最奥まで愛させて 冷徹社長は10年越しの独占欲を隠さない 2
でも、状況が変わってしまった。お父さんが倒れた。そのまま寝たきり状態になり、お母さんは会社を辞めざるを得なくなった。数時間ごとに痰を吸ったり、体位を変えないといけないそうだ。
『有菜、大丈夫よ。大学のお金は別にとってあるし、なんにも心配しないで』
蝉時雨が病室の窓ガラス越しに聞こえる盛夏、お母さんは言った。お父さんはほとんど動かせない目で優しく笑った。
知っていた。このままなにもしなかったら、お父さんは死んじゃうって。
『……だ』
『有菜?』
『やだ! お父さん、死んじゃヤダ! 大学なんてどうでもいいよ、お金だって、私も働くよ、だから、諦めないで、生きて、お願いだから!』
私は病室の床にぺたんと座り込み、子供みたいにぽろぽろ大粒の涙を流した。小さいころにお父さんが撫でてくれた手のあったかさとか、自転車の乗り方を教えてくれたこととか、学校でもらった賞状を渡すと大喜びしてくれたこととか、そういうのが次々にあふれて止まらなかった。死なないでほしかった。
意地でも進学しない、と言う私を、お母さんは何日にもわたって説得してきた。
『お母さん。大学って何歳でも入学できるの、知ってた? 働いてお金貯まったら行くから大丈夫。それに、成績もよければ特待生にだってなれる』
そう言うと、お母さんは小さく肩をすぼめ、わかったわと呟いた。
『ごめんね有菜』
『家族のことなのにどうして?』
私を抱きしめるお母さんの身体が震えていた。その細い体を抱きしめて笑う。家族なんだ、支えあっていけばいい。
すぐには進学しないと、誠吾にも伝えないといけなかった。でも電話でもメッセージでもどうしても言い出せない。心配をかけるからだ。顔を見て話そう。
食欲が落ちて、夜眠れなくなった。でも家族にも友達にも隠していた。いつもうっすらと吐き気がして、なんでかなって思っていた。
寝不足のはずなのに夜はどうしても寝付けず、昼間はいつも眠い。
秋が深まってきたある日、学校終わりに電車に乗った。テスト前で短縮授業だったから、誠吾の大学へ行こうと思ったのだ。ふたりきりで室内とかで話したら暗い空気になるかもだし、というか誠吾もお金を出すとか言い出しかねなかった。そこまでさせたくない。
今日は十六時まで授業だって言ってた。着いたら電話して呼び出そう。
スマホを見れば、誠吾からメッセージが届いていた。【夢十夜、一話目読み終わった】っていう、何気ない報告だった。ちょうど最近、夏目漱石の本を貸したのだ。私は小さい頃から本が好きで、本だけは誠吾よりたくさん読んでいた。
大学の最寄りの駅に着き、地下鉄の階段を上がる。行きかう学生みんな大人に見えて、緊張してどきどきした。制服なんて、浮くかな?
通りに出ると銀杏が葉を落としていた。ローファーで黄色を踏みしめながら歩く。
キャンパスに入る門の前で立ち止まった。門の横、守衛さんがいる小さなボックスがあった……え、いいのかな? 学生じゃないのに入って? まごまごして、思い切って入る。守衛さんはチラっと見ただけでなんにも言わなかった。
スマホを取り出し、時間を確認する。十六時までもう少しある。
せっかくだからキャンパスを見て回ろう。もし受かっていたら、来ていただろう大学……ぐるりと見回す。石造りの歴史のありそうな建物から、真新しいものまでさまざまだ。人が絶えず通り過ぎていく。みんな大人でおしゃれだった。制服の私、絶対浮いてる。さっきからチラチラ見られているし。
『大学ってこんな感じだったんだあ』
思わず呟いた。……通いたかったな、なんて頭に浮かんで慌てて振り払った。お父さんのほうが大切だ。
でも、なのに、分かってるのに。虚しくて肋骨の奥に向かって隙間風が吹いたみたいになる。
ああ、大学、通いたかった。もっと勉強してみたかった。そして、いつか図書室の先生になりたかった……。
本当はわかってた。受験せず就職したら、このまま夢はかなわないって。
『あ、ごめんね』
男子学生が私に軽くぶつかり、明るい声をかけてくる。おずおず頷くと、彼の横にいた女子学生が『わ、かわいい』と笑った。
『JKじゃんJK。制服、懐かしい』
『かっわいい。受験の下見かな? がんばれー』
歩き去るふたりの背中をみながら、息が詰まりそうになる。
下見じゃないの、見納めなの。
ああ、私、みじめなんだ。あんなふうに誠吾と大学生したかったんだ。
みじめで、自分で自分がかわいそうだった。そんなこと考えたくないのに、考えが泥みたいにぼこぼこ湧いてきた。
『あれっ?』
すれ違った学生が不思議そうに私を見て、慌てたように目を逸らした。やっぱり、さっきから目立つよね、制服。
……と、ふと、誰かがはしゃぐ声が聞こえた。振り向くと、真新しい建物から数人の男女が出てきた。その中央に誠吾がいる。彼は女性と腕を組んでいた。綺麗な大人っぽい人だった。
え、という言葉はきっと声になっていなかった。胸がズキンと痛む。
誠吾、その人、誰?
