義弟 壊れるほどに愛されて 3
第三話
マンションのエレベーターに押し込まれ、上昇する箱の中、沈黙が落ちた。
空気がひりついている。こんな時に限って他の住人がいないことが恨めしい。
共有部分の廊下も静まり返り、部屋に到着するまで誰にも会わず、百合は強引に室内へ連れ込まれた。
春陽に突き飛ばされる勢いで背中を押されたのは、これが初めて。彼の乱暴な仕草を見たのも。
瞳の色が変わっている。見慣れた焦げ茶なのは変わらなくても、ゾッとする何かが揺らいでいた。
整った顔立ちが余計に際立ち、研ぎ澄まされた刃物に似た鋭利さが百合を動けなくする。
指一本。瞬き一つ。呼吸さえ。
穏やかで冷静な弟の姿しか知らないので、ささくれ立っていた気持ちもどこかへ行ってしまった。
そんなことより、施錠された扉を背に立つ春陽から目が逸らせない。背中を向けた瞬間急所目がけて飛び掛かられそうだと、間抜けな想像が頭を過った。
「……で? 高尾さんとは付き合っているの? いつから?」
関係ないと威勢よく言う気にはもはやなれなかった。瞬間的な怒りが去れば、今の異様な雰囲気に怖気づく。
殺気めいた空気を纏う彼をもっと不機嫌にさせてはいけない気がして、百合は多少冷静さを取り戻した。
「……ちゃんとお付き合いすることになったのは、今夜からよ。ついさっき申し込まれたの」
「……はっ」
震えそうになる喉を叱咤して声を絞り出せば、返されたのは嘲りも露わな失笑だった。しかも春陽の双眸は欠片も笑っていない。むしろ忌々しげな色が滲んでいた。
「忙しくて色々バタバタしている間に、最悪だ」
「質問には答えたでしょ。今度はこちらが聞かせて。……どうしてそんなに怒っているの」
全く隠す気がない春陽の怒気が、百合の肌を粟立たせる。刺々しい空気が突き刺さりかねない。そんな危機感を抱くくらい、彼は普段の柔和な態度をかなぐり捨てていた。
「どうして? 姉さんは本気で分からないの? それとも──この期に及んでまだしらばっくれるつもり?」
「いったい何の話?」
まるで話が見えない。自分が責められる原因も不明だが、百合が春陽の地雷を踏んだことは辛うじて理解できた。
「上手だよね、姉さんは。忘れた振りでごまかすのが」
「……?」
忘れた振りをしているつもりも、ごまかしている覚えもない。言いがかりも甚だしい。こちらとしては、いきなり押しかけてきた弟に喧嘩を吹っかけられているのも同然だった。
「言いたいことがあるなら、ハッキリ言って。遠回しに詰られても、困るわ」
「姉さんがどうしても『そういうこと』にしたいなら、僕は従うつもりだった。でもそれは、貴女が一人でいてくれるならだ。誰か他の男を選ぶなら、話は違うよ」
噛み合わない言葉にますます困惑する。
彼が何を示唆しているのか見当もつかない。はぐらかされている心地になり、余計煙に巻かれたようだ。
「分かりやすく言ってちょうだい。思わせ振りな真似はやめて」
「──本当にそれでいいの? 姉さん。貴女が許してくれるなら、僕はもう遠慮しないよ」
「いい加減にして。きちんと説明してくれなきゃ、分かるわけがないじゃない!」
乱れた感情が決壊し、つい大声が出た。
反動で、直後に訪れた室内の静寂が鮮明になる。
静まり返った玄関の空気は凍えていた。何もかも、凍り付かないのが不思議なほどに。
空気が変わる。
いや、今夜春陽に出会った時にはもう、何かが軋み始めていた。
ここは崖っぷちだ。前にも後ろにも進めない。身じろげば奈落の底に落ちるだけ。
