初恋は終わらない CEOな元彼と再会したら、甘すぎる求婚が待っていました 2
忙しなかった年度末を乗り越え、新年度がスタートした四月上旬。
アイオン社の社内システム導入がスタートした。
今日は貴久が製品の導入説明のため、午後に来社する予定になっている。
彼に会うのはあの再会の日以来だ。
詩緒は朝からそわそわと落ち着かない気持ちを持て余していた。
狼狽えないと決心したのに、早速心が乱れてしまっている。
別れた恋人をこんなに意識しているなんて、貴久に知られたらどう思われるだろうか。
(きっとドン引きされるよね)
まさか十年近くも、あの時の別れを引きずっているとは思うまい。
午後一時過ぎ。詩緒の机の電話が鳴った。システム課の社員からで、貴久の来社を伝えるものだった。
すぐに成宮社長に声をかけて、八階の社長室から三階下の大会議室に降りた。
今日の説明会は、関係者のほとんどが参加するため、大人数だ。
成宮社長が会議室に入り上座に着席する。詩緒はその後ろの椅子に座り、膝の上でノートパソコンを開いた。
議事録を取る担当者はいるが、詩緒はそれとは別に内容を纏めておく。
後で疑問点などを確認し、成宮社長から質問された場合答えられるようにするためだ。
システム課の社員に案内されて貴久が到着した。
今日の彼は爽やかなライトグレーのスーツ姿だ。ネクタイは同系色のスタイリッシュなデザインのもので、全体的に洗練されている。
(この前も思ったけど、ずいぶんお洒落になったな……)
詩緒が知っている彼は、いつもラフなパーカーにジーンズ姿だったから、ギャップに戸惑う。
貴久のうしろに女性が続いていた。
彼に負けず劣らず目立つ人だ。
年齢は詩緒と同年代か少し上くらいに見える。服装はダークカラーのシンプルパンツスーツだが、彼女自身が華のある容姿をしているので地味だと感じない。
彼女が床に置いた黒いレザーのトートバッグから、ノートパソコンを取り出し机の上で開く。そのとき、不意に詩緒の方に目を向けたため視線が重なった。
彼女の顔がはっきり見えた。
(え……)
詩緒の心臓がどくんどくんと乱れはじめた。
動揺しながら目を伏せた。
貴久が連れている女性に見覚えがある。
彼女は詩緒が貴久と別れることになった原因の女性にとても似ている。
(どうしてここにあの人が……いやでも似ているだけかもしれない)
彼女の顔を見たのはたった一度だけ。しかももう九年も前の話だから、記憶違いをしている可能性だってある。
(でもすごく似てる……そうだ、事前資料に担当者の名前が書いてあったかも)
貴久の恋人は”あずさ”という名前だった。彼がそう呼んでいたのをはっきり覚えている。
直ぐにノートパソコンの画面に資料を表示して、確認する。
(五十嵐梓紗……やっぱりあのときの彼女なの?)
詩緒が動揺する中、全員が揃い会議が始まった。
貴久が立ち上がり発言する。
「アイオン社の渡会です。この度は当社のCIONシステムを採用いただきありがとうございます。当該システムは、顧客の要望に合わせてカスタマイズできることが特徴です。御社では資材発注と生産管理のタイムラグによる余剰在庫が問題とのことでしたので……」
貴久の滑らかな声が会議室に響く。
詩緒は無理やり意識を切り替えて、画面に目を向ける。
貴久の説明が終わると、女性が静かに立ち上がる。詩緒が注視する中、彼女が口を開いた。
「アイオン社、営業部の五十嵐と申します。わたくしからは今後の詳細スケジュールについて説明させていただきます」
梓紗が流暢に語り、スケジュールが分かりやすく表示されたカレンダーをスクリーンに表示させる。
(ふたりはまだ付き合っているのかな? 同じ会社なのは貴久君が誘ったから?)
