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僕の手の中に落ちてこい
完璧紳士の優しい執着愛 【白石さよの名作4冊刊行記念キャンペーン対象商品!】

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書籍紹介

ずっと君に触れたくてたまらなかった

出世頭のエリート・黒木との見合いが決まった里英。
分不相応な相手に戸惑うものの、黒木はその場で結婚を宣言。
里英もまた優しく包み込むような彼の人柄に惹かれていく。
「ずっと触りたかった」
堪えきれないとばかりに激しいキスをされ、巧みな愛撫に下腹は疼く。
それなのに彼は最後まで抱こうとしない。
もっと彼が欲しいのに、なぜ……。
完璧紳士が秘める、愛の真実とは!?

ジャンル:
現代
キャラ属性:
インテリ
シチュエーション:
オフィス・職場 | 玉の輿・身分差 | 甘々・溺愛
登場人物紹介

黒木裕一(くろきゆういち)

生え抜きのエリートで、何事もそつなくこなす。上司、部下ともに受けがいい。端整な顔立ち。本社から出向している出世頭。

瀧沢里英(たきざわりえ)

細身で古風な顔立ち。社内恋愛をしていたが、突然フラれてしまった。その後、黒木との見合い話が持ち上がって……。

立ち読み

 

 

 

 暖房のきいたロビーからガラス扉を抜けて庭園に出ると、一月の冷たい風が薄いワンピースの裾を揺らした。
「池まで歩きますか?」
「はい」
 寒さのせいなのか、人生初のお見合いというこの状況のせいなのか、足元から震えが這い上がってくる。こちらを軽く振り返った長身の男に頷いてみせ、ぎこちなく微笑み返した。
 ここは都内の格式高い老舗ホテルだ。広大な敷地には池の周囲に小道を巡らせた日本庭園がしつらえてあり、ガラス張りのロビーから四季折々の風情を楽しめるようになっている。友人の結婚式で訪れたことはあるが、まさか自分がここでお見合いをすることになるとは夢にも思わなかった。あんなことがなければ、お見合いなどすることはなかったのに……。迷いを心の隅に追いやり、男の背中に続いた。
 さきほどロビーラウンジで引き合わされた彼の印象は予想していた通りだった。穏やかながら隙のないクールな紳士──そんな感じだ。
「黒木裕一です。どうぞよろしく」
 こうした席に抵抗がないのか、淡白な彼の挨拶に少し拍子抜けする。
「瀧沢里英と申します。初めまして」
 本当は“初めまして”ではない。私たちは部門こそ違えど同じ社の社員で、私は以前から彼のことを知っていた。そんな挨拶をしてしまったのは、私にはこのお見合いに後ろめたい動機があるからだ。社内ではかなりの有名人である彼は、経理部の片隅の社員がひっそりと抱える事情など知る由もないだろう。
 お見合いといっても社内の人間同士だけにくだけたもので、立ち会うのは相手方の部長夫妻だけだった。夫妻が私たちの仕事のことや趣味に話を振る間、緊張と刺すように痛む良心のせいで、私はあまり彼と目を合わせることができずにいた。
 土壇場になって今さらだが、二人きりになるのが怖くなる。勘の鋭そうなこの男に、復讐のために結婚するつもりだと見破られたら?
“お二人でお庭にでも”
 それでも避けられるはずがない。しばらくの雑談のあと、ついにお見合いの定石通りの夫人の言葉で、私は彼と二人きりでこうして庭園をそぞろ歩く羽目になったのだ。
 場所柄、この庭園はお見合いや式の写真撮影に使われることが多いらしい。しかし和装前提の砂利敷きの小道は、ヒールには不向きだった。
「足元に気をつけて。靴は大丈夫ですか?」
「はい、大丈夫です」
 斜め前を歩く男から私の細いヒールを気遣う言葉がかけられた。仕事では沈着冷静なやり手だと聞いているが、この細やかさは仕事で培われたものなのか、優しさなのか。爪先立ちの不格好な歩き方をごまかしながらこっそり斜め前の彼を窺うと、涼しげな表情を浮かべた彼の視線はまっすぐ前を向いていた。ほっとしたような、物足りないような、不思議な気分になる。
 こんな寒い時期に庭園にいるのは私たちぐらいだ。景色を愛でる余裕もなく、早く戻りたいと願いながら、カチカチ音を立てそうな歯を食い縛る。しかし庭園は思ったより狭く、ロビーから見えていた小さな石造りの橋がかかる池まで歩くのに数分もかからなかった。
 それまで当たり障りのない会話を繋いでくれていた彼がふと口をつぐみ、池のほとりで足を止めた。私も彼の隣に並び、薄氷の浮いた池を眺める。灰色がかった冬景色の中で、池のほとりの紅梅の彩りが小さな灯りのように暖かく目に染みた。
 しばしの沈黙に落ち着かず視線を動かすと、友引の週末だけにたくさんの婚礼客でロビーがごった返しているのが目に入った。微妙な距離で所在なげに佇む私たち二人は、あちらから見ればお見合い真っ最中だと映るだろう。どうか知り合いが居ませんように。いや、噂になった方が私には都合がいいのかもしれない。
 そんなことをぼんやり考えていると、不意に彼が口を開いた。
「その服装では寒いでしょう。お貸しできるものがなくて申し訳ありません」
「いえ……」
