新しくカートに入れた電子書籍 すべて見る
カートを見る 合計金額(税込)0円
新しくカートに入れた電子書籍 すべて見る
カートを見る 合計金額(税込)0円

奥箱根あやかしお宿で初恋婚
ニセ婚約者でしたが、ずっと愛されてたみたいです!?

本を購入

本価格:715(税込)

カートに追加しました
電子書籍を購入

電子書籍価格:715円(税込)

獲得ポイント:7pt
電子書籍を閲覧するにはビューアアプリ「book-in-the-box」(SHARP)をインストールしてください。
書籍紹介

おいしいごはんと温泉と、甘~い恋が心を蕩かす

あやかしたちも訪れる老舗宿『松月館』。副女将の雪乃は客としてやってきた初カレの真一郎から婚約者のフリをしてくれと頼まれて!? 別れた後もずっと好きだった人との再会、そして急接近でドキドキが止まらない。「ユキ、可愛い。食べてしまいたい」濃厚なキス。淫らな手つきで服を脱がされ、初めてなのにトロける快感に溺れそう――! ニセ婚約者のはずが、こんなに甘く愛されていいの!?

ジャンル:
現代
キャラ属性:
社長・セレブ
シチュエーション:
幼馴染・初恋の人 | 甘々・溺愛 | お風呂・温泉
登場人物紹介

山上真一郎(やまがみしんいちろう)

父のコンサル会社の経営に携わる御曹司。高校時代に雪乃と付き合っていたが急にアメリカに行ってしまう。松月館に会食にやってきて、雪乃と再会する。

松方雪乃(まつかたゆきの)

箱根の老舗宿「松月館」の副女将。真面目で明るく、あやかしに好かれるタイプ。高校時代の初カレである真一郎を未だに好き。

立ち読み

 五歳のとき。
 お山で遭難したことがある。
 遭難、と言っても、祖母の経営する旅館の裏山に迷い込んだだけ。だが二日も見つからなかったので当時は大騒動になったらしい。近くの大人が総出で捜して、祖母の知り合いの「あやかし」も手伝ってくれて。
 二日後、見つかったときはみんな驚き、喜んだという。ひとりでよく頑張ったな、と言ってくれたのをおぼろげに覚えている。
 ひとり?
 そうだったろうか。
 微かな記憶に残るのは、近くに座る獣の姿。
 毛がふさふさした、イヌのような動物が、じっと自分を見つめていた。
 大人たちに助けられたとき、獣は走り去ってしまった。危なかったね、もう少しで食べられるところだったかも、などと言われて、それ以来、なんとなくイヌは苦手だ。
 初めて彼氏が出来たときにもそんな話をした。彼は悲しそうな顔をしていた。犬好きなのかな、そんな風に思っていたのだけれど。
 でもまさか、二十五歳になって真相が明かされるなんて、思ってはいなかったのだ。

 

 

 