仕事に集中してなくてはならないのに、梓紗を見ていると余計な思考が頭を占める。
「印刷したものが必要でしたらこちらに用意しておりますので、よろしかったらお使いください」
詩緒は資料を貰うために立ち上がった。
成宮社長はタブレットでデータを見るよりも、紙ベースで確認し直接書き込むのを好むから、こう言う場合は資料を貰ってくる必要がある。
「どうぞ」
梓紗が愛想よく資料を手渡してくれた。同性の詩緒から見てもどきっとするくらい美しい笑顔だった。
「……ありがとうございます」
御礼を言って席に戻る。貴久の目の前を通りすぎながらも、彼の顔を見ることができなかった。
説明会は質疑応答も含め予定していた一時間丁度で終了した。
成宮社長はこの後、外出の予定が入っているため、貴久に目礼だけして早々に会議室を出た。
当然詩緒も成宮社長に付き従い、外出に必要な資料の準備や同行する営業部長への連絡などを熟す。全て終えると一階に降りて見送りをした。
ずっとバタバタしていたが、ようやく一息ついた。
時刻は午後四時。午前中に急なスケジュール変更の対応があり、昼休憩を取る間もなく説明会に入ったので、昼食を取る暇もなかった。
食事はもう諦めたが、休憩に入ろう。
梓紗を見たときの衝撃からまだ立ち直れていないので、頭を冷やしたい。
エレベーターに乗り込み最上階のボタンを押す。スムーズに上昇したが八階で停まり匠海が乗り込んできた。
「お疲れさま。休憩か?」
「うん。椎名君も?」
「ああ、一息入れようと思って」
匠海は珍しく疲れた様子だ。
「何か問題が有ったの?」
「ああ、内藤さんがしばらく出社できなくなった」
「えっ、本当に?」
内藤とは専務秘書の名前だ。今年で勤続二十年になるベテランの女性で、役職に就いているわけではないが皆が頼りにしている存在である。
詩緒もイレギュラーな対応が必要なときなど、経験豊富な彼女に相談することが多い。
エレベーターが最上階に到着した。
匠海と連れだって降り、最上階の大部分を占めるカフェテリアに向かう。
中央にコーヒーショップのような注文カウンターがあり、その周囲にテーブル席とソファが配置されている。
社内打ち合わせに使用したり、休息に使ったりと、社員が活用しているスペースだ。
注文カウンターに並び、匠海はアイスコーヒーを、詩緒はアイスカフェラテとカヌレをオーダーしてから、空いていた窓際のテーブル席に落ち着いた。
「それで、内藤さんが出社できないって、何かあったの?」
匠海が周りを気にして声を潜める。
「外出先で腰を痛めて、病院に運ばれたんだ」
詩緒は思わず目を見開いた。
「もしかしてぎっくり腰?」
「ああ。当分の間、絶対安静だそうだ」
「当分ってどれくらい?」
「症状が治まるまで個人差があるそうではっきりしないが、一週間以上はかかるだろうな」
「そうなんだ……心配だね。お見舞いに行きたいけど自宅で安静なら負担をかけちゃうよね」
「そうだな。今のところは遠慮した方がいいと思う。仕事で問題があったらメールをしてほしいと言っていたが、それもしばらく控えた方がいいだろうな」
詩緒もそれには同意だ。
「彼女の業務は俺がフォローするが、詩緒にも協力して貰うかもしれない」
「もちろん。何でも言ってね」
「ああ、ありがとう」
匠海が安心したように微笑む。
話が一段落したので詩緒はカヌレの個装袋を破ってひと口食べた。
「そう言えば、今日昼抜きなんじゃないか?」
匠海がはっとした様子で言う。
「うん。タイミングを逃して。椎名君も休憩していなかった気がするけど」
匠海も午前中かなり忙しくしていたように見えた。
「俺は適当に済ませたからいいんだ。詩緒もしっかり食えよ」
「椎名君こそ適当だなんて言ってないで気を付けてよね。明日からますます忙しくなるんだから」
「お互い気をつけろってことだな」
匠海が爽やかに笑う。詩緒もつられて表情を和らげる。会話が途切れ、詩緒は窓の向こうに視線を向けた。
いつもと変わらない風景が続いている。
地上を行き交う車の流れに目を遣ったとき、ふと貴久の姿が思い浮かんだ。
多くの人が集まる会議で堂々と発言する姿。彼の隣にはあのときの彼女が今でも居たのには驚いた。
もう遠い過去の出来事のはずなのに、突然現実が目の前に現れたような気持ちになる。
本音を言えばショックだった。古傷を抉られたかのように苦しくて……。
「詩緒?」
匠海の呼びかけではっとした。
「な、なに?」
「怖い顔してどうしたんだよ?」
「え?……なんでもないよ」
どんな顔をしていたのか気になるが、あいにく鏡を持っていない。
「会議で問題が?」
「順調だったよ。寝不足ぎみだから、ぼうっとしちゃっただけ」
「それならいいけど。何かあったら相談しろよ」
「うん、ありがとう」
匠海は面倒見がよく、困っているといつも手を差し伸べてくれる。
(でも今回ばかりは相談できない)
仕事とはまったく関係がないプライベートの恋愛問題で悩んでいるのだから。
しかも現在進行形ではなく、とっくの昔に終わった恋だ。
(はあ……こんなに動揺しちゃうなんて……)
あの頃と今は違う。自分はもう二十六歳の大人だ。それなのに――。
成長していない自分が情けない。
(一喜一憂するのはやめよう。貴久君が以前の彼女とまだ続いていたっていいじゃない)
自分の初恋相手は次々と相手を変えるような人ではなく、長年一人の相手に愛情を注ぐことができる人だったのだ。むしろよかったではないか。
(でもそれならどうして私のことは裏切れたの? ……いや、そんなこと今更気にしてどうするの?)
