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独占デキアイ契約 一途なエリート社長は幼なじみに執着しています! 2

第二話

 

 

 やってきた週末の午後――。
 凪紗は彰人のマンションの部屋を訪れていた。
 件の『契約婚約』について話を進めるためだ。
 契約内容を他の人間に聞かれるわけにはいかないので、二人だけの場が必要になる。
 しかし彰人が、凪紗の住んでいるマンションに上がり込むのはなんだか気が引ける、などと言うので、その結果、凪紗の方が訪ねることになったのだった。
 そして今、二人はダイニングテーブルを挟んで向かい合い座っていた。
 テーブルの上にはパソコンとボイスレコーダー、紙とペンなどが置いてあった。
「事前に了承していただきたいので、これだけは言っておきます」
「……なに?」
「僕は、君のことが好きです。つまり、好きになってもらえるように、契約に抵触しない範囲内で、僕は君に猛アタックをしますので、そのつもりでお願いしますね」
「……」
 凪紗は唖然とした。
 この間の夜景の前でのプロポーズもどきはなんだったのか。形式だけだと、彼はお茶を濁していたと思うのだが。
「なんですか」
 至極当然といった顔をしている彰人が、小憎たらしい。突っ込みたいところは色々あるけれど、せめてこれだけは言っておきたい。
「駆け引きというより、それは後出しじゃんけんというものでは?」
「僕の分析結果では、あなたは僕のことを好ましいと思っている。兄に容姿が似ているからという理由もあるでしょうが、男女の好意には至っていなくても、少なくとも嫌いではない。無下にはできないと考えている。違いますか?」
 あたりまえと言わんばかりに論破しようとする彰人に、もう何も言い返す気にならなくなった。
 つまり彼はそういう凪紗の心の隙に入り込むつもりでいる、ということだろうか。
「ねえ、彰人さんは私と結婚したいんだよね?」
「はい。ですから、そのように伝えています」
「……って、即答? 隠しもしなくなったの?」
「僕にとって誰よりベストな相手だと判断しました」
「はぁ……。AI診断の音声みたいな言い方しないでよ」
「安心してください。無理強いはしません。契約はきちんと相談の上で決めていきましょう」
「そうだよ。その話をしに来たんだからね?」
 凪紗は釘を刺すように彰人を見た。
 契約内容は二人で相談しながら決めた。
 彰人はボイスレコーダーを側に置き、書面のテンプレートをパソコンで開く。
 彰人と凪紗の間に設けられた期間は、彰人がいずれ海外に異動となるまでの期間限定。今のところは見通しが立っていないため無期限だが、早期の事業の立て直しのために日本にやってきたので、少なくとも二年後には発つことになるだろうと告げられた。
 計画としてはこうだ。
 第一に、両親には二人が近々結婚したいと考えている旨を報告し、先に同居をはじめたと説明する。
 第二に、職場対策だ。二人が婚約して一緒に暮らしはじめたことを上司に報告し、その際、公に婚約したことや結婚については口外しないように相談する。
 その後、凪紗の住所変更の手続きのみ遂行。対外的には、虫よけのためにお互いに指輪をつけることになった。件の『結婚指輪に見せかけたお揃いのリング』だ。
 それ以降は、家庭内の取り決めだ。
 家事は苦手だと思うものを挙げ、それぞれが得意分野を担当して双方の負担を減らすことにした。
 一応、料理は凪紗が、掃除は彰人が担当することになったが、仕事の都合や体調に変化によって互助することを約束。つまり担当は決めても当番の変更を相談することはいつでも可能ということだ。
 それから、浴室を利用する際には使用中かどうかわかるプレートをつけ、プライバシーを守るために各々の私室への出入りは許可がなければ不可とする。但し、万が一、部屋で倒れたりしたときのため、内鍵はつけないこととする。
 最も大事な部分としては、お互いの合意なしに婚前交渉を求めないこと。また、同居する上で、ふたりが居心地のいい暮らしが継続できるよう協力することを努力義務とする。
