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一途な副操縦士のあまい独占欲 男運のないCA、思いがけず運命の愛に出会う 3

第三話

 

「やばい……」
 長い回想を終えた私は、裸のまま頭を抱える。
 酔った勢いで、同僚のパイロットに初体験を捧げてしまった。全部夢だったならよかったけれど、下半身には鈍い痛みと気だるさが残っている。
 これは、絶対に間違いなく事後だ。
 いったい、今後どうやって彼と接したら……。
「おはよう」
 ひとりでパニックに陥っていた最中、布団が擦れる音がして、加路さんがむっくりと上半身を起こす。胸を丸出しにして呆けていた私は、慌てて掛け布団を手繰り寄せ、胸元を隠した。寝起きの加路さんは少し腫れぼったい目をしていて、後頭部には軽い寝ぐせもついている。
 仕事中の凛々しい彼からは想像もできないその姿は少し無防備で、かわいらしい。
 ……って、それどころじゃないでしょ!
「お、おはようございます。あの、昨夜のことは……」
「ああ、そうだ。体は大丈夫? 初めてのきみにずいぶん無理をさせてしまった」
「いえあの、それは大丈夫なんですけど」
 お酒の勢いとはいえ、同僚とワンナイトしてしまったのは事実。私の記憶が正しければ誘ったのはこちらから。その上、ずいぶん派手に乱れた気がする。
 状況を整理すればするほど居たたまれなくて、消えたくなってくる。
 これまで通り、単なる同僚として彼と接するためには、なかったことにするしかない……。
 私はベッドの上で居ずまいを正し、彼を見つめる。そして、胸元の布団は握りしめたまま、加路さんに向けてペコッと頭を下げた。
「お願いします。どうか、昨夜起きたことは全部忘れてください……!」
「俺としたこと、後悔してるの?」
 加路さんが、少し寂しげに言う。おそるおそる顔を上げたら、彼はどきりとするほどまっすぐな眼差しで私を見ていた。
 怒ってる、よね……。私はもう一度深く頭を下げる。
「私のコンプレックス克服に協力してくださったことは感謝しています。落ち込んでいた気持ちもずいぶん救われました。でも、お酒の勢いで恋人でもない人と……というのはやっぱり道徳的におかしいと思うので、忘れるのが一番かと……」
「……なるほど。確かに、順序を間違えていたな。それは悪かった」
 私は順序の話をしたわけではないのだけれど……加路さんはやっぱり少し天然のようだ。
「あの、それで……」
「わかった。昨夜のことは一夜の過ち。そう思うことにする。もちろん、同僚の誰かに言いふらしたりもしないから安心して」
「ありがとうございます……!」
 天然な一面はあれど、やはり加路さんも大人の男性だ。お互い仕事がしやすいように了承してくれたのだろう。
 ホッと胸をなでおろすと、彼が唐突に布団を剥いでベッドから下りようとしたので、慌てて目を覆う。床に落ちた服を拾って身に着けているのであろう、気配と音がした。
「それじゃ、俺は帰るよ。今日は休みだけど、明日からのフライトに備えて生活リズムを整えないと」
 しばらくして声をかけてきた加路さんは、元通りに服を着て普段の凛々しさを取り戻していた。自分だけが裸であることが妙に恥ずかしく、だからといって服を取ってくれとも言えず、私はベッドから抜け出せないまま。
「な、なんのお構いもできませんで……」
「なにを言ってるんだ。むしろ、たっぷり構ってくれただろ」
 含みを持たせた言い方に、顔が熱くなる。その直後、加路さんがすまなそうに苦笑した。
「……ごめん、忘れる約束だったな。それじゃ、また」
「はい。お、お疲れ様です」
 この挨拶で適切なのか微妙だと思いつつも、同僚として見送るのだから正しいはずだと自分に言い聞かせ、ベッドの上で彼を見送る。加路さんが玄関を出て行った音がしてその気配が去ると、私はため息をついてもう一度ベッドに倒れ込んだ。
「加路さん、すごかった……」
