戻る

ライバルなのに愛し合うなんてごめんです!? 御曹司なモテ男の執着愛 1

第一話

 

「だからその件は私に任せてほしいって言ったじゃないですか!」
 会議室内に響いた槙野遥香(まきのはるか)の声に、その場にいた人々は『また始まった』と苦笑した。
 議論が白熱するのはいつものこと。少しばかりヒートアップするのは、珍しくもない。まして、遥香と『彼』の意見が対立すれば、穏やかなままで終わるはずがなかった。
 第一志望だった広告系の会社に入社できて、五年。
 夢だったアートディレクターに二十七歳で抜擢されたのは、幸運だったと思う。
 同期の中でも遥香は着実に実績を積み、成果を出している自信があった。それを上司も認めてくれ、最短で任されるようになったのだから。
「また始まるぞ」
「え、何か起こるんですか?」
「ああ、貴女は異動になったばかりだから知らないか。我が社のクリエイティブ部名物、水と油の怪獣決戦を」
「か、怪獣?」
 一応声は潜めているようだが、呆れと揶揄が交じった苦笑の言葉が遥香の耳に届く。
 先日アシスタントとして配属されたばかりの女性が「と、止めた方が……」と囁いたが、「無理無理。ああなったら放っておいた方が早く解決する」とクリエイティブディレクターが軽く手を振ったのが視界の片隅に入った。
 だが、そんなことに構ってはいられない。
 遥香は敢えて雑音をシャットアウトし、眼前の敵──もとい、最大のライバルを睨んだ。
「余計な手出しは無用です」
「心外ですね。これでも一応、助け船を出したつもりなんですが。万が一この件を放置していれば、もっと大きな問題に発展した可能性があります」
「だからって、勝手にキャスティングの変更を先方に伝えるなんて……!」
「でもおかげでスキャンダルの余波を受けずに済むじゃないですか」
 机を挟んで遥香の前に座る男──高峰光琉(たかみねみつる)が僅かに首を傾げる。そんな何気ない仕草が非常に艶やかで様になり、その場にいる男女問わずの視線を独り占めにした。
 実際、遥香のアシスタント女性も頬を赤らめて見惚れている。瞳は潤み、唇は半開きだ。
 内心、『貴女は既婚でしょ……』と思ったが、それは横に置いた。
 高峰光琉。名前までがどこかキラキラしている。
 そして煌びやかな名に負けぬどころか相応しい容姿を持つのが、遥香の同僚でありライバルのその男だった。
 焦げ茶の髪は染めておらず、元々色素が薄いらしい。ただし瞳は印象的な深い黒。白目とのコントラストでより際立つ。
 百八十センチを越える身長は成人男性の平均より高いものの、他者に威圧感を与えない。物腰の柔らかさと柔和な顔立ちのおかげか。
 中性的ではなくどちらかと言うとがっしりとした身体つきであるにも拘らず、『笑顔が可愛い』と女性社員の中ではもっぱらの噂だ。
 何でもやや垂れた瞳が細められ、形のいい唇が綻ぶところが庇護欲をそそるのだとか。
 黙っていれば文句なしの美形。にこやかに微笑めば、途端に愛らしさが加わる。そういうギャップが堪らない──と遥香は同僚に何度熱弁をふるわれたか知れやしない。別に聞いてもいないのに。
 それなりに大きな会社で、ある意味一番の有名人と言っても過言ではない。
 彼が入社した年は、瞬く間に『とんでもないイケメンがやってくる』との噂が駆け巡ったそうだ。そして『どの部署へ配属されるのか』という賭けまで発生したとか何とか。
 真偽のほどは謎だ。しかし同じ年に採用された遥香は『あり得る』と大いに納得せざるを得なかった。
 悔しいけれど、光琉がえげつない美形なのは、誰しもが認めるところだろう。
 遥香は面食いではなく、他人の容姿にさほど興味を持たないタイプなのだが、彼が飛びぬけて整った容姿の持ち主なのは否定できない。
 そんじょそこらのアイドルや俳優よりもよほど完璧に仕上がっていた。いっそどこかの芸能事務所に所属していると言われた方が素直に納得できる。
 だが本人は、昔も今もそういう世界でスポットライトを浴びる気がないらしい。
 むしろ裏方の広告業界で働きたいと希望し、遥香と同じ就職先を選んだ次第だった。しかもそれでいて優秀だから、好敵手を自称するこちらとしては何とも微妙な気持ちを拭えない。
