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義弟 壊れるほどに愛されて 1

第一話

 

 陽だまりの中、心地いい眠気に身を任せ夢を見る。
 傍らにある温もりと柔らかさに癒されつつ、百合(ゆり)は無意識に深く息を吸った。
 指先が触れているのは、宝物。辛いことが多いこの世界で、純粋に守りたいと思える大事なものだ。
 それが規則正しい寝息を立て、寄り添い眠っていた。
 正直なところ、家に百合の居場所はあまりない。両親から蔑ろにされているわけではないが、自分一人『異物』な気が拭い去れなかった。
 何年経っても新しい母に馴染めないせいもあるのだろう。
 嫌いなわけではないけれど、全力で甘えられるわけでもない。向こうも内向的で俯きがちな百合を扱いかねている空気があった。優しい人ではあるものの、遠慮が先立っている。
 つまりは微妙な壁を崩せぬまま、六歳の時に両親が再婚してから九年間、表向き平穏な生活を送っている。こちらとしても余計な波風を立てたくはない。
 継母はそれなりによくしてくれており感謝しているし、父の幸せだって願っていた。
 自分が我が儘を言わず不平不満を漏らさなければ、全てが上手くいく。
 百合が三歳だった当時出て行った実母の行方は知れないまま。現在はどこでどうしているのやら。あちらの親戚付き合いは途絶えていた。
 他に頼れる相手がいない子どもには、家庭が全てだ。
 故にいくら窮屈に感じたところで、耐える以外の選択肢はなかった。明確な虐待を受けているのでもないのなら、自分は恵まれている方だ。悲劇のヒロインぶってメソメソする方がどうかしている。
 辛い、寂しいと口にするのは贅沢な気がして、百合はますます自分の気持ちを他者には打ち明けられなくなった。
 父には勿論。教師や数少ない友人にも。
 そんな中唯一の安らぎが、隣で眠るあどけない少年だったのかもしれない。
 二つ年下の彼は、同年代の平均と比べても小柄で華奢だ。だからこそ庇護欲をそそられる。
 がさつな男子が苦手な百合にとって、少年の中性的で優しげな風貌と物腰の柔らかさは安心感を与えてくれた。
 成長期を迎えていないためか、むさくるしさや威圧感もない。幼い昔と変わらない、小さくて愛らしい、か弱い生き物。
 そんな少年が甘えてくれると嬉しくて、頼りない姉であっても、役に立てている気分になれた。面倒を見ることで、自分の存在意義を模索していたのは否めない。
 しかし理由はどうあれ、慈しんでいるのは本当だ。
 十三歳と十五歳。
 世間一般の姉弟が一緒に昼寝するかどうか、百合は知らない。
 しかし試験期間が明け、互いにホッと一息吐きいつの間にやら同じベッドで横になっていたらしい。
 特別疑問も持たず、ごく自然な流れで。
 日常の延長線上。
 先ほどまでは他愛無い話をしていたが、前日までの寝不足に抗えなかった形だ。
 ──徹夜で頑張らないと成績を維持できない私と違って、元来頭がいいこの子が深夜遅くまで付き合ってくれなくてもいいのにね……
 百合と弟の優秀さは比べ物にならない。
 中学生になって初めての中間テストだから万全の体勢で臨みたい──というのは、おそらく弟の優しい嘘だ。
 今更彼に予習も復習も必要だとは思えなかった。何せ教科書は一度読んだら覚えてしまう。小学生の頃から模試の結果は全国上位。
 誰に聞いても『神童』だと答えるに違いない。
 家庭教師曰く、『中学一年生とは思えない学力を既に有しています』と興奮も露わだった。
 いずれ飛び級も夢ではないという称賛に、普段厳しい祖母もひどく満足げにしていたものだ。
 辛うじて私立の進学校に受かり、クラスでは下から数えた方が早い孫娘に失望していた彼女からすれば、とても自尊心が満たされる事実だったのではないか。
 弟はアッサリと国内でも有数の難関校に首席で合格したのだから。
 まして弟は容姿からして優れていた。
 ごく平凡な──もしかしたら人並みにも届かない百合とは比べることもおこがましい。陰気で不美人だった実母に似たのだと祖母に嘲られたのは、一度や二度ではない。父親に似ていれば可愛げがあったものを──と陰で言われた。
 実父は娘の目から見てもそれなりに整った顔立ちをしていたから、反論などできるはずもなく。言葉はどんどん百合の喉奥に絡んで重石になるばかり。
 ちなみに継母は、息子共々華やかで人目を引く整った顔立ちだった。
 見た目一つとっても、疎外感を感じる日々は否めない。
 良家の奥様として生きてきた祖母からすれば、一般家庭で生まれ育った百合の実母はさぞやお気に召さない嫁だったのは想像に難くなかった。結婚自体、かなりの反対を押し切ったものにも拘わらず、孫が生まれてみれば跡取りにはならない女。
 更に不出来な嫁は結局息子と孫を置き去りにして逃げたとあり、恨み骨髄と言っても大袈裟ではない。
 だからこそ母によく似た百合が憎らしくて堪らなかったのは理解できた。……だからといって平気でいられるわけではなかったけれども。
 弟が素晴らしい結果を残す度に、姉の価値は暴落していった。気にしないよういくら努めてみても、誰より百合自身の中で自信が削られていったのだと思う。
 だがそれでも──彼は百合にとって可愛く自慢の弟だ。仮に自分の立場を脅かす存在だったとしても──憎めないし、特別悪い印象も持っていなかった。
 あの日、あの瞬間までは。