「はいっ、こちら箱根松月館でございます。宿泊のお問い合わせですね、ありがとうございます! ええ、ええ、再来週土曜日……申し訳ありません、あいにくと満室でございまして。ええ……十二月ならまだ空室がございます。はい、了解しました、またのご連絡をお待ちしております、お電話ありがとうございました、失礼致します!」
 松方雪乃は軽く一礼しながらそっと受話器を置いた。
 だが息をつく間もなく顔を上げ、カウンターの向こうへ笑顔を向ける。
「……大田貫様、チェックアウトでございますね。そちらのテーブルにお伺いしますので、お座りになったままでお待ちくださいませ」
「あら、悪いわねえ。お願いするわ」
 ロビーのソファに座ったまま、品の良い老婦人が頷く。その隣には大柄な老紳士が杖を片手に庭を眺めていた。常連の大田貫夫妻だ。雪乃は手早くタブレットの画面を確認してチェックアウトの準備を始めた。
 日曜朝のフロントは大忙しだ。週の中で一番宿泊率が高いのが土曜日、翌朝はチェックアウトの客で混雑する。
 それでもデジタル化でかなり処理が速くなった。各階の清掃係とビデオ通話でやりとりし、問題が無ければタブレットに顧客のサインをもらってチェックアウト完了となる。
「昔は帳面でやりとりしてたんだがなあ! 分厚い宿泊名簿が懐かしいや」
 老紳士が慣れた手つきでサインをする。半分禿げた頭の上にはぴょこんと小さなケモノの耳が覗いていた。アクセサリーなどではない。時々ピクピクと自然に動いている。
「もっと昔、二百年前はこんな宿に泊まるどころじゃなくてねえ。鉄砲や刀を持った男どもがウロウロしてたから、いつバレるかとヒヤヒヤで。いまはいい時代だよ、自動車にさえ気をつければいいんだから」
「あなた、同じ話を前にもしてたわよ?」
「ああ、すまんすまん。あやかしあるあるだと思って聞き流してくれや」
 二人の表情は人なつこく、茶目っ気がある。雪乃はクスっと笑って頷いた。
「いえ、大田貫様のお話はとても楽しいですよ! 前に教えてくださった、鉄道開通のときの話など、面白かったです」
「あんたが子供のころに話したやつだな。あのころはまだおばあさんが女将だったか……オレが肩車をしてやったのを覚えているか?」
「もちろん。落とされそうになったのも覚えてますよ!」
 はっはっは、と大笑いしてから好々爺は目を細めた。
「本当に、人間が育つのは早いよなあ。あんなに小さな女の子だったのに、もうこんな大人になってるんだから。雪乃ちゃんは美人だし、彼氏なんかもいるんだろ? いなかったら一族の良い男を紹介するからな? この大狸おじさんに言うんだぞ?」
「こら、あなた! そういうのを今はセクハラって言うんですよ! こないだテレビでもやっていたでしょ!」
 隣から小突かれ、老紳士は慌てて頭を掻く。
「あ、これは失礼。感覚が大正のままで……ごめんな、雪乃ちゃん。次は気をつけるから」
「お気遣いいただいてありがとうございます! お支払いはどうなさいますか?」
「いつも通りカードで」
「かしこまりました。では頂戴いたします。……あら?」
 カードを受け取った雪乃はじっとそれを見つめ……だしぬけに、がちんと歯で噛んだ。
 とたんに煙が湧き起こり、カードはただの枯葉に変わる。
「……化けカードでございますね?」
 雪乃は静かに、それでも強い視線で老紳士を見る。
「はっはっは、すまんすまん、雪乃ちゃんのイキのいい反応が見たくてなあ、ついつい」
「あらまあっ、あなた、またイタズラしたのね!? 相手が氷雨ちゃんのときはやらないのに! 本当にごめんなさいね雪乃ちゃん。ほら、早く本物を出して!」
 老婦人が強めに老紳士をつねる。彼は笑いながら財布から黒いカードを取り出した。
「では改めて頂戴いたしますね!」
 今度こそ本物のカードを受け取り、雪乃はカウンターに戻って決済の準備をする。
「あの、雪乃さん、あのお客様って……」
 隣のPCで事務処理をしていた新人社員が耳打ちをした。
「ええ、“A”のお客様よ。しかも創業時から来ていただいているの。失礼がないようにね」
“A”とはつまり『あやかし』。
 神妙に頷いた社員を置いて雪乃が戻ると、二人は外の庭を眺めていた。
「ここの景色だけは変わらないわね。箱根の空と、お山と、秋のススキと……」
 松月館のロビーからは整えられた庭が望める。九月の終わり、庭では早くも竜胆とススキが静かな色合いで揺れていた。
 その向こうには箱根の山と、澄み渡る秋の空が広がっている。彼岸を越えたこれからは季候も良く、絶好の旅行シーズンだ。
「私たちも年だし、あと何年、松月館に来られるかなあって話してるの。でもこうして泊まってみると不思議と元気をもらえるのよ。また次も来よう、ってね。雪乃ちゃんたちのおかげだわ」
 それにしても、と老婦人がにこやかな顔を向ける。
「今日のお召し物、とても素敵よ! いつもの黒いスーツ姿も素敵だけれど、こういう着物を着るとぐっと『副女将』って感じになるわね」
「そ、そうでしょうか。ありがとうございます」
 雪乃はちょっと照れくさい気持ちで自分の着物をチラリと見た。
 いつもの雪乃は副女将らしい、機能性重視の黒いパンツスーツを着ている。だが今日は紅もみじの着物に金の帯留めまで着けていた。旅館らしいといえばらしいが、少し派手な気もする。
「姉に……女将の氷雨に強く勧められまして。お彼岸の土日ですし、と」
「いいじゃない、よくお似合いよ! そんな日にお会い出来て良かったわ」
「おおい、女同士で喋ってないで、そろそろ狸耳を引っ込めて準備をしろよ。オレは久しぶりに小田原城に登りたいんだ。混む前に行こう」
「あら、もう九時じゃない! 楽しい時間はあっという間ね。人間界に降りる準備をしなくちゃ」
 老夫婦が同時に、まるで手品みたいに頭の上のケモノ耳を引っ込める。ちょうどそこへ男性社員が呼びに来た。車を正面に移動し、荷物も載せたという。
「じゃあな、雪乃ちゃん! また来るよ」
「はいっ、またのお越しをお待ちしております!」
 雪乃は旅館の入り口まで見送り、深々と頭を下げる。レクサスに乗った大狸の二人は颯爽と秋の箱根に滑り出していった。