気にしないと決意した途端に、また悩み始める自分に呆れてしまう。
自嘲して残っていたカフェラテを飲み干して匠海に目を向けた。
「そろそろ戻ろうか。仕事も溜まってるし」
「そうだな」
匠海が飲み終えたカップを持って立ち上がる。詩緒もそれに続いた。
「戻ったら室長に報告がてら業務分担の打ち合わせをしよう」
「うん分かった」
匠海と並んでカフェテリアの出口に向かう。その途中、詩緒ははっとして立ち止まった。
カフェテリアのカウンター近くのテーブル席に、貴久の姿を見つけたのだ。
貴久はいつから詩緒に気づいていたのか、こちらを見つめていた。
彼と同席しているのは、梓紗とシステム課の男性社員だった。
急遽予定にない打ち合わせをすることになったため、予約不要のカフェテリアに来たのかもしれない。
「どうした?」
立ち止まったまま身動きしない詩緒に気づいた匠海が、怪訝そうな声を出した。
「……アイオン社の社長が居たから」
「アイオン社の?」
匠海が詩緒の視線を追うように、貴久の方に目を向ける。
するとシステム課の社員も匠海と詩緒に気づき、呼びかけるように手を上げた。
「せっかくだから挨拶をしておこう」
「えっ?」
匠海がすたすたと貴久たちの方に歩いていってしまう。詩緒も仕方なく後に続いた。
「椎名副室長」
営業部の社員が立ち上がり匠海を出迎える。貴久たちも倣って立ち上がった。
「渡会社長、こちらは秘書室の椎名副室長です」
システム課の社員から紹介を受けた貴久が、名刺を取り出し匠海に差し出した。
「アイオン社の渡会と申します。こちらは当社営業部の五十嵐です」
「五十嵐梓紗と申します」
貴久の彼女も貴久と同様名刺を渡してきた。詩緒の目に名刺を持つ彼女の指先が映る。
サロンで手入れをしている上品で美しい爪先だ。
「ご丁寧にありがとうございます。こちらは社長秘書の雪元ですが、渡会社長には既にご挨拶をさせていただいていましたね」
匠海が柔らかな笑顔で言うと、緊張感が和みほっとしたような空気が流れる。
「ええ。先日、成宮社長との会食でご一緒しました」
貴久がそう言った瞬間、梓紗の表情が変化した。
(驚いているみたいだけど、会食のことは知らなかったのかな?)
恋人同士というだけでなく、同僚として情報共有していない様子に違和感を覚えた。
「営業管理のシステムの導入について、相談してたところなんです」
システム課の社員が匠海に向かって言った。
システム導入は最終的に全部署で行い一元管理ができるようになる予定だが、各部署それぞれ要望があり調整をしているらしい。
「そうなんですか。近い内に秘書室からも相談させていただきたいですね」
「いつでも対応させていただきます」
匠海の発言に、貴久がすかさず答えた。
「助かります。秘書室は特殊なので手間をかけてしまうと思いますが」
「ぜひご要望をお聞かせください。ご期待に応えることをお約束します」
梓紗が自信に溢れた表情を浮かべながら言った。
背筋を伸ばし堂々とした彼女の姿に、詩緒は圧倒される。
間近で見る梓紗は美しく、貴久の隣に居ても少しも見劣りしない。
嫌になるくらい似合いのふたりで、詩緒の胸がちくりと痛んだ。
「慌ただしくて申し訳ありませんが、我々はこれで失礼します」
少しの会話のあと、匠海が言った。詩緒の背をそっと押すようにして促す。
「失礼します」
詩緒はそれだけ言い匠海と共にその場を去った。
エレベーターに乗り込むと、緊張で強張っていた体から力が抜ける。すると匠海の心配そうな声がした。
「大丈夫か?」
「え? あ、うん。大丈夫だよ。ちょっと緊張しただけ」
「緊張?」
匠海が怪訝そうな顔をする。
「あの、社長の前だとやっぱり身構えてしまうというか」
「今更な気がするけど。社長には頻繁に接しているだろ?」
「そうなんだけど、た……渡会社長はまだ慣れなくて」
「ふーん、まあ迫力がある人ではあるな。その様子じゃ、先日の会食は大変だったんじゃないか?」
貴久を思い出している様子の匠海に、詩緒は頷いた。
「そうなの。でもそのうち慣れると思うから」
なんとか誤魔化して自席に戻る。
(油断したら個人的な関係があるんじゃないかって気づかれそう)
用心しなくてはならない。
詩緒はあまり自己主張をしないし、喜怒哀楽が激しいタイプではない。
