戻る

契約結婚でえっちな妄想はダメですか? 御曹司は無垢な妻をみだらに愛したい 1

第一話


「――芽衣(めい)」
 私の名前を呼ぶ甘い声で目を覚ます。
 ゆっくりとまぶたを上げると、悠青(ゆうせい)さんがこちらを見下ろしていた。
 私はどういう状況なのか理解できないまま、目の前の端整な顔に見とれてしまう。
 涼しげな目もとにすっと通った鼻筋、そして形のいい唇。品があるのに色っぽい、完璧に整った顔立ち。
 ……寝起きでこんな美しいものを見られるなんて幸せすぎる。
 そんなことを考えていると、私を見下ろす彼が優しく微笑んだ。どうやら私は悠青さんに組み敷かれているようだ。
「悠青さん、どうしたんですか……?」
 不思議に思いたずねると、悠青さんは私の耳もとに顔を近づける。
「そんなこと、言わなくてもわかるだろ。俺たちは夫婦なんだから」
 甘いささやきに、目を瞬かせる。
 たしかに私と悠青さんは夫婦だ。
 だけど、お互いに好きになって夫婦になったわけじゃない。結婚して半年が経つけれど、キスもハグもしない形式だけの仮面夫婦。
 それなのに、急にこんなふうに私を組み敷くなんて……。
 そう思っていると、彼の長い指が私のパジャマのボタンを外した。
「え、あの……っ」
 戸惑う私の首筋に、悠青さんの指が触れた。それだけで体がびくんと跳ねてしまう。
「……んっ」
 必死に声をこらえていると、彼の指は私の胸の膨らみの上をゆっくりと移動し、その頂にたどり着いた。
 下着の上から先端をなぞられた瞬間、甘い刺激が走り背中がしなる。
「んっ、あ……っ!」
 どうしよう、気持ちいい。
 こらえきれず声をもらすと、私を組み敷く悠青さんが甘く笑った。
「芽衣はここが好きだった?」
「ち、ちが……っ。ひゃ……っ」
 否定しようとした途端、彼の指先が下着の中にもぐり込む。敏感な胸の先端に直接触れられた。
「あぁ……っ!」
「かわいい。触ってほしいってねだるみたいに硬くなってるよ」
 悠青さんはつんととがったそこを、じらすように優しくなでる。甘い刺激に唇を噛んでいると、ピンっと爪先で弾かれ快感に背中が跳ねた。
「やっ、そこ……、だめ……っんん!」
 長い指で挟むようにして胸の突起を転がされ、涙目でイヤイヤと首を横に振る。
 悠青さんにこんなエッチなことをされちゃうなんて……。
 驚きと背徳感のせいで快感がさらに増し、体の奥がきゅんと音をたてとろけるように熱くなる。
「や、ゆうせいさん……っ」
 必死に声をこらえる私を、悠青さんが見下ろした。整った顔にちょっと意地悪な表情が浮かぶ。そのまなざしが色っぽくて、下腹部が甘くうずいた。
 思わず膝をすり合わせると、悠青さんが小さく笑う。
「芽衣は本当に敏感だね。少し触っただけなのに、こんなに気持ちよくなるなんて」
 笑みをこぼしながらそう言われ、慌てて首を横に振る。
「ち、ちが……っ。敏感なんかじゃありません……っ」
 恥ずかしさのあまり両手で顔を隠そうとすると、その腕を掴まれひとまとめにベッドに押しつけられた。
 悠青さんは身動きの取れない私を見下ろしながら、右手を下にすべらせる。腰骨をたどりさらに下へ。
「あ……っ、待って、そこは」
 彼がどこに触れようとしているのか気付き、心臓が跳びはねる。恥ずかしくて身をよじったけれど、無駄な抵抗だった。
 下着の上から私の脚の付け根をなぞった悠青さんは、ふっと笑みを深くする。
「敏感じゃないなら、どうしてこんなに濡れてるの?」
 その言葉を聞いて、ぶわっと頬が熱くなった。
「それは、あの……っ」
 私が言い訳を探している間にも、彼の指は下着の上から敏感な部分を優しくなでる。そのたびに、いやらしい水音が響く。 
 じらすような愛撫に体の奥がひくひくと震え、蜜があふれてくるのがわかった。
 長い指がゆっくりと前後に動き、それに合わせて腰が浮きそうになる。
「あ……、や……んっ、だめ……ぇ」
「ここ、触られるの嫌?」
 問いかけに唇を噛んでうなずきながら、もどかしさに膝をすり合わせた。
 本当はもっと強い刺激がほしい。下着越しじゃなく直接触ってもらいたい。はしたないお願いが、口をついて出そうになる。
 そんな私の気持ちを見透かすように、悠青さんが耳もとでささやいた。
「――芽衣。どうしてほしいのか、言って」
 その甘く低い問いかけに、きゅんと下腹部がうずく。
 こんなこと言ったら、嫌われる。こんないやらしい女は妻失格だと思われてしまう。そうわかっているのに、私は欲望に負けて口を開く。
「悠青さん、抱いてくださ……」

 そう言いかけて、目を覚ました。
 息を乱しながら瞬きをする。視界に入ったのは、いつも見ている寝室の天井。カーテンの隙間からわずかな光がもれていて、もう朝なんだと気付く。
 体を起こし、おそるおそる視線を横に向ける。夫婦で寝ている大きなベッドに、夫である悠青さんの姿はなかった。
 早起きの彼は、目覚めてすぐにシャワーを浴びるのが日課だった。
 朝一でシャワーを浴びると、交感神経の働きがよくなり仕事の効率が上がるからという理由らしい。ストイックで合理的な悠青さんらしい習慣だ。
 今日もすでに寝室を出て、シャワーを浴びているんだろう。
 恥ずかしい寝言を聞かれずにすんでよかったと胸をなでおろし、同時に罪悪感に襲われる。
「また悠青さんにエッチなことをされる夢を見ちゃった……っ」
 私はベッドに倒れ込み、枕に顔をうずめながら叫んだ。
 悠青さんから求婚され、夫婦になって半年。だけど悠青さんと私は一度も抱き合っていないしキスすらしていない。それは私たちの間に愛情がない仮面夫婦だからだ。
 それなのに私は、一カ月ほど前から悠青さんにエッチなことをされる夢を見るようになってしまった。
 毎晩のようにこんないやらしい夢を見ているなんて、欲求不満みたいで恥ずかしい。
 このことを悠青さんに知られたら、軽蔑されるし嫌われるに違いない。
 それどころか、『こんないやらしい女を妻とは思えない』と愛想をつかされ離婚を切り出されるかもしれない。
 彼から『離婚しよう』と告げられる場面を想像して青ざめる。
「そんなの嫌だ……!」
 愛のない結婚とはいえ、高校生のときからずっと片想いをしてきた初恋の人と夫婦になれたんだから、少しでも長く悠青さんの妻でいたい。
 悠青さんにふさわしい清楚で上品な妻になるためには、こんなエッチな夢は見ちゃだめなんだ!