百合がそう悟った時には、全てが手遅れだった。
「僕は昔から姉さんが好きだった。知っていただろう? でも貴女が全部なかったことにしたいなら、それでもよかった。だって体裁を取り繕うためであっても、大嫌いな僕に優しく接してくれて、感謝していたからね」
百合の世界がひび割れる。
辛うじて保っていた『普通の形』が脆く崩れ去る幻影が見えた。
忘れていたかったこと。見て見ぬ振りを貫きたかったこと。
それらがこれ以上目を背けることを許してくれなかった。
奥から出てきたのは、いっそ封印したかったもの。なかったことにしておかなくてはいけない、罪深い欠片だった。
──ああ、そうだ……『嫌い』なんかじゃない。私はいつの頃からか自分に向けられる春陽の視線が怖かった。
姉に対するものではない色と熱が籠っていたから。
何の気なしに振り返った瞬間、濃密に視線が絡んだのは一度や二度ではない。
家の中でも。校内でも。常にどこかで彼の気配を感じていた。
それに勘付いてしまったら、あらゆるものが瓦解する。
汚くて、醜い。忌むべきそれ。普通の姉弟なら、あり得ない。あってはならない『汚らわしさ』。
祖母の甲高い叱責が幻聴となってよみがえった。
「やめて……!」
春陽は分かっていたのだ。姉が彼を心底苦手に思っていたことを。それでいて表向きいい顔をし、保身のために親切ぶっていたことも。
本当は弟のことが疎ましくて堪らないのに、さも理解ある姉の仮面を被って、上面の付き合いをしてきたことを。
何もかも、突き詰めれば自分のため。一ミリだって春陽を思ってした行動ではない。ひたすら彼を斬り捨てたいと目論んでいた。
──気づかれていた。
とても抱えきれない衝撃の連続で、眩暈がする。
羞恥心でどうにかなりそう。卑劣な自身の本性を暴かれた心地で、百合はその場にへたり込みそうになった。
玄関でしゃがまなかったのは、頽れる直前に春陽が支えてくれたおかげだ。
腰を抱かれ、爪先立ちになる。
体勢を維持できたのは、重心を弟に預けていたから。そうでなければ、倒れていてもおかしくなかった。
「……大嫌いな男には触れられたくもない? でも残念。全部丸ごと曝け出せって言ったのは、姉さんだよ」
──春陽はこんな顔をしていた?
弟の美貌は長年見慣れていた。それなのに、今初めてまともに直視した気がする。
整い過ぎた容姿は百合が認識していた通り。だが温和さが微塵もない、剥き出しの劣情に困惑した。
獲物は百合だ。皮肉なくらい、それが感じ取れる。
喰らわれる予兆が肌を戦慄かせ、瞬きもできなかった。
「わ、私は……」
「曖昧なままはぐらかしてくれたら、姉さんの望む形を維持するために、ずっと付き合ってあげるつもりだった。だけど壊したのはそっちだよ?」
罪を擦り付けるなと反論したくても、声が出ない。言葉は喉奥に絡んだまま。
喘ぐように息を吸えば、キスで唇を塞がれた。
「ん……っ」
いきなり深く食らいつかれて、呼吸の狭間を見失った。
頬を押さえられているために、奥歯を噛み締めることもできない。春陽の舌を捻じ込まれれば、成す術なく翻弄された。
「ふぅ……っ」
擽ったくて、気持ちいい。
口の中がこんなにも敏感だと初めて知る。他者の舌が我が物顔で百合の歯列をなぞり、唾液を掻き混ぜられた。
舌同士を絡め淫靡な愛撫を施されれば、粘着質な水音が内部から響いて、吐息が湿り気を呼ぶ。
もがく度、彼の腕がこちらを強く拘束し、今や背がしなった百合は完全に自力で踏ん張れなくなっていた。
──何、これ? いったいどうなっているの?
