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諦めて僕のものになりなさい 慇懃無礼な秘書の愛は甘い猛毒 1

第一話

 傷を負った獣のようだなと思った。
 痛いと喚くのでも、のたうち回るのでもない。ただじっと蹲り、こちらが近づけば『それ以上寄るな』と敵意を向けてくる。
 ひたすら周囲のあらゆるものを警戒し拒絶していた。
 菜桜子(なおこ)としても、そのまま関わらず過ごすことはできたし、見て見ぬ振りをしても誰にも責められることはなかっただろう。
 彼を数日家に置くと決めた父とて、娘が彼の世話を焼くのを期待していたわけではなかった。
 離れで寝起きする菜桜子は、基本的に母屋へ立ち入らない。呼び出された時にだけ、そちらへ『伺う』。だから専ら菜桜子に命令を下す継母がいなければ、母屋へ足を踏み入れる理由がなかった。
 広い敷地の中で中庭を挟んで立つ母屋と離れは、それなりに距離がある。意識的に関わろうとしなければ、視界に入れずに生活するのも不可能ではないのだ。
 そしてその方が断然楽であるならば、敢えて関わるはずもなく。
 子どもにとって、一年で最も長い楽しみである夏休み。
 毎年決まって継母と兄姉は海外旅行へ行く。勿論今年も。父は仕事が忙しいので同行しないけれど、十四歳の菜桜子も置き去りだった。
 しかしそれは今回が初めてのことではない。五歳でこの家に引き取られてから、ずっとだ。
 愛人が生んだ娘など、本妻である継母にとっては忌々しいだけの存在だろう。我が子と同列に扱えるはずもない。その気持ちは充分分かる。それに菜桜子自身、行きたくもない旅行に連れ出された挙句、あれこれ面倒を押し付けられるのはご免だった。
 おそらく体のいいお世話係にさせられる。荷物持ちや買い出し、果てはストレス解消用の玩具にも。
 そんな憂鬱な目に遭うくらいなら、一人取り残された方がマシである。しかも期間限定ながら、『いつ罵声をぶつけられるか』『理不尽に当たり散らされないか』『大事なものを壊されないか』など気にしなくていい。
 静まり返った敷地内で孤独に過ごすのは寂しいが、心や身体を傷つけられることを思えば、束の間の平穏は天国同然だ。
 それにどんなに多忙な父とはいえ、たまには菜桜子と食事をする時間程度は作ってくれた。
 つまり夏休みは菜桜子にとって、普段継母の目を気にして甘えられない父を独り占めできる、貴重な楽しみでもあったのだ。
 ――今年の夏は、お父様とゆっくりお話できたらいいと思っていたんだけどな……
 そう菜桜子が心待ちにしていたのが、今年の夏休みだった。
 想定外なことが起きたのは、七月の終わり。三日振りに帰宅した父が離れを訪れ、その傍らには、金髪が眩しいどこかやさぐれた雰囲気の若い男が立っていた。
「今日から少しの間、彼を滞在させる。母屋にある客間を使わせるから菜桜子とは顔を合わせる機会は少ないかもしれないが……一応お前にも伝えておかなくてはならないと思ってな」
 会社でもワンマンなところがある父は、こんな風に自らの決定事項をいきなり告げてくることも少なくなかった。
 だからこそ、菜桜子の実母が亡くなった際、継母の許しを得る前に菜桜子を連れ帰り夫婦で大喧嘩になったのだ。
 良く言えば、豪快。悪く言えば身勝手。愛人という立場に身をやつした母も、父の強引なところに振り回されたのかもしれない。
 しかし菜桜子はそんな父を憎みきることができなかった。
 名乗りもせず憮然としている若い男は、菜桜子の方を見もしない。耳にはいくつものピアスが並び、格好はだらしない。目つきは鋭く、荒んだ空気が滲んでいた。
 正直に言えば、もし街中で擦れ違ったら避けて通りたい部類の人間だ。
 派手で粗雑な人が苦手な菜桜子の性格上、今後も関わることはないに決まっていた。
 年齢は二十前後だろうか。腹違いの兄よりは上だと思う。けれど長ったらしい前髪によって男の顔がはっきり見えないので、何とも言えなかった。
「そうですか……よろしくお願いします」
 ぺこりと頭を下げる。だが彼は顔を背けたまま。かなり態度が悪く、威圧感も尋常ではない。困り果てた菜桜子は、視線で父に助けを求めた。
「えっと……部屋に上がりますか?」
「いや、こいつがこっちに来ることはないが、もし中庭などで会っても菜桜子を驚かせないよう紹介しただけだ。――……あいつがいない間くらい、お前も堂々と母屋で暮らしていいんだぞ? 菜桜子の部屋はちゃんと用意してあるからな」
 本当は後半の内容を伝えるのが、父の目的だったらしい。
 毎年そう言ってくれるのは、ありがたい。けれど菜桜子は寂しく微笑んだ。
「私のことは気にしないでください。お義母様が嫌がることはしたくありません。離れでの生活に満足していますし、不自由はありませんから」
 旅から戻った継母に粗探しされる方が、よほど気欝だった。こうしてたまに父から優しい言葉をかけてもらえれば満足なのだ。
「そうか……明日の朝食は一緒に食べよう」
「はい! 是非」
 胸が弾む約束に笑みがこぼれる。菜桜子が笑うと、父はホッとしたように見えた。
「ああ、彼も一緒で構わないか?」
 本音では父と二人で食卓に着きたかったけれど、そんな我が儘で困らせたくない。菜桜子は笑みを深め、『勿論』と答えようとした。だが。
「――俺は、朝は適当に一人でやる。どうせ起きられない。放っておいてくれ」
 ぶっきらぼうで抑揚の乏しい声。
 それでも初めて耳にする男の声音は、滑らかで美声だった。
「お前な、しばらく共に暮らす相手に気遣いはないのか」
「……面倒くせぇ。もう、いいだろう」
 父の苦言には耳を貸さず、彼はさっさと背中を向けた。制止する声を無視し、離れの玄関を出ていく。
 その後ろ姿に、父は盛大な溜め息を吐いた。
「……全く……菜桜子、済まないな」
「いいえ……ですがお父様とあの方は、どういうご関係なのですか?」
 年齢も見た目も、およそ接点が見当たらない。確実に友人でも仕事仲間でもないはずだった。
 さりとて誰かに頼まれて預かっているとも思えない。どうにも不思議で、菜桜子は瞬いた。
「偶然、知り合ったんだ。放っておけなかったし、磨けば光る原石だと確信している。ここらで狼を優秀な猟犬に育てるのも悪くないと思ってな。一種の社会貢献だよ」
 父の言っていることはよく分からなかったが、菜桜子は楽しそうな父の様子を見ているだけで嬉しかった。
 ここ最近継母だけでなく姉の香世子(かよこ)も不機嫌なことが多く、心労を抱えているのは知っている。その上長男である淳史(あつし)が菜桜子に向ける卑猥な言葉が年々悪化していた。今はまだ質の悪い『冗談』の範疇だが、父親として心配は尽きないのだろう。
 こちらに向けられる家族の害意から、必死に菜桜子を庇ってくれていた。
 元を正せば、妻以外の女性に手を出し、子どもまで儲けた父が悪い。それでも菜桜子には紛れもなくただ一人の父親だ。
 父は菜桜子を可能な限り守ってくれている。故に親愛の情は消せなかった。
 そんな父が連れてきた、正体不明の青年。
 ぱっと見は、粗野で礼儀知らずな刺々しい男でしかなかった。だがそれだけなら、父が目をかけようとするはずもない。
 ――私がお父様と二人きりで食事したいと願っているのを見抜いて、気を遣ってくれたと思うのは、考え過ぎ……?
