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愛獄 絶対的支配者に快感を刻まれる蜜夜 1

第一話


 それは今から約十年前、寒い冬の日のことだった。
 築数十年の二階建て木造アパートの上階、一番奥の部屋の扉の前で、美琴(みこと)は膝を抱えて座っていた。
 真冬だというのに、身につけているのは薄手のシャツとスカートのみで、その服も薄汚れている。伸びきった髪には艶もなく、服の上からでもわかるほど痩せこけていた。十歳になったばかりの子どもにしては、著しく発育が遅れていた。
 近隣の住人は、美琴が寒空の下ひとりで座り込んでいても、声をかけることはなかった。
 関わり合いになりたくない、それが彼らの本音だ。美琴のせいではなく、今も部屋の中にいる父親が原因だった。
 父親は、いわゆるヤクザと呼ばれる人間だった。近所の人々が美琴に手を差し伸べないのは、厄介ごとに巻き込まれるのを恐れているからだ。
 誰だって、縁もゆかりもない子どもよりも、己の身の安全を守る。その判断を責められはしないだろう。
 母親は五年前に家を出ていったきりで、顔もおぼろげにしか覚えていない。
 美琴は捨てられたのだ。
(……寒い……おなか、すいた……)
 部屋の中からは、女の喘ぎ声が聞こえる。こうして外に出されるときは、いつも父親が女を連れ込んでいるときだった。
 たとえ子どもでも、中で何が行われているのかは察せる。けれど美琴は、何もかもがどうでもよかった。ただ、寒さと空腹を感じるだけだ。
 最後に水以外のものを口にしたのは、いつだったか。そんなことすら思い出せないほど飢えていた。
 この場から動く力が残っていない。冷たい風にさらされた頬やふくらはぎも指先も、すでに感覚がないほど冷え切っている。それでも、誰も助けてくれないのは今までの経験から知っていた。
 悲しくも寂しくもない。そんな感情すらも薄れていく。
 膝に顔を埋め、小さな身体をさらに縮める。自分の吐く息でわずかに暖を取れたが、それも長くは続かなかった。
(このまま、死ぬのかな……)
 漠然と“死”の一字が脳裏を過ぎる。
 美琴が死んだとしても、誰も気に留めないはずだ。学校にはほとんど通っていなかったし、友人と呼べる存在もいない。たまに教師や民生委員が家を訪ねてきたこともあったが、父親がすべて追い返していた。
 母親だけでなく、父親にとっても美琴は邪魔な存在だった。たまに機嫌がいいときにだけ、コンビニの弁当が与えられる。一日に一度食べられるときもあれば、数日間何も口にできないことも珍しくなかった。
 どうしてこんなに苦しいのか。ただ、息を吸っているだけなのに。
 こんなに辛い世界は、誰かが壊してくれればいい。
 だんだん思考が散漫になっていき、意識が薄れてくる。このまま眠ってしまおうと考えたとき、アパートの鉄階段を上がってくる靴音が聞こえてきた。
 美琴は顔を上げなかった。そんな力は残っていなかったし、今までこうしていても声をかけてくる人などいなかったからだ。
 それなのに──なぜか、足音は美琴の前で止まった。
「あなたは、この部屋の住人ですか?」
 頭上から聞こえてきた涼やかな声に、反射的に瞼を開く。そこに見えたのは、汚れひとつない艶やかな黒い靴だった。
 綺麗だ、と思った。父親が履いているのは薄汚れたサンダルだったし、自分が持っているのは、何年も履き続けて踵に穴が開いた運動靴だけだ。革靴など店に並んでいるものしか見たことはなかった。
 美琴は、ゆっくりと視線を上げた。こんなに綺麗な靴を履いているのはどんな人なのかと、純粋に興味を持ったのだ。
(あ……)
 顔を上げた先にいたのは、今まで出会った誰よりも美しい顔立ちをした男だった。
 スッと通った鼻梁と切れ長の目は作り物のようで、古びた安アパートに不釣り合いな存在感がある。向き合っているだけで、空気が薄くなっていくような心地がした。
 薄いシルバーフレームの眼鏡の奥にある、冷たく澄んだ瞳が美琴を捉えた。
「あなたは、この家の子どもですか?」
 ふたたび問いかけられた美琴は、わずかに顎を引く。
 見るからに上等なコートとスーツを身に纏う男の視界に、自分が入っているのが恥ずかしい。けれど、それよりも辛い空腹で、身体にはもう力が残っていなかった。
「そうですか。では、あなたは少しここで耳を塞いでいなさい」
 そう言った男が脱いだものが、ふわりと美琴の頭に落ちてくる。
 それは、男が着ていたコートだった。いかにも上等なそれが床に触れることなど気にする様子もなく、美琴を包むように掛けられる。
 なぜそんなことをするのか、不思議に思う余裕すらなかった。
 男の言葉とともに空気が揺れ、部屋のドアが開いた。
 父親の怒声が耳に届くが、美琴の意識は肌触りのよいコートに意識が向いていた。
(暖かい……)
 それだけで、部屋の中の争う気配も怖くなかった。“死”を意識するほど追い詰められたせいなのか、恐怖という感覚すら遠のいていた。