口づけされていると認められず、頭が現実逃避したがっている。脳から手足には、今すぐ春陽を突き飛ばし逃げろと指令が下された。
しかし身体は百合の意思を裏切る。
どこにも力が入らず、馬鹿みたいに虚脱していた。それどころか触れ合っている部分だけが過敏になり、愉悦を覚えてしまっている。
痛いくらいに腰に食い込む腕すら、恍惚の糧になった。
息は滾り、視界が滲む。奪われた呼気を継ぐほど、口づけが深くなる。魂も吸い出されそうなキスを、初心者が受け止めきれるはずもない。
もはや暴力に等しい悦楽が、百合の思考力も判断力も鈍らせた。
同時に狂おしく求められている事実で惑わされる。春陽の身体を押す手は、次第に力を失っていった。
──何も考えられなくなる。
辛うじて瞼を押し上げれば、視界一杯にこの世で最も嫌いな男が映った。
いつだって百合の居場所を脅かし、こちらの努力を嘲笑う才能を見せつける弟。
それでいてできの悪い姉を慕っているなど馬鹿げた戯言を吐く。
関わると自身が惨めになるから、距離を置きたい。そんなささやかな願いを踏みにじる春陽が憎くて堪らなかったのだと──容赦なく分からせないでほしかった。
「んんッ……」
渾身の力で暴れようとしても、膝が笑っていては話にならない。
百合の抵抗など、彼からすれば赤子の駄々と大差ないのだろう。容易く押さえ込まれ、あまつさえ抱き上げられた。
「な……っ」
驚きの声は、脱げて三和土に落ちた靴の音で掻き消された。
春陽は器用にも、手を使わずに自身の靴を脱ぎ捨てる。いつもなら行儀よく揃えられた革靴が、今夜は無惨にも放置されたまま。
横倒しになった百合のパンプスの隣へ、滑稽にも転がった。
「春陽……!」
浮遊感に戦慄いて、下手に暴れられない。もし落とされれば、それなりに痛い思いをする。下手をすれば腰を強打しかねない。
手足をバタつかせても壁にぶつけそうで、百合が逡巡している間に連れて行かれたのは寝室だった。
これまで彼がこのマンションに泊まることがあっても、百合の寝室へ入ろうとしたことはない。普段は物置部屋として使っているスペースに、春陽の私物や布団は置かれているからだ。
利口で紳士な弟は、姉のプライベート空間には踏み入らなかった。合鍵で出入りしていても、そこは線引きしていたのだろう。
けれど今、『暗黙の了解』が破られかけていた。
夜が更けた時間帯に密室で二人きり。
しかも目の前にはベッド。
いつもとは違う苛立ちを隠さない春陽に、百合は本能的な恐れを抱いた。
──私の知っている『弟』じゃない。
警戒警報が頭の中で鳴り響く。
なりふり構わず逃げなくては、取り返しがつかないことになる。今ならまだ間に合う。春陽を殴ってでも鍵のかかる場所へ逃げ込めば──
そう思うのに、身体に力が入らなかった。
ベッドに下ろされた百合にできたのは、間抜けにも覆い被さってくる男を見上げることだけ。
大人二人分の体重を受け止めたベッドが軋む。自分一人なら丁度よかった大きさが、急に狭苦しく感じられた。
それは単純に空間の話ではない。
春陽の身体があまりにも大きく見え、『逃げられない』と悟ってしまったからだった。
「や……」
「もう手遅れだよ。諦めて」
囁く声はこの状況に不釣り合いで優しい。いつも『姉さん』と呼びかけてくるトーンと変わらない。
それでも滲む何かが百合を震わせた。
──こんな人、知らない。
押さえつけられた手首が痛くて顔を顰め、繰り返し瞬いても見える光景は同じだ。
百合を真上から見下ろしてくるのは、初対面としか思えない『男』だった。
「僕に首輪をつけたのは姉さんだけど、鎖を解いたのも貴女だよ」
瞳の奥で燃え盛る焔が、危険な色を帯びた。
直に触れるのでもないのに、火傷しそう。こうして視線が絡めば、こちらにも飛び火しかねなかった。
常識も倫理観も消し炭に変える業火が、チラチラと踊る。一瞬でも綺麗だと見惚れてしまったのが、百合の過ち。
反応が遅れ、既に逃亡の機会は完全に失われた。
明かりのない部屋の中、まだ暗闇に慣れない目が捉えられるものはたかが知れている。物の輪郭と曖昧な明度のみ。
にも拘らず何故こうもハッキリ春陽の眼差しは視認できるのか。暗闇で大型の獣に狙いを定められた気分だった。
大きく見開かれた瞳孔が捉えるのは、絶体絶命の被食者。危機的状況に悲鳴すらあげられない。
百合にできたのは、命乞い同然に首を横へ振ることのみだった。
「分かりやすく言えって言ったのは、姉さんだ。だからもう遠慮しない。我慢もやめる。僕は貴女を絶対手に入れるよ。──長い間懸命に努力して振り向いてもらおうと頑張ってきたけど──諦める。心が無理なら仕方ないよね?」
皮肉な笑みを笑顔と呼ぶには、陰惨過ぎた。
何かを諦めた空虚なもの。傷ついた表情にも見える。反射的に百合は罪悪感を刺激された。自分が彼を追い詰めたとしたら、責任はこちらにある。
だが『仕方ない』の言葉に頷くわけにはいかなかった。
「は、春陽……待って、やめて」
「何を?」
長年目を背け続けた現実を直視するのは勇気がいる。どうしても認めたくない気持ちが先走って、こんなことになっても夢だと思い込みたかった。
だからこそ、百合の口から具体的な言葉が出てこない。拒否したい内容を言ってしまえば、弟が抱えていた問題と対峙しなくてはならなくなる。
それは自分が『見ない振り』をしていたと自白するのも同義だった。
「……ほら、やっぱり姉さんは全てお見通しだったよね。急に態度がよそよそしくなった頃から、僕が怖かった? これでも完璧に隠していたつもりだったんだけどな」
「……ぇ」
百合はだいぶ幼い当時から弟が苦手だった。それこそ物心つく頃には、祖母に可愛がられ優先されている彼を脅威に感じていたと思う。けれど懸命に隠していた。
故に『急に態度がよそよそしくなった』の言葉には違和感がある。
春陽へ見せる顔を途中で変えた覚えはない。
仮に嫌悪している本心が見抜かれていたなら、それは最初からだ。それなのに。
──春陽には、私が突然距離を置いたと思われていた?
