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Perfume 敏腕上司と溺れる恋

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書籍紹介

息もできないくらい愛されて

ストイックで厳しい上司だと思っていた乃木に仮の恋人になることを提案された知紗。「ずっとお前が欲しかった」二人きりになった途端、雄の気配を纏った彼に甘く囁かれ、胸のときめきが止まらない。優しいキスが次第に荒々しさを増せば、心が彼を求める。欲望に滾った剛直で貫かれ、あられもなく乱れて――。オトナな色香を放つ男に愛され尽くす、嘘から始まる淫らな渇愛。

ジャンル:
現代
キャラ属性:
クール
シチュエーション:
オフィス・職場 | 甘々・溺愛
登場人物紹介

乃木宗資(のぎそうすけ)

知紗の上司。怜悧な印象の顔立ちと引き締まった体躯。感情を抑えることに長けていてストイック。仕事に対しては辣腕であり、知紗に厳しい。

北野紗知(きたのちさ)

ファッション・化粧品輸入販売大手の企画マーケティング部に勤務。勤勉で仕事熱心。厳しい乃木部長が苦手だったが、ある出来事がきっかけで……。

立ち読み

 煌びやかな照明と音楽の中、招待客がさざめきながら会場の出口へと移動し始めた。舞台では新CMのデモンストレーション映像が流れ続け、会場はまだ熱気に包まれている。
「メイン会場、お開きです。お客様が玄関に移動されるので誘導をお願いします」
 招待客に笑顔を向けながらインカムに小声で告げると、北野知紗はそっと安堵の息を吐いた。
 透き通るような色白の肌、瓜実型の輪郭にしとやかな顔立ち。細身ながら女性らしい曲線を描く身体に黒のシンプルなスーツをまとった知紗の佇まいには奥ゆかしい美しさがあり、美容関係者が多い招待客の視線をちらちらと受けている。しかしこの数時間、知紗はそんなことに気づきもせず会場中を忙しく動き回っていた。
 ここは都心のラグジュアリーホテルのバンケットルームだ。ファッション・化粧品などの輸入販売大手ジル・ジャパン社でブランドマーケティング部に所属する知紗は今回の新製品発表会のチーフを務めている。
 ジル社はこれまで世界中の魅力的なブランドをアジア地域に展開するキュレーター的な役割を果たしてきたが、今回発表したボディーケアラインは新たな事業展開を懸けた初の自社ブランド化粧品だ。
 会場にはチェリーブロッサムの香りが仄かに漂っている。スキンケア効果だけでなく香りを楽しんでもらうことを追求したテーマフレグランスで、招待客に配布したリーフレットにも同じ香りをつけたところ、とても好評だった。
「お疲れ様。よくやったな」
 吟味を重ねた会心の香りに頬を緩ませていた知紗は、突如背後で響いた低い声に飛び上がった。
「乃木部長……。お戻りになったんですね」
 振り向いて背後に立つ男の姿を認めた途端、知紗は胃のあたりが緊張でおかしくなるのを感じた。
「遅くなってすまない」
 怜悧な印象の顔立ち、肩幅と上背のある引き締まった体躯。知紗の上司である乃木宗資は人目を引く優れた容姿を持ちながら、ビジネスにおいて辣腕で知られている。天は二物を与えずと言うけれど、この人だけは例外だなといつも思う。
 彼は二年前、世界最大のファッション業界コングロマリットである英ヴィダル社からジル社にやってきた。海外の巨大企業からの移籍についてはヘッドハンティングだとか日本に婚約者がいるため帰国したのだとか様々な噂が流れているが、どれも真偽のほどは定かでない。