 誰にともなく呟くと、胸がドキドキした。忘れようと言い出したのは自分だけれど、彼に刻まれた初体験の記憶は、体からも心からもなかなか消し去れそうになかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 加路さんとの一夜から一週間ほど経ち、梅雨入り前の貴重な晴れ間が広がった六月中旬。
 私は職場である羽田空港の敷地内、朱雀エアウェイズのオフィスの一角にある休憩スペースでおにぎりを齧っていた。
 すでに更衣室で制服の紺色のジャケットとスカートに着替え、髪形はネットとヘアピンを駆使してシニヨンにしてある。袖と襟には朱雀のイメージカラーである赤のラインが入っており、首でリボンのように巻いているスカーフの色も赤だ。スカーフの巻き方は自由なので、気分で変えたりもする。
 今日は朝八時から国内線の乗務なので、五時半に起床して六時半には出社した。出発の一時間前にはブリーフィングと呼ばれる打ち合わせに参加するので、着替えや軽食を取る時間を考慮して、いつも早めに出ている。
 フライトの予定は、羽田から那覇間の往復便。そのまま現地ステイとなる場合もあるけれど、今日は朝早く出発なので夕方には帰れるスケジュールだ。距離が短い便の場合は複数の土地を往復することもあるので、国内線乗務の日は比較的慌ただしい。
 朝食は家でも軽く食べてきたものの、それだけではすぐにお腹が空いてしまうので、ブリーフィングの前になにかしらお腹に入れておくのがルーティーン。今日は家でツナマヨおにぎりをふたつ握ってきた。
 それに、自動販売機で買った紙パックの豆乳をプラスして、仕事前にきちんとエネルギーを補給する。
 窓に面したカウンター席でおにぎりの最後のひと口を頬張り、外の駐機場で整備を受けている朱雀の旅客機を眺める。これから乗務するのと同じ機材だ。
 タブレット端末を出して、そこに集約された客室乗務員用のマニュアルから、該当機材の情報を探す。仕事前にこうしてあらゆる確認事項に目を通しておくと、実際のフライトで慌てずに済む。
 タブレット上の文字を追っていると、ふいに同僚たちの話し声が聞こえてきた。
「ホント、速水さんって意外とガード堅くてつまんない~。この間もさぁ、飲み会とは別の日に直球で食事に誘ってみたんだけど、『ふたりきりで会うのは好きな子とだけって決めてるんだ』って断られちゃって」
「速水さんに誰か想い人がいるらしいっていうのは有名みたいよ。ただ、その正体は誰にもわからないらしいから、女避けに嘘をついているだけかもしれないけど」
 声がした方を振り向くと、丸いテーブル席を囲んでいたのは、ふたりの後輩CA。そのうちのひとりは、未蘭ちゃんだ。先ほどオフィスのシフト表を確認したところ、確かふたりとも私と同じ那覇便の担当だったはず。これから正式なブリーフィングがあるとはいえ、フライトの大まかな流れは頭に入っているのだろうかと、お節介ながら心配になる。
「ふ~ん。とにかく、速水さんはもういいや。次は加路さん狙っちゃおうかな」
「でも、加路さんって飲み会で都さんのことお持ち帰りしてたじゃん」
 聞き耳を立てていたわけじゃないのに、自分の名前が出てきてついぎくりとする。どうやらあの日の私と加路さんの行動について、変なふうに勘ぐっている同僚もいるようだ。
 それにしても、噂をするなら私のいないところでしてほしい。ここではみんな同じ制服、同じようなまとめ髪をしているから、こちらの存在に気づいていないのだろうけど……。
「いや、あれはぶざまに酔っ払った都さんを仕方なく介抱しただけだって。加路さんってすっごく真面目だもん。それに、都さんみたいな完璧美人って男の人にとって実はあんまり魅力ないんだよ。私みたいにお手軽そうな女の方が選ばれやすいの」
 なんと失礼な……と軽く怒りが湧いた反面、痛いところを突かれてダメージを食らう。
 あの日ぶざまだったのは自覚があるし、彼女の言い分にも一理ある。自分が完璧だとは微塵も思っていないけれど、男性から魅力がないと間接的に言われた経験が三度もあるから。