 つい自分に都合よく解釈してしまうところが、菜桜子の甘さなのかもしれない。
 それでも何となく、誇り高い野生動物に出会った気分になった。
 一定の距離以上は近寄らせてもらえない。不用意に手を伸ばせば噛みつかれてしまいそうだ。それでいて、孤高な雰囲気が羨ましくもあった。
 毎年恒例の独りぼっちの夏休み。
 けれどこの年は――少しだけ違うものになる予感がしていた。


「菜桜子、喪が明け次第、貴女嵯峨根(さがね)さんと結婚なさい」
 父の棺の前にぼんやり立っていた菜桜子は、何を言われたのか一瞬理解ができなかった。
 振り返り、眼前に立つ継母の顔をただ見返す。蔑みも露わな彼女の表情は、菜桜子に話しかけること自体不本意だと言わんばかりだった。
 世間体を殊の外気にかける継母は、一応他人の目があるところでは菜桜子を邪険には扱わない。しかしそれは優しくしてくれるという意味では決してなかった。
 極力無視。けれど罵詈雑言をぶつけられたり、ものを投げつけられたり、平手打ちされることと比べれば、いないものとして振る舞われる方が断然マシだ。
 つい先ほどまで存在感を消すことで、菜桜子はある意味静かに父の死を悼むことを許されていた。
 けれど随分久し振りに声をかけられたと思えば、あまりにも想定外の内容に思考が麻痺する。
 黙り込んだままの菜桜子に苛立ったのか、継母は忌々しげに鼻を鳴らした。
「もう先方と話はついているわ。あちらの暮らしに慣れるために、できるだけ早く引っ越しもなさい。貴女を住まわせてあげている離れは、近日中に取り壊します。それまでに荷物を纏めておくのね」
「え……」
 亡くなった実父は大きな会社を経営していたので、葬儀は盛大に執り行われた。
 大勢の人が入れ代わり立ち代わり焼香にやってきて、今やっと一息吐けたところだ。
 菜桜子は、父の愛人だった母が生んだ娘である。
 世間的に見れば、父は『いい人間』とは言えないのかもしれない。
 それでも――菜桜子にとっては可愛がってくれた唯一の『父親』である。僅か五歳の時に生母を病気で亡くし、独りぼっちになった菜桜子を引き取り、今まで何不自由なく育ててくれた。
 愛情を注いでもらったのは間違いない。
 実母を愛人として囲っていた点に思うところはあったとしても――菜桜子だって父を愛していた。だからこそ、今日くらいは静かに心から悲しみ、死者を悼んで過ごしたいと思っていたのに。
 おそらく最高額のプランで発注された祭壇の前で、菜桜子は瞳を揺らした。
「どういうことですか、お義母様」
「あの離れは老朽化がひどいから、早急に取り壊したかったのよ。そういうことだから、よろしくね」
「ま、待ってください。あの、結婚とは何の話ですか?」
 寝耳に水にもほどがある。
 菜桜子は先日二十四歳になったばかり。結婚などまだ考えていなければ、そういう相手もいなかった。
「いい縁談なのよ。何せ嵯峨根さんが是非にと望んでくださっているの。しかもきちんと本妻に迎えてくださるそうよ。妾じゃなくてね」
 棘だらけの言葉は、暗に菜桜子の母に対する皮肉だ。ニンマリと弧を描いた継母の唇は、加虐心を隠せていなかった。
「嵯峨根さんって……まさかお父様と同年代の……」
 父の会社の取引相手に、SAGA(さが)コーポレーションという輸入業者がある。そこの社長の名前は嵯峨根だったはず。年齢は六十を超えていると菜桜子は記憶していた。つまり自分とは四十前後離れている。それだけでなく。
「あの方は、奥様がいらっしゃるのでは……っ」
 女性関係が派手だと言われる嵯峨根は、四度の婚姻歴がある。毎回若い妻を娶り、数年で離婚する。しかもその際には必ずと言っていいほど、相手の女性が精神的な病を患い長期入院を強いられていた。
 噂では嵯峨根のモラハラや異常な性癖によって、疲弊してしまうらしい。従順で実家には頼れない若い娘ばかりを狙っているとも。
 ゾッと背筋が粟立つ。
 菜桜子は悪夢を見ている心地で、緩く頭を左右に振った。
 脳裏に浮かぶのは、葬儀に顔を見せた嵯峨根の姿。脂ぎった顔で意味深に菜桜子を舐め回すように見つめてきた。
 あれは、そういう意図があったからなのか。
 傍らには伴侶ではない、秘書を名乗る妖艶な女を連れていたのが、今更ながら気持ち悪い。思わずえずきそうになり、菜桜子は頭の中の残像を打ち消した。
「あら、よく知っているわね。でも心配いらないわ。二か月前に別れたそうだから。社長夫人という立場の重圧に耐えきれず、鬱病になってしまったそうよ。嵯峨根さんも大変よね。それで一刻も早く新しい妻が欲しいみたい」
 白々しい。嵯峨根にまつわる悪い噂を継母が全く知らぬはずがなかった。ならば全て承知の上で、菜桜子にこの縁談を持ちかけているのだ。
 真っ黒な継母の悪意に慄然とする。ひょっとしたら彼女は、夫が亡くなるこの瞬間を待っていたのかもしれない。憎き妾の娘を地獄へ叩き落とすために。
 ――お父様が亡くなったばかりの席で……いくら私が邪魔だとしても、ひどいわ……