 上司ではあってもプライベートの会話を交わすなど考えられないぐらい、知紗にとって乃木は近寄りがたい存在だった。乃木の仕事ぶりは非常に厳しいことで知られているが、特に知紗に対してはスパルタ指導で容赦がない。だから彼の前に出ると知紗は途端に緊張してぎこちなくなってしまう。
「欧州出張、お疲れ様でした。まさかこちらに寄られるとは……」
 乃木は先週から海外出張で、今日が帰国予定日だった。洗練されたスーツを微塵の乱れもなく着こなす姿はとても出張帰りとは思えないが、成田空港からここに直行したことは間違いない。しかも現地でもかなりハードな日程だったはずだ。
「当たり前だろう。北野が手掛けてきたブランドのデビューイベントだからな。インカムの予備は?」
 乃木はさらりと答えると、知紗が差し出したインカムを受け取った。
「まあ、あまり歓迎されていないようだけどな」
「いえ! そんなことは」
 言い訳を探して口ごもる知紗に乃木は軽く笑い、さっさと背中を向けた。
「商談対応は俺がやる。他は頼む」
「あっ、ありがとうございます。よろしくお願いします」
 顧客の方へと歩み去る精悍な後ろ姿にタイミングのずれたお辞儀をしてから、知紗はため息をついた。
(またやってしまった……)
 乃木の前ではどうしても委縮してしまってスマートに振る舞えない。知紗の苦手意識が彼に伝わっていることは明らかだ。
 三十四歳の若さながら乃木には周囲を掌握するような威厳があり、彼が声をかけるだけで顧客たちのテンションが上がるのが遠目にもわかる。名刺を片手にまだ会場に留まっている集団もきっと彼が目当てだろう。乃木が顧客対応で援護してくれるのはありがたかった。
 知紗は踵を返し、バックヤードに急いだ。無事お開きになったとはいえ、まだ気は抜けない。出演タレントへの挨拶や会場の撤収、レンタル機材返却の立ち合いなどを滞りなく終えるまで、各担当が緻密に連携する。
(でもこれが終われば──)
 今夜は久しぶりに恋人の部屋に行くつもりだった。同じ部署の飯田圭司とは部署公認の仲で、彼も今回のイベントに参加している。お互いにイベントが終わるまでは忙しくて、最近はなかなか二人きりで会うことができなかった。
 舞台裏の機材搬出などに目処がついたので会場に戻ってみると、乃木が最後の顧客と会話しているのが見えた。このあとはメイン会場の撤収を残すのみだ。
 知紗は感慨を込めてもう一度、淡く優しいスキニーピンクとクリーム色を基調にした会場を見渡した。この会場を選んだ決め手はホテルの格や交通アクセスもさることながら、新製品のパッケージのためにしつらえられたのかと思うほどマッチする室内の色調だった。細部までこだわったデビューイベントのフィニッシュを目前にして知紗の頬は自然とほころんでいた。
“もう終わる”という意味だろう。乃木から一瞬の視線の合図を送られた知紗は笑顔でお辞儀し、バックヤードに取って返した。
「メイン会場撤収間近です。メイン会場担当者は待機してください」
 知紗がインカムに指示を告げ、控え室に忘れ物がないか点検し始めた時だった。突如、男女のくすくす笑いが耳に飛び込んできた。
『ふふ……先輩のインカム切っちゃった。メイン会場担当じゃないしもう終わりだよね』
『亜希子も切った?』
『うん。あっ……やだぁ』
 男女がふざけ合う場違いな音声にぎょっとして凍りつく。会話の内容から二人のうち片方のインカムは切れておらず、それでも両方の声が入ってくるのは二人が密着しているということだろう。
『ダメだって……こんな場所で』
『誰も来ないよ。みんなメイン会場だし』
 こんな状況で交わされる会話ではないということ以前に、男女二人の声に知紗は愕然としていた。それは恋人の圭司と、知紗の後輩である吉岡亜希子のものだったからだ。
『知紗先輩とはいつ別れてくれるの?』
『もう別れてるようなもんだよ。でもあいつ、察しが悪いんだよな』