 

 仕事を終え、届いていたメッセージを目にした瞬間、百合は眉を顰めた。
 盛大な溜め息を吐きたいのを、どうにか堪える。
 ここはまだ社内。人目があるし、社会人としてあからさまに不快感を露わにするのは躊躇われる。何事もなかったかのように鞄を抱え直した。
「お疲れ様です。お先に失礼いたします」
 残業予定の社員に深々と頭を下げて、一足先にフロアを後にする。エレベーターに乗り込み幸か不幸か一人になった刹那、携帯電話を額に当てて「最悪」と一言呟いた。
 ──どうしてわざわざ私に構うの。精々年に一回会えば充分でしょう。
 液晶画面に表示されているのは、SNSのアプリ。そこには『姉さんの好きな料理を作って待っている』と書かれていた。
 差出人は血の繋がらない弟。両親の再婚により、連れ子同士が姉弟になって早二十二年。
 本音は隠し、適度な距離感で付き合ってきた。表立って対立せず、さりとてわざとらしく打ち解けるのでもなく。表面上は平和に。それが百合が導き出した処世術だ。
 それなのに弟ときたら、事ある毎にこうしてこちらに連絡をしてくる。あまつさえ一人暮らしの部屋に押しかけてくるのだ。
 こういうことが月に一度はあった。
 勤め人にとって疲労感が溜まる金曜日、夕食が準備されているのなら感謝して然るべきだろう。
 だが帰宅した家に彼──弟の春陽(はるひ)がいると思うと、百合は憂鬱にならざるを得なかった。
 ──帰りたくない。
 咄嗟に『今夜は遅くなる』と嘘を吐こうか頭を過った。けれど無駄に正直者の血が騒いで、返信できない。迷う指先は適当な言葉を打ち込めず、さりとて電話をかけるのはもっと嫌だった。
 何故なら、声を聞きたくない。
 直接話せば口数の少ない百合は容易く言い包められてしまうに決まっている。
 春陽は自分よりも格段に口が上手く饒舌だ。当たり障りなく断るのは、至難の業だった。
 ──それにこういう場合、『普通の姉』は弟が来るのをきっと嫌がらない。
 少なくとも追い返したいなんて考えないはずだ。夕食を用意して待っている健気な弟を可愛く感じ、間違っても不快にならないはず。
 ゴチャゴチャと思い悩み、何度も端末を握り直すこと複数回。
 結局メッセージを返すことも電話することもできないまま百合は帰路についた。優柔不断な自身に嫌気がさす。
 とはいえいつまでもどんより昏い顔をしていられない。
 百合は住んでいるマンションの前に到着すると、強引に表情を切り替えた。
 引き攣りそうになる口元を綻ばせ、眉間に寄る皺を伸ばす。瞳には嫌悪が滲まぬよう細心の注意を払い、深呼吸を一回。
 少しズレていた眼鏡の位置を整えた。ただしレンズに度は入っていない。
 お洒落のためではない伊達眼鏡である。こういう時、硝子一枚でも現実と視野を隔ててくれるものがあるのはありがたかった。世の中直視したくないものが百合には多いのだ。
 取り出した鍵で玄関扉を解錠しようとした時。
「お帰り、姉さん」
 中から扉を開かれ、現れたのは息を呑むほどの美形だった。
 指通りがよさそうなサラサラした明るい髪と綺麗なアーモンド型の瞳。どちらも色素は薄めで、ハッキリとした顔立ちも相まってハーフに間違われたことが何度もある。
 通った鼻筋の下には、上品な微笑を浮かべる唇が配置されている。肌は適度に健康的な色をし、耳の形まで麗しい。
 どちらかと言えば可愛い系。それでいて凜々しい眉とすらりとした長鏸のおかげで弱々しくは見えない。
 雰囲気は穏やかさが滲みつつ、華のある美男子がそこにいた。
「春陽……た、ただいま。急に開けるから、吃驚した」
 歪みかかった頬を叱咤し、百合は渾身の力で『驚いた』ふりを取り繕った。本当は心の準備が整い切っておらず、危うく動揺しかけたのをごまかすために。
 ──弟に対して嫌悪感なんて見せちゃ駄目。
