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契約結婚でえっちな妄想はダメですか? 御曹司は無垢な妻をみだらに愛したい 2

第二話


 鷲尾家のお屋敷が立つエリアは閑静な高級住宅街で、周囲には歴史ある邸宅があちこちに残っている。
 私が訪れたのは、そんな街で昔から愛されている老舗和菓子店の庵原屋(いおはらや)さん。
 入母屋造りの木造の店舗の前には、紺色の地に店名と家紋が白抜きで染め付けられた大きなのれんがかけられている。伝統的な雰囲気を残しつつモダンでおしゃれな店構えだ。
 カラカラと引き戸を開け中に入ると、「あ、芽衣ちゃんいらっしゃい」と声をかけられた。
 和菓子が並ぶショーケースの向こうから笑顔を向けてくれたのは、少し長めの明るい髪を後ろでハーフアップにしたたくましい印象の男性。
 庵原屋の御曹司の、庵原和春(かずはる)さんだ。
 彼は小さな頃からこの街で育ってきた悠青さんの幼馴染みでもある。
「庵原さん。こんにちは」
 私が挨拶を返すと、庵原さんは不満そうに頬を膨らませる。
「庵原さんじゃなくて、和春って呼んでっていつも言ってるのに」
 庵原さんはとても社交的でおしゃべり上手な人で、誰に対してもこんなふうに明るく話しかけてくれる。
 男らしい外見と愛嬌のある性格とのギャップで、お店に来るお客様たちから愛されていた。とくに、女性客たちに。
「今日は茶菓子を買いに?」
 彼の問いかけに「はい」とうなずきショーケースの中を見る。
 ほこりひとつなく磨き上げられたガラスの向こうには、たくさんの和菓子が並んでいた。
 定番の大福やどら焼きや羊羹。美しい上生菓子と、色とりどりの干菓子。壁際の棚にはおせんべいやおかき。
 どれもとてもおいしそうだ。
「明日の茶道体験用のお菓子がほしくて……」
 ショーケースをのぞきながらつぶやく。
「体験なら薄茶だから、干菓子?」
 庵原さんはそう言い、かわいらしい干菓子が入った箱に手を伸ばす。
「薄茶なんですけど、見た目が綺麗な上生菓子にしようと思ってるんです」
「映えは大事だもんな」
 彼の言葉に「はい。明日は女性の団体様の予定なんです」とうなずく。
「了解。女性によろこばれそうなのは、この辺かな」
 見せてくれたのは、季節の上生菓子だ。
 若葉色の練りきりの上に小さな桜の花びらをあしらった『山桜』や、一枚の花びらが風に舞う様子を表した『ひとひら』、鮮やかな黄色が目を引く『菜の花』など、食べるのがもったいないほど美しいお菓子が並んでいる。
「わぁ、綺麗ですね」
 春らしい淡い色合いに思わず口もとが緩む。
 しばらく迷ったあとで若葉色と桜色の対比が美しい『山桜』に決め、必要な数だけ包んでもらう。
「庵原屋さんのお菓子は、本当に綺麗でおいしいですよね。毎月変わる季節の上生菓子が楽しみで、お使いに来るたびわくわくしちゃいます」
 お会計を待ちながらそう言うと、庵原さんが「ははっ」と笑った。
「そんなふうに言ってもらえるとうれしいよ」
「私と同じように、庵原屋さんのお菓子を楽しみにしている人はたくさんいると思いますよ」
 笑顔で言った私を、庵原さんが見下ろす。
「俺も芽衣ちゃんが店に来てくれるのをいつも楽しみにしてるよ」
「そうなんですか?」
「かわいい芽衣ちゃんの笑顔を見るたびに癒されるしきゅんとする」
 心臓のあたりを押さえる庵原さんに、苦笑しながら口を開いた。
「庵原さんは女性のお客様の心を掴むのが上手ですよね」
 こんなふうにさらりと甘い言葉を言えるなんて、女性客たちから人気があるのも納得だ。
「もしかしてセールストークだと思ってる? 俺は本気で芽衣ちゃんを口説いてるのに」
「そうなんですね。ありがとうございます」
「ひどい、流された。少しくらいドキッとしてくれてもいいのに」
 不満そうに唇をとがらせる庵原さんは愛嬌たっぷりで、年上の男性なのになんだかかわいく思えてしまう。
「庵原さんは悠青さんと幼馴染みって聞きましたけど、ふたりともすごくモテたんでしょうね」
 ふたりは小学校から大学までずっと一緒だったそうだ。
 端整で品がある悠青さんと、明るくて親しみやすい庵原さん。幼馴染みのふたりは、学生時代からものすごく人気があったに違いない。ちなみに、同じ大学に通っていた私の兄とも面識があるそうだ。
「まぁね。自分で言うのもなんだけど、俺めちゃくちゃ女の子にモテたよ」
 素直にうなずく庵原さんに、「謙遜しないんですね」とくすくす笑う。
「だって事実だもん」
 たしかに庵原さんは長身で男前だ。その上おしゃべりも上手だし、女の子にモテないわけがない。
「それから芽衣ちゃんの兄貴の俊太(しゅんた)もモテてたよ」
「そうなんですか?」
 意外に思い目を瞬かせた。
 家にいるときの兄は、お節介で過保護で口うるさいイメージしかないから、女の子にモテる姿が想像できない。
「俺も俊太も話しかけやすいから、男女問わず友達がいっぱいいたし」
「それはたしかに」
「でも悔しいことに、そんな人気者の俺たちの十倍くらい悠青のほうがモテてた」
 不満そうに言われ、目を瞬かせる。庵原さんの十倍モテるって、とんでもないのでは。
「そ、そんなにですか?」
「歩くだけで女の子の視線を集めて、芸能人でも見るようにキャーキャー言われて。それでもあいつ涼しい顔して笑顔ひとつ見せないの。女の子たちはあんな男のどこがいいんだろうね」
 じゃあ、学生時代の悠青さんはたくさんの女の子と付き合っていたんじゃ……。
 言い寄ってくる女の子たちをはべらす悠青さんを想像していると、庵原さんが口を開く。
「あいつから、俊太の妹と結婚するって芽衣ちゃんを紹介されたときはびっくりしたよ」
「そうですよね、悠青さんと私じゃ不釣り合いですし」
 品行方正で完璧な悠青さんの結婚相手が私なんかじゃ、庵原さんが驚くのも無理はない。
「そんなことないよ。ただ俊太は妹の芽衣ちゃんを溺愛してたから、けっこうこじれたんでしょ?」
 庵原さんの問いかけにうなずく。
 兄は結婚の挨拶をしに来てくれた悠青さんに向かって『悠青と芽衣が結婚なんて絶対に許さん!』と激怒し追い返そうとした。
 私はそんな失礼な態度を取る兄に青ざめたけれど、悠青さんは臆せず説得を続け、結局根負けした兄は渋々私たちの結婚を認めてくれた。
「どんな相手でも選びたい放題の悠青が、わざわざシスコンで口うるさい俊太の妹と結婚するなんて、よっぽど芽衣ちゃんのことが好きなんだろうなって思ったよ」
「そんなことは……」
 私はただ条件とタイミングに恵まれただけだ。彼から愛されているわけじゃない。
