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エリートパイロットは身代わり妻を離さない 3

第三話

 現れたのはパリの王子さま、上月悠人である。旅行に関係する仕事とはパイロットだったのだ。
 ──なんって、カッコイイの。
 身長が高くてモデル並みのスタイルには、パイロットの制服が劇的に似合う。思わず見惚れてしまうが、悠人は神妙な顔つきをしている。
「呼び止めて申し訳ない。ここできみを捕まえるのが良策だと思ったので」
「……なんでしょう?」
 悠人は言いづらそうにグッと口を歪める。その表情はどう見ても良い話ではなさそうで、穂香の心臓がバクバクと跳ねる。
 ──まさか、一夜を共にした代金を要求されるとか!?
 それとも日本にいる恋人にバレてしまって、訴訟を起こされるのか。
 彼のおかげでポジティブになって帰国したのに、今度はネガティブな想像ばかりが穂香の頭をめぐる。
 あわあわする穂香に「すみません」と落ち着いた声がかけられた。悠人の父である。
「息子からは話しにくいようだ。私は悠人の父、上月雄三です。JSLの社長をしております。如月穂香さん、率直に言います。あなたに悠人の妻を演じていただきたいのです」
「はい!? 妻、ですか!!」
「あなたは悠人の妻……新婚時から行方不明の上月清美にそっくりなのです」
 ──妻、妻って、結婚した妻だよね!
 混乱する頭に鉄鍋が落ちて来たように妻という言葉がガンガン響く。
 穂香はどう反応していいのやら、視線をさまよわせる。悠人が既婚者なのも、JSLの御曹司なのも衝撃な事実だった。
 なにより、悠人に浮気というか、不倫のようなことをさせてしまったことがショックである。
 ──それならそうと、言ってくれれば……でも、あんな状態の私には言えないか……。
 あれも彼のやさしさなのだろう。
 がっくり肩を落として、悠人に視線を投げた。
「行方不明なのは……事件に巻き込まれて、ですか?」
「いや、勝手に出て行ったんだ。清美とは……正直に言って政略結婚をしたんだが、四日間の勤務から戻ったら、彼女は『しばらく出かけます。定期的に連絡するから心配しないで』と手紙を残して、消えていたんだ。もう三ヶ月になるよ」
 悠人は吐き捨てるように言う。
 ──ああ、それでフランスからのエアメール……奥さんの定期連絡だったのか。
 それならば、あのときの悠人の態度も納得できる。
 ようやく見つけた! と思ったのだ。立腹して、攻めの言葉しか出ないだろう。
「でもどうして私が妻役をするんですか?」
「結婚した妻が行方不明だと世間に知られると、会社のイメージダウンになりかねないんです。できれば秘密裏に連れ戻して、しかるべき処置をしたい。それまでの間、あなたに妻役をお願いしたいんです」
 そう言って雄三はため息を吐いた。ほとほと困っている様子が伝わってくる。
 会社のための結婚。会社のために妻を探す。
 どうして彼女は出て行ったのだろう。たしかに愛のない政略結婚の生活はつまらないかもしれないが……。
 ──私が彼女なら、いくら愛がなくても、悠人さんのそばから離れないのに。
 パリでの彼はほんとうに王子さまのように素敵だったのだから、なんとももったいないことである。
 ついあの夜を思い出して顔が赤くなってしまい、ごまかしにコホンと喉を鳴らした。
「実は、近いうちにイタリア大使の就任パーティがあるんだ。それに夫婦で参加しないといけない。是非、穂香さんに協力してほしい」
 悠人が頭を下げるから、穂香は慌てて頭を上げるように言った。
