義弟 壊れるほどに愛されて 2
第二話
──外面ばかり取り繕って、馬鹿みたい。私。
誰に対していい顔をしたいのか、見失っている。結局のところ万人に悪く思われたくないだけなのだろう。内心では、こんなにも醜いことばかり考えているのに。
ままならないもどかしさが堆積してゆく。
それは理不尽にも春陽への悪感情へ置き換わるのが、いつものことだった。
非の打ち所がない弟と対峙していると溺れそうだ。
いつも酸欠気味で手足が重く感じられる。もがくほどに沈んでゆく感覚もあって、百合は息継ぎするのが精一杯だった。
そうしていつか完全に溺れてしまう予感がある。
二度と浮き上がれない水底へ引き摺り込まれるのが怖かった。
「──姉さん?」
物思いに耽っていた百合は、春陽に呼びかけられて我に返った。
ついぼんやりしていたらしい。
慌てて表情を引き締め、百合は唇で弧を描いた。
「ごめん、何?」
「いや──姉さんは僕の仕事について何も聞かないね。今回取り付けた契約に関しても、明日からの出張に関しても──興味がない?」
もう少し関心を示すべきだったかと臍を噛む。
彼の言う通り自分には無関係と思っていた分、質問する気もなかった。春陽に対し関心が薄いのを見抜かれるのは不味いと感じ、慌てて言い訳を探す。
「あ……だって私は会社にとって部外者だし、あれこれ聞いちゃまずいでしょ」
「だけど父さんの会社だ。姉さんが望めば経営に携わってもらいたいと考えている人間は多いよ。本来僕じゃなく、姉さんが継ぐべきだって」
「その件は前にも話したけど、私にそのつもりはないの。能力不足で従業員に迷惑をかける未来しか見えないもの」
会社の舵取りは適任者が担うべきだ。血の繋がりで背負うには、責任が重すぎた。
そんなことは春陽だって重々分かっているだろうに、何を今更。もはや既に話し合いは済んでおり、だからこそ百合は父とは関わりのない企業へ就職を決めたのだ。
代わりにあの家から離れられたのだから、後悔は微塵もない。
家政婦のいるお嬢様生活ではなくなっても、今の方がよほど百合には理想の生活に間違いなかった。
──もっとも、この暮らしもお父さんからの援助があるからこそ成り立っているんだけど。
何とも情けない話だが、マンションの家賃は大半が実家から出ている。百合は全て自分の給料で賄うつもりだったものの、独り暮らしに際し立地や設備に関して、父からは条件が出された。
駅に近く、セキュリティが万全な建物。何よりも治安がいい区域。近隣には繁華街がなく、それでいて利便のいい場所。
それらを全部クリアしなければ認めないと言われても、現実的に新卒の給金では不可能である。とはいえ百合は実家から通う気は毛頭なく、最終的な落としどころとして父の持つ物件の一つに格安で住まわせてもらうことになった。
そんな理由もあって、百合は春陽の訪問や宿泊を強く拒否できないというわけだ。
「姉さんは自分を過小評価している。真面目で慎重な性格だから、事務仕事が向いているじゃないか」
「……誰にでもできることを普通にしているだけでしょう」
裏を返せば融通が利かず臆病者でしかないと自分では思っている。スポットライトを浴びる華やかな職務は担えず、咄嗟の判断力を要することにも不向きだ。
淡々と同じ仕事をこなすのが百合の限界だった。
「そんな風に卑下しないでくれ。ミスなく正確に同じ成果を得られることは、大事な能力の一つだ」
「慰めてくれなくて大丈夫。自分のことは誰よりも分かっている。とにかく私は経営に加わる気はないの。だいたい今更私がのこのこお父さんの会社に乗り込んだら、余計な心配をする人も出てくるよ」
すわお家騒動か、後継者争いだと外野が騒ぎ立てそうだ。きっと百合と春陽のどちらにつけば安泰か陰で囁かれるのが簡単に想像できた。
そして彼らの結論も。
──絶対に春陽に軍配が上がる。分かり切った結果を見る気はないわ。
