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初恋は終わらない CEOな元彼と再会したら、甘すぎる求婚が待っていました 1

第一話
 

 


「詩緒、俺を見て」
 いつものとは違う掠れた声に誘われるように、詩緒は閉じていた目を開けた。
 ベッドに組み敷かれて、制服のブレザーとチェックのスカートを脱がされたところだ。
初めての経験に不安と恥じらいでいっぱいで、余裕なんて一切ない。それなのに熱が籠った瞳と視線が重なると、詩緒の胸は甘くときめいた。
 ああ、彼が好きだと思う。
 彼と初めてあった幼かったあの日から、ずっと想い続けていた。
「貴久君、大好き」
 溢れそうな想いが、自然と口をついて出た。
 詩緒を見下ろす彼が目を細める。
「俺は愛してるよ」
 もう何度目か分からないキスをされる。それだけで詩緒の鼓動は高鳴り甘いときめきに満たされる。
「私も……」
 彼への気持ちは誰よりも大きい自信があるけれど、“愛してる”と言葉にするのは恥ずかしい。
 そんな詩緒の心情を見透かしているように、彼が愛しげに微笑んだ。
「可愛いな」
「えっ……あの」
 頬に熱が集まり、詩緒は顔を真っ赤に染めた。
「俺以外の男を見ないように閉じ込めたいくらいだ」
 普段の優しく穏やかな彼からは想像できない情熱的な言葉に、心臓はどきどきと音を立てる。
(貴久君以外の男の人なんて見ないのに)
 彼が側に居てくれるなら閉じ込められてもいいと思うほど、詩緒は初恋の熱に浮かれていた。
「んっ……」
 舌を絡める深い口づけに、頭の中が真っ白になる。
 いつの間にか、下着も取り去られていて、彼の視界から素肌を遮るものはなにもなくなっていた。
 羞恥心を覚える暇もなく、首筋をきつく吸い上げられる。
 彼の手が詩緒の裸身をそっとなぞる。胸の膨らみに遠慮がちに触れた手の動きが次第に大胆になり形が変わるくらい揉まれると詩緒は耐えられず声を上げた。
「あっ! ん……」
 己のものとは思えない女の声に、耳を塞ぎたくなった。
 ところが貴久の熱はますます高まり、熱心に詩緒の体を溶かしていく。
 深い陶酔感に、恥ずかしさすら忘れそうになったとき、彼が詩緒の中に入ってきた。
「ああっ!」
 鋭い痛みに悲鳴があがる。
 宥めるような優しいキスが頬をかすめる。
 絡めるように手を結び、始まった律動の衝撃に耐えた。
 ひきつるような痛みと、徐々に感じはじめる快楽。
 苦しさよりも、彼の本当の恋人になれたのがうれしくて、この幸せが一生続くのだと信じていた――。

 初恋は実らないのだと知ったのは、それからたった一年後。
 彼の大学進学で遠距離恋愛になってから、徐々に連絡が取れなくなり、気づけば“愛している”と言ってくれなくなった彼の隣には、詩緒の知らない女性がいた。
 大人びたとても美しい人が。
「梓紗」
 彼が彼女の名前を呼んだ。優しい声に胸が痛む。
 幸せそうに腕を組んで歩くふたりの間に、詩緒が入り込む余地はなんて僅かもない。
 彼女が微笑み、貴久の頬にキスをした。
 その瞬間、詩緒は弾かれたように踵を返してその場から逃げ出した。
 信じたくなかった。悲しくて辛くて、彼に別れを告げられるのが怖くて耐えられなかった。
 だから自分からさよならをした。
 高校三年生、まだ寒さが残る春の出来事だった。
 

 

 

 

 

 桜の蕾が膨らみ始めた。
 この季節になると物悲しくなる瞬間があるのは、初恋が終わったときの痛みを嫌でも思い出してしまうからだろうか。
 彼の気持ちが他の女性に向いているのを知ったとき、別れを告げられるのが怖くて、自分から関係を終わらせた。
 メッセージのさよならだけの呆気ない終わり。彼は別れを受け入れた。
 でも本心では別れたくなかった。裏切られても彼が好きで、引き留めてくれたらやり直したかった。