 光琉が顔だけの人間であったなら、遥香がこんなにも意識することはなかったはず。
 おそらく、歯牙にもかけなかった。自分にとって大事なのは、見てくれよりも実力だ。
 勿論、見た目が秀でていて困ることはないのだが、それが評価の指標にはならないはず。
 けれど悔しいことに、彼は外見が優れているだけではなかった。
 仕事に関しては超有能。しかもそれを鼻にかけることはなく、上司の覚えはめでたい。後輩からは頼りにされ、同期ともそつなく付き合う。取引先の評判も上々。
 発想やセンス、交渉力と行動力。どれをとっても文句なし。
 だからこそ光琉が遥香に先んじてアートディレクターになった時も、嫉妬で腸が捩じ切れそうになったが、『当然だな』と祝福することができた。
 その悔しさをバネにして、自分も頑張れた面はある。
 おかげで最速記録の座は彼に譲ったが、遥香も同期からは羨ましがられる速さでアートディレクターに昇進できたのだ。
 ──ああ、本当腹立つくらいこんな場面でも綺麗な顔だな。
 敵意剥き出しで対峙する遥香に対し、光琉はどこまでも涼やかだ。Tシャツにラフなジャケットを羽織り、足元は革製のスニーカー。決してかっちりした格好ではないけれど、着崩してもいない。
 何よりもとても似合っていて、着飾らなくても映えるのは、イケメンの特権かもしれなかった。
 しかも、だ。それほどの好条件を備えた彼は、女性に対してジェントルマンで、途轍もなくモテる。故に言い寄る女は数知れず。
 しかしながらどんな美女や才女に告白されてもよろめかず、浮名を流すこともない。数多の告白を断りつつ、恨みを買うことがない立ち回りはいっそ見事だった。
 とにかくおよそ欠点らしきものが見当たらない男──それが高峰光琉なのである。
 ──これで見境なくあちこち食い荒らす最低男なら、清々しく見限れるのに。
 同僚が女癖に難ありなのは、それはそれで悩ましいのだが、欠点の一つでもあればとつい妄想したくなる。
 あまりにも完璧な彼は、遥香の闘争心を余計に掻き立てた。
「あくまでも可能性の話ですよね」
「正式にあのタレントを起用した後、スキャンダルが発覚すれば、うちも大ダメージですよ? だったら事前に別案を提案して、何か問題ありますか?」
「大ありでしょ! 私が今回のリーダーなんだから、勝手なことしないで!」
 嫣然と微笑む光琉についイラッとし、遥香の言葉遣いが乱れた。
 ただでさえ集中していた皆の視線に、好奇の色が宿る。見世物になる気はなく、遥香は懸命に呼吸を整え頭を冷やそうと試みた。
 ──興奮しちゃ駄目。ここは職場。感情的になっていいことは一つもない。落ち着け、私。深呼吸、深呼吸……
「槙野さんがイメージキャラクターに挙げていたタレント、清純派で売っていますけど実際はかなり奔放で異性関係にだらしない。リスクを冒してまで選ぶ理由はありません。今回、一歩間違えれば、うちも泥を被りかねませんでしたよ。それを回避できたのだから、怒る理由はありませんよね?」
「だから、だとしても物事には順序ってものがね」
 確かに宣伝などに起用したタレントの醜聞は、売り上げに直結する。まして相手が抜群の好感度を持っているなら、尚更だ。
 世間的に眉を顰められることをしでかせば、一気に『見たくない』『不快』とそっぽを向かれかねなかった。
 下手をすれば企画したこちらの評判にも傷がつく。
 故にトラブルの前に対処できたのは、めでたいことではあるのだが。
 しかしリーダーである自分をすっ飛ばしてキャスティング変更の打診を先方へ伝えた件に関しては、とても『よくやった』と言う気にはなれるわけがない。
「どうして私に一言もなかったのですか?」
「緊急を要したので、相談する時間を惜しんだのは申し訳ありません。ですが、昨晩SNSの炎上から始まり、今朝にはワイドショーを独占状態です。先週の内に正式決定に待ったをかけておいて、正解だったと思いませんか?」
 しれっと宣われ、二の句が継げない。
 結果だけを見れば、光琉の言う通りなのがもどかしかった。
 ──契約前で助かったのは事実。でも重要なのは、そこではない。いや、会社に損害を与えなかった点は、感謝して然るべきなんだけど……!