でも貴久の件になると感情が乱れて、冷静になろうと戒めても無駄だ。どうしても冷静ではいられなくなる。
しばらくの間は貴久と会う機会があるだろう。おそらく梓紗とも。
その度に胸を痛めることになるかもしれない。
(でも絶対に隠さなくちゃ)
成宮社長にも匠海にも、そして貴久本人にも。
それはとても難しいことのような気がする。
前途多難な先行きに詩緒は小さなため息を吐いた。
ゴールデンウイーク明けの五月二週目。
詩緒は成宮社長のお供で、取引先である佐々木製作所の創業記念パーティーに出席していた。
専務と匠海も同行している。
都内の老舗ホテルの大広間で開催されたパーティーには、二百人を超える人々が集まり賑わっている。
こういう社交の場はビジネスチャンスでもあるから、皆挨拶回りや情報収集に余念がない。成宮社長と専務の周りにも多くの人が集まっていた。
詩緒は成宮社長が相手の会社名や名前を思い出せない場合など、そっと耳打ちして情報提供するなどフォローに徹した。
一通りの挨拶が終わると、佐々木製作所社長の挨拶が始まり、皆の視線が前方のひな壇に集まる。
詩緒も話に聞きいっていると、匠海がやって来て小声で耳打ちした。
「この後、専務と社長で飲みに行くことになった」
専務は成宮社長の従兄に当たる。プライベートでも仲がよいため、ときどき仕事の後に飲みに行くから、珍しいことではない。
「そうなんだ。帰りの車はキャンセルする?」
「いや、専務の方を帰しておいた」
「分かった」
ひな壇での挨拶と祝辞が終わると歓談の時間になり、その後一時間ほどでパーティーが終了した。
詩緒は匠海と共に、車寄せで成宮社長と専務を見送る。
車が遠ざかり夜の街に消えていくと肩の荷が下りた。
詩緒は匠海に目を向けた。
「無事終わってよかったね」
「ああ、お疲れさま……今日の仕事は完了したけど、腹減ってないか?」
「うん、祝辞のときにお腹が鳴りそうになってひやひやした」
パーティー会場には豪華な料理が用意されていたが、秘書の立場ではボスを放って食事をするわけにはいかない。少し飲み物で喉を潤す程度だった。
「何か食べて行かないか?」
匠海の言葉に詩緒は頷いた。
「そうしようか。何がいいかな」
適当な店がないか検索をしようと、バッグからスマートフォンを取り出した。そのとき。
「椎名さん?」
背後から匠海を呼ぶ女性の声がした。
匠海ともども振り返った詩緒は、驚きに目を見開いた。
そこに居たのは、貴久と梓紗だったからだ。
「ああ、おふたりとも今帰りですか?」
動揺する詩緒とは裏腹に、匠海はとくに驚いた様子はなく話しかける。
「ええ。成宮社長にご挨拶したかったのですが、もうお帰りに?」
貴久がさりげなく周囲を見回した。
「たった今帰宅したところです。なにか申し伝えることがあるなら承りますが」
「いえ。特に用が有った訳ではないのですが、会場では話が出来なかったので」
(貴久君もパーティーに出席していたんだ)
事前に出席者の名簿を見た訳ではないし、会場には大勢の人が居て込み合っていたため、気が付かなかった。
「そうなんですね。渡会さんがいらっしゃったと伝えておきます。きっと残念がると思います」
匠海の返事に貴久が頷く。それから詩緒にちらりと視線を向けた。
まともに目が合ってしまい、不覚にも動揺してしまう。
「おふたりは帰社されるのですか?」
「いえ。今日はこれで帰宅します」
貴久の問いに、匠海が答えた。すると、それまで黙っていた梓紗が明るい声で割り込んだ。
「でしたら夕食をご一緒しませんか?」
「えっ?」
予想外の発言に、詩緒は思わず声を漏らしてしまう。
梓紗は詩緒をちらりと見てから、匠海に笑みを向けて続ける。
「パーティー会場では食事が出来なかったので、何か食べていこうと話していたんです。せっかくここでお会いしたのですし、夕食がてら交流を持てたらうれしいです」
匠海は一瞬戸惑いを見せたものの、柔和に微笑んだ。
「お誘いありがとうございます。ぜひご一緒させてください」
「よかった。ではお店に人数変更の連絡をしますね」
梓紗は両手を合わせて喜ぶと、早速電話をかけはじめた。
「勝手に決めて悪い」
匠海が少し離れる梓紗に目を遣りながら、詩緒に耳打ちした。
「大丈夫」
詩緒も小声で返事をする。
正直言ってかなり動揺している。貴久と梓紗と一緒に食事をするなんて、この場から走って逃げ去りたいくらい気が重い。