勝手に期待され勝手に失望されるのは、もう懲り懲りだ。その上で見限られ嘲られるのは、もっと勘弁願いたかった。
「そんなことを言う奴らは、僕がどうにかする」
「しなくていい。そもそも私にそんな気がないもの。だからこの話はこれでおしまい」
これ以上話すつもりはないと知らしめるため、百合は「ごちそうさま」と告げて席を立った。食器をキッチンへ運べば、流石に彼も追いかけてはこない。
そのことにホッとしつつ、背中に視線を感じるせいで緊張感は解けなかった。
背後で小さな溜め息が聞こえる。
どういった心情が滲んだものか、百合には知る由もない。
強情で分からず屋な姉だと思われているのかもしれないし、安堵の発露とも考えられた。
──私が貴方の立場を脅かすことなんてないから、放っておいてくれたらいいのに。
いっそ眼中にないと言ってくれた方が気が休まる。中途半端に気にかけられるのを煩わしく感じるのは、やはり罰当たりなのか。
春陽と関わるといつもこうだ。
どうにか上手くやり過ごそうとして、こちらばかりが掻き乱される。黙っていればいいのに余計なことで口を滑らせ、悔やむのが毎度のことだった。
──嫌だな。とにかく洗い物をしてしまおう。
気を紛らわすため蛇口へ手を伸ばす。けれどいつの間にか背後に立っていた彼の手で止められた。
手の甲に大きな掌が重ねられている。生々しい温もりが伝わってきて、思わず肩が跳ね上がった。密着していた春陽にはおそらく悟られてしまったに決まっている。
こちらが瞬間的に全身を強張らせ、息を呑んだことが。
「お風呂、先に入ってきなよ。お湯は溜めてある」
「だったら、春陽が先に……」
彼はワイシャツ姿のままだったので、入浴を済ませていないのは明らかだった。春陽のパジャマや着替えもここには常備してあるのだから。
「僕は後でいい。──だって嫌でしょ?」
含みのある言い方に百合の心臓が大きく脈打った。
まさか自分が彼を疎んじているのがバレているのか。全力で隠しているつもりの嫌悪感が滲んでいるのかと、背筋が冷える。
通常、嫌いな人間の後同じ湯船に浸かるのは抵抗がある。そうでなくとも、表向き姉弟ではあるが実際は赤の他人だ。その点においても、平気とは言えなかった。
自分ばかりが意識しているのは自覚していても──理屈ではないのだ。
──シャワーを浴びて終わりにすればいい。でも私は毎日ゆっくりお風呂に入りたい。それを知っていて、春陽は言っているの?
無意味な諍いを起こしたくない。極力関わらずに生きていきたいだけ。
普通がいまいち分からない百合には、そこからこぼれ落ちることが何よりも恐ろしい。
特に春陽と対立して、自分が得られるものは一つも思い当たらなかった。
「え、ぁ、い、嫌って?」
咄嗟に上手い言い訳が思いつかず、凍り付いたまま振り返ることすらできずにいると、背後から皿を奪い取られた。
「姉さんはいつも帰宅したらすぐに化粧を落としたいって言っているじゃないか。今夜は先に食事にしたから、気になるだろ?」
「あ……」
どうやら百合が案じた意味ではなかったようだ。
言われてみれば、帰ってすぐに手洗いはしてもメイク落としはしていなかった。放り出すように、窮屈なジャケットを脱いだだけだ。
いつもならその流れで顔も洗ってしまう。当然眼鏡は外し室内では掛けない。そうしてようやく、ホッと一息吐くのが百合のルーティン。
しかし今夜は夕食を準備してくれた春陽を待たせてはいけないと思い、気が急くあまり後回しにしていた。
──よかった……てっきり私の本心がバレたのかと思った……
春陽を嫌っている事実を悟られたのではないと分かり、虚脱するほどの安堵に襲われた。半ば流し台に寄りかかっていなければ、その場に座り込んでしまったかもしれない。
それくらい全身から力が抜け、震える手で懸命に体勢を維持した。
「あ、ああ。気を遣ってくれてありがとう」
「いや。だって僕を待たせないよう、後回しにしてくれたんだって分かっている」