「相談してくれたら、私だって考慮したのに」
「同じくらいの人気と知名度ですぐに別候補は立てられないですよね。今回、スケジュールが非常にタイトなので、また一から交渉となると難しいでしょう。だから出過ぎかとも思いましたが、俺の伝手を利用しました。一応先方も好感触でしたよ」
 それは取引先は勿論、代役のタレントにも話は通っているということだろう。
 本当に抜かりがない。
 そういう光琉のそつのなさも、今の遥香には面白くなかった。
 ──高峰さんの言っていることは、いちいちごもっとも。悠長にしていられなかったというのも、頷ける。だけど頭と感情は完全一致しないのよ……!
 遥香は今回のプロジェクトリーダーに抜擢され、張り切っていたし順調だとも思っていた。
 しかし突然上司から『高峰をアドバイザーとしてチームに加えてくれ』と数日前に告げられてから、色々な足並みが揃わなくなった気がする。
 それは単純な嫉妬でもあり、憧憬でもある。しかも多分に妬心が大きい。
 彼の手腕を見せつけられ、感心すると共に『負けたくない』思いが、一層遥香を頑なにした。
 そこにきて、唐突なキャスティング変更を自分抜きで進められ、怒り心頭に発さないのは不可能だ。
 せめて筋は通せと怒鳴りたいのを理性で抑え込み、遥香は殊更ゆっくり言葉を紡いだ。
「……彼女、これまで品行方正でスキャンダルとは無縁でしたよね。なのに何故、不倫騒動が出る前にキャスティングの変更を提案したんですか」
 何か問題が起こってからなら、理解できる。
 実際先週の時点までは醜聞の影も形もなかった。
 しかし昨晩遅く当人のSNSに載せられた写真が、一気に拡散されたのだ。
 その投稿自体はすぐに削除されたのだが、目敏い誰かが画像を保存していたらしい。
 彼女の背後に写り込んだ人物が妻子持ちの人気俳優だと特定され──今に至るというわけである。
 初めは擁護の声が大きかったものの、次第に状況が変わりつつある。
 というのも、別件で『私も恋人を略奪された』『僕は二股をかけられたことがある』などの告発と思しき発言がポロポロと出てきたからだ。
 炎上は収まるどころが広がる一方。
 もしこちらが後手に回っていれば、それなりの被害を受けたかもしれなかった。
「実は俺、別件で彼女と会ったことがあります。半年くらい前かな。その時はまだバリバリのアイドルだったのに、何の躊躇いもなく連絡先を渡してきましたよ。あの感じだと、いつスキャンダルを起こしてもおかしくないと思っていました。で、今回の案件、ピュアなイメージが絶対なので、待ったをかけた方がいいと思って」
「な……」
 唖然としたのは言うまでもない。
 まさか実体験に基づいた危機回避の助言だったとは。
 ──あの元アイドルさん、いくらだって美形や美少年がいる芸能関係者じゃなく、高峰さんを誘ったってこと? 奔放な面があるのを見事に隠していたのにもビックリだけど、そんな選べる立場の人がつい誘惑しちゃうくらい高峰さんが圧倒的に魅力的だったってことが驚きだわ……!
