独占デキアイ契約 一途なエリート社長は幼なじみに執着しています! 1
「ぜひ、僕と結婚してくれませんか?」
それは、突然のプロポーズだった。
年度はじめの四月上旬。数年ぶりにニューヨークから日本に帰ってきた、久藤家と鷹月家の当主夫妻が開いた別荘でのホームパーティー。その夜のことだった。
両家の当主夫妻は、それぞれ世界のトップ企業で働いている重鎮だ。彼らは各々グループ企業の責任者として手腕を発揮しており、昔から家同士の付き合いだけではなくビジネス的にも協力することが多かった。
久藤家には娘が一人、そして鷹月家には息子が二人いる。家族ぐるみの交流があったため、三人は幼なじみだった。ホームパーティーにはそんな両家の七人が久方ぶりに顔を揃えていた。
これまで良好な関係を築いてきた両家のますますの発展と繁栄を祈って――と乾杯したあとのこと。
「この際、あなたたち、結婚したらいいじゃない」
「幼なじみの気心知れたパートナーというのはいいものだぞ」
「賛成するわ」
「応援するよ」
それぞれの両親の視線が一斉にこちらに向けられ、久藤家の長女である凪紗は目を丸くした。日本にずっといるのは凪紗だけ。そのせいか、先ほどから彼らの関心は凪紗の方に多く向けられていたのだが、まさかそんな話に持ち込まれるとは思わなかった。
「は? そんなついでみたいに勝手に話をまとめようとしないでくれる? ねえ、彰人さんも何か言って――」
凪紗は、鷹月家の次男である彰人を気遣いつつ、彼に同意を求めようとしたのだが。
彰人はというと、凪紗の意向を無視し、すっと前に出てきてこう言ったのだ。
「ぜひ、僕と結婚してくれませんか?」
「えっ!?」
凪紗はまじまじと彰人を見た。
見上げるほど長身でスタイルがよい。間近で見るのは久しぶりだが、肌も綺麗だ。
彼の端整な顔は少しも崩れることなく、クールに決めたままだった。
「僕と結婚してください」
「ええっ?」
(どうしてそうなるの!?)
昔から知る間柄ではあるけれど、凪紗は彰人を恋愛対象として見たことは一度もなかった。
(だって私は……)
凪紗は思わずベランダの方を一瞥する。そこには猫と戯れている鷹月家の長男、英智の姿があった。
彰人も知っているはずだった。かつて凪紗が彼の兄である英智に憧れていたことくらいは。否、今もまだ凪紗が胸の中に英智への未練を抱いていることだって、きっと。
それなのに、どうして今この場であんなことを言い出したのか、さっぱり理解できない。
「どうした? 何の話で盛り上がってる?」
英智が騒ぎを聞きつけたらしく、ベランダからリビングに戻ってきてしまう。凪紗はまずい……と慌てて彰人の腕を引っ張った。
「まだ話は終わっていないのですが」
彼は硬い口調のまま言った
仕事柄というのもあるが、彼は素のときでも基本的に丁寧な口調の人なのだ。昔から、彼の個性、クールなキャラクターとして凪紗も捉えている。
「いいから、こっちきて!」
「どこへ行くんですか?」
「と、とにかく! 親たちがうるさいから外に出よう」
凪紗は彰人を催促し、二人で逃げるように外に飛び出した。既に婚約者がいる英智本人に話を聞かれたくなかったのだ。
息を切らして外に出ると、月明かりの下、白い花が輝いていた。暗がりの中に咲く一輪の花が、二人を照らす街灯の代わりのようだった。
あたりは静かなまま、時々虫の鳴き声が聞こえてくる。花の香りがふんわりと鼻孔をくすぐり、頬を撫でる風はやわらかい。
だが、春先の夜はやはり気温がぐっと低くなる。ここが高原にある別荘だから尚更だ。
「はぁ。もうすぐ深夜だよ。いくらここが別荘とはいえ、いつまで騒いでいるつもりなんだろうね」
凪紗は話を変えて終わらせたかった。
けれど、彰人は違った。クールな雰囲気はそのままに、何か話したいような空気が伝わってくる。凪紗が見つめると、彰人はその閉ざしていた唇を開いた。
「凪紗さんに提案があります」
「提案?」
凪紗はなんだろう、と首を傾げた。
「僕と契約してください」
「契約って……」
いきなりの話題に困惑する。まったく話が見えない。
その意味を問う間もなく、彰人がこんなことを言い出したのだ。
「僕の契約上の婚約者になってください」
「契約上の婚約者……!?」
週明けの月曜日。
凪紗は出勤したあともずっと悶々とした気持ちのまま業務に向かっていた。
(はぁ。新規参入プロジェクトの企画書を今週中にまとめなきゃいけないのに……雑念が!)