何故。
彼が百合と同じ高校へ進学を決めた際、謝罪してきたことを思い出す。ひょっとしてあの時点で既に、自分の本音が悟られていたのか。
──つまりそれ以前に私の態度が変化したと春陽は感じていた?
弟や家族から逃げるように遠方の高校を選んだ百合は、確かに弟を遠ざけたかった。当然、もっと前から願っていたことだ。
中学でも。小学校でも。
心は常に逃げ腰だった。どこかで切り替えてはいない。一貫して内心で背を向け、表向きは理想の姉を演じていた。
──そのはずでしょう? ……私が何か思い違いをしている?
けれど掘り起こそうとした記憶は、春陽からの口づけで掻き消された。
「ふ……っ」
唇を食まれ、荒っぽく口腔内を支配される。寸前まで頭を占めていた疑問は、瞬く間に瓦解した。
春陽の膝が強引に百合の脚を抉じ開けてきて、閉じようとしても間に彼がいては叶わなくなる。
まるで標本箱に貼り付けにされた蝶。
足掻いても、徒労に終わる。次第に疲労感が蓄積し手足は重くなっていった。
──どうしてこんなことに?
正解を選んできたつもりが、どこで失敗したのか本当に分からない。
勇太に交際を申し込まれ、春陽に駅で捕まるまでは、自分の人生が上向いている実感に包まれていた。この先更に安らぎを得られるものと疑っていなかったのに。
それがいきなりこんな状況に陥るなんて、誰を怨めばいいのやら。
しかし考える暇も与えられず、百合の服が強引に脱がされた。破られなかったことだけが幸い。
多少のお洒落はしていても、いつものようにゆったりとした服を着ていたせいで、いとも容易く上も下も剥ぎ取られる。
瞬く間に下着姿にされ、百合の混乱は極致に達した。
「見ないで……!」
こんな格好を異性に晒したことはない。今日恋人になったばかりの勇太とは、手も繋いでいないのだ。
それなのに初めてのキスを奪われただけでなく、半裸まで見られるなんて。しかもこの世で一番嫌いな弟に。
「──姉さん、こんな服持っていたっけ? まさか彼氏のために新しく買った?」
嘲る口調の質問には明確に苛立ちが覗いている。
百合の返事を待つまでもなく、答えは分かっていると言いたげだった。
「春陽には関係ない。そんなことより、すぐどいて。今ならまだ……っ」
「手遅れだって言ったのに、もう忘れた? 本当に姉さんは忘れっぽい」
「ひ、ぅ」
胸の下から臍にかけて、腹を指でなぞられて、妙な声が漏れた。
掻痒感でゾワゾワする。人目に触れさせることは少なく、ましてや触られるなんてなかった皮膚は、思いの外敏感だった。
男の指の形も、爪の感触も生々しく伝えてくる。臍を中心に円を描かれれば、無意識に下腹が波打った。
「嫌……!」
「まさか、この下着も新調した? 高尾とかいう男のために」
「ち、違……」
恥ずかしい質問に素直に答えたのは、危機感を覚えたせいだ。
明らかに様子がおかしい春陽を、興奮させるのは得策ではない。穏便に済ませたいなら、まずは落ち着かせるのが最優先。
ここに至っても百合はまだ、引き返せると信じていた。──信じたかった。
「駄目っ」
ブラジャー越しに胸を掴まれ、ゆっくり形を変えられる。痩せているわりには大きい百合の乳房が、淫猥に揺れた。
「姉さん、こんなに綺麗な身体をしていたんだね。想像していたより、ずっと魅力的でクラクラする」
「触らないで……!」
恥辱としか思えない誉め言葉など聞きたくなかった。
男の視線に晒された肢体が、熱を帯びる。布に擦れた乳頭が、むず痒い。一度意識すると余計に先端が固くなって敏感さを増した。
「んん……ッ」
喉奥で声が掠れる。拒否の台詞を吐こうとしても、その前に喘ぎに呑まれ、言葉にならない。
下手に口を開けばふしだらな声が漏れかねず、百合は強く唇を引き結んだ。
──嫌で堪らないのに、体内が熱い。
