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一途な副操縦士のあまい独占欲 男運のないCA、思いがけず運命の愛に出会う 1

第一話

 

「ご搭乗、まことにありがとう……ごじゃましたぁ」
 自分の口から出た、ふにゃふにゃの寝言で目が覚めた。
 どうやら仕事の夢を見ていたらしい。ゆっくり瞬きをすると、見慣れたはずの自分の部屋がなんとなくいつもと違う気がして、あれっと思う。
 昨日着ていた服一式が、下着まで全部床に落ちている。部屋の入り口からベッドまでを目指す足跡のように一枚ずつ。しかも、自分のものではない服まで交じっているような……私、昨夜なにしてたんだっけ。
 寝起きと二日酔いとでぼんやりした思考のまま、ごろんと寝返りを打つ。すると、私の隣で男性がすやすやと眠っていた。本来、ただの同僚であるはずの相手だ。
「えっ……」
 嫌な予感がして、そうっと布団をめくる。案の定、私も彼もなにも身に着けていなかった。
 そうだ。私、職場の飲み会で飲みすぎて彼にタクシーで送ってもらって、それから……。
 昨夜のめくるめく甘い時間が頭の中を駆け巡り、全身が熱を帯びる。
 どうしてこうなったんだっけ……?
 のっそり身を起こした私は、寝顔すらも男前な彼――加路直純を見下ろしながら、一つひとつ昨夜の記憶を辿り始めた。

* * *

 その飲み会は、勤務先の羽田空港からそう遠くないビルの地下にあるお洒落なエスニックレストランで開催されていた。スパイシーなエスニック料理を楽しめるのが自慢の店で、一般的なアルコール類のほか、タイビールやパクチーを使ったカクテルなど珍しい飲み物も提供している。
 東南アジアの島をイメージしているらしい店内にはあちこちに鮮やかな緑の観葉植物が配され、ラタン素材のソファや椅子、流木を使ったオブジェなどがリゾート風だ。
 メインフロアにはカーテンで仕切られた半個室が並び、奥に広めの個室がある。私たち『朱雀エアウェイズ』一行は、そこに十数名で集まっていた。
 朱雀エアウェイズは国内有数の大手航空会社。保有する旅客機には伝説上の鳥、朱雀が羽を広げた姿が赤い色でプリントされている。
 今日はその旅客機でフライトを共にするパイロットと客室乗務員が、親交を深めようという会だった。
 乾杯の後、同僚たちは和気あいあいと談笑を始めたれど、私、小石川都はそんな気分ではなかった。隅っこの席で小さな瓶から手酌でお猪口に冷酒を注ぎ、ぐいっと呷る。せっかくエスニックの店に来ているのに日本酒を選んだのは、個人的に一番手っ取り早く酔えるからだ。ブルーのシャツにベージュのパンツというファッションも相まって女らしさの欠片もないが、別に構わない。
 ひたすら飲むことおよそ三十分。体が温まって気持ちよく酔えてきたところで、隣に座る先輩CAに向け、胸の内に溜め込んでいた感情を爆発させた。
「その見た目で処女とか萎える……って、どういう意味ですか? 私、そんなに遊んでそうに見えますか? 心も体もピュアッピュアでなにが悪いんでしょう?」
 完全にたちの悪い酔い方をしていると自覚があるものの、愚痴が止められない。そんな私の肩を、先輩の笹久保みどりさんがポンポン叩いてくれる。
 みどりさんはすっきりした黒髪ショートヘアとクールな吊り目がトレードマーク。三十二歳の中堅CAである彼女は、客室全体をとりまとめる責任者、チーフパーサーでもある。
 新人の頃はそのきつい指導に『鬼……』と言いたくもなったけれど、今年で二十五歳、CA五年目を迎えた私にとっては、その厳しさを含めて尊敬している憧れの存在だ。プライベートでも姉御肌な性格の彼女に、ついこうして頼ってしまう。
「小石川さんが悪いんじゃないと思うけど……あなた、どうも変な男を寄せ付けちゃうみたいね」