凪紗は現在、インターウエイブルJPという大手IT会社に勤めている。
在学中はメタバース事業やスタートアップ企業に興味を持ち、インターンとして関わっていた、メタバース事業を運営するMAGSという会社に入社した。
因みにメタバースとは仮想空間のことを指す。そこで実際にショッピングが体験できたり、VRゲームやコミュニケーションアプリなどを通して、他者と遠隔的に交流するフィールドを提供したりする事業、というとわかりやすいだろう。
そのメタバース事業で運営するブランドが社内に幾つかあったが、凪紗が立案した仮想空間ショッピングやライブイベントなどを主に展開する『Espacio』が国内でヒットし、これから世界に羽ばたくユニコーン企業に成長するのではないかと期待されていた。
ところが、入社三年目のある日に転機が訪れる。資金ショートによりMAGSが経営難に陥ってしまったのだ。
そのため、人工AI事業などを手がける大手IT会社、インターウエイブルJPにメタバース事業を譲渡する運びとなったのだが、人員整理の際に『Espacio』というブランドは残したいというトップの意向により、チームの主任を務めていた凪紗はそのまま同社の企画部に採用されることになった。
遡ることおよそ一ヶ月前。
なんとその譲渡先の会社インターウエイブルJPの社長に就任したのが、他でもない凪紗の幼なじみである鷹月彰人だった。彼はニューヨーク本社から異動してきたらしい。数年ぶりに日本に戻ってきた彰人と凪紗は、社長と社員という関係で再会を果たした。
『企画部のエースとして、期待していますよ』
そんなことを彰人から言われたのが記憶に新しい。
そして、新年度がはじまってすぐ、件の久藤家と鷹月家の当主夫妻によって、ホームパーティーが開かれた、というのが先週末までの流れである。
「はぁ……」
凪紗の口からまたため息がこぼれる。
『ぜひ、僕と結婚してくれませんか?』
あのあとも、彰人から提案された内容がずっと頭にこびりついて離れなかった。
凪紗が幼なじみとして仲良くしてきた鷹月兄弟は顔がよく似ている。しかも美形だ。
違うところといえば、雰囲気だろう。学生のときは、明るく誰とでも打ち解ける英智が太陽の王子、物静かな彰人が月影の王子などと女子が揶揄していたものだ。
彰人はひとつ年上だが、幼少期は背が低くて華奢で、性格もおとなしかったため、凪紗は弟のように思っていた。
二人はニューヨークにいる間、ルームシェアをして暮らしていたらしい。『しごできイケメン御曹司の鷹月兄弟』の話は社内でもよく話題になった。見た目や行動の派手さで英智の方が目立つけれど、クールな彰人に憧れている人も多い。
凪紗だって彰人が魅力的であることはよく知っている。けれど、学生の頃から凪紗は英智が好きだった。恋人になろうとか、どうこうしたいわけじゃないけどニューヨークにいる間もずっと忘れられなかった。昔から側にいた彰人も、そのことをよく知っている。
英智の婚約を知ったときはやっぱりショックだったし、彰人だってわかっているはずなのに、どうして『あんなこと』を言い出したのだろう。
(だいたい、契約上の婚約者って何? 『契約婚約』ってこと……? 『契約結婚』ならドラマで聞いたことあるけど)
「はぁ」
(ダメだわ、全然集中できない)
企画書の進捗がままならないうちに、あっという間に昼休憩の時間がやってきてしまった。
一度、気分転換に近くのカフェに出ようと、凪紗がロビーに降りていくと、運悪くばったりと彰人と会ってしまい、思わず「わぁっ」と声が出た。
慌てて口元を押さえてもあとの祭りだ。すぐに彰人が冷ややかな視線を向けてきた。
「まるで鬼にでも遭遇したかのような顔をしないでください」
「……大変失礼しました。社長もこれから外でお昼ですか?」
引きつりそうになる表情をなんとか整えて、凪紗は成り行き上、彰人に尋ねた。しかしその行動をすぐに後悔することになった。
「はい。せっかくなのでご一緒しませんか?」
「……は、い」
「ものすごく嫌そうですね」
表情だけは作り笑顔のままそんなことはないですよ、とアピールする。だが、内心は彰人の言う通りだ。
(だって……)
気分転換をしたくなった原因、諸悪の根源……とはさすがに言いすぎだろうか。自分を悩ませている相手とのランチなど、気が進まないのは当然だ。
「せめて、ごちそうしますよ。いい洋食屋があるんです」
凪紗の心境を察したらしい彰人はそう言い、行きましょうと視線で外へと促した。
