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諦めて僕のものになりなさい 慇懃無礼な秘書の愛は甘い猛毒 3

第三話

「――余計なことは考えず、快感に流されてしまえばいい。菜桜子さんに選択権はないので、考えるだけ無駄です」
 そっと大きな掌で両眼を塞がれた。不意の暗転。
 その意図に戸惑う。突然視界を覆われ、怖くもあった。それでも指の隙間から小さな光が入り、完全なる暗闇ではない。
 仮初の目隠しは、不思議なことに過去に引き摺られかけた菜桜子を現実に引き戻してくれた。
 ――ひどいことばかり言うのに、隼弥さんの手は、温かくて心地いい……
 瞼からじわじわと熱が伝わってくる。緊張しっ放しだった疲れが、僅かに癒された。
「どうしても嫌なら、目を閉じてもいいですよ」
「さっきは目を逸らすなと言ったのに?」
 多少落ち着いたおかげか、菜桜子の喉は滑らかに動いた。男の指の狭間から、先刻と同じ冷たい容貌の彼が見える。黒い瞳に浮かぶ感情は、まだ菜桜子には読み取れなかった。
「……言葉尻を捕らえるなんて、少しは余裕が出てきましたか? そういう切り替えの速さや逞しさは社長を彷彿とさせます」
「ん……っ」
 軽く首筋を齧られて、妖しい気分になる。
 歯が食い込んだ皮膚を舐められ、吸い上げられれば、痛みと愉悦が交互に訪れ混乱した。
 その間に再度隼弥の指が菜桜子の泥濘(ぬかるみ)を弄る。肉のあわいを探り、浅い部分に出入りし始めた。
「……ぁっ」
「狭いですね。じっくり解さないと、菜桜子さんを傷つけてしまいそうです」
「ゃ、あ……んんッ」
 淫路を往復しつつ、彼の親指が菜桜子の肉芽を捉えた。そこは女の肉体で最も敏感な器官。そっと摩られただけで、絶大な喜悦を呼び覚ました。
「……ぁ……あッ、やぁあっ、な、何か変な……っ」
「大丈夫、変ではありません。当然の反応なので、そのまま身を任せてください」
 自分の体内で他者の指が蠢くのは衝撃だった。
 経験のない感覚が、菜桜子の全てを混乱させる。気持ちいいのか悪いのかも曖昧で、ただじっとしていられない刺激がいくつも弾けた。それは乳房を揉まれた時とは比にならない鮮烈な官能だ。
 指先や爪先に勝手に力が籠り、シーツに皺を寄せる。汗が噴き出して、卑猥な声が次々に漏れた。
 せり上がる何かが、破裂しそう。それを味わってしまうと、もう引き返せない心地がした。
「待って……ぁ、あああッ」
 腰が浮き上がっているとは思いもせず、菜桜子は子どものように頭を振った。涙が飛び、髪が乱れる。太腿はブルブルと戦慄いて、閉じることさえ忘れていた。
 与えられる悦楽が凶悪で、思考力は鈍麻してゆく。気持ちがいいことしか考えられない。
 理性を掻き集めなくてはと思うと、すぐさま隼弥の動きに掻き消された。
「ぁ、あんッ、ぁ、ふぁああ……っ」
 ぐちゅぐちゅと淫蕩な水音が奏でられる。溢れる蜜液が菜桜子の太腿を伝い落ちた。
 温い滴の感触すら淡い愛撫に感じられ、一層逼迫感が膨れあがる。もはや彼から逃れるためか、それともより快感を貪ろうとしているのか分からない動きで、菜桜子は全身を震わせた。
「ぁ……んぁああ……ッ」
 花芯を捏ねられ表面を叩かれると、脳天まで甘い愉悦が突き抜ける。浅瀬をさまよっていた隼弥の指は、いつしか深いところまで入り込んでいた。
 濡れ襞が騒めいて、異物を押し出そうとしている。けれど同時に歓迎の意を示してもいた。
「んぅッ、ぁ、あ、ひ……っ」
 内壁を擦られると、体内が不随意に収斂(しゅうれん)する。すると彼の指を食み、咀嚼するのに似た淫音が鳴った。
 自分の身体からこんなにもいやらしい音が立てられるなんて信じられない。信じたくなくて耳を塞ぎたいのに、それは叶わず法悦は肥大してゆくばかり。菜桜子は懸命に上へずり上がろうとしたが、無意味な抵抗だった。
「とてもよさそうですね。それでは一度達しておきますか」
「あ……っ」
 隼弥に押さえ込まれ、易々と引き戻される。汗塗れの肌が火照って辛い。けれどもっと発熱した掌と吐息に炙られ、下腹が波打った。
「……ぁあああッ」
 蜜窟を掘削され、視界が白く染まる。火花が弾けて、あらゆる音が遠退いた。
 菜桜子の四肢が数度痙攣してベッドに落ちれば、全力疾走直後そっくりの疲労感に苛まれる。意識は茫洋とし、瞬きさえ億劫だった。
「は……ぁ……っ」
 激しく上下する胸の谷間を、汗が伝い落ちてゆく。心音が煩くて、聴覚が戻ってきてもしばらくは他の音を拾えなかった。
「上手にイケましたね」
 投げ出された両脚の狭間から彼の指が引き抜かれ、喪失感を抱いたことは否定したい。だが菜桜子の蜜塗れの指に隼弥が舌を這わせるのを目撃し、何故か疼きが激しくなった。
「な、舐めてはいけません。そんな、汚い……」
「どうして? とても甘いのに……――ああ、直接舐めてほしいというお強請りですか?」
「え……?」
 本気で彼の言っている意味が分からず、呆然としたのは言うまでもない。
 大きく股を開かされても、菜桜子はまだ状況を把握しきれていなかった。
「隼弥さ……ひゃぅッ」
 疲れ果て、反応が鈍くなっていたことが悔やまれる。
 予測していなかった事態に対応できず、菜桜子は彼がこちらの股座へ顔を寄せるのを見守ることしかできなかった。
 隼弥の舌が花芯を転がすまで、『まさか』の思いが強かったとも言える。
 話に聞いたことはあっても、菜桜子の常識からかけ離れた行為に頭が追い付いてこなかったのだ。
「そ、そんなところ……ゃ、んぁあッ」
 愛液に塗れた指を舐めるどころの騒ぎではない。不浄の場所へ直接舌が触れているのだ。この距離では当然見られもするし嗅がれもする。