「変な男っていっても、みんな最初は誠実風なんですよ。今回の彼だってフライトの間に口説いたりはせず、降りる時に名刺を渡してきたんです。勤め先も老舗の中堅メーカーだったから真面目な人だと信じてたんですけど」
 幸い、交際期間はほんの二カ月で、深い信頼を築くのはこれからというところだった。そんな関係を一歩前に進めるためにも、初めてベッドに誘われたタイミングで、正直に自分の経験値を告白したのだ。
『私、初めてなの……』――と。
「その彼が、処女は嫌だって言ったのね。最初からそういう男だって見抜けなかったの?」
「……少なくとも私は気づかなかったです」
「じゃあやっぱり、小石川さんに見る目がないってことになるのかしらねぇ」
「男を見る目ってどこで正常に治せますか? 眼科ですか? このポンコツな目をどうにかしてくれるセミナーがあるなら通います! 月謝が高くても惜しみません!」
「早くも面倒くさい酔っ払いになってきたわね……。ちょっと誰か、この子の相手をお願い」
 みどりさんが手を上げ、他の同僚たちに呼びかける。信頼できるみどりさんだからこそ相談したのに、なんと薄情な仕打ちだろう。
「話はまだ終わってません。歴代彼氏に共通している傾向について、みどりさんの見解をぜひとも……!」
「ちょっと、服を引っ張るのはやめなさい」
 みどりさんが本気で迷惑そうなオーラを纏い始めたその時、私たちのそばにひとりの同僚がやってきた。彼を見上げたみどりさんが、〝助かった〟という顔をして立ち上がる。
「加路くん、もしかして小石川さんの面倒見にきてくれたの? ありがとう~! さすがは朱雀期待の副操縦士。じゃ、よろしくね」
 みどりさんが風のようにいなくなると、空いた席に副操縦士の加路さんが腰かけた。
 彼とは何度かフライトを共にしているので元々美形だとは知っていたけれど、近くで見ると本当にカッコいい。直線的で凛々しい眉に精悍な印象の目元、綺麗な鼻筋、引き締まったフェイスラインなど、どのパーツにもイケメン要素しかなくてつい視線を奪われる。
 乗務の時はきっちり撫でつけられている短い黒髪が、今日は無造作に散らしてあるのもお洒落だ。
「飲み物は足りてる?」
 テーブルをちらっと見た彼にそう聞かれ、恐縮して「だ、大丈夫です」と答える。
 加路さんは、朱雀の自社養成パイロットの中でも特別優秀な成績を修めて副操縦士になったエリートだと聞いている。入社歴も、フライト中の上下関係からいっても気を遣うべきは私の方なのに、酔っているせいで先を越されてしまった。
「加路さんは……ハイボールですね。頼みますか?」
「いや、さっき新しいものが届いたばかりだから大丈夫」
 加路さんがジョッキ型のグラスを掲げると、なみなみ入ったハイボールが揺れる。
 慌てていたせいでちゃんと確認せずに空回りしてしまった……。
 会話はそこで途切れ、気まずい時間が流れる。
「えーっ。速水さん今月国際線が続くんですか? 私、まだ国内線しか乗らせてもらえないから、会えないじゃないですか~」
 ふいに、後輩CAの聞き慣れた猫なで声が耳に入ってきた。昨年入社したばかりの風早未蘭ちゃんだ。
 未蘭ちゃんは入社直後の自己紹介で『パイロットのお嫁さんになるためにCAになりました』と豪語した大型(?)新人で、言葉通り仕事には熱意がなく、すぐにサボろうとする問題児。そのくせ髪は毎日のように時間をかけて夜会巻きにしていて、それほどまでにパイロットの気を引きたいのだという情熱だけはすごい。
「そうだねぇ。残念ながら会えないねぇ」
 彼女のターゲットにされているパイロットが、適当な調子で返事をするのが聞こえた。
 彼は加路さんと同期の副操縦士、速水空也さん。緩いパーマのミディアムヘアをオールバックにしていて、人懐っこい目元や常に微笑みを浮かべた口元、そして中身も含め根っからの人たらし。今日の飲み会を企画したのも彼だ。
 それに対し、同じ副操縦士でも、加路さんは少し取っつきにくい印象だ。笑顔はあまり見たことがなく、真面目で硬派な印象なのでこうした席ではなにを話せばいいかわからない。