 父の本妻である継母にしてみれば、愛人の娘など本当なら視界にも入れたくないのだろう。ただ世間体を慮って、身寄りのない菜桜子を引き取ることに同意したのだ。そのことには感謝もしている。
 だが十九年間、散々いびられた身としては、彼女を『母親』と心から敬愛することは難しかった。
 それに事は結婚だ。昔ならまだしも、このご時世ほとんど面識がない四十も歳上の男性に家の都合で嫁がされるなんて、あんまりではないか。
 ――私が邪魔だとおっしゃりたいのね。それなら家を出ていこう。本当は大学を卒業させてもらった時点で、私は自立するつもりだった。お父様が一人暮らしを許してくださらなかったから、ズルズルと離れに住まわせてもらっていただけで……
 今の給料でも切り詰めればやっていける。少ないながら貯蓄もある。今より確実に生活は苦しくなるが、その分心は自由になれると思うと、案外悪くない気もしてきた。
 ――そうだ。お父様が亡くなられた今、私がこの東城(とうじょう)家に留まる理由はない。
「お、お断りいたします。私はまだ婚姻するつもりは……」
「あら、それじゃどうやって生活していくつもり? 住む場所も仕事もないのに? ああ、もしかして自分も遺産相続にあやかれると思っているの? 流石は卑しい女の娘ね。残念だけど夫の財産の大半は既に私と息子たちの名義になっているの。貴女へ残されているのは、遺留分程度よ。私も鬼ではないから、それくらいは恵んであげるわ」
「……ぇ」
 流れるように吐き出された悪罵に、心が竦んだ。それに遺産云々を期待していたのでは、決してない。
 ――お父様が倒れて以降、こういう事態は予想していたわ。だから必死にお金を貯めてきた。
 数度呼吸して自身を落ち着かせ、菜桜子は自らの手を握りしめた。
「離れを取り壊す件については了解いたしました。ですが仕事がないとはどういうことですか?」
 菜桜子は現在、東城家が出資している中小企業で働いている。就職に際して父の口利きが全くなかったとは言えないものの、コネと言われないよう真面目に勤めていた。故に無職扱いされるのは心外だ。自立できる程度の稼ぎはあった。
「頭の悪い子ね。続けられると思っているの? 夫という後ろ盾がない貴女を雇うメリットがあちらにはないでしょう。うちからの出資を取りやめると仄めかせたら、すぐに退職の手続きを取ると言っていたわ」
「な……っ」
 つまり継母は会社に圧力をかけ、菜桜子のクビを切らせたということか。
 疎まれているのは知っていても、そこまでされるとは流石に考えておらず、愕然とした。
「夫の会社を継ぐのは淳史よ。あの子だって取引先に腹違いの妹がいたらやり難いでしょう。それでもただ追い出しては可哀相だから、新しい職場として嫁ぎ先を見つけてあげたのよ? 感謝してもらいたいわ」
 継母の言葉が菜桜子の耳を右から左に流れてゆく。この時になってようやく、彼女の背後に自分と半分血が繋がった兄と姉が立っていることに気が付いた。
 兄姉はニヤニヤと嗤いながら事の成り行きを見つめている。それは面白いショーを眺めているのに似た好奇の視線だった。
「よかったわねぇ、菜桜子。あんたみたいなのを貰ってくれるところがあるなんて。しかも嵯峨根さんなら、贅沢させてもらえるわよぉ。得意でしょ? 母親と同じで身体を使って男に擦り寄るの」
「俺が口をきいてやったから纏まった話なんだぞ。本当なら我が家に寄生する虫は身一つで放り出されても文句が言えないところだ」
 母親よりも辛辣に菜桜子を貶め、二人はゲラゲラと嗤った。とても父親の葬儀の場とは思えない。何一つ心痛を感じていないのか、とても楽しげだった。
「ああ、スカッとした!」
「これでようやく我が家から邪魔者がいなくなるわねぇ」
「本当によくもまぁ、長年平気な顔で居座れたものだわ。厚顔無恥ってこういうことを言うのかしら。とても真似できないわぁ」
 嘲笑。侮蔑。嫌悪。
 向けられた感情は、どれも鋭い刃となって菜桜子に容赦なく突き刺さった。
 心の奥から指先までが冷えてゆく。立っているのが精一杯。
 菜桜子は何も言い返せず、全身を戦慄かせた。
 継母たちにしてみれば、本当に菜桜子が目障りだったに決まっている。家庭を壊しかねない異分子だ。長年どれだけ憎々しく感じていたことか、菜桜子も重々分かっている。
 だからこそ、彼らに口答えなんてできるわけがなかった。
 唯一手を差し伸べてくれた父は、既にこの世にいないのだ。
 ――それでも嵯峨根さんと結婚なんて、絶対に嫌……っ
 確実に不幸になる。考えるまでもなく、しかもそれこそを継母らは望んでいた。菜桜子が生きながら地獄に堕ちることを。苦しんで、泣いて、壊れてゆくことを。
 頭の中が真っ白になり、後退る。祭壇に飾られている花にぶつかり、菜桜子がよろめいた瞬間。
「大丈夫ですか」
 思いの外逞しい腕に身体を支えられた。視界の端に映ったのは、黒いスーツの袖先。低い声が菜桜子の耳を擽る。