奢ってもらえるからいいというわけではないのだが、決定事項のように彼が歩き出したので、もうこれはどうしてもついていくしかないようだ。
店のアテをつけていたということは、ひょっとしたら彰人は元々凪紗をランチに誘う予定でいたのかもしれない。凪紗は諦めて彼に付き従った。
案内された洋食店は、オフィスから少し離れ、ハイブランドの店が建ち並ぶ通りを一本入った路地にある、瀟洒なビルの二階に、ひっそりと存在していた。
店の外に看板やメニューボードのようなものは一切出していない。きっと知る人ぞ知るといった店なのだろう。
彰人に続いて店内に入り、凪紗が物珍しげに見渡していると、店主が声をかけてくる。
「いらっしゃいませ」
四十代半ばくらいだろうか。すらっとした身丈に黒シャツとギャルソンエプロンが似合っている、洒落た男性だった。袖からはみ出た腕には筋肉がついていて、鍛えているのだろうことが窺える。
続いて、店主とお揃いの制服を着た女性が奥の方からやってきた。二人で店を切り盛りしているのか、親密な様子からは夫婦のように思われた。
「二名様、お待ちしていました。こちらにどうぞ」
案内された半個室の席のテーブルには予約済みの札が置かれていて、凪紗は思った通りだったと苦笑した。
「先にお飲み物をお伺いいたします」
「凪紗さんは何にしますか?」
「アイスコーヒーにしようかな」
「では、同じものを二つ」
「かしこまりました。ランチメニューはこちらです」
続けてランチメニューの中から、二人はさっそく二種類のオムライスを注文した。凪紗がクリームソースで彰人がデミグラスソースだ。トマトソースも美味しそうだな、と凪紗は思ったのだが、白っぽいブラウスを汚してしまう気がして遠慮した。
アイスコーヒーが二つ、それから程なくして運ばれてきたオムライスからは湯気が立ち上り、食欲をそそるいい匂いがした。
(私もこのくらいうまく作ってみたいなぁ)
とろとろのふんわりとした卵の上には、ソースがたっぷりとかけられていた。器の端に付け合わせのブロッコリーとじゃがいものソテーが添えられている。それから、別のガラス器に盛り付けられた大根とにんじんを薄切りにしたサラダも彩りがよく、小さくカットしたトマトのソースが和えてあり、どれも美味しそうだ。
「結論は出ましたか?」
いきなり彰人が本題に切り込んできたので、食欲がすっと引いてしまう。もう少しくらい楽しむ猶予をくれたらいいのに。
「仕事中ですが……」
凪紗は苦し紛れに反発したが、そんな免罪符は少しも役には立たなかった。
「今は休憩中でしょう」
と、彰人が言った。
「はぁ。そんなすぐには結論なんて出せませんよ。何事も一朝一夕で解決できるようなことなんてありませんから」
凪紗だって、いたずらに回答を引き延ばしたいわけじゃない。ただ突然の提案に困惑し、どうしたらいいものか対応に悩んでいるだけだ。
「たしかに。では、悩んでいるポイントについて何か僕に聞いておきたいことがあれば言ってください」
「……うーん」
凪紗はひとまずアイスコーヒーで喉を潤しながら、先日のホームパーティーを思い浮かべていた。
両家の両親の怒涛の追い込みから逃れるべく外に出た際、彰人から提案された『契約婚約』の件だ。
あのあと――。
とにかく混乱しているから考えさせて、と逃げるように凪紗が別荘の中に戻ったときには、両親たちはそろそろ寝るからと退散し、お開きとなっていた。
まったく勝手な人たちだ。凪紗は憤慨しつつも深く追及されなかったことには安堵した。
そのとき、猫を腕に抱いていた英智と目が合い、ドキッとする。深夜の静かな時間に再び緊張が走った。
二人で話すのは久々だ。なんだか気まずくなってしまい、あれこれ会話の糸口を探していると、先に英智の方が尋ねてきた。
『彰人にプロポーズされたんだって?』
凪紗は目を丸くした。
『されてませんよ。飛躍しすぎです』
やんわりと否定する。
彰人相手とは違い、凪紗は英智には敬語を使う。
英智は昔から凪紗にとって尊敬する兄のような存在だった。
それに、学生時代「憧れの先輩」という目で見ていた部分もある。同じ幼なじみでも、そういう意味では彰人より少し遠い存在かもしれない。
『いいと思うけどな。二人、お似合いだし、自慢の弟だから俺も推薦したい』
『英智さんまで……』
拗ねた目を向ければ、英智は軽やかに笑った。
『ほんとほんと。俺が彰人だったら君のことを選んでいたよ』