「今まで公の場には、妻は病気だと言ってひとりで参加をしていたけど、いつまでもそんなわけにはいかないんだ」
「それは、そうですよね……」
 外出先でも近所でも一切姿を見なければ、悪い噂が立つこともある。
 たとえば、死亡説とか上がって警察の捜査が入ったりとか。たしかに会社のイメージダウンになる。
 行方不明だと公表すればマスコミが面白おかしく書きたてて、ネットでは推理という名の妄想が繰り広げられるに違いない。
「如月さんは無職だと悠人から聞いています。引き受けてくれるなら、相応の謝礼を支払うつもりです。住むところも悠人のマンションだから、生活に困ることはありません」
 これからどうするべきか考えていた穂香にとって、妻役の仕事と考えれば悪くない話である。
 しかも相手は悠人なのだ。穂香は乗り気になった。が、しかし。
「で、でも、私、上手くやれるんでしょうか」
 似ているとはいえ、他人なのだ。声も振る舞いも違う。親しい人に会えば簡単に偽物だとばれるだろう。
「つまらないことに巻き込んで、すまない。だけどどうしてもきみにお願いしたいんだ。似ているから、だけじゃない。フランスで一緒に過ごした穂香だから、頼みたいと思ったんだ」
 きみだから、という悠人の真摯な瞳にほだされる。
 詐欺師に騙されそうになり、無職になって、フランスでも金銭トラブルにみまわれた。
 これ以上に悪いことが起こるのか。いや、もう起こらないと思いたい。
 それにフランスで助けてもらい、やさしくしてくれた彼の役に立ちたいと思う。
「わかりました。妻役、頑張ります」
 意気揚々と言えば、上月親子は感謝するようにうなずいた。


 ◆◇◆◇


 ──まさか、一緒に住むことになるなんて。
 穂香のスーツケースを運ぶ彼をちらっと見上げた。
 背が高く爽やかな外見。王子さま然とした雰囲気は異国でのそれと変わらないが、彼は意外にも少し強引なところがあった。
『それじゃ、一緒に帰ろうか。着替えてくるからここで待っててくれ』
 穂香が身代わりの話を引き受けてすぐ、悠人は平然とのたまった。
『え、一緒にって、どこに?』
 心底理解できずに疑問符を浮かべた目で問うと、彼はきょとんとしていた。
『俺の家。妻なんだから、一緒に生活するのが当然だろう』
『え、それは……そう……なの?』
 夫婦でも恋人でもない若いふたりが同居してもかまわないのか。
 そんな意味を込め、雄三にちらっと視線を送れば無言でうなずいていた。
 ──いいんだ……。
 身代わり妻を演じるのはパーティだけだと思っていた。それなのに日常までもとは……平常心でいられる自信がない。
 フランスでの忘れられない夜の記憶は、穂香の心にも肌にも生々しく残っている。
 ──彼は、なんとも思わないのかな。
 悠人が穂香を見つめる目は再会時とあまり変化がなく、清廉さもあるように感じる。
 今は会社を守ることが先決で、フランスでの出来事は思考から追い出しているのかもしれない。
 悠人はJSLの御曹司だから、次期社長になるのだろう。企業イメージを良くしたいと思うのは当然のことだ。
『でも、帰国後すぐだなんて、ちょっと落ち着きたいな。旅行の荷物も整理しなきゃいけないし』
『ダメだ。自宅で落ち着いたら、きみの気が変わりかねない』
『そんなことは……』
 ──あるかもしれない。
 今は彼との再会に加え、とんでもない話を聞いたアドレナリンのおかげで意欲がある。けれども、帰宅すれば意気消沈して『やっぱ無理』と思いかねない。