 あのとき、どうして自分から別れるなんて言ってしまったのだろう――。
 雪元詩緒が桜の蕾から目を逸らし俯くと、癖のない栗色の髪が肩を流れた。
(いくら後悔しているからって、高校生の頃の失恋を未だに思い出しちゃうなんて……)
 もう二十六歳。十月の誕生日で二十七歳だ。あれから九年も経っている。
 未練がましい自分に嘆息しながら、古い石造りの建物が続く桜通りを急ぎ進み、通り沿いの中規模オフィスビルに入った。
 一階エントランスには受付カウンターがあり、その背後には【成宮化学株式会社】の大きな看板が掲げられいる。
 日本橋に本社を構える成宮化学は、創業七十年を迎える非上場のパーツサプライヤーだ。国内業界売上は五位と、規模としてはそれほど大きくないが、風通しのいい社風と充実した福利厚生が評価されており、就職先として人気が高い。
 詩緒は今年で入社五年目。新人研修を経て秘書課に配属になった。
 詩緒が専属秘書として仕える成宮社長は創業者の孫で、今年六十歳になる。成宮化学を発展させた成功者だが、少しも偉ぶったところがなく、誰に対しても平等な人格者だ。
 人の好さが表れているような恵比寿顔は、接する人に安心感を与える。詩緒がこれまで順調に秘書としてキャリアを積むことができたのは、上司に恵まれたということが大きいだろう。
 受付カウンターの先のエレベーターに乗り、八階に上がる。この階には役員室と秘書室が入っている。
 詩緒は毎朝八時過ぎに出社すると、真っ先に秘書室の自席でメールアプリを開く。急なスケジュール変更の連絡が入っていないか確認をし、予定変更が必要な場合は各所と連携して調整を行うためだ。
 九時になると成宮社長が出社するので、出迎えと一日の業務確認を行う。
 その後は今後のスケジュール管理や来客対応をしたり、社長に同行して外出したりと。基本的に成宮社長の予定に合わせて動くことになる。今日は外出の予定がないので、秘書室の自席で事務作業を熟していた。
「雪元さん、いるかな?」
 あと少しで昼休憩という頃、成宮社長が秘書室にやってきた。
「はい、ここに。どうされましたか?」
 詩緒はすぐさま作業の手を止めて立ち上がった。
 役員室と秘書室は直通電話で繋がっている。呼び出し音が鳴れば、秘書が馳せ参じることになっているから、役員たちが自ら足を運ぶことは滅多にない。
 緊急事態かと慌てる詩緒とはうらはらに、成宮社長はのんびりした足取りでこちらにやってきた。
「急なんだけどアイオン社の社長と夕食を一緒にすることになってね。場所の手配をお願いしたいんだ」
 詩緒は頭の中でこの後のスケジュールを思い浮かべた。十四時は営業部長と面談予定があり、十五時から十七時まで月例の経営会議に出席することになっているが、この会議は毎月必ず予定よりも長引く。
(念のため、一時間余裕をもっておこう。長時間の会議でお疲れだろうから近場で……)
 素早く考えを纏めて口を開く。
「かしこまりました。十九時にオルタンシアホテルの、イタリアンレストランにお席を用意します」
 オフィスから車で十分の距離にあるオルタンシアホテルは、成宮社長のお気に入りで会食などによく利用している。
 アイオン社からもそう遠くないから、先方も不便はないだろう。
「うん、頼むね。それとできたら雪元さんに同行して貰いたいんだけど、急だから予定があるかな?」
「とくに予定はありませんが、私が同席してもよろしいのでしょうか?」
 アイオン社は成宮化学の新規取引先ではあるが、社長同士が旧友の間柄でもあるため、今夜の会食も仕事というよりプライベートの意味合いが強い場になるはずだ。
 それなのに詩緒が同行したら、先方がリラックスできないのではないだろうか。
「もちろん大丈夫だよ。今後のためにも秘書の雪元さんを早めに紹介しておきたいからね。アイオン社の社長は、雪元さんと同年代の若者だから話が弾むと思うんだ」