 最後に、契約条件をまとめた覚書は金庫にて厳重に保管することとする。
 尚、金庫の暗証番号は共有し、万が一、勝手に番号を変更した場合や故意に流出させた場合はペナルティを負うものとする、という旨についても覚書の最後に記した。
「――以上」
 改めて書面に起こしてもらうと、だんだん思考がすっきりしてきた。
(構えていたけど……ただの口約束より、案外いいのかもしれない)
 お互いに契約を履行する、と思えば、ある意味、仕事というか任務のようなものだと客観視もできる。
 ただひとつの懸念を除けば、だけれど。
『僕は君に猛アタックをしますので、そのつもりでお願いしますね』
 あれは彰人なりの冗談なのか、それとも本心なのか。冷静に契約内容について相談したあとだと、幻のようにも感じてしまう。まんまと煙に巻かれてしまったような気がしないでもない。
 いっそ、初めから結婚しようと迫られた方が潔くわかりやすいのに。でも、彼はそれでは断られるだけだと考えたのかもしれない。
(てか、猛アタックって一体どんな……)
「何か不服な点があれば、今のうちですよ。無論、あとからでも契約の見直しはしますが……」
「だ、大丈夫。納得しているよ」
「そうですか?」
 彰人が心配そうにこちらを見る。なんだか彼を疑うのが申し訳なくなってしまった。
 契約条件についてはお互いに見える形にしてくれたのだ。勝手に彰人だけが決めたわけじゃない。今は彼の誠実さを疑うようなことはすべきではないだろう。
「うん。じゃあ、改めてよろしくお願いします」
「……はい。よろしくお願いします」
 二人は覚書に捺印した上で、握手を交わした。
 それから取り決め通りに、各々暗証番号を記録し、書面を金庫に保管したことを見届ける。
「はぁ。これで一段落ね」
 ……そして、もうあとには引けないとも言う。
 凪紗はすっかり脱力していたのだが。
「まだ、もう一段落ありますよ。引っ越しについても決めてしまいましょう」
 彰人はやる気に満ち溢れている。すべて決めないうちには今度こそ帰してくれなさそうなので、即刻取りかかった方がよいだろう。
「わ、わかったわ」
(さっきのことはあんまり気にしないでおこう……ブラックジョーク? みたいなものかもしれないし)
 むやみに追及して藪蛇になることだけは避けたい。
 凪紗の考えはそこにたどり着いたのだった。

 

 そして、あっという間の引っ越し当日――。
 結局、彰人が押さえていたという新築のマンションに二人で引っ越すことになった。
 物件探しも一から取りかかるとなると相応の時間がかかるという部分が大きかった。それに環境や条件も色々満たしている。
 何よりも、彰人が投資として買った分譲マンションだったことから光熱費以外の家賃については彼が負担すると申し出てくれた。
 万が一、契約を破棄するようなことがあれば、その後の凪紗の住居探しも保証すると彼は言った。安心して今住んでいるマンションを退去することにし、二重に家賃を払わないで済むのも助かった。
(メリットとデメリットを天秤にかけたら、生活資金の部分だって、充分大事なポイントだもの。うん……それに料理はけっこう好きだし……これだって互助っていえるわけだし)
 なんだかんだと彰人の思う通りになっている気がして、凪紗は思わず心の中で都合のいいように言い訳をしてしまった。
 マンションの部屋には大きめの家具が既にセッティングされていて、すぐに暮らせるようになっており、あとは必要な荷物をそれぞれ持ち寄るだけだった。そこで、先に彰人が引っ越しを済ませ、そのあとに凪紗が追いかける形になった。
 そして迎えた今日。彰人が一緒に立ち会ってくれて、そのまま二人で新居に移動した。
 引っ越し業者が新居に荷物をまとめて運び入れたあとは、二人で手分けして部屋に運び荷解きをする予定だ。
 一緒に暮らすということに構えていた部分はあったが、こうして新築の部屋に入ると、なんだかわくわくしてきてしまった。案外広々としていて窮屈な雰囲気はなく、それなりの自由は許される気がしてほっとしたというのもある。
(ここを仮想空間の箱庭のようなものだと捉えるっていうのはどうかな?)
