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あなたが好きでたまらない 敏腕フライトドクターはまじめな彼女をどこまでも愛したい 1

第一話

 

「それなら、俺とつきあおうか」
 人並みに、恋愛には興味を持っているほうだ。
 だからではないが、彼──桐生侑馬(きりゅうゆうま)のひとことは、とんでもなく近藤美乃梨(こんどうみのり)の胸をときめかせた。
 それじゃなくても青空とのグラデーションを彩る夕焼けのオレンジはロマンチックで、遊歩道にはふたりきりというおまけつき。
 最高のシチュエーションのなか、淡い恋心を抱いていた男性にそんな言葉をかけられてしまっては、恋愛経験ゼロの美乃梨としては嬉しいと思う前にどうしたらいいのかわからない。
「でも、わたしなんかが……」
「あれ? 俺のこと、カッコいいって思ってくれたんじゃないの?」
「カッコいいですっ。でも、それだけじゃないです、優しいし、厳しいところもあるし、わたしも桐生先生のおかげで仕事を続けられているし、……尊敬してる……フライトドクターだし……」
 最後の部分で声が小さくなってしまう。これを言うと、どうしても亡くなった父を思いだしてしまうからだ。
 戸惑いをかくせない美乃梨を見つめ、侑馬はふっと微笑む。手に持っていた煙草を携帯灰皿に押しこみ、一度背を向けて空に向かって煙を吐いた。
 彼が着用するユニフォームは、この病院の救急科救命救急センターのオリジナルだ。他の科の医師たちとは色が違ううえ背中には白い羽のマークと【Connecting lives from the sky】──空から命を繋げ──の白文字。
 背中の文字を見て、刹那、きゅっと胸が締めつけられる。しかし侑馬が振り向き微笑むと、苦しかったはずの胸がときめきの心地よさに変わった。
「嬉しいな。気になっていた女の子にカッコいいとか言われると、こんなに嬉しいんだな」
「気になって……」
「さっき、『わたしなんかが』って言ったけど、俺だって本当は『俺なんかが』って気持ちでいる。美乃梨さんはかわいいし気が利くし、かわいくて優しいし、かわいいのに頑張り屋だ」
「あ、あのっ、かわいいが多い……」
「本当のことだけど?」
 近づいてきた侑馬に顔を近づけられ、心臓が飛び跳ねる。凜々しい相貌が目の前に迫り、恥ずかしさと逃げられない焦りで頬が熱くてたまらない。
 その頬に侑馬の片手が添えられた。
「こんなすごい夕日のなかでも、美乃梨さんが真っ赤になってるのがわかる。かわいいな、俺を意識してくれているから?」
「きりゅうせんせぇ~っ……」
「美乃梨さんは俺が嫌い? 俺は美乃梨さんが好きだよ」
 直球すぎる。大人の男性というのは、みんなこんなにぐいぐいくるものなのだろうか。
 侑馬は三十四歳だ。美乃梨は二十四歳なので十歳の差がある。救命救急センターでも、選ばれたエリートドクターにだけ与えられるフライトドクターの役目を担う人。
 男性としても人間としても、美乃梨から見ればずっとずっと大人だ。
「……嫌いじゃないです……。むしろ、好きです」
 恥ずかしくて侑馬を見られない。言葉を引き出された唇を親指でなぞられ、驚きのあまり視線が彼へと動いた。
「じゃあ、俺とつきあおう? 決まり」
「決まり……なんですか?」
 胸がドキドキする。これは夢ではないだろうか。まさか、心惹かれていた人とつきあうことになるなんて。
 ──それも、尊敬する職業に就いている人と……。
「美乃梨さんとつきあったら、俺、煙草は完全にやめる」
「本当ですかっ?」
 少し声が大きくなる。いつもではないが、ひと仕事終えたあとに煙草を吸う習慣があるようだったので「お医者さんなんだから、煙草はやめましょう?」とよく言っていたのだ。
「本当だよ。だってさ……」
 侑馬の顔がより近づく。もしかして……の予感に、美乃梨はまぶたがゆるんだ。
「……キスしたとき、煙草くさいからいやだって言われたら悲しいし」
 まぶたが落ちたとき、侑馬の唇が美乃梨のそれに重なっていた。
 初めてのキスは少し煙草の匂いがする。それでも、相手が侑馬だと思えばいやだとは思わない。
 ふわふわとした熱に浮かされながら、美乃梨は数日前までの自分を思い起こしていた────。

