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拾った年下男子が超尽くし系御曹司で沼りそうです!? 2

第二話

 

 よく通る優しい低い声に、あかねは思わず自分の左右を見回した。誰に話しかけているのだろう。まさか自分じゃないよねと確認する。
「きみだよ。おいで。もしかして怪我してるんじゃない?」
 彼はそう続けてソファから立ち上がり、コツコツと足音をさせてあかねに近づく。
「けっ……、怪我はしてないです。靴のヒールが……取れちゃって」
 答えなくてもいいようなことを答えたときには、彼はすでにあかねのすぐ目の前に立っていた。
 片方だけヒールのある靴を履いたあかねが見上げるくらいに、長身だ。
 近くで見た彼の顔は、遠目で見るよりさらにぴかぴかに綺麗で整っていた。弓なりの眉の下の清冽な印象の双眸。肌がすべすべで、見るからに若い。
 彼は、あきらかに神様のオーダーメイドで作られた高級品の容貌をしていた。そのへんの量販店では扱えないタイプの見た目の持ち主で――つまりそこに捨てられている高級本革ソファを持っていてもおかしくないタイプの人間のように見えて――あかねは思わず口を開く。
「あの……あなたは、あのソファの持ち主ですか?」
「ん?」
「いいソファですよね。あれ。イタリア製の、たぶん有名なデザイナーの作ったものでしょう?」
「ああ。アントニオ・フェッリーニのソファだね」
 彼がさらっと言う。
 イタリアの有名な家具デザイナーの名前である。どうやらこのソファは、あかねの見込んだとおり、イタリアのデザイナーの作品らしい。
「アントニオ・フェッリーニがふたり掛けのソファを出しているなんて、知らなかった。もっと大きい家具しかデザインしてないんだって思ってました」
「このソファだけは特別なんだ。意味があってふたり掛けのサイズをデザインしたって聞いているよ」
「へえ~。じゃあ大事にしないとですよね。捨てるの思い直して持って帰ることにしたんですか? ひとりで運ぶのは無理ですよね。よかったら手伝いましょうか?」
 あかねの言葉に彼が目を見開いた。
「運ばないよ」
「え……。すごくいいソファですよ?」
「それはわかってる。ごめん、訂正させて。僕はそもそもあのソファの持ち主じゃないよ。僕が持ち主だったらあんなかわいそうな捨て方しない」
 彼はするっと返事をして眉をひそめ、肩をすくめる。日本人で「肩をすくめる」という動作が似合うのってすごい。
 彼の言葉を聞いた瞬間、あかねの胸が小さく、とくんと鳴った。
 その整った顔立ちや、鮮やかな動作に見惚れたせいじゃなくて。
 彼が「かわいそう」と言ったから。
 こんなに素敵なソファなのに手入れもされずに捨てられて、かわいそう。
 ソファも、ソファを捨てた誰かも、なんだか切ない。
 今朝、あかねが抱いたのと同じような気持ちを、彼が口にした。それだけであかねの心は少し緩んだ。
 というか――家具を見てデザイナーの名前が出て来る時点で、あかねのガードはけっこう緩んでいた。あかねは家具やインテリアが好きで内装メーカーに入った人間である。
 彼が家具に対して鑑識眼と知識がある相手だとわかって、気持ちのメーターがぐんと上がる。
 あかねが好きなものを、好きな人。
 ――元彼は私の好きなもの全否定だったんだよなあ……。
 お堅い銀行員。最初はそこが好きだった。真面目で堅実なところに惹かれた。
 でも、つきあいが長くなるにつれ元彼はあかねを自分の好みに染めかえようとしてきたのである。
 銀行員に恨みはないが、資産価値だけがすべてで、見た目のかわいさとか、座り心地がよくていいとか、使い勝手がいいから安くても大好きみたいな感性を小馬鹿にする男で、あかねにも同意を強要した。彼は株とか資産運用とかいろいろ言っていたけれど、そのすべてにあかねは興味が持てなかった。
 国債のドルだてがどうこうという話はいつもちんぷんかんぷんで、なにより元彼の「こんなこともわからないおまえが低次元」という見下し感が、あかねにとっては、きつかった。ストレスのたまるつきあいだった――。
「かわいそうな……捨て方?」
 あかねが聞き返すと、男が言う。
「僕が持ち主だったら革の手入れもちゃんとして、育てる。シミをつけたうえでこんなところに放置なんてしない」
「でっ……、ですよねっ!?」
 前のめりになってうなずくと、彼が目を瞬かせてあかねを見た。
「――でも、ソファを捨てた誰かのことは、いまはどうでもいいよ。それより、話を戻してもいい? きみだよ」
「私、ですか?」
「きみの足音。――ちょっと変わってるなあって、聞いてたんだ。タンッ、タンッ、て不揃いなリズムで。怪我じゃなくて靴のヒールが取れたんだ? 歩きづらいよね」