「相変わらずすっごい自信~。具体的にどうするの?」
「真面目な人ほど性欲強いってのが、この世の摂理。色っぽく迫るに決まってるでしょ~」
 未蘭ちゃんの嗅覚の鋭さが恐ろしくて、ますます狼狽える。
 ベッドの上の加路さんは終始紳士的だったとはいえ、だからといってセックスに対して淡白なわけではなく、むしろ貪欲なタイプに見えた。普段真面目な彼からは想像もできないくらい、甘くて情熱的だった。
「ふうん。まぁ頑張って――って、未蘭、やばい、あそこにいるのって……」
「げっ。聞かれてたかな……」
 彼女たちはようやく私の存在に気づいたらしい。ここで聞こえていないふりをするのも不自然だし、私以外の先輩に同じ無礼を働かないよう、ここはお灸を据えておこうか。
 私はスッと席を立ち、気まずそうに目を泳がせている後輩たちに歩み寄った。
「おはよう」
 とりあえず微笑を向けると、ふたりとも心なしか顔が強張る。そうやって怖がるなら、最初から悪口なんて言わなければいいのに。
「お、おはようございます」
「……はよざいまーす」
 未蘭ちゃんは飲み会でみどりさんからCAとしての特別講義を受けたはずだが、全然身になっていないらしい。舌っ足らずな挨拶はすこぶる不快で、私は小さく息を吸ってから口を開いた。
「あなたたちにもストレスがあるでしょうし、先輩の悪口を言うなとは言いません。ただし、本人のいないところでやるのがマナーです。どんなに嫌いな相手とでも、同じ機体に乗り込んだら、運命共同体。クルー同士の小さないさかいが安全運航の妨げにならないとも限りません。以後、くれぐれも気をつけてください」
「はい、すみませんでした……!」
「はぁーい」
 ぺこぺこと頭を下げ反省した様子を見せる後輩とは逆に、未蘭ちゃんはどこまでもふてぶてしい。いつか誰かの前でもっと重大な失言をして、痛い目を見ないとわからないのかもしれない。これ以上相手にするのは時間の無駄だと判断し、私は彼女たちのテーブルに背を向ける。その直後、未蘭ちゃんが聞こえよがしに悪態をついた。
「うざー。ジェネリックみどり」
「しっ、聞こえるって未蘭っ……」
 低レベルすぎて張り合おうとも思えない。
 私は聞こえないふりをして、そのままオフィスへ向かった。

 オフィスでのブリーフィングを済ませ、搭乗客より四十分ほど早く機内に移動する。
 そして、客室内がきちんと清潔か、ギャレーに収納されたサービスワゴンのキャスターが離陸時の揺れで動かないようロックされているか。荷物棚や各席のモニターも手分けしてチェックし、お客様全員が快適に過ごせるようにしておくのが務めだ。
 CAの私たちが乗り込むのと入れ違いで、客室の点検を終えたらしい数人の整備さんとすれ違う。紺色のツナギにキャップを被ったその姿には職人の雰囲気が漂い、設備関係の疑問は彼らに聞けば間違いない。今日私が乗務するエコノミークラスの責任者を務める先輩が、代表して客室の整備状況について説明を受けていた。
 出ていく整備士の数人に「お疲れ様です」と声をかけつつ通り過ぎようとしたら、私と背丈が同じくらいの男性整備士がふと足を止めた。なにか伝言があるのだろうかと首を傾げる。
 すると、その整備士がスッとキャップを外した。くりっとした黒目がちの瞳、細かいパーマがかかった髪は、まるでトイプードル。その愛らしい顔立ちを見て、あっと思い出す。
 飲み会の日、加路さんと店を抜け出す時にぶつかった相手。やっぱり整備の人だったんだ。
「先日は、レストランで失礼しました……」
「いえいえ、こちらこそよく見ていなくてごめんなさい! ええと……」
「あっ、僕、馬場晴太って言います。二年目の整備士で未熟者なのですが、よろしくお願いします」
 少しぶつかっただけなのに丁寧に謝っていたあの時のように、彼がうやうやしく挨拶してくれる。二年目というとキャリアは未蘭ちゃんと同じだが、先輩に対する態度が天と地ほど違う。あの子に馬場くんの爪の垢を煎じて飲ませたいわ……。