 ゾクッと走った震えは、怯えを孕んでいた。
「……真野(まの)さん」
「足元に気を付けてください。菜桜子お嬢様が怪我をされては社長も悲しみます」
 気遣う内容とは裏腹に、男の声は平板だった。感情が窺えない。恐る恐る視線を向ければ、そこに立っていたのは驚くほどの美形。
 切れ長の双眸に、知的な雰囲気を強調する眼鏡。オールバックの髪はどこか禁欲的だ。日本人らしからぬ高さを誇る鼻と、色味の薄い唇は、そこはかとなく冷淡に見えた。
 喪服である黒のスーツでさえ、完璧に着こなしている。磨き抜かれた革靴が彼の拘りや気難しさを垣間見せた。
「平気です。……ありがとうございます」
 礼を言いつつ、さりげなく彼――父の右腕であり秘書だった真野隼弥(しゅうや)から菜桜子は離れた。
 生前の父はよく『あれはかなりのやり手だ。一を聞いて十を知る。判断が速く誤らない。淳史も真野の半分でも資質があればなぁ』とこぼしていたものだ。
 そして『だがもう少し人の情を理解できれば完璧だな。時折利益を最優先し過ぎて非情になり過ぎる』と続くのがいつものパターン。
 優秀であるが故に、怖い人。それが菜桜子が隼弥に抱くイメージだった。
 実のところ自分は彼のことが苦手だ。確かに頭がよく仕事ができて、気遣いも完璧な非の打ち所がない人なのは承知している。
 しかし常に冷静そのものの表情も相まって、何を考えているのかまるで分からないのだ。優しげな台詞を吐きつつ、本心は決して見せない。それが大人の処世術だと言われればその通りなのだが、どうしても気後れしてしまった。
 味方であるうちは心強くても、いざ価値がないと断じられれば簡単に切り捨てられそうな予感がある。
 隼弥の並外れた美貌のせいもあるかもしれない。何となく――気まずい心地がして、できれば関わりたくないと思っていた。
 ――別に真野さんに嫌なことをされたわけじゃないのに……でも何故かこの人に見られると、緊張する。
 視線が鋭いためか。それとも心の奥を覗かれそうな冷徹さが漂うからか。整い過ぎた美が、作り物めいて見えるせいとも言える。
 原因は曖昧だ。それでも菜桜子にとって彼は『極力近づきたくない相手』だった。
 ――もっとも、お父様の秘書であるこの人と私に、接点なんてないも同然だわ。
 これまでも。これからも。
 ただ菜桜子が転ぶ前に支えてくれた隼弥の腕は、不思議と温かく人間味が感じられた。
「そうですか。皆さま、あちらにお茶を用意しますので、どうぞ休憩してください」
「いえ、私は……」
 斎場の控室で、継母たちと顔を突き合わせて寛ぐなど無理だ。菜桜子は控えめに断り、一人になれる場所を探そうと思った。
「真野、私たちの会話に割り込んでくるなんて、無礼よ」
「申し訳ありません、奥様。ですが飯島(いいじま)様がご挨拶したいとおっしゃっておりまして」
「あら、そうなの? それを早く言いなさいな。飯島さんをお待たせするわけにはいかないわ。淳史、貴方も一緒に来てご挨拶なさい」
 瞠目した継母が息子を連れ、慌てた様子で踵を返した。
 ひとまず二人分の視線から逃れられ、菜桜子はそっと息を吐く。思った以上に緊張していたらしい。膝は、微かに震えていた。
「もう、隼弥さん。貴方も大変ね。父の秘書だったと言っても、葬儀の手配までこなして。だけど喪服姿もすごくセクシーだわ」
 仏前にはそぐわない真っ赤な口紅を塗った姉が、身体の線を強調するように身を捩った。
 継母とよく似た、華やかで美しい容姿だ。しかし濃い目のメイクは、この場では浮いて見える。妙に毒々しく、菜桜子は俯くことしかできなかった。
 菜桜子の四つ歳上の姉、香世子は自身の武器を熟知している。隼弥の腕に自らの腕を絡ませ、豊満な乳房を押し付けた。
「私のためにお茶を淹れてくれるんでしょう? 行きましょう」
 菜桜子には見向きもせず、香世子は長い睫毛を瞬かせる。大抵の男であれば、鼻の下を伸ばすだろう。だが隼弥は一切表情を変えないまま「かしこまりました」と返した。
「……失礼します」
 深く頭を下げた菜桜子は二人を見送り、溢れそうになる涙を堪えた。
 やっと一人になれ、緊張が緩む。
 先刻の結婚の問題は解決していないが、敵だらけの状況からは抜け出せた。束の間呼吸が楽になった錯覚があり、菜桜子はゆっくり息を吸う。
 ――外に出よう。ごめんなさい、お父様。少しだけ待っていてね。
 このままでは負の感情に溺れてしまいかねない。胸が苦しくて、意識も遠退いた。僅かでもリフレッシュできればと、菜桜子は斎場の外へ出る。
 建物の裏手に回ると幸いにもひと気のない場所を見つけ、近くにあったベンチに腰をかけた。
 嘆息し、考えることは一つ。
 これからどうしよう、だ。
 東城家には留まれない。それははっきりしているし、自分としてもこれ以上世話になるつもりはなかった。
 しかし仕事を失ったのなら、一人暮らしは厳しい。しかも近日中に出ていくなら、新しい住居も見つけなくてはならないのだ。
