エリートパイロットは身代わり妻を離さない 4
第四話
「この服でいいよね?」
独り言ちてスタンドミラーの前で一回転し、全身をチェックする。身に着けてるのは手持ちの服の中でも一番上品な水色のワンピースだ。
ふわっと広がる裾に控えめなレースがついていて、お嬢さまふうのスタイルが気に入っている。
これならば今夜の食事の場にふさわしいと、鏡に向かってにこっと笑った。
【今日は稼働しなくて済みそうだ。クオードを予約したよ。外出する支度をして待っててくれ】
悠人から驚愕のメッセージをもらったのは、午後五時のことだった。
「クオードって、あの五つ星フレンチレストランのクオード!?」
数多くの料理コンテストで金賞を受賞し、皇族方の晩餐会でもシェフを務めたという、楠瀬力也が経営するレストランだ。
予約は半年待ち。クリスマスのディナー枠は瞬殺で、過去には予約のアクセス過多でサーバーが落ちたこともあるという、あのクオードなのか。
そんなところならば、ドレスコードがあるに違いない。普段着ではだめだと、慌てたのは言うまでもない。
電車で一時間ほどかかる自宅に取りに戻るのも、買いに行くのも時間が足りない。どうするべきか迷った穂香はハッと思い出した。
本場の高級レストランで食事をしようと思って、スーツケースに入れていた水色のワンピースがあることを。
フランスでは悠人のおすすめメモに書かれていたレストランで済ませていたから、結局袖を通すことはなかった。
それが今ここで役立つとは、夢にも思っていない。惜しむらくは、この服に似合う上品なアクセサリーがないことだ。
メイクをして髪を丁寧に梳かしたとき、玄関のほうから物音がしてきた。悠人の帰宅である。
──頑張ってきれいにしたけど、悠人さんはどう思うかな。
気恥ずかしさを感じながら彼の前に立って微笑んだ。
「おかえりなさい。ドレスコードに合うようにしてみたんだけど、どうかな?」
悠人は一瞬目を見開いてすぐ、いつもの微笑みに変わった。
「完璧だ。少し見違えたよ」
「ありがとう」
「じゃあ、行こうか」
彼は出かけた時の格好とは違い、すでにスーツ姿だ。御曹司たるもの、あらゆる事象に備えて空港には着替えを常備しているのかもしれない。
マンションの前にはタクシーも停まっていて、クオードに向かう手筈は万端に整っていた。彼こそ完璧である。
クオードには二十分ほどで到着した。
植木に囲まれたフレンチスタイルの白い壁の一軒家。そこかしこでライトアップされた植物が壁に影を落として、ムーディな雰囲気を醸し出している。
こんなレストランで食事をするのは初めてだ。穂香の乙女スイッチが入り、ワクワクしないでいられない。同時に緊張感も芽生える。
「いらっしゃいませ」
白いシャツに蝶ネクタイと黒いジレ、細身のスラックスをすっきり着こなしたウェイターがお手本のようなお辞儀をする。
悠人が名を告げると心得たように微笑み、店の奥へ案内された。
店内は温かみのあるオレンジを基調としたインテリアで統一され、アンティークふうのシェードが各テーブルを柔らかく照らしている。
身代わり妻となって初めての食事デート。悠人に恥をかかせないように、上品に振る舞えるよう精いっぱい頑張らないといけない。
ウェイターが引いてくれた椅子の左側にまわり、寄せてくれたそれに姿勢よく腰掛けた。向かいに着席した悠人にエレガントな微笑みを向けると、同様に返してくれる。
すでにコース料理をオーダーしていたようで、静かに料理が運ばれてくる。
グラスに注がれたワインはシャトー・オー・ブリオン。二〇一四年物で、ボルドー色が濃く、口に含めば凝縮された果実の風味と豊かな香りが広がる。
「おいしい」
「二〇一四年はワインの当たり年と言われてるんだ。豊富な日照で育ったブドウは豊作で、完熟したものを選りすぐって収穫して熟成されてる。この豊かな香りと程よい渋みが好きなんだ」
悠人はワインに詳しいようだ。うんちくを語るけれど、しつこくはない。
程よいところで止め、ワイングラスのステムをそっとつまむようにして持つ穂香に、欧米での持ち方を教えてくれる。
「国際的な場ではステムじゃなく、ボウル部分を持つんだ。よく使用されるボルドーグラスはボウルが大きめだから、ボウル部分を持ったほうが安定するから」