どうしてそんなところは察しがいいのか。
本当に気づいてほしい『構わないでくれ』の気持ちには無頓着なのに、彼は中途半端に百合の心情に敏感だった。
「じゃあお言葉に甘えて、先に入らせてもらおうかな」
「ああ。ごゆっくりどうぞ」
「お皿は私が洗うから、そのまま残しておいて」
ひらひらと手を振る春陽に背を向け、百合は素早く入浴の準備を整え、脱衣所へ逃げ込んだ。
まさに文字通り、籠城した気分だ。
狭い空間で、弟の視線から逃れられたのを噛み締める。
たとえ視線が絡んでいなくても、不思議と凝視されている心地がするのはどうしてなのか。
着替えとバスタオルを抱えたまま、百合は背中を壁に預けて床にへたり込んだ。
──疲れた。
帰宅してからまだ二時間にも満たない。だが春陽のメッセージを見た後からずっと緊張感が途切れず、細心の注意を払っていた。
失敗しては駄目だと自分に言い聞かせ、絶対に不正解を選ばぬよう。
美味しいものを食べたはずなのに、消化不良を起こしている錯覚もある。
無意識に胃の辺りを撫で、百合は深く息を吐き出した。
翌朝、百合が寝室を出ると、春陽は既にいなかった。
彼が去れば、昨夜の閉塞感は嘘のように消え失せている。
キッチンカウンターには、『朝食は冷蔵庫の中に入れてある。行って来ます』とメモが残されていた。
春陽がいた名残は、それだけだ。他には気配一つなく、まるで昨晩のことは幻だったかのよう。洗濯物すら持っていったらしい。
──律儀。洗って干す程度はやるのに。春陽はいつも汚れ物を置いていかない。
下着やパジャマなどは同じものを洗濯して置きっぱなしにしておけばいいのに、毎度必ず持ち帰っていた。
どうせこの部屋に私物を常備しておくなら、そんな面倒なことをしなくていいのではと思う。持参してくるのも手間だろう。けれどそれを百合から提案する気にもなれず、いつしかこのスタイルが定着していた。
彼がここに長居することも少ない。大抵は朝早い時間に出て行く。
宿泊したいという時は、だいたい早朝空港に用があるためだ。故に、百合が弟を見送ったことは一度もなかった。
──そうでなかったとしても、『行ってらっしゃい』はあまりしたくないけど……
いつもこちらが寝たふりをしている間に彼はそっと部屋を後にする。
春陽が泊まる日は百合の眠りは浅く、ちょっとした物音でも目が覚める。ほとんど眠れないまま朝を迎えるのも珍しくなかった。
だからこそ自分が起きていることを知られたくなくて、寝返りも打たずじっとしている。僅かな気配も悟られぬよう、息を殺して。
──朝はただでさえ忙しいんだから、私の朝食なんて作らなくていいのに。
せっかく空港が近いという理由でここに泊まったなら、最大限睡眠時間を確保すべきじゃないのか。にも拘わらず姉の食事に気を回して早起きしては、本末転倒だった。
──まぁ春陽自身の朝食を用意したついでだろうけど──それならどこかで買って食べた方がよほど楽じゃないの?
使ったはずの調理器具は洗われ、生ごみも処理済みだ。シンクの水気まで切ってある。
朝からこれらを済ませるのはそれなりに面倒だし、百合なら手間を増やさぬために、迷いなく途中で買って終わりにする。
嫌味なくらい意識が高く完璧な男。感心と呆れ、黒々とした感情がごちゃ混ぜになった。
──昨夜の夕食の洗い物は結局私がお風呂から上がる前に片付けられていた。……いつも、そう。
何か一つくらい春陽に欠点があれば、百合は気が楽になった可能性が高い。少なくとももう少し、劣等感に苛まれなかったはずだ。
──せめて彼に一つでも苦手なことがあれば……ううん。人並みであってくれたなら。羨まずに『自慢の弟』だって思えたのかな……
短くはない時間、小さな紙片に綴られた綺麗な文字を眺め、百合は思い出したくもない過去に思いを馳せた。
中学は別の学校へ進学した姉弟だが、高校は皮肉なことに一緒だった。