 立ちこめる白煙は、すべての者の視界を奪っていた。
 落雷による爆発は、きわめて不幸な事故だ。パニックに陥る被害者たち。必死に救助にあたる消防隊員たちや救急救命士。
 そして、ドクターヘリで駆けつけた救命救急センターのフライトドクター。
 視界の悪さは救助を難航させる。──しかし、彼には都合がよかった。
 目の前には、壁にもたれて項垂れるひとりの男性がいる。煙の刺激で嘔吐くような咳が聞こえてくるなか、ピクリとも動かず目を閉じている。
 彼は男性を険しい表情で凝視した。その瞳には恨みがこもり、噛み締めた奥歯がギリッと音をたてる。
 震える手で男性の右手につけられたトリアージタッグを掴み、目を強く閉じて点線から千切る。
「……クッ」
 うめきは嗚咽にも似ていたが、それを誰にも知られることのないまま素早く立ち上がりその場をあとにした。

 白い煙のなかに、男性はひとり取り残される。
 紙屑のようにシワになったトリアージタッグに残ったのは、黒色のラベル。

 カテゴリー・ゼロ。

 ──生命兆候なしと判断された証だった。

 

「ヘリコプター飛ぶんだって!」
「侑馬先生だ! 見に行こうぜ!」
 子どもがふたり、元気よく走ってくる。小学校高学年くらいの男の子たちは、小児科病棟用のパジャマを着ていた。
 ぶつかったら大変だ。なんといっても美乃梨は今、熱いコーヒーを四つ運んでいる。
 店専用のビバレッジカップに入っているし蓋もついているし、なんなら紙コップホルダーに入れて運んでいるのでちょっとぶつかったぐらいではこぼれる心配もないのだが、それでも用心に越したことはない。
 さりげなく横に移動した瞬間、広がって走っていた男の子がぶつかるギリギリを駆け抜けていく。
 危なかったとホッと安堵するものの、そもそも病院の廊下を元気に走ってはいけない。
 案の定、足音を聞いて売店から飛び出してきたらしい三人の看護師に取り押さえられた。
「こーらぁ、廊下を走っちゃ駄目っ。そんなに暴れて、またぶり返したらどうするのっ」
「だって、ヘリが飛ぶから、早くいかないと!」
「ヘリ? うちのドクターヘリ?」
「うん! 水色の服を着たお医者さんが急いでエレベーターに乗ってたから、ヘリが飛ぶんだと思って! 病院の前の庭に出たら、飛んでるところが見られるんだよ!」
「侑馬先生に手ぇ振るんだ!」
 掴まれた腕を離してもらおうと暴れる子どもたちと、そうはいくかとがっしりホールド状態の看護師の攻防。すると、ひとり手が空いている年配の看護師が首をかしげた。
「侑馬先生? 救急科の? 確か今日は休みのはず。昼前に救急科に行ったらいなかったから」
「えぇぇ!」
「マジぃ!?」
 今の情報がショックだったのかガックリと子どもたちの肩が落ちる。暴れる気配がなくなったせいかすぐに解放された。
「……でも、ヘリ見に行っていい?」
「ドクターヘリ飛んでるとこ見たい」
「前庭に出るなら、お散歩してる人もいるから走っちゃ駄目だよ?」
「はぁい」
「わかりましたぁ」
 すっかりおとなしくなってしまった様子にクスリと笑みが漏れる。つい見入ってしまったが気を取り直して足を進めようとすると、年配の看護師が歩み寄ってきた。
「美乃梨ちゃん、ぶつからなかった? 近くにいたんでしょう、ごめんね」
「いいえ、大丈夫ですよ。わたしも少しよけたので」
「カップ四つも持って、こぼれたりしたら大変。配達?」
「はい、外科の医局に。救急救命士の方々が来ているらしくて」
「そう。店のコーヒーが必要なら看護師に取りにこさせたらいいのに……って言いたいところだけど、外科も忙しいしね……。お疲れ様ね、美乃梨ちゃんは本当に気が利くわ」
「いえいえ、仕事が楽しいだけですよ。じゃぁ、行きますね」
「頑張ってね」
「はい、ありがとうございます」
 年配の看護師、三笠(みかさ)に会釈をして歩きだす。子どもたちと看護師の話は続いていて、まだ外に出られそうにもない。
「でも、前庭に行くって病棟の看護師には言ってきた?」
「言ってない」
「おれも」
「駄目じゃない言ってこなくちゃ。看護師さんたち探していたらどうするの」
「じゃあ、今からダッシュで言いに行ってくる」
「十秒で行って帰ってくる!」
「走っちゃ駄目だってばっ」
 十秒は無理だし、多分だが、このぶんではヘリは見られないだろう。
(わかるよ。ドクターヘリ、カッコいいもんね)
 ニヤけそうになる口元をこらえつつ、美乃梨は廊下を早足で進んだ。

