て狡いの……
「ああ、落ち込まないでください。別に菜桜子さんを責めるつもりはありません。存分に僕を利用して構いませんよ。お互い様ですから」
 未だ隼弥の真意を把握しきれない。菜桜子には彼の内側は難解過ぎて、踏み込めずいた。それに、まだ結婚を持ちかけられてたった三日だ。
 他人に等しい男性との距離感を測りかねている。まして苦手な相手であれば、尚更だった。
 それでも時間は待ってくれない。
 継母の剣幕からして、離れが明日取り壊されるのは間違いなかった。下手をすれば怒りに任せ今日に繰り上げられかねない。
 運び出したい荷物は少なくても、急いだ方がいいと考え、菜桜子は立ち上がった。
「申し訳ありませんが、荷物の運搬を手伝っていただけますか?」
「ええ、勿論です。今日は奥様への挨拶だけでなく、そのつもりで伺いました」
 東城家の敷地は、都内の一等地とは思えないほど広い。
 元は継母が受け継いだ小さな土地だったが、成功した父が周囲をどんどん買い取って、最終的に広大なものになったらしい。
 だからこそ、継母から一方的に『離れを取り壊すから出ていけ』と言われても、逆らえないのだ。
 彼女としても『ここはもともと自分のもの』という意識が強いのだろう。実際のところはともかく、そんな経緯もあって菜桜子が疎ましくて仕方なかったのは当然だった。
 さながら『大事な我が家』の目立つ染みに感じていたのではないだろうか。
 父の拘りだった和風建築の廊下を、二人並んで歩く。
 菜桜子が母屋へ足を踏み入れるのは久し振りだ。そしてこれがきっと最後になる。複雑な気持ちを噛み締めていると。
「――菜桜子さん、遺産の正しい分与を主張しますか?」
 突然、隼弥が声をかけてきた。
「いいえ……東城家と縁を切れるのなら、お金なんていりません。私には父との思い出があれば充分です」
 それは強がりでも何でもなく、本心だった。
 しかしこういうところが世間知らずの小娘なのかもしれない。先立つものがないと人間は生きられないのに、がむしゃらになれないのだ。所詮、本気で生活に困窮したことがない甘ちゃんだと、自分でも自嘲した。
 それでも諸々の交渉でこれ以上継母と顔を合わせるのは、気が進まない。仮に代理人や弁護士を立てるのだとしても、精神的に菜桜子が削られるのは間違いなかった。
 人と争うのは嫌だ。それくらいなら、二度と関わらずに済む。ようにするための対価だと諦めた方がいい。
 もともと菜桜子は父の築いた財産を自分のものと思ったことがなく、期待もしていなかったのだから。
「大学も行かせてもらえましたし……充分なものは貰いました」
「……菜桜子さんらしいですね」
「あ、真野さんには不都合がありますか? それでしたら――」
「僕は貴女を利用して東城家や会社を自由にしたいわけではないと、言いましたよね?」
 ピシャリと遮られ、二の句が継げない。どうやら彼の機嫌を損ねてしまったことを悟った。
「ご、ごめんなさい」
「何を謝っているんですか?」
「それは……」
 隼弥の地雷がどこにあるのか、菜桜子には把握しきれていなかった。しかも彼の感情は滅多に表に出てこない。微かな変化や空気から察するのみだ。
 そんな彼の心の機微を理解するには、二人の間に積み重ねた関係性はあまりにも乏しい。
 もはや何を言っても隼弥を不快にさせてしまいそうで、菜桜子は俯く以外できなかった。
 彼のように努力してのし上がり、才覚を発揮する人にしてみれば、自分のような『一見恵まれた女』は腹立たしく映るのではないか。諦めることに慣れ、覇気がないと思われているのかもしれない。どちらにしても、菜桜子と隼弥は相容れない人間だった。
 気まずい雰囲気のまま、中庭へ出て離れに向かう。沈黙を破ったのは、香世子が二人の前に立ちはだかったからだった。
「ちょっと、隼弥さんとあんたが結婚するってどういうことなのっ?」
「お姉様、いらしたんですか?」
「あんたがお母様に話があると言っていたから、わざわざこうして待っていたのよ」
 仕事が休みの日、香世子は大抵遊び歩いているので、家にいることは滅多にない。大方、絶望に染まる菜桜子の見物でもしようと手ぐすねを引いて待ち構えていたということか。
 そんな目論見が外れただけでなく、継母から話を聞いたようで、憤怒も露わに菜桜子に掴みかかろうとしてきた。