本来なら、春陽はもっと上の学校を狙えたはずだ。しかし何故か、百合が必死の思いで滑り込んだ進学校を受験し、当然の如く主席合格したのである。
あの当時存命だった祖母は、さぞやご不満だったに違いない。何度か両親を交えて言い争っている声を聞いた。
しかし春陽は意に介さず、『あの学校の方が、希望する大学への進学率が高い。部活動だけでなく課外活動にも力を入れていて、自主性が養われる。卒業生の顔ぶれも、今後人脈作りに役立つ』とおよそ十五の子どもとは思えない持論で、大人たちを納得させた。
百合自身はそんなことまで考えて高校を選ばなかったので、大いに驚いたものだ。
しかし結論から言うと、さほど歴史が古くなく自由な校風は百合の性格に合っていた。おかげで二年間の学生生活はとても充実していたと断言できる。
弟の春陽が入学してくるまでは、それまでの人生で一番楽しい時間を過ごせたかもしれない。
──彼が入ってきたら、私はまた『一宮春陽の姉』になってしまったけどね。
通学に一時間以上かかる遠方だったからか、中学とは違いあまり一宮について意識せずいられたからこそ学園生活は楽しかったのだと思い知らされた。
家の名前や目立つ弟の存在に惑わされず、百合自身を見てくれる人たちがいたからだ。
けれどいざ春陽が入学してくれば、人々の目も関心も全て彼に移ってしまった。
その結果百合は『春陽の姉』でしかなくなったのだ。
文武両道で見目麗しい弟の引き立て役。パッとしない姉を気遣う優しい少年のお荷物。優秀な春陽に対して、あまりにも残念な百合は瞬く間に嘲笑の対象になった。
親しくしていた数少ない友人らは態度を変えなかったが、中には春陽目当てに擦り寄ってくる者、憐れむ振りをして馬鹿にしてくる者、勝手な嫉妬で攻撃してくる者が突然現れた。
掌を返され、傷ついた回数は数えきれない。
目立たず平穏だった百合の日常は居場所ごと奪われ、望んでもいないスポットライトが強制的に当てられた。
さりとてあくまでも姉は脇役。添え物。オマケでしかない。
それなのに不利益を被るのは常に百合。あまりにも理不尽だった。
──色んな人に何回も『弟に渡して』って手紙やプレゼントを押し付けられたなぁ。断れば陰口を叩かれて、嫌がらせをされることもあった。
しかも返事をせっつかれて、何度うんざりしたことやら。
春陽も手紙や贈り物を手渡すと毎回僅かに不快な顔をしていたが、こっちだって好きで伝書鳩をしていたのではないのだ。
彼が告白を受け入れたことはなく、誰も幸せにならないイベントに無理やり参加させられた恨みは深い。
百合には全く関係ないことで悩まされ、かかるストレスは相当なものだった。
せめてもの救いは、煩わしい遣り取りが一年で終わったこと。
高校卒業と共に、実家から更に遠方の大学へ進学した百合はやっと弟の影響から抜け出せた。
掛け値なしの、初めての自由。
たとえ寮でも家族から離れ一人で暮らせることで、味わったことのない解放感に酔いしれた。
──そういえば丁度あの頃、お祖母さんが亡くなったんだっけ……それもあって、一層気持ちが軽くなったのかもしれない。
孫としては薄情なことこの上ないが、本音では心底楽になれた。
もう突然嫌味を言われることも、怒鳴りつけられることもない。春陽と比べられ、実母の悪口を吹き込まれることや、自尊心をへし折られることだってないと思えば、人の死を悼むより大きな歓喜に包まれた。
──私がこんな冷淡な人間だから、お祖母さんは私を嫌っていたんだろうな。……私だって自分が嫌だ。
そしてこんな気分にさせられるのは、決まって春陽に会った後。
どんなに取り繕っても、百合はお世辞にもいい姉ではないのに、何故彼は自分に関わろうとするのか。いくら考えても答えが得られない疑問を、また捏ね繰り回してしまった。
──そういえば同じ高校に入学するって分かった時、春陽に『どうしても姉さんと同じ学校に通いたかった』って言われたことがあったな。私は何て答えたんだっけ……?