 

 医療法人天空中央病院。
 ドクターヘリを有し、緊急医療を特色に持ち病床数も多い総合病院である。
 一階の広いエントランス横に、美乃梨の職場である【コーヒーカフェ・くつろぎ堂】がある。
 テイクアウトはもちろんのこと、エントランスに置かれたテーブルセットでの飲食も可能。
 メニューもメインのコーヒー類が多いものの、オリジナルケーキ、サンドイッチやパスタなど、軽食も扱っている。
 都内で三店舗展開されていた【くつろぎ堂】、四店舗目となった天空中央病院店がオープンして三ヶ月。
 もともと本店で働いていた美乃梨が店長に抜擢され、新店舗へ異動したのである。
「おかえりなさい、店長」
 配達から戻ると、パートの佳枝(かえ)が迎えてくれた。
 一五六センチの美乃梨より小さいが、バストやヒップが肉感的、いわゆるセクシーな体型ゆえ、印象だけなら彼女のほうが大きく見える。
 二十歳の若さで三歳の子どもを持つシングルマザーである。
 カウンター内に入った美乃梨に駆け寄り、なにかを言おうと口を開くが、なぜかそのままスタッフルームに目を向けて様子を窺ってから言葉を出した。
「すみません、店長、お願いが……」
 両手の指先をつけて上目遣いのお願いポーズ。頭のうしろでひとつにまとめた髪に最小限のメイクなのに、なにかとんでもない美少女にお願いをされている気分になる。
 高校生のとき、妙に男子にチヤホヤされていたクラスメイトの女子がこういう雰囲気だったな……と、かすかに頭をよぎった。
「どうしたの? お子さん、また熱出しちゃった?」
「え? どうしてわかったんですか?」
 ……当たってしまった。
 言い当てられたのを不思議そうにしながらも、佳枝はお願いを続ける。
「で、保育園から迎えにきてくれって連絡があってぇ……」
 察してほしそうな勿体ぶった口調。そんなことをしなくたって、保育園に預けた子どもの具合が悪いから上がりたいと言えばいいのに。
「わかった。すぐ行ってあげて。お子さんも心細いだろうし」
「ありがとうございますぅ、店長、ほんっとわかってくれるから助かりますぅ」
 快諾されてよほど安心したのか、佳枝の声が跳ね上がる。が、すぐに声をひそめた。
「じゃあ、あの……、あと三十分くらいはいますね」
「無理しなくていいよ、すぐに用意して……」
「いえいえ、せめてもう少しっ」
 慌てて身体の前で両手を振り、チラッと走らせた視線の先がスタッフルームだったのを見て、佳枝の気持ちを察した。
 もうひとりのスタッフに、早上がりをする姿を見られたくないのだ……。
 美乃梨と同じ社員で同僚、そして親友だ。
 既婚者でこちらも保育園に預けている小さな子どもがいる。佳枝は子どもが発熱で保育園から呼び出された、という理由での早上がりが度々ある。対して彼女はしっかり働いているので、なにかと早上がりや欠勤が多めの佳枝には厳しい。 
 それだから美乃梨もすぐに察することができた。
「そういえば……店長って、……彼氏とかできました?」
 いきなりといえばいきなりすぎる質問に、ついキョトンっとしてしまう。
「どうして?」
「ここでのお仕事、びっくりするほど張りきって頑張るし、残業もなんのそのだし。お医者さんの彼氏でもできたから頑張れるのかな、って」
「仕事を頑張るのは楽しいからだよ」
「そうですよねー、あたしだってお医者さんとお知り合いになれないのに」
 なぜか妙にホッとしているように見えるのは、どういう意味にとったらいいだろう。
「お医者さんと知り合いになりたいの?」
「なりたいですよー、お医者さんですよ? 普通周りにはいないじゃないですか」