 沈黙を埋めるように手元のお猪口でぐびっと冷酒を口の中に流し込むと、彼の澄んだ瞳がこちらに向けられる。
「笹久保さんとの話がちょっとだけ聞こえたけど……彼氏と、別れたの?」
「えっ?」
 彼の方からその話題を振ってくるとは意外だ。
 容姿も中身もハイスペックな彼には社内でもファンが多いけれど、浮いた噂は聞いたことがない。何人かアプローチしたCAはいても、ひとりも彼を落とせた者はいないそうだから、恋愛自体に興味がない人なんだと思っていた。みどりさんに私の世話を頼まれた手前、義務的に聞いているだけかな。
「あ、言いたくなかったら別に……」
 そう遠慮がちに言われると、逆に話したい気持ちがむくむくと湧いてくる。
 この際、愚痴を聞いてくれれば誰でもいいか。
 失恋の痛みと、大量摂取したアルコールの勢いとで、私の判断能力はだいぶ鈍っていた。
「……別れました。というか、フラれました」
 白状してへらっと笑ったら、加路さんが気の毒そうに凛々しい眉を下げる。
「原因とか、聞いても大丈夫?」
「たぶん、私が、身も心もピュアピュアだからです」
 加路さんはきょとんとして目を瞬かせると、腕組みをして難しい顔になった。
 独り言のように「ピュアピュア……」と呟いて、もう一度私を見る。
「俺って察しが悪い方だから、もう少しわかりやすい言葉だと助かるんだけど」
「……もしかして今、ピュアピュアの意味を考えてました?」
「ああ」
 失恋した私よりよっぽどシリアスな顔で、加路さんが頷いた。飲んだくれの適当発言をそんなに真面目に受け取られるとは思わず、逆に慌ててしまう。
「す、すみません。その、私って容姿のせいか派手に見られることが多くて、それなのに実のところ経験がないので、相手にがっかりされて終わるっていう……笑い話です、あはは」
 私は身長一六五センチと女性にしては背が高い方で、体型も割とメリハリがある。顔立ちは派手で、目や口が大きいせいか、初対面では怖い印象を持たれたりもする。
 しかし、それ以上に悩んでいるのは、この容姿のせいで男性から〝遊んでいそうだ〟と思われてしまうこと。
 学生時代はあらぬ噂や嫉妬の対象になって困ったし、大人になってそれが落ち着いたかと思えば、見た目だけで勝手に尻軽な女だと思われた。遊び目的で近づいてきた男性たちが、実際は経験値の低い私に軒並み落胆して去っていく。
 初めは男性も下心を匂わせないので、誠実なアプローチにこちらも心を許し、きちんと恋愛しようと相手に向き合う。それなのに、いざベッドでぎこちない反応を見せると、それまでの甘言蜜語はなんだったろうと思うほどに手のひらを返されるのだ。
 今回別れた相手とも、まったく同じパターンだった。社会人になってから三人連続で失敗しているので、みどりさんも私の見る目のなさを指摘したのだろう。
「なるほど。ピュアイコール処女、という意味だったのか」
「……そこ、わざとぼかしたんですけど」
 思わず突っ込んでしまった。加路さんって天然?
 私が苦笑すると、彼はばつが悪そうな顔になる。
「ごめん。さっきも言ったけど俺はどうも察しが悪いみたいで……」
 大きな体を丸めて申し訳なさそうにする加路さんに、思わずふふっと笑いが漏れてしまった。不器用なのかな。悪い人ではないみたいだけれど。
「いえ。私が回りくどい言い方したのがよくなかったです。ちなみに、私からも質問いいですか?」
「ああ。もちろん」
 加路さんはどうやら私が想像していた以上に真面目な人のよう。そんな彼だからこそ、聞いてみたいことがある。私は瓶から日本酒を追加し、その横で加路さんも、自分が飲んでいたハイボールに口をつける。
「男の人って、やっぱりCAにエッチな幻想を抱いてるんですか?」
 加路さんが「げほっ」と盛大に噎せた。表情は変わらないけれど、耳の方まで薄っすら赤くなっている。お酒の席だからいいかと思ったけれど、ちょっと直球すぎた……?