それからワインを注ぐのはウェイターかソムリエの役目だから、自分たちで注ぐのはNG。空になったグラスをテーブルの上に置いておくのがマナーだともいう。
今夜このレストランに来たのは、半分は食事マナーの教授のため、半分は穂香との食事を楽しむためだという。
「でも評判通りの素敵なお店。料理もおいしいし、雰囲気も最高。ここを予約するの大変だったでしょう?」
リザーブされていた席は窓際で、ライトアップされた庭木のありようが美しく眺められるところだ。普通でも難しいと思えるのに、今夜は当日なのだ。奇跡ともいえる。
彼はどんな魔法を使ったのか。
「ああ、そうでもないかな……実はここの楠瀬シェフとは友人なんだ。だから多少の無理は聞いてもらえる。その代わりに、こちらも急な航空券の手配には融通しているよ」
友人とは驚きだ。シェフはたしか三十代半ばほどの年齢だったと記憶している。
──そういえば、悠人さんの年齢も三十二歳だったっけ。
「でもシェフのほうが年上よね?」
「高校時代、フランスに一年間留学してたんだ。そのときに、修行に来ていた彼と知り合ったんだよ」
「そっか。だからフランス語が堪能なのね」
悠人が助けてくれたときを思い出して、フフフと笑ってしまう。
あのときは旅行雑誌のライター兼モデルか動画配信者だと思っていたのだ。そう話すと悠人は少し照れたように笑った。
「そのときに、観光地にも詳しくなったんだ。おかげできみに楽しんでもらえたから、留学は大成功してる」
旅の思い出話に花が咲く。彼に教えてもらった場所の観光エピソードを話すと、時には笑い、時には残念そうにして聞いてくれる。
「フランスでも思ったけど、きみは食事の時の姿勢が綺麗だね」
「父が食事のマナーにうるさい人だったので、子どものころに厳しくしつけられたの。『食事は人間性が出る。どこに出ても恥をかかないように』って、少しでもお行儀悪くすると叱られたし……おかげで、嫌いなものもおいしそうに食べる演技も身についちゃったよ」
子どものころは父と食事をすることが憂鬱だったけれど、大人になった今はとても感謝している。
高級なレストランでセレブな悠人と一緒にいても、緊張せずに振る舞えているから。
楽しい時間はあっという間にすぎ、気づけば二時間ほども経っていた。デザートも済んだため失礼して化粧室に立ち、戻ると悠人はシェフ姿の男性と談笑していた。
悠人から互いに紹介されて、雑誌に載っていたそのままの容姿の楠瀬力也がスッと頭を下げたので、穂香も会釈を返した。
「お料理、とてもおいしかったです」
「悠人のいうとおり、素敵な人だ」
楠瀬はニカッと笑い、悠人の肩をガシッと掴んだ。
「こいつはたまに意地悪な時があるけど、悪気はないんで、よろしくお願いしますね」
「意地悪なんて、とんでもないです。とてもやさしいですよ」
ばつの悪そうな顔をしている悠人がおかしくてくすくす笑うと、楠瀬は笑顔で無言のまま彼の肩をバンバンたたいていた。仲の良さがよく伝わってくる。
「また、食べに来てください」
そういう楠瀬に「ぜひ」と返し、悠人とともに外に出た。十一月の冷たい風がワインで火照った肌を心地よく冷やしてくれる。
ほんとうにまた食事に来られたらうれしい。そう思いながら悠人の横に並んだ。
☆☆☆
穂香と食事を終えて自宅に戻った悠人は、自室に入りネクタイを緩めた。
変わらずにおいしい料理とワイン。それに上品に着飾った如月穂香の存在。
カジュアルなスタイルとは違う彼女の清楚な雰囲気に見惚れ、一瞬呼吸を忘れたのは、身代わり妻である本人には言えないことだ。
──楽しい食事をしたのは久しぶりだな。
クオードでの会話を思い出して、ふと微笑む。
フランスでのエピソードを語る穂香のくるくるとよく変わる表情は、日々パイロットとして多くの命を預かる責任と緊張で心が張りつめている悠人にとっては、和み癒される魅力が十分にある。
現地でも同じように感じていた。
穂香の言動一つ一つが面白く、仕事の重責と行方不明の妻への憤りや遅々として進まない捜索に対する焦燥感が、すべて吹き飛ぶほどの楽しい時を過ごせていた。
『清美が行方不明だと、誰にも知られないようにしろ。あちらの両親にもだ』