『それに、今ならば誰の目に触れても、旅から戻った妻を迎えた体で帰宅できる。身代わりの生活をスタートさせるには、絶好のタイミングだと思わないか?』
 そう言って穂香のスーツケースを指し、綺麗な笑みを浮かべたのだった。
 必要な荷物は都度取りに行けばいいと言われれば反論する余地もなく、穂香は私服に着替えた彼とともに帰宅してきたのだ。
 空港からここまでは車で三十分ほど。最寄り駅からも近く、直行の電車に乗れば徒歩も含めて十分もかからないらしい。
 通勤に便利な立地とセキュリティの面で購入を決めたというマンションは、コンシェルジュが常駐するセレブリティな物件だった。
『旅から戻った妻を迎えた体で帰宅できる』
 おかえりなさいませと笑顔で迎えてくれたダンディな老人の笑顔を見て、悠人が言った意味が理解できた気がした。
「お邪魔します……」
「適当にくつろいでくれ」
 部屋の隅に穂香のスーツケースを置いた悠人はソファに座るよう勧めた。
 二十畳ほどもある部屋には応接セットと壁掛けのTVがあるのみ。シンプルというより、殺風景な印象で、新婚夫婦の家らしさがない。
 妻が結婚後間もなく出て行ってしまったのは真実なのだ。清美の置き手紙を見つけたときは、かなりの襲撃を受けただろう。
 結婚生活を送るために購入したのに、ひとりで住むなんて想像もしていなかったはずだ。悠人は帰宅するたびに虚しい思いを抱えていたに違いない。
 きっと、彼も結婚詐欺にあったような心持ちなのだ。
 穂香は少なからずの共感を覚える。
 すでに終わっている自分と違い、現在進行形で味わっている状態は辛く切ないものだろう。気の毒に思えてならない。
「こんなに広いところで、寂しいよね……」
 彼の胸中を慮ってほろりとしつつつぶやくけれど、当の悠人は意外にもけろりとした表情をしている。
「そうでもないかな。広いといっても、間取りは3LDKなんだ。十六畳の主寝室、十二畳の部屋がふたつしかない」
「や、十分広いと思う」
 生まれながらのセレブは、広さのレベルが違うようだ。
 十二畳の部屋の内ひとつには清美の荷物が入れてあるため、空いている方の部屋を穂香が使うことになった。
 ベッドはメイキングされてあり、いつでも就寝できる状態にある。穂香がここに来ることを前提に準備していたのかもしれない。
「これからのことを確認しよう」
 テーブルを挟んでソファに座ると、悠人はポケットからスマホを出した。
「見てくれ、この女性が清美だ」
 画面に出した写真は、ワンピースを着た女性がすまし顔で写っていた。新婚旅行時のものだという。
「う……たしかに、似てる」
 瓜二つと言えないまでも、TVのそっくりさんショーに出場できるくらいには似ている。穂香を清美と間違えたのもうなずけた。
「この、一週間の旅行から戻った五日後に、いなくなっていたんだ」
「旅行の時から計画してたのかな。そんな顔には見えないけど」
 というより、自分と同じような顔の人が悪だくみをしているなんて思いたくない。
「でも、しあわせに満ちた表情じゃないことはたしかだ。旅行中も楽しそうには見えなかったし」
「ずいぶんきっぱり言うのね」
「まあ、俺は……しあわせそうな顔を知ったから。楽しそうな様子も。清美の様子はそれとは全然違っていたんだ」
「え……、そうなの……?」
 顔を上げたら、悠人が自分をじっと見つめていた。
 それはとても真剣な感じで、穂香の胸がドクンと高鳴り、顔もかぁっと熱くなって思わずうつむいた。
 〝知った〟のは、いつのことか。まるで最近のような口ぶりだ。
 ──まさか、私のことを言ってるんじゃないよね? しあわせそうな顔って、フランスの夜のときのこと?