 そんな事実に気づいてしまえば、冷静でなんていられるはずがなかった。
「駄目、隼弥さ――ぁ、あ」
 絶対に止めなくてはと、頭では理解している。だが羞恥と背徳感を糧にして、快楽は大きくなった。腰はうねり、さながら自ら彼に押し付けているかのよう。
 花芽を舌全体で押し潰され、捏ねられ、摩擦されると、指とは違う喜悦に襲われた。しかも唇で挟まれ吸い上げられ、恍惚に苛まれる。合間に歯で甘噛みされれば、もう『やめて』の言葉は口先だけの拒絶に堕ちた。
「は……ひ、んぅう……っ」
 新たな蜜が溢れて止まない。もう陰唇はびしょ濡れになっている。隼弥の唾液も混ざっているだろうが、大半は菜桜子が滲ませたものだ。
 快楽に溺れ、もっと味わいたいと身体が欲していた。
「可愛いな。ご自分で動いているのは無自覚ですか?」
「ひゃ、ぁ、あ……っ」
 己の痴態を見られている。いくら目を閉じ現実を見ない振りをしても、彼の視線からは逃れられない。
 突き刺す勢いで凝視され、眼差しの圧は増すばかり。チリチリと焦げ付く肌が過敏になって、更に隼弥からの責め苦が強く感じられた。
「み、見ないでくださ……っ」
「それは無茶なお願いです」
「んッ」
 蜜口にふぅっと息を吹きかけられて、惑乱する。もう何をされても気持ちがいい。高まる官能に体内で暴れるものがあった。
 焦燥感を解放へ導けるのは彼だけ。それは菜桜子にも分かっている。だが意地悪く躱されているのも理解していた。
 先ほど一度達したからこそ実感している。あともう少しで再び絶頂に至れるのに、直前で隼弥が花蕾への刺激を控え、逸楽をお預けされていることを。
「ふ……っ」
 菜桜子の荒い呼吸音だけが寝室に響いている。自分ばかりが乱され、彼は未だにきちんと服を纏ったままだ。口元を拭ってしまえば、いつも通り冷静な男に戻ってしまうに決まっていた。
「や……」
「舐めるなと言ったり、見るなと言ったり……菜桜子さんは意外に我が儘ですね。でもそういうお願いをされるのは嫌いではありません。次はどうしてほしいですか?」
 焦らされている。それが分かっても、奥手な菜桜子には希望を口にするのが難しかった。
 辛うじて残された理性は、『終わりにしてくれ』と叫んでいる。しかしその声はあまりにも小さい。
 すっかり淫らに高められた身体は、『この先』を望んでいた。
 ――言えない。言えるはずがない。そんな……ふしだらなこと。
 菜桜子にとって、それは罪に等しい。淫らであることは、罪悪。実母を貶められる要因にもなる。にも拘らず、嵐同然の渇望が良識を凌駕してきた。
 ――もっと欲しい。
 腹の奥がジンジンする。今すぐ発散しなくては、おかしくなりそう。
 一人では制御しきれない欲望が暴れている。淫蕩な自分に呆れ自己嫌悪もあるのに、貪欲な本性が顔を覗かせていた。
「そんな潤んだ眼を、他の男に見せてはいけませんよ」
 愉悦に隼弥の唇が歪む。笑みと呼ぶには悪辣で、双眸はギラギラと危険な光を放っていた。
 作り物めいた普段の顔とは違う。ある意味彼の感情や情欲が剥き出しになっている。
 赤裸々に欲されて、菜桜子の内側が収縮した。
 ――頭から食べられてしまいそう。
 ゾクゾクッと怖気が駆け抜ける。恐怖だけでなく、期待感も孕んだもの。溢れた吐息は、あからさまに濡れていた。
「ァアッ」
 陰唇に口づけられ、隘路へ舌を捻じ込まれる。隼弥の高い鼻梁に肉芽は潰され、二点同時の愛撫に快感の水位が高まった。
 先ほどよりもわざとらしい水音が奏でられ、淫音が鼓膜を揺らす。彼の舌がひらめく度に、菜桜子はだらしなく鳴き喘いだ。
 涙も唾液もこぼれ、おそらく顔はぐちゃぐちゃだ。
 嬌声を迸らせることしかできず、四肢をヒクつかせる。特に過剰に反応した場所を執拗に責められて、菜桜子は小刻みに全身を戦慄かせた。
「あ……ぁあああッ」
 二度目の絶頂は、初めてよりも呆気なく訪れた。しかし甘美さは同等かそれ以上。重ねるほど恍惚は育ってゆく。
 苦しい法悦に呆然としていると、隼弥がやや乱雑に服を脱ぎ捨ててゆく。いつも礼儀正しい彼の仕草とは思えない荒っぽさで、シャツやズボンがベッドの下へ放り出された。
 乱れて落ちかかる前髪を掻き上げる隼弥の仕草がひどく艶っぽい。目尻は朱に染まり、口角は興奮で吊り上がっている。視線が絡み、体内に火が点る。
 濡れそぼった蜜口に硬いものが押し当てられ、意識の大半が飛びかかっていても、それが何かはすぐに察せられた。
 彼の一部。猛った肉槍。他人であれば絶対に目にする機会がないもの。
 菜桜子が息を詰めると、ゆっくりと入り口が押し広げられた。
「……息を、吐いて」
「んん……っ」
 無理だ。到底質量が合わないものが身体を貫こうとしてきて、痛みで全身が強張ってしまった。しかも肉筒を限界まで拡げられ、苦しくて堪らない。
 裂けてしまうのではないかと不安になり、菜桜子は奥歯を噛み締め目を閉じて首を横に振った。
 ――こんなの、無理に決まっている……っ
 最後まで耐えられそうもない。まだ隼弥の楔は一部が埋められたばかり。恐怖に竦み、唇を思い切り引き結んだ。
「菜桜子さん」
 名前を呼ぶ彼の声は、聞いたことがないほど柔らかかった。労りが含まれていると錯覚する。だが目を開いて確認しようにも、涙の膜が張った菜桜子の視界は不明瞭だった。
「……息を吐くことに集中して」
「……んっ」
 少しでも苦痛から逃れたくて、従順に頷いた。すると隼弥が花芯を優しく撫でてくれる。
 高みに押し上げられた時のような激しさではない。泣く子を宥めるのに似た、穏やかな手つきだった。
「ぁ……っ」