 内心そう思いつつ、私は気さくに微笑んだ。
「小石川都です。見ての通りCAだからあまり接点はないかもしれないけれど、私たちクルーが安全に働くために、整備さんたちの存在は欠かせない。いつも頼りにしているから、頑張って」
「はいっ!」
 元気よく返事をした彼にはやはり犬っぽいかわいさがあり、つい尻尾と耳が生えた姿を想像して和んでしまう。そうこうしていたら外から彼を呼ぶ声がして、馬場くんは慌てて去っていった。
 私も、初心忘るべからずで頑張ろうっと。

 客室の確認作業を済ませると、ふたりのパイロットを交えた最終ブリーフィングが行われた。機内にクルーが集まり、天候状況や、フライト中に揺れが大きくなりそうなポイントなど、必要な情報を共有する。
 今日操縦を担当するのは、五十代のベテラン機長五十嵐さんと、副操縦士は速水さん――だったはずなのだけれど。
「本日、副操縦士の速水が体調不良で乗務できなくなったので、急遽加路に担当してもらうことになりました」
 ブリーフィングに現れた副操縦士は、あの日以来、幸運にも仕事で顔を合わせることのなかった加路さんだった。機長の紹介を受け、加路さんがCAたちに一礼する。偶然隣にいた未蘭ちゃんが、小声で「よしっ」と呟いた。
「速水の代理で、私が往路のPFを担当します。よろしくお願いします」
 加路さんの制服姿を見るのは初めてじゃないのに、やけにカッコよく見えてどぎまぎした。夏服の白いシャツ、その中にあの美しくて凶暴な肉体を隠していると知ってしまったために、あまり直視できない。
「都さん、ぴーえふってなんでしたっけ……?」
 小声で尋ねてきたのは未蘭ちゃんだ。先ほどあれほど私をこき下ろしていたにもかかわらず、こんな時は頼ってくるのだから本当にちゃっかりしている。しかし、こんな基本的な用語さえ理解していなかったとは予想外だ。新入社員じゃなくて二年目よね、彼女……。
「パイロットフライングの略よ。ようは、操縦担当ってこと。その隣で、計器類を確認したり、通信を担当するのはパイロットモニタリング、略してPMって言われてるの」
「へ~」
「へ~、じゃなくて、メモを取ったりしなくていいの?」
 ぼんやり相槌を打つだけの彼女が心配になり、つい忠告する。どうせまた煩わしく思われるだろうけれど、仕事に関してはさすがに黙っていられない。
「記憶力はいい方なんで、大丈夫でーす」
「あ、そう……」
 まったく覚える気がなさそうな返事に、脱力する。気を取り直してふたりのパイロットの方へ視線を戻すと、加路さんがジッとこちらを見つめていたので鼓動が跳ねた。
 きっと、偶然目が合っただけ。あの夜のことは、お互いに忘れるって約束したもの。
 加路さんはただの同僚。それ以上でもそれ以下でもない。
 自分にそう言い聞かせつつも彼を見つめ返す度胸はなく、私はブリーフィングの間じゅう、五十嵐機長の方ばかり見ていた。

 お客様の搭乗、通称ボーディングは滞りなく進み、荷物の収納、シートベルトのチェックもスムーズだった。
 ドアクローズの確認を済ませると、CAも座席に着いて離陸に備える。チーフパーサーの先輩が挨拶のアナウンスをした後、機体は定刻通りに離陸し、地上を離れた。
 高度が安定しシートベルトの着用サインが消えると、客室乗務員は忙しくなる。まずは機体後方のギャレーに移動してエプロンを着用し、ドリンクの準備だ。
 比較的揺れが少ないタイミングで行っているとはいえ、フライト中はなにが起こるかわからない。飲み物を積んだカートはとても重いので、誤って他のCAに衝突したりしないよう、注意しながら作業をする。もちろん、制服を汚さないようにするのも鉄則だ。
「失礼いたします。お飲み物はいかがでしょうか?」
 カートを押して通路を進み、自分の担当座席のお客様へ、順に声をかける。通路側の席で俯くシルバーヘアの女性は、私と目を合わせたものの首を左右に振った。なんとなく緊張の面持ちだ。