『……』
凪紗は言葉を失った。じりっと内側に残った火傷の名残が這い出るような痛みを、胸の奥のどこかに感じた。
そんなことを言わないでほしかった。
たとえ話の流れだとしても、本気で思ってもいないことを口にされたら、どれだけ傷つくかなんて、きっと英智はわかっていない。
でも、こんな反発した気持ちがわくのは、凪紗の方の問題であって、身勝手な片想いの残滓のせい。英智には悪気があるわけじゃないことくらい頭では理解している。
だからこそ、余計に心に突き刺さって、抜けないトゲになってしまうのだ。それをごまかすには凪紗も軽口で応戦するしかなかった。
『婚約者さんに怒られますよ。そんなこといってるけど、仲良しなんですよね』
『まあね』
英智が微笑む。
ただその一言だけ。褒める言葉すらしまい込む彼の様子に、どれほど婚約者のことを大事にしているかを察してしまった。
そんな英智のやさしい表情を見た凪紗は、自ら地雷を踏んだことに気付き、即行撃沈した。
ひりひりする。ちくちく痛む。
もうこれ以上は過去の傷に触らないでほしい。
『じゃあ、俺もそろそろ休むよ』
英智の一言に、凪紗は内心ほっとする。
『おやすみなさい』
最後に、作った笑顔くらいは用意ができた。でも、不自然に強張っているような気がして、早く英智が立ち去ることを願った。
『……ん、おやすみ』
にゃーと猫が背伸びをしてソファで丸くなる。呑気な猫が羨ましい。リビングに取り残された凪紗は、立ち竦んだまま途方に暮れた。
(自爆、自滅、自己嫌悪……)
『バカですね。何をやってるんだか』
ぼんやりしていると、ぼそっと悪口が聞こえてきた。
遅れて外から戻ってきた彰人が、呆れたような表情を浮かべていた。
『何よ。そんな言い方しなくたっていいじゃない』
諸悪の根源は誰だと思っているのだろう。八つ当たりするのはみっともないと、責めたくなる気持ちを抑えつつ、凪紗は彰人を軽く睨んだ。
『……ですから、そういうのも含めて、いい提案だと思いませんか? お互いにメリットのある話ですよ』
『――契約婚約が?』
訝しげな凪紗に対し、彰人は即答した。
『はい。よく考えておいてください』
彰人の方には一切、迷いはないらしい。ともすれば、凪紗が承諾する前提でいるような気配すらあった。
いつ彰人はその契約婚約について考えていたのだろう。両親たちが言い出したタイミングではない気がする。そうだとしたら、彼は前々から計画していたということなのだろうか。
「――ホームパーティーの夜に彰人さんが言っていた、お互いのメリットについて、だけど……」
凪紗は回想から意識を呼び戻すと、休憩中ということを念頭に置き、普段通りに言葉を崩すことにした。
「遠慮なくどうぞ」
「たくさんお見合い話が来てるのはなんとなく知ってたよ。これまで仕事一筋で縁談については鉄壁状態だった鷹月兄弟のうち、英智さんにとうとう婚約者ができたから、ひょっとしたら弟の彰人さんの方にも脈が……っていう考えを持つ人が出てくるのはわかりきっていたことだよね」
ふっ、と彰人は小さくため息をついた。
「その通りです。さらには日本に戻ってきたのをいいことに、取引先の重役に、仕事の合間にそれとなしに話題を挟まれるんです。挙句の果てに、ただ話題に受け答えしただけなのに、まるで縁談に向けての接点を持ったものと勝手に解釈し、ご令嬢が父親の名代として仕事の取引を盾に会いにくる。端的に言うと、ビジネスをちらつかせて誘惑しにやってくるようになりました」
その様子が目に浮かぶようだ。実際、凪紗は彰人が社長に就任することが決まった三月のはじめ頃には、会社のロビーで女性が彰人に声をかけるのを何度か見かけたことがあったのだ。新年度がはじまってからもそれは続いているらしい。その件については凪紗も同情する。
「目論見がわかってからは断っていますが、業務に差し支えが出てしまっているので、大変困っています」
「たしかにそれは迷惑よね……公私混同もいいところだわ」
「ええ。本格的にストーカーということだったら、それなりに対処のしようはありますが、そう簡単なものでもありません」
彰人の言いたいことは凪紗にもわかった。
「縁談は企業同士の交渉材料のひとつでもあるものね。昔のようにとまではいかないけれど、今だって政略的な結婚があるっていうのは知ってるわ」
「主たる例として、先に婚約した兄さんがそうでしょう」
そう言い出した彰人と目がばっちり合い、一瞬、反応が遅れた。動揺しないように、凪紗はそれとなく視線を外しつつ、反論した。