 二人ともコートをクロークルームに預けたまま外に送り出されてしまったことを言っているのだろう。部長夫妻も慣れない状況だったのか、やけにせかせかと強引だった。彼は少し気遣うように微笑んでから、池に視線を移した。
「冷えますから、手短にお話しします。あなたには先にお伝えしておきたいので」
 優しい声とは裏腹に、彼の言い回しにどこかビジネスライクに改まったものが感じられて身構える。申し訳ないが今日は義理で来ただけなので……などと断ってくるのかもしれない。
 ところが、薄氷の下で泳ぐ鯉を見つめたまま、彼はまったく逆のことを言った。
「僕はもう決めています。この話、お受けすると」
 出会って三十分、二人きりで会話を始めてわずか五分。いきなりの即決宣言に絶句する。普通なら今晩か明日、間に立つ部長に返答するものなのに。
 あまりの呆気なさに思わず彼を見上げた私はさらに戸惑った。彼の横顔にはこんな場面にふさわしい微笑みはなく、どこか冷めた目で静かな水面を眺めていたからだ。
 しかしそれは見間違いだったのか、一瞬のまばたきのうちに彼は穏やかな表情に戻っていた。
「あの……私は……」
 自分が答える番だと気づいて慌てて口を開いたが、咄嗟に言葉が出てこない。
 このお見合いは普通とは少し違う。相手は社内の人間、しかも双方の部長の仲介となれば、一度決断すると白紙には戻しにくい。それをわかった上で臨んだのに、いざ決断の時を目の前にすると、自分が足を踏み入れようとしていることの罪深さに怯んでしまった。
「別に今、答えを決めなくていいですよ。直接伝えるのがいいと思って僕が勝手にしたことなので」
 彼が小さく笑って言った。
「部長には今晩にでも僕の意思を連絡しておきますが、あなたは急がず考えて下さい」
 そこで初めて彼は私をまっすぐに見た。清潔感のある理知的で爽やかな顔立ち。穏やかで丁寧な物腰、優しげな微笑み。文句をつけるところは何も見当たらない。相手には不自由しないだろうに、こんな申し分のない男性がなぜお見合いを? 動揺しながらも頭の片隅は妙に冷静で、この話を受けてから何度も不思議に思ったことがまた脳裏を掠める。
 その間に彼の視線はホテルロビーに戻る小道に向けられていた。
「戻りましょうか。風邪を引かせるわけにいきませんから」
 せっかくだからと、来た時とは違う道を二人並んで歩き始める。動転し続けているせいか、歯の根が合わないほどだった寒さはもう感じない。でも、私の足はさっきよりも震えていた。
 見ず知らずも同然の、愛してもいない男と結婚するということ。本当にできるの? 本当に、これでいいの……?
「危ないですよ」
「えっ……?」
 不意に彼の腕が伸びたので反射的に身をすくめる。
「……枝が顔に当たるところでした」
 私の顔の前に突き出していた枝を払ったせいで触れるほど近づいた彼から、ふわりとほのかな香りが漂った。
「ごめんなさい。ぼんやりしていて」
「いいえ。僕が動揺させたせいですね」
 彼の香りが余韻を残して遠ざかると、なぜか背筋がざわついた。
 まもなく木々を抜けてロビーが見えてきた時、彼が可笑しそうに噴き出した。
「ほら、あれ」
 雲間から一瞬だけ太陽が顔を覗かせたような、それまでとは違う笑顔だった。彼の素顔を見た気がして、胸の奥にまた痛みが走る。
「よほど話が盛り上がらなかったのかと部長夫妻に邪推されているでしょうね」
 ガラスの向こう側では、十分も経たずに戻り始めた私たちを、部長夫妻が半分腰を浮かせて心配顔で見ている。思わず私も笑ってしまったが、胸の痛みは消えなかった。
 胸が痛むのは罪悪感のせい? 足が震えるのは怖じ気づいたから? 私はどこかで断られることを期待していたのかもしれない。
 しかし、ボールは私に委ねられた。苦し紛れにしがみついた当て付けの結婚が、私の返事一つで現実になってしまう。思い止まるなら、今──。
 その時、白いドレス姿の花嫁が花婿と並んで庭園に出てきた。カメラや反射板を持ったスタッフが先導しているところを見ると、写真撮影らしい。一行を通そうと道端で待っている私たちの前を、誇らしげな表情のカップルが会釈すらせず、当然といった風で通り過ぎていく。その様子にあの二人の姿を重ねた私は唇を噛んだ。
“俺、結婚するから”
 そう事もなげに言い放ち、たった一本の電話で私との三年間をゴミくずのように捨てた男。そんな最低な男を憎みながら、いまだに愛し続けている自分が惨めでたまらなかった。
 ふと我に返り隣を見上げると、彼は無表情に一行を見送っている。
「綺麗ですね」
「そうですね」
 私が笑顔を繕い話しかけると、彼は元通り穏やかな笑みを浮かべて相槌を打ち、小道を歩き始めた。ほとんど感情の起伏が見えないところからして、きっと淡白な人なのだろう。その方が気楽でいいのかもしれない。
 彼の背中を見ながら密かに心を決めた。この決断が汚いことはわかっている。でも、私はこのまま捨てきれない恋情を抱えてあの二人の結婚を眺めている孤独に耐えられそうになかった。あの男以上の相手と結婚して、見返してやりたい。突然降ってきたこの縁談は、まるで運命の巡り合わせのような最高の条件だった。
 あの男がどうしても勝てない、唯一の存在──それが黒木裕一だからだ。