「いいえ、飲み物は大丈夫です」
 こうしてサービスをお断りされるお客様は少なくない。お客様の気持ちを尊重してそのまま引き上げるのが通常の対応だけれど、この女性に関してはそのまま素通りしてはいけない気がして、極力穏やかに声をかけた。
「かしこまりました。失礼ですが、もしかして飛行機は初めてでいらっしゃいますか?」
「ええ……そうなの。危険はないとわかっていても緊張しちゃって。本当はコーヒーでも飲みたいんだけれど、おトイレが近くなっても困るから」
 女性がそう言って、後方にふたつあるラバトリーの扉にちらっと目を向ける。飛行機に乗っている際、トイレに立つタイミングは確かにあらゆるお客様の悩みの種だ。コーヒーに含まれるカフェインに、利尿作用があるのも気がかりなのだろう。
 しかし、長時間姿勢を変えない機内で水分を我慢するのはエコノミークラス症候群の原因にもなるし、温かいコーヒーは緊張を和らげる意味でも役に立つ。
 我慢する以外の方法を提案したくて、私は再度女性にドリンクメニューを差し出し、一番下の飲み物を手のひらで示す。
「でしたら、カフェインレスのコーヒーはいかがでしょうか。香りと味はそのままですが、カフェインが少ないので、通常のコーヒーよりお体への影響も少ないです」
「カフェインレス……今はそんなものもあるのね。じゃあ、お願いしようかしら」
 女性の表情が和らいだ。私は微笑んで「かしこまりました」と頷き、もうひとつの提案をする。
「化粧室の混雑がご心配でしたら、空いているタイミングで私の方からお声がけしましょうか」
「まぁ、それはありたがいわ。何度もおトイレの方を振り返って確認するのも恥ずかしいと思っていたの」
「かしこまりました。それでは、後ほどまたお声がけさせていただきますね」
 女性とのやり取りを終え、通常のドリンクサービスに戻る。なにか困りごとを抱えていそうなお客様がいれば、その都度声をかけ、心を通わせる。
 保安要員としてのCAは、マニュアル通り迅速かつ正確に動くことが求められるけれど、接客面においては自由度が高いのも、実はこの仕事の特徴だ。
 相手にするお客様は一人ひとりが心を持った人間だという意識を常に忘れず、状況に応じて自分が思う最善の接客をする。訓練生時代に教わったその心がけを胸に、日々奮闘している。答えがないから難しいけれど、その分やりがいがある。
「見てママ! 僕が乗ってる飛行機とおんなじ!」
 ドリンクサービスの後、子連れのお客様にはおもちゃやグッズを配布するサービスもしている。朱雀エアウェイズの旅客機をモデルにした白と赤の飛行機のおもちゃを渡すと、四歳くらいの男の子は目をキラキラさせて母親に自慢した。
「ホント、かっこいいわね。お姉さんにちゃんとお礼を言って」
「お姉さん、ありがとう!」
「どういたしまして。ひとりでちゃんと椅子に座れて、とてもカッコいいね」
 ほとんど座席から動けない飛行機の旅は、小さな子にとっては退屈。どうしても飽きて動きたくなったり、大声でしゃべってみたくなったりして、横で親御さんが申し訳なさそうにしているシーンにもよく出くわす。
 しかしそんな時、私たちCAからからお子様に声をかけると、意外としゃんとしてくれる。
 目の前でおもちゃに興奮していた男の子も、褒められたからにはしっかりしなくてはと思ったのか、ぴっと背筋を伸ばしてシートに座り直した。わかりやすくてかわいい行動に、私は隣のお母さんと目を合わせて微笑んだ。
 お客様との一期一会の出会いの中で、こうしてふと同じ温かな空気を共有できる時が、CAの仕事をしていて一番幸せな瞬間といえるかもしれない。
 ひと通りのサービスを終えてギャレーの備品を整理していると、スピーカーからアナウンスが聞こえてくる。
『ご搭乗の皆様、こんにちは。操縦室よりご案内いたします、副操縦士の加路と申します。本日は朱雀エアウェイズをご利用いただき誠にありがとうございます』
