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拾った年下男子が超尽くし系御曹司で沼りそうです!? 3

第三話

 

 そこまでは、夢みたいだな――とふわふわと思っていた。
 けれど、ソファの片側を両手で抱えた瞬間「これは現実だ」と思い知ることになる。
 なにせソファは重たい。ふたりがかりで、なんとかかんとか、のろのろとした足どりで道を歩いていく。
 ソファをあいだに挟んで足を進めながら、彼は名前を教えてくれた。
 彼の名は――藤原昴。
 昴と呼んでほしいと、自己紹介のすぐ後に言った。名字で呼ばれるのはあまり好きじゃないのだそうだ。いきなり名前呼びはハードルが高い気がしたものの、本人がそうしてくれというのなら、そうするしかあるまいと、うなずいた。
「名前はね、牡牛座にある星の名前と同じ字。あとは歌にもなってるよね」
「へえ。ぴったりの名前ですね」
 ――星の名前なんて、ますます神っぽいな。
 あかねが言うと、昴が応じる。
「そうかもね。今夜は――見えないね。いつもならだいたいあのへんに、もやもやしてるんだけど」
 東の空を見上げ、昴が言う。
「もやもやって?」
「みんな昴っていうと、きらきら光ってる星のイメージがあるみたいなんだよね。でも、実際見たら、昴ってパッと輝いてるような星じゃないんだ。小さな星が集まった星団で、淡くて白くてぼんやりとしてる」
「へえ。あ……すみません! ぴったりな名前なんて、よくわかってないのに言っちゃって。もやもや、ぼんやりしている人だなんて欠片も思っていなかったです。むしろきらきら輝く王子さまに似た一等星のイメージでした」
 早口になって言ったら、昴が「すごい誉めてくれるなあ」と笑った。
「そりゃあ誉めるでしょう。だって――」
 顔がいいし、親切だし。
 そう続けようとして言葉を止める。そこまで言うと、本当に「すごい誉めて」いる感が強くなる。初対面で顔の良さを誉めるのって、あんまりよくないのでは……? 昨今のルッキズム問題が脳裏を過ぎる。
 気を取り直し、彼が名乗ってくれたから、あかねも自己紹介をして――互いの年齢も確認した。
 昴はあかねの六歳年下の、二十三歳。
「うわあ……。そんなに下だったんだ。若いなあとは思ってたけど」
 うなってしまったら、昴が困ったような顔になった。
「若輩者で、すみません」
「いえいえ、すまないことはないですよ。むしろこっちこそ、すみません」
 と、なぜか顔を見合わせて互いに謝罪する。
 なるほど、だから昴はぴかぴかしてるのかと、納得した。お肌なんて、すべすべつるつるじゃない。いいなあ。目の下のくまを気にしなくてもいいし、徹夜をした翌朝に、疲れじゃなくて活力がどばっと放出されるお年頃だ。
 これから向かうべき自宅住所もざっくりと告げ――道案内を口でして、それから――。
 昴は学生で、いまは「ふらりひとり旅」の途中であること。スマホケースが壊れたときに、瞬間接着剤で修理して、そのままリュックに入れっぱなしだったこと。問われるままに、自分のことをぽつぽつと話す。
「ああ。それで瞬間接着剤を持ってたんですね」
「うん。あれはいろいろと使える」
 昴は、重たいソファを抱え、後向きで歩いているのに、息をきらすことなく平気な顔をしている。一方、あかねは少し歩いただけで「ひぃ……」と悲鳴をあげてしまった。会社で段ボール箱に入った荷物を運んだりしているから、そこそこ腕力はあると思っていたけれど、なかなか厳しい。
「つらくなったら、休もう。言って」
「はい」
 というやりとりをくり返し、ところどころで一旦ソファを地面に置いて、また抱え直して――を三回やって、小さな神社がある細い小路を入って、あかねの住まいに辿りつく。
 山鼻マンションという名前だけはマンションで、けれどどう見てもアパート、という、造りがレトロな住まいは、古びたところも味わい深く感じて、あかねはけっこう気に入っていた。立地と広さからするとこの辺りでダントツで家賃も安く、働きだしてからずっとここで暮らしている。