 遠退いていた快感がほんのりと戻ってくる。相変わらず蜜窟はぎちぎちになり彼の剛直を頬張っていたが、微かに解れ始めた。硬くなっていた淫道が強張りを解き、新たに蜜を溢れさせる。
 すると滑りがよくなったのか、隼弥の動きも滑らかになった。
「そう。偉いですね」
 頭を撫でてくれる手つきに甘やかされていると勘違いしそうになる。
 菜桜子を助けると嘯(うそぶ)きつつ、真意を隠してこんなことをしてくる男に褒められ、嬉しいなんてどうかしていた。だが縋れる者は、彼をおいて他にいない。
 もう自分には隼弥だけなのだ。信頼関係は未だ築けていなくても、それだけは事実。菜桜子を捕らえる檻の種類が変わったのみであっても――今は彼だけが頼りだった。
「隼弥……さん……っ」
 必死で彼の名前を呼ぶ。何故そうしたかったのかは、自分でもよく分からない。
 だが隼弥の背中に伸ばした手から、彼が大きく息を吸ったのは伝わってきた。
「ぁ……ぅ……っ」
 結合が深くなる。互いの間にあった距離が駆逐されてゆく。
 二人の局部がピタリと重なり、菜桜子は内側から喰らわれたのを感じた。
「あ……お腹の中……いっぱい……」
「そういう発言も、僕の前でだけお願いします」
 余裕のない声が降ってくる。話す振動が体内に響き、菜桜子は小さく喘いだ。
 痛みはある。内臓が圧迫される違和感も。
 けれど先刻よりはだいぶマシだ。隼弥がしばらく動かずにいてくれたからかもしれない。それとも額や瞼にまるで慈しむようなキスをくれたからか。
 泣きたいくらいだった痛苦は、次第に薄らいできた。忘れていた呼吸は、彼の舌先に唇を舐められ、思い出す。代わりに膨らんでゆくのは、過ぎ去ったはずの官能だった。
「は……」
「動いて、いいですか? どうしてもきつかったら、教えてください。やめてはあげられませんが、善処します」
「平気、です」
 気遣われているのかそうでないのか、曖昧な言い回しだ。自分本位と思いきや、優しさが見え隠れする気もした。
 ――私がそう思いたいだけかもしれないけど……
「ん……ッ」
 ゆったりと腰を引いた隼弥が再び蜜壺を支配する。根元まで押し込まれ、菜桜子の爪先が丸まった。
 痛みと拮抗する疼きが深いところに存在する。打擲(ちょうちゃく)を繰り返される度、その比重が大きくなっていった。
「……ぁ、あ……んぁっ」
 揺さ振られ、視界も上下する。折り重なる彼の背へしがみつく腕に力を込めると、隼弥が滾る呼気を吐き出した。
「いいですね。もっと抱きついて、爪を立てても構いませんよ」
「ん、ァ……そんなこと……っ、しません」
「菜桜子さんから引っ掻かれるなら、それも悪くありません」
 彼から汗が滴り落ちてくる。同じ律動を刻み、ベッドが軋んだ。
 何度も突き上げられて、菜桜子の淫路が熟れてゆく。爛(ただ)れた内壁を擦られ、感度が増した。痛みと悦楽の天秤が完全に後者へ傾く。喜悦を拾い始めると、菜桜子の息が甘く弾み出した。
「はぁ……っ、ァ、あ、……ぁあッ」
 下腹がきゅんっと蠢いて、内部の昂ぶりを締め付けた。隼弥の形が生々しく感じられ、浅ましくしゃぶっている気分になる。
 淫らな妄想が快感に拍車をかけ、菜桜子は啜り泣きながら彼の腰に自らの両脚を絡めた。
「やんッ、ぁあ、ゾクゾクして……っ、もう……っ」
「いいですよ。どうぞ僕を味わってください」
「あ……ッ」
 一際強く突き上げられて、背筋が仰け反った。鋭い恍惚が菜桜子の全身を侵す。
 指と舌で弄ばれた時よりももっと大きな波がやってくる。溺れまいと抗うより早く、最奥を穿たれた菜桜子は声も出せず全身を引き絞った。
「……くっ」
 未熟な膣道がぎゅうぎゅうと収斂する。隼弥が低く呻き動きを止めた刹那、彼のものが逞しく漲った。
 ――お腹の中、熱い……
 熱液が迸ったのは、数秒後。腹の奥に白濁が放たれた。
 体内に注がれる欲望が、菜桜子の子宮に溜まってゆく。それは恐ろしく――抗い難い禁断の味だった。


 役所へ婚姻届を提出するのは、想像していたよりもあっさりとしたただの『手続き』だった。
 イベントめいた高揚は特にない。淡々と終わり、今は帰路についている。
 菜桜子は隣を歩く『名実共に夫となった男』を盗み見た。
 ――私、本当に隼弥さんと夫婦になったんだ……
 本来なら、幸福感に包まれているであろう帰り道だが、心境は複雑だった。
 これで東城の家から逃げられた喜びはある。嵯峨根にも妙な手出しはされないだろう。長年足枷になっていたものからの解放感もあった。
 けれど代わりに失ったものもある。
 ――これから私、どうなるのかな……
 昨日初めて隼弥に抱かれ、まだ股の間には異物が挟まっている感覚があるし、脚の付け根が痛かった。
 しかし掻き集めた矜持で平気な振りをしている。
 彼は『婚姻届なら僕が一人で出してきますから、菜桜子さんは家で横になっていてください』と言ってくれたのだが、固辞した形だ。
 せめて事の成り行きを見守るくらいはしなくてはならないという、義務感に駆られていた。
 ――隼弥さんに何か思惑があるように、私だって彼を利用している。愛のない婚姻を受け入れたのは私自身。だったら自分で見届けなくちゃ。
 菜桜子は被害者ではないのだ。
 多少強引に身体を開かれた気もしたが、それはこちらの覚悟が足りなかったのも否めない。夫婦になれば、夜の生活も含まれるのが当然だったのだ。
 単純に見通しが甘かった。もしくは――未だ箱入り娘の癖が消えないせいかもしれない。継母たちの悪意には晒されても、赤の他人から攻撃をされたことはないので、菜桜子はどうしたってどこか甘いのだ。
 ――嵯峨根さんに嫁がされていたら、こんなものじゃ済まなかったはずだわ。