 

 箱根松月館はこぢんまりとした温泉旅館だ。
 大正時代から使っている建物は和洋折衷の上品な洋館で、旅館、というよりはクラシカルホテルの風情もある。館内は十室、庭園内に離れが一室。もちろん内装は時代ごとに改装されており、雪乃の姉夫婦が後を継いだ五年前には贅沢な和モダンへ一新されていた。
 強羅の駅から山側へ入るため、騒がしい旅館街からはかなり離れている。森の中に開けた庭と、しっとりした佇まい。朝晩に野鳥の声が響く環境には人の気配が薄い。『落ち着く宿』として常連客に人気だった。
 けれど雑誌にも、インターネットのサイトにも一度も掲載されたことはない。
 依頼は山ほど来るが、そのたびに断っているのだ。
 この宿は特殊な旅館……。
『あやかし』と『人間』の狭間に生きる人々のための宿だった。

 

「雪乃、フロント任せちゃってごめんね」
 女将である松方氷雨が戻ってきたのは、夫妻を見送ってから一時間後のことだった。
「遅いよ、お姉ちゃん。もうほとんど終わっちゃったよ?」
 十時を過ぎると客の流れは落ち着いてくる。従業員の影も少なく、ロビーは閑散としていた。部屋数の多くない、こぢんまりとした旅館だから、ピークさえ過ぎれば静けさが戻るのも早い。
「離れのセッティングに手間取っちゃって。でも雪乃に任せていれば大丈夫」
「まあ副女将だしね」
「頼れる妹がいて助かるわあ」
 氷雨は雪乃よりも五つ年上の三十歳。艶やかな黒髪に目が大きく、口元に黒子がある。
 性格は一見おっとりしているが、実はかなり計算高いしっかり者だ。夫婦でこの旅館を継いですぐに改装工事を入れ、借金を二年で返したので銀行の担当者も驚いていた。
 そんなしっかり者だから、引退した祖母も父母も安心して隠居していられるらしい。
 隠居、と言っても両親は実は移住先の沖縄で同じようなあやかし宿『ウチナー松月』を営んでいる。祖母の認知症がきっかけで松月館を譲り、憧れの沖縄に移住した両親だが、結局はのんびりできずに現役で働いているあたり、根っから旅館経営が好きなのだろう。
 施設に入居した祖母もずいぶん元気なようで、毎日大忙しと言っていた。名物料理のグルクンの唐揚げも大好評だとか。
 両親の後を引き継ぎ、こちらの旅館を盛り上げるのは氷雨や雪乃の役目だ。幸いにも大田貫のような古いお得意様が贔屓にしてくれているし、歴史と癒やしを絶やさないよう、雪乃たち姉妹は協力して『松月館』を切り盛りしていた。
「土曜の宿泊は常連さんばかりで、雪乃の親しい人も多かったわね……大田貫さんも喜んだでしょ」
「喜んだけどさ、また化けカードを掴まされそうになったよ!」
「木の葉のやつね。あれがやりたくて雪乃を呼ぶんだもの。合わせてあげるのが筋ってもんでしょう」
 横からタブレットの情報を覗き込んだ氷雨が、ふと、顔を上げて微笑む。
「にしてもよく似合ってるじゃない、その着物」
「そうかなあ」
 雪乃はちょっと困ったように自分の着物を見つめた。
 女将の氷雨はいつも着物だが、雪乃はめったに着ることはない。だが今朝、朝の打ち合わせに行くと、氷雨からこの綺麗な着物を勧められたのだ。
「窮屈だから、私はいつもの黒いスーツがいい。あっちの方が動けるし、慣れてるし。でも珍しいよね、お姉ちゃんが私に着物を勧めるなんて」
「ほら、今日はお日柄も良いし、雪乃も少しは着飾ったらいいかなーって」
 氷雨と違って雪乃の容貌はやや洋風だ。茶色がかった瞳にブルーベースの肌。ずっと染めていたから髪もわずかに脱色して赤みがかっている。それでも着物を着れば華やかに映えるし、テンションも上がる。袖だけが邪魔だけど……。