「英智さんはちゃんと婚約者の方を愛しているじゃない。仲良しみたいだし……」
「どうですかね。口ではなんとでも言えますし。たとえ今、本当にそうだとしても……はじまりはそうじゃなかったはずですよ」
そういう彰人の言葉尻がなんとなしにきつくなっているように感じる。
ニューヨークでルームシェアをしていたくらいなのだから、昔も今も兄弟仲は悪くない方だと思うが、彰人はいつも兄の英智に対してあたりが強い。
一方、英智はそんな弟をあしらって飄々としているところがある。それがますます彰人の癪に障っている部分もあるようだ。
「そんな、ムキにならなくても。いい方向に変わったのなら、喜ぶべきじゃないの?」
凪紗は思わず彰人をなだめようとしたのだが。
「君が納得しているならいいのですが」
「納得も何も……私がどうこう関係ある?」
「じゃあ、僕たちが契約婚約をしても問題はありませんよね」
「ひょっとして、どさくさに紛れて、論破しようとしてる?」
ジト目を向ければ、彰人は、しれっとした表情で言った。
「婚約者に見せかけるんです。本当に婚約するわけじゃありません。表面上、婚約しましたということにするんです。その間に、それぞれの悩みを解決するための協定ですよ。そう悪くはないでしょう?」
彰人の説明はわかる。彼の主張も彼自身の考えも理解はできる。
「彰人さんが困ってるなら協力したいと思うよ。けど、私は……自分自身の問題の方が大きいわけで」
「では、僕側の事情に合わせてもらう分、君によりメリットのある提案をします。それではいけませんか?」
ダメならダメとはっきり言ってしまえばいいのに、ここにきて悩んでいる凪紗の方が罪かもしれない。
なぜ迷いが生まれるのか、凪紗自身がよくわかっている。いつまでも英智のことを引きずるわけにはいかない。もし新しい恋をはじめるなら、凪紗の事情を知っている彼を選べば、気が楽かもしれないと期待している部分が僅かにでもあるからだ。
しかも彰人はそれをわかった上で提案してくる。彰人にも事情があるとはいえ、自分を踏み台にしても構わないという彼の正気を疑ってしまう。
「それ以前に、このことを気の迷い……って、あなたこそ後悔することにならない?」
「僕に申し訳ないなんて思う必要はありませんよ。お互いに利用する。そのために提案したのですから」
彰人の表情は至ってドライだった。
彼には、凪紗の中に芽生えている感情など、すべてお見通しなのだろう。
「あなたにそう言ってもらえるなら気が楽かもしれないけど」
「そうでしょう。双方にメリットがあるから契約する。僕は、僕のことをよく知っている君にしか頼めません。君も兄さんのことをよく知っている僕なら都合がいいのでは」
彰人の提案に気持ちが揺れる。彼がいいというのなら……と思う方に少しずつ傾いていく。
けれど、きちんと確かめておきたかった。
「……彰人さんはそれでいいの?」
「ええ。君にとってのメリットについてですが、別日に改めて話し合いの席を設け、そこで、きちんと書面に起こしましょう。ただこうして話すだけの口約束ではない、確たる保証になる契約がほしい」
「それで『契約婚約』なのね」
「はい。無論、契約したからといってすべてがその通りとは考えていません。どちらかにデメリットが大きく生じた場合など、契約内容を協議の上で見直し、変更ならびに更新を検討……ひいては契約破棄するか継続するかも相談しましょう」
彰人はそれだけ早口でまとめると、腕時計に目をやった。
「戻らないといけませんね」
あっという間にランチの時間終了だ。
なんだか全然味わって食べた気がしなかった。
「君の退勤時間になったら教えてください。ロビーに迎えにあがります」
「えっ!? どうして?」
「まだ話が終わっていませんし」
「説明は今、ちゃんと聞いたよ。その、別日に改めて話し合うっていうのではダメなの? そんなに急がなくても……」
「……足りません。今はまだ契約前の交渉です。君から色よい返事がもらえるまで今夜は帰すつもりはありませんから、その覚悟はしておいてください」
「ちょっ……」
「無論、パワハラと言われては困りますし、君がノーと一言いえば、僕はなすすべがありません。それをこちらも心得ておきますから。それじゃあ後ほど」
凪紗に口を挟む隙を与えないままに、彰人は会計を済ませて、先に行ってしまった。
(何よ、それ! どうしたらいいの……!)