 そう自分に言い聞かせているのに、私が悠青さんを好きすぎるせいか、それとも悠青さんが魅力的すぎるせいか、毎晩彼にエッチなことをされる夢を見てしまうのが私の深刻な悩みだった。


 悠青さんと初めて出会ったのは、今から十年前。高校一年の春のこと。
 その日、私は大好きなお茶農園の景色を眺めながら歩いていた。
 実家が営む広い茶園には、特別に手をかけ大切に育てられている茶畑がある。
 その一画だけ丸太を立て茶畑を覆う棚が作られ、上には葦で編んだすだれと藁が葺いてあった。伝統的な方法で日光を遮られた茶畑だ。
 農園を散歩していた私は、その囲いの前にひとりの背の高い男性が立っているのに気付いた。
 私よりは年上だけど、まだ若そう。たぶん、四歳上の兄と同じくらい。
 背筋を伸ばした綺麗な立ち姿の男性が、興味深そうに藁で覆われた茶畑を見ていた。
 観光客かな。それとも、お仕事関係で視察に来たとか?
 男性に近づき『茶畑に興味があるんですか?』と声をかけると、彼はこちらに視線を向けた。
 目が合った瞬間、わずかに心臓が跳ねる。
 さらりとした黒髪に、端整で優しげな美貌。長身でたくましいのに、凛とした佇まいがとても綺麗だった。
 新雪に覆われたお庭に一輪だけ咲いた、寒椿みたいな人。
 そんな感想を抱き、年上の男性を花にたとえるなんておかしいか、と自分に突っ込む。
『ここでは茶道で使われる上質な抹茶を作っているんですよ』
 私がそう説明すると、男性は『へぇ』とつぶやき茶畑を覆う棚に視線を向けた。
『日光を遮るのにはなにか理由が?』
 興味を持ってもらえたことがうれしくて、思わず笑顔になる。
『葦や藁からもれるわずかな光を求めて、新芽は薄く柔らかく広がるんです。この方法で育てられた茶葉は、その絶妙な光加減のおかげでまろやかで芳醇なお茶になるんですよ』
『へぇ』
『もしよかったら、ちょっと見てみます?』
 私はそう言って男性に手招きし、しゃがんで囲いの中をのぞく。
 棚の上に敷き詰められた葦と藁からこぼれる柔らかな光の下には、鮮やかで美しい緑の新芽が広がっていた。
 この時期の抹茶畑でしか見られない、私の大好きな景色だ。
『茶葉の甘みや旨みは日光に当たると渋み成分のカテキンに変化してしまうので、こうやって光を調節しているんです。摘み取りもこの季節の一番茶だけ。柔らかい茶葉を傷めないように、ひとつひとつ丁寧に手で摘むんですよ』
『抹茶は特別なんだね』
『そうなんです。この抹茶はどこの茶会に出しても恥ずかしくないよう大切に大切に育てた、うちの農園自慢の箱入り娘です』
『へぇ』
『ほら、芽吹いたばかりの薄い葉が光に透けてキラキラ光っていて、とても綺麗じゃないですか?』
 声を弾ませながら振り返ると、男性がふっと笑みをこぼした。
『本当だ。とても綺麗だね』
 そう言って笑った彼の黒い瞳が、柔らかな光を反射していた。その光景はとても美しかった。
 彼がこちらに視線を向ける。
 理知的で強いそのまなざしにはほのかな色気も漂っていて、思わず息をのんで見入ってしまう。
 私が言葉を発せずにいると、彼はこちらに手を伸ばした。長い指がそっと私の頬に触れる。その感触に鼓動が速くなる。
『あの……』
 どうしてこんなに胸がドキドキするんだろう。
 戸惑いながら口を開こうとしたとき、兄の声が聞こえた。
『お前ら、なにやってんだ?』
 その言葉に我に返り、私は慌てて立ち上がる。
『え、ええと。これは、その……っ』
 動揺しながら説明しようとしていると、隣にいる男性が立ち上がり口を開いた。
『本簀(ほんず)について教えてもらっていたんだ』
 穏やかな口調でそう言った彼に、『え?』と目を瞬かせる。
 たしかに葦や藁で日光を遮る伝統的な栽培方法は本簀と呼ばれている。私はその名前を説明していないのに、どうして知っているんだろう……。
 兄は彼の言葉を聞いて、あきれた顔をした。
『お前。芽衣に教えてもらわなくても、そんなこととっくに知ってるだろ』
 遠慮のない言葉を聞いて、この男性は兄の友人だったんだと気付く。
『あ。もしかしてお前、無知なふりして芽衣に近づいて、口説こうとしてたんじゃないだろうな?』
 男性を威嚇するような兄の言葉を聞いて、『そんなわけないでしょ!』と顔をしかめた。
『お兄ちゃんはいつも過保護すぎ』
 兄は四歳下の私をまだまだ子どもだと思っているらしく、男性と話すだけで過剰なくらい警戒するのだ。
 兄は東京の大学に通っていて、今は五月の連休で地元に帰ってきていた。ひさしぶりに会ったせいで、以前より過保護さが増してる気がする。
『かわいい芽衣に悪い虫がつかないように警戒するのは、兄として当然だろ』
 いつもの兄バカ発言を聞き流しつつ口を開く。
『それよりも、お兄ちゃん。とっくに知ってるってどういう意味?』
『こいつ、大学で知り合ったんだけど、鷲尾(わしお)流宗家の御曹司なんだよ』
 兄の言葉を聞いて目を瞬かせる。
 鷲尾流というのは茶道の流派のひとつで、日本の伝統文化である茶道を多くの人に広める活動に力を入れている、今もっとも注目されている流派だ。
 私も日本文化が大好きな両親の影響で、小さな頃から鷲尾流の茶道教室に通っていた。
『宗家の御曹司ってことは、もしかして……』
『そう。次期家元』
 当然のようにうなずかれ、私は言葉を失う。
 私が茶道を習い始めて十年になるけれど、侘び寂びの世界は奥が深くて学んでも学んでもきりがない。
 茶室での立ち居振る舞いや点前作法はもちろん、日本の伝統や歴史、美術工芸、書、建築、果ては禅の精神まで、幅広い知識を求められる。
 次期家元となれば、必要な知識は比べ物にならないだろう。日本茶についても詳しいに決まってる。
 そんな彼に得意顔で抹茶について説明してしまった。さっきのやりとりを思い出し、羞恥心で頬が熱くなる。
『す、すみません。余計なことをひとりでぺらぺらしゃべって……』
 動揺しながら頭を下げた私に向かって、彼は優しく微笑んでくれた。
『そんなことないよ。君と話ができてとても楽しかった』
 年下の私に優しく接してくれる彼を見て、心臓が大きな音を立て言葉が出なくなる。
 黙り込んだ私に、彼は柔らかな声で自己紹介をしてくれた。
『初めまして。鷲尾悠青と言います』
 鷲尾悠青さん。心の中で彼の名前を繰り返す。
 凛とした彼にぴったりの綺麗な名前だと思った。
「あの、私は山久(やまひさ)芽衣ですっ」