 身体は辛いが、一応隼弥は菜桜子を慮ってくれた。婚姻届の提出に付き合わなくてもいいと言ってくれた際には、彼の黒い双眸に仄かな気遣いが揺らいでいた――と思う。
 希望的観測に過ぎないのかもしれないけれど。
「どこかでお茶でも飲みますか」
「え、ぁ、はい」
 昨日の今日で疲れを引き摺っているので、そろそろ休憩したいと思っていた。そんな思考を読まれたみたいだ。『座りたい』と言い出せなかった菜桜子は、一も二もなく隼弥の提案に頷いた。
「では、一本大通りから外れますが、静かな店を知っているので行きましょう」
「はい……」
 スマートにエスコートされ、自分の背中に添えられた手に、不本意ながら菜桜子はドキドキしてしまった。
 彼といると、常に落ち着かない。苦手意識からきているのか、それとも一線を越えたことからくるのかは不明だ。
 それでも考えてみれば、これが初めてのデートと言えると気づき、より一層菜桜子は冷静さを保てなくなった。
 ――出会ってから何年も経つけれど、二人きりで出かけたことなんてないし、結婚を申し込まれてからあっという間だったから……一緒に連れ立って外出するのも初めてだわ。
 昨夜は夕食も食べず眠ってしまった。
 意識が飛んで、菜桜子は朝まで目覚めなかったのだ。朝も食欲がなく、断っていた。
 故に隼弥とは食事も共にしたことがない。これでは同居人とも呼べないのでは。
 昨日が同棲初日であったにも拘らず、肌を重ねた以外は何もしていなかった。部屋の間取りさえ全てを把握していないのだから、自分に呆れてしまう。
 ――こんな状態で、私たちやっていけるのかな……
 不安は尽きない。むしろどんどん大きくなる一方。隙あらば逃げたがっているのが本音だった。知人よりももっと遠い。偽らざる心の距離感は、他人と大差なかった。
 ――私、そんな相手と昨日寝てしまったんだ……
「ここです」
 案内されたのは、今時珍しい『喫茶店』だった。
 レトロな店内は飴色のテーブルが並んでいる。椅子は革張りのソファーで、年季が感じられた。
 おそらく常連以外はあまり足を運ばないのではないか。静かな店内には珈琲のいい香りが漂っていた。
「軽食も美味しいですよ。……食べられそうですか?」
「はい。隼弥さんは……?」
 空腹感が戻ってきていた菜桜子は写真付きのメニューに目を通す。定番の卵サンドやナポリタンなどが美味しそうだ。とは言え、自分一人が食べるのは憚られ、彼の様子を窺った。
「ええ。昼には早いですが、僕も食べます」
「じゃあ、私はオムライスにします。それとカフェオレで」
「僕はポークソテーとピザトースト、飲み物は珈琲にします」
 意外にガッツリとした注文に、菜桜子は驚いた。何となく隼弥は少食なのかと思っていし、何なら食事に対してあまり拘りがないと勝手な印象を抱いていたのだ。
「男性は皆さんそんなに食べられるのですか?」
「人によると思いますが、僕は結構大食いかもしれません。それに朝を抜いているので」
「えっ」
 てっきり彼は一人で食べたと思い込んでいた。だが菜桜子に合わせ、抜いていたらしい。
「そんな……私のせいで?」
「ああ、気にしないでください。たまたまです。僕も朝は食欲がなかっただけですよ」
 おそらく優しい嘘だ。無表情で冷徹な眼差しのままだが、さりげなく逸らされた視線からそう感じた。
「すみません……あの、今度から気を付けます」
「気にしなくていいと言っているでしょう。無理をして食べて、体調を崩される方が困ります」
 ピシャリと言い返されて、菜桜子はそれ以上何も言えなくなった。
 下手に喋れば、余計に隼弥を苛立たせてしまいそうだ。地雷を踏み抜きたくなくて、口を噤むしかない。
 菜桜子が押し黙れば、会話は完全に途切れた。
 ――気まずい……
 沈黙が重苦しい。店内の静けさも相まって、衣擦れの音すら煩く感じられる。その分二人にのしかかる静寂の重みが、増している心地がした。
 注文した料理が届いても、無言のまま口に運ぶ。美味しいはずの料理が味気なく思え、作ってくれた人に申し訳ない。
 だからなのか、隼弥の携帯電話が着信を告げた時、菜桜子は助け船を出された気分になった。
「――失礼。会社からです。少し外で話してきますね」
「は、はい。ごゆっくりどうぞ」
 発信者を確認した彼が足早に店外へ出てゆく。菜桜子は一人になり、深く息を吐き出した。
 ――疲れた……
 思った以上に気が張っていたようで、全身がソファーに沈み込んでしまいそうだ。
 ぐったりと身を預けると、知らず連続で溜め息が漏れる。
 向かいの席から鋭い視線を注いでくる存在がなくなったことで、オムライスの味がようやく口内に広がった。
 ――新生活が始まったばかりなのに、自分の選択が正しかったのか、自信がなくなってくる。
 冷たい水で喉を潤し、後ろ向きな自身を叱咤した。弱気になっても、後戻りはできない。
 やり直しはきかないと己に言い聞かせ、菜桜子は自ら退路を断った。その時。
「へぇ、こんなところにいい感じの店があるなんて知らなかった」
「おお、昭和って感じ」
 若い二人の男性が入店してきた。どうやら初めて来店したのか、レトロな雰囲気の喫茶店が相当物珍しいらしい。この場にそぐわないはしゃいだ大声を上げていた。
「すっげ、シャンデリアじゃん」
「あのレジ、現役? 骨董品じゃね? 電話はインテリアかなぁ。売ればいい値段になりそうだな」
 派手な格好や染めた髪は、菜桜子が苦手なタイプだった。単純に怖い。住む世界が違いそうとでも言うのか。分かり合えない気がするのだ。
 ――ああ、でも『あの人』は違ったな……