 黒木裕一との見合いに至った経緯は少し前に遡る。
 私には三年前から社内に秘密で交際している恋人がいた。私より二年先輩の三十才で、エネルギー関連企業であるうちの社の海外プラント部門に所属している桐谷寧史だ。
 彼はとても目立つ存在だ。華やかなルックスもさることながら、仕事での活躍はめざましく、いつも若手社員の話題の中心にいた。私にはただ眩しいばかりの遠い存在だった。
 そんな彼と私が初めて接したのは、何かの決裁で彼が経理部とやり取りした際に私が担当したのがきっかけだ。彼のような人気者には近づくまい。そんな風に用心深く心をセーブしていたが、ある日奇跡のようなアクシデントが起きた。伝票倉庫で過去の決裁書を探している時、彼に抱き寄せられキスされて、好きだと囁かれたのだ。
 女性社員みんなが憧れる先輩。二人きりの倉庫。ごく平凡な男性経験しかなかったため、そんな少女漫画のようなシチュエーションと彼の強引さに、それまで築いてきた防御壁はいとも簡単に崩されてしまった。
 口説き落とされて初めての夜を迎えた翌朝、不安になった。これは彼にとって手軽なゲームで、そのうち捨てられるのかもしれない、と。しかし意外にも寧史は誠実で、きちんと私を恋人として扱ってくれた。
 彼はかなりの野心家だ。よく「俺は将来社長になってやる」と冗談半分に言っていて、その言葉通り常にガツガツと上を目指す男だった。そのため打算で行動する人でもあったが、彼のバイタリティーに私もたくさんの刺激を受けた。縁故を頼りに入社して当時三年目だった私は自分のやりたいことを見つけられず、希望していたわけでもない経理部の仕事に閉塞感を抱いていた。そんな私が奮起して税務の通信講座を受け始めたのは寧史の影響だ。
 経験豊富な彼はベッドでも巧者だった。過去の恋人との情事は半ば免れられない義務のように感じていたが、そんな私に初めて快感を教えてくれたのは寧史だ。きっと私たちは巷で言う“体の相性”が良かったのだと思う。彼に乱されて私が我を失うほど彼も夢中になり、貪るように私を求めた。そうしてあらゆることを教えてくれる彼に、いつしか私は完全に染まっていった。
 付き合いが深まるとともに、寧史は他人には晒さない内面を私に見せてくれるようになった。社内のみんなが持つイメージとは裏腹に、寧史はコンプレックスをバネにのしあがってきた男だ。勝負に負けることを何より嫌い、そのために自分にプラスになるもの以外は切り捨てる冷たさもあったが、陰でひたすら努力を重ねてもいた。
 最初は彼の華やかな表の姿に惹かれていた私も、彼の内面を知れば知るほど、その歪みと弱さが愛しくなった。彼が弱さを見せるのは私だけ。彼を本当に理解しているのは私だけ。
 実際、そうだったと思う。彼にはいつも女子が群がっていて、まったく不安がなかったと言えば嘘になる。しかし彼が派手な火遊びに興じることはなく、私を手放すこともなかった。それは悪評が立てば出世にマイナスになるという打算あってのことかもしれないが、彼にとって私は安心できる存在だったのだと思う。だから、外聞に慎重な寧史が私との交際をひた隠しにすることも黙って受け入れた。本当は彼の愛情の証が欲しかったが、彼の良き理解者でありたかった。
 そうして三年が過ぎ、彼は三十才、私は二十八才になった。一か月前、妙に改まった寧史に「話したいことがある」と電話で言われた時は、とうとう私が待ち続けた言葉をもらえるのだと思った。折しもクリスマス前で、一年で最も恋人たちが華やぐ季節だ。
 ところが約束の日、彼は待ち合わせ場所に来なかった。電話しても通じず、何時間も待ち続け、とうとう片付けを始めた店を出る。もしかして抜けられない残業で、今頃必死でこちらに向かっているのかも……。心配になり、なおも待ったが、やはり彼が来る気配はない。冷えきった身体で駅に歩き始めた時、握り締めていた携帯が鳴った。