 建物の裏側にぐるっと回ると、塀のない小さな庭に入ることができる。引っ越してきた当初はうきうきしてミニトマトを植えたが、すぐに飽きて、いまは雑草だけが生えている庭だ。
 隣の部屋は、大家の親戚が借りているらしいが、学生だという住人はここ数ヶ月、部屋を空けたまま帰宅していないようである。二階の住人たちは、札幌の繁華街すすきの地域に店を持っていたり、店に雇われていたりする人だらけで、夜のこの時間は出勤しているため無人だ。
 多少の騒音はたてても平気。
「あ、ちょっと待っててくださいね。なかからベランダの窓開けますから」
 ソファを置いてそう言うと「うん」とうなずいた昴が、興味深げに庭を見渡した。途端に、草だらけの庭が恥ずかしく感じられる。でも言い訳してもどうしようもないので、そそくさと玄関に走ろうとしたのだが――。
 またもやあかねは躓いた。
 今度は庭の雑草に足を取られて、手にしていたコンビニのレジ袋がひょいっと指から抜け落ちた。放たれたレジ袋を気にしたせいか、そのままつるんと足が滑って、盛大に尻餅をつく。
「ぎゃあっ」
 というとんでもない悲鳴があがり、お尻の下にコンビニ袋を敷く形で転倒した。尾てい骨から、ずーんと痺れる痛みがのぼってきた。
「大丈夫?」
「だ、大丈夫です……」
 昴の言葉にそう返して、立ち上がる。この場合、大丈夫じゃなくても「大丈夫」と言うしかない。
 尾てい骨を撫でながら、おそるおそる後ろを振り向き、地面に落ちているレジ袋を拾い上げる。手を差し入れて、なかを確認する。
 レモンサワーの缶がちょっとへこんでいるのは、いい。
 しかし。
 ――おにぎり、つぶれちゃってる。
 袋のなかで、おにぎりがふたつとも、平べったく変形していた。どうしてこうなったという感じにぺちゃんこだ。よく見ると、缶も、思ったよりつぶれている。お尻が痛かったのはレモンサワーの缶のせいだったようだ。
 ――だったら、レモンサワーの缶が緩衝材になって、おにぎりがつぶれるのをふせいでくれていてもよかったのに、どうして。
 ふわっとそんなことを思った。
 お尻は痛いし、変な大声をあげて転んだのを近くで見られたのも恥ずかしかったし、おにぎりがつぶれちゃったのも最悪だし。
 昴がおろおろとした様子で近づいてきて、顔を覗き込む。心配してくれているのだとわかるから、
「私は大丈夫だけど、おにぎりとレモンサワーが」
 と言って、笑ってみせようとした。
「……つぶれ、ちゃって……」
 そんなつもりはなかったのに、声が微妙に震えていた。
「残業で夕飯食べそびれてたから、帰ったらこれを食べようと思ってたんです。レモンサワーとおにぎりなんて、おかしいですよね。でも、私はけっこう好きで。炭水化物とお酒の同時摂取に、とどめにガツンと甘いものっていうのは、仕事が忙しくてもーやってられない! ってなったときの贅沢で……」
 いたたまれないからって、不必要なことを話しすぎだ。
 頬が引き攣っているのが自覚できて、なんとか笑おうと口角を上げようとしたら、どうしてかものすごく悲しくなった。
 鼻の奥がつんっと痛くなって、これはまずいなと思った。
 ――心が、折れる。
 つらいとか悲しいとか、やりきれないという感情をずっと溜めていたカップが、いまこの瞬間、満杯になったのがわかった。これまでなんとかやり過ごしていたのに、尻餅からの「おにぎり、つぶれて、ぺったんこ」で、とどめをさされた。
 どうして、おにぎりなんかで。
 でも、心を折る最後のひと押しは、理屈ではどうにもならないものなのかもしれない。
 ――テレビも壊れて、炊飯器も壊れて――電化製品に愚痴を言っていた自分自身にいたたまれなくなって――。
 積み上がっていたストレスがどっとこみ上げてくる。
 すぐ側に、昴がいることは、もはやなんの歯止めにもならなかった。
 むしろ昴がいることもまた、あかねの感情の堰を切る原因のひとつになった。
 見ず知らずの、見た目の整った優しい年下の男の目の前で、雑草だらけの庭で無様に尻餅をつく自分。