『セクハラ発言はやめたまえ』とか怒られたらどうしよう、先に謝っておく?
「……他の男は知らないけど、俺は」
 ボソッと加路さんが話し出したので、顔を上げる。目が合った彼の表情に怒っている様子はなく、ホッとしながら言葉の続きを待つ。
「抱いてるかも、幻想。……小石川さんにだけ」
「えっ?」
 急に何を言い出すの……?
 戸惑いながらも、ドキッと心臓が跳ねる。
 彼も結構酔っているのだろうか。頬がほんのり赤らんだままだし、少し充血した目が色っぽく潤んでいる。目を逸らした先には、ハイボールのグラスを掴むごつごつした彼の指先があって、それもまたセクシーで……って。私はどうして同僚のパイロットを邪な目で見ているんだろう。なにも知らない処女のくせに。
「か、加路さんがそんな冗談を言う人だとは思いませんでしたよ。真面目だと思ってたのでちょっとショックだな~」
 動揺を悟られないよう、へらりと笑う。それでこの微妙な空気を乗り切ろうとしたのに、当の本人は真面目な顔でジッと私の瞳を覗いてくる。
「……冗談じゃないけど」
 これって口説かれてる? それとも、加路さんも今までの恋人たちと同じように、私にエッチなことを期待してる?
 話の流れ的には後者のような気もするけれど、彼にはすでに私が処女であることは説明済みだから、さすがに自意識過剰……?
 どちらにしろ、勢いに流されたら危険だ。四人目の被害者を出してはいけない。
「私、お手洗いに」
 一旦この場から逃げようと決め、椅子から立ち上がろうと腰を上げる。
 しかし、思いのほかアルコールが効いていたらしい膝に力が入らず、私は立ち上がれないまま体のバランスを崩して横に倒れる。そこに加路さんがいるのはわかっていたけれど、どうにもならなかった。
 とっさに手を広げた彼に抱き留められる形で、私はその広い胸に倒れ込んでしまう。ぶつかった先の彼のシャツから清潔なシトラスの香りがして、ぶわっと顔が熱くなるとともに、心の中であわわわ、と呟く。
「す、すみません……」
 すぐにパッと離れ、ぺこぺこと平謝りする。
 加路さんも「いや……」と気まずそうにしていて、私はさっきからなにをしているんだろうと自己嫌悪に陥る。
 とりあえず逃げるようにトイレに立ったが、部屋に戻ると再び気まずい時間が訪れた。周囲で同僚たちが楽しそうに談笑する中、私たちはお酒だけをぐびぐび喉に流し込む。
 どれくらい時間が経っただろう。しばらくすると私は眠たくなってきてしまい、断続的に舟をこぎ始めていた。加路さんにトントンと肩を叩かれ、ハッと意識が戻る。
「……小石川さん、きっと飲みすぎてる。先に帰った方がいいんじゃないか?」
「そ、そう……ですね。失礼しようかな」
 これ以上パイロットである彼の前で醜態をさらし、あのCAと同じフライトは勘弁、なんて思われたら最悪だ。恋愛はダメダメでも、客室乗務員の仕事にはきちんとプライドを持って取り組んでいるし、もっと上を目指している。仕事とは関係のないところでパイロットからの信頼を失うわけにはいかない。
 会費はすでに支払ってあるし、多忙なクルーたちとの飲み会だと、誰かが先に抜けたとしてもそれを咎める人はいない。パイロットもCAも、体調の自己管理は仕事の内だからだ。
「すみません。私、お先に――」
「俺、小石川さんを送るので、先に帰ります」
 声を上げた私にかぶせるようにして、加路さんが椅子から立って宣言した。みんなの注目が一斉に集まり、思わず肩をすくめる。
「あ、あの、ひとりで帰れますけど……」
「さっき立てなかったのをもう忘れたのか? どこかで転んで怪我でもしないか心配だ」
「でも……」
「甘えちゃいなさいよ、小石川さん。今日のあなた、精神的にもかなり危なっかしいもの」
 ここぞとばかりに、離れた席からみどりさんが加勢する。自分が送ることになったら面倒だとでも思っているに違いない。