「それに悠青は小さな頃から女の子たちに散々言い寄られてきたから、積極的な子にはうんざりしてたのかもね」
 その言葉に、女優の三枝カレンさんを思い出した。
 悠青さんはあんな綺麗で魅力的な人に好意を寄せられていたのに、よろこぶどころか迷惑そうにしていたっけ。
「悠青さんって、ものすごく理想が高そうですよね」
「まぁ、悠青の彼女は何人か知ってるけど、みんな美人ではあったね」
 その言葉を聞いて思わず落ち込む。
 悠青さんの隣に立つ女性は、綺麗で魅力的な人じゃないと釣り合わない。その上積極的な女性にうんざりしてるということは、清楚で上品で控えめなタイプが好みに違いない。
 ハードルが高すぎる……。と肩を落とす私に気付き、庵原さんが明るく笑った。
「でも、芽衣ちゃんも美人でかわいいよ」
 なぐさめてくれる庵原さんの言葉に首を横に振り前を向く。
「気を使わせてすみません。でも、これから悠青さんの好みに近づけるように頑張ります」
 悠青さんに愛される妻になるには、上品な女性を目指して努力するしかない。
 落ち込みかけた自分に活を入れるように言うと、庵原さんが「ははっ」と声を上げて笑った。
「芽衣ちゃんはそういうところが本当にかわいいよね」
 にっこりと微笑みかけられ、「励ましの言葉ありがとうございます」とお礼を言う。
「だから、お世辞じゃないのに」
 不満をもらす庵原さんにくすくす笑っていると、彼の声がふと低くなった。
「そういう笑顔もかわいいけど、困った顔も見てみたくなるね」
「困った顔?」
「ねぇ、芽衣ちゃん。本気を出して口説いてもいい?」
 それまでの冗談とは違う真剣なトーンで言われ目を瞬かせる。
「あの、庵原さん……?」
「芽衣ちゃんは本当に魅力的だと思うよ。かわいいしけなげだし一生懸命だし」
 男らしい彼から強い視線を向けられ少し戸惑う。
「悠青なんてやめて、俺にしない?」
 そう言われたと同時に、後ろから肩を抱かれた。大きな手の感触に驚いて振り返ると、そこには悠青さんが立っていた。
「ゆ、悠青さん……?」
 いつの間にやってきたんだろう。
 彼は驚く私の肩を抱いたまま、静かに庵原さんを見つめる。その視線はぞくっとするほど冷たく感じた。
「俺にしないって、どういう意味?」
 悠青さんは低い声で庵原さんにたずねる。見つめ合うふたりの間には緊張感が漂っているような気がして、どうしていいのかわからなくなる。
 私がごくりと息をのむと、庵原さんが表情を崩した。
「残念」といつものように明るい笑顔を見せる。
「せっかく芽衣ちゃんと楽しくお話ししてたのに、邪魔が入っちゃった」
 おどけた表情で言う庵原さんに、ほっとしながら息を吐き出した。
「庵原さん、そうやってからかわないでください」
「からかってないってば」
 相変わらずな庵原さんに苦笑いしてから、悠青さんを振り返る。
「悠青さん、庵原屋さんに来るなんてどうしたんですか?」
 なにか必要なお菓子があったんだろうか。連絡をくれれば私が用意するのに。
 そう思いながらたずねると、彼は「いや」と首を横に振った。
「外出から帰ったら芽衣が庵原屋に買い物に行ったって聞いて、荷物持ちをしようと思って来た」
「え、わざわざ荷物を持つために?」
 ご近所だとはいえ、多忙な彼がそんなことのために来てくれるなんて。私が驚いて目を瞬かせると、悠青さんは柔らかく微笑む。
「っていうのは口実で、川沿いの桜が綺麗だったから芽衣と一緒に見たかったんだ。少し遠回りして帰ろう」
「桜ですか……?」
「嫌?」
 彼の問いかけに頬を熱くしながら首を横に振る。
「い、嫌じゃないです。うれしいですっ」
「よかった」と笑いかけられ、心臓を撃ち抜かれる。
 今日も笑顔が尊すぎる……っ。
 胸のあたりに手を当て深呼吸をしていると、悠青さんがこちらに手を伸ばした。
 なんだろうと首をかしげる私の髪に触れ、優しく頭をなでてくれる。長い指の感触に、心臓が跳びはねた。
「あ、あの……っ」
「芽衣は本当にかわいいね」
 甘い視線を向けられ、鼓動がいつもの二倍くらいの速さになった。ときめきすぎて、寿命が縮まりそうだ。
 私が息をのんでいると、庵原さんが「悠青」とあきれた声で名前を呼ぶ。
「俺を牽制したいからって、そうやっていちゃついて見せつけるのやめてくれない?」
 その言葉に、庵原さんがこの場にいるのを思い出し頬がぶわっと熱くなった。
 動揺する私に対して、悠青さんは穏やかに微笑む。
「見せつけてるつもりはなかったけど、そう感じたなら謝るよ」
「お前、今までなににも執着しなかったくせに、芽衣ちゃんに対してだけは独占欲すごいよな」
 庵原さんの言葉に「独占欲?」と目を瞬かせる。
「嫉妬深い夫を持って、芽衣ちゃんも大変だね」
「そんなことは……」
 悠青さんが私を独占したいと思うわけがないし、嫉妬するわけもない。そう言おうとすると、悠青さんが私の肩を抱いた。
「俺はかわいい妻を大切にしているだけだよ」
「だから、そうやって見せつけんなって」
 苦い顔をする庵原さんをよそに、悠青さんは茶菓子の代金を支払い紙袋を持った。
「じゃあ、行こうか」と優しい笑顔でうながされ、頬を熱くしながらうなずく。
「庵原さん、ありがとうございました」
「はいはい。次は芽衣ちゃんひとりで来てね」
 明るい声で冗談を言う庵原さんに、悠青さんが静かに微笑む。しかしその目は笑っていなかったようで、庵原さんが渋い顔で口をつぐんだ。
 庵原屋さんを出て、悠青さんとふたりで川沿いの道へと向かう。住宅街を流れる川の両側には桜が植えられていて、枝の先にはかわいらしい花が咲いていた。
 春の日差しを受け蕾をほころばせる桜は、とても気持ちがよさそうだ。
「わぁ、綺麗……」
 思わず声を上げた私の横で、悠青さんがうなずく。
「七分咲きくらいかな。満開には少し季が早かったね」
「私はこのくらいの桜が好きです」
「そう?」
「満開の桜も綺麗ですけど、これから開く蕾を見るのもわくわくして楽しくないですか?」
 悠青さんと一緒に桜を見れたことがうれしくて、足取りが軽くなる。
 スキップしたい気持ちで振り返ると、悠青さんに笑われた。
「無邪気でかわいいね」
 その言葉に頬が熱くなる。
 しまった。思い切り浮かれてしまった。
 悠青さんが好きなのは上品な女性なのに、こんなことではしゃいでいたら子どもっぽいと思われたかも。
 私が落ち込んでいると、悠青さんがこちらに手を差し出した。私が目を瞬かせていると、そのまま手を握られた。 
 指をからめ手を繋がれ、心拍数が一気に上がる。
「ゆ、悠青さん……っ?」
 これ、いわゆる恋人繋ぎなんですけどっ!