いつものように偽物の笑顔で当たり障りのない返事をしたのか。
それとも本心を隠しきれず、顔を歪めてしまったのか。
不思議なことに、思い出せなかった。
──そもそもどういう流れでそんな話になったのか──覚えていないな。
春陽がレベルを落としてまで通いたかった高校は、そこまで魅力があったかと問われると甚だ疑問だ。
悪い学校ではなかったものの、国内で一、二を争う学力を誇る進学校と比べれば、見劣りする。彼が祖母と両親を説得するために並べ立てた理由も、百合には全面的に納得できるものではなかった。
──分からない。でも私が春陽を理解できたことなんて、たぶん一度もない。
おそらくこの先も二人は交わることなく平行線のままだ。
──春陽が結婚してくれたら丁度いいと思ったんだけど……相手がいることだから、簡単にはいかないものね。もっといい方法はないかな……人に迷惑をかけず、傷つけず。
叶うなら、疎遠に。誰にも悟られないうちに穏便に距離を取りたい。
それだけが百合の切実な願いだった。
人生において大きなイベントは、ある日突然訪れる。
しかも自分では全く想定もしていない形で。
「一宮さんのことが好きです。俺と付き合ってください」
こちらが気恥ずかしくなるくらい真っ赤に頬を染め、真剣な瞳でこちらを見つめてくる男は、同僚の高尾勇太(たかおゆうた)だった。
「え……っ?」
一言で言えば、大いに驚いた。
自分がそんな風に人から想われていたなんて、考えてみたこともない。恋愛事は己の人生で優先順位がとても低い。
だからなのか百合はお世辞にもお洒落とは言えなかった。
清潔感には気を遣っているが、流行りのものは知らないし、見た目に拘りもない。長めの前髪と眼鏡で顔を隠し、体型が窺えない服を着て、職場では目立たない社員だからだ。
存在感が薄いと陰口を叩かれたこともある。だが変に目立つよりもその方がずっと楽なので、『幽霊みたいに大人しい人』という評判を甘んじて受け入れていた。
それなのに、まさかこんな自分に注目してくれる人間がいたとは。
驚愕のあまり頭が真っ白になる。返事ができず固まる百合に、勇太がますます顔を赤らめた。
「あ、その、俺のこと嫌いですか?」
「ぇ、あ、ええ?」
告白されたのは人生初。何と答えればいいのか正解が分からない。
人の好意を踏みにじるのは気が引けたし、自分如きが断るのは身の程知らずな罪悪感もあった。
──それに、正直なところ私は高尾さんについて、よく知らない。
システム管理を担っている彼は口数が少なく、直接会話したのは、挨拶以外数える程度。そのどれもが当たり障りのない内容だった。
こうして二人きり面と向かいおもむろに喋るのも初めてで、心拍数が上昇するばかり。
高鳴る胸を抑え、百合は懸命に落ち着こうと試みた。
昨日、有休をとっていた後輩が書類の提出を忘れていたことが発覚し、急遽代わりに百合が仕上げた結果、自分の仕事を後回しにせざるを得ず、遅れた分を今朝間に合わせるつもりだった。
普段よりも一時間半早く出社して必死にパソコンに向かい、更に残業してギリギリ期限通り何とかなりそうだと一息吐いたところ、突然勇太が『どうぞ』とミルクティーを差し入れてくれたのだ。
反射的にペットボトルを受け取りはしたが、こんなことは初めてで戸惑う。
さりげなく周囲を見回せば、フロアに残っているのは百合と彼だけになっていた。
「一宮さんが残業する原因を作った相手は、ちゃっかり定時に帰ったのに、真面目ですね。手伝わせず、責めもしないなんて──優しい人だなって前から思っていました」
そんな言葉で労ってくれた同僚に、少しだけモヤモヤしていた気持ちが晴れた。
見てくれている人はいる。
百合の要領が悪いせいだとせせら笑う者もいる中で、『分かってくれた』人がいると知れただけでも、報われた心地がした。
「あ、ありがとうございます。でもいいんです。彼女は小さいお子さんがいらっしゃるので、仕方ありませんし……」
育児休業から復帰したばかりで、子どもが体調を崩したと言われれば周囲がフォローするより他にない。
ただ、独身で文句を言わない百合に、毎回しわ寄せが来ているのが現状だった。
──でもしょうがない。他の人も皆子育て中だったり、親の介護をしたりしている人もいるから、一番時間に余裕があるのは私だもの。
「そう言って頑張る姿を見て、いい人なんだなってずっと思っていたんです」
さりげなく隣の席に腰掛けた勇太が照れ笑いをする。そして『好きです』と告げられたのだ。
