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汝、隣人の猫を愛せよ
溺愛社長と婚前同棲始めました!?

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書籍紹介

猫に釣られて愛の罠にはまりました

猫が大好きな玲香は、取引先の社長・大智も同志と知って意気投合! ニャンコ話で盛り上がるうちに愛を囁かれて、情熱的なキスとアプローチに身も心も蕩けてしまいそう――。「お前って、猫みたい。すごく可愛い」淫らな愛撫と共に滾る熱杭で貫かれ、何度も絶頂を感じて……。猫のご縁で始まったモフモフいっぱいの甘すぎる婚前生活に、胸のトキメキが止まらない!

ジャンル:
現代
キャラ属性:
社長・セレブ
シチュエーション:
玉の輿・身分差 | オフィス・職場 | 甘々・溺愛
登場人物紹介

佐々木大智(ささきだいち)

外食チェーン「DAININGフードサービス」の代表取締役社長。痩身でスマートな印象の魅力的な男性。実は猫をこよなく愛していて猫カフェの常連。そこで出会った女性が気になり!?

桜井玲香(さくらいれいか)

食品専門の商社勤務。努力家で仕事はデキるものの、ずば抜けたエリート一家に育ったため自信が持てずにいる。疲れた日には猫カフェでモフモフするのが癒やし。

トラ

図体も態度もやけに大きい茶トラの雄猫。ふてぶてしい様相ながら、二人にとっての転機に一役買う(かも)!?