 話がソファからあかねの靴に戻った。
「あ、はい。そうなんです。躓いたらヒールが根元から折れちゃって……」
「そうなんだ。怪我じゃなくてよかった。靴のヒールは、瞬間接着剤でくっつければ、とりあえず補修できるよ。高い革の靴ならそういう応急処置はやめたほうがいいけど」
「あ、これ安い合皮です」
 通勤靴は消耗品だと思っているからワンシーズンで使い捨てだ。
「だったら、僕、ちょうど瞬間接着剤を持っているから使ってよ。おいで」
 彼が小首を傾げて、あかねを見下ろして柔らかく微笑んで手を差しだす。
 長身で、こちらを見下ろしているのに圧迫感はなく、あざとい感じに愛らしい。
 こういう男性にははじめて会ったかもしれない。容貌が整っているというだけじゃなく、全体に、親切さと人なつこさと愛嬌が彼の身体の内側から溢れている。
 長身で美形なのに、威圧感がない。
 ――かわいげがあるっていうか。
 皆元に言われた言葉のせいで「かわいいとはなんぞや」に考えを巡らせながら歩いていたからか、つい、そんなことを思ってしまった。
 窺うような沈黙が落ち、彼は困り顔になって、続けた。
「安心して。危害を加えたりはしないから。きみのこと、手伝わせてくれる? かわいいお嬢さん、お手をどうぞ」
 なにをどう手伝うというのか。「手伝わせて」って言い方も、どういう意味だ。「お手をどうぞ」って道ばたで、いきなり? 現代日本の日常で「お嬢さん、お手をどうぞ」って言葉を発する男性と遭遇するなんて、そんなことある?
「い、犬じゃあるまいし、お手なんて」
 どうしていいかわからずつい突っ込むと彼が笑って、そのままあかねの手を取った。
 冷たい指が、あかねの指を柔らかく握りしめる。ひやっとした肌は、ものすごく「彼らしい」気がした。綺麗な顔立ちの人って、体温が低いイメージがあるから。
 彼は冷たくてさらりとした指で、あかねの手に優しく触れた。
 強引さがなかった。だから、咄嗟にはねのける理由を失ってしまった。
 というより――捕獲されたい、と、そのときあかねは思ったのだ。
 この優しい手に、捕まりたい。
 魔法じみた夜だったし、催眠術にかかったみたいだった。
 普段のあかねは、たとえ相手が絶世の美青年だとしても、見ず知らずの男性にいきなり手を握られて、ついていくような女ではない。本来だったら、パシッとその手を振り払う。
 けれど今回は、彼が紳士的な動作であかねを道ばたのソファまでエスコートするのにまかせた。
 たぶん、疲れていたのだ。
 いやなことが重なりすぎて、ついさっきも、宝クジじゃなくても「なんでもいいから、いいことに当たりたい」と馬鹿げたことを強く願ったばかりだった。
 冷静な思考力がなくなっていたといってもいい。
 ――ヒールをくっつけてくれるって。
 靴のヒールだけじゃなく、心も、くっつけてくれないかなとふと思った。
 ――ねぇ、私ももうそこそこ年とってるからわかってきてるんだよ。
 このままだと「私って駄目だなあ」っていう暗い沼にずぶずぶ沈んでしまいかねないことが。
 昨日と代わり映えのしない今日、そして明日。
 さらに明日と代わり映えのしない一週間、一ヶ月、一年が続くだろう。
 沼に落ちたみたいな生活が。
 激変して欲しいわけじゃないけど、なにかが欲しい。
 この沼から這い上がれるなにかが。
 今夜のあかねにとって、男に差しだされた手が、まさにそれだった。
 だからその手を取ったのだ。
 もし、万が一にでも危害を加えられたら大声で叫べばいい。すぐそこにコンビニがあるし、人通りは少ないが、車は走っている。
 手を取られ、ゆっくりと導かれて進み、ソファの前で手を放された。
「さ、座って」
 男があかねをうながした。
 あかねは半ば操られているかのようにソファに腰をおろす。
 ソファが身体をすとんと受け止めてくれた。さすがアントニオ・フェッリーニ。見た目だけじゃなく、人間工学的にも考慮された椅子だと聞いている。お噂はかねがねというソファだけれど、実物に触れたのは今夜がはじめてだ。
 ふわっと身体が沈み、包み込むようにホールドされる。
 座り心地が最高だとぼんやりと思って、横を見る。
 革製のお洒落なリュックが横にぽんと置いてあった。どこのブランドかはわからないが、ちゃんと手入れされて、表面が柔らかく光っていた。
 つと背をのばし、傍らにあった段ボール箱の中味に視線を走らせる。朝にあった食器類はすべてなくなって箱は空だった。持っていけるものは誰かが無事に持ち帰り――このソファだけが残されたのだろう。
 彼は、あかねの横のリュックを手元に引き寄せ、なかから瞬間接着剤を取りだした。