 今まで美琴は、誰の目にも映っていない透明な存在だった。どれだけ飢えていようと、寒くて凍えていようとも、気に留める人などいなかった。
 それなのに、見ず知らずの男は、美琴に暖かさを与えてくれた。
 虐げられることに慣れてしまった身体には、それだけで充分すぎるほどの幸せだった。
 もし、このまま命の灯火が消えてしまったとしても、悔いはない。
 コートに包まり、黒く染まった視界の中、瞼が閉じているのか開いているのかもわからずに、ぼんやりと考えていたときだった。
「ぎっ、ぎゃあああっ!」
 女の悲鳴が響き、それをかき消すように父親の絶叫が部屋の中から聞こえてきた。
 朦朧とした頭で、美琴が考えたのはただひとつ。
(あの人が、お父さんに何かしたんだ)
 獣の咆哮に似た父親の声が、途切れ途切れに耳朶を打つ。しかし、美琴の心にはなんの感情も湧いてこなかった。ただ、事実として認識するだけだ。父親が、圧倒的な暴力によって制されているのだと。
「す、すみませんすみません! く……組の金に手をつけるつもりはなかったんです! こ、子どもがいてしかたなく……ッ」
 ぐふっ、と、父親のくぐもった声が響く。次に聞こえてきたのは、コートを貸してくれた男の声だった。
「子どもに金をかけたと? 嘘をつくなら、もう少しまともな嘘をつくことですね。あんな痩せ細って、今にも倒れそうな子どものどこに金がかかったというんです?」
 淡々としているのに、逆らいがたい絶対的な圧がある声だった。
 美琴はぼんやりと目を閉じたまま耳を傾ける。
 自分のことを誰かが気にしている。それがひどく不思議だった。
「まあ、たとえ子どものために金を使ったとしても許される行為ではありませんがね」
 父親が不自然に咳き込み、それに重なるように女の悲鳴が大きくなった。
 美琴は、自分と同じような目に遭っているのだと本能的に悟った。
 父親は気に入らないことがあると、美琴に殴る蹴るの暴行を加えた。今は、コートの男が同じことを父親にしている。
 けれど、やはり心は動かなかった。ただ、早く楽になりたい。寒さから、飢えから、孤独から解放されたい。願いは、それだけだった。
 少しすると、鉄階段を上がってくる複数の足音がした。それでも動けずにコートの中でじっと丸まっていると、突然身体が宙に浮いた。
 コートごと抱き上げられたのだと気づいたのは、美しい男の顔が至近距離にあったからだった。
 間近で見る男は、やはり綺麗だった。顔の造作も声も、身につけているものも、何もかもが、自分のいる場所とは違う世界のものに思える。
 この男のそばにいるには、自分はあまりにも不釣り合いだ。
 そう感じて視線を逸らしたとき、男の肩越しに部屋の中が見えた。
 瞬間、美琴はぞわりと全身の毛が逆立つような衝撃を味わった。
 六畳ほどの狭い室内の片隅で、半裸の女が震えていた。部屋の中央に敷かれた煎餅布団の上では、血塗れの父親が手足を投げ出した状態で意識を失っている。白目を剥いて、呼吸をしているのかも怪しかった。
「……わたしも、殴られ、る……?」
 反射的に尋ねた美琴に、男は虚を突かれた顔を見せた。
「あなたの父親は、他人の金を盗んだので制裁を受けただけです。何もしていない子どもを殴る理由はありませんよ」
 けれど、理由はなくても美琴は殴られ続けてきた。ただそこにいるだけなのに、『目が合った』『生意気だ』と、理不尽に何度も何度も暴力を振るわれていた。
「名前は?」
 視線を合わせて問いかけられ、答えようと口を開く。けれど、頬は強張り、唇が震えて言葉にならない。
「まず、身体を温めなければいけませんね。それと、食べ物を……いや、医者に連れていくほうが先か」
 男は美琴を抱いたまま移動を始めた。階段を下りていくと、アパートの前の道を塞ぐように車が停まっている。
 車の前にいた体格のいい坊主頭の男が、こちらに気づいて後部座席のドアを開けた。
「その子どもはなんです?」
「上野(うえの)の子らしい。衰弱しきっているし、ひとまず医者に診せることにした」
 短い会話を交わし、男は美琴を後部座席に乗せると、自身も隣に座った。
「私は、五十土眞臣(いかづちまさおみ)です。これからあなたを病院に連れていきます」
 男──眞臣はそう言うと、運転席に収まった坊主頭の男に指示を出す。そして美琴に向き直り、ポケットの中から小さな包みを取り出した。
「口を開けなさい」
 声をかけられ、言われたとおりわずかに口を開ける。すると、チョコレートの粒を口の中に入れられた。
「舐めているうちにつきますよ」
 眞臣はそう言うと、暖房の温度を上げるように坊主頭に命じた。
 どうして縁もゆかりもない男が、病院に連れて行ってくれるのか。チョコを与え、暖を取らせてくれるのか。美琴には理由がわからなかった。無条件に与えられる優しさなど、今まで知らなかったから。
 車内は暖かく、座席も心地いい。舌の上でゆっくりと溶けていくチョコレートは甘く、じわじわと身体に染み込んでいく感覚がする。
 このまま天国に連れて行かれてもいいかもしれない。手足が温まる感覚を覚えながら、薄れゆく思考の片隅で考えていた。