立ち読み


 ──あの日以来猫を見かけると、いつどこで何をしていても、つい目で追ってしまう。そんな毎日がもう十三年続いていた。
 
 勤務先の最寄り駅前にある、蕎麦屋の昼時の混みようは尋常ではない。安い、美味い、早いの三拍子揃った人気店で、一時間近く待たなければならないこともあるのだとか。
 こんな時営業は事務に比べて便利だ。外回りに出てしまいさえすれば、昼休みは自由に取れるので、昼食時間をずらすこともできる。
「話があるので一緒に遅めのお昼を取りませんか」──玲香がまさに外回りの最中に、上司の主任に電話で誘われたのが正午。二時間後にはくだんの蕎麦屋の窓際のテーブル席で、天ざるにするか親子丼にするかで頭を悩ませていた。
 断腸の思いで天ざるを選び、窓の外の通りに目を向ける。オフィス街近くだからか、同じく営業らしいスーツ姿の男女が、ビジネスケースを手に忙しなく行き交っていた。
 何気なく通行人をチェックしていたのだが、そのうちのスーツ姿の男性の足下を、モフモフとした何かがさっと通り抜けたのに気付く。
「あっ……猫……」
 図体も尻尾もやけに太い茶トラの猫だった。器用に人の合間を縫って歩いていく。
 玲香は猫を発見するのが得意だった。捨て猫を拾って保護施設に連れて行ったり、自宅で預かり里親を探したりしたことも何度もある。街中で猫を見かけることも時々はあったが、人通りも交通量も多いこの界隈では初めてだった。
 車道に飛び出したら大変だと慌て、テーブルに手をつき立ち上がろうとした次の瞬間、「桜井さん?」と主任に呼ばれて我に返る。
「どうしましたか?」
「あっ、申し訳ございません。猫がいたので、つい……」
 主任との三十秒にも満たない遣り取りの間に、猫はどこへともなく姿を消していた。首輪をしていないように見えたので、きっと捨てられたのか野良猫だろう。
 飼い猫の寿命が十年以上に上るのに対し、野良猫は三年から五年程度だと言われている。それほど野良猫として生きるのは過酷なのだ。
 主任に断り捕まえておけばよかったと後悔する。動物保護団体に預けるくらいのことはできただろう。
 だが、窓から大通りに目を凝らしても、すでに茶トラのモフモフ姿はどこにもおらず、いつもと変わらぬ駅前の風景があるばかりだった。
 激しくがっかりしつつも顔には出さず、どうにか気持ちを切り替える。
「申し訳ございませんでした。ところで、お話ってなんでしょう?」
「ええ、急な話なんですが、年内で退職することになりまして」
 主任はもうじき係長に昇進するだろうと言われていた。このタイミングで退職するとはとさすがに驚く。
「主任、退職されるんですか? 理由をお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「中途半端な時期で申し訳ないのですが……」
 主任は広島のレモン農家の一人息子だったのだが、跡継ぎになる気はなく東京で就職した。ところが、この数年で心境の変化があり、Uターンしようかと考えていたところで、父親が脳梗塞で倒れて入院したのだそうだ。母親だけでは当然レモン畑の維持など不可能なので、思い切って家業を継ぐことにしたのだとか。
「妻も同郷出身で帰郷を希望していましたから、いい機会かと思いまして。息子も赤ん坊の今なら地元に慣れやすいでしょうしね」
「そうだったんですか……寂しくなりますね」
 すでに人事には退職届を提出してあり、来週から仕事の引き継ぎをしていくのだそうだ。
「桜井さんにも僕の顧客の何割かをお願いすることになります。それともう一つ、僕の退職で当然外食課の主任のポストが空きます。僕は人事に桜井さんを推薦しておきました。もちろん、課長の同意があってのことです」
「えっ!?」
 同時にやって来た店員が「お待たせしました!」と、天ざるとにしんそばをテーブルに置いた。
 主任のポストが空くことになり、玲香が次期候補となっている──降って湧いたような話に喜ぶよりも戸惑ってしまう。
「私が次期主任だなんて……」
 主任は「まだ決定というわけではないですよ」と苦笑した。
「ですが、外食課の社員は桜井さんなら納得すると思うんです。まあ、昇進は仕事の出来だけで決まるわけでもない。タイミングや力関係があるので、難しいところがあるんですが……」
 ただ、最有力候補には違いないらしい。まだ本決まりではないので、内密にと念押しされた。そこまで知らされてもまだ昇進の話が信じられない。
「あのう、私は女ですよ。前例があるんでしょうか……」
 玲香が勤務するエルモ物産は、世界各国の輸入食品を取り扱う専門商社である。スパイス、ハーブ、ナッツ、ドライフルーツ、オリーブオイルやワインなどを、一部は加工して百貨店やスーパーなどの小売に卸すだけではなく、業務用として外食チェーンやレストラン、ホテルに売り込んでいた。アンテナショップやオンラインショップも展開している。
 創業は昭和にまで遡り、社長を頂点とした同族経営である。バブル期に著しい成長を遂げ、その後の不況も前社長の手腕で乗り切り、食品関係の専門商社では中堅の地位を築いていた。
 玲香はその食品営業部外食課の営業である。飲食店へのルートセールス、新規開拓が主な仕事であり、この二年は十五人いる外食課で一、二の営業成績を誇っていた。
 とはいえ、女性の営業が二十代で主任になったケースはまだない。結婚を機会に三十歳までに退職する割合が多いからだろう。
 もちろん、玲香も働く以上は昇進を望んでいた。だが、同時にそうした事情を知っていたので、望みは薄いかもしれないと暗い気持ちになっていたのだ。
 主任は割り箸を割ってにしんの身をほぐした。
「なんにせよ僕は桜井さんを推しておきました。四年間あなたの上司を務めてきましたが、
本当によくやってくれたと思います。正直、初めは入社一年で退職するだろうと侮っていました。なのに、今は僕に並ぶ成績になって、つくづく人を見る目がないと、上司として自信喪失したくらいですよ」
 主任との四年近くにわたる付き合いから、この言い回しが最上級の褒め言葉なのだと知っている。喜びが胸の奥からマグマのように込み上げてきた。努力をし続けていれば誰かがどこかで見ていて、いつかは認められるのだとようやく思えた。
「ありがとう、ございます。嬉しいです……」
 性格が営業向きではないからと、すぐに諦めなくてよかったと思いつつ、ニヤニヤしそうになるのをどうにか抑える。
 エルモ物産の営業は部や課を問わず、離職率が低いとは言えない。すでに取引のある顧客のニーズと現状を調査し、商品の提案をするルートセールスだけではなく、新規の顧客の開拓も任されているからだ。
 新規開拓の営業はなんの関係もないところから、一から信頼を築き上げなければならず難易度が高い。顧客の都合に合わせなければならないので、朝早くから、または夜遅くに訪問することもあり、直行直帰が多く必然的に残業も発生する。
 その上休日返上も珍しくはなく、体力精神力ともに消耗するので、男女を問わず何割かの社員は決まって入社して三ヶ月目、一年目、三年目辺りに離職してしまう。そんな中で玲香は四年目を迎えたのだ。
「能力も努力も申し分ない。桜井さんに足りないものは、強いて言えばリーダーシップに繋がる自信ですね。時々おどおどしているように見えてしまいます」
 おどおどと評価されてドキッとした。
「自信、ですか……」
 少々濃い蕎麦つゆに目を落とす。
 自信は玲香とはもっとも縁遠い感情だった。必死に努力をして主任に認められるまでに
なったのに、落ちこぼれだというコンプレックスから解放されない。
「まあ、地位が人を作るという言葉もあります。自信はきっとあとからついてきますよ。僕もそうでしたからね」
 主任は湯飲みに注がれた蕎麦湯をすすった。
「人事がどのような判断をするにせよ、僕がいなくなったあとも頑張ってください。桜井さんならもっと伸びるに違いありませんから」
「ありがとう、ございます……」
 自信がない理由はもうわかっていたものの、そう簡単に解決できる問題でもないので頭が痛かった。