 タブレットを操った雪乃は予約表のところで目を止めた。
「今日は会食が一件……ああ、さっき言ってた離れの部屋のやつだね」
 松月館には本館の向こうにささやかな離れがある。メゾネット形式のスイートルームで、一階には広い和室が二つと、露天風呂、洗面設備、二階には寝室用の洋室が二部屋と応接間、書斎まで用意されていた。広い一階からは手入れされた日本庭園がよく見え、常連客の会食に使われる事も多い。
「そうそう。仁科家の」
「仁科って、あやかしの?」
 タブレットを操作すると部屋名、予約名の隣に“A”と記号がある。雪乃の質問に氷雨が頷いた。
「昔の宿泊簿にも記載があるし、かなり昔からの常連さん一族よ。最近も幾度かお泊まりになっているし。一族の『真名』はたしか二口女だったはずだけど、最近は混血も進んでいるから違う特性の人も混ざっているかも」
 あやかし。
 それは日本古来の『妖怪』や『精霊』の種族をまとめて表わす言葉だ。どれも人間より昔からこの地に住む異形の先達であり、かつては敵対関係だった一族もいる。
 しかし時代は移り変わり、あやかしたちの世界も生き方もかなり変わった。
 いまや人間だけでなくあやかしたちも飽食の時代。人を食うなどの悪行は遠い伝承となって久しい。多くの者が海や山を離れて都会で就業し、一見すれば人間のように社会に溶け込んで暮らしている。
 だからというか、それ故にいくつかのルールは存在する。
 特に松月館があやかしを受け入れる際に定めた大原則はいまでも有効だ。
 こちらは、あやかしとしての素性を表わす名前……たとえば『一反木綿の血筋』とか、『子泣き爺の孫』などという『真名』をむやみと尋ねない。
 その代わり、ここを訪れるあやかしは、人間と周囲に迷惑を掛けない。
 言霊の中でも名前は最も重要とされている。心や体と繋がっていて、相手の真の名前を把握すれば呪術で縛ることも可能なのだ。
 あやかしは特にその特性を強く持ち、今でもむやみに真名が知られるのを嫌う。呪術はもはや昔のものとなったが、やはり彼らの警戒心を解くまでには至っていない。
 ただ、あやかし同士に相性や天敵などが存在する場合もある。そういう致命的な情報についてだけ、最初の宿泊予約のときに言って欲しいと説明はしている。大きな問題になって困るのは顧客だからだ。
 代々のお得意様のほとんどは、古い宿泊帳の中に真名が記されている。それは松月館を信頼して明かしたもの。そうして長い年月をかけて、松月館と箱根のあやかしたちは親密で居心地の良い関係を築いてきた。代替わりしてもその絆が変わることはない。
「こちらはただ、あやかしでも人間でも、名家でも普通の方でも、分け隔てなくおもてなしをするまで。今回はお見合いの前の『顔合わせ』を兼ねた親族会らしいわ」
「お見合いねえ。その前にも顔合わせをするだなんて、古風ね」
「逆にこういう方がすんなりカップリング成立するのかも?」
 ふふ、と笑って氷雨がこちらを意味深に見る。雪乃は口を尖らせてそっぽを向いた。
「……あいにくといまは仕事が彼氏ですから! 積極的婚活はノーサンキューです!」
「まだ何にも言ってないじゃないの」
「お姉ちゃんは目がデカイから、必要以上に語るのよ!」
 もしかして、と氷雨は大きな目を細めた。
「高校時代の初彼がまだ忘れられない?」
 ドキリとする。
 だがすぐに首を振り、雪乃は氷雨を睨んだ。
「……っていうか、なんで今その話するの?」
「いや、あなた酔うたびに彼の話してるじゃない? 先週も散々聞かされたし。いまだに彼氏を作らないのはまだ引きずってるからなのかなって、なんとなく思い出しちゃって」