 ――貯金……少しの間なら大丈夫。でも、きっと求職活動はお義母様の妨害に遭うわ。
 父はあらゆる分野に職種を広げ、様々な繋がりを築き、影響力もあった。それらは丸ごと、兄である淳史の力になったと考えて間違いない。
 ならば当然、継母の息がかかっている。彼らが菜桜子の好きなようにさせてくれるとは考え難かった。
 おそらくあらゆる嫌がらせを仕掛けてくるに違いない。のっぴきならない状況に追い詰めて、最も不幸な道に進むよう、選択肢を狭めてくるに決まっていた。
 脳溢血で逝ってしまった父が、少しだけ恨めしい。いくら想定外の病に襲われ、諸々準備できなかったとしても――残される菜桜子のために欠片でも手を打ってくれていたなら。
 ――考えても仕方ないわね……もし私に何か残そうとしたら、お義母様の仕打ちが苛烈になっただけでしょう。
 彼女の憎悪に染まった顔を思い出し、菜桜子は苦笑した。
 覚悟はしていたが、憎まれるのは辛い。剥き出しの悪意をぶつけられ、精神がすっかり疲弊していた。
 ――路頭に迷うか、嵯峨根さんとの結婚しか道はないの? どっちも嫌。年齢差だけが問題じゃなく、噂の件や何度かあの方を遠目に拝見したからこそ、絶対に無理だわ。
 如何にも好色といった風情の男は、己がいくつになっても二十代の女がお好みらしい。見かける度に、露出度の高い美女を侍らせていた。その傍らで、大人しげな正妻が暗い顔をしていたものだ。
 歴代の妻はまるで見世物のように連れ歩かれ、精気がまるで感じられなかった。
 あんな風になりたくはない。しかも最後は心を病み、捨てられるだけ。壊れた玩具に興味はないということか。消費され、搾取されるだけの人生なんて、まっぴらご免だった。
 ――いっそ海外に逃げようか。
 幸い、菜桜子は充分に教育は受けさせてもらえたので英語力には自信があった。しかし国外に出たとしても、東城の影響力から完全に逃れるのは、不可能だ。何らかの干渉は免れられまい。
 逆にもっと困窮する可能性も考えられ、思わず頭を抱えた。
 ――八方塞がりだわ。
 こうして菜桜子が懊悩することも、継母らは計算済みだろう。そして無駄な足掻きを高みの見物するつもりなのでは。
 何をどうしても彼女たちの掌から逃げられない。そんな諦念に、立ち上がる気力も萎えてしまった。そうでなくても、父を喪い弱気になっている。悲しみに食い荒らされた心は、明るい未来を思い描けるはずがなかった。
「……嵯峨根さんと、結婚するしかないの……?」
「――助けて差し上げましょうか」
 吐き出した言葉に、返事があるとは期待していなかった。
 あくまでも、抱えきれない胸の重石を外へ漏らしたかっただけだ。それ故声が返ってきたことに驚いて、菜桜子は反射的に立ち上がった。
「ま、真野さん……っ、どうしてここに?」
「お茶を飲みにいらっしゃらないので、探しに参りました」
「お、お姉様は……」
「さぁ? 仕事が残っていると告げて出てきましたので」
 平板な声から彼の心理を推し量るのは難しい。さりとて、ひと気のない場所で静かに座っていた菜桜子を、『偶然見つける』なんてことはないと思う。
 ならばわざわざ探していたのか。その理由が思いつかず、何故か居心地が悪くなった。
 じっと注がれる視線が痛い。黒い双眸は鋭利な刃物じみている。
 身長が高いため、威圧感があるのかもしれない。黒と白で構成された美し過ぎる男は、どこか人外めいた空気を纏っていた。
「あの、私に何か御用ですか?」
「いえ。特に用事があったわけではありません。お一人でどこに行かれたのか、気にかかっただけです。でも――今用事ができたと言えますね」
 まさかとは思うが、笑ったのか。
 隼弥の口角が微かに上がった。一般的な女であれば、麗しい男の反応に胸がときめくのだろう。だが菜桜子は戸惑い気味に視線を逸らした。
 二人きりだなんて、ますます苦手意識が高まる。沈黙が辛くて質問を重ねたものの、意味不明な返答に首を傾げずにはいられなかった。
「今、ですか?」
「はい。先ほど奥様たちとのやり取りを拝見しましたが、随分一方的な縁談でしたね。菜桜子お嬢様は不本意なのではありませんか?」
「……っ」
 見抜かれていたと焦り、直後に『それもそうか』と腑に落ちた。どこの誰が四十も年齢が離れた、黒い噂だらけの男に嫁ぎたいと願うのか。
 それも父親が亡くなったばかりで。心痛癒えない中、更なる重荷を背負った気分だ。
 菜桜子はぐっと奥歯を噛み締めて、沈黙を返した。
「当然ですよね。嵯峨根様との婚姻なんて、遠回しな自殺と同じですよ。よほど計算高く打算的な女性ならまだしも……菜桜子お嬢様には到底無理でしょう。早晩心を病むに違いありません」
 菜桜子自身も考えた可能性ではあるが、他者から指摘されると恐れは一際大きくなった。
 やはり第三者の目から見ても、この結婚はおかしいのだ。絶対に回避した方が身のためだと、改めて感じた。
 ――だけど……どうやって?