 そんなふうに考えたら気持ちが楽になったのだ。
 実験……というかテストプレイというか、ゲーム感覚というか。そういう考えでもしておかなければ、きっと色々余計なことを考えすぎて、息が詰まってしまうだろう。
(よし、決めた! どうせなら、この生活を楽しんでみせるわ)
「ね、彰人さん」
「ん、どうしました?」
「カーテンは季節に応じて変えてもいい? 明るく広い部屋だし、観葉植物も置いてみたいな。せっかくだから、いずれマグカップも新しくしようかな」
「ずいぶん、はしゃいでいますね」
 くすり、と彰人が小さく笑う。
「べ、別に。いいじゃない。それに一緒に暮らすんだから、共同の部屋については、お互いの許可は必要でしょ?」
「そうですね。いいですよ。お好きにどうぞ。インテリアなど揃えたいものがあるようでしたらご自由に。買い物なら付き合いますし」
 凪紗は作業を進めつつ部屋を見渡す。そして、隣で軍手を填めて黙々とダンボールを移動している彰人の方を見た。
(なんか不思議な感じ……)
 視線を感じたらしい彰人が振り向いた。
「他に何か?」
「ううん。ただ、疑似体験というのもいいなぁ、と思ったの。ほら、既婚者の先輩とかに、結婚って実際にしてみなきゃわからなかったこともあるって話をよく聞くから」
 なるほど、と彰人が頷く。
 作業する手を休め、凪紗の近くにやってきた。
「既に、メタバース内で知り合ってデートして、そこから実際に会ってお付き合いを……というケースはありますけどね」
「でも、まだまだ少数でしょう。それだと、あくまで『メタバースがきっかけ』であったにすぎない例だと思うの。お見合いパーティーも同じ。その先がどうなったとかは残念ながらずっと追えるわけじゃないから企業として統計をとるのも難しい」
「何かアイデアが思いついたんですか?」
「ええ。最初からメタバースを利用した期間限定の結婚生活という形で募集をすれば――結婚の決め手とも言われる『生活感』や『価値観』なんかも、実際に暮らしてみないと、お互いの良さがわからないっていう問題点をクリアできるのでは?」
 凪紗が興奮ぎみにプランを語り出したところで、くすっと彰人が笑う。
「この契約がきっかけで、君の探求心と好奇心がうまくくすぐられたようで何よりですね」
 我に返った凪紗は頬が熱くなるのを感じた。
「……ひょっとして、彰人さんのことだから、そのための実験目的でしたーとか言い出したりしない?」
「いえ。まさか。かいかぶりすぎですよ。だったら、僕と君がメタバース内で実際にテストしてみればいいだけの話でしょう。君の言う通りに実際に暮らす必要はないはずです。そもそも、顔見知りというスタートの時点で、条件が変わってきますし」
「たしかに」
 凪紗は肩を竦める。
 彰人の凪紗に対する贔屓は感じていたけれど、さすがにそこまではかいかぶりすぎだったようだ。 
「……ですが、片方ではなく両方の比較は必要だと思います。メタバース内で暮らすのと、リアルに暮らしてみるのと、どちらが結婚に至るのに効率的か、どちらがどの程度の絆が結べるか、比較するデータの被験者となるのは、けっこう面白い試みかもしれませんね」
 彰人もだんだんと興味を示したらしい。彼の方こそ何か頭の中でプランを立てているようだ。それが珍しく表情にも出ていた。
 その中身が知りたい、と凪紗は思った。興が乗ってしまい、その先を突く。
「そのためには実際にある程度の人を集めないと意味がないのでは?」
「じゃあ、その企画を立ててみますか? メタバース内の期間限定の夫婦を何組か、リアルでの期間限定の夫婦を何組か……相応の監視は必要になりますから、リアリティ番組のようなものを作らないといけませんね」
「ちょっと企画書を作ってみてもいいですか?」
「いいんじゃないですか。その件、君の上司にも一応、話をしておきますよ」
「ありがとうございます……って、これじゃ仕事の続き」
 はた、と凪紗は我に返る。