 あまりの驚愕で、何も言葉が出てこない。愕然としたまま遥香は凍り付いていた。
「ひょっとして、俺が卑怯な真似をしたと思っています? ひどいな」
「え」
 こちらを探る視線を向けてきた彼が瞳を眇めた。
 斜に構えた表情が下品にならずむしろ美貌を強調し、遥香の隣に座る女性が「カッコいい……」と呟く。
 しかも直後に「え、槙野さんは高峰さんが何か悪意をもってしたと疑っているんですか?」と眉間に皺を寄せたものだから、焦らずにいられなかった。
 ──高峰、コイツ……! その言い方じゃ、まるで私が難癖つけたみたいじゃない? わざと思わせ振りに言って、私を悪者にしようとしている? 風評被害、甚だしいな!
 心外だ。そんなつもりは毛頭ない。彼が狡い手を使うと考えたのではなく、ただ陰でコソコソ行動されたのが腹立たしいだけだ。
 しかも結果的に自分が助けられた形なのが、悔しい。
 光琉にしても本心からの言葉ではなく、遥香を揶揄っているのが感じられた。
 ──いつもみたいに私をおちょくって遊んでいるつもり? そういうところ、あるな。そっちがそのつもりなら──
 ついむきになってしまうのは、対抗心があるからなのか。
 反射的に顔が強張った遥香に対して、光琉が意地悪く眦を下げた。瞬間、妖しい色が微かに浮かぶ。
 魅力的で、危険。それでいて甘い匂いで引き寄せられそう。罠だと分かっていても。
 ほんの刹那。瞬きの間に消え失せた一瞬の表情。
 だから他の同僚らには見えなかったはず。いや、遥香だからこそ、読み取れた僅かな揺らぎだった。
 ──私にだけ見せる顔だ。
 基本的に人当たりがいい彼は、間違っても社内で悪辣な面など出さない。いつだって品行方正、社会人の見本のような男だ。
 しかし遥香の前でのみ、時折こうして素を垣間見せることがあった。
 少しだけ毒の滲む、悪い顔。それでいて柔らかくもある。
 他の同僚には決して向けられないそれが──遥香の内側にさざ波を立てた。
 ──んぎぃぃっ、見惚れている場合かっ!
 愚かにも動揺する自身を殴り飛ばしたい心地で、遥香は奥歯をグッと噛み締めた。
 しかも光琉が分かっていてやっているのがまた、腹立たしいのだ。彼は絶対に、全て承知の上で遥香を翻弄している。
 己の容姿が人並み以上であり、面食いではないはずの遥香ですら魅了されそうになるのを理解している風情があった。
 ──それでいて、鼻にかけているとか遊んでいるとかではないのよね。
 遥香の知る限り、彼と交際に至った女性はいない。社内は勿論、取引先でも。
 プライベートは詳しく知らないが、遥香以上にワーカホリック気味の光琉が恋人に割く時間が潤沢だとは思えないし、どちらかというと色恋を煩わしく感じている気配があった。
 ──実際、入社したての頃に面倒な相手先に迫られて辟易していたものね。コンプラ意識が低い上司には『ちょっとくらい相手してやれ』なんて言われて……いや、今は高峰さんの女性関係はどうでもいい。そんなことより私をないがしろにして、勝手に話を進めたことが大問題よ。
 結果的に助けられたとしても、それとこれは話が別だ。今後のためにも筋を通すよう、釘をさそうと考えた。
「指示系統はきちんとしてもらわないと。今回のチームリーダーは私。出過ぎた真似は迷惑です。仲間同士で争うのは足を引っ張り合っているみたいじゃありませんか?」
 仕事は勝負ではない。
 しかし負けず嫌いの遥香は、いつも光琉に後れを取っている気がしてならなかった。