でも、匠海が誘いに応じたのは理解できる。
先に帰宅すると言ってしまった以上、仕事が残っているとは言えない。波風を立てないようにするには、少し付き合った方がいいと判断したのだろう。
「人数変更OKです。行きましょう」
梓紗に促されて歩き出す。予約をしている店は、パーティー会場だったホテルから徒歩十分弱の、ごく普通の料理屋だった。
梓紗が選んだ店と聞いて、もっとお洒落なイタリアンレストランのような店を想像していたため意外だった。
店に入ると右手に長いカウンター席があり、中に料理人らしい高年の男性がふたり居た。左手は座敷席となっている。
「いらっしゃいませ」
藍色の作務衣の女性店員がやってくると、梓紗が前に出た。
「こんばんは。急な人数変更ごめんなさい」
「いえいえ大丈夫ですよ。いつもの席を用意してますので」
「ありがとう」
女性店員に促されて、座敷の横を通り過ぎて奥に向かう。
襖で仕切られた向こうは個室になっていた。
四人掛けのテーブルに貴久と梓紗が並んで座る。匠海は貴久の前に、詩緒は梓紗の前に腰を下ろした。
「どうぞ」
梓紗が匠海にお品書きを手渡した。
「ありがとうございます」
匠海が詩緒との間にお品書きを置いた。一緒に見ようということだろう。
メニューはオーソドックスで、容易に味が想像できるものばかりだ。
「サラダと串焼きでいいか?」
「うん。卵焼きも頼む?」
「そうだな」
「ご飯ものも頼んだら?」
「焼きおにぎりがあるから、あとで頼むか」
相談しながら決めていると、視線を感じた。
お品書きに向けていた視線を上げると、貴久と梓紗がじっとこちらを見ている。
「……あの、おふたりはもう決めたんですか?」
戸惑いながら問うと、梓紗がにこりと微笑んだ。
「私たちはいつもと同じものなので」
「あ……常連さんなんですね」
詩緒は心がすっと冷えるのを感じた。梓紗と店員のやり取りを見て彼女が常連なのは察していたが貴久もだったとは。
(ふたりでよく来ているのかな)
恋人なら頻繁に食事をするのは当然だろうが、あまり知りたくなかった情報だ。
それに普段ふたりがデートをしている場所に、自分がいるというのは居心地が悪い。
「それならおすすめを聞いてもいいですか?」
口ごもった詩緒の代わりに、匠海が質問した。
「自家製塩辛と牛ひれのかつが美味しいですよ」
「カニのサラダと、ホタテとキノコの和風グラタンもおすすめですよ」
貴久の返事に、梓紗が補足する。息がぴったりだ。
「ありがとうございます。雪元さんはグラタン好きだったよな」
匠海が詩緒に確認する。雪元さんと苗字で呼ぶのは、彼がこの場を仕事の延長として捉えているからだろう。
「はい。せっかくだから、おすすめしていただいたものを頼んでみましょうか」
詩緒も倣って仕事モードを心掛ける。
余計なことを口走ったら怖いので、お酒も控えてウーロン茶にした。
「雪元さんはお酒苦手なんですか?」
詩緒のオーダーを聞いていた梓紗が意外そうな顔をする。
「ええ。あまり得意ではないので、休みの前の日くらいしか飲まないようにしているんです」
「そうなんですか。それなら仕事帰りにはあまり飲みに行かれないんですか?」
梓紗は朗らかな性格のようで、ほぼ初対面の詩緒にも屈託なく話しかけてくる。
「ときどき食事には行きますよ」
「椎名さんとですか?」
「え? ……あ、はい。他にも秘書室のメンバーがいることもありますけど」
「仲がいいんですね」
梓紗がにこりと微笑んだ。詩緒も笑い返したが、自然に振る舞えているだろうか。
料理と飲み物が届いたので、食事を始める。すぐ側に貴久がいると思うとかなり緊張する。
成宮社長の会食とはまた違った緊張感だ。
詩緒以外はアルコールをオーダーした。とくに梓紗はかなり飲むタイプのようで、ペースが早い。
心配になるが貴久は気にしていないようなので、普段からこんな感じなのだろう。
顔色も変わっていないので、非常に強いのかもしれない。
ただまったく酔わないタイプではないようだ。失言はないものの口数が増えている。
しばらくすると、梓紗が気まずそうな表情を浮かべた。
「あ、ごめんなさい。私しゃべりすぎていますよね。椎名さんと雪元さんは同年代のせいか、つい気安く話してしまいます」
「今はプライベートの時間ですし、気楽にしてください」