 動揺する私を見下ろし、悠青さんは軽く首を傾けた。
「手を繋ぐの嫌?」
 嫌なわけがないです……! と心の中で絶叫しながら頭を大きく左右に振る。
「よかった」
 彼から優しい視線を向けられ、幸せで胸がいっぱいになった。
 どうしよう。悠青さんのことが、好きで好きで仕方ない。もう十年も片想いをしてきたのに、昨日よりも今日、今日よりも明日と、どんどん好きな気持ちが大きくなってる。
 ときめきがばれないように深呼吸していると、「あ、宗悠(そうゆう)先生」と声をかけられた。
 宗悠というのは、悠青さんの茶名だ。
 振り返ると、茶道教室に通う女性たちがいた。
 彼女たちはこのあたりに住む、二十代後半から三十代前半の独身女性。高級住宅街に生まれ茶道を習うだけあって、みなさんどことなく品がある。
 彼女たちは悠青さんに笑顔を見せてから、隣にいる私にも会釈をしてくれる。
「若奥様とふたりでお花見ですか?」
 彼女たちの視線が繋いだ手に向けられているのに気付き、頬が熱くなる。
 慌ててほどこうとしたけれど、悠青さんは繋ぐ手に力を込めた。私と手を繋いだまま「えぇ」と穏やかにうなずく。
「綺麗な桜を妻と一緒に見たくて」
 悠青さんの答えに、女性たちがきゃーとはしゃいだ声を上げた。
「夫婦仲良しでうらやましい」
「新婚さんですもんね」
 そんな会話を聞いているうちに、頬がじわじわと熱くなる。
 生徒さんの前でも繋いだ手を離さず、私を妻として大切に扱ってくれる悠青さんの愛情表現がうれしかった。
 彼女たちに挨拶をしてから歩きだす。
「生徒さんたちに会うとは思わなかったですね」
 息を吐きながら言うと、悠青さんは「このあたりは、昔から住んでいる顔なじみが多いからね」と教えてくれた。
 その言葉の通り、歩いているといろんな人に声をかけられた。
 生徒さんだけじゃなく、ご婦人やお年寄り。お店の軒先から「宗悠先生、これ持っていってください」と商品を渡されたりもする。
 悠青さんの人望の厚さに驚いていると、紺色の地に白の縞模様の着物を着た色っぽい女性が声をかけてきた。
 私よりも年上の大人の女性。きっと悠青さんと同い年くらいだと思う。
 彼女は綺麗な笑みを浮かべ悠青さんを見上げる。その視線には、あきらかな好意がにじんでいた。
「宗悠先生、またお店に来てくださいよ。特別なお料理とお酒をご用意しますから」
 彼女はご近所にある老舗料亭のご令嬢らしい。
 甘えた声で悠青さんにそう言ってから、ちらりと私に視線を向ける。
 目が合い私が頭を下げると、彼女は値踏みをするように足先から頭まで見つめてからにこりと笑った。
 自分のほうが格上だ。そう思っているのが伝わってきた。
 胸に小さな針が突き刺さる。その痛みを表に出さないようにこらえていると、悠青さんが「ええ、ぜひ」とうなずいた。
 悠青さん、この人のお店に行っちゃうんだ……。小さな嫉妬心が込み上げ、繋いだ手が強張る。
「本当ですか?」
 表情を明るくした女性に向かって悠青さんが「もちろん」と微笑んだ。
「妻と一緒にうかがわせていただきます。ね、芽衣」
 悠青さんは柔らかい口調で言い、私を見つめた。その優しい表情に、胸がきゅんと音をたてる。
 頬を熱くする私とは対照的に、女性は不満そうに眉をひそめた。
「では、失礼します」
 悠青さんはそう言うと、私の手を引いて歩きだす。ちらりと振り返ると、女性は私たちの後ろ姿を不愉快そうに睨んでいた。
「あの、悠青さん。いいんですか? あの方、悠青さんのことが好きだったんじゃ……」
 歩きながら耳打ちした私に、悠青さんは「いいんだよ」と優しく笑う。
「俺の妻は芽衣だ。ほかの女性に好かれたってなんの意味もない」
 きっぱりと言い切った彼の男らしさにときめきつつ、少しだけ切なくなった。
 悠青さんがわざわざ庵原屋さんにまで迎えに来てくれてうれしかったし、桜が綺麗だから遠回りをして帰ろうと提案されて胸が弾んだ。
 だけど、こうやって誘ってくれたのは、周囲の人たちに私たちの夫婦仲の良さを見せつけるためだったんだろう。
 繋いだ手を離さないのも、私に優しくしてくれるのも、仮面夫婦を演じているからだ。
 そう思うと足が少し重くなった。
「芽衣?」
 黙り込んでいると、悠青さんが私の顔をのぞきこんだ。
「どうかした?」
 その問いかけにはっとして顔を上げ、笑顔を作る。
「なんでもないです。桜が散るの、さみしいなと思っただけで」
 咄嗟に口にした言い訳に、悠青さんが甘く笑った。
「まだ満開にもなってないのに、気が早いね」
 そして、繋いだ手に力を込めてくれた。
「散ってもまた咲くから大丈夫。来年も一緒に桜を見よう」
 その言葉に胸が痛んだ。
 仮面夫婦の私たちは、あと何回一緒に桜を見ることができるんだろう。早ければ一年半後に別れがくる契約結婚。
 少しでも長く夫婦でいられるように頑張ってはいるけど、きっと十年後、二十年後、私たちが一緒にいることはないだろう。
 この貴重な時間を忘れないように、桜の美しさを目に焼き付ける。
「そういえば、来週京都に行くことになった」
「あ、春のお茶会ですか?」
 私がたずねると、悠青さんが「あぁ」とうなずいた。
「父と一緒に向こうで一泊してくるよ。お土産はなにがいい?」
「お土産なんていらないです」
 悠青さんが帰ってきてくれるなら、それだけでなにもいらない。そう思いながら首を横に振ると、悠青さんが「芽衣は欲がないね」と笑った。
 そんなことない。私はとても欲張りだ。
 結婚したばかりのときは悠青さんと一緒にいられるだけで幸せだったはずなのに、好きになればなるほど、悠青さんにも自分のことを愛してほしいと思うようになってしまった。
 女性からの好意を面倒だと思う彼に、私がこんなことを考えてると知られたら、きっと嫌われてしまうんだろうな。