「承知いたしました。ではお席は三人分で用意いたします」
「うん、よろしくね」
 成宮社長はにこりと微笑み、ゆったりした足取りで秘書室を出て行った。
 すぐにレストランの予約をするため席に着こうとすると、秘書室副室長の椎名匠海が足早に近づいてきて詩緒に声をかけた。
「今日は早く上がるんじゃなかったのか?」
 匠海は今年二十九歳で詩緒より二歳年上だが、院卒なので同期入社だ。
 長身で程よく鍛えられた引き締まった体つきと、甘く整った華やかな顔立ちが人目を引く。
 彼は成宮社長の甥に当たり、一族経営の成宮化学では出世が約束されているうちのひとりだが、親族だからと甘えることなく真摯に業務に取り組んでいる。
 気さくで人当たりがいいので、上司にも後輩にも好かれている。なんとしても恋人になりたいと積極的にアプローチをする女性社員もいるくらいだ。
 詩緒は同期なので元々それなりに交流は有ったが、仕事で話す機会が増えたことで距離が縮まり、今では気の置けない友人のような関係で、なにかと気を配ってもらっている。
 今も先ほどの成宮社長とのやり取りを聞き、心配してくれているのだろう。
「会食は俺が代わることもできるから、無理はするなよ?」
「ありがとう。でも急ぎの予定じゃないから大丈夫。帰りに不動産屋に寄ろうと思ってただけだから」
「引っ越すのか?」
 匠海が意外そうに眉を上げる。
「次の更新で家賃がかなり上がるって知らせが来たから、引っ越すことも視野に入れてるの。とりあえず物件を見てみようかと思って」
「そうか。でも困ったときは気軽に声をかけろよ」
「うん、ありがとう。いつも助かるよ」
「これでも副室長だからな」
 匠海は爽やかな笑みを浮かべると、自分の席に戻って行った。
 スマートで相手が負担を感じない塩梅の気遣いができるのは匠海の強みだ。見習いたいと思っているが、彼のように振る舞うのはなかなか難しい。
 詩緒は子供のころから自己主張が下手で、他人とコミュニケーションを取るのが苦手だった。
 秘書という仕事柄多くの人と関わる機会が増えて多少は克服してきているが、それでもまだ他人と接するときに構えてしまうところがある。
 実は今夜のアイオン社社長との会食も気が重い。自然に人と打ち解けて、いつの間にか懐に入り込んでいる匠海がつくづく羨ましいと感じる。
(でも羨ましがってないで、もっと頑張らなくちゃ)
 秘書としても中堅の立場になりつつあるのだから、苦手だなんて言っていられないのだ。
(今夜はしっかり接待しよう)
 詩緒は気合を入れて、仕事に取り掛かった。

 午後七時五分前。詩緒は成宮社長と共に、オルタンシアホテルのイタリアンレストランを訪れた。
 急なことで個室は取れなかったが、案内されたのは窓際の夜景が見渡せるよい席だった。
 成宮社長のお供で何度か食事をしたことがあるが、煌びやかな光景に、毎回目を奪われる。
「あ、貴久君が来たね」
 席に着こうとしたとき、成宮社長がうれしそうな声を上げた。
 アイオン社長の、渡会貴久氏は偶然だが詩緒の忘れられない初恋相手と同じ名前だ。知った時、苗字が違うから別人なのは明らかなのに、彼の姿が脳裏を過った。
 成宮社長が合図を送るように右手を上げる。詩緒も出迎える為に体を出入口の方に向ける。直後驚愕して息を呑んだ。
 レストランの入り口からやって来たのは、目を奪われるほど眉目秀麗な男性だった。
 ダークネイビーのスーツを完璧に着こなす洗練された姿は、経営者というよりも俳優かモデルのよう。
 しかし詩緒が驚いたのは、男性の際立った容姿ではなく、彼に見覚えがあるからだ。
(うそ……貴久君だよね?)
 記憶の中の彼とは少し印象が違うが間違いない。
 彼は詩緒の初恋の相手である相川貴久だ。
(でも渡会って……どうして名前が変わっているの?)