 食品専門商社の営業として多忙な玲香にとって、顧客からの呼び出しのない金曜日の夜は貴重だ。
 早く帰ってベッドでごろごろするのもいいが、今日は常連の猫カフェ・猫茶屋本舗に来ている。昼食時に主任に「おどおどしている」と指摘され、確かにその通りだと少々気落ちしたので、可愛い猫ちゃんズに心を癒やしてほしかったのだ。
 オフィス街の片隅にある八重洲店は、関東に二〇店舗を展開する猫カフェチェーン店の一店舗で、コンセプトは江戸時代の遊郭である。猫が花魁といったところなのだろう。格子戸や畳を模したフロアに趣があった。ソファや椅子の代わりに座布団が敷かれ、猫のおもちゃも手鞠や人形などで面白い。
 お座敷と名付けられたルームに入る前に、トイレに立ち寄り化粧ポーチを取り出して、猫と戯れるための念入りな下準備をする。
 外回り先でタバコのにおいがついた上着は脱ぎ、メイクは綺麗に落としてすっぴんになった。ファンデーションに猫の苦手なアロマオイルが入っていたからだ。
 その際使い捨てコンタクトが外れてしまったので、手持ちの眼鏡に付け替えた結果、メイク後とは別人の地味女になっている。こうなったらもうすべて取り払って楽になってしまおうと、きっちりまとめていた髪も解き、後ろでオバサン結びに直した。
 玲香は顔立ちが整っている方なのだが、すっぴんになると途端に本来の根暗かつ、後ろ向きな性格が前面に出る。
 メイクは仕事で勝負するための武装でしかないので、武装せずにリラックスするとこうなるのだ。今の姿で同僚や顧客に出くわしても、テキパキとした美人営業だと評判の玲香だと気付くことは、まずないだろう。
 すでに午後八時を過ぎているのだが、お座敷にはまだ四、五人ほどの客がいた。しかし、ひたすら猫に癒やされたい玲香には、もはや人型のオブジェ程度にしか見えない。
 今日のお目当ての猫は黒ペルシャのオトメだ。江戸時代、黒猫は餡子猫と呼ばれ縁起物で幸福の象徴だった。心の癒やしと仕事運の向上を願って、オトメをモフろうとしたのだ。
 オトメは猫茶屋本舗でもトップの人気花魁猫なので、大抵先客にモフられていて順番待ちになるのだが、この日は運良く一匹で座布団に座っていた。
「オトメちゃーん、こんにちは。私のこと覚えてる?」
 くるりと振り返り、玲香に気付くと、「みゃみゃみゃみゃみゃ~」と可愛い声で鳴いてくれる。リズムからして「久しぶり~」と言っているように聞こえた。
 座布団のそばにしゃがみ込み、よしよしと喉を撫でてやると、うっとりと目を閉じて身を委ねた。
「元気だった? まだ遊ぶ気ある?」
「みゃみゃんっ」
「んー、オトメちゃん、やっぱり可愛い」
「みゃみゃみゃみゃぁ~」
 オトメの人気の理由はこの鳴き声……というよりは、猫だとは思えないほどお喋りな点にある。何かを聞けば必ず猫語で(?)答えてくれるし、一人……もとい一匹でいる時にも、しょっちゅう独り言をみゃみゃみゃと呟いていた。
「今日も可愛いね~」
 膝の上のオトメをモフっていると、ぬくもりに心癒やされたからだろうか。日中の主任の指摘を反芻し、改めて自分を見つめ直す余裕ができた。
 どれだけ営業成績を上げても、自信を持てない理由は、生い立ちにあると分析する──家族に悪気があったわけではない。そう思いたい。ただ、父も、母も、兄も皆何もかもが優秀すぎた。
 玲香の生まれた桜井家は代々法曹を輩出しており、明治時代には大審院長を務めた祖先もいる法曹エリートの血筋だ。
 父の雅和は東京地方裁判所長、母のかおりは大手法律事務所に所属する、マスコミにもたびたび登場するベテラン弁護士である。五つ上の兄の雅臣は両親の期待を一身に受け、それに見事応えた自慢の長男だった。父の雅和と同じくT大学の法学部出身であり、順調に司法試験に合格したあとは、裁判官に任官され、現在仙台地裁に勤務している。
 親族も法曹ではなくとも、官僚になるなり公務員になるなり、大企業で活躍するなりしている。最終学歴はT大学、K大学、I大学、最低でもW大というのが暗黙の了解となっている中で、大してランクが高くもない私大卒、かつ単なる会社員の玲香一人だけが、一族での落ちこぼれのはみ出し者だった。