 彼の綺麗な横顔を見上げながら、痛む胸をそっと押さえた。

 悠青さんが出張に行った日の夜。
 お風呂から上がった私は、濡れた髪をタオルで拭きながらリビングの床にぺたりと座る。着ているのは着古したTシャツにショートパンツ。
 ちなみにTシャツの下はノーブラだ。
 悠青さんがいるときは、上品でおしとやかな女性と思われたくて、自宅でも気を抜かないようにしてきた。
 いつもは肌の出ない長袖のパジャマの下に夜寝るとき用のブラをしているけど、やっぱりなにも着けないほうが締め付けがなくて気持ちいい。
 プシっと音をたてて開けたのは、缶に入った甘いお酒。アルコールに弱く普段はあまり飲まない私がめずらしくお酒を買ったのは、ひとりで過ごす夜が少しさみしかったから。
 桃の香りのするお酒は甘くて飲みやすかった。ジュース感覚でごくごくと喉を鳴らし、息を吐き出す。
 ひとりきりのリビングは、なぜかいつもより広く感じた。
 悠青さんがいないさみしさを紛らわすためにも、今日は普段はできないことをしよう。そう決めて、自分の部屋に行き本棚をあさる。
 取り出したのは、普段は本棚の奥に隠している雑誌。それを持ってリビングに移動した。
 数冊の雑誌をテーブルの上に広げ、ため息をつく。
「はぁー。やっぱり悠青さんはかっこいい……」
 広げたページに載っているのは、悠青さんの写真だ。
 和装で茶室の炉の前に座る姿や、緑が綺麗な露地を歩く姿。スーツ姿でインタビューを受けているものもある。
 これは私の宝物だ。
 悠青さんが取材を受けた雑誌をこつこつ買い集め、彼がいないときに広げて目と心の保養にするのが私の密かな楽しみだった。
「こんなにかっこいい人が私の旦那様だなんて、夢を見てるみたい」
 雑誌を眺めながらそうつぶやく。
 夫婦になって五カ月。毎日顔を合わせているのに未だにこんなにときめいてしまうのは、彼の外見だけではなく、その気品や知性や立ち居振る舞い、そして人への気遣いまで、すべてが魅力的だからだと思う。
 かっこよくてストイックで性格もいいなんて、もはや存在自体が罪深い……。
 そう思いながらページをめくっていると、悠青さんの横顔の写真で手が止まった。
 悠青さんは凛とした表情で茶室の床の間にかけられた掛け軸を見つめていた。そこに書いてある言葉は『和敬清寂』。
 調和の心を持って敬い合い、心身を清らかに何事にも動じない心でそこに在る、という千利休が説いた茶道の心得だ。
 それは悠青さんにぴったりの言葉だと思う。
 彼が茶室に入るだけで、水を打ったようにその場の空気がしんと静まり流れる空気が清浄になる。美しい所作のひとつひとつから、敬意やおもてなしの気持ちが伝わってくる。
 悠青さんは和敬清寂の言葉を体現するような、落ち着きと気品のある素敵な人だ。
 それにひきかえ私は、心清らかどころか煩悩だらけで情けなくなる。
「悠青さんに会いたいなぁ……」
 こうやって彼の写真を見ていると余計にさみしくなってきた。
 缶のお酒を半分しか飲んでないのに、酔いが回ったのか頭がふわふわする。
「悠青さんは今頃たくさんの人に囲まれているんだろうなぁ」
 そうつぶやきながらテーブルに頬杖をついた。
 京都で行われている様々な茶道の流派が集まる春のお茶会。その参加者の中には、女性もいるだろう。
 鷲尾流の御曹司である悠青さんはたくさんのメディアに取り上げられている、茶道界でも注目される人物だ。
 彼とお近づきになりたいと思う人は大勢いるに違いない。
 その中に、悠青さんの理想にぴったりの清楚で上品な女性がいたらどうしよう。
 運命的な出会いをして、好きな人ができたから契約結婚はおしまいにしようと言われたら……。
 そんな想像をすると、胸がぎゅっと痛んだ。
 こんなに不安になってしまうのは、悠青さんと私はいつ別れがきてもおかしくない仮面夫婦だからだ。
 悠青さんは恋愛や結婚が面倒で、条件に合った私を妻に選んだだけ。彼に好きな人ができたら、期限の二年を待たずにこの生活は終わるかもしれない。
 そう思うと、どうしようもなくさみしくなった。
 そんな気持ちを紛らわすように、悠青さんが載った雑誌を胸に抱きしめる。
 そのまま床に転がると、ふわふわと体が浮くような感覚がして眠気が襲ってきた。
「……悠青さん」
 大好きな人の名前を呼ぶだけで切なくなる。
 私が自分の旦那様に叶わない恋をしていることは、誰にも知られちゃいけない。
 悠青さんが私を妻に選んだのは、私が彼に恋愛感情を抱いていないと思っているからだ。
『本当は十年前から大好きでした』と素直な気持ちを伝えたら、誠実な悠青さんはきっと『その想いには応えられない』と私に別れを告げるだろう。
 悠青さんと一緒にいたいなら、この気持ちは隠し通さないといけないんだ。
 夫婦なのに、一生片想いだ。そう思うだけで涙が込み上げてくる。
「悠青さん、大好き」
 床に寝ころんだまま、素直な気持ちを声に出す。
 せめて夢の中でもいいから、好きだって伝えられたらいいのに。


 俺は幼い頃から要領がよく、相手が自分になにを求めているのかがわかった。
 どういう立ち回りをすれば周囲の人たちがよろこぶのかを考え行動しているうちに、品行方正な優等生と褒められるようになった。
 大抵のことは人よりうまくできたし、ほしいものは簡単に手に入る。
 それは人間関係も同じで、友人に恵まれ恋人がほしいと望まなくてもたくさんの女性が寄ってきた。
 学生時代はそれなりに恋愛をして、付き合った相手には優しくしていたつもりだけど、彼女たちから向けられる気持ちの大きさに釣り合うだけの愛情を抱くことはできなかった。
 表面上は仲睦まじい恋人として振る舞いながらも、心の中はいつも冷静で冷めていた。そんな俺の気持ちが伝わってしまうのか、交際が長続きしたことはない。