匠海がジントニックのグラスを口に運びながら気さくに答える。
「わあ、うれしい。それじゃあ無礼講ということで質問してもいいですか?」
「構わないですよ」
少し身を乗り出す梓紗に、匠海が頷く。
「ありがとうございます。ではまずひとつ目の質問なんですけど、椎名さんと雪元さんは同期入社ですか?」
詩緒は驚き瞬きをした。なぜ彼女が知っているのだろう。
「ええ、そうです。どうして分かったんですか?」
「あ、やっぱりそうだったんですね。先日カフェテリアでお会いしたときと、今日のふたりの雰囲気が、ただの同僚よりも親しい気がして、もしかしたらと思ったんです」
「なるほど。鋭いですね」
匠海が感心したように梓紗を見た。
詩緒もたったそれだけで見抜く梓紗の洞察力に驚いていた。
一見明るく大らかだけれど、実際はずっと冷静に周囲を見ているのかもしれない。
そんなことを考えていると、匠海が思いがけないことを言い出した。
「渡会社長と五十嵐さんも、同期じゃないですか?」
梓紗がうれしそうな笑顔になった。
「すごい、よくわかりましたね」
「よかった、あたりだ」
匠海も楽しそうに目を細める。貴久は無言ながらふたりの話を落ち着いた様子で聞いている。和やかな雰囲気が場を包み、いつの間にか仕事の延長からプライベートの食事会の雰囲気に移行していた。
「ただ正確には同期ではなく同級生です。私たちは学生時代からの付き合いなんです」
これには匠海も驚いたようだ。意外そうに貴久と梓紗を交互に見る。
「ご存じかもしれませんが、アイオン社はライワシステムサービスの一部署が分社化した企業です。元々ライワの社員だった渡会が社長に抜擢されて、私も彼と共に新しい環境で仕事をしたくて転籍を希望したんです」
「そうだったんですね。五十嵐さんのようなしっかりした友人が支えてくれているなら、渡会社長も安心して仕事ができますね」
「そんなことないですよ……ねえ?」
梓紗は謙遜しながらも、期待に満ちた目を貴久に向ける。
「ええ、五十嵐にはいつも助けられています」
貴久が期待通りの発言をする。梓紗がうれしそうに頬を染めた。
その様子は到底同僚の関係には見えない。詩緒は苦々しい気持ちになった。
回避できない流れだったとはいえ、ふたりの親しい様子を間近で見るのは精神が削られる。
しかも誰にも気づかれないように、平気なふりをしていないといけないのはかなりきつい。
主に匠海と梓紗が会話をして、貴久と詩緒が聞き役という形で歓談する。料理があらかた無くなると、梓紗が脇に放置していたお品書きを手に取った。
「ここの茶そばがさっぱりしていて最高なんです。しめに食べましょう」
気を遣っておすすめを頼んでくれようとしているのだろう。梓紗が早々に店員を呼ぼうとする。
しかし詩緒は蕎麦のアレルギーがあり食べることができない。
「すみません、私は……」
遠慮しますと言おうとしたそのとき。
「五十嵐さん、待ってください」
「三人前でいい」
匠海と貴久が詩緒が発言するよりも早く、梓紗を止めた。
「え……」
梓紗が怪訝な表情になる。匠海も探るような目で貴久を見た。
貴久は一瞬失敗したとでもいうように顔をしかめる。
気まずい空気が漂う中、匠海が口を開く。
「せっかくのお気遣いですが、雪元は蕎麦を食べられないので、私だけいただきます」
「えっ、お蕎麦が苦手でしたか?」
梓紗が詩緒に目を向ける。
「アレルギーがあるんです」
詩緒が正直に伝えると、梓紗が僅かに目を瞠った。
「そうだったんですね……ごめんなさい、配慮が足りませんでした」
「いえ、私の方こそ先に伝えておくべきでした」
しゅんとする梓紗に詩緒は慌ててフォローを入れる。自分のせいで場をしらけさせてしまったようで申し訳ない。
というのも、貴久が醸し出す雰囲気がどこか不穏なものに変わった気がするのだ。
少し前までの落ち着いた余裕があるものではなく、気がかりがあるときのような気難しそうな目をしている。
実際は表情に殆ど変化はないのだけれど、気づいてしまった。
(彼女のせっかくの好意に水を差した形になったから不満なのかな?)
そう考えると気持ちが重くなった。
「……雪元さん?」
「あっ、はい」
梓紗に大きな声で呼びかけられて、詩緒ははっとして俯いていた顔を上げた。
「どうしますか?」
(どうするって?)