『ああ、そういえば次の発表の話し合い、会議室取っておいた』
そう言いながら笑う彼の表情は、とっても大人で。声音だって喋り方だって、全然違う。
膝から力が抜けそうだ。私の知っている誠吾じゃなかった。
なんで? 大学生になったから? それとも、横に、その綺麗な人がいるから?
『おわマジか、柏木。たすかる』
『さっすが、仕事早い』
そんな声をかけられる誠吾に、腕を組んだ女性が彼を見上げて言う。
『ありがと、誠吾』
嫣然とした、私じゃ一生かかってもできない、大人の微笑みだった。誠吾は彼女を見て眉尻を下げ目を細めた。見たことのない顔だった。
劣等感にまみれた羞恥で顔が熱くなる。私、誠吾の何を知っていたの?
気が付くと地下鉄に乗っていた。唇を噛む。私の身体の中で暴れまわる感情が、一体なにに起因するものなのか、全く分からなくなっていた。みじめでうつろで、虚しくて、苦しい。――辛い。
卑屈な感情で手の先が震えた。私、彼と釣り合ってるつもりだったの?
横浜で別の路線に乗り換えしようとしていると、ガッと腕を掴まれた。同じクラスの友達だった。
『有菜、どしたの! なにかあったの!? 今日かれぴにサプライズで会いに行ったんじゃ』
サプライズで誠吾に会いに行く。勉強会に誘われた私は友達にそう説明していた。
友達の目が大きく見開かれ、私の頬をハンカチで拭った。……私、泣いているの?
彼女によって駅直結の商業ビルに連れ込まれる。ファストフード店の奥まった席で、私は泣いていた理由をしどろもどろに説明した。
『え、じゅ、受験しないの!?』
『っ、ごめん。みんなには誠吾に言ってからと、思ってて……』
『え、あ。だって、常にトップじゃん、成績……がんばってんじゃん、有菜……』
『きめた、ことだから……』
『そ、っか』
友達は一瞬黙った後、きゅっと眉を寄せた。
『で、かれぴの大学でなにがあったの』
『えっと』
私は口を開き、でも言葉が出ない。代わりに涙がまた溢れて止まらない。みじめな感情が蘇る。そんな状態で、うまくしゃべれないのに、友達はうんうんって聞いてくれた。自分だって受験生で、テストも間近で時間ないのに。
『最低。浮気してんじゃん、柏木先輩』
『浮気って、決まったわけじゃ……なにか理由が』
『オンナと腕組んでいちゃつく理由って何?』
そう言われると、返す言葉がない。
それでも、心のどこかで彼を信じている。恋人としてじゃなく、幼馴染としての勘だった。
聞いてもらって少しすっきりした状態で、家に帰る。私の心は決まっていた。
誠吾と別れよう。
彼が本当に浮気していると、確信的に思っているわけじゃない。思い出すと嫉妬で苦しくなるけれど、……そんな人じゃない、と思う。なにか理由があったんだって、そう信じたい。
ただ、彼は私がいなくたって幸福に生きていける。
そこに気が付いてしまった。
気が付きたくなかった。でも知ってしまった。穏やかな彼の微笑み、綺麗な女性とむつみあう姿。いつかきっと私、別れを告げられていたよね。いずれ私じゃ、物足りなくなってた。
もともと、お父さんのことで気を遣わせたくなかったのだ。
なら最初から教えなければいい、もし付き合っていたら話さざるをえないけれど、別れてしまえば言わなくたっていいんだもの。
『好きだったなあ』