 急に騒がしくなった店の雰囲気に驚いていると、間が悪く男たちと目が合ってしまった。
「お姉さん一人? 同席していいよね?」
 菜桜子の返事を聞く気もない断定的な言い方に戸惑う。しかし決して広くはない店の席は、全て埋まっていた。
「お客様、ただいま満席なので、申し訳ありませんが……」
「ああ、大丈夫。俺たちこのお姉さんと同席するから。ね、いいでしょ?」
 すぐに店員が飛んできてくれたが、彼らは意に介さず菜桜子の向かいと隣に勝手に座った。ソファー席なので、横に腰かけられるとあまりにも距離が近い。
 しかも男はぐっとこちらに寄ってきた。
「せっかく来たんだしさ、少しの間同席するくらい構わないよね? 俺たち腹減っちゃってさ。この辺、表通りはどこもいっぱいで入れなかったんだよ」
 そう言われてしまうと『嫌だ』とは言い難かった。しかも仰々しく腹を摩られ空腹アピールをされると、可哀相になってくる。
 菜桜子は彼らに押し切られる形で、渋々同席に頷いた。
 ――隼弥さんはもう食べ終わっているし、私もあと少しで完食する。それならいいかな。
 少し早めに席を譲っただけだ。そう思えば、納得できた。
「優しいお姉さんで助かったわ。お、ビールあるじゃん。よろしく」
「あ、俺も」
 店員に手を振った男が、乱暴な手つきでメニューを投げる。菜桜子が同席を許可したことで、店員は彼らを断れなくなったのか、困惑気味ながらもカウンターの中へ戻っていった。
 ――え? お腹が空いていたのではないの?
 アルコールだけをオーダーした彼らが不思議で、菜桜子は目を瞬かせた。何か嫌な感じがする。彼らの視線が嵯峨根のものと重なって、ざわざわとした。
「お姉さん、いくつ? 俺たちは二十一なんだけど」
「あ……二十四歳です……」
「へぇ、清楚系美人だね。モテるでしょ。何か庇護欲そそられるもん」
 テーブルを挟んで向かいの男が身を乗り出してきて、反射的に身体を引く。しかし通路側にもう一人が腰かけているせいで、逃げることも叶わない。すっかり狼狽し、菜桜子の眉尻が下がった。
「あの……もうすぐ連れが戻ってくるので……」
「へぇ。友達? だったら丁度二対二じゃん。このままどっか行かない?」
 行きませんと即答できる性格であったなら、菜桜子はもっと東城の家で楽に生きられた。
 強く言い返し相手の気分を害するのが怖くて、声が上手く出せなくなる。
 菜桜子が固まっている間に、隣に座る男が更に身体を接近させてきた。
「本当、お姉さん可愛いわ。名前は?」
「ぁ、もう私は行きますね」
「まだ食べ終わってないじゃん。ゆっくりしていきなよ」
 不穏な空気に気づいたらしく、店内にいた他の客らもこちらを窺っていた。しかし店員を含め、老齢の者が多い。皆、口を挟むタイミングを測りかねていた。
 ――どうしよう……お店の方も困っている……
 自力で何とかしなくては、迷惑がかかる。相席を断らなかった己の責任だと思い、菜桜子は汗ばむ拳を握りしめ、全力で勇気を振り絞ろうとした。
「あの……っ」
「そうそう。せっかくだからこの後も付き合ってくれるでしょ?」
「――僕の妻に絡まないでくれないか」
 調子に乗る若い男性を遮るように、冷ややかな声が頭上から投げかけられた。
 驚いて菜桜子が顔を上げると、いつ戻ってきたのか隼弥が冷然とした面持ちで立っている。その顔は美術品のように美しい。だがいつも以上に目つきが鋭かった。
「邪魔だ」
「な……っ」
 彼の醸し出す空気が険しく、冷気が漂うのが感じられる。それは軽薄な男たちにも分かったのか、隼弥を睨み付けた直後に顔色を変えた。
 隼弥が並外れた美丈夫だったことも理由の一つに違いない。今日の彼はスーツではなかったものの、身につけた服や時計、それに靴も一級品だ。何より眼鏡の奥の冷酷な瞳に怖気づいたのが分かった。
 一目で、男としての格の違いを悟ったらしい。
 隼弥が現れたことで店内の空気も一変した。それまでは尊大な男らの態度に気圧されていた客が、批判的な眼差しを向け始める。ヒソヒソと言葉を交わす者もいる。それで彼らはすっかり居心地が悪くなったようだ。
「お客様、当店は静寂も売りにしております。もし大きな声でお話になりたいのでしたら、他店の方がご希望に適うと思います」
 店員が控えめながらはっきりと告げる。自分たちの不利を悟った男たちは、虚勢を張りつつも立ち上がった。
「な、何だよ、気分悪いな。もうこんな店、こねぇよ」
「だいたい男連れなら先に言えよな」
 金髪の男がわざと店員を突き飛ばして扉に向かったのとは裏腹に、ちゃっかり隼弥を避け立ち去る辺りが小者だった。
 ドアベルの音が軽やかに響き、小さなトラブルが去ったことを知らせる。
 それでも菜桜子が受けた恐怖は相当なものだったのか、身体が上手く動かない。しばし呆然としていると、隼弥に腕を取られ強引に立たされた。
「――出ましょう」
「え。でもまだ――」
「お騒がせしてすみません、会計をお願いします」
 オムライスが残っているという菜桜子の言葉は遮られ、彼に引き摺られるようにして店外に連れ出された。
 歩き出した隼弥の顔は冷ややかだ。明らかに機嫌を損ねている。しかしその理由が菜桜子にはよく分からなかった。
「あの……隼弥さん、何か怒ってらっしゃいますか?」
「何故、そう思うんです?」
 否定されないのが答えだ。
 彼の歩幅に合わせきれず、菜桜子がよろめく。するとやっと隼弥が立ち止まってくれた。
「だ、だって……いつもはここまで強引では……」
「貴女が人と言い争うのが苦手で、強く出られると委縮するのは知っています。ですがあんな輩にまで丁寧に接するのはどういうつもりですか? 期待を持たせる真似をして楽しいですか?」