 私の名前を聞いた悠青さんは、涼しげな目もとを緩めふわりと笑う。
「芽衣。いい名前だね」
 彼の艶のある声が、私の名前を呼んだ。それだけで、胸を打つ鼓動が速くなった。
 高校生になりたての私にとって、目の前で微笑む彼はとてもとてもまぶしく見えた。
 過保護な兄やいつもうるさい学校の男子たちとは全然違う、穏やかで紳士的な悠青さんに、私はひと目で恋をしてしまった。


 鷲尾流宗家のお屋敷は、閑静な高級住宅街にある。
 都心の一等地だというのにものすごい敷地面積を誇り、重厚感のある高い塀と美しい庭園に囲まれたその空間は、神社仏閣のような厳かな空気が漂っている。
 敷地内には茶室や事務所、現在の家元であるお義父様とお義母様が住む本宅と、悠青さんと私が暮らすために建てられた離れがあった。
 本宅も事務所も歴史ある日本家屋。離れだけは現代的な木造建築で、和モダンのおしゃれな一軒家になっている。
 この離れは悠青さんが私との結婚が決まってすぐに、私が鷲尾家で気兼ねなく新婚生活を送れるようにとわざわざ建ててくれたものだ。
 こんな素敵な家をぽんと建ててしまうなんて、さすが鷲尾流宗家。セレブすぎる。
 そんなことを考えながらキッチンに立ち朝食の準備をしていると、リビングのドアが開いた。
「あ。悠青さん、おはようございます」
 そう言いながら視線をドアのほうに向ける。
「おはよう、芽衣」
 リビングに入ってきた悠青さんを見て、一瞬心臓が止まりそうになった。
 自然にセットされた黒髪と、長身でたくましい体にフィットするよう仕立てられた上質なスーツ。
 朝だというのに気だるさの一切ない端整な顔に柔らかな笑みを浮かべた悠青さんは、おそろしいほどかっこよかった。
 三百六十度どの角度から見ても欠点ひとつ見つけられない完璧さに、私は思わず唇を噛む。
 今日も私の旦那様が素敵すぎる……っ。
 私は毎朝彼の姿を見るたびに、心の中でそう叫んでしまう。結婚して五カ月が経つけれど、彼のかっこよさにドキドキしっぱなしだ。
 そんな興奮を表に出さないように、必死に平静を装い口を開く。
「悠青さん、今日は和装ではなくスーツなんですね」
 私の問いかけに、彼は柔らかくうなずいた。
「あぁ。打ち合わせで外に行くから、あまり目立たないようにと思って」
「和装だと注目されてしまいますもんね」
 普通にしていても長身で人の目を引く容姿をしている悠青さんは、着物を着るとさらに目立つ。
 私が納得していると、悠青さんがこちらを見下ろし軽く首を傾けた。
 彼と視線が絡むだけで、じわりと頬が熱くなる。
「芽衣は今日も着物なんだね」
 悠青さんの言葉に、さりげなく視線をそらしながら「はい」とうなずく。
 今日着ているのは淡い萌黄色の紬のお着物だ。
「このお着物、お義母様が若い頃に着ていたものをプレゼントしてくれたんです」
 悠青さんは私を見下ろし、「とても似合うよ」と褒めてくれる。
「でも、毎日着物で過ごすのは大変だろ。自宅にいるときはリラックスしていいんだよ」
 悠青さんと結婚してから、私は常に着物で過ごすようにしていた。
 宗家のお屋敷には毎日たくさんのお客様がお見えになるし、お稽古のためにやってくるお弟子さんも多い。自宅でくつろいでいるときに、急に呼ばれて対応することも少なくない。
 慌てて駆けつけた私がだらしない服装をしていたら、夫である悠青さんの評判を落としてしまいかねない。
 それは絶対に嫌だと思い、自宅にいるときも和装で過ごそうと決めているのだ。
「大丈夫ですよ。もともと着物は好きですし、きゅっと帯を締めると自然と背筋が伸びる気がするんです」
「無理してない?」
 悠青さんの気遣いに「無理なんてしてないですよ」と微笑んで答える。
 本当は実家にいた頃のように、着古したTシャツとショートパンツでダラダラしたいときもあるけど、そんな見苦しい姿を悠青さんに晒せるわけがない。
「それにしても、悠青さんはお着物とスーツで雰囲気が変わりますよね」
「そうかな?」
 私が首を縦に振ってうなずくと、「芽衣は和装とスーツ、どちらが好き?」とたずねられた。
 その究極の選択に、思わず手を止め真剣に考え込む。
 悠青さんがスーツを着ると、そのスタイルの良さや凛々しさが引き立ってとてもかっこいい。和服姿だと彼の品の良さが際立ち、清廉さと色気という相反する魅力があふれ出る。
 どちらも違ったよさがあって選べない……っ。
 私が葛藤していると、悠青さんが優しい声で「ごめん」と謝った。
「くだらない質問をしたね。無理に答えなくていいよ」
 悠青さんの言葉に「くだらなくなんてないです」と首を横に振る。
「どちらも捨てがたくて悩んでたんです。お着物でもお洋服でも、悠青さんは素敵だと思いますよ」
 私の答えを聞いて、悠青さんは端整な顔を崩し「ありがとう」と笑った。ちょっと照れたような表情も、ずるいくらいかっこいい。
 大好きな悠青さんの笑顔を見るだけで胸がいっぱいになり、今日も朝から幸せをありがとうございます……! と心の中で手を合わせる。
 高校生のときから密かに想いを寄せてきた悠青さんと夫婦になれたなんて、今考えても夢を見ているみたいだ。
 彼と結婚できた私は、本当に運がいいと思う。
 だって悠青さんは、私のことを好いてくれているわけじゃない。たまたま条件の合った私を結婚相手に選んだだけだから。

 悠青さんを見送ったあと、私も離れを出て敷地内にある事務所へと向かう。
「おはようございます」
 私がそう言いながら事務所に入ると、スタッフやお弟子さんたちが「若奥様、おはようございます」と挨拶を返してくれた。
 次期家元の悠青さんと結婚した私は、若奥様と呼ばれていた。その呼ばれ方はまだ慣れなくて照れてしまう。
 若奥様という言葉に見合う上品で落ち着いた女性になりたいと思っているけど、道のりはなかなか遠そうだ。
 結婚前は両親が営むお茶農園で事務をしていた私は、今は次期家元である悠青さんをサポートする仕事をしている。
 各所から届く式典の招待や講演会の依頼を精査しスケジュールを管理したり、出張のためのチケットやホテルの手配をしたり。
 お茶会や茶事が行われるときには、一通一通毛筆で案内状を書き、懐石やお菓子の注文、露地や茶室の掃除、車の手配や資金の管理まで、ありとあらゆる準備をするのが妻の役目だ。