 彰人はまた小さく笑った。
「別に構いませんよ。それも互いに暮らしやすく協力するという契約のうちとも言えるのでは? 私生活の中で気付いた発見を仕事に活かすことはなんら不思議なことではありませんから。楽しみにしていますね」
「とはいえ、今走ってるプロジェクトが落ち着いたらということになりそうだけど……時間を見つけてまとめてみるわ」
 笑顔を交わしたあと少しの間が空いて、くすぐったいようなバツの悪さに見舞われる。先に視線を外したのは彰人だった。彼の見ている方には山積みのダンボールがあった。
「とりあえず、今は引っ越し作業を片付けましょうか」
「そ、そうだね」
 凪紗はそそくさと彰人から離れ、手近にあったダンボールを勢い任せに持ち上げたのだが。
「おもっ」
 想定していた重量との齟齬により腕がぐんっと真下に引っ張られ、腰がメリッと音を立てた気がした。見れば、本と書いてある。仕事の資料を入れていたものだった。
「危ないですよ」
 声が聞こえたと思ったときには、彰人が横からかっさらうようにダンボールを持ち上げていた。
「よく見ないと……足に落としでもしたら大怪我しますよ」
「ご、ごめん。ありがとう」
 強張った上半身が楽になってほっとした。
「君は、小さい箱を運ぶか、運び終わったものを順番に開梱してください」
 彰人はそう言い、てきぱきと運んでいく。
 細身に見えて案外しっかり腕に筋肉がついているものなんだな、とうっかり惚れ惚れしてしまった。
 中学生の頃まで凪紗の方が背は高かったのに、高校生になってからどんどん追い越していった。
 あたりまえのことだが、今ではすっかり大人の男性だ。背丈も肩幅も骨格も、手の大きさも何もかも。意識してしまうと、なんか妙な気持ちになってきてしまう。
(考えてみれば、彰人さんのことこんなふうに一人の人としてじっくり見たことなかったもんね)
 不意に思い浮かぶのは、彼と面差しの似ている英智のことだ。
 しかし、すぐにいけないとかぶりを振る。それから彰人を追いかけるように部屋に荷物を運ぶことにする。
「ありがとう。あとは開梱作業だよね。日が暮れないうちにパパッとやっつけちゃおう」
 凪紗が笑顔を向けると、彰人はジッと見つめてきた。何かもの言いたげな様子だ。
「凪紗さん」
「うん?」
 それから二人の距離が近づいて、凪紗よりも十五センチ以上背の高い彼に光が遮られたかとおもいきや、彼は目の前で少し腰を落とした。
「ほこりがついていますよ」
 呆れたような顔を浮かべている彰人だが、その一方で愉快そうでもある。
「え……」
 思考が追いつかずに固まっていると、彰人が凪紗の目尻からこめかみのあたりに指を這わせた。
「ここ」
 彼の顔が整っているのは今さら言うまでもなく……至近距離で耳に届いた低めの声にどきりとした。耳元でこんなに甘い低音を奏でられたことは記憶にない。
 これはちょっといけないかもしれない。
 さっきから沸々とこみ上げてきている妙な気分を打ち払おうと、凪紗が口を開きかけた瞬間、囁くように彼が言った。
「かわいい」
 不意打ちで見つめられたまま放たれるその甘い言葉の破壊力に、凪紗の恋愛的免疫機能が働かないどころか、一瞬にして機能停止状態に陥った。
 あわあわするだけで何も言葉にならない。どう反応したら正解なのかもわからない。
「~~っ!?」
 固まっていると、彰人が顎のあたりに指を添えて何かうんうんと考えはじめる。
「あれですね。なんていうんでしょうか。保護欲がくすぐられるというか。はしゃいでどろんこで帰ってきたちびっこを迎え入れたときみたいな感じといえばいいのか」
 冷静に分析をしはじめた彰人のおかげで、ようやく凪紗は息を吹き返した気持ちだった。
「って、それどういう例えなの」
 わざとやっているのでは、と疑いの目を向けてみるものの彰人の微笑はわかりにくい。
「まあ、いいものが見られました、ということで」
「意味わからないんですけど」