 美乃梨の場合は父親が医師だったので、父の仕事関係で幼いころから医師や看護師などの知人、顔見知りがいる。
 しかし普通は、縁がなければ親しくなれるものでもないだろう。
「そうだよね……、親しい人がいれば、自分とか親とか、体調で悩んでいるときに相談できるしね。でも、それなら看護師さんとか薬剤師さんでも……」
 話しながら佳枝を見ると、彼女は不思議そうな顔をしている。
「……店長って、やっぱり天然ですよね……」
「え?」
 ──なにか、会話に喰い違いがあったようだ……。
 スタッフルームのドアが開く。ビクッとした佳枝がそそくさと離れていった。
「あっ、お疲れ、美乃梨~」
 もうひとりのスタッフ、帰り支度をした敦子(あつこ)が出てきた。
「敦子もお疲れ。でも、これから本店のヘルプでしょう?」
「そうだよ~、働き者の美乃梨サンが抜けた穴は大きいみたいでね。本店は大わらわさっ」
「なに言ってんのっ」
 芝居がかった敦子の口調がおかしくて、つい声を出して笑ってしまう。ちょっと大きかったかと感じ、慌ててきゅっと唇を引き結んだ。
 営業時間中だ。エントランスにはまだ人がいたし、客に不快感を与えかねない。
 が、警戒する美乃梨を見て敦子は苦笑いをする。その顔のままカウンターの向こうを指さした。
「心配しなくても。今イートインのお客さんはひとりだけなんだよね。多分、美乃梨の笑い声を聞いても『店員が大笑いするな』とかクレーム入れるような人じゃないよ。むしろ喜ぶと思う。ほら」
 指をさした方向に目を向けると、カウンターに一番近い席にひとりで座る男性が目に入った。
 まるでずっとこちらを見ていたかのように、視線に気づいて軽く手を上げる。
「店長さーん、おかえりー。配達に行っていたんだって? あっ、灰皿ちょうだい」
 爽やかな低音ボイス。とてもいいお声にうっとりしたいところだが、美乃梨は素早くカウンターから出て歩み寄った。
「ここは禁煙ですよ。これで何回目ですか、桐生先生っ」
 注意をしているようで、美乃梨の声にはおどけた調子が混じる。
 そんな様子を見て楽しげに微笑む桐生侑馬は、この病院の救急科医だ。
 ちょくちょくコーヒーを買いに来たり休憩にやってきては「店長さーん」と美乃梨にちょっかいをかける。いい意味でいえばフランクで人懐こい、しかしチャラいという感じでもないので、やはりもともと明朗な性格なのだろう。
 仕事柄厳しい表情をしているほうが多いようだが、ここに来るときはいつもおだやかな顔をしている。店の名前どおり“くつろいで”くれているのかと思うと、美乃梨も嬉しくなるのである。
「ん~、喫煙所に行ってもいいんだけど、そうするとここから離れなくちゃならないだろう」
「でもエントランスの端っこにありますよ、喫煙所」
「だから、ここから離れたら店長さんの顔が見られなくなる。俺、ずっと店長さんが戻ってくるの待ってたのに」
 上手いことを言う。
 会えるのを目当てに来てくれたのかと勘違いしてしまいそうだ。
 ただでさえ職業選択を間違えたのではないかと心配になるくらい凜々しい男前なのに、軽々しくそんな言葉を口にしてはいけないのではないか。
 無意識に女心をくすぐる冗談で攻めるなら、こちらも気の利いた返しをしなくては。
「顔ですか? じゃあ、写真でも撮って、それを見ながら吸えばいいんじゃないですか?」
「撮っていいの!?」
 いきなり張りきりだし、ジャケットのポケットからスマホを出そうとする。美乃梨は慌てて顔の前に両手をかざした。
「肖像権、肖像権っ。それと、何度も言っていますが、煙草はやめたほうがいいと思いますっ」
 さえぎった視界の向こうから「駄目かぁ」と残念そうに笑う声が聞こえる。……正直なところ、駄目ではない。