 あんまりな言い草に絶句した。それではまるで菜桜子が彼らに思わせ振りな態度をとったのが悪いみたいではないか。そんなつもりは毛頭ないのに、責められたようでショックだった。
「私、期待させてなんていません」
「べったりと隣に座らせて?」
「あれは勝手に……っ」
「そんなに受け身だから、付け込まれるのですよ」
 冷淡に言い切られ、悔しさが込み上げた。
 菜桜子が内気で引っ込み思案なのは、その通りだ。如何にも強そうな相手が苦手で、腰が引けてしまうのも。しかしそれ自体は悪いことではないと思う。
 揉め事に発展するくらいなら、少々自分が我慢した方がマシと耐えてしまう気質を詰られ、自分の全部を否定された気分になった。
「そんな言い方をしなくても……っ」
「だいたい貴女は自分が人妻だという自覚が足りないのではありませんか? 先ほども『夫と一緒に来ている』と告げれば早々に解決したと思いますよ。どうして僕に助けを求めようとは思わないんですか?」
 言われて初めて、菜桜子はそのことに思い至った。
 確かに自分は今日、隼弥と籍を入れ彼の伴侶になった。けれど実感はまだ乏しい。だからなのか、隼弥に助けてもらおうとは思いつきもしなかった。正確には、彼を思い浮かべることもなかったのだ。
 ――私、一人で何とかしなくちゃって……そう思っていた。
 愕然とした菜桜子の表情に感じるところがあったのか、彼の表情が険を帯びる。強い力で腕を握り直され、小さな呻きが菜桜子の唇からこぼれた。
「……ぃっ」
「きちんと教え込まなくてはいけませんね。貴女が誰のものなのかを」
 ギラリと光る双眸は、普段の温度がない瞳とはまるで違う色を宿している。
 再び手を引っ張られ、菜桜子はよろめきながら歩き出した。


 左手薬指の付け根に歯を立てられ、菜桜子は悲鳴を上げた。
 強い痛みを感じるほどではなかったけれど、喰い千切られるかと一瞬怯んだのだ。それほど、隼弥の発する怒気は凄まじかった。
「や……っ」
「ここに嵌める指輪を、早急に手配しなくてはなりませんね。昨日と今日、休暇申請をしてしまったので、しばらくは休みが取れそうもありません。でも、できる限り早く買いに行きましょう」
 いきなり休憩システムのあるホテルに連れ込まれ、菜桜子はベッドへ押し倒された。
 もがくうちにどんどん服が剥ぎ取られ、今や半裸の状態だ。齧られた薬指は、ジンジンとした熱を持ち、見れば、赤い噛み痕が刻まれていた。
 ――怖い。
 彼が立腹している理由がいまいち理解できない。
 軽々しく男たちの同席を許したことだと想像はできる。だが菜桜子にしてみればそこまで怒るのは不可解だった。実害と言えるほどのこともなかったのだ。
 ――隼弥さんが来てくれなかったら、もっと面倒なことになったとしても――こんなに彼が苛立つなんて……
 意味が分からない。だからこそ、戸惑う。
 こんな状態で謝ろうものなら、また彼の機嫌が下降することは察せられた。謝罪の道が閉ざされた菜桜子にできるのは、押し黙ることだけだ。
 しかしそれも正解ではなかったらしい。
「菜桜子さんは都合が悪くなると口を噤む。沈黙は金と言いますが、時と場合によりませんか?」
 菜桜子の上で膝立ちになった隼弥が邪悪さを滲ませる。瞳が笑っていない笑顔は、睨まれるよりもこちらを威圧してきた。
「だって……それなら、どうすれば」
「僕の機嫌を取ろうとしなくて、結構です。もうそんなに子どもではありません。僕は欲しいものは自力でどんな手を使っても手に入れます。その過程で、手段は選ばない。菜桜子さんも同じようにしてくださっていいですよ」
 そんなことを言われても、『はい、そうですか』と頷けるわけがなかった。
 そもそも菜桜子の質問に答えているようで答えていない。上手くはぐらかされて、余計に途方に暮れる以外できなかった。
「……貴女にとって、僕もあの男たちも大差がないということは、よく分かりました」
「……?」
「ですが決定的に違う点があります。それを菜桜子さんには覚えてもらいたい」
 視線を遮る眼鏡が外される。それはこれから始まる行為の合図。剥き出しの眼差しは鋭く、重力を伴う。
 サイドテーブルに眼鏡が置かれるコトリという小さな音が、いやに淫靡に響いた。
「貴女は僕の妻です。それを決して忘れないように」
「あ……っ」
 まだ昨日の名残で身体が辛く、思わず昨晩の痛みを思い出し、菜桜子が身を強張らせた。口にするのが憚られる場所が、ジンジンとした熱を孕んでいる。傷になっているのか、意識すると余計に違和感があった。
「怖がられると、乱暴にしたくなります」
 脅し文句とは裏腹に、隼弥の手つきはひどく優しい。菜桜子の頬を摩り、鎖骨に滑る。産毛を撫でるのに似た愛撫は、もどかしいくらい微かなものだった。
 胸や性器には触れることなく、肌を移動してゆく。脇腹や臍、耳に首など。
 敏感な性感帯とは言い難い。けれどねっとりと刺激され続ければ、次第に全身が火照ってくる。
 段々と高められた菜桜子の体内には、甘苦しい熱源が生まれ始めた。
「ん……っ」
 たった一度肌を重ねただけで、色々なことを暴かれた気分だ。弱いところもあまり触れてほしくない場所も。力加減や速度まで。
 愉悦が掘り起こされて、末端まで広がってゆく。ぬるま湯めいた快感は、降り積もっても弾けるまでには至らない。
 菜桜子の息が乱れ出した頃には、欲求不満が膨らんでいた。
「ふ、ぁ」
「菜桜子さんの裸体を目にできるのも、触れられるのも、味わえるのも、夫である僕だけです。正式に夫婦になった以上、不倫が許されるとは思わないでください」
「さっきの人たちは、そんなんじゃ……っ」