私は制服のブラウスのボタンを外し、ネックレスを取り出した。ネックレスというか、誠吾にもらった指輪に細いチェーンを通したもの。肌身離さず、持っていた。
頬を涙が伝う。そう、邪魔しちゃだめだ。
別れを一方的に告げた私の家に誠吾は何回もやって来た。でも一回も会わなかった。
そのうちに彼は私に構うのをやめた。私がいなくたって幸せになれるって分かったんだと思う。あの綺麗な女性と、正式に付き合いだしたのかもしれない。
そこでようやく、私は劣等感から逃げたくて誠吾と離れたんだと気が付いた。あまりに自分がかわいそうで、虚しくなって、悲しかったから。だって彼は私なしで幸せになれるのに、私はそうなれないなんて、あまりにもみじめで。
そうして私は就職し、働いて、働きすぎてなにがなんだかわかんなくなって、お父さんが死んで、お母さんも死んでしまった。
ああ、ひとりぼっちになってしまった。
ひとりで遺骨をだいてぼーっとした私を、雪おばあちゃんは心配してくれた。自分だって余裕があるわけじゃないのに、お父さんが倒れた時から経済的にも助けてくれていた。
そうして大叔父さんの葬儀の日に、彼女の家に連れて行かれ、私はひたすらにボーっと過ごしたのだ。ちょっと息ができるようになるまで、なにも言わず支えてくれた。
そうしてまた彼と出会う。
思ってもない場所で。
「あ、先輩。来てました? バイトさん」
アルバイトの面接に来たはずの、ブックカフェの前。
扉を開き、私を無感情に見つめる誠吾の背後から、ひょいっと私たちと同年代くらいの男性が顔を出した。明るい髪と笑顔の似合う、すらっと背の高い人だ。
「いやあ初めまして、松戸(まつど)さん。店長の植野(うえの)です。あれ、顔色悪いけど緊張してる?」
「あ、その……」
口の中が乾燥でカラカラだった。思考がねばつく。一体なにが起きているのかわからない。
誠吾は店長さんをチラっと見て、それから私をもう一度見た。その瞳になんの感情も映っていないのに、どうしてか、探られている気になる。
「緊張しなくて大丈夫だよ、雪さんからの紹介なら、もう採用決定だ」
全身から変な汗がドッと出た。ここで「やっぱり無理です」なんて言ったら、雪おばあちゃんの顔を潰すことになる。私は覚悟を決め、顔に微笑みを張り付け、鞄の中のお守りを想う。
「植野。また来る」
誠吾がそう低く言ってお店を出ていき、私はほっと肩を落とした。
「はい。さ、松戸さん、入って」
店長の植野さんに促され、私はカフェの中へと足を踏み入れる。
「わあ」
思わず声が出た。レトロな室内の壁面は全て本棚になっていて、天井まで本がぎっしり詰まっている。どの本も面白そうだし、知っている本もたくさんある。
「素敵」
思わず口にしながら悲しくなる。
眠れなくなって以降、私は本が読めなくなった。どうしても目が滑るのだ。
「でしょう? あ、ちょっと顔色よくなった」
植野さんは微笑み、「準備しておいたんだ」と笑顔で私にコーヒーとホットケーキのセットを出してくれる。
「え、わあ、いいんでしょうか?」
面接にきたはずなのに、椅子を勧められ、植野さんとティータイムみたいになってしまう。コーヒーも温かでいいにおいがして、ホットケーキは分厚くてバターと蜂蜜がかかっている。食欲をすっかり失くしている私には少し苦しいけれど、必死で口に詰め込む。そんな状態でも美味しかった。