 あまり抑揚のない、落ち着いた低めの声。彼が名乗るより先に加路さんのアナウンスだと気づいて、にわかに鼓動が乱れた。今だけ、機長と操縦を交代しているようだ。
『那覇空港への到着は午前十時五十分前後を予定しております。到着地の天気は曇り。気温は摂氏二十七度。上空で気流の乱れが観測されており、少々機体が揺れる見込みです。着陸には問題ございませんが、お座席でのシートベルト着用にご協力をお願いいたします』
 これまで加路さんを含めあらゆるパイロットのアナウンスを聞いてきたし、取り立てて特別な内容というわけでもない。それなのに今日だけ彼の声がやけに色っぽく聞こえてしまうのは、あの夜に耳元で嫌と言うほど聞いたから……だよね。
 忘れようと決めたはずが、仕事中にまで思い出しているようでは、未蘭ちゃんとそう変わらない。思わずため息をついたその時、ギャレーと客室とを隔てるカーテンがシャッと開閉された。
「あ、いた~、都さん」
 今まさに脳裏に浮かんでいた後輩の声に、ぎくりと肩が跳ねる。すぐにCAとしてのスイッチを入れ直し、彼女に歩み寄った。
「どうしたの? なにかあった?」
「いえ、客室は極めて平和です。ただ、都さんにはひと言断っておこうかなって」
「断る……? なにを?」
 目を瞬かせながら尋ねると、未蘭ちゃんはニコッと微笑んだ。
「私、今日の仕事を終えて羽田に戻ったら、本気で加路さんのこと誘うつもりなんです。だから、邪魔しないでくださいね?」
 ……なんだ、そんなこと。いちいち私に断る必要はない。頭の中では冷静にそう思えるのに、どうしてか胸が詰まった。自分を落ち着かせるために深く息を吸うものの、それでもまだ苦しい。不快感から、つい態度が刺々しくなった。
「風早さん。それは、仕事中にギャレーに来てまで伝えることではないでしょう。私生活のことは好きにすればいいけれど、それを職場に持ち込まないでください。早く客室に戻って」
 ここはお客様からは見えないのだから、いつものように未蘭ちゃんと呼びかけても問題はなかった。なのにそうしなかった理由は、自分でもわからない。
「はぁーい。じゃ、遠慮なく好きにしますね」
 私の許可を得て満足したのか、未蘭ちゃんは軽い足取りでギャレーから出ていく。平常心を取り戻して目の前の仕事を再開した頃には、加路さんのアナウンスも終わっていた。

 今日のフライトは羽田と那覇を往復する二便だけだったけれど、午後三時前に羽田に帰った頃には疲労がたまっていた。肉体的にというより、精神的に疲れた気がする。
 往復便どちらのフライトにも大きなトラブルはなかったし、個人的なミスもしていないのに、どうしてか気が重いのだ。
 オフィスで今日のフライトを振り返るデブリーフィングを終えた後は、まっすぐ更衣室へ向かった。私服に着替えてスカーフや制服の締めつけから解放されると、久々に呼吸が楽になる。
 ターミナルのカフェでコーヒーでも飲んでから帰ろうかな……。自分の機嫌を取るためにそんなことを思い、ロッカーを閉めて更衣室から出ようとしたその時だ。
「もー、マジでつまんない。仕事の後まで勉強するなんて真面目すぎ」
 ギャレーで宣戦布告じみたことをされてから、ずっと私の心をチクチクと刺激している未蘭ちゃんの声がして、ぎくりとした。私の方が先輩だしなにも悪いことをしていないのに、気配を殺してしまう。彼女のロッカーは少し離れた場所だから、このまま気づかれずにやり過ごしたい。
「それは加路さんだけでなく、パイロットならみんなじゃない? というか、CAの先輩方だってけっこう勉強してるし、未蘭が不真面目すぎなんじゃ……?」
 朝も未蘭ちゃんと一緒にいた後輩CAの声もする。加路さんの名前が出たので、ますます心が乱された。しかし、未蘭ちゃんの愚痴っぽい口調から察するに、勉強を理由に誘いを断られたようだ。
「えー? CAなんて、職業名を口にしただけで自分の価値を上げてくれるブランドの一種でしょ? 合コンとか婚活パーティーでハイスペックな男性を手に入れるための」