 話をしているのだから、悠人が自分をじっと見ているのは当然である。真剣な表情なのも、彼にとっては真面目な内容だからだ。
 言葉にも深い意味はない。
 ドキドキする心臓を無視して懸命に自意識過剰だと言い聞かせ、スマホに目を戻して真剣に考えるふりをした。
「えっと、その、とりあえず、清美さんの情報をちょうだい」
「俺が知ってることは少ないんだ」
 行方不明の妻の名は、上月清美二十九歳。
 実家は全国にリゾート展開している曾根崎リゾート。ホテルは旅番組でも紹介されることが多く、穂香も映像を目にしたことがある。
 悠人の説明によると、曾根崎リゾートは世界にも進出する勢いのある会社なので、JSLとの業務提携を念頭に雄三が進めた縁談だったらしい。
 ふたりが結婚した結果、リゾート地へのアクセス増、曾根崎リゾートの利用客増で、互いにWINWINの状態だという。
 妻が出て行ったことを除けば、政略結婚は成功している。
 業務好調なJSLとしては清美を連れ戻し、円満な結婚生活を送らせて盤石な関係を保ちたいのだろう。
 身代わり妻の契約期間は、行方不明の清美が戻ってくるまでだ。当面の目標は無事にイタリア大使のパーティを乗り切ることである。
「私の役目は対外的に仲睦まじい姿を見せることかな」
「完璧に清美になる必要はないんだ。パーティでは、俺の隣にパートナーがいると認識されれば十分だから」
「でもそれなりに似せないといけないんじゃ……? 言動とか仕草とか、なにか特徴があったら、指導してくれればできるかも」
 そう問えば、悠人は腕を組んで考え込んでしまった。
「特徴……これといって思い浮かばないな。上品だけど、少し高慢な態度というくらいだ」
 デート回数も少なく、一緒にいた期間があまりにも短いために、清美の仕草や口癖などを把握していないという。
「じゃあ、なにか思い出したら教えてね」
 上品で高慢。口調などの具体的な説明はなく漠然としているけれど、セレブ階級な人たちの態度はわかる。穂香は、かつてそのような人に接したことがあるのだ。
「穂香……この契約の間、自宅にいる時は『穂香』と呼ぶ。でも悪いけど、外出した時は『きみ』にするよ。お互いに混乱しないように、間違えないように、なるべく名前を呼ばないようにするけど」
 申し訳なさそうに言う悠人は、やはり誠実な人だと思えた。
「わかった。それじゃ、私は、いつでもどこでも悠人さんと呼ぶね」
 身代わり妻としての生活がスタートした。


 翌日、自分の部屋で荷物を整理していた穂香は唐突に思った。
 ──ひょっとして、ダンスもするのかな?
 なんとなく外国のフォーマルなパーティには、ダンスがつきものというイメージがある。
 それに以前TVで見た番組では、デビュタントと呼ばれる儀式で二十歳くらいの男女がずらりと並び、次々にパートナーを変えながらひたすらダンスをしていたのだ。やはり、外国の社交といえばダンスなのだろう。
 イタリアといえば情熱的な男性が多いイメージがある。パーティでも積極的に女性をダンスに誘いそうだ。
「ヤバイ……できないよ」
 誘われても断ればいいのだろうか。でも、社交のマナーとしては失礼にあたるのではないか。
 今まで外国人が主催するフォーマルなパーティとは縁がなかった。
 しかも今回参加するのはイタリア大使が主催の場だ。一般的な生活しか送っていない穂香にとって、なんとも高いハードルと感じる。
 身代わり妻として清美を演じることも大切だけれど、最低限のマナーを知っておくべきだ。ダンスもできれば、なお良いだろう。
 インターネットで検索してみるのもいいが、穂香には先生がそばにいる。
 ──悠人さんなら、作法も完璧だよね? 大使のパーティに招待されるような御曹司だから。
『明日は午後からスタンバイなんだ』
 昨夜の就寝前に、彼はそう言っていた。
 スタンバイとは、体調不良など何らかの要因でパイロットに欠員が出た場合、代わりにフライトをするため、空港で待機をする業務だという。
 悠人によると、パイロットは体調管理をしっかりしているので滅多に欠員が出ないというが、スタンバイ中は神経をとがらせてしまうんじゃなかろうか。出勤前もピリピリしそうである。
 ──でも今なら、話しかけても大丈夫よね?