 凍えた手の中から聞こえてきたのは、信じられない言葉だった。
『ごめん。別れてくれ』
 聞き間違いかと思い、何か言おうとした私の耳に、衝撃的な言葉が届いた。
『俺、結婚するから』
 自分の耳が信じられなかった。凶器で心臓を一突きされたように、呼吸もできずに立ち尽くす。
『ごめん。また電話する』
 彼の背後で何か物音がしたと思うと、電話は切れた。
 その後、どうやって自分の部屋に帰ったのか覚えていない。気づけば冷えた玄関で靴も脱がず明かりも点けずにぼんやりと座っていた。
 きっと何かの間違いだ。“また電話する”──その一言にしがみつき、それから私は来る日も来る日も電話を待ち続けた。我ながら滑稽なほど、お風呂に入る時も携帯を手放さず、電話がかかってこないのは電波が届かないのだろうかと、そんなことを考えたりもした。
 しかし、いくら待っても電話が鳴ることはなかった。どうして? どうして? 通話ボタンを押そうとしては指を止め、思い止まる。それを日々繰り返した末、とうとう思いきって彼に電話をかけた。
『あっ、寧史? あの──』
 電話は確かに繋がったのに、無言のまま数秒で切れた。すぐにかけ直したら、電源が切られていた。この時の私はあまりの仕打ちの意味がわからず混乱するばかりだったが、あとから思えば、この電話が私の運命を大きく変えたのかもしれない。
 彼の結婚の詳細を知ったのは、その数日後だ。
『桐谷主任が婚約したんだって! 相手、誰だと思う?』
『うそ! 誰?』
『西野円香だって。ほら、西野専務の娘よ。監査役室で秘書やってる子』
 更衣室のロッカーの向こう側から聞こえてくる会話に、私は真っ青になって震えていた。しかし、話にはまだ続きがあった。
『それがさ、デキ婚らしいよ』
『ショックー! 誰とも付き合ってないって言ってたのにしっかり付き合ってんじゃん!』
 まったく関係のないどこかの誰かならまだ耐えられたのに。私にとって、それはあまりに残酷なことだった。信じていたのに。待っていたのに。私だけだと思っていたのに──。
 彼のために友人にも交際を隠してきた私は一人で耐えた。ある日は恨み、ある日は怒り、またある日は泣きながら眠った。しかしどれだけ苦しくても、報復のために彼との関係を流布して評判を落とす気にもなれなかった。それまでと変わらず、もしかしてそれまで以上に、寧史を愛していたからだ。
 そうして涙が乾かぬまま年が明けたある日、業務を終えて帰り支度をしていた私は所属する経理部の宮内部長に呼ばれた。
『仕事のことじゃないから気楽に聞いてもらっていいんだがね』
 人目を憚るように会議室に移動した部長は、言いにくそうに切り出した。
『瀧沢さんは、その……恋人はいるのかな?』
 いきなり無遠慮に立ち入った質問をぶつけられ、不快感が込み上げる。しかも個人的に今は生傷を抉られる質問だ。
『いいえ』
 長引く円高の影響で業界全体が苦戦する中、うちの社でも早期退職を募集するそうで、リストラも視野に入れているとまことしやかに噂されている。遠方への異動などを提示して、遠回しに退職を促すのだろうか。このまま同じ社で寧史の結婚を見ているのは耐えがたいし、退職を考えなかったわけではない。しかし現実問題、転職市場は決して甘くないだろう。
 今後の身の処し方を考えていると、部長は突拍子もないことを口にした。
『実は君に縁談が来てるんだよ』
 やはり体裁のいいリストラだろうか? どちらにしても縁談など今は無理だ。
『もったいないお話ですが……』
『それが、是非君にってことなんだ。仕事ができて美人さんだからかな? はは……』