 この音声は知紗だけでなく数人のスタッフ全員に流れている。後輩に恋人を寝取られるだけで充分なのに、同僚たちの前にそれを晒されるという残酷な仕打ちに、知紗はなすすべなくガタガタと震えていた。
『亜希子の方がずっといい』
『ほんと?』
『言っただろ? あいつ、クソ真面目で退屈なんだよ』
 一言ごとに胸に刃を突き立てられているような気がした。吐き気を覚え、よろよろと壁に手をつく。その時、知紗がいる部屋のドアが勢いよく開いた。
「北野……!」
 入り口に立つ乃木を見て知紗は消えてしまいたくなった。当然ながら乃木も今の会話を聞いていただろう。だから血相を変えて飛んできたのだ。
「大丈夫か」
 冷静な声音ながら、乃木の目は今まで見たことのない表情を浮かべている。なぜなのか、圭司に裏切られたことと同じぐらい、乃木に知られたことが辛かった。
 この人だけにはこんなところを見られたくなかったのに。よりにもよって大事なイベントを、こんな恥ずかしい不祥事で汚してしまうなんて。
 知紗はカラカラになった喉から声を絞り出した。
「申し訳ありません。大事な場で──」
「お前が謝ることじゃない」
 乃木は怒ったような声で遮り、壁に寄りかかったままの知紗の腕を掴んだ。二年間もタッグを組んでいながら初めて乃木に触れたのではないだろうか。
「座って休んでろ」
「いえ、大丈夫です」
「いいから座れ」
 知紗の身体を抱えて椅子に座らせる乃木の手の感触は、その力強さとは裏腹に驚くほど優しかった。乃木は椅子の前の床に跪き、知紗と視線を合わせた。間近に見る乃木の目は暗灰色をしていて、知紗は初めて知ったその色を青ざめた顔で見つめた。
「俺が迎えに来るまでここから動くな」
 乃木は気づかわしげに知紗を見つめ力強く念押しすると、インカムのマイクスイッチを入れながら大股に部屋を出ていった。
 ドアが閉まってすぐに乃木の低い声が響く。
『飯田、吉岡。乃木だ』
 インカム越しに息をのむような小さな悲鳴が聞こえた。亜希子の声だろう。
『返事しろ』
『……はい』
『何、誰? 亜希子、インカム切ってなかったのか? ……えっ、乃木部長!? なんで──』
 インカムからドアの開閉音が聞こえ、圭司が叫び声を上げる。二人がいる部屋に乃木が入ったのだろう。予定外に乃木が会場入りしたことを知らなかった二人は万事休すといった状態だ。
 乃木の冷ややかな声はさらに続く。
『職務中に許される行動かどうかは言わなくてもわかるだろう。しかも社外の会場だ。社の看板に泥を塗るつもりか?』
『申し訳ありません……』
『今は謝罪を受ける暇はない。それとも申し開きがあるのか?』
『…………』
『なら二人ともすぐに会場から出ろ。それが今の職務だ。あと降格を覚悟しておけ。異存があるなら人事に言え』
 落ち着いた声音ながら、守られている立場の知紗でさえ乃木の即断に込められた厳しさに震え上がる。
 しかし乃木の制裁はこれで終わらなかった。
『それと飯田。北野にはもう相手がいる』
『え?』
『だから彼女に別れ話をする必要はない』
『え……、えっ、待ってください!』
 立ち去ろうとする乃木に圭司が掴みかかったのか、いったん遠くなった圭司の声が揺れながら急に近くなる。“北野にはもう相手がいる”という乃木の言葉に面食らいつつ、知紗はハラハラしながら会話の行方に耳を澄ませた。
『それ誰ですか? いつからですか? どうして部長が知ってるんですか!』
 しかし圭司の興奮に取り合う声は聞こえず、怒声は空回りしてすぐにフェードアウトした。その静寂に耳を疑う乃木の一言が響いた。
『俺だ』
『えっ……』
 数台のインカムの向こう側でおそらく全員が驚愕しただろう。知紗の思考も完全に停止していた。