 困惑している間に貴久が近づき成宮社長の前で立ち止まった。
「成宮社長お久しぶりです。お待たせして申し訳ありません」
 バリトンの声は記憶と変わらないものの、年齢を重ねた分の落ち着きがある。
「時間通りだよ。さ、座って」
 貴久が成宮社長の正面の席に着席した。詩緒から見ると斜向かいの位置だ。
 心臓がどくどくと激しく音を立てている。
 まさかこんなふうに再会することになるなんて思わなかった。当然心の準備なんて出来ている訳がなく、頭の中は“どうしよう”で占められている。
 それでも彼から目を離すことができなかった。
 ブラックのショートヘアは前髪が少し長めで額が見えるようにセットされている。
 理想的な輪郭の小さな顔に高い鼻梁、男らしいしっかりした眉の下に、少し目じりが上がったアーモンド形の目。それらが完璧な配置で収まっている。元々端正な顔立ちだったが、更に大人の男性の色香が加わり嫌になるくらい魅力的だ。
「貴久君、彼女は私の秘書で雪元詩緒さんだ。今後僕の代わりに連絡をすることもあると思うから紹介したくて今日は同席してもらったんだ」
 成宮社長の朗らかな声が響く。
 詩緒はこの場から逃げ出したい衝動に駆られたが、貴久は顔色ひとつ変えずに穏やかな笑みを浮かべている。
「ええ、知っています。偶然ですが彼女とは同郷で顔見知りなんですよ」
「そうなのか? これは驚いたな」
 成宮社長が目を丸くして、貴久と詩緒を交互に見た。
「ここで地元の知り合いと再会するなんて、うれしい偶然だ。雪元さんよかったね」
 成宮社長がおっとりと微笑む。
「は、はい、本当に……」
 詩緒はなんとか作り笑いで取り繕ったが、内心では彼が言った言葉に傷ついていた。
 成宮社長の前で元恋人と言えないのは分かるが、幼馴染ですらなく“顔見知り”だなんて。
 もう十年近く会っていなかったのだから、彼にとってその程度の存在に成り下がったのだろうが、詩緒は十年近く経つ今でもまだ彼を忘れられないでいる。
 ふたりの間の温度差が悲しい。一方でその気持ちを貴久にだけは知られたくないと思う。
「久しぶりだな」
 動揺する詩緒とは対照的に、貴久からは気負いも気まずさも感じない。
「はい、ご無沙汰しています」
 詩緒は外向けの笑顔を貴久に返す。
 我ながらよそよそしい態度だと思うが、自然に振る舞うのがとても難しい。
 それでも成宮社長には、不審に思われないようにしなくては。
 冷静であれと心の中で何度も呟く。
 しばらくすると予約していたコース料理が運ばれてきた。
 詩緒はほっとして前菜用のフォークを手に取った。
 黙っているよりも食事をしていた方が、まだましだ。食事に集中しているふりをすれば、無言でもそれほどおかしくないだろうから。
 成宮社長と貴久は食事を楽しみながら、今後の取引について意見を交換している。
 アイオン社はソフトウエア開発会社で、企業活動に必須の情報を一元管理する“CIONシステム”が使い勝手がよいと高い評価を得ている。
 成宮化学でも今回、生産管理部門と資材調達部門、各地の工場に導入する。現在も社内システムで管理しているが、CIONシステムへの変更により、効率アップが図れるだろう。
 実際導入するのは半月後――四月の上旬からになる。大分前からスケジュール調整などの打ち合わせをしていたはずだが、社長が出席することはなかったため、詩緒はアイオン社の社長が、自分が知っている貴久だと気づかなかった。
「システムの担当者がかなり評価していたよ。いずれ管理部門でも導入したいが、私たちに使いこなせるのかと思ってね」
「問題なく使えますよ。CIONシステムは可能な限りシンプルな操作性を目指しているんですよ。その点では顧客からもよい評価をいただいています」
 成宮社長の質問に貴久が穏やかに答えていく。
 ふたりの会話を聞きながら、詩緒は静かにフォークとナイフを扱う。
 このまま詩緒の存在は気にせず仕事の話に終始してくれたらいい。そう思っていたのに、成宮社長が話題を変えた。
「雪元さんは貴久君と同郷なら、彼の実家の家業は知っているんだよね?」
 気を遣って詩緒でも分かりそうな話題を振ってくれたのだと分かっているが、避けてほしかった内容なだけに顔が引きつりそうになる。