特に腹の奥が煮え滾っている。蓄積する体温で、頭はのぼせそうだった。
いっそのこと意識を手放せれば楽になれる。だがジリジリ水位が上がる愉悦が、百合の意識を無理やり現実に繋ぎとめた。
そのせいで『弟に淫らなことをされている』事実を忘れさせてもらえない。
途轍もない忌避感が荒れ狂い、百合を惑乱させる。こんなことは間違っていると叫びたくても、心と身体が乖離していた。
何も思い通りにならず、奥歯を噛み締めるのが精一杯。
せめてみっともない顔を見られまいと横を向けば、こめかみ辺りにキスをされた。
「──嫌いな男にこれから犯されるなんて、姉さんは可哀相だ」
「な……っ」
他人事な言い方に唖然とした。
その可哀相なことを強いているのは、いったい誰だと思っているのか。今まさに自分を組み敷いている男を、百合は涙目で睨み付けた。
「こんなことをして、ただで済むと思っているの? お父さんとお継母さんが何て思うか」
「姉さんが話したいなら、好きにすればいい。僕はちっとも困らない」
いけしゃあしゃあと言う男は、欠片も悪びれていなかった。
まるで言葉が通じない相手と話している錯覚に陥る。
もしや自分の方がおかしいのか不安になるくらい、春陽は平然と「むしろ話してくれてもいいかな。僕らの関係が露見したら、二人に認めてもらえるかもしれない」と宣った。
「何言っているの……」
呆然とするとは、今まさに使うべき単語なのだろう。
百合は人生においてこんなにも絶句したことがない。会話ができない野生生物とだって、もう少し分かり合える気がする。それが勘違いに過ぎなくても、同じ言語を操りながら全く意思疎通できない人間と対峙するより、恐怖が薄らぐと思えた。
人は理解できないものを恐れる。
自分に危害を加える可能性が高いと、本能的に知っているからだ。
今の事態はまさしくそれ。
百合は春陽を微塵も理解できない。知ろうとする意思が潰えるほど、二人の間には越えられない壁があった。
「──どうせ割れた器は元に戻らない。だったら手段を選ぶ気はないよ。姉さんが僕のものになるなら、どんな卑怯な手だって厭わない」
ぐっと顔を近付けられ、彼の表情が読み取れた。
虚ろだ。
欲情や劣情はない。百合を傷つけてやろうという加害性も。
ただひたすら、瞳の奥に虚しいと言わんばかりの昏い闇が広がっていた。
「い、嫌っ」
「分かっている。でも叫んだって無駄だよ。姉さんも知っていると思うけど、この物件は防音性に優れている。父さんが姉さんを住まわせるだけあるよね」
がむしゃらに手足をバタつかせたが、易々と押さえ込まれた。
初めから腕力と体力では勝ち目がない。しかも押し倒されている状況で、百合の抵抗などないに等しい。
それでも煩わしいのか、春陽がおもむろに自らのネクタイを外し、百合の両手首を後ろ手に縛った。
「……っ」
自由を奪われたことで、心が挫けかける。自分の非力さを嫌でも自覚せずにいられない。
両腕を背中に回されたことで図らずも胸を突き出す体勢になり、百合は春陽の視線から逃れたくてうつ伏せようとした。
けれどそれすら許してもらえない。アッサリ仰向けに戻され、罰だと言わんばかりにブラジャーをずり上げられた。
「きゃ……っ」
白い膨らみがまろび出る。暗がりだからこそ、百合の肌の色味が際立った。見たくないと思っても、どうしたって視界に飛び込んできて、今自分が誰に何をされているのかを叩きつけてくる。
身を捩る儚い抗議は、乳房の頂を摘まれたことで凍り付いた。
「んっ」
「少し寒い? ここが健気に尖っている」
「やぁ……っ」
乳首を指先で捏ねられ擦られると、見知らぬ感覚が百合の内側に生じた。
ゾワゾワしてもどかしい。血流が上がって、触れられている部分に集まる。すると一層乳嘴が硬くなり、淫らに色付いた。
「触れてくれって強請られている気分だ」
「ち、違ッ」