どうやら考え込むあまり、梓紗の話を聞き逃していたようだ。
「この柚子シャーベットでいいよな?」
戸惑っていると、匠海が詩緒の目の前にお品書きをさっと置きながら言った。
どうやら注文を聞かれていたらしい。
「はい、そうします」
にこやかに答え、フォローしてくれてありがとうと匠海に目で合図を送った。
「もうデザートで大丈夫ですか? 雪元さんあまり食べていないと思うんですけど」
確かに詩緒はあまり料理に手を付けていない。
「ええ。タイミングを逃したせいかあまりお腹が空いていなくて」
本当は緊張のあまり、食事が喉を通らなかったのだけれど。
「ああ、うちの渡会と一緒ですね」
梓紗がそう言って貴久を優しい目で見た。
(そう言えば、貴久君も茶そばは三人前でいいって言ってたっけ)
梓紗は壁に掛けられた電話で注文を入れてから、少し外すと部屋を出て行った。
多弁だった梓紗がいなくなると、急に静かになった気がする。
沈黙が居たたまれなくて何か話さなくてはと焦ったそのとき、貴久が口を開いた。
「椎名さんと雪元さんは随分親しいんですね」
「え?」
まさか彼がそんな発言をするとは思っていなかった。驚き貴久を見つめるが、彼の視線は匠海に向いている。
「ええ。先ほどもお話ししましたが同期ですので。仕事中は副室長と秘書という立場がありますが、プライベートでは気さくな関係ですよ」
匠海がよどみなく答える。
「同期で上司と部下の関係というのはやり辛くないものですか?」
「特に問題はないですね。彼女は公私混同する人ではありませんし、むしろお互いの性格を分かっている分、やりやすいです。仕事を離れたら愚痴を言い合ってストレスを解消できますしね」
匠海がにこりと笑って、詩緒を見た。
同意を求めるようなその視線に詩緒はおずおずと頷いたが、内心違和感を覚えていた。
(やけに仲の良さをアピールしているような……)
匠海は人当たりがよく誰とでもコミュニケーションを取れるタイプだが、その一方で口が堅くプライバシーに関する情報は滅多に口にしない。
だからこの場合も、もっと当たり障りない、例えば同期でも仕事上は問題ないくらいの回答でよかったはずなのだ。
ふたりで愚痴を言い合うなんて、取引先相手にイメージダウンにならないだろうか。
まったく匠海らしくない態度に、詩緒は首を傾げた。
(もしかして酔っ払ってるのかな?)
彼はお酒に強い方だが、体調によっては酔いが回ってしまうこともあるだろう。
(顔には出てないけど……)
「本当に仲が良さそうだ……羨ましいですね」
貴久が笑顔で言った。
(完全に作り笑い……)
詩緒はひきつりそうになる顔を俯いて隠した。
あの顔は羨ましいなんて思っていない。むしろ呆れて不愉快に思っている。
かといって弁解するのもおかしな気がした。匠海と仲がいいのは嘘ではないし、言い訳をするのは貴久に誤解をされたくないと言っているようなもので、そうすると詩緒の心情に気づかれる恐れがある。
こうなったら早々に話題を変えるしかない。そう思ったのに、匠海が蒸し返してしまう。
「渡会社長と五十嵐さんも俺たちと同じような関係では?」
図らずも詩緒が知りたくて、でも知りたくないデリケートな話題になった。
心臓がどきどきと音を立てる。彼はなんて答えるのだろう。
「……そうですね」
少しの間の後、静かな声がした。
「お互い心強いパートナーが居てよかったですね」
匠海の朗らかな声に、詩緒は僅かに頷いた。
失望が胸に広がっていく。
この後に及んでまだ、貴久と梓紗の関係を認めたくない自分の心に情けない気持ちが込み上げて、詩緒はテーブルの下の手を人知れずぎゅっと握り締めたのだった。
それから三十分ほどで、お開きになった。
時刻は午後十一時。
梓紗はかなり酔いが回っているようで、もう一軒いかないかと誘ってきたが、明日早くから仕事があるのでと丁重に断った。
「残念ですがしつこく誘うのは失礼ですものね。タクシーを呼びますから少し待ってくださいね」
「いえ、お気遣いはありがたいのですが、まだ電車がありますので」
車の手配をしようとする梓紗を、匠海が止める。
同じタイミングで、貴久が詩緒に声をかけてきた。
「遅いから車で送りましょう」
「い、いえ、大丈夫です。まだそれほど遅くありませんし」
これくらいの時間は慣れているし、終電までだって十分余裕がある。
ところが貴久は、なぜか引きさがらない。
「女性の独り歩きは用心した方がいい。遠慮はいりません」
「あ、あの……」
やけに強引な態度に感じる。匠海と梓紗におかしく思われないかとハラハラしてしまう。
特に梓紗の前でこんな態度はよくないのではないだろうか。
(いくら幼馴染だからって)
梓紗に警戒されるのが嫌で、貴久との関係は伏せたままにした。貴久も同じ考えのようで、あくまで仕事関係の人間として接していたと思う。
梓紗の存在が気になり、ちらりと彼女の様子を窺う。その瞬間どきりとした。
匠海の隣で佇む彼女から笑みが消えていたから。詩緒から目を逸らさず見つめている。
「お、お構いなく。本当に大丈夫ですから」
危機感のようなものを覚えたせいか、突き放すような言い方になってしまった。
「渡会社長、ご配慮いただきありがとうございます。ですが彼女は僕が責任を持って送って行きます」
匠海が貴久と詩緒の間に入るようにして、やんわりと断りの言葉を告げる。
その直後、梓紗が貴久に近寄り腕を取った。
「雪元さんは椎名さんがいるんだから大丈夫よ。私たちも帰りましょう」
梓紗の貴久に対する距離感はとても近くて、上司と部下どころか同僚の関係にすら見えない。
(さっきまでは弁えた態度だったのに)
だから、仕事の延長のような場では恋人だということを隠しているのかと思ったが、どういう心境の変化なんだろう。
(ただ酔っ払っているだけ?)