 二時間後、知紗は乃木とともにそのホテル内のレストランにいた。
 あの騒ぎのあと乃木は知紗に代わって現場指揮を執り、撤収を終えるとすみやかに全員を帰宅させた。その間、知紗は『動くな』と言われた部屋に閉じ込められたままだった。乃木は知紗が誰とも顔を合わせることがないよう計らってくれたのだろう。もし乃木がいなかったら、知紗はあの二人に嘲られるまま見せ物になっていたはずだ。
 撤収完了を待つ間に知紗は気持ちを立て直そうと努めたが、迎えに来た乃木に気丈に振る舞うその顔には血の気が戻っていなかった。それを見た乃木は遠慮する知紗に有無を言わせず食事に連れてきてくれたのだった。
「食欲はないかもしれないが、スープだけでもいいから何か胃に入れておけ」
「いえ……大丈夫です。ご迷惑をおかけしてごめんなさい」
「いいから謝るな」
 乃木はメニューを開きながら素っ気なく言い足した。
「俺の食事に付き合わせてるだけだ」
 嘘だと知りつつ知紗はその言葉に幾分か救われ、小さく笑みを浮かべて頷いた。
 レストラン内はテーブルごとに低い壁で緩やかに仕切られていて、閉塞感なくプライバシーが守られている。宵が訪れた窓の向こうでは遠い眼下に星屑のような街明かりがまたたいていた。
「フレンチでよかったか?」
「あ、はい」
「苦手なものは?」
「ええと……天ぷらです」
 知紗の返答を聞いて乃木は少し笑い、「わかった」と答えた。その反応を見て知紗は遅ればせながら自分が間抜けな返答をしたことに気づいて真っ赤になった。こんな状況で頭がぼうっとしているせいもあるが、やはり乃木の前では何でもないことでしくじってしまう。色白で皮膚が薄い知紗は赤面すると胸元まで赤くなる。茹で蛸のように見えているだろうと思うと余計に恥ずかしい。
 乃木とこうして差し向かいで食事をするのは初めてと言ってもいい。外出時に昼食をともにすることはあっても顧客を伴ったビジネスランチか、次の予定に向かう途中で慌ただしく業務確認しながらの食事ぐらいだ。
 たまにある部署の飲み会でも知紗はなるべく乃木から遠い席を選んでいるし、そもそも彼はあまり部下と気さくに交流しない。それは一匹狼的な乃木の凄味のせいでもあるが、知紗の目には彼自身が敢えて周囲と距離を置き、この社に根を張ることを避けているように見える。乃木のことが苦手なくせに、知紗はその理由が何なのかをいつも考えてしまうのだった。
 そんな乃木がいきなり『北野の相手は俺だ』と発言したのだから、知紗にとっては青天の霹靂だ。
 しかし今、ウエイターにワインと料理をオーダーしている目の前の乃木はあの発言など嘘のように平然としている。そもそも乃木ほどの男が知紗に興味を抱くはずがないし、婚約者がいるという噂もある。あれは知紗の体面を保つための機転だったのだろう。乃木には感謝するばかりだが、圭司に謗られたことを考えると乃木にも恥をかかせているようで、いたたまれなかった。
「疲れただろう」
 乃木に話しかけられ、物思いに耽っていた知紗は慌てて笑顔を作った。
「いいえ」
「気を遣わなくていい。まあ俺が相手ではそれも難しいだろうが、今夜は一人でいるのがきついはずだ」
 スパルタの彼がこんな風に優しい表情を見せることは珍しい。驚いて乃木を見つめ返した知紗は不意に気が緩みそうになり、膝の上で固く握り合わせた自分の手に視線を落とした。
 乃木が言う通りだった。一人になればメソメソ泣いてしまうだろうし、あの二人に投げつけられた嘲りを今よりもっとリフレインしてしまっただろう。今は苦手な乃木の前にいる緊張のおかげで気力を保っていられるのだ。
 ワインが運ばれてきたが、こんな状況なので二人とも静かに視線を合わせただけの乾杯でグラスに口をつける。
「……美味しいです」
 あまり酒に強くない知紗に合わせてくれたのか、乃木が選んだのは甘く柔らかな味わいのものだった。知紗はこの数時間で初めて酸素を得たように呼吸を解放した。
「暖かな日差しみたいです。……あ、あの、お酒の表現マナーを知らなくて」
 独り言のようにイメージを呟いてから自分の感想が恥ずかしくなり、知紗は慌てて言い訳した。乃木は何を思ったのか真剣な顔で知紗を見つめていたが、表情を緩めて微笑んだ。
「その通り。温暖な地域で熟度の高いブドウを使って作られたワインだ」
「……よかったです」
 珍答にならずに済んだことに知紗は肩の力を抜き、二口三口と甘い香りを味わった。
 まもなく料理が運ばれ始め、しばらくはイベントの状況報告や顧客の反応についての会話が続いた。しかし話の流れで圭司の名前を出さねばならなくなった時、知紗の口はそこで止まった。