「……はい。旅館を経営されています」
 詩緒と貴久の地元は北信越のとある温泉街で、彼の実家が経営する【あいかわ屋】は創業百五十年、六千坪の敷地に広大な日本庭園を有する、全国的に名高い旅館だ。
 詩緒の母は仲居として勤めていた。
 旅館近くのアパートに住んでいたため、二歳年上の貴久とも学校帰りや休日に貴久と会うことが多かった。
 経営者の息子と従業員の娘という関係だが、子供のころは立場の違いを意識するようなことはない。
 当時の詩緒は今よりもずっと引っ込み思案で友達をつくるのが苦手だったけれど、貴久はそんな詩緒に優しく声をかけてくれた。
 貴久は詩緒にとって大切でかけがえのない存在で、友情から恋愛感情に発展するのは自然な流れだった。 
 長い片思いが終わったのは、貴久が高校を卒業したとき。
 東京の大学に進学する彼に、詩緒から告白した。もう会えなくなるという焦燥感に駆られての思い切った行動だったが、貴久は定期的に帰って来るつもりだったようで、詩緒の告白に驚いていた。
 東京に行った縁が切れると思っていたのは詩緒だけだったのだ。
 詩緒が自分の勘違いにショックを受ける中、貴久は少し照れたように微笑んで、『本当は自分から言うつもりだった』と言いながら告白を受け入れてくれた。
 恋人同士になって幸せな春休みを過ごした。初めて彼に抱かれたのはそのときだ。
 その後は遠距離恋愛になったものの、初恋が叶った詩緒は幸せの絶頂を感じていた。
 貴久は華やかで忙しない東京で。詩緒は雪の降る静かな温泉街でと、それぞれ違う暮らしを送っていたけれど、毎日連絡を取り合い他愛ないおしゃべりをしていたため、それほど距離を感じなかったし不安はなかった。
 状況が変わったのはその年の十二月。
 貴久の実家の旅館で、火災が発生したのがきっかけだった。
 客室の大半が焼け落ち、美しい日本庭園の木々にまで延焼が続いた。人的被害はなかったものの、地元では大変な騒ぎになった。
 地方テレビのニュースで数日に渡り報道されていたのを、今でもよく覚えている。
 東京で知らせを受けた貴久も、両親と兄を助けるために急遽帰省することになった。
 旅館は営業休止に追い込まれ再開の目途が立たない状況で、多くの従業員を抱えて大変な混乱状態だった。
 貴久が心配だったけれど、高校生だった詩緒は詳細を知らなくても感じとれる深刻な雰囲気に不安を感じるばかりで、なにもできなかった。
 せめて邪魔をしないようにと、彼が帰省しているときも会いたいと我儘を言わず、寂しくても不要な連絡を控えるようにした。
 でもそんな気遣いが、彼の心が離れていくきっかけになったのか、ふたりの間が徐々にぎくしゃくし始めた。
 距離を置く詩緒の態度は、貴久から見たら酷く冷たく映ったのかもしれない。
 久しぶりの電話は沈黙ばかりで、時間を忘れて話し込んだ日々が嘘のようで、詩緒はそのときようやく自分の間違いに気が付いた。
 彼が辛かった時に、もっと寄り添うべきだった。何もできないとどうして決めつけてしまったのだろう。
 そのまま信頼を回復することができず、気づけば彼の隣には、別の女性が寄り添っていた。
 大切そうに彼女の肩を抱き、詩緒には見せてくれなくなった笑顔を向けて。
 あのとき、もっと努力していたら。
 何もできることはないと距離を置かず行動していたら――。
 そんな後悔が、今でも胸の奥で燻り詩緒を悩ませる。
 しかし成宮社長が詩緒の葛藤など知るはずがなく、笑顔で言葉を続けるから、詩緒は内心の動揺を隠して微笑むしかない。
「そうそう。あいかわ屋だね。僕はあの旅館の昔からのファンなんだよ」
「常連さんなんですね。あ、それでふたりはお知り合いに?」
 接点がなさそうなふたりがどんなふうに出会ったのか不思議だったが、腑に落ちた。
 成宮社長の趣味は国内旅行で、特に温泉を好んでいる。あいかわ屋にも足を運んでいたのだろう。
 貴久は大学進学時に上京しているから、成宮社長と知り合ったとしたら火災事件の前になる。
「そうなんだ。だから営業再開したときは嬉しくてね。今年の年末の予約も既に入れてあるんだよ」
 甚大な被害を受けたあいかわ屋は一時は廃業するしかないとまで言われていたが、後継ぎの貴久の兄が中心となり三年で営業再開にこぎつけた。