 ふざけてでも「顔を見ていたい」なんて気を持たせる言葉をくれるなら、「仕方がないですね、悪用しないでくださいよ」と言いつつ写真の一枚くらい撮られてもいい。
 ──無意識に、とても嬉しそうな顔をしてしまうような気がするが……。
 顔の前から両手をよけて、ふと気づく。
「先生……私服? そういえば、今日はお休みなんでしたっけ?」
 いつもはスクラブかドクターヘリチームのユニフォームを着用しているのに、今日はストライプのシャツにグレーのジャケットという珍しすぎるスタイルだ。
 それがまたカッコよすぎて見惚れそうになるものの、それをグッと耐える。
「そうだけど、俺言ってた?」
「あっ、いいえ、さっき看護師の三笠さんに会って……。そうそう、子どもたちがガッカリしていましたよ。ヘリが飛ぶみたいだから先生が乗るものだと思って前庭に出て手を振ろうとしたみたいなんですけど、看護師さんたちに見つかって捕獲されていました。そのときに三笠さんが桐生先生は休みだって言っていて」
「小児科病棟の子だろ。夜中に腹痛を起こして俺が処置したんだ。それ以来懐いちゃって、かわいいもんだよ、弟ができたみたいだ」
「弟というより……息子でもおかしくないですよね」
「……おじさんって言いたい? 確かに店長さんより十も年上だけど……」
「ちっ、違いますっ、そういう意味じゃないですっ」
 美乃梨が二十四歳なのに対して侑馬は三十四歳だ。十歳の開きはあれど彼を“おじさん”の部類で見たことはない。
 というか、活力にあふれていて若々しくて快活で、おまけにカッコよくて、おじさん扱いしたことがないというよりしようと思ったことがない。
「まあいいか。ところで、店長さんは今日も閉店まで?」
「仕事ですか? はい、クローズの十九時までお店に出ています」
「そのあとは、予定ある?」
「そのあと……」
 ふわっと、心になにかの予感が吹きこんでくる。
 それを脳が上手く理解しないうちに、慌てた声が場の空気を変えてしまった。
「やっぱりここにいた! いると思ったんだ、侑馬先生っ」
 いきなり背後から侑馬の両肩をがっしり掴んだのは、スクラブに白衣姿の体格がいい男性医師である。
 ときどき侑馬と一緒にいるのを見る。救急科の武井医師だ。体格だけなら侑馬より年上の貫禄だが、同い年らしい。
「院内でおまえを見かけたって聞いたから、絶対ここだと思った! 助かったあ~」
「……いやな予感しかしないが、一応聞くぞ。なにが『助かったあ』なんだ?」
「頼む、手伝ってくれ。もう少しで救急車が入ってくるんだ。工事現場の事故らしくて、五人」
「シフトに欠員でも出たのか? ヘリチームがいなくても回るだろう」
「頼みの戸川先生が、さっきまでいた救急救命士と一緒に消防に行ってるんだ。ほら、救命にひとり、すっごくお堅い奴がいるだろう。ランデブーポイントの見直しをしたいとかで」
「あ~」
 片手で顔を押さえ落胆のうめき。どうやら休日返上になりそうな気配だ。
「……チャンスだったのにな……」
 なにかを呟いたようだが、よく聞こえなかった。特に気にしないまま侑馬を見ていると、顔から手を離した彼と視線が絡んだ。
 真剣みを帯びた怜悧な眼差しに、ドキリと鼓動が高鳴る。心臓から一気に血液が飛び出して胸が焼けるように熱くなった。
「じゃあ、店長さん、また来ます」
「は、はいっ、お待ちしておりますっ」
 立ち上がった侑馬は、武井と話をしながらテーブルをあとにする。速足で去っていくうしろ姿を見つめながら、熱で息苦しくなる胸を両手で押さえた。
 ──ドキドキしすぎて、胸骨が壊れてしまいそう。