分からないが、彼女の言動で詩緒がダメージを受けているのは確かだった。
「今日は楽しかったです。お疲れさまでした」
「こちらこそありがとうございました。お疲れさまです」
お互い頭を下げて挨拶をして、解散する。
貴久は憮然とした表情に見える。何かに納得がいかないのだろうが、詩緒には彼の気持ちなんて分からない。昔はもっと彼のことを分かっているつもりだったが、離れていた年月は、詩緒と貴久を他人にするのに十分な長さだったということだ。
「貴久、行こう」
解散したことで油断したのか、梓紗が“貴久”と呼び捨てにした。
すっかりプライベートモードに切り替わったということだろう。
(恋人同士なんだから当たり前だよね)
むしろいちいちショックを受けている詩緒がおかしいのだ。
早く貴久へのこの複雑な気持ちが消えたらいい。
もうこんなふうに、思い悩んだりしたくないから……。
そのとき、予想外の言葉が耳に届いた。
「渡会社長と、何か関係があるんだろ?」
驚き匠海を振り返ると、彼はいつになく真剣な表情で詩緒を見つめていた。
「ど、どうして?」
「態度を見てたら分かる。詩緒は明らかにいつもと違っていたからな。多分隠していたつもりだろうが、上手くいってなかったな」
「……そっか」
詩緒は諦めの気持ちで匠海を見つめた。それほど態度に出てしまっていたなら、下手に誤魔化しても意味がない。それに成宮社長には昔の知り合いだと知られているのだから、そちらからばれる可能性だってある。
さすがに付き合っていたとまでは言えないけれど。
「実は地元が一緒で、子供のころからの知り合いなの」
「同級生だったのか?」
匠海が目を丸くした。
「ううん。私より二歳年上だから同級生ではない。でも彼の両親が経営する旅館で私の母が働いていた関係で、子供の頃から顔見知りだったの」
社長の息子と従業員の娘だ。言葉の印象としては、実際よりも遠い関係に感じるはずだ。
「そうだったのか……」
「この前、成宮社長の会食に同行したときに、初めて取引先相手が彼だって知ったの。でも昔の知り合いだって知られたら仕事がやりづらくなりそうだから、お互いしっかり割り切ろうって話をしていたんだ」
こう言えば匠海も納得すると思っていた。ところが彼は浮かない表情のままだ。
「俺には割り切れているようには見えなかったけどな」
見透かされたような発言に心臓が跳ねた。
「そ、そんなことはないんだけど、知っている人を知らないふりするのって結構難しくて。私そういうの苦手だから」
苦笑いで誤魔化そうとするものの、匠海は首を横に振る。
「それは分かってる。俺が言いたいのは渡会社長の態度だよ」
(貴久君の態度?)
「どういう意味?」
「本当に隠す気があるのかってくらい私情が滲み出ていた」
匠海は呆れたように肩をすくめた。
「そうは思わなかったけど、どんなところが?」
「挙げたらきりがないけど、やたらと詩緒を気にしているところから始まって、五十嵐さんが茶そばを頼もうとしたら即刻止めただろう? 詩緒のことをよく知っていると宣言するようなものじゃないか。関係ないふりをするなら黙っている場面だよな」
「三人前でって言ったのは、自分の分が要らないって意味じゃないの?」
その後も彼は注文していなかったのだし。
「違う。あれは詩緒のアレルギーを知っていたから止めたんだ。それに俺と詩緒の仲がいいって話になったら明らかに不機嫌になった」
「……アレルギーの件は問題にならないように止めたのかもしれないけど、他はそんなふうに思わなかった。椎名君の気のせいじゃない?」
「気のせいな訳あるか。社長に選ばれたような人だぞ? その気になったら自分の感情なんてうまく隠すはずだ。隠す気がないんだよ」
断言する匠海に、詩緒は眉をひそめた。
「でもどうしてそんなことをするの? お互い仕事として公私混同しないようにしっかりしようって言ったのは向こうなんだよ」
「それは……詩緒があまりに鈍感だから態度に出しているのか、俺への牽制だろうな……」
「まさか……」
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