『好きです』と言われ付き合い、『愛情を感じない』と泣きながら別れを告げられる。俺が恋人と別れたという噂が流れれば、またすぐに女性たちが寄ってくる。
 そんな上辺だけの恋愛を繰り返してきた俺は、人を本気で好きになったことも、誰かに執着することもなかった。
 たぶん俺は一生、ひとりの女性に愛情を注ぐことなんてないんだろうと思っていた。

「こんな立派な後嗣がいるなんて、鷲尾流も安泰ですね」
「悠青さんのあちこちでのご活躍、いつも拝見していますよ」
 京都で行われた茶会のあとで歓談していると、参加者たちから声をかけられた。
 一緒に茶会に参加した父が、俺の隣でうれしそうに目を細める。
「ありがとうございます。ようやく息子も身を固めてくれて、親としても一安心です」
「そうそう。ご結婚されたんですよね。いやぁ、ぜひうちの姪っ子を悠青くんの結婚相手にと思っていたんですが」
「うちの娘も、悠青さんがかっこいいといつも騒いでいたんですよ」
 独身だったときは、茶事や行事にかこつけてあちこちから縁談を持ち込まれた。鷲尾流の次期家元の妻の座は、それだけ魅力的なんだろう。
 積み重ねられた釣書や見合い写真を開くのも、ひとつひとつに断りの言葉を考えるのも、気が重くなる作業だった。
 けれど今はその面倒から解放された。芽衣と結婚したからだ。
 今でも女性から声をかけられることはあるが、『妻がいるので』と言えば相手は諦めてくれる。
 既婚者という肩書きはとても便利だ。芽衣との契約結婚は正解だったなと思う。
 山のような縁談に頭を悩ませることはなくなったし、好きでもない女性に付きまとわれ煩わされることもなくなった。
 すべて、想定通りだった。
 ――ただ、ひとつをのぞいては。
 そんなことを考えていると、「悠青」と声をかけられた。
 振り返ると俊太の姿が見えた。彼は大学時代からの友人で、芽衣の兄だ。
「お前も来てたのか」
 俺の言葉に俊太は「あぁ。俺も一応茶農園の跡取りだからな」とうなずく。
「それにしても悠青は、相変わらずだな」
「相変わらず?」
「どこにいても注目される。とくに女から」
 話をする俺と俊太のことを、数人の女性たちが見つめていた。話しかけるタイミングをうかがっているのかもしれない。
 彼女たちからの視線を感じながら、「そうかな。気付かなかった」と穏やかに笑う。
「嘘つけ。あんなあからさまに見つめられて気付かないわけないだろ」
「見られることには慣れてるから」
「うわ、むかつく」
 俺の答えを聞いた俊太は、鼻にしわを寄せ顔をしかめた。
「お前は昔からそうだよな。女と付き合っても別れても、淡々として執着もしないで……。そんなお前からいきなり芽衣と結婚するって言われたときは、ふざけんなと思ったし頭をかち割ってやろうかと思った」
 鼻息荒くそう言われ、「物騒だな」と苦笑いする。
 俊太は芽衣に対してとても過保護で、結婚を申し出たときはものすごい剣幕で反対された。それだけ妹が大切だったんだろう。
「いいか。芽衣は小さな頃から俺が守ってきた大切な妹なんだ。臆病で引っ込み思案で、初めての人に会うといつも不安そうな顔で俺の後ろに隠れて。小さな手できゅっと俺の服を掴む芽衣は本当にかわいかった。俺は子どもながらに、妹を泣かせる奴は絶対に許さないと心の中で誓ったんだ」
 俊太は俺に向かって芽衣への愛をとうとうと語り続ける。
「とくに芽衣の寝顔は本当に天使みたいだったなぁ。あいつは赤ちゃんの頃から眠りが深くて、ぷにぷにのほっぺたをつついてもつねってもまったく起きずにすやすや眠って。懐かしいなぁ……」
 俊太は幸せそうにつぶやくと、急に敵意むき出しの視線を俺に向けた。
「そんなかわいい芽衣が、まさか悠青と結婚するなんて……っ。結婚は渋々認めてやったけど、俺はまだお前のことを信用してないからな」
 その言葉に罪悪感が込み上げる。俺たちの結婚が純粋なものではなく、厄介ごとを避けるための契約結婚だと知ったら、俊太は怒り狂うだろう。
「芽衣を泣かせたら、許さないからな」
 俊太からの警告に、本心を隠してにこりと笑った。
「わかってるよ。芽衣のことは一生大切にする」
 芽衣の顔を思い浮かべながら言うと、胸が苦しくなった。
 俺の言葉を聞いた俊太は一応納得してくれたんだろう。大きく息を吐き出すと、「芽衣は元気にしてるか?」とたずねてきた。
「あぁ」
「たまには連絡しろって言っておいてくれ。それから一番茶の摘み取りが落ち着いた頃にでも会いに行くって」
「わかった」とうなずいて俊太と別れた。

「悠青。そろそろ宿に行くか」
 父の言葉に時間を確認する。茶会のあとに他流派の家元たちと食事をしていたけれど、解散した時間は予定よりも少し早かった。
 今頃芽衣はなにをしているだろう。自宅にいる彼女の姿を思い浮かべる。
 芽衣は毎日、仕事を終え自宅に帰った俺を、『おかえりなさい』と笑顔で迎えてくれる。
 エプロンを付けキッチンに立ち、『今日は悠青さんの好きな煮込み料理を作ってみました』なんて言いながら夕食の支度をしてくれる。
 そんなかいがいしい妻の姿が頭に浮かび、足が止まった。父が不思議そうに振り返る。
「悠青、行かないのか?」
「まだ最終の新幹線に間に合うので、一泊せずに帰ってもいいですか」
 唐突な俺の申し出に、父は首をかしげた。
「どうした。芽衣さんと離れているのがさみしくなったか」
 冗談交じりの言葉に「はい」とうなずくと、父の目が丸くなる。
「今すぐにでも、芽衣の顔が見たいので」
 俊太と話したせいか芽衣の顔が頭から離れず、少しでも早く芽衣のもとに帰りたいと思ってしまう。
 俺の言葉を聞いた父が、「ははっ」と声を上げ愉快そうに笑った。