 恥ずかしいったら、ない。みっともないったら、ない。
 綺麗な夜にその手を取って、最終的に、尻餅をついて転ぶ滑稽な姿を見せてしまった。
 泣きたいし、もう、消えちゃいたい。
 ひしゃげたおにぎりを手にすると、涙がぽろりと頬を伝った。
 そうしたら――。
「そっか。仕事、忙しくてやってられなかったんだね」
 昴が言った。
 思いもかけない相づちが、あかねの胸をズドンと撃ち抜いた。
 たしかに自分でそう言ったけれど、それをくり返して、肯定しないでほしい。優しい声で、綺麗な目で、こちらを覗き込んでこないでよ。よけいに泣けてきちゃうじゃないか。染みるじゃないか。
「……っ、う」
 ひくっと喉が鳴って、さらに涙が溢れてきて止まらない。
「ご、ごめん。泣かせちゃった」 
 なぜか昴があかねにそう言った。謝るようなことは昴にはなにひとつないのに。
 昴は慌てた顔であかねに目線を合わせ、頬の涙を指で拭いた。冷たい指が肌の上を滑っていく。
「ちが、違いますっ……。昴さんは関係なくて、おにぎりがっ、つぶれたから……ッ」
 自分でもどうかと思う説明だ。でも、とどめがおにぎりで涙が出てきたのだからこれは本当。
「そんなにおにぎり食べたかったの? だったらいまから買ってくるよ。さっきのコンビニのでいい?」
「うっっ……どこまで親切なんですか。いいんです、おにぎりなんて」
 すんっと鼻を鳴らして、うつむいて身体を遠ざける。自分の泣き顔を隠したかった。変なところばかりを昴に見られている。
「ちょっと待って。だって、泣くほど食べたいんでしょ? あ、じゃあ、米はある? 米があるなら炊いて、おにぎり、にぎったげるよ。僕、料理わりと得意だよ」
 本当にどこまで親切なんだこの男はと、あかねは、泣きながらも呆れていた。
 やだなあ。こんなの好きになっちゃうじゃないか。
 これはもう、ひとめ惚れからの、優しさに惚れての片恋に待ったなしだ。
「米はあるけど……炊けません。炊飯器、壊れてるんで」
 そう応じて――自分の返答が奇妙に思えて、泣いているのに、笑ってしまった。
 泣いている最中に米があったら炊いて、おにぎりを作ってくれると提案され――炊飯器が壊れていると答える自分という流れが、おかしい。
 どこがどうおかしいと言えないけれど、全部がおかしくて、自分でも泣いているのか笑っているのかわからなくなった。
「炊飯器が壊れててもご飯炊けるよ。鍋はある?」
「鍋くらいはあります、けど?」
「じゃあ、炊くよ。ほら、お手をどうぞ、あかねさん。僕をあなたの部屋にエスコートして」
 そう言って、昴はあかねの手からコンビニのレジ袋を取りあげる。
「え?」
「僕ね、目の前で泣いてる人間がいたらなんとしても優しくしなさいって子どものときから言い聞かされて育ってるんだよ。うちの母親、すごく有能な紳士製造者なんだよなあ」
 澄ました顔の昴は、たしかに紳士に見えた。
 だからあかねは、また、笑ってしまった。そんな理由で、イケメンがおにぎりを作りたいと言ってくれることなんて、ある?
「実際、泣きだした女の子をほっとくなんてできないでしょ。僕の前で泣いたきみが悪いんだ。きみの部屋に上がらせてもらうし、米も炊くし、おにぎり作るよ」
 昴があかねの手を取って、歩いていく。今度はもう有無を言わせぬ感じ。大きな手が、あかねの指をぎゅっと握って、包み込む。
「鍵、開けて。ソファも入れるし、米研いで、ご飯も炊くから」
 手を握って先を歩く長身の背中に向かい、あかねはぼそりと返す。
「……無洗米です」
「はい?」
「うちは無洗米なんで、お米、研がなくてもいいんです」
 小声で言ったら、昴が後ろを振り返り、小さく噴いた。
「本当に、きみ、おもしろいなあ」
 それはこっちの台詞だよと思いながら、あかねは、黙って昴に手を引かれるにまかせたのであった。

 

 

 

 

 

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