「ずるーい、小石川さん。私も速水さんと抜け駆けした~い」
「また今度ね」
 相変わらずの未蘭ちゃんを、速水さんが軽くあしらっている。その態度からどうやら脈ナシだと判断したらしい彼女は、ぷうっと頬を膨らませると席を立ってこちらにやってきた。
「加路さ~ん。私も酔っちゃったみたいですぅ。小石川さんと一緒に送ってもらえたらうれしいなぁ……」
 乗り替え早っ……。
 若干引いていると、未蘭ちゃんが私に接近し小声で囁く。
「テキトーなとこで、小石川さんは消えてくださいね?」
 先輩に対して、邪魔だと言いたいらしい。別に、ふたりがどうなろうと私には関係がないから、フェードアウトすることに異論はないけれど。
「……はいはい」
 生返事をして、バッグを持つ。もう、どうにでもなれだ。
 テーブルに手をついてなんとか立ち上がると、未蘭ちゃんはすっかり加路さんにご執心の様子。加路さんの服を子どものようにきゅっと掴んで上目遣いをする彼女の姿は、辞書で【あざとい】と引いたら一番に写真が載っていそう。その計算づくの行動には、同じ女性として感心するほどだ。
 真面目な彼でもさすがにクラッときてたりして……?
 そう思いながら、加路さんの顔を見上げようとしたその時。
「風早さん、嘘をつくのは感心しない。きみはお酒を一滴も飲んでないだろう?」
 冷静に未蘭ちゃんを諭す加路さんの声が聞こえて、一瞬固まった。
 お酒を飲んでいない……? 酔いでとろんとしているまぶたを瞬かせ、彼女が座っていたテーブルに目を凝らす。
 残されていたグラスには、ノンアルコールドリンクの目印である【ALC.0%】と書かれたマドラーが刺さっていた。未蘭ちゃんが(げっ)という顔をした直後、彼女の隣に座っていた速水さんが会話に加わってくる。
「そうだ、俺にも『明日朝早いから飲めないんですぅ』って教えてくれたじゃん。明日の仕事のためにも、今夜の狩りはあきらめておいたら?」
「え~……」
 口を尖らせて渋る未蘭ちゃん。そんな彼女に音もなく歩み寄り、肩を背後からポンと叩いたのはみどりさんだ。
「あなたの相手は私がしてあげるわ、風早さん。日頃からお伝えしたいことが山ほどあったのに、最近なかなかフライトが一緒にならないから残念に思っていたの」
「わ、わぁ……光栄でぇす」
 男性に対してはグイグイいける未蘭ちゃんも、みどりさんの迫力には勝てないようだ。
 半ば強引に席に連れ戻され、みどりさんのお説教……もとい、ためになるCA講座に参加させられていた。
「……さて。俺たちは帰ろう」
 未蘭ちゃんが大人しくなったタイミングで、加路さんに声を掛けられる。流れで「はい」と返事をしてしまったが、結局一緒に帰ることになってしまい、戸惑いを隠せない。
 どうしたものかと思いつつ、とりあえずふたりで通路に出た。
「バッグ持つよ」
「いえ、自分で……」
「きみが持つのはここ。まだフラフラするんだろ?」
 半ば強引にバッグを奪われ、彼が〝ここ〟といって差し出してきたのは逞しい腕。
 そこまでしてもらうわけにはいかないと思いつつも、先ほど彼の胸に倒れ込んだ前科があるので、無理に強がることもできず、そっと掴ませてもらう。
「……すみません」
「気にしなくていい。とりあえず外に出よう。アプリでタクシー呼んだから」
 加路さんの言葉に頷き、ふたりでゆっくり通路を進む。私の歩き方が覚束ないから、加路さんもペースを合わせてくれているようでさらに申し訳ない。
 半個室が並ぶフロアに出たところで、俯きがちに歩いていたせいか、すれ違った人と軽く体がぶつかってしまった。相手は若い男性で、悪いのは酔っ払いの私なのに、ぺこぺこと頭を下げてくれる。
「す、すみません……!」
「いえ、こちらこそよく見てなくて」
 お互いに顔を上げたところで、なんとなく空気が止まる。