「今まで恋愛にも結婚にも興味がなくて、言い寄ってくる女性を疎ましく思っていたはずのお前が、急に結婚相手を連れてきたときは驚いたし、もしかして面倒ごとを回避するためだけに好きでもない相手と結婚するんじゃないかと思ったんだが……」
 父の言葉に一瞬肩が動きそうになった。けれど、その動揺を表に出さないよう穏やかな表情で話の続きを聞く。
「その様子だと、お前は本当に芽衣さんを愛しているようで安心したよ」
 そう言う父に、「妻ですから、当然です」と微笑みながらうなずいた。
「そういえば、芽衣さんとは寝室を別にしているんだってな」
 いったい誰からそんな話を聞いたんだろう。驚きを悟られないよう、「なんのことでしょう」と涼しい顔で首をかしげる。
 たしかに芽衣とは寝室を別にしている。それは俺たちが仮面夫婦だからだ。
 キスもハグもしないし、抱きもしない。そう約束した俺たちが、一緒の寝室で寝る必要はない。
「芽衣さんから聞いたんだよ。悠青のことが好きすぎて、一緒のベッドだと緊張して寝られないから、仕方なく寝室を別にしているって」
「芽衣がそんなことを……」
「頬を真っ赤にしながらそう言う芽衣さんがかわいくて、母さんとふたりで笑ってしまったよ」
 芽衣はきっと口を滑らせて寝室を別にしていると話してしまったんだろう。その失言を誤魔化そうと必死になる彼女の姿が目に浮かぶ。
 両親に疑われないようにするためとはいえ『俺のことが好きすぎるから』なんて言い訳を思いつく芽衣はかわいすぎないか。
 そう思い、奥歯を噛みしめる。
 俺もその場にいて、必死に言い訳をする芽衣を見たかった。
「彼女は素直だし気遣いもできるしなによりとても前向きだ。お前は素敵な女性を妻に選んだね」
 穏やかな父の声に顔を上げると、まっすぐな視線を向けられた。
「芽衣さんを大切にするんだよ」
 その言葉に「もちろんです」とうなずきながら、同時に胸が痛んだ。
 俺は芽衣を大切にするどころか、彼女の優しさに付け込み利用している。


 一年前。俺は仕事で知り合った三枝カレンという女に付きまとわれていた。
 彼女はモデル出身の女優で、小さな頃から美人だと周囲からちやほやされて育ってきたんだろう。自信過剰で傲慢な彼女の振る舞いに辟易していた。
 その日、俺は都内のホテル内で行われた講演を終え、帰るところだった。カレンは俺の予定をどこからか聞き待ち伏せしていたようだ。
 エレベーターから降りた俺を見つけ、親しげに声をかけてくる。彼女が近づくと、強い香水の香りがした。人工的な香りに顔をしかめる。
 彼女は甘い声で俺の名前を呼び、媚びるような視線を向けた。
 腕に胸の膨らみを押しつけられる。こんな低俗な誘い方しかできない彼女に嫌悪感を覚えた。
 手を振り払い冷たくあしらおうとしたとき、エントランスにいる男がこちらにスマホのカメラを向けているのに気付く。
 それを見て、なるほどと納得した。
 彼女は知り合いに俺との写真を撮らせ、付き合っているという噂を流そうとしているんだろう。なんとしても俺を自分のものにしたい。そんな彼女の貪欲さを見せつけられてうんざりする。
 大きな声で話す彼女のせいで、周囲の目が集まっていた。
 このまま冷たく突き放せば、プライドを傷つけられたカレンは激怒して大騒ぎしかねない。
 鷲尾流の次期家元と女優の三枝カレンがホテルで言い争っていた、なんて噂をたてられるのは避けたい。
 どうすべきかと思案していると、エントランスにいる着物姿の女性が目に入った。
 彼女と目が合い、大学時代の友人の妹の芽衣だと気付く。
 芽衣は紺鼠色の小紋に朱色の帯を締め、セミロングの髪を綺麗に結い上げていた。上品な着こなしに、普段から着物を着慣れているのが伝わってくる。
 記憶の中では高校生だったのに、すっかり成長しとても綺麗になっていた。制服を着た恥ずかしがり屋の女の子ではなく、小紋の着物がよく似あう大人の女性だ。
 その姿を見ながら、彼女と初めて会ったときのことを思い出す。
 茶畑を前にした彼女はうれしそうに抹茶について教えてくれた。その表情や口調から、芽衣がお茶をとても愛していることが伝わってきた。
 その頃からずっと、かわいらしい子だなと思っていた。
 今は俊太と一緒に実家の茶農園の仕事を手伝っているはずだが、どうして東京にいるんだろう。
 俺が不思議に思っていると、芽衣はふっと目をそらした。そのまま踵を返し立ち去ろうとする姿を見て、思わず「芽衣」と名前を呼ぶ。
 驚いて足を止めた芽衣に近づきながら、心の中でちょうどいいなとつぶやいた。
 カレンの誘いを断るために、利用させてもらおう。そう思いながら、芽衣のことを抱きしめる。
「ゆ、悠青さん……?」
 俺に抱きしめられた芽衣が驚いて、華奢な肩を強張らせるのがわかった。
「悪い。ちょっとだけ話を合わせて。いい?」
 体をかがめ芽衣の耳もとでそうささやく。
 背後からカレンが近づいてくるのがわかった。
 自分を置き去りにしてほかの女性を抱きしめる俺を見て、高いプライドが傷ついたんだろう。敵対心むき出しの視線を芽衣に向ける。
「悠青さん、彼女は?」
「彼女は私の婚約者の、山久芽衣さんです」
 俺が微笑みながらそう言うと、カレンは屈辱に顔を真っ赤にし、芽衣は驚いたように目を丸くした。
 
 カレンが立ち去ったあと、動揺する芽衣に契約結婚の話を持ち掛けたのは、あちこちから持ち込まれる縁談を断る言葉を探すことに疲れ、手段を選ばす近づいてくる女性にうんざりしていたから。
 俺はもともと恋愛に夢中になるタイプではないし、愛する女性と人生を添い遂げたいと夢見たこともなかった。
 常に冷静で人に執着することのない俺は、結婚には向いていない。
 自分に好意を持ってくれる女性と夫婦になったところで、相手に対する温度差をうめられず結婚生活は数年で破綻するのが目に見える。