「これね、銅板のプレートで作ってるんだ。人気メニュー」
「すごくおいしいです」
ほろりとした、優しい甘さだ。
「よかったー」
ニコニコと笑う植野さんに、私はハッと思い出し履歴書を渡す。
「あ、わざわざごめんね。先にコピーも提出してもらっているのに」
「いえ……あの、さっき採用って仰ってましたが、本当にいいんでしょうか?」
「もちろん。雪さんから、真面目すぎるくらい真面目な人だって聞いているし。ちなみに、前職の退職理由とかって聞いてもいいのかな?」
「あ……」
当然説明せねばならないと分かっていた。ちゃんと理由だって考えてきたし、ひとりで練習もした。なのに言葉がでてこない。喉に蓋ができたみたいに、あの恐怖と悲しみと過労にあふれた日々を口にすることができない。
吐き気がする。脳がグラっと揺れた。
「あ、と、その」
「あ、ごめん。いいよいいよ。僕的には雪さんのご紹介ってだけでいいんだから」
植野さんがニコニコと笑い、私は頭を下げる。
「申し訳、……ありません」
「わ、いいんだって。ごめんねぶしつけなこと聞いてー。ゆっくり食べて。ね?」
私はおずおずと頷き、きゅっと唇を引き締めてから「あの」と口を開く。
「さっきの、かたは……」
「ああ、さっきの? そういえば知り合い?」
聞かれて胸が苦しくなる。私はゆっくりと首を横に振る。
「高校の……先輩で」
「ああ、そうなんだ? ここのオーナーだよ、柏木さん。僕は彼の大学の後輩」
ヒュッと息を吸いそうになる。オーナー……!?
「まあ、といっても、松戸さんが働いている時間はあんまり来ないと思う。オーナー、都内で会社してるんだ。だから土曜の夜、店が終わった後に顔出す程度かな。今日はなんか急に来て……なんでだろ?」
植野さんは首をひねる。
「そ、なんですね」
私はちょっとホッとした。そっか、じゃあ顔は合わせずに済むわけだ。
「仕事内容なんだけど、土日のお昼は単純に人手が足りてない。で、平日なんだけど、ここ、火曜日まるまると、水曜の午後を休みにしているんだ。水曜の午後は書架の整理があって」
「本棚の?」
「そうそう、埃はらって、本並べ直して。それがオーナーの意向だから」
「そうなんですね」
私は本棚を仰ぎ、内心で無理かもなあと思う。素敵なカフェで、植野さんもいい人そうで、でもきっと誠吾は私がここで働くのをよしとしないんじゃないかな。
意外なことに、誠吾は私がこのブックカフェで働くのを黙認したようだった。それはきっと顔を合わさず済むからだろうと思っていたのに、なぜか彼は毎週水曜の午後にやってきて、私と植野さんが作業しているのをたまに窺いながらノートパソコンを叩いている。スリーピースのスーツを気崩さないまま、ただ黙々と。
「えっと、先輩。なんで平日なのにこちらに」
「悪いか? 俺の店だ」
「それはそうなんですが」
植野さんが目を白黒させている。
気まずい。
植野さんも「えーっと……」と訝しげだ。だってそりゃそうだ。一生懸命明るい雰囲気を作ろうとしてくれるのに、私と誠吾がものすごく微妙な空気を醸し出しているから、ひとりでから回っているみたいになっちゃう。
申し訳ないのは、誠吾に対してもだった。
私、あの時なんて失礼な逃げ方しちゃったんだろう?