 沈黙のあと、知紗は深呼吸して口を開いた。これ以上この話題を避け続けることは無理がある。
「今日のことはもう大丈夫です。いろいろとご配慮いただきありがとうございました」
 強がったところで乃木にはばれているだろう。しかし何があろうと明日もその次も仕事は続いていく。これ以上私情で騒がせるわけにはいかない。
「それと、乃木部長にもご負担をおかけしてしまって……」
「俺に負担?」
「あの……私の、こ、恋人だと」
 恋人という言葉を口にするだけで知紗は真っ赤になってしまった。
「職場で同情されると仕事しづらいだろ」
 彼の指摘は的確だった。
「ああ言っておけば他のメンバーの目には飯田と吉岡の無様な自爆と映る。俺が背後にいるとなれば誰も北野を興味本位につつかないだろうしね。騒ぎが収まるまでこのままでいればいい」
 やはり乃木の言葉は機転にすぎなかったようだ。当たり前だと思いつつ、ほっとしたような虚しいような気分に襲われる。
「部長としての立場は大丈夫ですか?」
「構わない」
 乃木の返答はいつもながら簡潔で迷いがない。
「……ありがとうございます」
 仕事で同じことを何度も尋ねると乃木は突き放してくる。それを思い出した知紗は口をつぐんだ。
「飯田とは長かったのか?」
「はい。いえ……。私は男性とお付き合いした経験が多い方ではないので、二年半が長いのか短いのかわかりません」
 微笑んで答えた知紗の目が少し陰った。
 人目を引く上品な顔立ちの美人ながら、知紗にはあまり男性経験がない。真面目な性格が無意識のガードになってしまうのか開放的になれず、男性を楽しませることができないのだ。これまでに付き合ったのは圭司が二人目で、二十八歳という年齢からすれば少ない方だろう。
 かたや亜希子は恋多き女で、狙った男性は必ず手に入れてしまう小悪魔のような色気がある。でもこれまで先輩後輩として仲良くしてきた亜希子がまさか自分を欺いているとは想像もしていなかった。
 信頼していた二人の裏切りは二重に知紗を打ちのめした。亜希子は知紗が恋愛に奥手であることを知っていて、圭司との交際についてもよく相談に乗ってもらっていた。それらすべての裏をかかれたのだ。
「二年半か。俺が来る少し前だな」
「……はい」
 食事を終えて乃木と別れるまでは落ち着いた態度でいなければ。そろそろ限界が来ていたが、知紗は静かに深呼吸して胸につかえる塊をのみ込んだ。
「飯田君ばかりが悪いわけではないんです」
 乃木が不快そうに顔をしかめたが、知紗は穏やかな笑顔を保って続けた。
「実際、私と付き合っていて退屈だったのかもしれません」
 長身でルックスのいい圭司は同期の中でも目立つ存在で、しかも仕事もやり手だ。そんな圭司から熱心にアプローチされた時は驚いたが、恋愛に慣れないながら知紗なりに圭司にふさわしい恋人になろうと努力してきたつもりだった。しかし今日で自分がどれだけ魅力のない女なのかを改めて思い知らされた。
「恋愛の機微もわかっていなかったので、別れのサインに私が気づけなかったのかもしれません。個人的なことでもありますし、二人の処分は──」
「北野。傷ついている時に真っ向から反論したくはないが、人事の判断は俺がする」
 仕事で知紗が何か判断を誤った時、乃木はこんな厳しい調子で指摘する。その度に知紗はひどく傷つく自分を意識してきた。なぜなのか、他の上司に叱責されるより乃木の言葉は堪えるのだ。
「……すみません」
 知紗が発言を撤回すると、乃木は「しまった」という風に一瞬だけ瞑目した。
「北野に強く当たるべきではなかったのに、悪かった」
 ワインを飲み干すと、乃木は感情を逃がすように息を吐いた。
「ただ今回のことで手を緩める気はない。もちろんプライベートの沙汰で処分することはないよ。だがブランドデビューを進めてきた北野の努力を見てきた人間のやることか? 仕事への冒涜だろう。悪質で悪趣味、不愉快だ」
 乃木が誰かを叱責するのは珍しいことではないが、ここまで激怒している彼は初めて見る。そして本気で怒った乃木の鉄拳は徹底的だった。
「特に吉岡だ。あれは事故ではなく吉岡の作為だろうが、北野を職場に居辛くする意図も感じる。管理者として有能な人材を守るのは当然だ。そのためにはあの二人がどういう人物なのか、人事データに傷を残すことは必要だろう。俺が去ったあとも上司に前科がわかるようにね。そのための処分だ」
 乃木を怒らせたら地獄まで追いかけられそうだ。知紗は乃木の剣幕に圧倒されつつ聞いていたが、彼の言葉の一部分が妙に耳に残った。
“管理者として有能な人材を守るのは当然だ”
“俺が去ったあとも”