「香世子お嬢様、おやめください」
 だが姉の手は菜桜子に届く前に隼弥に制止された。さりげなく立ち位置を変え、彼は姉妹の間に移動する。菜桜子から見えるのは隼弥の広い背中だけ。まるで守られている錯覚に一瞬呆然とした。
「隼弥さん、そんな女と本気で結婚するつもりなの? いったいどうしちゃったのよ」
「申し上げておりませんでしたが、僕は以前からずっと菜桜子さんを想っていました。この感情は一生秘めるつもりでしたが、状況が変わったため打ち明けたのです。幸いにも菜桜子さんは僕との婚姻に頷いてくれました」
 淀みなく嘘を吐ける彼は、尊敬に値する。たいして接点もなかった菜桜子に、隼弥が恋心を寄せていたはずはないのに。
 白々しい作り話は、委縮していた菜桜子をほんの少し正気づけてくれた。
「あの、お姉様。私は本日この家を出ていきます。……これまでお世話になりました」
 大人の礼儀として頭を下げる。継母にも最後の挨拶はするつもりだったのだが、もの別れになってしまった分、菜桜子は丁寧に腰を折った。
「ふん、心にもないことを。あんたはちょっと黙っていて」
 菜桜子の言葉など聞く価値がないと言いたげに、切り捨てられた。香世子の視界には隼弥しか入っていない。妹の存在はノイズでしかなく、完全に排除したようだ。
「隼弥さん、東城に食い込みたいなら私を選びなさいよ。貴方なら母だって婿として認めてくれるわ。ね? 今からでも遅くないからそうしましょう」
 自分が選ばれると疑わない自信は素晴らしい。
 自尊心の塊である香世子は、隼弥の腕を取って赤い唇を綻ばせた。
「私の方が確実に貴方の力になれるわよ。一時の同情なんか、捨ててしまいなさいな」
 ――同情。
 それが彼の行動の根源なのか。どうもしっくりこない気もするが、好きだ愛しているなんて感情よりはよほど現実的に思えた。
 ――そうか。真野さんは私に同情してくれていたのね。お父様から何か聞かされていたのかもしれないわ……
 父の評価より、情に厚い男なのか。これから夫婦になるのなら、そうであればいいと菜桜子はぼんやり考えた。
「……申し訳ありませんが、それはお断りします。それに本日は業務時間外です。過度にプライベートを詮索しないでいただけますか」
 あくまでも丁重な態度と口調は崩さず、それでいて冷ややかな声音が中庭に響いた。
 無表情で抑揚のない声は、完全に仕事中と同じものだ。言外に香世子への対応は『仕事の一環』だと滲んでいた。
「な……っ」
 非常にモテる香世子は、異性にぞんざいに扱われたことも、あからさまなアプローチを躱されたこともないのではないか。
 愕然とした顔は、『信じられない』と物語っていた。
「ちょっと、この私が誘ってあげているのよ?」
「ありがとうございます。ですが僕にはもう、菜桜子さんという心に決めた方がいるので」
 毅然とした態度で、隼弥は自らの腕を香世子から取り返した。
 振り払われたことが呑み込めないのか、姉は彼と菜桜子の間で視線を往復させる。そして継母と同じように顔を怒りで染めた。
「わ、私にこんな真似をしてただで済むと思わないで」
「失礼いたしました。どのような処分もお受けしますよ。香世子お嬢様の気が済むようになさってください」
 どうせ人事権などないのだから――と幻聴が聞こえた気がする。
 香世子は父の会社の経営には携わっていない。エステ関係の会社を自ら起業しているが、そちらは東城家の出資がなくては立ちゆかないものだ。到底隼弥の処遇に対し口出しできる立場ではなかった。
 それを承知の上で彼は姉を煽っている。菜桜子はハラハラしつつ、口を挟む隙を見つけられずにいた。
 ――直接手出しできないとしても、お兄様を通してお義母様が真野さんに不利益を与える可能性だってあるのに……
 それとも本気で退職するつもりなのか。
 以前語っていたように、彼の能力があれば痛くも痒くもないのかもしれなかった。
「菜桜子、あんた隼弥さんに何を吹き込んだのよ? やっぱり妾の子は人のものを横から奪うのが得意みたいね」
「……お姉様と真野さんは、交際していたのではありませんよね……?」
 菜桜子に嫌味のつもりはなかった。単純に事実確認したまでだ。
 けれど香世子にしてみれば痛いところを突かれたのだろう。更に顔を歪め、隼弥の背後にいる菜桜子へ手を伸ばしてきた。