「──いつか気持ちを伝えたいとタイミングを計っていました。で、奇跡的に二人きりになった今日がチャンスかなって」
広いフロアにひと気はない。だからこそ勇太は意を決したらしい。
「あ、駄目ならスッパリ断ってください。潔く、諦めますから」
「ぇ……」
動揺して何も考えられない。そういう目で見たこともない相手に交際を迫られ、混乱していた。
けれど適当にあしらってはいけないことは理解できる。
真剣に打ち明けられた想いを無下にはできない。こちらも誠実に答えなくてはならないだろう。
百合は改めて、眼前の彼を視界に入れた。
高尾勇太。一つ年上の二十九歳。
太い眉毛と、がっしりした大柄な身体つきが時に威圧感を与えてくるのは、彼がとても寡黙なせいもある。
無駄口を叩かないし、社内で特別親しくしている同僚もいないようだ。
時間には正確で、仕事は丁寧。とっつき難いが信頼できる──というのが職場での評価だった。
──逆に言えば、私はそれくらいしか彼について知らない。どちらかというと、私は男性的な人が苦手だし……
だがよくよく勇太を観察してみれば、熊に似た愛らしさが感じられる。やや毛深いところも、可愛げと思えなくもない。
つぶらな瞳は気弱さと優しさが滲んでおり、物腰の柔らかさからは腰の低さも窺えた。
百合にかけてくれた言葉からは、高い観察力と洞察力も。
──思っていたよりも、怖い人ではないのかも。
ぶっきらぼうに感じられたのは圧倒的に言葉が足りないせいで、身体を縮めるような座り方は無駄に虚勢を張る人ではないのが垣間見える。
がばっと足を開くのではなく、行儀よく膝を揃えているのも好印象だ。
一度視野を広げてみれば、これまで百合が気に留めていなかった勇太の美点が急に浮き彫りになった。
もう少しこの人について知りたいと思うくらいには、急激に関心が湧いてくる。
「私のいったいどこを──その、自分でもダサくて暗いと分かっています」
「一宮さんはそのままでいいと思います。俺だって、全然格好よくないし、口下手ですから。お互い背伸びせず丁度よく、気が合うんじゃないかなって」
確かに明るく華やかな人の引き立て役になるよりも、同じ価値観の相手といる方が気は休まる。
百合は自分の嫌いな部分を肯定されたようで、ふわっと気持ちが楽になった。
「えっと、迷う程度に少しでも俺に可能性があるなら──、ゆ、友人からでもお願いできませんか?」
あれこれ考えて答えられずにいた百合の沈黙をどう解釈したのか、彼は懇願する眼差しを向けてきた。その双眸には、こちらへの想いが滲んでいる。
他者から純粋な好意を寄せられ──百合は強い喜びに打ち震えた。
──こんな風に真っすぐな気持ちを向けられたのは、初めて……
嬉しくないわけがない。ずっと恋愛事には縁がないと遠ざけていたけれど、それは自分の心を慰めるために興味がない振りをしていたのかもしれない。実際には誰かが百合を特別に想ってくれていると聞いて、心臓がドキドキしていた。
──私を好きになってくれる人がいるなんて、考えもしなかった。
驚愕と動揺。だが一時の狼狽が薄れてくると、歓喜が圧倒的に大きくなる。頬は熱を持ち、初めて味わうトキメキで胸が締め付けられた。
「と、友達なら……」
「本当ですか? ありがとうございます!」
考えるより先に、百合の口から返事がこぼれた。
まだ具体的に交際云々は考えられないものの、もっとじっくり勇太と向き合ってみたいとは思った。少なくとも時間がほしい。
彼を特別好きになれるか、確かめてからでも遅くはない。そしてこの不器用そうな人なら、亀の歩みの自分でも受け入れてくれる気がした。
「私、男性とその、親しくしたことがなくて」
「俺も同じです。告白するのも初めてで、緊張しました」
はにかむ勇太がニキビ跡の残る頬を掻く。
決して美形ではないし、饒舌に面白い話を聞かせてくれる人でもないけれど、飾らないところが百合には魅力的に感じられる。
むしろ素朴な彼への好感度がぐっと上がった。
──春陽が結婚したら私とは段々接点がなくなると思っていたけど、ひょっとして私に交際相手ができても、同じことが言えるんじゃない?
妙案か、それとも打算か。どちらとも言える考えがポンッと浮かんだ。
勇太との関係が上手くいけば誰も傷つけず不幸になることもなく、百合の望み通りの未来が訪れるかもしれない。しかも自分にとっても悪くない話だ。
愛する人と家庭を築く。甘美な想像はひどく蠱惑的に煌めいて感じられた。
──私が高尾さんを好きになって、彼が変わらず私を想ってくれたら……そんな将来もあり得る?