 悠青さんと結婚して五カ月の私はまだまだ未熟で分からないことだらけだけど、裏方の仕事は嫌いじゃなかった。
 こまごました事務仕事は昔から好きだったし、私のサポートで悠青さんが茶道に専念できるんだと思うととてもやりがいを感じるから。
 なによりお茶が大好きな私にとって、お茶の魅力を広めるお手伝いができることは大きなよろこびだった。
 悠青さんは外で打ち合わせをして午後に帰ってくる予定。私は茶室でお弟子さんたちのお稽古があるから裏方として水屋仕事のお手伝いをして、明日の茶道体験会のためのお菓子を買いに行って……。
 一日のスケジュールを確認していると、事務所にお義父様とお義母様が入ってきた。
「あ、おはようございます」
 椅子から立ち上がり挨拶をした私を見て、お義母様が口もとをほころばせる。
「おはよう、芽衣さん。プレゼントした着物、着てくれたのね」
「はい。さっそく着させていただきました」
「芽衣さんが着ると、華やかで本当にかわいらしいわね」
 うれしそうに目を細めるお義母様に「ありがとうございます」と照れながら頭を下げる。
 私同様お義父様たちも和服姿だった。ふたりが並んだ姿を見て、思わずほぅっと息を吐き出す。
 鷲尾流の家元とその奥様だけあって、和服の着こなしや佇まいが上品でとても素敵だ。
 その上、お義父様もお義母様も整った顔立ちをしている。
 美しく年を重ねた魅力的なご夫婦で、さすが悠青さんのご両親……と遺伝子の優秀さに手を合わせたくなる。
「お義父様とお義母様は、今日はお出かけでしたよね」
「あぁ。奥村(おくむら)さんの食事会に呼ばれてるんだ。夕方には戻るよ」
 伝統を守り継承する茶道家元のお義父様は、人との縁を大切にしている。茶会やお食事会、様々なイベントに招待されることがとても多い。
「奥村さん、年末に初孫が生まれたから、見せびらかしたくてうずうずしているみたいなのよ。お食事しながら自慢話を聞いてくるわ」
 お義父様の隣で、お義母様がいたずらっぽく笑いながら教えてくれた。
「わぁ、お孫さんですか。かわいいでしょうね」
 年末に生まれたということは、四カ月くらいだろうか。ぷにぷにの赤ちゃんの姿を想像して、思わず頬が緩む。
 そんな私を見たお義父様がくすくすと笑った。
「赤ちゃんの話を聞くだけでそんな顔をするなんて、芽衣さんは子ども好きなんだね」
 緩んだ表情を指摘され、慌てて両手で頬を持ち上げる。
 品のある女性になろうと努力しているのに、つい気の抜けた顔をしてしまった。
「すみません。みっともない顔をして……っ」
「いや、芽衣さんの笑顔を見ると癒されるよ」
 低く艶のある声で言われ、ぐっと言葉に詰まる。
 年を重ねた落ち着きと色気があふれていてかっこいい。
 きっと悠青さんもお義父様のように素敵に年を取り、どんどん魅力的になっていくんだろうな。
 今の凛々しい姿に大人の色気と渋さが加わった悠青さんを想像し、罪深さに唇を噛む。
 そんなことを考えていると、お義母様が笑顔で私を見つめた。
「芽衣さんがそんなに子ども好きってことは、わが家もそろそろ期待していいのかしら」
 明るい問いかけに、「期待ですか?」と首をかしげる。
「悠青と芽衣さんの子どもならどちらに似てもとてもかわいいでしょうから、楽しみだわ」
 無邪気にそう言われ、一気に頬が熱くなった。
「そ、そんな、子どもなんて……っ」と慌てて首を横に振る。
「あら、結婚して五カ月だし、そろそろ授かってもおかしくないでしょう?」
「でも、私たちは寝室も別にしていますしっ」
 咄嗟に出た言葉を聞いて、お義母様が「え」と目を丸くする。
「あなたたち、寝室を別にしているの?」
 笑顔だったお義母様が、一気に心配そうな表情になる。その顔を見て、失言したことに気付いた。
 しまった。こんなことを言ったら、私たちが仮面夫婦だとバレてしまう。
「あの、実は……っ」
 なんとか誤魔化さなくてはと、パニックになりながら口を開く。
「私、悠青さんが大好きなんですっ!」
 力を込めて言うと、お義父様とお義母様がきょとんと目を瞬かせた。
「大好きすぎて、一緒のベッドだと緊張してまったく眠れないんです。だから仕方なく寝室を別にしていて……。少しずつ慣れていけたらいいなと思ってるんですが」
 必死に説明する私を見て、お義母様は安心したように笑顔になる。
「なんだ、そういうことだったのね。結婚したばかりなのに別々に寝ているなんて、夫婦仲がうまくいってないのかと思ってびっくりしたわ」
 お義母様の隣で、お義父様も柔らかく微笑む。
「仲がよさそうで安心したよ」
「す、すみません。変なことを言って」
 なんとか誤魔化せたと胸をなでおろしながら謝ると、お義母様が首を横に振った。
「私こそ、浮かれてプレッシャーをかけるようなことを言ってごめんなさいね」
「そんな……」
 お義父様が穏やかな声で「芽衣さん」と私の名前を呼ぶ。
「子どもは授かりものだから、産まなきゃいけないなんて思わなくていいからね」
 その言葉にお義母様も優しい笑顔でうなずいてくれた。
「私たちは、芽衣さんが我が家に嫁いでくれただけで、本当にありがたいと思っているのよ」
「そうそう。今までどんなお見合い相手にも絶対に首を縦に振らなかった堅物の悠青が、自分から結婚相手を連れてくるなんてとても驚いたからね」
「それに、悠青は芽衣さんのことを本当に溺愛してるもの」
 幸せそうに話すふたりを見ているうちに、胸のあたりが苦しくなった。
 悠青さんが私を溺愛しているように見えるのだとしたら、それは全部演技だ。
 彼は私に恋愛感情を抱いていない。必要に迫られて、たまたまその場にいた私を偽りの妻に選んだだけだ。
 利害のための契約結婚。愛のない仮面夫婦。
 私はお義父様とお義母様に嘘をつき騙している。
 それなのに、私を家族として迎えこんなに優しく接してくれるふたりに、罪悪感が込み上げた。


 私は高校時代に悠青さんと出会い、ひと目で恋に落ちた。
 その後も悠青さんは兄に連れられときどき我が家に遊びに来てくれたけど、私は彼と顔を合わせると緊張してうまく話せなくなり、挨拶をするだけで精いっぱいだった。
 目をそらしながら挨拶をするかわいげのない私にも、悠青さんはとても優しくしてくれた。
 お土産と言って綺麗なお菓子を買ってきてくれたり、兄には内緒で素敵なプレゼントをくれたり。まるで本当の妹のように優しく接してくれる彼に、私の中の恋愛感情はどんどん膨らんでいった。