そんなつもりは毛頭ない。けれど腰の付近が切なく騒めく。
百合が必死になればなるほど、双丘がいやらしく揺れた。
体重はかけられていなくても、今や腹の上に春陽がいる。こちらの身体を脚で挟み腰を下ろしているのだ。
この状態では、打開策なんてあるわけがなかった。
「駄目……っ、わ、私誰にも言わないし、今夜は何もなかったことにするから──」
「なかったことになんて、しなくていい。逆に一つも忘れず、記憶と胸に刻みなよ。僕を怨んで憎んで──他のことは何も考えられないくらい傷ついてほしい」
好きだったと告白した同じ口で紡がれる台詞とは思えなかった。
残忍で情け容赦ない、重苦しい激情。
それが百合にぶつけられている。ほの昏い双眸に映るのは、怯えた顔をした女だけ。
悲鳴とも呼吸音ともつかない音が室内に響き、百合は緩々と首を左右に振った。
「姉さんに愛してもらおうなんて大それた願いは諦めた。だからせめてこの世の誰より憎悪してくれ」
常軌を逸した言葉は、まかり間違えば熱烈な求愛なのかもしれない。けれど一ミリも望んでいない百合には、脅迫以外何物でもなかった。
自分が弟に願うのは、適度な距離感。外野からとやかく言われない程度に円満でさえあればいい。
おいおい疎遠になれたら、もっと最高だった。それが根底から砕かれかけているのを悟り、涙が溢れる。
もう引き返せない。春陽には戻る気がないと察してしまった。
「馬鹿なことを言わないで……!」
「姉さんには大きな違いはないんじゃない? 僕のことが嫌いなのを隠さなくてよくなるだけだ。むしろ清々すると思うよ」
百合の髪を撫でてくる手つきは慎重だった。頬を摩る指先も。
だからこそ何が現実で真実なのか曖昧になる。いっそ全部が夢だと言われた方が納得できた。
悪夢でも白昼夢でもいい。幻覚だって構わない。お前がおかしくなったのだと嘲笑われれば遥かに救われる。
百合が抱え続けた長年の鬱屈が見せる幻影でないのなら──この出来事は残酷過ぎた。
「やめて……!」
「断る。仮にここでやめたら、きっと姉さんは口を噤んで今夜のことを闇に葬るだろう?そして二度と僕と関わらなくなる。告発しない代わりに、今後一切会うことも話すことも拒否して、貴女の世界から僕を完璧に追い出すはずだ」
おそらく、その通り。
聡明な弟は、愚かな姉の思惑などお見通し。浅はかな計画を嘲笑い、微かな救いの道も閉ざしてきた。
百合がいくら否定したところで、春陽が信じてくれないのは予想がつく。信頼に足る行動をしてこなかったのだから、当然だった。
「あ……」
「僕を説得しようとしても無駄だよ。生半可な覚悟でこんなことをしでかすと思う? 姉さん以外、全て失っても後悔しない」
「ひ……っ」
愕然とした隙にショーツの上から足の付け根へ触れられた。膝立ちになった彼が下へ移動し、先ほどより百合は身を捩れるようになる。
だが最後の砦であった小さな布は、百合を守るには頼りなかった。防御力はまるでなく、あっけなく膝まで引き下ろされる。
通常人目に触れさせない場所を剥き出しにされ、それなのに下着は上下とも中途半端に百合の身体に引っ掛かっていた。それが殊の外羞恥心を掻き立てる。
春陽はネクタイを解いただけで、着衣の乱れはまるでない。
みっともない自分との対比が『辱められている』のを直視させてきた。
「できれば姉さんには泣いてほしくないけど──無理みたいだ」
「あ、当たり前でしょう?」
己を鼓舞しても、声が震えて涙が止まらなくなった。
視界はすっかり滲んでいる。その分、他の感覚が鋭敏になり、脇腹をなぞられると爪先まで痺れが広がった。
「高尾さんとはどこまでした? 今日正式に交際が始まったなら、キスはもうした? 姉さんの性格上、流石にそれ以上のことはまだだと思うけど、手が早くて身体目当ての奴も大勢いるからね」