目が合うと勇太が照れた様子で頭を掻いた。互いに気恥ずかしくなって、俯いたのは同時。しかもわざとらしい咳払いをしたのも。
──私たち、結構気が合うかもしれない。
きっと同じペースで歩んでいける。そんな予感がして、百合は久し振りに心から微笑んだ。
友人から──と話は纏まり、ささやかながら百合の日常に変化があった。
まず勇太の連絡先が携帯電話に登録されたこと。そしてたどたどしくても一日必ず一言二言メッセージの遣り取りが始まった。
とはいえ、社内では相変わらず必要最低限業務上の会話しかない。
傍から見れば、二人が以前とは違う関係になりつつあるとは誰も気づかないに決まっていた。
それでも時折仕事中に視線が合うこともある。
そして頬を染め、慌てて逸らすことが数回あった。まるで中学生の恋愛である。
意識しているのは明らかながら、双方奥手で踏み込めない。三十歳手前にも拘らず初々しい距離感が、されど百合には心地よかった。
──急にグイグイ来られても、経験がないからどうすればいいのか分からなくなる。私にはこれくらいで丁度いい。それに、安心する。
二人とも駆け引きを知らないからこそ、言葉の裏を探る必要がない。たどたどしくも楽しく短いメッセージを交わすだけ。
それがこの上なく心地よかった。
だからだろうか。ひと月も経たないうちにプライベートで出かけるようになり、次第にぎこちなさが薄れていったのは。
互いに映画鑑賞が趣味だったのも二人の距離を縮めるきっかけになった。食の好みも似ていて、会話が続かなくても苦痛はない。
三か月目に入った頃にはメッセージだけでなく、毎晩電話するのも当たり前になっていた。
仄かに日々が華やぐ。
毎日同じことの繰り返しで、よく言えば平和、悪く言えば面白みのなかった百合の毎日が、突然鮮やかになる。
明日が待ち遠しいと感じたのは、初めての経験かもしれない。
時期を同じくして、春陽がしばらく顔を見せなかったことも大きいのだろう。
心労になる弟の来訪が途絶え、ストレスは激減した。
最後に春陽の顔を見たのは、弟が『見合いを断る』宣言をしてきた日だ。あれ以来、よほど忙しいのかメッセージも稀だった。
ずっとこの状態が続けばいい──そんなことを考え始めていたとある休日。
今日も百合は勇太と一緒に映画を観に行き、夕食を共にし、駅まで送ってもらうことになった。
その帰り道に『もう一度、言わせてください。俺と付き合ってもらえませんか?』と告げられたのだ。
本日鑑賞した映画は、家族愛を前面に押し出した感動作。百合にはほんの少し、居心地が悪いものでもあった。
自分は両親と疎遠で──と何気なく打ち明ければ、勇太はどこかホッとした様子で慰めてくれ、その流れで改めて交際を申し込まれたのだ。
正直に吐露すれば、まだ恋心を明確に自覚できていない。
彼に好感を持っているし、いずれは──の思いもある。しかし熟成しきれていない感情は、勇太と同じ熱量とは言い難かった。
それでも『はい』と頷いたのは、彼との時間があまりにも充実していたからだろう。
これきりにしたくなくて、曖昧なまま維持するのも申し訳なく、そろそろ結論を出さなくてはならないのを、百合自身悟っていた。
この三か月間、今までになく楽しくて、この先も勇太とならきっとよりよい関係を積み上げられる。
だからこそ、勇気をもって交際を受け入れた。『私でよければ』と返すと、彼は『一宮さんがいいです』と言ってくれ、感激したのは秘密だ。
──私をそこまで想ってくれるなんて、ありがたいな。
駅での別れ際フワフワした温かな気持ちで、恋人になった男に手を振る。帰りの電車の中でも、百合は夢見心地だった。
──私に彼氏ができたんだ。でも正式に付き合うって、これまでと何が違うんだろう? 一緒にどこかへ行ったり、食事をしたりはしていたことだし……あ、手を握るとかその先の……っ?