雄三の言葉に縛られ、悠人は日常的にぴりぴりしている。そんな感情がさらりと流されたのだった。
だから穂香に『今だけ恋人にしてほしい』と言われたとき、断ることができなかった。
JSLの御曹司という身分と憧れられる職業のおかげか、悠人は女性から誘われることが多い。
独身時代からスキャンダルに合わないように心掛け、身持ちを固くしているため恋人でもない女性からの誘いはすべて断ってきた。結婚した現在は、なおさらに拒否しなければならない。
でもあのときは違っていた。妙に別れがたく感じていたから、誘われた困惑よりも喜びがわいてきたのだ。
夜明けまで、彼女と一緒に過ごせると。
『忘れられない夜』を願う穂香に対して、わざと印象に残るような言動をし、彼女がオーガズムを得られるように精いっぱい努めたのである。
おかげで悠人も彼女の肌とぬくもりを忘れられないのは、ちょっとした誤算だった。
どこもかしこも柔らかい肢体。白く滑らかな肌がほのかにピンクに染まり、恍惚に酔って潤んだ瞳が自分を見つめてくる。
──まいったな……。
卑猥な妄想がむくむくとわいてくるのは、健康な男子ゆえに仕方がない。
『天使なの?』
天使は穂香だ。
しかし身代わり妻である穂香に体の関係を求めてはいけない。しっかり線を引いて生活しようと自分を律している。
だが、ふとしたきっかけで『触れたい』と思う気持ちが表に出てしまうときがある。ダンスを利用したのは、自分ながらに悪い男だと思う。
──不必要に触ってないから、許してくれよ……。
穂香に好意を感じているのは否めないが、愛情のそれとはまた違う気もする。
大使のパーティ問題が浮上したとき、真っ先に彼女のことが浮かんだ。身代わり妻を依頼するなど、非常識なことだとわかっている。
──彼女のことは、決して悪いようにはしない。悲しませるようなことは、絶対にしたくない。
とにかく今は、清美の行方を捜すことが先決である。
悠人は窓のそばに立ち、はるか遠い空を睨むようにして暗い夜空を見上げた。
☆☆☆
「あらぁ、こちらもよくお似合いですよ!」
「ほんとう。白い肌だから、濃色よりもパステル系の色が映えますね!」
パーティ用のドレスがひしめくように置かれた部屋。上品なスーツを着て髪をきっちりまとめた笑顔の女性たちが、かわるがわるに穂香を褒めまくる。
穂香には鏡の中にいる自分の姿が、どうにも分不相応に見えて仕方がない。
二着のドレスを手にしたスタッフが穂香に掲げて見せる。
「奥さまはどちらがお好みでございますか?」
「えぇっと、迷いますね……どちらも綺麗で」
冷や汗が出そうになるのを耐えて答えると、彼女は様子を見守っている悠人に視線を向けた。
「ご主人さまはいかがですか?」
「そうだな……もっと彼女の清楚さが引き立つものがいいな。エレガントなものを」
──清楚って……!
自分には一番遠いところにある言葉に思え、またまた冷や汗が出そうになる。
「お二人とも、どれもピンとこない、でございますね。セクシーよりもエレガント……それでは、こちらをお召しになってみてくださいな」
「そのあとは、こちらも」
嬉々として差し出されるドレスを見て、穂香は苦笑いを浮かべた。
──どれも、お高そう……。
商品を買うときは最初に価格を見る穂香にとって、持ち込まれている価格表示なしのドレスやジュエリーは恐怖でしかない。
「あの、悠人さん……」
これ全部、桁が一つか二つ多いんじゃ? の言葉をぐっと呑み込み、目で訴えた。
──私、こんなの買えないよ! どうしよう?
そうすれば、悠人はにこっと微笑む。
「遠慮せずに、きみが気に入ったものにすればいい」
ということは、彼が代金を支払うわけだ。実際は赤の他人とはいえ穂香が役目をこなすための購入品だから、必要経費ということだろう。
しかしあまりにもこともなげにおっしゃるので、穂香は心中で悲鳴を上げた。
いくら自分の懐が痛まないにしても、値段を気にせずに選べるほどの度胸はもっていない。
着替えるたびに、これのお値段は? と訊きそうになるのをぐっと堪えた。社長令嬢である清美がいうセリフとは思えないからだ。
「迷うなら複数選んでもかまわないよ。次回に着ればいいんだ」
──えっ、その予定もないのに、太っ腹すぎ!