 だけど恋愛経験ゼロの私に、四歳も年上で知的で魅力的な悠青さんに好意を伝える勇気はなかった。
 悠青さんは私が友人の妹だから優しくしてくれているだけで、異性としては見られていない。告白したところで相手にされるわけがないし、万が一過保護な兄に知られたらとても面倒なことになる。
 そうやって告白しない言い訳を並べているうちに、悠青さんは大学を卒業し我が家に来ることもなくなった。
 けれどそれから何年経っても私は悠青さんへの想いを諦めることができず、初恋をこじらせたままだった。

 そんな私が悠青さんと夫婦になったきっかけは、今から約一年前。
 大学を卒業し実家の山久農園の仕事を手伝っていた私は、父から日本茶の生産農家や茶問屋などで構成される協会の会合に出席してほしいと頼まれた。
 しかも会場は東京。
 農園は兄が継ぐことが決まっているのにどうして私がと不思議に思ったけれど、茶葉の持つ健康効果のアピールやスイーツの開発など、女性向けの戦略を話し合う会だと聞いて納得した。
 それなら父や兄より私のほうが適任だ。
『芽衣をひとりで行かせるのは不安だから、俺もついていく!』とごねる兄を無視してやってきた東京。
 ひとりで東京に行くことも、協会の会合に出るのも初めてで、少し緊張しながら会場に向かう。場所は協会内の会議室。
 若い私が洋服で行くと浮いてしまうかなと思い、服装は着物を選んだ。小さな頃から茶道や華道を習っているから、和装には慣れてるしスーツよりも落ち着く。
 会合の参加者たちは年上の女性ばかりだったけど、初めて参加した私を「若い人の意見も聞けてうれしいわ」と温かく歓迎してくれた。
 抹茶スイーツの人気や、海外での日本茶の需要の高まりなどについて話していると、ひとりの女性が「今の抹茶ブームは、鷲尾流の次期家元のおかげもあるわよね」と声を弾ませて言う。
 鷲尾流の次期家元って、悠青さんのことだ……。
 悠青さんの話題に、心臓が跳びはねた。
「そうそう。イケメンすぎる茶道家って今話題になってるものね」
「本当にかっこいいわよね。あちこちのメディアに取り上げられているのも納得だわ」
 みんなイケメンが大好きなんだろう。参加者たちが笑顔になり、一気にその場が盛り上がる。
 悠青さんは大学を卒業後、茶道家として多くの人に茶道を広める活動をしていた。端整な顔立ちと上品な佇まいのせいもあって、たびたびメディアに取り上げられ、注目を集める存在になっていた。
「そうだ、見て見て。雑誌で紹介されていたから、つい買っちゃったの」
 そう言ってひとりの女性が雑誌を取り出す。世界的に有名な富裕層向け雑誌の日本版だった。
 その中の日本の伝統文化を紹介する特集で、悠青さんが取り上げられているらしい。
「ほら、かっこいいでしょう!」
 私は広げられたページを見て息をのむ。
 自然光が差し込む美しい茶室で、炉の前に座る悠青さんの写真が大きく載っていた。
 背中に紋が入った紺色の着物に深い灰色の縞袴。畳の上で背筋を伸ばして正座するその姿は、凛として美しかった。
「わ……っ」
 あまりの素敵さに言葉が出なくなる。
 涼しげなまなざしも、引き結んだ唇も、和装でもわかるたくましい肩や引き締まった腰回りも、なにもかもがかっこいい。
 いや、かっこいいを通り越してもはや神々しい。
 悠青さんの写真を見て、鼓動が一気に速くなる。精悍な彼の横顔に、心臓を打ち抜かれた気分だ。
「本当に男前よね~」
「これは目の保養だわ」
 雑誌を見ながら盛り上がる参加者の女性たちと一緒に深くうなずく。
 この雑誌、私も買おう。書店にまだあるかな。なかったら、ネットで探して取り寄せて……。忘れないよう、ちゃんと覚えておかないと。
 雑誌の名前をしっかり記憶しながら会合を終え会場を出る。
 東京での用事は協会の会合に参加することだけで、今日はビジネスホテルに泊まり明日新幹線で地元に帰る予定だ。
 このあとはすることもないし、せっかくだから有名な高級ホテルに行ってみようかな。
 そのホテルのカフェラウンジでは、パティシエが作った抹茶のパフェが食べられるはずだ。抹茶好きとしても、茶農園の娘としても、ぜひチェックをしておきたい。
 そんなことを考えながら、近くにある高級ホテルを目指す。
 ホテルについた私は、ため息をもらした。
 天井の高い広々としたエントランスも、光の宝石のようなシャンデリアも、毛足の長いカーペットも、上品なソファも。普段茶畑があるのどかな田舎で暮らしている私にとってはすべてがきらびやかでまぶしく見えた。非日常感に気持ちが弾む。
 軽い足取りでラウンジに向かっていると、周囲の人たちの視線が一カ所に集まるのを感じた。
 つられて私も足を止め、視線の先を振り返る。背の高い和装の男性と、ワンピースを着た女性が歩いてくるところだった。
 その男性の顔を見た私は、思わず「あ……」とつぶやく。
 そこにいたのは悠青さんだった。
 さっき雑誌で見たばかりの彼が、目の前にいる。
 深い藍色の西陣織のお召しに同じ色の羽織を合わせ、黒と白の献上柄の角帯を締めた姿はとても素敵だった。
 大学時代も十分かっこよかったけど、三十歳になり大人の色気と余裕を身につけた彼はさらに魅力的になっていた。
 まさかこんなところで会えるなんて……。
 感激しながら悠青さんに声をかけようとして、でも私のことなんて覚えていないかもしれないと不安になり口を閉ざす。
 悠青さんとは七年近く会っていないし、私はただの友人の妹だ。忘れられていてもおかしくない。
 そう思い声をかけるのをためらっていると、近くにいた女性たちの会話が聞こえてきた。
「見て、すごいイケメン。あの人モデルさんかな」
「そうじゃない? だって一緒にいるの、たしかモデル出身で女優の……」
 そんな彼女たちの会話を聞いて、隣にいる女性に見覚えがあることに気付く。
 スタイルのよさを強調するデザインのワンピースに、艶のある綺麗なロングヘア。大きな瞳に鮮やかなリップが塗られたセクシーな唇。
 誰もが振り返ってしまいそうな、魅力的な女性。彼女はモデルとしてデビューし、最近ドラマや映画にも出るようになった。たしか名前は、三枝(さえぐさ)カレンさんだったっけ。
 父親は日本人で、母親は外国の方。日本人離れしたスタイルのよさとエキゾチックな魅力で、今注目されている女優さんだ。
 そんな有名人がどうして悠青さんと……?