 何もかも放り出して着の身着のまま逃げれば東城家との縁は切れるかもしれない。
 しかし何だかんだ箱入り娘の自分に、過酷な生活ができるのか。菜桜子自身、己が世間知らずなのは自覚していた。
 高い確率で人に騙され利用されかねない。そして落ちぶれるのが、容易に想像できた。
 ――それがお義母様たちの望みなのかしら……嵯峨根さんへ嫁いでも、結婚を断固拒否しても、私の未来は暗いものになる……
 暗澹(あんたん)たる気分で泣きたくなった。それでも隼弥の前で涙を見せたくなくて、必死に堪える。深呼吸を繰り返し、潤む瞳をごまかした。
「……もしかしたら、意外に幸せになれるかもしれません」
「これまで四人の妻を迎え、四人とも病院送りにした男に嫁いで? 正気ですか?」
「だったら私にどうしろと言うのですか……っ」
 馬鹿にした男の声音に、つい菜桜子の声が大きくなった。
 彼は蔑むような眼差しをこちらに注いでくる。その視線を遮りたくて、菜桜子は一つに束ねた黒髪を振り乱した。
「選ぶ余地なんて、私にはありません。初めから選択肢は用意されていない。そんなこと、真野さんだって分かっているのではありませんか?」
 彼に八つ当たりするのは間違っている。それでも一度爆発した感情は抑えきれなかった。
「わざとひどいことを言わないでください。どうしようもないじゃありませんか。住むところも仕事もなくして……この先まともな職に就くのは難しいでしょう。頼れる親戚も友人もいない私が、一人で生きられると思いますか?」
 不安が込み上げる。せっかく堪えた涙も溢れ出していた。
「お義母様は全力で私が望まないことをするはずです。私を不幸にするためなら、きっとどんなことだって……っ」
 悔しいが彼女にはそれができる程度の力がある。しかも十九年間抑圧され続けた菜桜子には、継母に逆らい撥ね退けられる力は残されていなかった。更に言うなら、実母の所業を申し訳なく引け目に思っている。
 どんな事情があったにせよ、菜桜子の母親が一つの家庭に楔を打ち込んだのは、確実なのだ。勿論、父親にだって非はある。
 けれど菜桜子は『私には全く責任がない』と言い切れる強かさがなかった。
 継母が己に辛辣なのは当然であり、黙って耐えるのがせめてもの償い。そういう後ろめたさが捨てられない。
 自分に許されたのは、よりマシな地獄を選ぶことだけ。目の前が暗くなる現実に、絶望感を抱かない方が無理だった。
「――ですから、僕が助けて差し上げましょうか?」
 項垂れた菜桜子の耳に、低い美声が注がれた。つい先刻と同じ台詞。だがより絡みつくような重みと粘度が増した気がした。
「……助ける……?」
「ええ。僕なら菜桜子お嬢様の窮地をどうにか変えることができますよ」
 甘言が囁かれる。菜桜子にとっては、あまりにも魅力的。つい飛びつきたくなる。されど同時に強い警戒心が頭を擡(もた)げた。
「……真野さんが私のために? 父の秘書であった貴方が、お義母様の命令に逆らえるのですか?」
 ほぼ確実に、嵯峨根と菜桜子の婚姻で東城家は『妾の娘を不幸にする』以外にも利益を得るはずだ。
 ならば従業員である隼弥が、継母と一心同体である後継者の兄の意に従わないとは考えられなかった。
 ――まさか真野さんはお義母様と結託して、私を騙すつもり……?
 疑心暗鬼になり、知らず一歩後退った。しかし彼の長い脚によってすぐにまた距離を縮められる。それも先ほどより二人の間の空間は如実に減っていた。
「あ、の……」
 黒く切れ長の双眸に見下ろされる。威圧感が尋常ではなく、菜桜子の喉が役立たずになった。掠れた音以外何も発せなくなり、逃げたいのに足も動かない。
 時間すら凍り付く。全てが麻痺したように停止していた。
「……僕の雇い主は貴女のお父様だけです。たとえ淳史さんが経営者になったとしても、僕が自動的に彼の部下になるわけではありませんよ。これでも仕える相手を選ぶ程度のことはできます」
「そ、それは……すみませんでした。私ったら、失礼な物言いをしてしまいましたね」
 隼弥の声に薄らと不快感が滲んだ気がして、菜桜子は慌てて謝った。別に彼が声を荒げたとか、顔を歪めたのではない。しかし若干空気が硬くなった錯覚を抱いたのだ。
 ――確かに、真野さんは無条件でお兄様の命令には頷かないかもしれない。お父様にもよく意見なさっていたし……それに、私の言い方だと『お金を貰っているのだから、何でも追従して当たり前』と告げたようなものだわ。彼が不愉快になってもおかしくない……
 随分と失礼な考えが根底に滲んでいた。仕事ができる切れ者を、イエスマン扱いしたのも同然。
 己の過ちに気づき、菜桜子は一層隼弥との時間に据わりの悪さを覚えた。
「分かってくだされば、結構です。それで、どうしますか?」
「どう、とは?」
「嵯峨根様との結婚を受け入れるのですか? それとも、僕に助けを求めますか?」
 丁寧な口調で彼は語りかけてくるのに、そこはかとなく威圧されている心地がするのは何故だろう。それでももし望まぬ結婚を回避できるのであれば、縋りたい気持ちを菜桜子は抑えられなかった。
 ――真野さんが無条件で私を助けてくれるとは思えない。そんな価値、私にないもの。
「……交換条件は何ですか? 私に支払える金額は、さほど多くありません」
 全財産をはたいてもいい。東城の息がかからない場所で静かに暮らせるなら、金なんてまた一所懸命働いて貯めればいいのだ。
 貧しくても人間らしく生きられれば御の字だと、菜桜子は決意を固めた。
「案外慎重ですね。てっきり何も警戒せず食いついてくれるかと思っていました。ですが、社長がいなくなった今、そういう姿勢は身につけておいた方がいい。いつ何時、貴女の足を引っ張ろうと企む人間がいないとは限りませんから」
 褒められているのか馬鹿にされているのか、どちらとも言える。
 急く気持ちを宥めすかしつつ、菜桜子は彼の次の言葉を待った。
 結論を早く口にしてほしい。焦らされるのは嫌いだ。
「……それで、真野さんは私に何を要求するのですか?」
「ふ。流石は社長の娘さんですね。普段は大人しく引っ込み思案でも、いざとなると肝が据わる。――そういうところ、嫌いではありません」
 不意に伸ばされた彼の指が、菜桜子のこめかみを掠めた。接触は僅か。
 それなのに皮膚を擦られた感触が、痺れとなって全身を駆け抜けた。
「……やっ……」
「お嬢様が僕のものになるのなら、助けて差し上げます」
 聞き間違いだろうか。内容の重みに反して、抑揚のない声が不釣り合いだった。そのため、言われた意味が咄嗟に汲み取れない。
 菜桜子は至近距離で隼弥の瞳を覗き込んだ。
「何を言って……」
「僕のものになってください。あの助平爺に好き勝手され壊されるよりは、相当マシだと思いますよ? 少なくとも僕は、貴女を妻として人として大切にすると誓います」
 予想もしなかったプロポーズに、頭の中が真っ白になった。何度も反芻し言われた意味は理解できる。
 けれど混乱の極致にあって、菜桜子は瞬きも忘れた。
 ――私が真野さんと結婚? 何故突然そんな話が出るの?