いっぱいいっぱいではあったけれど、もっと穏便なやり方があったはずだ。
謝罪しよう。そうしたら、許してはもらえないだろうけれど、この気まずい時間に何かしらの進展があるかもしれない。
ううん、言い訳だ。
ただ私は謝りたかった。そうして聞きたかった。誠吾が幸せだと知りたかった。
そうじゃなければ、あのときの私が報われない。
だから、水曜の作業後、勇気を出して帰ろうとしている誠吾を呼び止めた。ちょうど植野さんが外に出ているタイミングだった。庭の桜が満開で、どうしても彼の実家でのお花見を思い出す。
懐かしいような痛みだった。
「あの、……柏木、さん」
さすがに誠吾とは呼べなかった。彼は立ち止まり、ゆっくりと振り向いた。
精悍な瞳が私を見据える。昔みたいな親密な色はない、氷点下の冷たい眼差し。
足がすくむけれど、私はバッと頭を下げた。
「十年前は、ごめんなさい」
「……なにが」
「一方的に、その……別れを、切り出して。劣等感で、苦しくて、……言い訳にならないと思いますけど」
「劣等感?」
私は眉を下げ「柏木さんに会いに、大学に行きました」と呟いた。
「いつ」
「別れを切り出した日です。進学しないと伝えに」
私はキュッと拳を握る。
「その、言ってなかったんですけど、父が倒れて、うちに余裕がなくなって、就職することにしました。それで、大学に行って、伝えようと思ったんですけど……そこがあまりにキラキラしてて、ああここには通えないんだなって思ったら劣等感で頭がいっぱいになって。本当にごめんなさい、私、自分勝手でわがままでした」
うまく説明できない。でも理由は伝わったと思う。
誠吾が微かに眉を上げた。言わなかったことに怒っているのか、いまさら言われてどう反応すればいいのかわからないか、そんなところだろう。
「……君のお父さんは」
彼の声がちょっと掠れていた。私は首を横に振る。
「そ、うか。じゃあ今はお母さんだけあの家に?」
「あ、違って。家は、ほら、父が店をやってたじゃないですか、そのローンの返済に売ってしまって、で。えっと、母も、もう、いなくて」
声が震えかけた。私は必死で息を吸い、前を向く。
「怒ってらっしゃるとは、思うんですが、……ここで働かせてもらえて、嬉しいです」
でもその、と口ごもり、それから思い切って顔を上げた。
「ご不快なら、ここ、辞めま……」
「俺」
誠吾の声が、お店の中でやけに大きく響いた。呆然とした、自失したような、そんな声。
「俺、お前をひとりにしてたのか?」
誠吾が私をまっすぐに見ていた。その瞳が潤んでいるように見えてたじろぐ。
どうしてそんな顔をしているの。
「なんで言わなかった?」
誠吾が私の二の腕を掴んだ。氷点下だった瞳が、まるで炎がぼうぼう燃えているみたいに感情を宿している。
あまりの豹変ぶりに戸惑った。さっきまでの冷たい瞳と表情はどこに行ったの?
「柏木、さん?」
「有菜、なんで俺に頼らなかった?」
誠吾の声が震えていた。
「有菜がそんなことになっていたなんて知らなかった」
「はい。言いませんでした」
「俺、あのころだって少しくらいは助けてやれた! 親に頭下げて頼んでもよかったし、バイトだって増やしたよ、お前のためならなんだってした!」
そうさせたくなかったのだ。迷惑かけたくなかったのだ。私は首を横に振る。
ああ、やっぱりあの時離れて正解だった。だって誠吾は変わらず優しい。あの時話していたら、なにをしたって私たちを助けてくれようとしただろう。
別れたから、そんな重荷を抱えさせずにすんだ。なにしろ彼はあの時まだ大学一年生だったのだ。まだ、子供だ。
私は初めて、過去の自分を誇りに思った。ああ、よかったと、本気で思った。彼を巻き込まずに済んだ……。
「クソが、なんで……」
彼が私の顔を覗き込む。
「再会してからずっと思ってた。なあ、なんでそんなに痩せてんだ?」
私は曖昧に首を傾げた。これでも一時期に比べたらずいぶん太ったほうだ。
「なんだよその顔色。眠れてんのか? なあ、なにがあった。俺から離れている間、どこでなにをしてた?」
「普通に、働いてました」
「普通に働いてるやつはこんな痩せ方しねえんだよ……!」
彼は私から手を放し、セットされた髪の毛をぐちゃぐちゃにする。
「俺はなんにも知らずにお前を恨んでた」
「当たり前だと思います」
「再会しなかったら、ずっとお前を誤解してた」
「誤解じゃないですよ、私、あなたにひどいことをしました」
「だってそれは!」
子供みたいな言い方で彼は声を荒らげ、それから肩を落とした。
「……おじさんたちの墓参り、してもいいか?」
「いいんですか」
「世話になったし」
「ありがとうございます」
彼を見上げ微笑むと、誠吾は悲しい顔をした。
「無理やり笑うな」
「え?」
「いや、なんでもない」
彼はそう言って、それからジッと私を見下ろし、続けた。
「有菜」
「なんでしょうか」
「また俺と付き合ってくれないか」
私はポカンと彼を見つめる。……え?