 不思議に思っていると、カレンさんが悠青さんの腕に抱きつくのが見えた。豊かな胸を押しつけるように体を寄せ、甘えた表情で悠青さんを見上げる。
 その距離の近さから、ふたりの親密さが伝わってきた。
 あぁ、そうか。悠青さんとカレンさんは恋人同士なんだ。
 ただの知人だったら、有名人である彼女が人前で堂々と男性に抱きつくわけがない。
 そう気付き、胸のあたりがぎゅっと苦しくなる。
 悠青さんみたいに魅力的な人に、恋人がいないほうがおかしい。そうわかっているのに、彼が女性と一緒にいる姿を目の当たりにするのは初めてで、ショックを受けてしまう自分がいた。
 まさか東京で、悠青さんのデート現場に遭遇するなんて思わなかった。
 こんな状況で声をかけても迷惑がられるに決まってる。彼に気付かれないうちに立ち去ろう。
 胸の痛みを感じながら視線をそらしたとき、「芽衣」と名前を呼ばれた。耳ざわりのいい甘い低音。大好きな悠青さんの声に、驚いて足を止める。
 振り返ると、悠青さんがこちらにやってくるのが見えた。彼は甘い笑みを浮かべ近づいてくると、長い腕で私を抱きしめた。
 たくましい体に包まれる。悠青さんの着物に焚き染められた微かな白檀の香りを感じ、全身の血が頭に上った。
 え、なにこの状況……っ。どうして抱きしめられてるんだろう……!
 熱い抱擁に、周囲がざわめく。注目が集まるのを感じ、さらに頬が熱くなった。
「ゆ、悠青さん……?」
 パニックになりながら名前を呼ぶと、悠青さんが私の耳もとで小さくささやいた。
「悪い。ちょっとだけ話を合わせて。いい?」
 私だけに聞こえるように、低い声でそう言う。
 その吐息が耳たぶに触れた。
 待って、色っぽすぎる。こんなの心臓が爆発する!
 言葉も発せずぶんぶんと首を縦に振る 。悠青さんは私がうなずくのを確認すると、腕を緩めてくれた。
 密着していた体が離れほっと息を吐き出す。だけど悠青さんの左手は私の腰に回ったままだった。
 まるで恋人をエスコートするように腰を抱いた状態だ。そして愛おしそうに私を見下ろす。
 いや、その甘い表情、かっこよすぎて反則なんですけど……っ。
 心の中で叫んでいると、カレンさんがこちらにやってきた。眉を寄せ私のことを値踏みするように見下ろす。
 テレビや雑誌で見るたびに綺麗な人だなと思っていたけど、実物はさらに綺麗だった。
 カレンさんの美貌に圧倒され、その迫力に委縮してしまいそうになる。
「悠青さん、彼女は?」
 カレンさんは私に不愉快そうな視線を向けながら、悠青さんにそうたずねた。
 そんな彼女に向かって、悠青さんは穏やかに微笑む。
「ご紹介します。彼女は私の婚約者の、山久芽衣さんです」
 彼の言葉の意味がわからず、頭が真っ白になった。
 私がぽかんとしている間に、カレンさんは「はぁっ?」と声を荒らげる。
「悠青さんが婚約していたなんて、知らなかったんですけど……!?」
「えぇ。まだ親しい人にしか報告していないんですが、近いうち結婚したいと思っています。ね、芽衣?」
 甘い声で同意を求められた。まったく状況が理解できなかったけれど、話を合わせてと頼まれたのを思い出し、なんとか首を縦に振る。
 そんな私に向かって、カレンさんは「信じられない」と高い声で言った。
「こんな子より、私のほうがずっと美人で魅力的なのに。次期家元の妻としても、私を選んだほうが……っ」
「残念ですが、私は彼女以外の女性と結婚するつもりはありません」
 カレンさんの言葉を遮るように、悠青さんは芯のある声でそう言い切る。
「そ、そんなの信じられないわ! 男が私からの誘いを断るなんて、ありえない!」
「あなたが信じようが信じまいが、私が愛しているのは彼女だけです」
 嘘だとわかっているのに、彼の言葉を聞いて胸を打つ鼓動が速くなった。
 カレンさんは不満そうな表情で私を睨む。
 怖気づきそうになったけれど、悠青さんがさりげなく私の背中に手を添えてくれた。その手の感触に励まされ、なんとか背筋を伸ばしてカレンさんを見つめ返す。
 しばらく黙り込んだあとカレンさんはようやく諦め、小さく舌打ちをして踵を返した。
 彼女がエントランスを出ていったのを見届けて、ほうっと息を吐き出す。緊張したせいで、膝から力が抜けそうになる。
「大丈夫?」
 それに気付いた悠青さんが、私の手を取り支えてくれた。
 こんなナチュラルに手を差し出してくれるなんて、王子様みたいだ。数年ぶりに会ったけど、相変わらず悠青さんはかっこよすぎる……!