唖然として凪紗が彰人の背を見送っていると、スマホの通知欄にリマインダーが表示された。
凪紗はハッとして椅子から立ち上がる。
〆切間近の企画書を詰めなくてはならない。仕事だって考える時間を待ってはくれないのだ。
急いで職場に戻ったが、業務中も常に彰人とのことが頭から離れなかった。
(集中しなきゃいけないのに……)
目の前の企画書が進まない。
凪紗は彰人のことを思い浮かべ、ため息をついたのだった。
退勤後――。
凪紗がわざわざ連絡を入れるまでもなく、彰人からスマホにメッセージが入っていた。ロビーで待っているという連絡だ。
終わった。出口を塞がれてしまったら、理由をつけて逃れることはできない。
「はぁ……」
企画書はなんとか無事に推敲し、あとはもう少し煮詰めれば完成というところまでもっていけた。でも、彰人のせいで集中力の妨げになったことだけは主張しておかねばなるまい。
エレベーターからおりてロビーの出入り口付近にいた彰人のところへ向かう途中、凪紗は渋面を浮かべつつ彼に伝える言葉を用意する。そして、彼が振り向いたのと同時に、チクリと刺した。
「お疲れ様です。今日は社長のおかげで、業務に差し支えるところでした」
昼頃に彰人が愚痴っていた件の意趣返しが伝わったのか、彰人は面食らった顔をしたあと、相好を崩した。
「君に限ってそれはないんじゃないかな。やるべきことはしっかりとやり遂げる人だ。それは昔から僕がよく知っている」
久しぶりに口調がくだけた彰人に、凪紗の方が調子を狂わされてしまう。なので、また嫌味で応戦することにする。
「それで、このあとも予約済みのレストランに連れていってくれるつもりですか?」
「そうしようかと考えましたが……今夜は、少し、回り道をしていこうかなと思っていました」
すぐに彰人は元のポーカーフェイスに戻った。
「回り道……どこか寄るところでも?」
「ええ。失念していたんです。必要な経緯を飛ばしていたということに気付きまして」
どうぞ、と待たせていたタクシーのドアを開くようにして、彰人が待っている。
凪紗はわけもわからないままタクシーに乗り、続いて乗り込んできた彰人が行先も言わないままにタクシーは出発した。
つまりとっくに行先は伝えてあったということだ。またしても彰人のペースに飲まれてしまう。
たどり着いたのは港に面した遊歩道だった。仕事帰り或いは学校終わりのカップルが楽しそうに過ごしているのがポツポツと見える。
だが、既に日は水平線の彼方に僅かにオレンジ色を残すだけで、空は藍色に染まっている。暗がりで顔が影になって見えない。湾岸は風の吹き溜まりになるので声をかき消してくれる。
つまり、今の時間、親密な者同士過ごすにはうってつけのデートスポットといえるだろう。わざわざここに連れてきて彼は何を言いたいのだろうか。凪紗は落ち着かない気持ちだった。
「ここなら二人きりで話をしていても目立たないでしょう」
そう言い、彰人が凪紗を見つめる。
なんの話? と追及する間もなく、凪紗のすぐ目の前に立った。
「では、改めて、凪紗さんに申し上げます」
真剣な表情で向き合う彼の様子に、凪紗はドキリとした。それから心の準備も整わないままに、彰人はまっすぐに伝えてきた。
「僕と『結婚』してください」
「……!」
彰人が手のひらサイズの箱を開き、その台座に添えられた指輪を、凪紗の目の前に差し出した。
暗がりの中、その頂にある宝石は、夜景にも負けない煌めきを放っている。
まさか、彼がここまでするとは、凪紗も思い至らなかった。声も出せないまま、彰人をただ見つめ返した。
『彰人にプロポーズされたんだって?』
不意に、英智の言葉が脳裏に蘇ってきて、その場面が思い起こされる。
あのとき、英智と凪紗のやりとりを、彰人は見ていたはずだ。ひょっとして彼は手順を飛ばしたことを、気にでもしたのだろうか。
茫然としていると、彰人が言った。
「たとえ今は契約上でも、いずれ本当の夫婦になってもいいわけですよね」