 自分も両親や兄のようになりたいと、幼い頃から勉強は毎日欠かさずしていたし、部活も運動も必死になって頑張っていた。だが、人には生まれ持っての能力というものがある。玲香は一人だけ運が悪かったのか、どれだけ努力したところで、雅和やかおりの望む優秀な娘にはなれなかった。
 ようやく合格した大学に入学する前日の深夜、両親がダイニングで溜め息を吐きながら、自分について愚痴を零しているのを聞いたことがある。トイレに行こうと前を通りかかったのだが、ショックでその場に立ち尽くしたことをよく覚えていた。
『玲香は結局出来がよくならなかったな。あの子は本当に僕の子なのか?』
『ちょっと雅和さん、悪い冗談は止めてよ。私に浮気する暇なんてないってわかっているでしょ。塾に行かせても、家庭教師をつけても駄目だったんだもの。そういうどうしようもない子って、一定の割合で生まれるものなのよ』
『……玲香はまだ容姿がいいだけ救われた方か。僕の部下から真面目な男を見繕って、まだ若いうちに結婚させた方がいいだろうな』
『そうね。あの子は早く家庭に入った方がいいわ』
 ──どうしようもない子。
 それが両親の自分に対する評価なのかと、憤るより前に悲しくてならなかった。愛してほしくて言われるがままにやって来たのに、まったく評価されないだけではなく、今後の人生まで決められようとしている。失敗作だと言われたような気がした。
 自分自身で成し遂げたことを見てほしかった。認めてほしかった。だから、二十歳を過ぎた頃から見合いを立て続けに持ち込まれても、片端から断り、両親には頼らずに就職活動に勤しんだのだ。何社も回ってようやく掴んだ内定だった。
 雅和もかおりもエルモ物産の名前を聞いて、あからさまにではないが、いい顔はしなかった。同じ年に同年齢の従姉が都庁の職員となったので、彼女と比較して見栄えがしないとでも思ったのだろうか。やはり、エルモ物産には就職せずに、かおりの知人の法律事務所の事務職になるか、見合いをして結婚しろと説得にかかってきた。
 たった一言、「おめでとう。頑張りなさいよ」というエールがほしかった。なのに、両親には自分で勝ち取った内定すら認めてもらえない。だから、玲香は両親の勧めをすべて蹴って、マンションに引っ越し一人暮らしを始めたのである。
 あれからもう何年も経っているのに、まだ落ちこぼれだとの意識が取れないのだろうか。コンプレックスに引きずられ、恋愛もうまくいったためしがない。
 大抵相手に容姿を気に入られ、告白されて付き合い始めるのだが、次第に扱いがぞんざいになっていき、ある日「お前、重いんだよ」と振られるのだ。きっと両親から得られなかったものを、恋人に求めて失敗してしまうのだろう。
 すでにパターン化しているのが悲しい。追い縋って更に嫌われるのが怖く、まだ好きでも諦めるしかなかった。
 今付き合っている高志は、三つ年上の二十八歳。エルモ物産の小売課の社員である。やはり高志から告白されて付き合い、もう二年目になるのだが、当初は毎日取っていた連絡も、今では三日に一度、ひどい時には一週間に一度だ。そろそろ振られそうな予感に溜め息が出た。
 まだ高志が他課の社員でよかったと思う。社内恋愛が破れて別れた恋人と同じオフィスで働くなど、いくら双方が大人であってもさすがに気まずい。
 我が身と我が人生を省みれば省みるほど更に落ち込んでしまう。卑屈でい続けたいはずがない。過去を振り払い、未来へと歩き出す強さがほしいのに。
 顔を伏せた玲香を心配したのだろうか。それとももっと撫でろとの催促なのだろうか。オトメが「みゃっみゃみゃっ」と奇妙なリズムで鳴いた。
「あっ、ごめんね。ん~、オトメちゃん可愛い! 世界一!」
 気を紛らわそうとして、オトメをこれでもかとモフる。オトメは玲香がどれだけ弄っても、逃げずに甘えゴロゴロと喉を鳴らしていた。