「あの……なんでそんなものを持ち歩いてるんですか?」
「なにかと重宝で、ひとつあると便利だから。靴、脱いで」
 あかねの前に跪いて「失礼」とひと言告げて足に触れ、するりと靴を脱がせる。
 あっというまだった。性的なものを含まない、作業じみた素早さだったから、嫌悪感はなかった。
「ヒール、ちょうだい」
 バッグを探って、彼の手に折れたヒールを渡す。地面に片膝をついて、あかねの靴とヒールに瞬間接着剤をつけ、手早く修理する彼のつむじを、あかねはしげしげと見つめる。彼は、つむじに至るまでちゃんとしていて、綺麗だと思った。
「はい。これで、くっつくまでもうちょっと座って待ってて」
 彼が言いながら、顔を上げた。
 あなたも座ったらどうですか、と言いかけて――道ばたのソファにふたり並んで座るのはおかしくないかと気づいた。
 ――いや、変でしょ。おかしいのは、全部、おかしいのよ。
 結局、あかねは少し考えてから、
「座りますか、隣」
 とソファの端に腰をずらし、横を指さす。
 ふたりで座るのも奇妙だが、自分だけ座っていて、彼だけを跪かせているのも居心地が悪い。
「いや、いいよ。僕はさっき座ったから。これ、本当にいいソファだよね。座り心地も最高だった」
 普通にそんなことを言うから、あかねも普通に言葉を返してしまう。
「ですよね。今朝このソファ見て、欲しいなって思ったんです。でも出勤途中だったし、私ひとりで運べそうになかったから諦めたんですよ」
 往来を車が行き来しているが、歩く人はいない。
「そうなんだ。なら、運ぶの手伝おうか?」
「……え?」
 聞き返した。男は真顔だった。
「きみが親切にさっき申し出てくれたことでしょう? 『ひとりで運ぶのは無理ですよね。よかったら手伝いましょうか?』って。同じことを僕からきみに提案してるだけ」
 あかねの靴を持って跪いたまま、上目遣いで首を傾げて彼が微笑む。さっきは上から見下ろしていて、それでも攻撃力の高い「あざといかわいらしさ」だった。
 そのあざといかわいらしさが、今度は下から、放たれた。
 見惚れないでいるのは難しい。胸がときめいた。
「家、遠いの? 遠くても途中で休み休みなら、ふたりで運べなくもないでしょう? きみの家のドアは通過できそうなんだよね?」
「ドアは……無理ですかね。でもベランダからなら入ります」
 前にこれと似たサイズ感のソファが欲しくて測ったから、たしかだ。欲しいと思ったものが予算オーバーだったため、結局、あかねの部屋はいまだソファがないままだった。
「じゃあ、運ぶの手伝わせてよ。このままここに置いてソファをだめにしちゃうより、誰かに座って使ってもらいたいし。明日の天気予報、朝から雨だよ?」
 雨降りか、と思う。雨に濡れたら革が傷む。たしかにその前に誰か、ちゃんと座ってくれる人の部屋にこのソファを届けるべきだ。そして誰もいないなら、あかねがもらいたい。
「い……、いいんですか」
「いいよ」
 強くうなずかれ、親切な申し出にのっかってしまうことにした。
 ヒールを直してもらって、道ばたのソファに座って、跪かれている。
 この状況で、遠慮なんてしたところで、いまさらだ。
 感覚が麻痺していて、どこまでが正常で、どこからが突飛な出来事なのかの境界線が曖昧になっていた。
 だってこんなの全部、ちょっと奇妙で不思議な映画かドラマのワンシーンだ。
 自分の人生に起きることのない、奇跡の一夜。
 薄皮一枚、別なものに包まれているような、そんな心地がした。
「あなたは……ひょっとしてソファの神ですか?」
 思わず聞いた。その可能性もゼロじゃない。
「ははっ。なに言ってんの? きみ、おもしろいね。僕はただの家具の好きな普通の人間の男です」
 彼が笑う。
「一軒家? マンション? ソファ置くスペース決まってる?」
 そして彼はとても現実的な疑問をくりだしてくる。
「はい。うちはマンションという名を持つアパートの一階で、置きたい場所も決まってます」
「そう、だったらふたりでいけるかな。きみの靴のヒールがくっついたら、運ぼう。このソファもきみに座ってもらえるなら本望だと思うよ。ソファをきみの部屋に置いたら、そのまますぐ帰るから」
「……はい」
 帰っちゃうんだ――と、あかねは胸中でつぶやく。目の保養になる、おそらく年下の、優しい男性。次々と親切な申し出をしてくれて、あかねの役に立ち、用事をすませたらさっと去っていくと言う。
 なんだかやっぱり、神様みたいだ。おとぎ話に出てくる善意の塊の神様、もしくは妖精。
「ありがとうございます。図々しく、お願いさせてもらいますね。助かります」
 知らない男に自分の家を教えるなんて、いつもの自分じゃないなとつくづく思いながら、あかねは深々と頭を下げた。