「柏木さん?」
「その他人行儀な呼び方をやめろ」
私は曖昧に首を振る。
「その、でも、今は……」
「付き合ってくれ。もう離さないから。自分勝手なこと、急にごめん」
彼は切なげに眉を寄せた。
「でも、二度と悲しませない。ひとりにしない」
「一体、なんで」
私は一歩後ずさる。だってなんで、誠吾が悪いみたいな顔をしているの? 私が一方的に悪いのに、どうして咎人みたいな表情を浮かべるの。
さっきまでの冷たい彼は……一体?
同一人物だとは思えないほどの変わりように、ひたすら戸惑うしかない。
「有菜」
彼は名前を呼び、私の手を握る。
「逃げるな。もう逃げないでくれ」
「で、も」
私は何度も呼吸を繰り返しながら、首を振る。
「もう俺のことなんとも思ってない?」
「あ、違って、ただ」
ただ、なんだろう。
「私、あなたにひどいことを」
「されてない。全然、大丈夫だ、あれくらい。むしろ、ひとりにしてごめんな」
すごく優しい声だった。
私はびっくりしすぎて言葉を失う。だって謝るべきは私の方で、彼はなにひとつ悪くないのに。
大人になっても変わらず、彼はどこまでもまっすぐな少年だった。
私はこんなに変わってしまったのに。
そうして彼は悲しい顔で言う。
「好きだ、有菜」
私は耳を疑う。一体全体、どうして彼は唐突にそんなことを……?
呆然と彼を見つめ、それから「ああ」と思う。
ああ、私、悲しいな。もう、私の中に恋情なんて残ってないんだ。いや他の感情だってほとんど。
彼がどうとかじゃなくて、別の人にも、きっと恋なんてしない、できない。だってもう全部擦り切れてしまった。働いて、罵倒されて、泣いて、眠れなくて、両親を亡くして、呆然と泣いて、また働いて、罵倒されて、嘲笑われて、食べられなくなって、涙も出なくなって、感情がすっかり擦り切れた。
それに、きっと、彼は。
心臓のあたりがやけにほの寒い。『言葉を額面通りに受け取るなんて』――ほんとそうだよね、わかってる、大人だから。彼のこの感情が、単純な恋愛感情じゃないことくらい、誰にだって見抜ける。久々に会った幼馴染がひとりになっていて、同情して、それをはき違えてる。彼は優しいから。
「柏木さん、同情は私、悲しいです」
「同情なんかじゃない……! 俺、有菜の事情調べようともしてなかった。フられたってことで頭がいっぱいで、有菜に関わりありそうなこと全部シャットアウトして、してたくせに忘れらんなくて」
「それは、当たり前……」
私の言葉を遮るように、彼は力強く告げた。
「ほんと、ガキだった。再会して、なんでフったんだって問い詰めそうで、我慢して冷たくして、でも会いたくて」
彼はひとつ息をついて続ける。
「結局、俺のお前への気持ちはなんにも変わってなかったってわかった」
私は首を横に振る。誠吾は優しい。だから……ううん。
「柏木さん、かっこいいし素敵な人ですから。釣り合う方がいらっしゃると思います」
「釣り合う? なんだそれ」
訝しげな彼から目を逸らし、さっきまで握りしめていた自分の手を見る。
ネイルなんて一度もしたことがない短い爪、荒れた肌の指先。髪の毛だって一度も染めたことないの。服を最後に買ったのはいつかな? 靴だって。
自分のことは全部後回しにしてきた。そうしないと日々も生活も回らなかったから。
誠吾はかっこいい。靴はぴかぴか、スーツだってひとめで高級だってわかる。その上ここのオーナーだ。会社をしてるらしいけど、お父さんの跡を継いだのかな、それとも起業したのかな?
どちらにせよ、私は彼と住む世界が違う。
「私、……柏木さんにふさわしくないですよー」
みじめで笑えた。笑顔のまま彼を見上げると、彼は痛々しい顔をして続ける。
「嫌だ。何があっても振り向かせる。二度と離してたまるか」
私はぽかんと彼を見続け、悲しく思う。
好きだった人からの同情って、こんなにみじめなものなんだね。
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