 紳士的な彼の気遣いに心臓が跳びはね、その動揺を表に出さないように必死に深呼吸をした。
「あ、あの、悠青さん。今の、女優の三枝カレンさんですよね?」
 私がたずねると、悠青さんは「あぁ」とうなずく。
「仕事の関係で知り合って、それ以来しつこく言い寄られていたんだ」
 来年公開予定の映画の中で茶道のシーンがあり、その監修を頼まれたことがきっかけで知り合ったんだと教えてくれた。
「お付き合いする気はないとはっきり断っているのに、人前でわざと目につくように声をかけてきたり、抱きついてきたり。しつこくされて困っていた」
 悠青さんはそう言ながら、カレンさんに抱きつかれていた左肩を手で払う。
 その冷静な対応に、驚いて目を丸くした。
「え。あんなに綺麗な人に好意を寄せられてるのに、うれしくないんですか?」
「好きでもない女性に言い寄られても、迷惑でしかないよ」
 私の問いかけに、悠青さんは表情ひとつ変えずに答える。
 カレンさんへの対応に困っていたところに偶然居合わせた私を見つけ、咄嗟に婚約者がいるという嘘を思いついたんだろう。
 彼が嘘をついた理由に納得しながら、迷惑という言葉が胸に突き刺さった。
 悠青さんにとって、女性からの好意は面倒でしかないんだ。
 きっと私が十年も片想いし続けていると知ったら、迷惑どころか気持ち悪いと思われてしまうんだろうな。
 心臓のあたりが苦しくなり、思わず視線が足もとに落ちる。
 そんな私に悠青さんは優しく声をかけてくれた。
「芽衣はどうして東京に?」
「あ、協会の集まりがあって……」
 父から会合に出るよう頼まれてやってきたと話すと、悠青さんは柔らかく微笑んだ。
「そっか。綺麗な着物を着てるから、デートかと思った」
 デートという言葉に慌てて首を横に振る。
「デートなんてする相手がいませんから」
「今は彼氏がいないんだ?」
「今、というか、一度もできたことないです」
 動揺しながらそう言うと、悠青さんは意外そうな顔をした。
「どうして? 芽衣は恋愛や結婚に興味がないとか?」
 まっすぐに見つめられ、頬がじわじわと熱くなる。
 私に恋愛経験がないのは、初めて好きになった人が悠青さんだったからだ。
 周りの友人たちのように恋をしたりデートをしたりしたいと思ったこともあるけど、悠青さん以上に素敵な人がいるわけもなく、ほかの誰かを好きになることはなかった。
 でもそんなこと、正直に言うわけにはいかないし……。
 私が答えに困っていると、悠青さんは「出会いがないわけじゃないだろ?」とさらに質問を重ねる。
「ええと、縁談を持ち込まれたりはしますけど……」
「へぇ、縁談ね」
「おせっかいな親戚やお世話好きなお客様がたくさんいるんです」
「その話は全部断っているの?」
「はい。厚意で持ってきてくれる縁談を断るのは心苦しいですけど」
 悠青さんが好きな私が、ほかの人とのお見合いを受けるわけにはいかないですから。そう思いながら、本心の代わりに言い訳を探す。
「私は恋愛や結婚よりも、お茶のことが大好きなので」
「お茶が好きだから、結婚はできない?」
「実家の茶農園は兄が継ぐ予定なので、私が結婚したら実家を出るのが自然な流れじゃないですか。でも、できれば私はお茶に関わる仕事を続けたくて」
 咄嗟に口にした言葉だけど、それは私の本心でもあった。
 小さな頃、私はとても大人しく引っ込み思案だった。四歳上の兄の後ろに隠れてばかりで、人の目を見て話すことすらできなかった。
 そんな私が変わったのは、両親の勧めで通い始めた茶道教室。
 静かな茶室でひとつひとつの動作に心を込めて人をもてなす茶道が私の性格に合っていたのか、それとも先生が褒め上手だったおかげか、教室に通うようになって私は自分に自信が持てるようになった。
 人と人との交流を大切にし互いに敬い合うお茶の文化が大好きになり、日本の伝統をもっと知りたいと思うようになった。好奇心は私の性格を前向きにし、人と話すのが楽しくなったし、いろんなことに積極的に取り組めるようになった。
「茶道に出会ったおかげで今の自分がいるんです。だからそんなお茶の魅力をもっとたくさんの人に伝えるお手伝いができたらって……」
 そう言うと、悠青さんがくすりと笑った。
「芽衣らしいね」
「私らしい、ですか?」
「あぁ。初めて会ったとき、本簀栽培の畑をのぞきながら目を輝かせて抹茶について教えてくれたのをよく覚えてる。芽衣の大きな瞳が葦や藁からもれる柔らかな光を反射して、きらきら光っていて、とても綺麗だった」
 次期家元の悠青さん相手に、得意げに抹茶の説明をしたことを思い出し頬が熱くなる。
「わ、忘れてください。そんな昔のこと」
「忘れるわけないよ。うれしそうに話す芽衣を見て、この子は本当にお茶が好きなんだなって……」
 悠青さんは言葉の途中で、なにか考えるように黙り込んだ。
 どうしたんだろうと首をかしげていると、彼は私に視線を向ける。そして、とんでもない言葉を口にした。
「芽衣。俺と結婚しないか?」
 一瞬、なにを言われたのか理解できず、きょとんとしながら悠青さんを見上げる。
 結婚とは男女が婚姻届けを出して夫婦になることで、毎日一緒に朝ごはんを食べ、夜は同じベッドで眠って、おじいちゃんとおばあちゃんになるまで仲良く暮らして……。
 頭の中で結婚に対するイメージが悠青さんと私で再現され、ぶわっと頭に血が上った。
「け、結婚って、悠青さんと私が……っ?」
「あぁ。俺の妻になってほしい」
 真剣な表情で見つめられ、脳内にバラが咲きほこる。
 もしかして、悠青さんも私のことを想ってくれていたの? 私たち、両想いだったの?