 これまでだって別チームに配属され同じ案件を競い合い、現在のところ一勝二敗。今回は同じチームと言えど、完璧に成功させ、気持ちの上で二勝二敗のドローに持ち込みたかったのだ。
 そんな気負いを鮮やかに躱されたのも同然の事態で、屈辱感が半端なかった。
「まぁ槙野さんの言い分には一理ありますね。俺は良かれと思ってやったことですが、気に障ったのなら、謝ります」
 到底謝罪とは思えぬ態度と言い回しで、彼は立ち上がった。
 中央の机を回り込み、遥香の傍まで歩いてくる。
 その足取りの優雅なこと。舞台俳優もかくやである。主役が観客の視線を独り占めにして、見せ場を演出しているようでもあった。
 ──何だか私、村人その一みたい……
 隣からは「わぁ」と黄色い声が上がったけれど、この際無視だ。
 長身の光琉が脇に立ったことで、遥香は気圧されまいと必死だった。
 ──見下ろされる威圧感に、負けて堪るか。
「次回から気をつけますね。すみませんでした」
 頭を下げる殊勝さとは裏腹に、瞳の奥は強かだ。遥香だけに読み取れる愉悦がちらつく。
 彼が絶対に反省なんぞしていないのが伝わってきて、遥香の口元が引き攣った。しかしここで意固地になれば、こちらの方が『大人げない』社会人である。
 遥香は言いたいことの大部分を呑み込み、自らも席を立った。
「……分かってくださったなら、もういいです」
「ではこれからも協力していきましょう。勿論、情報は共有します」
 にこやかに笑った彼が芝居がかった仕草で両手を広げる。
 和解成立。すったもんだの騒ぎにならず、野次馬と化していた同僚には物足りなかったのかもしれない。
 若干『何だ、もう終わりか』という気の抜けた空気が漂った。
「改めて、相談したいことがあるのですが、槙野さんのお時間をいただけますか?」
「分かりました。とりあえず、今朝のミーティングはこれで終了して大丈夫ですか?」
「はい。他に報告することはありません」
 会議の解散を告げられ、各々が席を立つ。
 室内に残ったのは、遥香と光琉の二人。
 するとおもむろに光琉が気だるげな様子で机に手をつく。他の社員には聞かれたくない話なのか、最後の一人が出て行き扉が閉まるのを待っている風情だった。
「何? 言い難いことですか?」
「ん、まぁあのタレントのスキャンダルも、できれば槙野さんにだけ事前に話すつもりだったんだが、順番が前後して悪かった」
 一応、申し訳ないと思うところもあるらしい。
 二人きりになった瞬間、敬語をやめた彼は隠すことなくニヤリとした笑みを浮かべた。気安い態度は、光琉が遥香に対して気を許している証拠。
 それが何とも言えない心地にさせる。
 内緒話でもするつもりなのか、彼が軽く腰を折って、上向けた指先で遥香を手招きした。
 同じ動作を他の誰かがすれば、『気障ったらしい』と嫌悪を抱いても不思議はない。しかし光琉がするとあまりにも自然で、遥香はつられて一歩彼に近寄った。
「何?」
 男の口元へ耳を寄せれば、その吐息が耳朶にかかる。
 距離が、近い。掻痒感で首を竦めそうになるのを、強い意志の力で懸命に堪えた。
 ──耳も頬もこめかみも、全部が熱い。
 余計なことを考えないため、敢えて呼吸にのみ集中する。聴覚を研ぎ澄ませ、他の感覚は意識的に閉じた。
 そうでもしないと、火照りがひどくなる。吸い込む空気に彼の香りを嗅ぎ取りかねない。
 だが一瞬の緊張感は、光琉の言葉により直後にすっ飛んでいった。