 現在は新築した客室が好評を得ており、昔からのリピーターだけでなく新規顧客も獲得していると聞いている。
 ここまでくるのに相当な苦労があったはずだ。
 火災当時はかなりの風評被害があったようだし、長期の休業の影響がまだ残っているだろう。けれど貴久はそんな苦労は欠片も見せずに微笑んだ。
「いつもありがとうございます。兄も成宮社長の再訪を楽しみにしています」
「それはうれしいね」
 成宮社長が上機嫌に目を細めた。
 
 二時間ほどの会食後、ホテルの車寄せで成宮社長を貴久と共に見送った詩緒は、気まずさに息苦しさすら感じていた。
(成り行きとはいえ、貴久君とふたりきりになるなんて)
 幼馴染で初恋で、詩緒を裏切り酷く傷つけた相手。
 でも彼は詩緒が浮気に気づいていた事実を知らない。
 当時の詩緒は浮気を責めることが出来ず、逃げるように別れたからだ。
 その後まったく揉めずに疎遠になったから、詩緒から言わなくても自然消滅していた気がする。
 どちらにしても、再会を懐かしむような良好な関係とはいえない。
「……では私はこれで失礼します」
 居たたまれなくて、早々に立ち去ろうとした。
 ところが貴久が引き留めてきた。
「待って、詩緒。少し時間をくれないか?」
「……え?」
 詩緒はつい顔をひきつらせた。
 引き留められたこともそうだが、名前を呼び捨てにされたことに動揺した。
(どうしてこんなに普通なの?)
 まるで過去のことなどなかったかのような、屈託のない態度だ。
 成宮社長の前だから平然を装っているのだとばかり思っていたけれど……。
(もしかして、本当に何とも思ってないの? 狼狽えているのは私だけ?)
 戸惑いながらも貴久に促され通行人の邪魔にならない位置に移動する。
 エントランスの端で立ち止まると、貴久は詩緒に親しげな眼差しを向けた。
 笑うと目尻にシワができるところは昔と変わらなくて、望んでいないのに懐かしさを感じてしまう。
「突然の再会で驚いたな」
 驚いたと言うが、少しも動揺していないように見える。
 やはり未だに気にしてるのは詩緒だけのようだ。
 彼にとって詩緒との関係は、懐かしく感じる程度の遠い思い出なのだろう。
 改めて突き付けられた事実にがっかりしたが、貴久に傷ついているところを見せたくなくて、なんでもないふりをする。
「ええ、そうですね」
 しかしささくれ立った心は隠しきれず、刺々しい態度になってしまう。
 貴久にも伝わったようで、彼は困ったような表情になった。
「今後仕事で関わる機会が増えると思う。過去のことで思うところがあるのは分かるが、お互い水に流してできるだけよい関係でいたい」
「……水に流して?」
 ずいぶん簡単に言うのだなと、遣る瀬無さが込み上げる。
(でも冷静にならないと。貴久君が言うとおり仕事なんだから)
 詩緒は密かに息を吐いた。感情的になってはいけない。
 今後アイオン社とのやり取りは増えていくはずだから、ぎすぎすしていては仕事が上手くいかなくなる。
 社長秘書としての責任を忘れてはいけない。詩緒の個人的な感情は捨てなくては。
 詩緒は無理やり作り笑いを浮かべた。
「仰る通りですね。周りの人たちに迷惑をかけないよう、上手くやっていきましょう」
「……ああ。よろしく頼む」
 貴久がかつて詩緒の頭を優しく撫でてくれた手を差し出した。
 この手に触れられるのが大好きだった。
 でも今は……。
「こちらこそ」
 詩緒は心の痛みに耐えながら彼の手を取った。 
「もうこんな時間か。車で送っていこう。自宅はどの辺りなんだ?」
 駅までの道を並んで歩く。途中で腕時計をちらりと見た貴久が、詩緒に視線を移して言った。
「お気遣いありがとうございます。ですがここからそれほど遠くないので電車で帰ります」
 貴久に送って貰うなんて無理だ。仕事と割り切るのだと決めたが、必要以上の接点を持ちたくない。
「だが最近物騒だろ? 寄りたいところがあるなら付き合うから送らせてくれ」
「いえ、私のことは気になさらないでください」
 はっきり断ると、貴久の顔に失望が浮かんだ。
「さっきから思っていたが、そんなにかしこまって話さなくてもいいんじゃないか?」