「あんた……っ、生意気なこと言ってんじゃないわよ!」
「きゃ……っ」
 なりふり構わぬ動きに反応しきれず、菜桜子は棒立ちになる。
 だが長く伸ばされた爪がこちらの顔を掠める直前、またもや隼弥が姉を制した。
「香世子お嬢様、人が見ていますよ」
 彼の視線に促されそちらを見れば、庭木の手入れをしている業者が唖然としていた。脚立に立つ壮年の男性は、呆れ顔だ。下に立つ若い見習いも、困惑気味にこちらを凝視していた。手は完全に止まっている。
「……っ、失礼な人たちね!」
 姉の怒声に業者の二人は慌てて作業に戻ったが、興味津々に聞き耳を立てているのは傍から見て明らかだった。
 さしもの香世子もこれ以上揉めるのは得策ではないと思ったのだろう。何せ長年出入りしてもらっている腕のいい業者だ。騒ぎ立てれば己の不利益になる。彼らが契約している取引先は、代々続く資産家や、大企業が多い。もしどこかで彼らが口を滑らせれば、あっという間に醜聞が広がるのが確実だった。
「……菜桜子、調子に乗るんじゃないわよ」
 自身の劣勢を悟った香世子が、悔しげに菜桜子を睨んできた。羞恥と憤怒で首まで赤くなっている。
 最後に「やっと出ていってくれて、清々するわ!」と言いおいて逃げるように姉は去った。
 残されたのは菜桜子と隼弥。それから気まずげな業者の男たち。こちらがぎこちなく会釈するも、相手も曖昧に頭を下げただけだった。
「行きましょう、真野さん」
「ええ、そうですね。余計なことに時間を奪われました」
 ――真野さんだけは今のゴタゴタに動揺していないみたい。お姉様の剣幕に欠片も怯まないなんて……私にはとても真似できないわ。
 たぶん、彼は本当に気にしていない。どうでもいいと思っているのが横顔から窺えた。
 父の『だがもう少し人の情を理解できれば完璧だな。時折利益を最優先し過ぎて非情になり過ぎる』という言葉が脳裏を過る。
 おそらく隼弥にとって、香世子は機嫌を損ねても問題ない相手。だから優先順位が低いのだ。自分を煩わせる存在でもないと言いたげだった。
 ――なら、私は? いつか価値がないと思われたら、あっさりと放り出されるの……? そんな風に簡単に人付き合いを損得で考えられるもの?
 人は相容れない何かや未知のものへ本能的な恐怖を抱く。
 理解できない故に恐れ、遠ざけたくなる。菜桜子にとって、隼弥はまさにそれだった。
 ――でも賽は投げられてしまった。私は真野さんと結婚するしか道はない。それがたとえ、利用される道具だとしても――
「こちらです」
 いい思い出はほとんどないが、今日で最後と思えば小さな離れが感慨深い。菜桜子はしばし、入り口手前に立って建物を見上げた。
 ――ここから出ていけれるのはホッとする……でも、思い出も消えてしまうみたい。
 数少ない、いい記憶。それがぼんやり思い起こされる。父のこと、そして僅かひと月足らず一緒に過ごした青年のこと――
 菜桜子は父親が気まぐれに連れ帰った『彼』の名前も知らない。それでも濃厚な時間は、どれも掛け替えがないもの。
 当初は『彼』に関わるつもりはなかったが、同じ敷地内にいれば気にはかかる。しかも母屋のお手伝いさんは父の身の回りの世話以外しないだろうと予想していたら、案の定だった。
 ――お手伝いさんは全員お義母様の命令に従っていたし、お父様はそういう細かいことまで目が行き届いていなかったもの。
 初顔合わせから数日後、偶然中庭で菓子パンを齧っている『彼』を見つけたのだ。聞けば、父が帰らない日の食事は当然のように用意されないとのことだった。
 それを聞き、菜桜子はとても無視できず、以来『彼』を離れに招き食事を振る舞うことにしたのだ。中学に入ってからは、離れにあるミニキッチンで自炊していたので、料理はそれなりにできる。
 初めは『俺に構うな』と威嚇していた『彼』が、いつしか渋々ながら菜桜子の手料理を食べてくれるようになるまでに、さほど時間はかからなかった。細身の身体には見合わない大食いだったことも微笑ましい。
 野生の狼が懐いてくれた気がして嬉しかったのを、昨日のことのように覚えている。
 以来、ぽつぽつと話す機会が増えて――
 ――懐かしいな……たぶんあれが私の初恋だった。
「……菜桜子さん?」
「あ……っ、ぼうっとしてすみません。中へどうぞ」