 素なのか策士なのか。まだ判断がつかない。だけど幼なじみや学生の頃とは違ったものがきっとある。それも今後、見極めていこうと思う凪紗だった。

 

 引っ越しの作業が落ち着く頃には、日がだいぶ傾いていたので、少し早めの夕食にしようということになった。
「疲れているだろうから今日くらいは何かデリバリーでも構わないですよ」
 ……という甘い譲歩をもらったけれど。
 契約婚約という名目上、二人で決めたことを初日から破るわけにはいかないという気持ちが凪紗にはあった。
「じゃあ、簡単に作れる一品料理でもいいかな?」
「一応、今日から暮らしはじめるということで、食品や調味料類はある程度用意しましたが」
 用意周到の彰人らしい回答だった。きっとあれこれ揃えてくれたのだろう。至れり尽くせりの彼はスパダリの素養があるかもしれない。
「冷蔵庫開けていい?」
「もちろん。あなたの家でもあるわけですから」
「そうだった。じゃあ開けますね」
 冷蔵庫を開けた途端、整然と並べられた食材などに改めて感心する。
「それで足りなければ、僕が近くのスーパーで材料を買ってきますよ」
「待って。卵とケチャップとベーコンと玉ねぎ……バターもあるし、大丈夫。キャベツとツナはサラダに使えるし、林檎はカットしてフルーツヨーグルトにしよう」
「そうですか。では、僕はダンボール類の片付けと、拭き掃除をしておきましょう。あと、お風呂の湯張りをしていつでもすぐに入れるように」
「うん。お願い」
 二人で分担作業をするというのもなかなか楽しい、と凪紗は感じていた。疲労感よりも今は新しいことへの挑戦に対してわくわくしている気持ちの方が大きいかもしれない。
 彰人が片付けや掃除をしている間に、凪紗はサラダとフルーツヨーグルトの下ごしらえをしておく。
 それから、ボウルの中に卵を落とし込み牛乳と塩を少し入れてといておき、ご飯と具材を炒める。チキンライスが出来上がる頃には、彰人もまたキッチンに戻ってきた。
 チキンライスをあらかじめ皿に盛り付けたら、フライパンを火にかけた。あとはバターとオリーブオイルを混ぜた油を敷いてボウルの中の卵を流し込むだけだ。
 ジュッとバターが弾けて香りが立つ。手早く流し込んだ卵を菜箸で集めていき、それから固まりすぎないうちにお皿のチキンライスの上にふんわりと乗せて形を整える。
「できた! とろふわのオムライス。大成功!」
 この間は食べた気がしなかったから、リベンジの意味でもオムライスにしてよかった。
「へえ、ずいぶん手際がいいものですね」
 感心したように彰人が言う。
 料理があまり得意ではないという彼はひと手間ごとに興味津々といった顔をする。それがなんだかかわいく感じて、こちらの表情も緩んでしまう。
「見た目は上出来。あとはお口に合うかどうかだね。冷めないうちに食べよう」
 ダイニングテーブルに盛り付けたお皿を並べていく。そして二人は改めて向かい合って座ると、両手を合わせた。
「いただきます」
「いただきます!」
 さっそくスプーンでオムライスをひとすくいする。味付けもばっちりだと自分では思うのだが、彰人はどう感じているだろう。
 感想を催促するのは褒めることを強制するようで気が引けたけれど、でもやっぱり気になってしまう。二人で暮らすということは、味覚の共有も大事な部分のひとつになるのだから。
 しばしチラ見していた凪紗は、半分くらい山が減ってチキンライスが丸見えになったところでとうとう尋ねずにいられなくなってしまった。
「どうかな? お店のように、とはいかないかもだけど、そこそこいけてない?」
「……美味しいです。すみません。感想を言うべきなのはわかっていましたが、無口になってしまいました」
 ということは、本心から美味しいと思ってくれたということだ。
「ふふ。よかった」
 凪紗は安心して自分の食事も進めることにした。
 その間に、時々目が合った。
 彰人が凪紗をジッと見る。気のせいではない。彼はそうして観察するような視線をよこすことがある。