「まあ! 素敵ですわ! さあ、奥さま。ご主人さまのお許しがでましたし、どんどんお召しになってくださいな」
複数購入の可能性がありと聞き、らんらんと目を輝かせたスタッフがドレスを押し付けてくる。
穂香は乾いた笑い声をだして受け取った。
こうなったのは、クオードで食事をしてから数日後のことだった。
『ねぇ、悠人さん。パーティの服なんだけど、どんなものがいい? 日本らしく着物がいいのかな』
この問いかけから、穂香の着せ替え人形化が決定したのである。
『いや、ドレスがいいだろう。俺の休みは二日後なんだ。そのときに選ぼうか』
『ひょっとして、買わないとダメかな?』
『もちろん。それまでに準備しておくよ』
約一ヶ月後にせまったパーティに着る衣装。穂香はレンタルで済ませるつもりでいたが、御曹司の妻ともなれば、そうはいかないらしい。
それにしても、準備とは〝お店が丸ごとマンションに来ること〟とは、さすがに思っていなかった。
知らされていた時間の十時頃に身支度を済ませ、まだ出かけないのかな? と思っていた矢先にインターホンが鳴ったのだった。
彼が応答して招き入れた途端に、ハンガーラックごとドレスが運び込まれ、それに見合うジュエリー類や靴もずらりと並べられたのだ。
行商を招き入れたマリーアントワネットさながらの事態である。
言葉もなくおののく穂香に「さぁお召しになって」と、次々にドレスが渡され……着せ替え人形と相成っている。
もしかしてセレブの買い物は、これが常識なのだろうか。店舗に足を運ぶことなく、自宅で商品をゆっくり選ぶ。
「うん、やはり彼女には淡いブルーがよく似合うな」
彼のひとことでスタッフがいそいそと動き、ドレスの山から希望の色のドレスを探し出してくる。
「こちらなどいかがでしょう? マキシ丈の総レースがエレガントなドレスでございます。デザイナーは日本人ですが、欧米のセレブからの人気が高いお方なんですよ」
「うん、いいね。じゃあ、こちらを彼女に」
悠人が後ろを向いている間にドレスを替えると、鏡に映っている自分の姿が見違えるほどにきれいに見えた。
──これ、素敵……。
思わずくるんと回ってみると、くるぶしまである裾がふわっと広がった。これならば穂香でも歩く姿が上品に見えるに違いない。
「まあ、今までで一番お似合いですよ!」
「さすがご主人さまのお見立て。奥さまにお似合いのものをよくご存じですね! 上月さまいかがですか?」
こちらを見た悠人の目が、ふと眩しいものを見るように細められる。
「ああ、きれいだ」
ついでふわっと微笑むから、穂香の胸がトクンと鳴る。
──ダメよ、ドキッとしちゃいけない。
彼は御曹司なのだ。下の者に向ける柔らかい微笑みも優しさも通常運転だろう。そのうえ容姿端麗なのだから、罪な人である。
今まで何人の女性を虜にしてきたのか。穂香も篭絡寸前に追い込まれるのは、時間の問題ではなかろうか。
『彼は既婚者』『彼は人のもの』と心中で必死に唱え、悠人に微笑みかけた。
「このドレスにしてもいいかしら?」
「ああ、それなら、俺がアクセサリーを決めてもいいか?」
テーブルの上に並べられた数多のジュエリーを指差す彼に、笑顔を崩さないまま余裕そうにうなずいてみせた。
「ええ。どうぞ」
内心は自分でアクセサリーを選ばずに済み、ホッとしている。
陳列されているものは全部本物の宝石だろう。ドレスよりも高額と思える品々だ。身代わり妻の穂香には荷が重すぎる。
──悠人さんは、それをわかってくれてるのかな。
「鏡の前で待っててくれ」
穂香に言葉を残し、悠人はスタッフの説明を受けながらジュエリーをひととおり眺めている。
悩んでいるであろう背中が、なんとも魅力的だ。
時折こぼれる声も耳に心地いい。
あんなふうに選んでもらえる女性は幸せだろう。もしも穂香が偽物妻でなかったら、とても幸福な光景なのに……そう考えてしまうのは、いけないことだ。
ややあって、ひとこと「ふむ」とつぶやいた悠人は、さっと手に取って穂香のほうに歩み寄ってくる。