 現在は午前九時。午後の勤務ならば、出勤までまだ余裕があるだろう。
 リビングを覗くと悠人はソファでくつろぎ、新聞を読んでいた。
 白いシャツにスラックス姿。長い脚を組んで新聞を持ち、紙面を見つめる表情は真剣で近寄りがたい雰囲気がある。
「オーラがすごい」
 思わずつぶやいて声をかけようか惑う穂香に気づき、悠人は紙面から目を上げた。
「ん、穂香、どうかした?」
「パーティのことで聞きたいことがあるんだけど、お邪魔かな? と思って」
「かまわないよ。なんでもどうぞ」
 新聞をたたんでテーブルに置いた彼のそばに行き、穂香はさきほど考えていたことを話した。
「迷惑かけたくないから、いろいろ教えてほしいの。作法はすぐにマスターできないと思うけど」
 真剣な穂香を見て、「そうだな……」とつぶやいて少し考えた様子の悠人は、ニッと笑った。
「パーティのマナーといっても、そう難しく考える必要はないよ。相手を敬って、好感を持たれるように接すればいいんだ。気負う必要はない」
 必要なのは相手の目を見て話し、笑顔を見せること。
「でも……ダンスは必要かもな?」
 コホンと喉を鳴らし、穂香をちらっと見た。
「やっぱり踊るの!?」
 やはり海外の要人に誘われて断るのは、失礼に当たるのかもしれない。まあそんなお方に、穂香がダンスを乞われる可能性は低いだろうが。
「今回はダンスパーティじゃないから、乞われることはないと思うけど、興が乗れば踊り出すかもしれない。今、覚えておいて損はないよ。ワルツを踊ってみようか」
「えっ? 今?」
 さらりと『踊ってみよう』と言えるほど、ダンスの経験があるらしい。王子さま然とした雰囲気は伊達ではないのだ。
 悠人はすっと立ち上がってスマートに手を差し出し、「よろしければ、お相手をお願いします」と余裕の微笑みを見せる。
 穂香は差し出された手を見て戸惑った。どうやってこの手を握ればいいのか。初心者はそこからである。
「えっと、学生時代のフォークダンスしか経験ないんだけど、大丈夫かな……。いきなりできるものなの?」
「習うより慣れろっていうだろう。何事も、まずはやってみることが肝心なんだ」
 さまよう穂香の手を悠人が取り、腰をそっと引き寄せた。密着とは言えないまでも距離がぐっと縮まって、彼の使う男性コスメの香りが鼻をくすぐる。
「もう少し近づいて」
 腕にぐっと力を込められ、腰を支えている手のひらのぬくもりを強く感じる。つい肌を重ねた時の感触を思い出し、穂香の胸がトクンと鳴った。
「きみの手も俺の腰に当てるんだ……それからパートナーである、俺の目を見る」
 言われたとおりに見上げれば、きれいな目が自分を見つめていた。
 あの時のような色香はないけれど、やさしげな表情から底知れぬ彼の魅力が伝わってきて、胸の鼓動がますます早まっていく。
 ──やだ、意識しちゃう。
 悠人はなにも感じていないのだろう。穂香は熱くなっていく体と胸のときめきを抑えるのに必死だというのに、彼から伝わってくる雰囲気はさらりとしている。
 あれほどまでに濃密な夜だったのに、覚えていないなんてありえない。既婚者だし一夜限りのことだから、意識して記憶の外に追いやっているのかもしれない。
 ──でも、意外にドライなのかな……。
「これがワルツの基本的な姿勢。男性がリードをするから、きみは身を任せて、足が動くままにすればいい。最初は右横に行くよ。動くほうに顔を向けて」
「え? 右を向けばいいの?」
 よくわからないまま右を見た刹那に悠人がぐんっと動き、穂香は慌てて右足を出した。
「左足を引き寄せて立つんだ。そしたら、次は後ろに下がって」
 悠人のすぅっと流れるような足さばきに感動したのもつかの間、すっと後ろに押されて足がもつれてしまった。