「あ、貴方に答える義務はない」
掻き集めた勇気で張りぼての虚勢を張った。
しかし百合の強がる態度が、回答そのもの。それに先ほどの口づけで慣れていないのが春陽には分かったはず。
彼は鼻で笑い、「高尾さんが腰抜けでよかった」と嘲った。
「彼を悪く言わないで」
優等生然とした春陽の顔しか知らない百合は、悪辣に唇を歪める弟が信じられなかった。中身が入れ替わってしまったのかと、間抜けなことを考える。
それほど別人としか思えない表情で彼はこちらを見下ろしてきた。
「……信用しているんだ? 姉さんから告白したの?」
「高尾さんから、だけど──」
「見る目はある男なのか。癪に障るな」
何を言っても春陽の怒りに薪をくべるよう。百合が言葉を重ねる度、彼の苛立ちが増した。
雑な仕草でジャケットを脱ぎ捨てた春陽が、シャツのボタンを外してゆく。
捕食者から視線を外すのも恐ろしかったが、見てはいけない気がして咄嗟に百合は顔を背けた。
それでも聴覚は研ぎ澄まされたまま。衣擦れと、ベッドの下へ投げ出された服が折り重なる音が、あり得ないくらい大きく聞こえた。
──このままでは本当に──
汚らわしい罪を犯す。醜くて、浅ましい。
今度こそ『畜生にも劣る人間』になってしまう。『あの人』に言われた通りに。
ゾッと背筋が冷え、百合は春陽を思いとどまらせるため言うべき言葉を探した。けれどその刹那、ベルトのバックルを外す音が絶望を伴って耳に届く。
喉が干上がって声が出なくなる。
見ては駄目だと思っても、百合の視線は引き寄せられるかの如く彼へ吸い寄せられた。
「……っ」
暗くてよかったと言うべきか。
でなければ生涯目にする必要がない弟の裸身を、至近距離で直視する羽目になった。勿論、そそり立つ肉槍も。
完全に竦み上がった百合は目を閉じることも叶わず、呆然とした。
ベッドが軋み、春陽が体勢を変える。膝立ちから四つん這いになり、こちらの太腿に手をかけた。
「あ……っ」
大きく開脚させられ、陰唇に空気の流れを感じる。ショーツは左足首に引っ掛かり、その後はどこかへ落ちていった。けれど下着の行方を案じる余裕は百合にない。
そんなことより秘めるべき部位へ男の指が触れ、身を固くする以外何もできなかった。
「姉さんらしく、慎ましいな。もっとよく見たいけど、部屋を明るくしたら余計に泣かせてしまうから諦めるよ」
気遣いのつもりだとしたら、滑稽だ。
百合を泣かせるのが本意でないなら、今すぐ行為をやめればいい。それだけで全てが解決する。
しかし今夜あらゆるものを破壊するつもりの春陽は、微塵も立ち止まるつもりがないらしかった。
「やだ……っ」
片脚を屈曲させられ、内腿へ口づけられる。皮膚の薄いそこは吐息の熱を受け、一気に総毛だった。
全身が心臓になったよう。鼓動が煩くて、自分の声さえあまり聞こえない。それとも上手く言葉にできていないのかは、判断できなかった。
彼の毛先が悪戯に百合の肌を擽る。
太腿に頬擦りされ、男の滑らかな肌の質感をそんな場所で感じ取る日が来るなんて、永遠に訪れてほしくなかった。
「あ、ぁ……」
上へ逃れようとしても片脚を拘束されたままでは動けない。百合の悪足掻きを嘲笑うつもりか、春陽が際どい位置を甘噛みしてきた。
そこは鼠径部のすぐ近く。水着にでもならない限り、人目につくことはない。
内腿に歯が食い込む感触に驚いて百合が肩を強張らせれば、嫣然と笑った彼がこちらの下生えを梳いてきた。
「姉さんの身体に傷つけたくはない。暴れないでくれると嬉しい。一応、ひどい真似はしたくないと思っている」
どの口が言うのかと詰問できたら、こんなことにはなっていない。
気丈に反抗できる強さが百合にあれば、最悪の事態はたぶん免れた。
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