 よもや不貞を疑われていたのかと、驚いた。勿論、そんな気は毛頭ない。完全な濡れ衣だ。菜桜子が積極的に初対面の相手と話す性格でないことくらい、彼は分かっているだろうに。
 しかし菜桜子の苦情は、隼弥の淀んだ瞳の圧で喉奥へ引っ込んでしまった。
 もともと黒曜石のように深い黒色が、今はもっと漆黒に染まって見える。
 一筋の光も通さない。深海より尚暗い本物の暗黒。
 目にしたことなどないはずのそれが、彼の双眸に浮かんでいた。
「……もし貴女が僕を裏切れば、相手の男は無事では済みませんよ。菜桜子さん自身も、二度と自由に外出なんてできなくなるかもしれませんね」
 やんわりとした圧が菜桜子の首に加えられた。息が詰まるほどではない。それでも、呼吸はやや乱れた。
 軽い苦痛。そして凍った視線。
 彼が本気で力を加えたらどうなるか――想像するまでもない。
 普通なら『冗談はやめてください』で笑って済ませられる。しかし隼弥の眼差しの昏さは、菜桜子に軽口を叩くのを躊躇わせた。もっと言えば、声も発せない。
 委縮し、怯え、掠れた音が漏れただけ。痙攣じみた震えは、菜桜子の喉に触れている彼にも伝わったに違いない。
「振り払えばいいのに」
 せせら笑った男が手を離してくれたことで、菜桜子はようやく呼吸を再開できた。
 背中はじっとりと冷たい汗が滲んでいる。
 隼弥の醸し出す空気に呑まれ――固まっていた。動けない身体はされるがまま。下りてくる唇を無防備に受け止め、舌の蹂躙を受け入れた。
「そんなだから、僕みたいなろくでなしに捕まってしまうんですよ。良くも悪くも菜桜子さんは箱入りでお人好しだ」
 合わせた唇は熱いのに、声音は冷たい。
 困惑している間に、菜桜子の視界は突然遮られた。何かの布だ。肌に触れる面は柔らかく、耳にゴム紐がかけられる感覚があった。
「や……っ?」
「ただのアイマスクですよ。最近のこういうホテルには色々なものが置いてありますね」
 光は透過してくる。痛みや不快感はなく、菜桜子を傷つけるとは思えなかった。
 だが視覚を封じられるのは、単純に怖い。その上両手を纏められたかと思えば、紐状のもので一括りにされた。
「えッ……」
 手首が戒められたのは背中側。菜桜子は中途半端に服を剥がれた状態で、無防備に転がされた。
 身動きも視界も制限され、動揺が大きくなる。焦って脚をばたつかせると、スカートが太腿まで捲れ上がってしまった。
「下着、見えていますよ。わざとですか?」
「み、見ないでください……っ」
 恥ずかしさから滲んだ涙は、アイマスクに吸い取られた。
 芋虫のように身を捩っても、腿を隠すことはできない。逆にもっと状況は悪化している気がした。際どいところにひやりとした空気の流れを感じる。それから視線も。
「いやらしいですね」
 そこはかとなく興奮を窺わせる隼弥の言葉の後、カシャッと覚えのある音が聞こえた。聞き間違いでないのなら、それは。
「しゃ、写真なんて撮らないでくださいっ」
 こんな痴態を残されたら最悪だ。仮に他の誰にも見せないと約束されても、万が一ということがある。もし第三者に見られたら、菜桜子が社会的に死にかねない。巡り巡って継母たちの目に留まれば、いったい何を言われるやら。
 そこまで想像し、菜桜子は髪を振り乱して身体を起こそうとした。
「お願いします、消して……!」
 その間にも何度か携帯電話のシャッター音が聞こえた。
 焦燥が高まり、菜桜子はスカートの裾を気にする余裕も失う。見えない中で男の手が膝に触れてきて、ビクッと全身を痙攣させた。
「消してほしいですか?」
「あ、当たり前じゃないですか……」
「では、僕の気が変わるように菜桜子さんが頑張ってください」
「え」
 言うなり下着を引き下ろされ、大きく開脚させられた。しかも信じたくないことに、シャッター音が再び鳴る。絶望的な機械音が着実に菜桜子を追い詰めていった。
「駄目……っ」
「とても綺麗ですよ。いやらしくて」
 懸命に脚を閉じようとしても、隼弥の手に押さえられては動けない。仰向けに転がされ、背中で手首を縛られているせいで、胸を突き出す体勢を取らされた。
 ブラは上にずらされて、下着の用をなしていない。完全に脱がされるよりも卑猥な格好を強いられている。
 あまりの居た堪れなさに、菜桜子の両目からボロボロと涙が溢れた。
「や……っ」
「貴女がちゃんと言う通りにできたら、今撮った写真は全部消してあげますよ」
「ほ、本当に?」
「はい。僕は、約束は守ります」
 耐え難い写真を消去してくれるなら、何でもする。そう心を決め、菜桜子は何度も顎を引いた。それが彼の術中にまんまと嵌っているとは考えもせず。
「何をすればいいのですか?」
「この身体で、僕を楽しませてください。貴女が誰のものになったのか、決して忘れなくなるまで」
 つ、と下腹をなぞられる。
 菜桜子の臍から下へ滑った男の指先は、繁みギリギリの位置で止まった。
 凶悪な官能が渦巻く。声を出せば、淫猥に掠れてしまいそう。菜桜子は数度深呼吸して、極力自分を落ち着かせようとした。
 それはつまり、冷静になろうと足掻かなくては、今にも理性を手放してしまいかねなかったせいだ。
「せ、せめて手を解いてください」
「駄目です。このままで。ああ、手が身体の下敷きになって痛いですか? それならこうしましょう」
「あ……っ」
 横向きにされ、手首にかかる重みはなくなった。脚を揃えられ、その点にもホッとする。だが安堵できたのは、一瞬だった。
「……っ?」
 片脚を持ち上げられて、秘裂に空気の流れを感じたからだ。
「何を……っ」
「うつ伏せも悪くありませんが、腕をつかないと菜桜子さんが大変ですよね。だからそれは次回にしましょう」