 おっとりした顔でグッサリ突っ込んでくるのが氷雨の持ち味だ。雪乃は居心地の悪い猫みたいな表情になった。
「まあ、今でも寡黙な人は好きだけど。酔った時の話をまともに受けないでよ、もう」
 言葉に重なるように氷雨のスマートフォンが鳴る。
「はい松月館女将です……あ、山上さま! お待ちしておりました、はい、お車は入って正面に停めていただければ結構ですので。ええ、すぐにお迎えに上がります」
 流れるようにスマートフォンを切り、氷雨が微笑みながら雪乃へ目を向けた。
「ご予約のお客様がお着きになったわ。雪乃、ちょっと正門のところまで行ってきて。お迎えお願い」
「えっ、なんで私が!? お姉ちゃんが行かないとダメじゃないの?」
「ううん、ここは雪乃の出番なのよ!」
 氷雨はなんだか楽しそうだ。イヤな予感しかしない。
「あれ、もしや私の知ってる人?」
 そもそも、本来ならお客様はすべて女将の氷雨が迎えるはずなのだが、わずかに例外もある。大田貫夫妻のように、雪乃が親しい人物の時だ。
 ふふふ、と笑ってから氷雨は意味深な表情になった。
「いま来られた方、今日の会食の参加者様なんだけどね。話がややこしくて。雪乃に頼みたいんだけど、会食中、彼をサポートしてほしいのよね」
「サポート?」
「そう、彼が話をする隣で頷いていればいいから。あ、ほら、行って行って!」
 玄関の向こう、駐車場の方へチラリと車の影がよぎる。氷雨が追いやるようにして雪乃をカウンターから押し出した。
「んもう、役目なら行くけど、なんだか強引じゃない? 何かあるわけ?」
「急いでるのよ、ほら、やってくれたら甲斐ワイナリーの『新星プレミアム・ロゼ』夕飯に付けてあげるから!」
「それなら仕方がない」
 雪乃はお酒、しかもワインに目がない。国産高級ワインを提示されればあっさり受け入れるというものだ。
「くれぐれも粗相のないようにね!」
 氷雨の声に頷きで答え、雪乃はロビーを後にした。
 外に出ると柔らかな秋の陽射しに目を細める。風は涼しく、気温も良い。この時期は観光客も多いので旅館には嬉しいシーズンだ。
 客の出払った駐車場はガラ空きで、黒い高級車がぽつんと一番奥に停められていた。降りた人物が大股でこちらに歩いてくるのが見える。
 まだ若い男性だ。細身のスーツを着こなし、胸元に挿したチーフも、左手にはめたドライビンググローブさえスタイリッシュで……。
 雪乃はハッとして立ち止まった。
 同時に向こうも足を止める。
 ──まさか、こんなことってあるのだろうか。
 頭の中に声が聞こえたように感じてびっくりする。えっ、これって私の心の声?
 気を取り直し、雪乃は足に力を入れて歩き出した。胸がドキドキ、頭はフワフワ。まさか、という言葉が何度もよぎる。
 同時にようやく氷雨の様子に合点がいった。着物を勧めたり、過去の話をしたり。
 すべてはこのため……!?
「お、お待たせしました。松月館、副女将の……松方雪乃です」
 喉がカラカラで言葉が出ない。それでも職業意識を奮い立たせ、深く一礼する。相手が近くでじっと見つめているのが分かる。
「……雪乃さん……帰ってきていたのか……」
 久しぶりに聞く初恋の人の声は優しく、懐かしい。
「真一郎、さん……」
 雪乃はようやく混乱する頭をまとめ、意を決して顔を上げた。
 目の前には背の高い青年が立っている。
 黒い髪を撫でつけ、目鼻立ちがすっきりしたハンサムだ。暗灰色のスーツは三つ揃いで、深い瑠璃色のネクタイがよく似合っていた。それに背が高い。こんなに背が高かったっけ。あの頃は二人とも高校の制服を着て、もっと顔も幼くて。