 うまくいかない結婚に労力を使うなんてばからしい。
 そうは思いつつ、次期家元の俺がいつまでも独身でいるのも面倒なことが多かった。
 結婚はまだかと急かす声は、この先どんどん大きくなるだろう。もちろん、言い寄ってくる女性も増えるに違いない。
 結婚するのも独身でいるのも厄介だ。
 そんな悩みを抱えていたときに偶然再会した芽衣。
 彼女は茶農園の娘で、小さな頃から茶道を習い、着付けや華道の心得もある。その上、素直で明るくて努力家で、まっすぐな性格は以前からかわいらしいなと思っていた。
 話を聞けば恋人はおらず、結婚にも興味がないという。
 多くの人にお茶の魅力を知ってもらえるように、お茶に関わる仕事をしたい。そんなささやかな夢を語る彼女は、俺が結婚相手に望む条件にすべて当てはまっていた。
「芽衣。俺と結婚しないか?」
 そう提案すると、芽衣は目を瞬かせてこちらを見上げた。
 驚く彼女に事情を説明する。
 最初は契約結婚という提案に戸惑っていたけれど、俺の苦悩を打ち明けると芽衣は真剣な表情で話を聞いてくれた。
 顔を曇らせため息をつく俺を見て、「それはなんとかしないといけませんね」と強くうなずく。
 俺は人の悩みに共感し寄り添う彼女の優しさを利用しようとしている。自分のずるさを自覚しながら、芽衣の手を取った。
 柔らかな手をぎゅっと握り、芽衣の瞳を見つめる。
「こんなことを頼めるのは、芽衣しかいないんだ。もしよかったら、俺と結婚してほしい」
 真剣な声でそう言うと、お人好しの芽衣は首を縦に振ってうなずいてくれた。


 芽衣と結婚して五カ月。
 過保護な俊太を納得させるために苦労はしたけれど、芽衣と結婚したことでそれまで俺の頭を悩ませていた面倒ごとはすべて片付いた。
 縁談が持ち込まれることはなくなったし、言い寄る女性を断るのも簡単だ。
 芽衣との結婚は成功だった。すべて想定通りだ。
 ――ただ、ひとつの大きな誤算をのぞいては。

 新幹線で東京に到着し、タクシーに乗る。自宅についたときには、すでに日付が変わっていた。
 こんな時間にわざわざ自宅に帰ってきたのは、芽衣の顔が見たかったから。
 利害のために提案した愛のない契約結婚で、唯一の誤算は俺の気持ちの変化だった。
 契約結婚とはいえ、一緒に暮らすうちに好意を持たれて面倒なことになるかもしれない。最初はそう思い少し警戒していたけれど、五カ月経っても芽衣が俺に好意を抱く気配はなかった。
 俺の仕事を献身的にサポートし明るく接してくれるけれど、どこかよそよそしくて一定の距離を置かれているのを感じる。
 優しく見つめれば思い切り顔をそらされ、不意に体が触れれば体を強張らせ慌てて距離を取ろうとする。
 ここまで女性に相手にされないのは初めてで、なぜか少し面白くない気分になった。
 もっと芽衣に俺を男だと意識してもらいたい。笑った顔が見たいし、よろこばせたい。俺と一緒にいる時間を楽しいと思ってもらいたい。
 そんなことを考えてしまう自分を不思議に思う。
 俺たちは期限付きの契約結婚で、二年後には別れる。芽衣を結婚相手に選んだのは、厄介ごとを回避するのにちょうどいい条件が揃っていたから。ただそれだけだ。
 それなのに芽衣に対してこんな気持ちを抱くなんて、まるで恋をしているみたいだ……。
 そんなことを思った瞬間、頬が熱くなった。
 妻として茶道家の俺を支え尽くしてくれるけなげさや、いつも俺に向けてくれる笑顔。小さな茶菓子に目を輝かせ、桜の花に無邪気によろこぶ。そんな愛らしい一面がありながら、お茶のことになると真剣な表情になる。
 彼女のことを知れば知るほど俺の心臓は落ち着かなくなり、胸のあたりがぎゅうっと苦しくなる。
 こんな気持ちになるのは生まれて初めてだった。
 気付けば芽衣のことを愛おしいと思うようになっていた。どうやら俺は、妻である芽衣に恋をしてしまったらしい。
 考えてみれば、初めて会ったときから芽衣は特別だった。
 お茶農園でうれしそうに抹茶について話す芽衣を見て、思わず彼女に触れたいと思った。
 表情豊かで素直な彼女がかわいくて、その後も『農園を見たい』という言い訳で俊太の実家に遊びに行き、ついでのようなふりをして芽衣にお菓子やプレゼントを渡した。
 万年筆や雑貨のようなささやかな贈り物を、芽衣は頬を紅潮させてよろこんでくれた。そんな彼女のかわいい笑顔を見ると俺までうれしくなった。
 恋愛に興味のなかった俺は、芽衣を妹のように感じているからかまいたくなるんだと思い込んでいたけれど、もしかしたらずっと前から彼女に惹かれていたのかもしれない。
 そう自覚すると、芽衣のすべてが愛おしいと感じるようになってしまった。
 抱きしめてキスをして思い切り甘やかしたい。そんな欲望を抱くようになったけれど、ふと我に返る。
 俺と芽衣は仮面夫婦だ。しかも彼女との初夜に『キスもハグもしないし無理に抱いたりしないから安心していい』と宣言し、寝室を別にしてしまった。
 今更好きだと伝えても、芽衣はきっと戸惑うだろう。それどころか、当初の話とは違うと契約結婚を破棄されてしまうかもしれない。
 妻を好きなのに、手を出せないし気持ちも伝えられない。
 彼女と一緒に過ごす日々はとても幸せな反面、大好物を前に待てをされてるような苦しい状況でもあった。

 自宅の門の前でタクシーを降り、芽衣とふたりで暮らす一軒家の鍵を開ける。
 もう芽生は寝ているかもしれない。そう思ったけれど、室内には明かりがついていた。
 この時間まで起きているなんてめずらしいと思いながら廊下を進む。
 そしてドアを開いた俺は、驚いて足を止めた。
 リビングの床で芽衣が横になっているのが見えた。
「芽衣……?」
 もしかして具合が悪くて倒れているんじゃ……?