 追憶は隼弥の声で断ち切られた。
 二十四年間生きてきて、菜桜子はおそらく『彼』がいたあの時が一番幸せだった。だが思い出はここに置いていく。そう区切りをつけ、菜桜子は強引に現実へ立ち返った。


 菜桜子が離れから持ち出した荷物は、たいした量ではなかった。
 とても十九年分の生活があったとは思えない。少ない衣服や日用品と父から貰ったもの。家具の類は自分が買ったものではないので、全て残した。
 段ボール三箱に収まる私物は、ひどく薄っぺらい菜桜子の人生を表している気にさせられる。
 自身でも、東城家の片隅に『居候させてもらっている』という意識が長年あったのだと突き付けられた。
 ――それに『大事なもの』を作ると、いつもお姉様に奪われたり壊されたりしたから、いつの間にか思い入れのあるものは手元に置かなくなっていた……
 母の思い出に繋がる品はとうの昔に失っている。継母が『全て処分すること』を菜桜子が東城家に住む条件に掲げたためだ。父もそこは妻に抗えなかったらしい。
 極端に少ない荷物は、菜桜子に虚しさを呼び起こした。けれど父に贈られた真珠のネックレスを死守できただけでも、幸運だ。
 隠しておいた箱を、大事に鞄にしまう。
 隼弥が車を出してくれたので、荷物を持って彼の住むマンションへ移動するのはあっという間だった。
 菜桜子がぼんやり物思いに耽っている間に、今日から住むことになる建物の駐車場に車が滑り込んだ。
「どうぞ、入ってください」
 玄関扉を開いた隼弥に言われ、菜桜子は落ち着かない心地で靴を脱いだ。
 男性の一人暮らしとは思えないほど、広くて綺麗だ。基本的に、ファミリータイプの間取りだと思う。
 玄関も広々としていて、大きなシューズクローゼットが備え付けられていた。
「あの、ずっとここに住んでいらしたのですか?」
「ええ。気に入らないのでしたら引っ越しましょうか? ここは会社から近くて便利なので購入しました。誰かに貸し出しても構いません」
「購入?」
 驚愕で声が裏返る。
 菜桜子が固まっていると、隼弥が段ボール箱をリビングの床に置いた。
 通されたリビングは、大きな窓から眺望を楽しめる、高級感溢れる一室だ。天井は高く、置かれた家具は如何にも立派なもの。狭くて古かった、東城家の離れとは段違い。
 白い壁には新進気鋭のアーティストが描いた絵が何枚もかかっていた。
「あ……荷物、全て持っていただいて申し訳ありませんでした」
「構いません。たいして重いものではありませんし。それよりすぐに整理しますか?」
「自分でしますので、大丈夫です。それよりも、購入って……」
 父は彼を大層気に入っており、平均的な給与よりも高額で雇っていると聞いたことはあった。他所に引き抜かれては困ると、口癖のように言っていたからだ。
 それでもまだ若い隼弥に、都内でマンションの高層階を買えるほどの財力があるとは、驚きである。
「資産としてです。先ほど申し上げたように賃貸にするのも、自分が住むのもいいでしょう。持っていて困りません」
 ――それは困らないだろうけど……普通は、もう少しこぢんまりとした物件にするのではないの? こんなに高そうな部屋を購入するなんて……
「……真野さんはおいくつでしたっけ?」
「夫になる男の年齢もご存じないのですか?」
 鼻白んだ口調に、菜桜子はビクッと肩を震わせた。その様子に彼の眉根がやや寄せられる。鋭い視線が逸らされ、隼弥は大きく息を吐いた。
「三十一です。覚えておいてください」
「は、はい。すみません」
 彼の年齢が予想通りか、存外若いと感じたのかは、菜桜子自身にもよく分からなかった。
 隼弥の理知的な振る舞いは、彼を老成させて見せるし、肌や髪はとても若々しい。同年代と言われても違和感がないのだ。それでいて、圧倒的な『大人の男性』の雰囲気も備えている。
 隼弥に関しては知らないことばかり。しかし今日からここで一緒に暮らすのだ。
 室内には、当然ながら二人以外誰もいない。
 シンと静まり返る空気が急に意識され、菜桜子は今更ひどく緊張してきた。
「あの……真野さんの誕生日はいつですか?」
「祝ってくれるつもりですか?」
 居心地の悪い沈黙を打破したくて捻り出した話題だが、予想外に彼の声が柔らかなものになった。ひょっとして、喜んでくれているのか。