 ただ、眼差しだけはあの頃と同じようにまっすぐで変わらない。
 山辺真一郎。
 高校時代の初恋の人。
 そして雪乃が初めてお付き合いした青年でもあった。
「山上様、とお伺いしたけれど……」
「ああ、名字が変わったんだ。祖父の養子に入って、今は『山上』になっている」
 澄んだ声で答え、彼はまじまじと雪乃を見る。
「こちらこそ、とても驚いた。まさか雪乃さんが戻っているなんて」
「私がここにいること、姉さんから……氷雨から聞いてなかったんですか?」
「ああ。ずっと東京で働いていると思っていた」
 相手はすまなそうに目を伏せる。睫毛も相変わらず長いし、色も白い。髪は黒色だが近くで見るとうっすらと藍色のような不思議な色合いを帯びている。
 彼は少し考えてから、どことなく喜んだような表情を浮かべた。
「ってことは、もしかして雪乃さん、あなたが引き受けて……その着物も……」
 言葉の最後に車のエンジン音が重なった。顔を上げると駐車場の入り口に外車が二台、入ってくるのが見えた。
 降りてきたのは年配の男性と、中年のご夫婦。それに振り袖姿の若い女性。
 中年夫婦はかなりふくよかな体型で、逆に振り袖の女性はモデルのように瘠せていた。
「あら真一郎さん、先にお着きでしたのね。……と、その女性は?」
 中年女性の声に、真一郎はちらりと雪乃を見る。その視線を確認するよりも早く雪乃は深く頭を下げていた。
「……松月館副女将の松方雪乃でございます。お車が見えましたのでお迎えに上がりました。ようこそ松月館にお越し下さいました、どうぞこちらへ」
 混乱した心は置き去りのまま、言葉だけがスラスラと出てくる。真一郎は雪乃の顔をじっと見ていたが、皆が歩き始めたのに合わせて歩き出した。
 その隣に振り袖姿の令嬢が並ぶ。
「真一郎様、素敵な旅館ですわね!」
 黒髪を長く伸ばした、綺麗な女性だった。鮮やかな色柄の着物はかなりの高級品だろう。しかし顔立ちはまだ若く、つり上がった大きな目には少女のあどけなさも残っている。
 真一郎は、そうですね、と答え、わずかに表情を険しくした。
 雪乃の胸がドキリと鳴る。イヤな予感。
 だがそれに気付かぬ様子で、振り袖の女性は庭を眺め回し、無邪気に笑う。
「今日はお食事だけですけれど、もし婚約が成立したらお泊まりに来ましょうね!」
 婚約。
 ああ、なるほど。
 今日の会食は……真一郎の婚約のための、顔合わせということか。
 心のどこかがわずかに軋む。雪乃は歩きながらそっと、胸を押さえた。

おすすめの関連本・電子書籍
電子書籍の閲覧方法をお選びいただけます
ブラウザビューアで読む

ブラウザ上ですぐに電子書籍をお読みいただけます。ビューアアプリのインストールは必要ありません。

  • 【通信環境】オンライン
  • 【アプリ】必要なし

※ページ遷移するごとに通信が発生します。ご利用の端末のご契約内容をご確認ください。 通信状況がよくない環境では、閲覧が困難な場合があります。予めご了承ください。

ビューアアプリ「book-in-the-box」で読む

アプリに電子書籍をダウンロードすれば、いつでもどこでもお読みいただけます。

  • 【通信環境】オフライン OK
  • 【アプリ】必要

※ビューアアプリ「book-in-the-box」はMacOS非対応です。 MacOSをお使いの方は、アプリでの閲覧はできません。 ※閲覧については推奨環境をご確認ください。

「book-in-the-box」ダウンロードサイト
一覧 電子書籍ランキング 一覧

ジャンル・シチュエーション検索

 

ジャンル

キャラ属性

シチュエーション