 顔色を変えて駆け寄る。慌てて肩に触れようとして、彼女が気持ちよさそうに寝息をたてているのに気付いた。
 なんだ。寝ているだけか。
 ほっと胸をなでおろしてから、どうしてこんなところで寝ているんだと不思議に思う。
 それにこの格好……。
 俺は床で眠る彼女から目が離せなくなった。
 芽衣は普段から上品でおしとやかで、だらしないところなんて一切見せない。
 眠るときも肌の露出がほとんどない長袖のパジャマを着ているのに、今の彼女はゆるゆるのTシャツにショートパンツという無防備すぎる格好だった。
 薄いTシャツ越しにわかる、芽衣の胸の膨らみに目が釘付けになる。
 普段の着物姿の華奢な印象しかなかった芽衣だが、こんなにスタイルがいいなんて知らなかった。
 和装のときは体の凹凸がわからないよう補整するとはいえ、清楚な着物の下にこの胸を隠していたなんて反則だろ……と心の中でつぶやく。
 しかもTシャツがめくれあがり細い腰が見え、短いショートパンツからは柔らかそうな太ももどころか、お尻の丸みまでのぞきそうになっていた。
 彼女の肌の白さにごくりと喉が鳴る。
 その肌に触れたいという欲望が込み上げ、目をそらし深呼吸をした。
 落ち着け。そう自分に言い聞かせながら、あらためてリビングを見回す。
 テーブルには飲みかけのお酒の缶が置いてあった。
 どうやら彼女はひとりで飲んでいたらしい。
 芽衣はアルコールに弱いから、酔ってその場で寝てしまったんだろう。
 そしてテーブルの上や彼女の手もとに、開いた雑誌が置いてあるのに気付く。なんの雑誌だろうとのぞきこんだ俺は、驚きで動きを止めた。
 そこに載っているのは、俺の写真だった。すべて俺が取材を受けた雑誌だ。
 妻として夫である俺の記事が掲載された雑誌を読むのは不思議ではないが、それにしてもすごい量だ。
 雑誌を前に考え込んでいると、芽衣が「ん……」と吐息をもらし寝返りを打った。
 はっとして視線を彼女に向ける。
 こんな格好で床で寝かせたままにしておくわけにはいかない。体を痛めるかもしれないし、風邪をひくかもしれない。
 そう思いながら肩に触れる。
「芽衣」
 一度起こそうと声をかけると、芽衣がうっすらと目を開けた。とろんとした表情でこちらを見上げ、うれしそうに甘く笑う。
「ゆうせいさん」
 舌ったらずな声で名前を呼ばれ、胸のあたりになにかが突き刺さった気がした。
 いや、ちょっと待て。なんだその表情。かわいすぎるんだが。
 そう思いながら、なんとか冷静な表情を保つ。
「芽衣。こんなところじゃなく、ちゃんと寝室で……」
 彼女は体を起こし俺の首に手を回した。甘えるように首筋に頬ずりされ、全身の血が逆流するかと思った。
「芽衣?」
 驚いて彼女の顔を見下ろすと、芽衣は俺のことをじっと見つめる。
 寝起きのとろんとした表情も、お酒のせいでふんわりと紅潮した頬も、うっすらと開いた無防備な唇も、すべてが色っぽくて鼓動が速くなる。
「ゆうせいさん、だいすき」
 そう言われ、驚きで息をのんだ。
 芽衣から好きだと言ってもらえるなんて、夢を見ているみたいだ。
 ごくりと喉を上下させてから口を開く。
「芽衣、俺も――」
 俺も好きだと言いかけたとき、芽衣の体から力が抜けた。
 慌てて背中に手を当て体を支えると、彼女は目を閉じていた。そして穏やかな寝息が聞こえてきた。
「寝てるのか……?」
 俺の問いかけに返事はなかった。
 どうやら今のは寝言だったらしい。
 すやすやと気持ちよさそうに寝息をたてる芽衣を見て、がっくりと脱力する。
 抱きついて大好きと言うなんて、いったいどんな夢を見ているんだよ……。とため息を吐き出した。
 でも、夢の中だとはいえ好きと言うってことは、芽衣も俺に好意を持ってくれているんじゃ……。
 そんな可能性に気付き、よろこびがわき上がる。
 口もとを手で押さえながら、深呼吸をしてなんとか気持ちを落ち着かせた。
 明日の朝、芽衣に確認してみよう。どうして俺が載っている雑誌を広げて寝ていたのか、そしてどんな夢を見ていたのか。
 とりあえず芽衣をベッドに移動させよう。そう思い抱き上げるために芽衣を見下ろすと、Tシャツの襟もとから胸の谷間が見えた。
 思わず「く……っ」と声がもれる。
「ちょっと待ってくれ……」
 着古したシャツは襟まわりが大きく開いていた。そこからのぞいた胸もとを見て、彼女が下着を着けていないことに気付き天井を仰ぐ。
 すやすや眠る彼女の体を支えているだけでも理性が限界なのに、その上ノーブラだなんて。
 無防備にもほどがある。これはなにかの試練だろうか。それとも拷問かもしれない。
 そんな俺の葛藤を知らず、芽衣は寝返りをうつように腕の中で小さく身じろいだ。その瞬間、俺の手のひらに胸の膨らみが当たった。
 心地のいい弾力を感じ息をのむ。
 芽衣の胸が手に当たってる。柔らかくて温かくてやばい。
 欲望に抗えずそっと手を動かすと、胸の膨らみがふるふると震えた。
 破壊力がありすぎるその光景に奥歯を噛みしめる。
 こんなの不可抗力だろ……っ。この状況で、なにもせずに堪えられる男なんているわけがない。
 そんな言い訳を並べながら、Tシャツの上から胸の膨らみに触れゆっくりと指を動かす。
 すると芽衣の唇から「ん……」と小さな吐息がもれた。
 さすがに起きるか?
 手を止め様子を見たけれど、彼女の目は閉じたままだった。お酒を飲んでいるからか、眠りは深く起きる気配はない。
 早く目を覚ましてくれ。これ以上触れると、理性を保っていられなくなる。
 そう思いながらも、彼女の胸に触れた手は止められなかった。
 弾力を堪能するように、ゆっくりと手を動かす。
「ん……、あ……」
 もみしだくうちに胸の先端が硬くなりつんととがってきたことに気付いた。
 もしかして、胸に触れられて感じてる……?
 まるで、ここに触ってほしいと主張するようにTシャツを押し上げる胸の先端を見て、ごくりとつばをのむ。
 Tシャツ越しに硬くなった乳首をなぞると、細い腰がびくんと跳ねた。
 やっぱり。俺の愛撫に反応して、感じている。
 そう確信し、体が熱くなる。
 もっと彼女に快感を与えたくて、布越しに爪をたて敏感な先端を弾くように愛撫する。
 その指の動きに合わせ、芽衣は目を閉じたまま身をよじらせ息を乱した。

 

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