 そう、両親や恋人とはうまくいかなくとも、自分には猫と仕事があると気を取り直す。猫はこうして可愛がれば応えてくれ、仕事は努力し、結果を出せば認められる。主任の褒め言葉を反芻し、これからも頑張ろうとカツを入れた。更に成績を上げ昇進を確実なものにしなければならない。
「よし、明日からまたバリバリやるぞ。オトメちゃん、応援してね!」
「みゃみゃっ!」
 そう、仕事を原動力に生まれ変わるのだと決意する。自信をつければもっとうまく生きられるはずだった。
 それにしても、猫の体温と毛並みは最高だった。黒く塗り潰されそうだった心が、次第に穏やかに明るくなっていく。ただそこにいるだけで人を幸せにできるのだから、猫はやはり偉大なのだと、一人でうんうんと頷いた。
 無類の猫好きというだけではなく、自分と同じように何かから逃げ出してきて、傷付いた心を慰めに来た客もいるのだろうか。そんな思いでフロア内の猫好き同士らに目を向ける。
 真面目そうな会社員風のスーツ姿の男性もいれば、手の甲にタトゥーを入れた金髪の外国人女性も、縁側でお茶を飲んでいる仲の良さそうな老夫婦もいる。いずれも蕩けんばかりの顔で猫をモフっていた。
 中でも目を引いたのが、屋内だというのに、キャップを被った年齢不詳の男性だった。服装はジーンズにTシャツ、ジャケットと普通なのだが、夏でもないのにサングラスをかけ、おまけにマスクまで着けていていかにも怪しい。あの銀行強盗ファッションはなんだと眉をひそめる。
 猫も顔がわからないと不信感を抱くのか、コイツは地雷原だとでもいうかのように、あからさまに強盗モドキを避けて部屋を横切っていた。
 ところが、ロシアンブルーのホタルだけは、ピンと尻尾を立てすらして、自分から強盗モドキに近寄っていったのだ。
 ホタルはシャイで人見知りが激しい猫で、機嫌のいい時以外は触らせてくれない。それも人間が拝み倒してのことであり、そのつれなさがたまらないと、一部のファンから熱狂的な人気があった。
 なのに、強盗モドキには自分から頭を擦り付けている。強盗モドキもおそらく目を細めてホタルをよしよしと撫でていた。「ん~、ホタルはお利口さんだな~♪」などと、文字通り猫撫で声で褒めてもいる。
 ホタルは撫でられるだけでは足りないのか、男性の胡座の上に飛び乗りゴロゴロ喉を鳴らしている。
 あのホタルが懐くとは、と目を見張った。
 猫好きに悪人はいない。また、猫は悪人に懐かないと、長年の経験からよく知っている。
 そういうわけで強盗モドキは、服装はともかく善人だと判断した。
 男性はその後十分ほどホタルと遊んでいたが、ふと顔を上げて和箪笥の上の置き時計に目を向けた。ホタルを膝からそっと下ろし、「じゃあな」と名残惜しそうに座布団から立ち上がる。
 随分背が高く足の長い男性だった。一八〇センチは確実にあるだろう。日本人離れしたスタイルであるだけではなく、姿勢がよく歩き方に若々しさと自信がある。二十代後半から三十代前半だろうか。
 玲香はその後もオトメを撫でていたものの、五分ほどしてスマホに電話がかかってきたので、オトメに謝り膝から下ろしてお座敷を出た。
 会社からなのだと思い込んでいたのだが、レジ前に置かれた椅子で画面を確認し、発信先がかおりだったのでがっくりとする。どうせまた見合いを押し付けるつもりなのだろう。
 かおりと話しても疲れるだけなので、かけ直すのは明日にすることにした。できれば無視したいのだが、かけ直さなければ、マンションにまで押しかけてくるかもしれないからだ。
 直後に、どこからか焦った声が聞こえたので顔を上げる。
「ここって現金だけになったんですか。困ったな……。一五〇円しかないんだけど」
 お座敷にいた強盗モドキがレジ近くで立ち尽くしていた。同じく困ったような表情のスタッフの前で、ジャケットのポケットをしきりに探っている。状況から察するに現金を忘れたのだろうか。よく見ると右手にクレジットカードを握り締めていた。
 猫茶屋本舗は今年から後払いの現金決済で、カードは受け付けていない。スタッフもアルバイトらしき若者で、融通を利かせる機転もなくオロオロとしていた。
 放っておけず咄嗟にスタッフに声をかける。
「すみません。おいくらですか?」