 初めて隼弥からの態度が和らいだ気がして、菜桜子はようやく全身の強張りを解けた。
「は、はい。勿論。真野さんが嫌でなければ……」
「嫌だなんてあり得ません。……楽しみです。誕生日は八月十日です」
 微かに彼の目尻が赤らんで見えるのは、こちらの勘違いだろうか。スッと顔を背けられてしまったので、判断できなかった。
 ――よかった……私ったら真野さんの気分を害してばかりだから、少しでも挽回しないと……
 一般的な夫婦のようにはなれなくても、互いを尊重し合える関係を築けたなら。
 自分が彼にとって何らかの道具に過ぎなくても、利用価値がある間は無下に扱われないに違いない。そうしていつか居場所を作れたらいい。全てが辛いばかりでなく、穏やかに暮らせるように。
 ――いずれ真野さんが私を用なしと見做すまでに、一人で生きられる力を身につけなくちゃ――
「……ところで、いつまで『真野さん』と呼ぶつもりですか?」
「え」
 いつか一人になる日に思いを馳せていた菜桜子は、彼の問いかけで我に返った。さりとて、言われた意味がよく分からない。
 長い間『真野さん』としか呼んでこなかったので、疑問を感じていなかったのだ。
「……まさか、僕の名前もご存じない?」
「い、いいえっ。ちゃんと存じております。しゅ、隼弥さん……ですよね?」
 流石にそれくらいは把握していた。だが口にするという発想がなかっただけだ。自分が彼を下の名で呼ぶなんて、一度も想像したことがなかった。
「安心しました。それなら、今日から名前で呼んでください」
「えッ」
「いずれ菜桜子さんも真野姓になりますし、夫婦なら当たり前でしょう?」
 そう言われてしまうと反論の余地はない。全くもって、彼の言う通りだからだ。
「でも……」
「貴女がいつまでも僕を名字で呼んでいては、不自然でしょう。あれこれ言う人が出てきてもおかしくない。そこから東城の奥様方に付け入られたらどうするんですか?」
 それも至極尤もで、菜桜子は口ごもった。
 隙を見せれば食らいつかれる。それはこれまでの人生で散々味わってきた辛苦だ。弱みは相手の嗜虐心を刺激する。余計な攻撃を避けるためにも、弱点は隠しておくのが得策だった。
「そう……ですね。真野さ……しゅ、隼弥さんのおっしゃる通りです」
「菜桜子さんが素直な方で、よかったです。――荷物は寝室に運んでおきましょうか?」
「あ、はい。荷解きは自分でします。私の部屋はどこですか?」
 段ボール箱を持った彼の後について、廊下を進む。いったい何部屋あるのやら。いくつも扉が並んでいるので、菜桜子は自分の部屋があるのだと信じて疑っていなかった。
「ここです」
「ありがとうございま――……ぇ?」
 通された部屋は中央にキングサイズと思しきベッドが鎮座していた。どう見ても、一人で眠るためではない。大人二人が横になるのに充分な大きさだった。
「あ、あの……」
「ここが夫婦の寝室です」
 隼弥と結婚するのだと、頭では理解しているつもりだった。しかし本当の意味で分かっていなかったのだと、初めて気づく。
 夫婦になれば当然そういう行為も含まれるだろう。考えてみれば当たり前だ。にも拘らず、不思議なことに菜桜子の頭からその可能性がスッポリと抜け落ちていた。
 心の奥で、『彼が自分などに欲情するはずがない』『何か思惑があるから、私と籍を入れたがっているだけ』だと思い込んでいたためもある。
 実体のない婚姻だと油断していた。自覚はなくても、具体的な夫婦生活を思い描いてはいなかったのだ。それなのに。
 菜桜子は生々しい現実を突き付けられ、完全に狼狽した。
「荷物はここに置きますね。ウォークインクローゼットの空いている左側は、棚もラックも全て使っていただいて構いません。化粧品などは菜桜子さんが使いやすい場所にどうぞ」
「そ、その……同じ寝室、なんですか?」
「当然でしょう?」
 唇は弧を描いても、隼弥の双眸は微塵も笑っていなかった。冴え冴えと凍り付いている。
 瞳に滲むのは、呆れと怒り。
 明らかに下降した彼の機嫌が、冷気となって菜桜子を襲った。
「ただの同居人とはわけが違いますよ。それとも――菜桜子さんは体のいい下宿先を手に入れたくらいに思っていましたか?」
「そ、そういうつもりでは……」 
 違うと言い切れるか自信はない。甘く考えていた自分を否定しきれず、菜桜子は言い淀んだ。