 部長の見え透いたおだて文句で余計に嫌な気分になる。しかし次に部長の口から出た名前に、私は思わず顔を上げた。
『相手は海外プラント部の黒木君だ。君も知ってるよな?』
 黒木裕一のことはよく知っていた。といっても直接の接点はなく、すべて寧史から聞いた情報だ。
 黒木は寧史と同じ環境エネルギー本部の海外プラント部に所属している。しかし寧史やその他の社員と異なり、三年前に親会社である大手総合商社から派遣されてきたエリート組だ。見かけ上は対等でも、親会社から来ている面々は能力も華やかさも桁違いで、みんなから一目置かれていた。実は、その親会社は寧史が就活時に熱望し何度もアプローチしたが叶わなかった、という因縁がある。
 そのせいだろう。寧史は親会社組を敵視していた。その中でもとりわけ優秀なのが黒木で、黒木が来て以来、寧史の独壇場だった若手のトップ争いは黒木との二強時代になったと社内で注目の的になっている。
 しかし、実際には寧史が劣勢だった。契約の規模も上司の評価も、何かにつけて黒木は寧史の上を行く。しかも腹立たしいことに、いとも簡単そうに。おそらくそれは彼の涼しげなルックスのせいで余計にそう見えるのだろう。また、黒木の出身大学はこれもまた寧史が断念した大学でもあった。二人は同い年で同期入社にあたり、間接的とはいえ、寧史は二度黒木に敗北していることになる。苦労してトップにのしあがってきた寧史は生粋のサラブレッドの黒木が目障りで仕方ないらしく、よく私に悔しさを打ち明けていた。
 そんなわけで、私にとっても黒木は“宿敵”のように思え、たまに廊下ですれ違う時は彼の背中に冷ややかな視線を向けたものだった。しかし、黒木の方は寧史など眼中になかっただろう。
 寧史と黒木のトップ争いが一段落したのは、半年前のことだった。北米地域の大規模な電力供給拠点建設のプロジェクトメンバーに黒木が選ばれたからだ。それは新聞の一面トップを飾るほどの大型契約で、当然そのメンバー入りを希望していた寧史はひどく悔しそうだった。しかし黒木がプロジェクトのため北米に長期出張していなくなるとすっきりしたらしく、最近は黒木の話題は減っていた。
「いやぁ、これはいい話じゃないか?」
 それまで俯き加減だった私が黒木と聞いて顔を上げたのを見て、部長は“食いついた”と思ったらしい。
「君みたいな女の子には雲の上のエリートだろう? この話を断る手はないよ」
 部長は自分の失言にも気づかず、勢いづいて喋り続けた。
「君も知ってるだろ? 彼はあの蓄電池の大型プロジェクトメンバーなんだよ。半年前からアメリカに長期出張してたんだが、年末に帰ってきたらしいな」
 年末に帰ってきたという情報以外はほぼ知っていることばかりの部長の話を聞きながら、汗一つかいたこともなさそうな、クールに澄ました男の顔を思い浮かべる。
(まさか……無理よ)
 今まで寧史だけを一途に見つめてきた私には、他の男との未来などまだ描けない。よりにもよって黒木だなんて──彼は今までずっと“敵”だったのに。
「聞くところによると、黒木君は近いうちに海外赴任する可能性が高いらしいんだな」
 また下を向きかけていた私は、海外赴任と聞いて再び反応してしまった。寧史が熱望していた海外赴任のポスト争いは、どうやらまた黒木が勝利するらしい。黒木を敵視する習慣が身に染みついてしまったせいで、寧史に裏切られた今でも黒木の勝利を悔しいと思ってしまう自分が情けない。
「それで早く身を固めさせたいってことで、この話が持ち上がったんだよ」
「あの……お聞きしたいのですが、私をと仰ったのはどなたでしょうか?」
 私が名指しされたというのが腑に落ちない。黒木が私を知っているとも思えないし、知っていたとしても私に興味を持つとは思えない。
 すると部長は途端に歯切れが悪くなった。
「それはその……海外プラント部の麻生部長だよ」