 またこんな特殊な行為を求められるのか。
 経験値のない菜桜子には、手を縛られ目隠しをされるだけでも充分衝撃だった。これ以上自身の常識から外れることをされたら、とても処理しきれない。
 どうにか逃れたくて身体を揺すれば、背後にいる隼弥の肉杭が腰へ押し当てられた。
「……っ」
 服越しだろうに、生々しい硬さと大きさは、はっきり感じ取れた。もう準備は整っていると言わんばかり。
 昨日散々与えられた愉悦の味を思い出し、菜桜子の内側が淫らに濡れた。
 ――私ったら、たった一晩抱かれただけでどこまで浅ましいの……っ
「菜桜子さん、貴女のせいで苦しいです。どうにかしてくれますよね? 僕らは夫婦ですから」
「手を縛られていたら、何もできません……っ」
「菜桜子さんに奉仕してもらおうなんて思っていませんよ。貴女は存分に感じてくれればいい」
「あ……っ」
 蜜口を彼の指が押し開く。すぐさま肉芽を捉えられ、転がされた。
 そこがもう潤っていたと分かったのは、欠片も痛みがなかったせいだ。ぬるりと抵抗なく滑り、隼弥の指に悦んでいる。
 前日まで慎ましやかに閉じていた秘唇は、難なく二本の指を呑み込んでいた。
「ぅあ、あ……っ」
「とても熱く、熟れている」
 襞を確かめるような動きに翻弄され、愛蜜が掻き出されて菜桜子の内腿を汚す。片脚はふしだらに開かされたまま。
 じゅぷと淫音が鼓膜を揺らし、菜桜子の感覚を狂わせていった。
「はぁ、あ……ッ、や、駄目ぇ……っ、そんなにしちゃ……!」
 確実に昨日よりも荒っぽい動きが、気持ちいいのは何故なのか。早くも慣れ始めたらしい菜桜子の身体は、素直に快楽を甘受していた。
 淫窟を掻き回され、花芽を扱かれ、どんどん喘ぎが大きくなってゆく。
 もしかしたら『見えない』『動けない』ことで感覚が鋭敏になっているのかもしれなかった。もしくは背徳感が絶妙なスパイスになっているのか。
 ――私はおかしな趣味なんてないのに……っ
 被虐を楽しいと感じたことなんてない。虐げられることに慣れてはいても、選べるならいつも避けたかった。
 だが隼弥から与えられる責め苦はどうにも甘くて抗えない。まさに禁断の果実だ。
 一度口にすれば中毒になる。更に『もっと』と欲さずにはいられなかった。
「ァ……ッ」
 感じる場所を的確に弄られ、肉壺が戦慄く。無意識に腰をくねらせると、菜桜子の尻に猛った楔が擦り付けられた。それとも自分から押し付けているのかは、もはや判然としない。
 妙な高揚感の中、菜桜子は呆気なく達してしまった。
「んんんッ」
「すっかりいやらしくなりましたね」
 耳に注がれる声は、いつも冷静な彼らしからぬものだった。息は火傷しかねないほど熱い。耳朶に降りかかる呼気に、菜桜子は再度絶頂感を味わった。
「まさか今の言葉で達してしまいましたか?」
 蜜路を支配する指を締め付けてしまったせいで、隼弥にはお見通しだったらしい。みっともない淫乱さを暴かれた気がし、菜桜子の顔はこの上なく赤く染まった。
 よもや甚振る声に快感を覚えてしまったなんて、認めたくない。自分の簡単さに呆れと恥辱が込み上げ、菜桜子は必死に言い訳を探した。
「違……っ」
「こんなにびしょ濡れなのに? ほら、シーツまで湿っています」
「……ゃ、あ……ッ」
 一層体温が上がる。もう頭から蒸気が出ていても不思議はなかった。
 ヒクつく蜜口に、滑りがはっきりと感じられる。下生えは粘液に塗れ、肌に張り付いていた。
「ああ、このままでは冷たいですよね。菜桜子さんが風邪を引いたら大変です」
「きゃっ」
 いきなり抱え起こされて、菜桜子はアイマスクの下で瞳をさまよわせた。どうやらベッドの上で座る体勢に変えられたようだ。彼は前にいるらしく、無意識に気配を探ってしまった。
「湿った場所に寝転がっていたら、冷えてしまいますよね」
 問題はもっと他にあると思ったが、次に何をされるのかが不安で、質問が浮かんでこない。
 ただ隼弥の声を追うように、そちらへ顔を向けた。
「……ふ。抵抗できない菜桜子さんは燐れで、とても虐めたくなる」
「な、ぁ……ッ?」
 頬に硬いものが食い込んで吃驚した。噛まれたと理解するまでに数秒かかる。
 その後も肩や耳、乳房など次々に同じ痛みが襲ってきた。
 あちこち歯形だらけになっているに違いない。それも服を着ても見えてしまうところも多い。やめさせなくてはと思っても、閉ざされた視界と戒められた手が邪魔をした。
「やだ……っ」
「こんな有様じゃ、しばらく人前に出られそうもありませんね」
 噛まれたばかりのひりつく肌をなぞられ、どうしてかゾクゾクする。
 全て、支配されている心地がした。
 今の菜桜子はあまりにも無防備。死に物狂いで暴れれば逃げられるかもしれないが、下手に動くとベッドから転がり落ちかねない。
 両手で身体を支えられないなら、頭を打つ可能性もあった。
 仮に上手く彼から距離を取れたとしても、この部屋から出られるのか。後ろ手でドアを開けるのは難しいし、こういうホテルは精算を済ませないと鍵が開かないところもあると聞く。
 何より、自分は今半裸だ。
 退路は閉ざされている。改めて現状を突き付けられ、心が挫かれた。逆らう気持ちが根こそぎ失われ、諦念に食い荒らされる。その奥に、菜桜子自身認識していない被虐の官能が燻っていた。
 ――私はここから……いいえ、この人から逃げられない。
 ゾクゾクと身のうちが震える。
 身動きできなくなった菜桜子の唇へ、隼弥の唇が重ねられた。

 

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