「すみません。僕はそこまで優しくない上に、善人でもありません」
「あ……っ」
 眼前に立たれると、隼弥の身長の高さがより明確になる。彼から漏れる威圧感が増し、菜桜子は咄嗟に下を向いた。
「……貴女はいつもそうやって目を逸らす。昔はもっと――いや、そんなに僕が嫌いですか?」
「え、ぁ、そんなこと……」
 正直に吐露すれば、今も隼弥が苦手だ。淡々と喋られるのも、冷たい視線も、目的が見えないのも怖い。
 強引に事を推し進められたのも、考える暇を菜桜子から奪おうとしているようで、複雑だった。
 だが以前よりは多少張り巡らせた壁が低くなっている気もする。彼の知らなかった面をいくつか目にし、僅かでも人間味を感じられた。頼り甲斐も。
 それらの欠片を掻き集め、少しは隼弥との生活に前向きになり始めていたのだが。
「きゃ……っ」
 肩を掴まれた痛みに慄いているうちに、視界がぐるりと回る。
 ベッドに押し倒されたと気づいた時には、静かに苛立つ彼に見下ろされていた。
「あ、あの」
「口先だけで謝るつもりなら、やめてください。どうせ僕が不機嫌そうだから、とりあえず謝罪を口にすればいいとでも思っているのでしょう? それが菜桜子さんの処世術なのは知っていますが、そうこちらの顔色ばかり窺われて上面の対応をされると腹立たしい」
 いちいち正解で、菜桜子は途方に暮れた。
 東城家に引き取られて以来、父以外の家族に苛まれている時、一秒でも早く苦痛から逃れるためには彼らの機嫌を損ねないことが大切だった。
 つまり逆らわず、大人しく首を垂れ、『私が全面的に悪かった』と示すのが一番の近道だったのだ。
 どんな理不尽な言いがかりでも口答えはもっての外。ひたすら『ごめんなさい』『申し訳ありません』を繰り返す以外許されない。そして彼らの気が済むまで身を縮めていた。
 それが癖になり、菜桜子は隼弥に対しても同じ対応をするつもりだった。微塵の疑問もなく。
 ――だって他にどうすればいいの?
 全く分からない。立腹する相手に平伏する以外、正解なんて知らなかった。
「正式に結婚式を挙げられるのは一年後です。でも、それまでに妨害されるでしょうね。牽制はしておきましたが、奥様も香世子お嬢様も納得したとは言い難いですし。淳史さんも横槍は入れてくるかもしれません。ですから」
 そこで隼弥は一度思わせ振りに言葉を切った。
 鋭い視線に炙られる。呼吸を忘れていた菜桜子の両腕が、頭上で一纏めに押さえ込まれた。
「既成事実を作りましょう。入籍自体は喪中でも可能だそうです。それから僕は、『形だけ』の夫婦関係に満足する男ではありません」
「ん……ふ……っ」
 二度目の口づけは情熱的かつ乱暴だった。
 強引に歯列を割られ、舌を搦め捕られる。唾液を啜り上げ、口内を擽られると、菜桜子の喉奥が奇妙に震えた。
「ふ……んぅ」
 大きな身体に真上からのしかかられて、身を捩ることもできない。蹂躙してくる男の舌に、翻弄されるだけ。
 懸命に頭を振ろうとしても、頬を片手で拘束されては無理だった。拒絶の言葉は無様に消える。呻きも悲鳴も喰らわれて、全て彼の口の中へ呑み込まれた。
「は……っ」
 身体が熱い。勝手に瞳が潤んで視界が滲む。
 霞む光景の中、隼弥は頬にほんのりと朱を走らせていた。
「菜桜子さん、貴女は今日から僕の妻です。婚姻届に後で記入してくださいね」
 後で、の意味が分からぬほど菜桜子は鈍感ではなかった。
 今まさに行われようとしている行為が終わったら、ということだろう。
 これまで異性と交際したことがない菜桜子には、キスすら隼弥と交わしたものが初めてだ。それ以上のことは、最低限の知識としてしかない。体験が伴わないことを求められているのだと悟り、身体が強張る。
 菜桜子が怯えを滲ませると、彼は一瞬動きを止めた。
「……貴女の身体を痛めつけることはないと約束しますよ」
「や……っ」
 刹那に垣間見た辛そうな表情は、菜桜子が見たい幻だったのか。拒絶の言葉は噛みつくのに似た口づけで封じられた。
 押さえ込まれた両手は、まるで動かせない。隼弥は片手で菜桜子を拘束しているのに、男の力に抗うのは不可能だった。
「待って……!」
 カットソーを捲られ、ワイドパンツが引き下ろされる。瞬く間に下着姿にされ、菜桜子は抵抗する暇もなかった。
「……ッ」