「一応、俺としては槙野さんを助けたつもりなんだけど。礼を言えとは言わないが、もっと愛想よくしてくれてもいいんじゃない?」
 しおらしく謝ったのはただのポーズだったのか、舌の根の乾かぬうちに憎まれ口を叩いてくる男は、遥香を苛立たせる天才だ。ついこちらも臨戦態勢になろうというもの。
 遥香は俯けていた顔を上げ、上方にある彼の尊顔を睨み付けた。
「腹立つな、その言い方! 絶対善意じゃない!」
「心外だな。そっちこそ俺が不正を働いたと疑ったんじゃないの?」
「そうじゃないって言っているじゃない。被害妄想? それとも疚しいところがあるから疑心暗鬼になっているの?」
「そっちの情報収集が杜撰なのを棚に上げ、随分煽ってくるな」
 売り言葉に買い言葉で、声を抑えようという意識は完全に消え去った。一度火がついた怒りは、瞬く間に火力を増す。
「こっちの台詞なんだけどっ?」
「槙野さんはああいうタイプに騙されやすいので、気をつけた方がいい。人がいいといえば聞こえはいいが、警戒心がなさすぎる。悪意に鈍感で、すぐ同情しがちだし。人間、そんなに単純な奴ばかりじゃないんだよ」
 にこやかに嫌味を塗した光琉が微笑む。
 その笑顔が非常に艶やかなのが、遥香の口元を引き攣らせた。
「そ、それとこれは関係なくないっ?」
 自分でも他人を疑うのが苦手な自覚はある。学生時代、友達面した女に利用され、痛い目を見たことだってあった。就職してからも、親切めかした先輩に何度も仕事を押し付けられている。
 何を隠そう、その時助けてくれたのが光琉だ。
 共に残業して仕事を手伝ってくれ、『お礼はコーヒーでも奢って』と恩に着せない爽やかさだった。今や段々飾らなくなって口が悪くなり、単なる好青年とは言えないけれども。
 そんな思い出があるからこそ、遥香は一層彼には負けたくないし、信頼感もあるのだ。
 さりとて、揶揄われるのは不本意。
 遥香は大きく息を吸うと、思い切り「そういうところが気に入らない!」と叫んだ。
「ははっ、辛辣。でも俺は槙野さんのそういうところ、好きだけど?」
「ご遠慮申し上げるわ!」
 会議室の扉を勢いよく開くと、視線の集中砲火を浴びた。
 皆、興味津々である。
「ね? あれが我が部署名物の怪獣決戦」の声も聞こえ、居た堪れない。
 結局最後まで冷静さを保てなかった気恥ずかしさと罪悪感で、遥香は足早にフロアを突っ切り、トイレへ逃げ込んだ。
 個室へ飛び込み、後頭部で髪を纏めていたシュシュを外す。長めのボブを掻き毟りながら、どうにか雄叫びを噛み殺した。
 視界の端を茶色の髪がチラチラ過る。頭はぐちゃぐちゃになっただろうが、構うものか。
 とにかく感情を静めるのを最優先に地団駄を踏んだ。
 ──あいつ、私のこと馬鹿にしていないっ? さもなきゃ面白い玩具程度に見做しているじゃないの? 何が、『そういうところ、好きだけど』よ。舐めるなよ。余裕なのが本気でムカつく。そりゃイケメン様は冗談でサラッと甘い言葉を言い慣れているでしょうね!
 だが何より腹立たしいのは、簡単に情緒を乱高下させられている自分自身だ。
 いちいちあんな台詞に振り回される遥香が一番苛ついた。
 ──悔しい。今回のプロジェクト、絶対大成功させて舐めた口きけないようにしてやる。もう二度とあいつの助けなんて必要としないくらい、大勝利をおさめるんだ。
 決意も新たに、気を引き締めた。
 光琉の実力は認めているし、感謝もしている。本気で競い合える最大のライバルだ。そしてどうにもいけ好かない男──それが遥香にとっての高峰光琉だった。