 立場の弱い若い女が好きな嵯峨根ならば、菜桜子を欲する理由は納得できる。東城家と繋がりを持つ意味でも、利益が大きいのは確実だった。
 しかし真野ならば、女性はより取り見取りなはずだ。実際、姉の香世子もあからさまに彼を狙っている。もし野心があるなら、菜桜子ではなく姉を口説く方がよほど得策だった。
 敢えて菜桜子に取引を持ちかける意図が読めない。不安がじわじわと心を侵食した。
「馬鹿なことを言わないでください」
「どこが馬鹿げていますか? 貴女にとっても悪くない取引だと思います。それとも嵯峨根様のような男がお好みですか? 本音では結婚に乗り気でした?」
「じょ、冗談でもやめてください!」
 そんな風に思われるのは、心外だ。菜桜子は思い切り首を左右に振り、彼の言葉に被せて声を荒げた。
「あの方に嫁ぐなんて、絶対に嫌です……!」
「では僕の元へいらっしゃい。夫としてお嬢様を守って差し上げます」
 損得で考えれば、自分は頷くのが賢い。それは菜桜子も承知していた。天秤にかけるまでもない、簡単な話だ。子どもにだって解ける計算式。
 父の葬儀の場で娘の菜桜子へ悍(おぞ)ましい視線を向けてきた嵯峨根と、若く優秀で清潔感のある隼弥。
 客観的に考えて、妙な噂がない男性の方が望ましい。
 だが、菜桜子の顎はちっとも動いてくれなかった。
 隼弥への苦手意識。それがどうしようもなく胸に凝っている。いくら彼の見目が麗しく仕事ができて、年齢が嵯峨根ほど離れていないとしても――本能が拒否を叫ぶのだ。
 この男は危険だと。
 迂闊に近づけば、牙を剥かれると。
「……僕の手を取らない場合は、自動的に貴女は嵯峨根様の新しい玩具として売られてしまいますよ? ……奥様たちは大喜びでしょうね」
 恐ろしい表現に、身の毛がよだつ。いちいち菜桜子の嫌悪感を刺激する言葉選びをしているのかと悪意ある見方をしてしまった。だが、あながち思い過ごしとは言い切れない。
 こちらの反応を窺う隼弥の瞳には、明らかに恍惚の色が滲んでいたのだから。
 ――どちらも、嫌。
 正直に言えば、両方選びたくない。けれどそれは許されないと、菜桜子にも分かっていた。
 これはか細い蜘蛛の糸。千切ってしまえば、後は堕ちるだけ。継母たちの思惑通り、菜桜子は泥沼に沈むに違いなかった。
 住処も職もない女が行き着く先は容易に想像できる。おそらく、自分には耐えられない。
 この先一生継母と兄姉に嘲笑われるのも受け入れ難かった。
 身動きができず嫌な汗が背中を伝う。
 声が喉に絡んで出てこない。唇を戦慄かせ、何度も空気を食んだ。
 ――私、私は……――
「頷いてしまいなさい。その方が楽でしょう?」
 悪魔の誘惑はきっとこういうものなのだろう。とろりと耳に忍び込み、理性を揺さ振る。
 考える力が削ぎ取られ、冷静でいられなくなる。
 いつの間にか菜桜子の両頬は隼弥の両手で左右から包み込まれていた。
 大きな掌が、菜桜子の肌にしっとりと馴染む。他者の体温が滲み、瞳が泳いだ。
 さりとて至近距離で搦め捕られた視線を逸らせない。呑み込まれてしまいそうな凝視は、菜桜子を怯えさせるのに充分だった。
 ――真野さんの目的が分からなくて怖い。
「そんなに悩まれると、いささかショックですね。いっそ強引に奪ってしまいましょうか」
「……っ、私を手に入れても東城の家や会社は自由にできませんよ」
 それが目的なら、無駄なことだ。
 菜桜子には何の権限も価値もない。そんなことは彼だって分かっているはずだが、菜桜子は敢えて釘を刺した。
 だが、直後に後悔する。
 見るからに、隼弥の眼差しが冷徹な色を深めたからだ。
「……僕は利用できるものは躊躇なく利用しますが、心外ですね。ご心配なく。東城家にも、社長のいない会社にも未練はありません」
「でも……私を助けたと知られたら、お義母様が黙っていません。真野さんも会社にいられなくなるかもしれないです」
「僕をクビにして、困るのは淳史さんではありませんか? それに初めから社長がいないのなら、辞めるつもりでした。これでも他にいくらでも声をかけてくれるところはあります。東城と同程度かそれ以上の企業なんて、世界中にいくらでも存在するんですよ。狭い世界しかご存じないお嬢様には、想像もできないかもしれませんが」
 棘のある台詞に胸が痛んだ。
 けれど事実だ。菜桜子の世界は至極狭い。その上自力で飛び出せる羽も持っていなかった。
 十九年間ではめられた枷はあまりにも重く、父の庇護があったうちはまだ何とかなっても、こうして一人取り残されては無力だ。継母らに食い尽くされるのを漫然と待つのみ。
 もしくは、新たな地獄だとしても、嵯峨根の元へ行くよりはマシだと信じ、一歩踏み出すか。
 心臓がキリキリと痛み、眩暈がする。いくら呼吸を繰り返しても息苦しくなるばかり。思考は空回りして、足元が瓦解してゆく幻影が見えた。
「だったら……真野さんは何のために私に結婚を申し込むのですか……」
「決まっています。貴女が好きで、欲しいからですよ」
 嘘吐き。
 危うく低い誹りがこぼれそうになった。何も持たない小娘を、彼が選ぶ理由はない。