「え?」
「そういう未来がないわけじゃないと思っています」
凪紗は彰人の言わんとすることを読み取ろうとするものの、彼の崩れないポーカーフェイスの前では、どう捉えていいかわからない。
メリットやデメリット。言葉は悪いが、共犯関係とも言える部分ばかりクローズアップしていたけれど、たしかに互いが一緒にいるのが自然なことだと感じられる未来が来る可能性だってないとは言えない。
でも、どうして彰人は突然そんなことを言い出したのだろうか。ひょっとして、という予感がひとつ浮かんだ。
凪紗は彼の真意を追及したい気がした。
(彰人さんは……私と、本当に結婚したいと思ってる?)
「ねえ、指輪はいつの間に用意していたの? この数日間で、彰人さんに作りに行く時間があったと思えないんだけど?」
驚くよりも呆れるような気持ちの方が今は強かった。ここまで用意周到である彼の意志に。
メリットやデメリットは理解したが、やはりどうしてそこまでするのか、と思ってしまうのだ。
「……どの道、妻を迎えようと思っていましたので」
彰人が瞬きを数回したのを、凪紗は見逃さなかった。今の今、そんな言い訳がまかり通るわけがないだろう。
「以前から作ってあったということ? みんなが同じ指のサイズではないと思うけれど?」
「けっこう前に、指のサイズがどうという話題は……耳にしていましたので……」
「彰人さん、いずれ妻を……って言ったでしょ。どうしてわざわざ私のサイズに合わせたの? まるで最初から私に渡すことが分かってたみたいに」
「それは……ですから――」
凪紗の追及にだんだんと彰人が動揺しはじめるのを見て、凪紗はさすがにこれ以上の意地悪はやめるべきか、と微笑ましい気持ちになっていた。
「ねえ、彰人さん。あなたに好きな人はいない?」
「……いませんよ。他に」
不機嫌になりつつあった彰人に、凪紗はもう一撃を加える。
「じゃあ、よかった。いたずらに恋路を邪魔する存在にはなりたくないし。でも、たとえばもし彰人さんが私を好きだとしたら、私はあなたの気持ちを利用するんだよ。それってすごくひどい話だと思わないの?」
「……別に。いずれ、君が僕に恋をすればいい話ですし」
ぼそっとした彰人の一言を、凪紗は聞き逃さなかった。
「ねえ、ちょっと待って。聞き捨てなりませんが。それって、つまり彰人さんは――」
「君こそ、そろそろ焦らすのはやめて、答えをください」
彰人がこちらをじっと見つめる。
さあ、と鬼気迫る勢いで答えを求めてくる。
これ以上余計なことを言ったら、何かよくないことが起こる気さえして震えてしまう。
「こ、これだけ確認させて。お試しでいいっていうことだよね。契約婚約……というのは、つまり婚約者に見せかけたいから、表向きの形だけを求めるっていうことだよね」
「はい。いずれ僕がまた海外に行くこともあるでしょう。それまでの期間限定というのはどうですか。それまで、いうなれば僕らは見せかけの婚約関係を演じるということです」
「期間限定……わかった。そういうことなら引き受けるよ。その間、親がいつまでも結婚したらどうってうるさいのも黙らせられるもんね」
「ええ」
流れが自分の方にもっていけたことに嬉々としはじめている彰人を尻目に、凪紗は指輪をじっと見た。
「でも、申し訳ないけれど、指輪は受け取らないでおくよ」
「なぜ? 気に入りませんか?」
ショックを受けたような彰人を見ると、なんだか申し訳ない気がしたけれど、それ以上に受け取ってしまうことの方が恐れ多い気がした。
「ううん。そうじゃなくて。だって、その婚約指輪……あんまりにも立派だもん。それに、私が填めたら未来の彰人さんの奥さんに悪いし」
凪紗がそう言って彰人を見ると、彼には想定外の返答だったらしく、固まってしまった。
「その代わり、偽の婚約者になるなら、とりあえずチープなもので、結婚指輪に見せたお揃いのリングを作ればよくない?」