 端整な顔に見とれながらうなずきかけて我に返った。
 落ち着け芽衣。そんな夢のような展開が、現実に起きるわけがない。浮かれそうになる心を必死で抑えつける。
「つ、付き合ってもいない私たちが結婚するなんて、おかしいですよ」
 私の言葉を聞いて、悠青さんは「あぁ」と笑みを浮かべうなずいた。
「結婚といっても普通の結婚じゃなくて、いわゆる契約結婚かな」
「契約結婚……」
 ぽかんとしながら彼の言葉を繰り返す。
「芽衣は親戚から縁談を持ち込まれているって言っただろ? 俺もなんだ」
 悠青さんは鷲尾流宗家の御曹司だ。
 次期家元の彼のもとには、たくさんの縁談が持ち込まれるだろう。お茶農園の娘の私なんかとは比べ物にならないくらい。
 鷲尾家は都心に大きな豪邸を構えるとても裕福な家柄で、そして悠青さんは顔もスタイルも性格も頭もいい完璧な人だ。
「悠青さんと結婚したいと思う女性は、数えきれないほどいるでしょうね」
 私がうなずくと、悠青さんは表情を曇らせため息をついた。
 目を伏せた横顔には憂いが浮かんでいて、まるで絵画のように美しい。
「縁談だけならまだしも、周囲に俺と付き合っていると嘘をついたり、既成事実を作ろうとしたり、次期家元の妻の座を射止めるために手段を選ばない女性もいて困っていた。そんなことを繰り返されると仕事にも集中できなくて、正直うんざりしていたんだ」
 たしかに、付き合ってもいない相手に強引に迫られるのは、対応に困るし迷惑だろう。
 それに、さっきのカレンさんのように人目もはばからず恋人のように振る舞われたら、次期家元の悠青さんに悪い噂が立ちかねない。
 そんなことになったら困る。悠青さんの評判に傷が付くなんて許せない。
 十年前から悠青さんへの初恋をこじらせてきた私としては、なんとしても彼の地位と名誉を守りたい。
 私が「それはなんとかしないといけませんね」と強くうなずくと、それまで曇っていた悠青さんの表情が明るくなった。
「そう言ってもらえてよかった」
 柔らかい笑みを向けられ、目がくらみそうになる。
 さっきの憂いのある表情も美しかったけど、にっこり笑った顔も素敵で、心臓がぎゅっと鷲掴みにされる。
 もう本当に、かっこよすぎて反則です……っ。
 うっとりしかけてから我に返った。
「悠青さんが女性除けのために結婚したいというのはわかりましたけど、どうして相手が私なんですか?」
 彼ほどモテる人ならいくらでも相手がいるだろうし、たくさんの縁談の中から素敵な女性を選べばいいだけでは。
「今の俺には、初対面の女性と恋愛をする余裕がないんだ。時間はもちろん気持ち的にも」
 たしかに、結婚するにはお互いを知り恋愛感情を抱き、生涯を共にしたいと思えるほどの信頼関係を築かないといけない。
 でも多忙な悠青さんが恋愛に時間を割くのはむずかしいだろうし、強引な女性たちから一方的な好意を向けられうんざりしていた彼にとって、初対面の相手と一から恋愛をするのは面倒でしかないのかもしれない。
「それに、契約結婚とはいえ俺の妻になってもらうには、ある程度の素養や知識を持っている女性じゃないとつらい思いをさせてしまうことになる」
 鷲尾流宗家に生まれた悠青さんと結婚する女性は、妻として次期家元の彼を支えなければならない。まったく知識のない女性が、結婚してからお茶や着付けを習うのはとても大変だろう。
 結婚相手に必要以上の苦労をさせたくないという彼の優しさが伝わってきた。
「でも、芽衣ならそんな心配はないだろ?」
「茶道や着付けの知識はあるので、一般の女性よりは役に立てるとは思いますが……」
「それに俺と結婚すれば、芽衣の希望通りお茶にたずさわる仕事を続けられる」
「たしかに……!」
 悠青さんの言葉に目からうろこが落ちる。
 より多くの人にお茶の魅力を広め、楽しんでもらいたいと思っていた私にとって、茶道家の妻になり悠青さんのサポートをするのは理想の仕事かもしれない。
「芽衣が俺と結婚してくれるなら、代わりにどんな条件でものむよ。金銭面でも生活面でも、芽衣が幸せに暮らせるように努力をするし、結婚生活に期限を決めてもいい」
「期限ですか?」
「あぁ。とりあえず二年、夫婦として一緒に暮らしてみるのはどうかな」
「でも二年後に離婚したら、悠青さんのもとにはまたたくさんの縁談が持ち込まれるんじゃ」
 それじゃあ問題が解決したことにならないのでは、と首をかしげる。
「離婚したばかりの男に縁談を持ち込むような配慮のない人はそういないだろ。それに、今は再婚する気になれないと言えば角を立てず断れる」
 悠青さんの事情を理解し「なるほど……」とつぶやく。
 この提案にうなずけば、少なくとも二年は大好きな悠青さんと一緒にいられるんだ。
 それに私が妻として頑張れば、その先も結婚生活を続けられるかもしれない。
 そんなことを考えていると、悠青さんが私の手を取った。そして大切なものを包むように、ぎゅっと握りしめる。
 その大きな手の感触に、体温が一気に上がった。
 男の人に手を握られるなんて初めてなんですけど……っ!
「ゆ、悠青さん……?」
 動揺しながら名前を呼ぶ。悠青さんはまっすぐに私を見つめた。
「こんなことを頼めるのは、芽衣しかいないんだ。もしよかったら、俺と結婚してほしい」
 悠青さんの真剣なまなざしに心臓を撃ち抜かれ、ぶわっと頬が熱くなった。
 高校の頃からずっと忘れられなかった初恋の人にプロポーズされるなんて、夢を見ているみたいだ。たとえ契約結婚だったとしても、こんな魅力的な申し出を断れるわけがない。
 気付けば私は首を縦に振っていた。

 それからの展開はめまぐるしかった。
 悠青さんは私を実家に連れていき、ご両親の前で「彼女と結婚します」と宣言。
 翌週には私の実家まで来てくれて、両親と兄に「必ず幸せにしますので、芽衣さんを私にください」と頭を下げた。
 両親は大はしゃぎでよろこび、過保護な兄は「悠青と芽衣が結婚なんて絶対に許さん!」と絶叫した。
 私が急展開についていけず戸惑っているうちに、悠青さんは兄を説得しあっという間に入籍。
 そしてその数カ月後には悠青さんとの夫婦生活がスタートした。
 あまりの怒涛の展開に、今までのことは全部夢だったんじゃないかと思うほどだ。
 そんな理由で私たちは結婚し夫婦になったけれど、悠青さんは私を愛しているわけじゃない。
 これは、あちこちから持ち込まれる縁談を断る口実と、卑怯な手段で悠青さんに言い寄る女性たちを追い払うための結婚だ。
 私の存在はただの女除けで、厄払いのお札みたいなものだ。
 そう自分に言い聞かせ、悠青さんに言われた言葉を思い出す。
『――俺は芽衣を抱くつもりはないよ』
 この家に引っ越し、初めてふたりで過ごす夜。新婚初夜に緊張して固まる私に向かって、悠青さんは優しい口調でそう言った。
「俺たちは契約結婚で、本当の夫婦じゃない。芽衣が俺に好意を持っていないのもちゃんとわかってる。だから、キスもハグもしないし無理に抱いたりしないから安心していい」
 彼の宣言通り、結婚して五カ月が経ったけれど、 私たちに男女の関係は一切なく寝室も別だ。
 それは彼の気遣いだったんだと思う。だけどその優しさに、傷ついている自分がいた。
 悠青さんは私を女性として見ていないんだ。ただの女除けで、恋愛対象じゃない。人前では私を妻として大切にしてくれるけれど、愛してくれているわけじゃない。
 そう思い知り、胸が痛んだ。
 大好きな人との契約結婚は、幸せだけど苦しかった。