 何か興味深そうに眺めるのだ。癖なのかもしれないが、凪紗としてはやっぱり落ち着かない。
「な、何。言いたいことがあるときは、はっきり言って構わないわ」
「いえ。ますます君を手放すわけにはいかないな、と思っただけです」
 彰人のシンプルなその一言はけっこう効いた。
 いつものように分析するみたいに胃袋を掴むというのはなんたらとか言ってくれた方がまだよかった。
(何これ……ちょっとドキッとしたじゃない)
 自滅したことに後悔しても遅い。
 顔がトマトケチャップよりも赤くなる前に、すべてを平らげてしまいたい衝動に駆られる。
 しかし目の前で彰人がぱくぱくと美味しそうに平らげていく方が速かったので、幾分か冷静さが戻ってくる。
(いい食べっぷり……それに、綺麗な食べ方だし……作った甲斐があるなぁ)
 凪紗はそんなふうに思いながら、ハッと我に返った。ひょっとして自分も彼と同じようなことをしているのでは。
 そして彰人が食べ終わってしまったら、凪紗をじっと観察する時間を与えてしまうかもしれない。じっと見られるのは落ち着かない。そう考えたらいてもたってもいられなくなり凪紗は慌てて自分のスプーンを動かすのだった。
 食事のあと――。
 片付けは彰人がしてくれた。
 片付けも料理のうちと考えていたけれど、彼にしたら掃除の一種だという。
 たしかに、食洗器があるので仮洗いをしたらセットするだけとはいえ、フライパンや油のついた食器類は手間がかかる。
 彰人が協力してくれたので、その間に凪紗はお風呂をいただくことにした。脱衣所のドアには温泉の女湯と男湯の入れ替え札に倣って、入浴中のプレートをぶら下げるという約束通りにした。
 書面では冷静に理解できたけれど、やっぱり一人暮らしのときに裸になるのとは勝手が違うものだ。
 無論、彰人が覗いたりするわけがないと頭ではわかっていても、家の中に誰かがいるだけで、どうしても意識してしまうものなのだと実感する。
 落ち着かない気持ちのまま、凪紗はシャワーを済ませて軽く湯船につかった。あまり長い時間そうするのは何かと気を遣う。細かいようだけれど、髪の毛や垢が浮かんでしまったら……彰人にそれを見られる場面を想像してしまった。
(やっぱりお風呂はあとのほうがいいかも!)
 念入りに湯船に変なものが浮かんでいないか確認して外に出る。
 バスルームで身体をタオルで拭き、それからルームウエアに着替えて肌を保湿する。そこに難関がまたひとつ。ノーメイクになった顔を彼に見せることにも抵抗を覚えてどうしようかと固まった。
 学生の頃はスッピンを見せても平気だったけど、さすがに今は気が引ける。
(お風呂の難易度が高い!)
 とりあえず前髪をおろし、乾いたタオルを頭の上にかけてごまかそうと思い立つ。ドライヤーはもう少し汗が引いたら部屋でやればいい。
 だが、バスルームからそろりと出て脱衣所のプレートを外そうとしたときだった。
 廊下に出てきた彰人と、ばったりと廊下で出くわしたのだ。
 ビクッとした拍子に、タオルはひらりと床に落ちてしまった。
 試行錯誤した施策などなんの意味もなく、素顔のままご対面となる始末。
 内心、うわぁ、と声をあげたくなったが、動揺を悟られる方が恥ずかしいと思い顔面が動かないように必死に抑えていたら、変に引きつる。見られたくなくて、とっさに凪紗は俯く。
「あ、えっと、片付けありがとう。どうぞ」
「もっとゆっくりしててもよかったのに」
 彰人がそう言い、落ちたタオルを手に取って軽く払うと、凪紗の頭の上にふわりとかけてくれた。
 それで終わりかとおもいきや、いつの間にか近づいてきた彼の手がタオル越しに、くしゃくしゃと髪を包む。その弾みにつられて顔をあげてしまい、至近距離で目が合って、凪紗はそこからどうしていいかわからなくなる。
 彰人も何かを言いたげに凪紗を見つめたまま。
(な、何だろう。この状況……誰か、どうにかして!)