 男性が私の顔をジッと見つめてきて戸惑ったのもあるけれど、私も彼の顔に見覚えがあったのだ。しかし、いかんせん酔った頭は回転が悪い。ふわふわの茶髪に目が丸っこくて、なんだか、犬みたいにかわいい子だなぁ……。なんて、どうでもいい感想しか出てこない。
 加路さんからすぐに「行こう」と促されたのもあって、結局愛想笑いだけ残し、その場をやり過ごした。
「うーん……誰だったかな」
 店を出て、加路さんに掴まって地上へ出る階段を上りながら呟く。さっきぶつかった男性のことが思い出せなくてスッキリしない。
「たぶん、整備さんじゃないか? あの顔、俺も見覚えがある」
 傍らの加路さんがぽつりと呟いたところで、記憶の回路が繋がる。
「あっ、そうです! いつも一生懸命な新人くん」
 私たちクルーが乗り込む機体の整備は、朱雀エアウェイズの子会社『朱雀メカニクス』で働く航空整備士たちが担当している。
 整備というとエンジンやギア、コックピットで使用する機材などを想像するかもしれないが、客席のシートや私たちCAが機内食や飲み物を準備するギャレー、ラバトリー(化粧室)などの整備も彼らの大事な仕事。
 CAの私たちも客室整備の担当者とは顔を合わせるから、印象に残っていたのだろう。
「ありがとうございます。スッキリしました」
「どういたしまして。……俺はスッキリしないけど」
「えっ? あ、そうですよね。私のせいで楽しくお酒を飲めなかったうえ、酔っ払いの介抱させられるなんて、最悪以外の何物でもないですよね……申し訳ないです」
「そういう意味じゃないよ。……それに関してはむしろ役得だ」
 後半は加路さんの声が小さくなったけれど、私の耳には聞こえていた。思わせぶりなセリフをボソッとつけ足すのは、彼の癖だろうか。
『抱いてるかも、幻想。……小石川さんにだけ』
 ふいに、先ほど飛び出した爆弾発言を思い出す。『小石川さんにだけ』というのはいったいどういう意味なんだろう。話の流れ的に、幻想の中身は十八禁だよね……。
 もわん、と頭の中に妄想が広がる。
 ――私たちがいるのは、なぜかふたりきりのファーストクラス。パイロットの制服を纏った加路さんが、同じく制服姿の私に迫っている。
『小石川さん、きみの中へアプローチしてもいいかい?』
『ダメです加路さん、私、心の準備が……ゴーアラウンドしてください』
『もう我慢できないんだ……。I have control』
 加路さんは私の体をシートに倒し、情熱的なキスをしながらスカートの中をまさぐり――……って。
 彼の放った『幻想』のひと言だけで、私はいったいどこまで想像するつもりなんだろう。処女である私のつたない想像力じゃ、リアリティ皆無の三文官能小説にしかならない。
「小石川さん、乗って」
 気が付けば、私たちの目の前には一台のタクシーが停まっていた。変な妄想をしていたことを悟られないよう、平静を装って開いたドアから後部座席に乗り込む。続いて加路さんも隣に腰を下ろした。
 私の家に先に送ってもらうことになり、運転手にマンションの住所を告げる。
 ナビの表示を見る限り、十分ほどで到着しそうだ。
「……少し、驚いたよ」
 なにげなく車窓から外を眺めていたら、加路さんがぽつりと呟いた。振り向くと、彼がまっすぐに私を見つめている。
「普段の小石川さんからは、こんな酔い方をすると想像できなかったから」
 ああ……これは確実に軽蔑された。自業自得とはいえ、仕事上の信頼関係にまで響いたらどうしよう。小さく肩をすくめて頭を下げる。
「すみません。お恥ずかしいです……」
「それほど失恋がショックだった?」
 すぐに否定してメンタルの安定をアピールしたいところなのに、私は言葉に詰まってしまった。鉛を飲み込んだように重たい胸に手を当て、軽くさすりながら口を開く。
「……はい。元恋人に未練があるとかではなく、似たような失敗を繰り返している自分の進歩のなさとか、このままじゃ一生処女卒業できないなっていう焦りとか、失恋そのものより、自分のダメさ加減に落ち込んでるってだけなんですけどね」