 乃木は上司の立場に徹している。それが乃木を孤高の人たらしめているのだが、だからこそ、どんなに苦手意識を持っていても自分は乃木に全信頼を寄せているのだ。でもなぜなのか、乃木への感謝と尊敬はかすかな痛みを伴った。
「事を荒立てたくないというのもわかる。だが処分させてくれ」
「……はい」
 極上の料理のはずだが、今日はほとんど味がわからない。それでも空腹にアルコールを入れないようきちんと食べたはずなのに、デザートを終える頃には知紗の視界は回り始めていた。
 皿やカトラリーが綺麗に下げられたテーブルには蝋燭の火が揺れている。幻想的な仄暗さの中で乃木の端整な顔立ちは美しい陰影を作り出している。
 こんなに完璧な男はいったいどんなに素晴らしい相手を選ぶのだろう?
 ふとそんなことを考える。知紗にとって、男としての乃木はスクリーンの向こう側のように遠い存在だった。
「二年半もの年月があれば辛いだろう。北野の感情を優先してやれなくてすまない」
「いえ、そんな……」
 まさか謝られるとは思っていなかったので、不意を突かれた知紗は慌てて首を横に振った。そのせいでまた目が回る。
「私のことは気になさらないでください。私、一人でも結構平気なんです。強いですから」
 知紗は笑ってみせたが、目にはずっと堪えていた涙が大きな雫になっていた。乃木が揺れて見えるのは今にも零れそうに視界を覆う雫のせいなのか、それとも蝋燭の灯りのせいなのか。
「飯田が言ったことは忘れろ。北野には見合わない男だ」
 平静を保っていることがきつくて、慰めに反発したくなる。そうでもしないと泣いてしまいそうだった。乃木とこんなことで議論すれば酔いが醒めた時に後悔するとわかっているのに、知紗はつい暴発してしまった。
「乃木部長はご存じないから。彼が言ったことは本当です」
 ああ、やめなければ──。しかし一度堰を切ってしまった言葉は止められない。
「見合わなかったのは私の方です。だって私、女として失格だから。ずっと圭司に不感症って──」
 うっかり圭司を名前で呼んでしまったばかりか、自ら一番の恥を暴露してしまい、知紗ははっと我に返った。
 ベッドでうまく反応できない知紗に圭司は優しかった。経験のなさを嬉しいと言い、不感症でも知紗が好きだとも言ってくれた。しかし彼の本音はまったく逆で、おそらく亜希子にもそれは暴露されていただろう。
 でも今はそれどころではない。よりにもよって乃木にこんな醜態を晒すとは。
「ごめんなさい。今のは忘れてください」
 もう乃木に合わせる顔がない。知紗はバッグを掴み、立ち上がろうとした。
「私、もう帰り──」
 ところが言葉半ばで膝が折れ、床にしゃがみ込んでしまった。
「北野!」
 あっと思った一瞬ののちには乃木の腕が知紗を支えていた。胸に頭をもたせかけられ、肩をしっかりと抱き寄せられる。
「大丈夫です。目が回っただけで……」
 一刻も早く乃木の前から去りたいのに、身体に力が入らない。
「まだ立つな」
「少しだけ休んだらタクシーで帰ります。本当にごめんなさい」
 その時、先ほど崩れ落ちた際にバッグから飛び出したスマートフォンが床の上で唸り声を上げ始めた。床に座る二人の目の前で、スマートフォンの画面は発光しながら発信元を知らせている。
“飯田圭司”
 知紗は思わず許しを乞うように乃木を見上げていた。
 知紗の体面を守り、そのうえ圭司を処罰すると言ってくれている乃木に申し訳なかったのだ。電話に出たいと思ってしまう自分が。あんな仕打ちをされてもなお、圭司に未練を残す自分が。
「……電話に出たいのか?」
「…………」
 怒りのこもった鋭い眼光に射すくめられる。知紗の身体は乃木の腕の中にある。こんなに近くで乃木と視線を合わせたことはなかった。
「あんな卑怯な男に戻りたいのか? そんなに飯田が好きなのか?」
 今この瞬間、乃木は上司ではなかった。ならば何なのか、知紗に考える余裕はない。ただ強烈な魅力を放つ暗灰色の目に支配されていた。
「……いいえ」
 無理やり言わされたようなものだった。
 あれは何かの間違いだと思いたかった。ほんの数時間前まで恋人だと信じて疑わなかった圭司を、ほんの数時間前まで将来もずっと一緒にいたいと願っていた圭司を、どうしてすぐに切り捨てられるだろう。
 乃木を見上げる知紗の目から一粒、涙が落ちた。
 二人の傍らでスマートフォンは一度切れ、再び唸り始めた。
「今夜は自宅に帰るな。電話にも出るな」
 暗灰色の目には有無を言わせぬ力があった。
「部屋を取る。俺の傍にいろ」

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