 耳に心地いい言葉で、菜桜子を懐柔しようとしているに決まっている。そう思い至れば、ひどく馬鹿にされている気分になった。
 ――私が一人では生きられない世間知らずだから好きにできると思ったの? ……それなら嵯峨根さんと同じじゃない……
 誰も自分を一人の人間として扱ってくれない。あちこちへ自由に取引される景品になったようだ。それでも無力で流されるしかない己が、情けなかった。
「そんな戯言を信じろと? 私たち、まともに話したのは今日が初めてではありませんか」
「……菜桜子さんにとってはそうなのでしょうね。でも僕が貴女を特別に感じていることは、否定しないでもらいたいです」
 よくも口から出まかせを次々に吐けるものだと呆れ、感心もした。人の心を弄ぶ悪魔のようだ。窮地に立たされ弱った人間にはとても効果的かつ甘美に響く。
 優しい台詞は信用に値しないと頭では分かっていても、菜桜子の心が揺らされた。
 引くも地獄。進むも地獄。現状維持すら許されない。
 ――だったらせめて、堕ちる地獄は自分で決める。
 菜桜子が選んだ道は。
「――……真野さんと、結婚します」
「いいご判断です」
 彼からの強い視線に耐えきれず瞼を伏せた瞬間、顎を上向かされて後悔した。
 唇に触れる柔らかな感触。口づけられたと気づいた時には、既に一度唇は解かれていた。
 残るのは、仄かな熱。
 ジンとした痺れが末端まで広がる。慌てて頭を反らせようとした菜桜子の身体は、力強く抱きしめられた。
「んん……っ」
 触れなければ気づく機会もなかった、存外逞しい腕が腰に巻き付いてくる。もう片方の隼弥の手は、菜桜子の後頭部に回された。
「は……っ、ぁふ」
 驚きで開いた口の狭間から彼の舌が強引に侵入してきた。万が一顎に力を入れれば、隼弥の舌を傷つけかねない。無意識に菜桜子の舌は逃げ惑い、奥へと引っ込んだ。
 人生初めてのキス。
 それも不意打ち同然に、恋人でもない相手と。
 困惑が心と身体を乖離させる。やめてと告げたくても、口は塞がれたまま。突っぱねるべき菜桜子の両腕は、強く抱き込まれたせいで互いの胸の間で動かせなくなっていた。
 何よりも思考が混乱している。
 どうするべきか自分でもよく分からない。そうこうしている間にうなじを指先で擽られ、唾液を卑猥に混ぜ合わされた。
「ぅ、ん……ぁ」
 小さな口の中を、彼の舌が我が物顔で蹂躙している。逃げていた菜桜子の舌は誘い出され、今や熱烈に粘膜同士を擦り付けられた。淫靡な水音が響き、息が苦しい。
 菜桜子の膝がガクガクと震え、立っているのが精一杯。いや、実際には隼弥のおかげで辛うじて体勢を維持しているだけだった。
「や……んんッ」
 涙が勝手に溢れてくる。全身が虚脱する。
 自分は父の葬式の場で、いったい何をしているのか。斎場の中では、未だ父親が棺で眠っているのに、娘の己は火照ってゆく身体を持て余していた。
 ――苦しい……、なのにゾクゾクして……っ
 惑乱する。段々息が上がり、下腹が疼いた。見知らぬ感覚が辛くて気持ちいい。相反するはずのものが混在し、菜桜子の内側で渦巻く。
 限界になってつい彼のスーツの胸付近を掴めば、ようやく唇が解放された。
「は……っ」
 飲み下しきれなかった唾液が、一筋口の端から伝い落ちてゆく。菜桜子の瞳は蕩け、すっかり顔が上気し、呼気には淫らな色が混じっていた。
「一日でも早く籍を入れ、結婚式を挙げたいですね。流石に菜桜子さんの喪が明けるまでは控えますが」
 これまでは『お嬢様』と呼びかけられていたのに、突然呼び方が変えられた。二人の関係性が変化したのを知らしめたいのだと、伝わってくる。
 肌がひりつくほど、隼弥の醸し出す空気が激変したのが感じられた。
 ――もう、この人は『お父様の秘書』じゃないんだ……
 ただの男。
 菜桜子に傅(かしず)く必要もない。言動は相変わらず丁寧だが、以前から根底にあった慇懃無礼さが剥き出しになる。
 何より、駄々洩れる男の色香にクラクラした。
 今まで作り物めいた潔癖さを見せていたのは、偽りだったのかと疑う。
 感情の起伏が見えず常に冷静沈着で、およそ人間味が感じられない。そういう彼の点が、特に菜桜子にとって苦手だった。本心を押し隠した人は怖い。
 ――だけど、赤裸々にぶつかられるのも怖い。
 受け止めきれない。処理もできない。何をどう解釈すればいいのか判然とせず、菜桜子は戦慄いた。
 露わになった隼弥の劣情に腰が引ける。にも拘らず、拘束する腕の力は全く緩まないので、二人の距離が離れることはなかった。
 むしろ更に腰を引き寄せられて密着する。
 父以外の異性に抱擁されたことなどない菜桜子は、完全に硬直してしまった。
 隼弥の指先が艶めかしく蠢いて、一本に括っていた菜桜子の髪を解く。黒髪が風に散らされ、彼の指に弄ばれた。
「……菜桜子さんは、やはり髪を下ろしているのが似合っていますね。とても艶があり、まっすぐなところが貴女らしい」
 毛先に口づけられ、愕然とした。
 一言も言葉が出てこない。『ああ』や『うぅ』という呻きですら。見開いた視界に映るのは、初めて見た隼弥の笑顔。
 どことなく歪で陶然とした笑みに、菜桜子は早くも己の選択を悔やみ始めていた。