 仕事なら一度の失敗を次に生かせるのに、恋愛ではそれができない。みんないったいどうやって恋人とベッドまで辿り着くのだろう。いや、辿り着くだけなら私にもできたけれど、結末はいつもバッドエンド。成功への道筋はまったく見えない。
「きみはダメなんかじゃない」
 言葉にしてさらに落ち込んでいたら、太腿の上で軽く握っていた手にそっと彼の手が重なる。顔を上げると、真剣な顔をした加路さんと視線がぶつかった。
「俺は仕事中の小石川さんしか知らないけど、一度もそんな風に感じたことはない。むしろ、いつも眩しく思ってた。だから、そんなに自分を卑下しないでほしい」
 パイロットとCAはフライトを共にする仲間とはいえ、加路さんがこんなに親身になって励ましてくれるとは思わなかった。彼の優しい言葉がじんわりと胸を温めてくれ、少しずつ、心が凪いでいく。
「ありがとうございます。みっともなく酔っ払って弱音も吐いたことですし、休み明けからまた気持ちを切り替えて頑張ります。私生活でどんなにつらいことがあっても、空の上では笑顔でいる。当たり前のことかもしれませんけど、CAとしてのポリシーなんです」
 個人的な感情ひとつで、お客さんに迷惑をかけるわけにはいかない。新人の頃はまだうまく自分を律することができない時もあったけれど、今では実践できていると思う。
 仕事に対してはそんな自信と誇りがしっかりとあるのだから、これ以上落ち込むのはやめよう。
 私はそんな思いで加路さんを見つめ、微笑みかける。彼も笑ってくれると思いきや、真剣な顔で口を開いた。
「きみの元恋人たちは見る目がないな。……こんなに素敵な女性を手放すなんて」
 太腿の上で軽く重なっていただけの彼の手が、力をこめて私の手を握る。酔っている私よりもずっと熱い体温に、どきりと胸が鳴った。戸惑いながら見つめ返した彼の目が、暗い車内で妖しくきらめいている。闇の中でも獲物を見つけられる、夜行性の猛獣みたいだ。
 これまでも意味深なセリフを口にしていたし、彼はもしかして送り狼になるつもりなのだろうか。私の残念な恋愛遍歴を聞いた上で、それでも初めての相手になろうとしてるってこと……?
 これ以上被害者を出さない方がいいだなんてさっきは思ったものの、加路さんの熱い手のひらに、体と心が疼く。失恋の痛みと、二十五歳にして処女というコンプレックスを早く脱したい焦り、それに、体の中で温まったアルコールのせいもあるだろう。
 でも、もしもこのまま流されていつもの展開だったら、立ち直れる自信がない。
 ……冷静にならなくちゃ。
 私はそっと彼の手をほどき、自分の手を胸に抱いた。
「そういう甘い言葉に騙されて、いい思いをしたことがありません。……みんなどうせ、派手な見た目のCAとちょっとエッチなことができればいいと思ってるんです。つまみ食いだけして、飽きて終わり」
 あなたもそうなんでしょ? 口には出さないが、そんな思いで苦笑する。
 加路さんは行き場のなくなった手を自分の方へ戻し、黙っていた。きっと図星だったのだ。
 傷つくことを回避できたはずなのに、瞳にうっすらと涙の膜が張る。
 泣きたくなんてないのに……情緒がぐちゃぐちゃだ。
 車内の気まずさはピークに達していたものの、幸い数分で私のマンションに到着した。とりあえず加路さんにここまでの料金を支払おうと、バッグに手を入れる。
「俺もここで降りる」
 直後、わけのわからない言葉が聞こえ、加路さんが先に電子マネーで支払いを済ませる。
呆然としていると、開いたドアから彼が先に出て行った。私も降りないわけにはいかず、彼を追うようにして車外に出る。
「あの……どうして」
 人気のない歩道。混乱しながら、大きな背中に問いかける。背後でタクシーが走り去る音が聞こえて、加路さんが振り向いた。