どんなアクセサリーを持ったのか、穂香からは見えなかった。
「きみは後ろを向いて鏡を見ていてくれ」
にこっと笑う悠人は秘密主義なのか。アクセサリーを持った手を背中側に隠している。
素直に背を向けると、鏡には自分の背後にいる悠人の姿が映っていた。彼の顎のあたりが穂香の頭頂部にあって、身長差がよくわかる。
──ヒールの高い靴のほうが彼とのバランスがよさそう。
スッと現れた彼の手がデコルテに触れ、抱きしめられるかのような錯覚に陥って胸が高鳴った。
視線を落とした彼の表情が甘く見えて、さらに鼓動が早くなる。
女性にアクセサリーをつけるなんて、恋人にするような行為だ。身代わり妻だからしてくれるのだけれど、勘違いしそうになる。
──吐息が髪にかかってる気がする……。
悠人は人をときめかせている自覚があるのか。無自覚ならば、とんでもなく罪作りな人だ。
「金具をつけるから、髪を上げてくれないか」
ヒソ……と囁きかける声が色っぽくて、体温が熱くなる。鏡の中にいる自分の頬がどんどん赤くなっていった。
──ううう、恥ずかしい。
二人きりならば距離をとれるのに、今はスタッフたちの視線を痛いくらいに感じて、逃げることもかなわない。
片手で髪を上げてうなじをさらすと、少しかがんだ彼の顔がよりいっそう近くなった。
まるで、うなじにキスをするような距離感に思えてしまう。
意識しすぎだ。
吐息が首にかかっている気がするのは妄想で、くすぐったいのは彼の手が首筋に触れているから。
男性にネックレスをつけてもらうのは初めてだ。しかも相手が好きになってはいけない人だなんて、出会いの神に恨み言を言いたい気分だ。
「いいよ、おろして」
腕に触れる彼の手が少し冷たい。
──もしかして、緊張してたの? それとも私の体温が熱いだけ?
女性慣れしてそうな悠人の意外な面に驚いて振り向くと、少し照れたような表情をしていた。
「よく似合うよ」
「あ、ありがとう」
彼が選んだネックレスはドレスのネックラインに合うショートなもの。クリスタルとパールが上品に組み合わされ、首元に寄り添うような華奢なデザインだ。
ドレスによく合う。
「……かわいい。悠人さんはセンスがいいのね」
「ほんとうにそうですね! 耳元を飾るのは同じデザインのピアスがございますが、いかがなさいますか?」
「彼女も気に入ったようだから、セットにするよ」
ドレスは適度なお直しが必要で、スタッフの一人がお針子のようにサイズ合わせをし、後日アクセサリーと一緒に届けてくれることになった。
スタッフたちはほくほくの笑顔を残して撤収していった。穂香のマリーアントワネットの時間は終了となり、胸のときめきだけが残っている。
さっき悠人の手が首元から離れていく刹那、穂香は残念な気持ちになってしまっていた。抱きしめてくれるはずがないのに、期待していた。
心の底では願っているのだろう。
──悠人さんが、私に気持ちがあるわけがないのに。
でも、心なしか自分を見つめる目に熱があるように感じる。気のせいだと思う。いや、思わないといけない。
「悠人さん、お腹空いてない? 簡単なもの作るね」
「じゃあ、俺も手伝うよ」
「悠人さんはダメ。素敵なドレスとアクセサリーを選んでくれたお礼なんだから。ソファに座ってくつろいで、暇ならTVでも見ながら待ってて」
それでも、なおも一緒にキッチンに立とうとする彼を懸命に制して、穂香は冷蔵庫を開けた。
悠人が変則勤務のため、食事を一緒にすることが少ない。穂香は三食自炊しているが、悠人は外で済ませてくることが多い。
同居を始めて一週間余り経つが、彼のために食事を作るのは今回が初めてだ。少しドキドキする。
冷蔵庫にはハムとチーズと卵、野菜室にはトマトと葉野菜がある。
──たしか、彼には苦手なものはないよね。
二度しか食事を共にしてないが、食べ物をよけていたことはない。
「オープンサンドでいいかな」
自分の胸に芽生えそうな彼への感情をごまかすように、食パンにからしマヨネーズをガシガシ塗った。