「取引先の社長相手に失礼があってはいけませんから」
「今は仕事中じゃないし、他に誰もいないじゃないか」
 困ったような貴久から、詩緒はふいと目を逸らした。
 そうしなければ、彼に非難の視線を向けてしまいそうだから。
(仕事だと割り切ろうって自分から言ったくせに)
 今の彼の態度は仲が良かった幼馴染に対するものだった。
 彼は仕事とプライベートを都合よく使い分けるつもりなのだろうか。
 貴久には再会を喜んでいるような節がある。
 たしかに客観的に考えたら、十代のころに少し付き合っていた相手との別れなんて、重大な出来事ではないだろう。
 でも詩緒は未だに割り切れていない。少なくとも再会した当日に、割り切って仲良くなんて出来ない。
「詩緒、どうしたんだ?」
 貴久が心配そうに言う。
「いえ、なんでもないです。でも送っていただくのは遠慮します……人と会う約束をしているので」
 彼が諦めそうな理由を咄嗟に考えた。
「そうか……」
 期待通り貴久はそれ以上送るとは言わずに引き下がった。
「では、これで失礼します」
 詩緒はそう言って踵を返す。
 貴久に見られているような気がして、走り出したくなるのを堪えるのに苦労した。

 詩緒の住まいは、オフィスからドアtoドアで四十分程のアパートだ。
 最寄り駅からは徒歩十五分。駅前はあまり栄えていないが、昔ながらの商店街があるので買い物に不便はしていない。
 以前は治安に問題がないエリアだったが、最近は物騒な事件が多いと聞くし、途中街灯が少ない道を通るため少し怖い。
 詩緒のアパートは木造二階建てのよくある造りのものだ。間取りは1DKでバストイレ別。一人暮らしの部屋としては特別狭い訳ではないが、あまり荷物が増やせない。
 就職したばかりの頃は会社の独身寮に入っていたが、二年前に退寮しこの部屋を借りた。
 立地と間取りと家賃のバランスがよかったので選んだが、三カ月後の更新で家賃がかなり上がると知らせを受けたので、少し広い部屋に引っ越しできたらいいと思っている。
 真っ暗な部屋に入り電気をつけた。
 朝、慌ただしかったので雑然としている。疲れているが一休みをしたら動くのが怠くなりそうなので、バッグを置いてすぐに片付けを始める。
 手を動かしながら思うのは貴久のことだ。
 突然の再会はあまりに衝撃的で頭の中が混乱している。
 貴久がまったく動揺していないのも驚きだった。
(それにどうして苗字が変わっていたのかな)
 相川貴久から渡会貴久に。彼のことは小学生の頃から知っているけれど、渡会という名前には聞き覚えがない。
 苗字が変わるのは、どんな場合だろう。
(結婚して奥さんの苗字にしたとか?)
 浮かんだ考えにはっとした。独身だと思い込んでいたけれど彼は今年二十九歳だ。結婚していてもおかしくない。
(たしか指輪はしていなかったけど)
 結婚していなくて、養子に入ったり仕事用の通名を使用している可能性もあるかもしれない。
(でも大人になってから養子に入るなんてあるのかな……)
 どうもピンとこない。結婚したことで渡会姓になったというのが一番自然だと感じる。
「はあ……」
 胸の奥がざわざわする。心が乱れて落ち着かない。
(別に貴久君が結婚したっていいじゃない)
 初恋はとっくに諦めたのだ。
 しつこく引きずっているとはいえ、終わったことだと分かっている。それは再会したからと言って変わるものではないはずだ。
 片付けを済ませてから、浴室に向かった。
 熱いシャワーを浴びて、汗と一緒にこのもやもやも流してしまおう。
 蛇口を最大にひねり頭からお湯で流す。
 すると段々と冷静さが戻ってきた。
(狼狽えるのはこれが最後にする)
 貴久が言っていた通り、仕事に私情は持ち込まない。
 秘書の務めをしっかり果たすためにも、貴久への複雑な思いは胸の奥に仕舞い誰にも迷惑をかけないようにしなくては。
 次に会ったときは、彼と同じように何事もなかったように振る舞おう。
(考えてみたら、再会してよかったかもしれない)
 ずっと彼が忘れられなくて、後悔で胸が痛かった。
 現実を知ったことでようやく前に進むことができるだろうから。
(気持ちを切り替えよう)
 詩緒は固く決心を固めたのだった。