 こんなに無防備な格好を人前でしたことはない。まして男性の前だなんて、脳が焼き切れそうな羞恥心に襲われた。
 じっとりとした視線が自分の身体を辿っているのが伝わってくる。父の葬儀の場で、嵯峨根に向けられた種類のものとよく似ていた。
 だがあの時ほど悍ましさは感じない。それどころか体内が不可解に疼く。
 じっとしていられず菜桜子が身じろげば、熱く滾る吐息が吹きかけられた。
「――菜桜子さん」
 ゾクッと走ったものが何なのか、判断するのは難しい。
 恐怖か官能か。判別するには菜桜子の経験値が圧倒的に足りなかった。
 ただ注がれた声が甘く響く。こめかみが吐息で湿り、耳孔がジンジンする。鼓膜までが敏感になったかのように、そこから熱が広がっていった。
「今から貴女を抱きますよ」
「や……」
「抵抗しても無駄です。だから――諦めて大人しくしていてください。そうすれば苦痛は減ると思います」
 慰めとは思えないひどい言い草に、眩暈がする。
 今からでも隼弥を押し退けて逃げ出したい気持ちが膨れあがった。だがそれは到底現実的ではない。現状起き上がることもできない菜桜子は、ブラ越しに胸を揉まれ、引き攣れた声を上げた。
 ――身体に力が入らない……っ
 動けないのは男の力で押さえられていることだけが理由ではなかった。全身が弛緩して、ままならない。
 頭は暴れることを命令しても、それが上手く伝わらないのだ。
 蹴り上げるべき脚は虚脱したまま。両腕はもがくことすらやめていた。
 せめて顔を背けてキスを拒めばいいのに、それさえ失敗している。繰り返される口づけの甘さと毒に、すっかり侵されていた。
「駄目……っ」
「僕たちは夫婦になるのに? どうやら菜桜子さんには覚悟が足りなかったみたいだ。だったら今から奥様たちに頭を下げ、嵯峨根様との縁談を再度取り持ってもらいますか? その場合、お断りする前よりも条件はより悪化するでしょうね」
 最強の脅し文句に、菜桜子の拒絶は完全に消えた。
 もう身を捩ることも叶わない。情け容赦なく自分の立場を分からせられ、心を折られた菜桜子の瞳から涙がこぼれた。
「――僕は貴女の辛そうな顔ばかり見せられている。どうしたら昔のような表情も見せてくれるんですか?」
「昔……?」
 菜桜子が隼弥を父の秘書として認識し始めたのは、六年ほど前からだ。それ以前は荷物持ちなどを命じられていたらしいが、詳しくは知らない。だが父は秘書として隼弥が働き出す前から、彼に目をかけていたと聞いている。
 当時の菜桜子は十八歳未満。
 東城家で暮らし、もうすっかり委縮していた頃だった。だとしたら、『昔のような表情』と言われても、どんなものか思いつかない。
 既に感情を殺すことには慣れていたし、迂闊に楽しそうな素振りを見せれば継母たちの顰蹙(ひんしゅく)を買うと学習していた。
 今思い返してみても、暗い顔ばかりしていたのでは。黒く塗り潰された思い出は、悪いことの方が圧倒的に多い。
 菜桜子は隼弥の言っている意味が汲み取れず、困惑した。
「私たち、懐かしむような過去はないですよね……?」
 菜桜子の知る隼弥は、仕事に厳しく父の背後に控えている姿ばかりだ。冷静な判断力と無表情。それしか見た覚えがない。
 そんな彼の前で、辛そうではない顔を自分がしていたとは思えなかった。この数年、喜怒哀楽を表さないことがすっかり上手くなっている。
 そうやって生き延びる方法しか学べなかった。
「……貴女にとってはその程度のことだったんですね」
 低くなった声と暗さを増した瞳が菜桜子に向けられた。おもむろに隼弥が眼鏡を外す。
 レンズがなくなった彼の顔は、一際美しさに拍車がかかった。同時に、冷ややかな眼差しの圧も。
 サイドテーブルに眼鏡を置く音がいやに響き、室内の緊張感を押し上げた。
 もはや瞬きもできない。菜桜子が瞠目したまま動けずにいると、隼弥が嫣然(えんぜん)と微笑んだ。
 目を奪われる極上の笑みに、一瞬魂まで吸い取られそうになる。彼の笑顔は魔性のそのもの。普段の無表情との落差が激し過ぎる。
 声も発せず惚けていると、辛うじて菜桜子の身体を隠してくれていた下着を上下とも剥ぎ取られていた。
「あ……ッ」
 素肌を男の指がなぞってゆく。触れられた場所が火傷しそう。
 己の呼気までが熱くなり、頭が沸騰してしまいかねなかった。