「麻生部長は私のことをご存じないと思いますが」
「いや……知ってたんじゃないか? 僕も詳しく聞いてないんだよ。まあとにかく黒木君も見合いに前向きらしいから、釣書を交換したらどうかな」
 部長は両手をこすり合わせながらまた勢いよく喋り始めた。気に入らない流れを変える時の癖だ。あまり突っ込んで欲しくないらしい。
 こんなお節介を会社がするものなのか。それにあんな立派な男が結婚相手に困っているとも思えないし、疑問だらけだ。
「明日まで考えさせて頂けないでしょうか?」
 即答を避けた私に、部長はあからさまに不満気な顔をした。
「いやいや、君にはまたとない話だろう? もったいつける話じゃないと思うけどねぇ。それに僕の顔を立ててもらわないと」
「はい。明日まできちんと考えます。ありがとうございました」
 こんな話に飛びつかないなんて身の程知らずだと言わんばかりの態度の部長に頭を下げて退室し、そのまま職場を後にする。
 部長のあの様子からして、見合い話を断れば居づらくなるかもしれない。この機会に思いきって辞めて、資格取得を目指そうか。今受けている税務の通信教育のコースを税理士コースに変えて、貯めていた結婚資金を当面の生活費に充てて……。
 通用口を出て足を止め、夜空を見上げて白いため息をつく。
(そんなに簡単じゃないよね……)
 ところが、再び歩き始めた私の足が凍りついたように止まった。通用口を出た正面に寧史が立っていたのだ。寧史は俯き、手にした携帯を眺めていた。あの電話以来、姿を見るのは初めてだ。
 ずっと交際を秘密にしてきたから、会社で待ち合わせたことはない。でも寧史は約束を守る人だ。“また電話する”──だからこうして待っていてくれたの?
「やす──」
「寧史!」
 その時、駆け出そうとした私を軽やかな足音が追い越していった。
「ごめんね、待った?」
「円香」
 寧史が携帯から顔を上げ、その女性に優しく微笑みかける。
「お父様が七時にお店を予約したって」
 ためらいなく寧史の腕に手を滑り込ませた彼女が甘えた仕草で彼を見上げた。
「体調は? 少しは食べられそうか?」
「今日はましなの」
 ぴったりと寄り添い遠ざかる二人を見送りながら、屈辱と痛みで全身が震えた。
 彼は私に気づきもしなかった。いや、むしろそれでよかったのだ。私を待ってくれていただなんて、おめでたい勘違いをした自分があまりに不様で、身の置きようがない。
 相手の女性を見たのは初めてだ。小柄で華奢で、ちらりと見えた横顔はいかにも男受けしそうな可憐な顔立ちだった。
“円香”
 彼女の名を呼び、つわりを気遣う寧史の声が耳にこだまし、何度も私の心を突き刺した。
 このまま駅に向かえばあの二人に出くわしてしまう。時間をずらそうと仕方なくのろのろと社屋に戻り始めた私の足が、突如弾かれたように走り出した。
 一晩考える必要などない。たとえこの決断が間違っていても構わない。今はただ、苦しかった。寧史を愛したままの心が悲鳴を上げていた。
「部長」
 とっくに帰ったはずの私が息を切らして目の前に立ったので、部長は呆気に取られている。部長の反応を待たずに頭を下げた。
「さっきのお話、よろしくお願いします」
 こんなに勢い込んで食いつくのは我ながらかなりみっともない。案の定、途端に部長はニヤニヤ笑った。もったいぶらずに早く言えよとでも思っているに違いない。でも、部長にどう思われようと構わなかった。寧史に踏みつけにされるより百倍ましだ。どう足掻いても寧史から離れてくれない心を殺してしまえるなら、毒も食らわばの気分だった。
 こうして、黒木とのお見合い話は動き始めた。

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