危うく淫らな妄想をしかかって、百合は慌てて振り払った。
気を引き締めていないと、勝手に口角が緩んでしまう。車窓に映る自分の顔がにやけていて、慌てて無表情を心掛けた。
浮かれている。
明るい未来が開ける予感に、浮足立っているのが自分でも分かった。
──最近、私の運気が上昇しているのかもしれない。
百合は足取りも軽く電車を降り、改札を潜った。人目がなければ鼻歌を歌いたいくらいだ。せっかくだから今夜を祝して駅前のコンビニでケーキでも買って帰ろうかと思った時。
「──姉さん、随分遅い帰宅だね」
こんな場所にいるはずのない人の声が聞こえ、脚が止まった。
振り返らなくても背後に誰がいるのかは分かる。ここしばらく会わずに済んでいて、叶うなら上手く疎遠になりたかった相手。
穏やかながら硬質な声音が「どこに行っていたの?」と問いかけてきた。
「春陽……どうして」
「久し振りに姉さんに会いに来たけど、メッセージは返事がないし一向に帰ってこないから心配になって、駅前を探していた」
思わず口元が引き攣った。
勝手に部屋へ入られるのも嫌だったが、こうして探し回られるのは心がざわつく。
大袈裟だと笑い飛ばすこともできず、百合は湧き上がる嫌悪感を隠せなかった。
「へ、部屋で待っていたらいいのに」
「だってこんなことは初めてだったから、事故にでも遭ったのか心配したんだ。もしくは──外泊するつもりかなって」
冷ややかな声が百合の耳を撫でる。
口調はあくまでも柔らかい。だが氷じみた冷たさを感じるのは何故だろう。
胃が冷える錯覚を覚え、無意識に百合はみぞおち辺りを手で押さえた。
「だからって、春陽が大慌てすることないでしょう。あ、事故に遭っていたら、たぶん実家に連絡がいくよ」
抱く理由のない疚しさに耐えきれず、百合は彼から視線を逸らした。どうしても目を合わせているのが苦痛だ。
眼差しの圧に屈し、半歩後退る。すると春陽が素早くこちらに近付いてきて、百合の腕を掴んだ。
「帰ろう」
「え……」
有無を言わさぬ力で引っ張られ、その場に踏ん張ることはできなかった。言い訳も許されない空気に呑まれる。連行の名が相応しい扱いに文句を言えぬまま、百合は春陽に手首を拘束され歩き続けた。
見知らぬ人からは恋人同士が手を繋いで歩いているように見えたかもしれない。しかし現実は痛いくらいに強く手首を掴まれて、転ばぬよう必死だっただけだ。
──春陽、怒っているの? どうして?
彼が憤慨することはなかったはずだ。多少姉と連絡がつかず帰りが遅くなったとしても、腹を立てるほどのことではあるまい。
約束をしていなかったのに不在を責められる理不尽さが、百合を不快にさせた。
──私が思い通りにならなかったから? そりゃ春陽がいつ来ても、私の帰りが極端に遅くなることはなかったけど……
外食をほとんどしない百合は、残業しても帰宅が十時を回ることは稀だった。
だが今夜は既に十一時近い。学生であれば保護者を不安にさせても仕方ない時刻だ。しかし成人した者同士、騒ぎ立てる方がどうかしていた。
「ちょっと、放して……っ」
「珍しく眼鏡を掛けていないんだね。まさか、今夜一緒にいたのは男?」
「そこまで春陽に報告する義務がある?」
ちょっとしたお洒落のつもりで眼鏡を掛けていなかったのを指摘された気恥ずかしさと、横暴な弟の態度に苛立って、百合は長年被ってきた『普通の姉』の仮面にひびが入るのを感じた。
今日は上手く取り繕えない。感情の制御ができず、強張る表情も正せなかった。
「──……少し会わない間に、悪い虫がついたんだ」
「何て言い方するのっ?」
百合に対しても、勇太に対してもひどい侮辱だ。
自分はそんな大層な存在ではないし、勇太が虫に例えられるのも不本意だった。そもそも春陽には関係ない。
姉の交友関係に口出しする弟は明らかにやり過ぎで、常識の範疇を逸脱していた。
「私のことはまだしも、高尾さんに嫌な言い方をしないで」
「……へぇ。高尾さんって言うんだ?」
前を歩く春陽が冷淡な流し目をこちらに寄越した。
憤っていた百合は冷水を浴びせられた気分になる。本能的にこれ以上彼を刺激しない方がいいと感じた。
「続きは部屋に入ってからしよう」
「きゃ……っ」