「んぅ……ぁッ」
 軽やかに皮膚の上を滑ってゆく指先が、菜桜子の乳房の先端を弾く。そこは普段、自分で触れても何も感じないが、今はゾワゾワとした愉悦を生み出した。
「熟れた果実みたいだ」
「ひ、ぁッ」
 ぺろりと舐められて、生温く湿った感触が乳嘴(にゅうし)に絡みつく。しかも口内に吸い上げられ甘噛みされると、むず痒さが一気に増した。
「舐めては……駄目です」
「摘まれる方がお好みでしたか?」
「やッ」
 二本の指で乳首を捏ねられ、軽く引っ張られる。微かに痛みがあるのに、親指の腹で尖頂を撫でられるとたちまち悦楽が大きくなった。
「……それも、駄目……ん、ぁ」
「素直な身体ですね。どんどん色付いてくる」
「ぁうっ」
 乳房を掌全体で揺らされると、胸の飾りが擦れて堪らない。すっかり敏感になったそこは、膨れて存在を主張していた。
「恥ずかしい……っ」
 顔を隠したくても腕を上手く動かせないまま。菜桜子は涙ぐむ瞳を閉じ、せめてもの抵抗で顔を背けた。
 頬に、こめかみに、耳に隼弥の視線が注がれているのが分かる。更には瞼に口づけられ、思わず睫毛を震わせずにはいられない。
 言葉にされなくても、命じられている。『目を閉じるな』と。それが理解できてしまい、菜桜子はゆっくり瞼を押し上げた。
「僕から目を逸らしては駄目ですよ。これから誰に抱かれるのか、ちゃんと見ていてください。僕が、菜桜子さんの夫です」
 一言ずつ染み込ませるように告げられ、不可思議に鼓動が速まる。
 酩酊しそうな色香が滴っている。それとももう、自分は完全に酔ってしまっているのか。
 いっそそれならどれだけよかったことか。
 正気を残している分、菜桜子は羞恥に焼かれた。
 見せつける動きで、彼がこちらの片脚を持ち上げ、脛から膝に舌を這わせてくる。ゆっくりと。けれど着実に。
 少しずつ脚の付け根を目指し上昇し、その間絡んだ視線が解かれることは一瞬たりともなかった。
 は、と漏れ出た息は濡れている。菜桜子にできるのは、言われた通り隼弥を凝視し続けることのみ。僅かな時間でも目を背けてしまうと、次に何が起こるのかが恐ろしくて仕方なかった。野生の獣と目が合ってしまった気分。どうしたらいいのか、分からないまま膠着状態にある。
 両腕は解放され、抵抗するなら今だ。
 だが意思に反してまるで身体は動かない。まさに操られているか、質の悪い催眠術にかかった心地だった。
「いい子ですね」
 凄絶な色香を撒き散らし、男が笑う。噎せ返るような蠱惑的な空気が、菜桜子をますます動けなくさせた。
 捕らえられた脚を屈曲させられ、今やもう彼の舌は太腿を通過している。唾液の線がテラテラと光り、淫靡なことこの上ない。
 菜桜子が眼差しだけで制止を訴えても、隼弥はより笑みを深めただけだった。
「あ……っ」
 彼の指が菜桜子の鼠径部を辿り、そのまま秘めるべき場所へ潜り込む。そこは誰にも触れられたことがない箇所。
 花弁の形を知らしめるようになぞられ、菜桜子は思わず脚をばたつかせた。
「や……、待ってください」
「大丈夫。ほら、もう蜜を滲ませ始めているのが分かりますか?」
「……え?」
 女性の身体が男性を受け入れるために変化することは知っている。けれど今まさに自分に起こっている現象だとは考えていなかった。
 だが隼弥の指がぬるりと滑り、その意味を悟って菜桜子の顔が上気した。
「嘘……っ」
「よかった。菜桜子さんが僕を受け入れてくれそうで。流石に無理やり奪うのは、避けたかったので安心しました」
「私が……受け入れる?」
「ええ。少しは感じてくれたみたいですね」
 言葉にされると居た堪れない。確かに乳房を刺激され、見知らぬ快感に翻弄されていた。それがこうして身体に現れているのか。
 ――気持ちの上ではまだ躊躇しているのに、私は何て淫らなの……っ
 自分でも愕然とする。そして何度も継母らから言われた言葉が脳裏を過った。『血は争えない』『根がふしだらな母親そっくり』などの辛辣な言葉が。
 もうほとんど覚えていない母がどんな女性だったのかは、父が語ってくれた思い出話の中でしか知らない。父から『似ている』と言われれば嬉しかったが、他の人間の言葉の意味は、まるで違った。
 軽蔑と嘲笑。それらが凝縮している。
 辛い記憶がよみがえりそうになって、菜桜子の瞳が忙しく揺れた。