「よくわかりませんが……これはちょっと困りますね」
「え?」
 言葉の意味がわからず聞き返すと、ふいっと視線が逸らされた。
「いえ。なんでもありませんよ。僕は少し仕事があります。バスルームもまだ自由に使ってくれていいですよ。先に休んでいてください」
 どぎまぎしている凪紗を置いて、彰人はするりとクールなままに通り過ぎて部屋の扉を閉めてしまった。
(困りますって何が? こっちが困るのですが。すっぴんがいつもの顔と違うと思われたとか!?)
 しばらく悶々とした気持ちに苛まれた凪紗は、一心不乱にドライヤーの風を浴び続けたのだった。
 その後――自分の部屋に移動したあとも、なんとなく一緒に暮らしている人の気配が気になった。
 ベッドにもぐり込んでうとうとしている間も、どこか彰人の存在に気をとられていたのだが、彼がバスルームに移動したような気配はないし、一向に物音がしなくなってしまった。
(お風呂って自動運転にしたままだったような……)
 家賃以外の光熱費の負担は折半するということで決まったが、そのあたりの細かい部分のルールは確認していなかった。
 彰人が望まないことなら、節約がどうのという締め付けはこちらもしたくないけれど、ただ意味もなく無駄にするのは、もったいないと思う。そんなことを考えていたらパッと目が覚めてしまった。
 のっそりとベッドから這い出した凪紗はそのまま部屋を出てリビングへと向かう。喉の渇きを潤すつもりだった。
 途中、彰人の部屋のドアから光がこぼれているのが見え、足を止めた。すると、薄く開いたドアの先で彰人がデスクに突っ伏すようにしていたのが見えた。
「えっ」
 倒れているわけではない。
 仕事をしていてそのまま寝落ちした感じだろうか。でも、何か羽織っているわけでもないし、夜はまだ肌寒いのにエアコンがついているわけでもなく、部屋はひんやりとしている。
(勝手に部屋に入ってはいけない……決まりだけど、でもあのままじゃきっと風邪引いちゃうよね?)
 もどかしい気持ちになりながら、どうしようどうしようと心の中で唱え、右往左往した結果、凪紗は覚悟を決めた。
 鍵をつけなかったのは、どちらかが万が一にも体調不良で動けないときに迅速に救護するためだった。
 ということは、これは緊急事態。風邪を引いてしまったら大変なのだから。風邪を引くということは免疫機能が低下し、深刻な感染症を引き起こすきっかけにもなりかねない。同居している限り、互いに健康管理に努め、そして協力し合うのは必要なこと。
(よし。ささっと入って、ささっと退出)
 さすがにベッドへ運ぶのは無理なので、せめてブランケットで彼の身体を包み込む。
 彰人の寝顔が間近にあることに、ドキッとする。
(なんかこうして見ると……幼かった日のことを思い出しちゃうな)
 いつもとは違う無防備な彰人の表情を眺めてから、凪紗はハッと我に返った。
(今は感傷に浸ってる場合じゃないわ)
 忍び足で部屋を出て、音を立てないようにドアを閉じた。
 急いで自分の部屋へと入ってドアを閉める。
 それから凪紗はベッドに思いっきりダイブした。
「……はぁ」
(何このドキドキ感……)
 任務を達成できたのはよかったけれど、おかげでどっと疲れてしまった。
 ベッドに入ってしばらくして、あ、お風呂の自動オフボタン……と再び思い立ったが、凪紗は今度こそ睡魔に誘われてしまっていたのだった。

 

 

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