「……わかりました。それがあなたの交渉だということですね」
彰人は渋々といった感じだったが、それでも凪紗の考えを尊重したらしく、指輪をポケットに丁寧にしまい込んだ。
「一緒に暮らしたくないと言われるよりはマシですから」
「……って、やっぱりそうなる?」
「無論、職場にはそのうち広まるのであえて公表はしませんが、疑われる隙を与えたくありませんからね。引っ越したら、経理には近々結婚する予定なので同居をはじめた、ということを伝えましょう。それがやがて噂になれば万歳です」
社内恋愛は禁止ではない。凪紗が所属している部署内でも付き合っている人たちはいる。人数の少ない部署なので、噂になるのもそう遠くはないだろう。
「では、次の課題は、『結婚指輪に見せかけたお揃いのリング』の準備と、新居の下見ですね」
「あのーまさかと思うけど」
「週末、物件を決めてしまいましょう。僕がひとつ押さえておいたマンションで良ければそちらで。それと、『結婚指輪に見せかけたお揃いのリング』を填めて写真撮影です。その後、両親には結婚することにしたので同居しはじめたことを報告します。いいですね?」
「待って待って。そう何度も『結婚指輪に見せかけたお揃いのリング』って連呼しなくてもいいんだけど、じゃなくって! 急に話を進めすぎ!」
「あなたが契約交渉に応じてくれた。それなら善は急げですからね」
彰人は真面目な顔でそう言ったかとおもいきや、不意に凪紗へと一歩近づいた。
「な、何」
整った顔がすぐ間近に迫ってきて、鼓動が波打つ。
まさかキス――いきなり!?
怒涛の勢いがすぎるので、思わず構えてしまったが、そうではなかった。イヤリングに触れたのだ。
「アクセサリーの好みがよくわかりません。どんなデザインのものがいいのかと」
「そ、それはいいよ。二人で見て決めればいいでしょ」
「はい。では、そちらも了承ということで」
不敵な笑みが目の前にある。というより勝利を確信した満足げな表情といった方がいいだろうか。翻弄された凪紗の心臓の音だけがいつまでも忙しなく落ち着かない。
(……やられた)
「そんな言質をとるようなやり方……」
「夫婦の間にも多少の駆け引きは必要ということですよ。まだ婚約ですが」
彰人が相好を崩す。
そのとき英智の面影がちらついて、凪紗は一瞬だけかぶりを振った。そうだ。ちらついたままではダメなのだ。
「先日も申し上げた通り、互いにとってのメリットは何も一つや二つだけとは限りませんよ。僕は、君が好奇心や探求心に溢れた人物であると認識しています。職場以外でも君のその知識欲を満たすことができるかもしれない」
それはたしかに魅力的な案件だと凪紗は思ってしまった。
「わかったわよ。だったら、私も彰人さんの手腕を楽しみにしてるわ」
どこか幻想的な春の暖かい夜気のせいか、それとも言い合いをした勢いか、すっかり彰人のペースに乗せられてしまった気がする。
けれど、もうはじまってしまったのだ。
「君の座右の銘は『有言実行』でしたね」
彰人が煽るように言う。
学生の頃から変わらない、凪紗の座右の銘だ。
「……そういうところだけは覚えているのね」
「飽きずに覚えていますよ。君に関することならなんでも」
夜景の光を映した彰人の瞳に、凪紗はドキリとする。
幼なじみとして過ごしてきた懐かしい思い出が、胸の内側にやさしく去来する。
二人の間に変わらないものがあるとしたら、この先、変わっていくものもひょっとしたらあるのかもしれない。
そうだとしたら、『本当の夫婦になってもいい』と思えるような感情が芽生えることもあるのだろうか。彼の想いを込めた声音のせいで、さっきのパフォーマンスだけのプロポーズよりも、ずっと鼓動が騒がしくなる。
「彰人さんには参るよ、本当に」
「褒め言葉だと、受け取っておきます」
顔を見合わせて、ちょっとだけ笑った。
二人はこれからお互いのメリットを追及した共犯者になる。もう引っ込みがつかないところにいることだけは確かだった。