 強盗モドキとスタッフが同時に振り向いた。
「あっ、税込み二千四二〇円になります」
 この店は初めの一時間で千円、その後三十分ごとに三百円が加算される。税込み二千四二〇円ということは、飲み物抜きなのだとすれば百八十分この猫カフェにいたということになる。なかなか堂に入った猫好きっぷりだった。
 バッグから財布を出し二千四二〇円をトレーの上に並べる。
「じゃあ、こちらでお願いします。この方、私の友人なので……」
「いや、そういうわけには……」
 慌てる強盗モドキを手で制してにっこりと笑った。
「こんな時はお互い様ですよ」
 そう、猫好きでありさえすれば仲間であり同志だ。困った時には助け合わなければならない。
 スタッフからレシートを受け取り、「はい、どうぞ」と強盗モドキに手渡す。強盗モドキは恐縮しつつレシートを受け取った。
「では、また……」
 すぐにお座敷に戻ろうとしたのだが、「待ってください」と呼び止められる。
「なんとお礼を言ったらいいか。ああ、そうだ。明日にでもお返ししますので、連絡先をいただけませんか」
 プライベートでは人見知りのはずなのに、なぜかこの強盗モドキには気さくに振る舞うことができた。
「いいんですよ。ここは私の奢りです」
「ですが、初対面の女性にお金を借りるわけには……」
「もうこうしてお話ししているんですから、見ず知らずじゃないでしょう? お友だちってことにしておきましょう」
 それで話は終わらせたつもりだったのだが、強盗モドキは「いやいやいや!」と首を横に振り、店の出入り口にある自販機に一五〇円を入れて、「せめてこちらを」と缶コーヒーを手渡してくれた。おや、左利きなのかと目を見張る。
「本当にありがとうございます。この店にはよくいらっしゃるんですか?」
「時々ですね。最近忙しくて……」
 缶コーヒーを飲む玲香の横顔に、強盗モドキが「あれ?」と首を傾げた。
「先ほど初対面だと言ったばかりなのですが、どこかでお会いしたことはありませんか? お名前をいただいてもよろしいでしょうか?」
 相手が男性なので少々躊躇ったものの、姓くらいはいいかと口を開いた時のことだった。
 不意に強盗モドキの懐がブルブルと震える。スマホに電話がかかってきたのだろう。
「失礼します」
 強盗モドキは断りを入れて背を向け、何やらぼそぼそと話している。
「了解。すぐに戻る。なんだって? ……わかった」
 数秒後に電話を切ると、「急用ができまして……」、と軽く頭を下げた。
「あっ、お構いなく。仕事が一番大事ですから、行ってください」
「待ってください。せめて名刺を……」
 強盗モドキはジャケットのポケットに手を入れ、しばらくごそごそと探っていたが、やがて「こんな時に限って」と舌打ちをした。だが、すぐに気を取り直したのか、レジのスタッフからメモ用紙とボールペンを受け取り、壁を台にすらすらと文字を書き付ける。
「僕は佐々木と申します。これ、アドレスと電話番号です。いつでも連絡してくれて構いません」
「あっ、ありがとうございます」
 たかだか二千四二〇円程度のことなのに、随分と律儀な男性だと好感を抱いた。
「近いうちに必ずお会いしましょう。その際お金を返しますので……」
「わかりました」
 強盗モドキは急いでいるのかすぐに身を翻し、足早に自動ドアを潜り抜ける。
 玲香はその後ろ姿を見送りながら、メモをスカートのポケットにしまった。明日辺り連絡するつもりだった。ぜひ猫について語り合いたかったのだ。
 友人知人に猫好きは少なく、家族と高志は動物嫌いだ。一緒に猫カフェに通う友人ができれば嬉しい。
 だが、その機会は二度と来ることはなかった。メモを帰りがけにうっかり落としてしまい、連絡が取れなくなっただけではなく、一ヶ月後には店舗が移転されることになり、二度と猫茶屋本舗八重洲店に行くことはなくなったからだった。
 少々残念ではあったが仕方がないと諦め、そのうち記憶から消えてしまった。

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