「まぁ、確かに男性からの人気が高い職業とは聞くけど……あからさまにそういう態度でいると、またみどりさんとか都さんに目をつけられちゃうんじゃない?」
「目をつけられるくらい平気。極論、いい男捕まえた方が勝ちだもん」
 目をつける、という表現を聞いて、彼女たちはまるで学生時代の感覚が抜けていないのだなと呆れる。私やみどりさんは、別に未蘭ちゃんが気に食わなくて苦言を呈しているわけではない。
 一流の航空会社朱雀エアウェイズの顔ともいえる客室乗務員の一員として、それにふさわしい行動、仕事への向き合い方を、どうにか彼女にも身に着けてほしいと願っているからこそ、あれこれ注意するのだ。もちろん、嫌われるのを承知で。
 でもこの様子では、当の本人にはまったく伝わっていないみたい……。
「あーあ、暇になったしカラオケでも行く?」
「ゴメン。このタイミングで超言いづらいけど、私も帰って勉強するから」
「うわ、ここにも真面目人間がいた。付き合い悪い人ばっかでつまんな~い」
 彼女たちが立て続けにロッカーを閉める音がして、キャリーケースを転がす音と共に更衣室を出ていく。室内が静かになると、ふう、とため息をついた。
 今日はなんだか気が滅入ることばかりだ。やっぱりコーヒーを飲まないとやってられない。ついでに甘いものでも食べちゃおうっと。

 私たち朱雀エアウェイズのオフィスがあるのは、羽田空港第二ターミナルに併設したビル。オフィスを出ると一般客も利用する旅客ターミナルに移動して、ショップやレストランが並ぶエリアに店を構える純喫茶『鷹揚』を目指した。
 レンガ調の外壁が目印の店に着くと、店頭のショーケースの前で、しばし足を止める。
中には昔ながらの食品サンプルが並んでいて、ナポリタンやサンドイッチ、オムライスなどの軽食のほか、プリンアラモードに分厚いホットケーキ、コーヒーゼリーにパフェなど、スイーツのメニューも豊富だ。中でも、ホイップクリームが高く盛られたチョコバナナパフェの見た目にそそられる。
「美味しそう……だけど太るかな」
 悩んだまま店に入り、ひとりだと告げるとカウンター席を案内された。
 店員の前で堂々とチョコレートパフェを食べる勇気は私にはなく、ブレンドと、シンプルな卵プリンを注文した。先に運ばれてきたお冷に口をつけ、店内に流れているジャズピアノのBGMをなんとなしに聞く。
 たまにはこうやって頭を空っぽにする時間も必要よね……。
 フライト中とは真逆のゆったりした空気に身を任せ、軽く目を閉じたその時。
「お待たせしました、チョコレートパフェでございます」
 すぐそばで店員の声がして、えっ、と思う。
 私、頼んでないよね……? 思わず目を開けると、店員が巨大なパフェを提供していた相手は、空席を挟んで隣いにる男性だった。
 ああ、私じゃなくて隣の人か……。
 店員の背中と重なって姿は見えないが、男性が読んでいたらしい本をカウンターに伏せるのが見えた。本のタイトルは、『フルカラー 航空気象のすべて』。もしかしたら、私と近い職種の人かもしれない。もしくは、趣味で空港に訪れる飛行機マニアの人とか。
「ありがとうございます」
 ……ん?
 店員にお礼を伝えるその声は、聞き覚えのある……というか、むしろ最近耳にしたばかりの人物の声と一致している。今朝のブリーフィング、そして、那覇へ向かう途中の機内アナウンスでも、私は彼の声を聞いた。
 カウンターにチョコレートパフェを置いた店員がスッと彼のもとを離れると、やはりその人は紛れもなく、副操縦士の加路さんだった。私の視線に気づく様子もなく、スラックスのポケットからスマホを取り出し、パフェを写真に収めている。
「加路さん……」
 思わずその名を呟くと、彼がスマホの操作をやめて振り向く。私の存在に今気づいた様子で、驚いたように目を丸くした。
「小石川さん。偶然だな。隣にいたとは気づかなかった」

 


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