「うわぁっ」
 かわいくない声を上げてよろめくも、彼の腕でしっかり支えられている体は倒れることがない。
 けれど、柔らかく微笑む彼の顔がごく至近距離になり、別の意味で焦っていた。
「う……」
「大丈夫だ。絶対に転ばせないから、安心して身を任せて。リラックスすれば自然に足がついてくる」
 穂香を安心させようとする微笑みと優しい声は、かえって緊張させる。
 ──こんなの、ドキドキしないでいられないよ。
 そのあとも前後左右に動き、末にはぐるんぐるんと回される。運動神経のよくない穂香は、動きについていくのが精いっぱいだ。
 冷や汗をかいて目が回りそうになったころ、悠人の足が止まった。穂香を見つめてニッと口角を上げる。
「こんな感じだ。難しくないだろう?」
「とんでもない」
 悠人はさらりとのたまったが、ちっとも簡単ではない。
 パートナーの足を踏んでしまいそうで、無駄に脚をバタバタさせていたのだ。激しい動きではないのに、すっかり息があがっている。
 おかげで胸のときめきが吹き飛んだのは、幸いかもしれないが。
「マスターするの、絶対無理よ」
 優雅にできるようになるには、何年もかかりそうだ。上手くなる前に身代わり妻の役目を終了しているだろう。
「いや、はじめてにしては上手だよ。練習すれば、すぐにスムーズに踊れるようになる。ちょっと待ってて」
 肩で息をする穂香をソファに座らせ、彼はキッチンに向かった。コップに水を汲み穂香に渡してくれる。
「ありがとう。悠人さんは上手だよね。ダンスを習ったの?」
 そう問えば、彼はなぜかきょとんとした表情をする。
「特には……踊っている人たちを見ていたら、自然にできるようになっていたんだ。踊れるのはワルツだけだけど」
 だから、習うより慣れろなんてのたまったのだ。きっと彼は器用なのだろう。スポーツも、あらゆるジャンルをこなせそうだ。
 キスもセックスも上手だったし……。
『淫魔が導く限界は、こんなもんじゃないよ?』
 ──って、私のバカ! また思い出しちゃったじゃない!
 体がカーっと熱くなり、思わず自分の頬をぺしっとたたいた。悠人は真面目にダンスを踊ってくれたというのに、心が不純すぎて恥ずかしい。
 きっかけがあれば、ひょっこり顔を出すフランスの一夜。あのときに忘れられない夜を願った自分が、少し恨めしくなる。
 そんな穂香の様子を不思議そうに見たあと、彼はちらりと壁の時計に目をやりフライトバッグを持った。
 バッグの中には操縦用のグローブやパスポートにオペレーションマニュアルほか、忘れてはいけない操縦士の技能証明書や各書類、航空法で所持するように定められたものが入れてあるそうだ。
「そろそろ出るよ」
 スタンバイとはいえフライトの可能性がある直前まで、穂香の下手なダンスに付き合ってくれたのだ。改めて感謝の気持ちがわく。
「ダンス、教えてくれてありがとう。ひとりでも練習してみるね」
 穂香が照れながらお礼を言うと彼は「ああ」とつぶやきながら微笑みを返し、ふと思いついたように「そうだ」と言葉を継いだ。
「稼働しなかったら七時くらいに帰宅するから、外に食事に行こう。どちらにしても、連絡するよ」
「了解。行ってらっしゃい」
 空港に向かう彼の背中に笑顔を向けて手を振り、ふぅっとため息をついて天を見上げる。
「ほんと、素敵な人だよね……」
 手も腰も、彼に触れられていたところが妙に熱く感じる。
 こんな人が恋人だったら……などと好感を持っていた相手なのだ。好きにならずにいられるのか、すでに自信がない。
「だめだよ。彼には奥さんがいるんだから」
 彼との生活は心中が波乱万丈になる予感がした。