 人として最低な振る舞いはしたくない。いくら眼前に、昔から苦手な『血の繋がらない弟』がいたとしても。
 だからこそ険しくなりかねない顔を俯け、素早く扉を潜り靴を脱いだ。
「仕事、忙しいんじゃないの? そんなに頻繁に私の様子を見に来なくても、ちゃんとやっているから大丈夫だよ」
「今日、大きな契約が纏まったから、今夜は余裕があるんだ。それに姉さんに褒めてもらいたくて」
「そ、そう。すごいね。流石は春陽」
 胸の奥がざわざわする。
 父の跡を継ぐ予定の彼は、既に社内でも重要なポストを任されているらしい。実子でありながら期待もされていない百合とは大違いだ。
 それを自慢されているかのように感じ、あまりいい気分はしなかった。
 ──私は初めから後継者になるつもりがないんだから、勝手な苛立ちだと分かっているけれど──簡単には割り切れない。
 両親の再婚から二十二年間。人生の大半を家族として生きてきた。
 だが百合は欠点の見当たらない弟を、未だに好きになれない。明け透けに言えば、嫌いだった。昔から、ずっと。
 顔を合わせる度に自分の至らなさを突き付けられる。抱える必要のない劣等感を植え付けられる気分だ。
 孫娘に厳しかった祖母は既に亡くなって十年になるが、散々比較され貶められてきたせいだろうか。
 生前百合を疎んでいた彼女は、当てつけのように後妻の連れ子を可愛がった。
 自分には向けられない優しい眼差しや誉め言葉を羨むのに疲れた頃、矍鑠としていた祖母はアッサリこの世を去ったのだが──残された爪痕は、思いの外深かったらしい。
 ──もう大っぴらに私たちを比べる人は、いないのにね。春陽が傍にいると、息が苦しくて堪らない。
 弟に非がないのは重々承知で、百合は春陽を疎ましく感じていた。
 しかしだからといってわざと彼を傷つけたいとか、邪険にしようとは思わない。そんな虐めめいた愚かな真似はしたくないし、他者を攻撃するのはみっともないと思っている。
 いや、そうであらねばと己を律していた。
 しかし人の心はままならない。理性で全てをコントロールできるものではなく、まして嫌悪感などの生理的なものは、隠すだけで精一杯だった。
 ──解決方法は距離を取るしかない。そうすれば、皆が穏やかに暮らせる。なのに春陽が私に構うせいで、いつも台無しにされた気分だ。
「手を洗ってくるね」
「その間に料理を温めておく」
 早く帰ってくれないかなという本音を呑み込んで、ひとまず洗面所へ逃げ込んだ。
 自分の家なのにどうにも居心地が悪い。
 彼がいるだけで、安心できるはずの空間が百合を脅かす錯覚があった。
 家を出て一人暮らしを始めたのは、大学入学を機に寮へ入った時だ。以降、卒業し就職してもあれこれ理由をつけて実家には戻らなかった。
 一人になってようやく手足を伸ばせる感覚を味わい、『自分の居場所』を築けたと思っていたのに。
 ──たった一瞬で、春陽は全部を壊してしまう。
 百合が重ねてきた努力の証も、作り上げた安息すら。
 愚かな被害妄想と分かっているだけに、一層苦しくなる。
 弟は姉を気遣ってくれているだけ──と自身に言い聞かせ、捻くれたものの見方をする自分を諫めた。
 ──春陽が私に対して憐れみを見せる度に、こちらは惨めな気持ちになる。──『持っている人』が『持たざる者』の卑屈さなんて気づかない。
 慈悲を垂れる側と垂れられる側。それは対等ではなく、どこまでいっても明確な上下があって、逆転することはないのだと見せつけられている気分になった。
 食欲はすっかり失せていたが、手洗いを済ませジャケットを脱いで戻ると、キッチンカウンターには美味しそうな料理が並んでいた。
 麻婆茄子、インゲンとベーコンの炒め物、手作りのマヨネーズを添えた温野菜サラダ。
 確かにどれも百合の好物ばかり。誰かの手料理を口にするのは久し振りで、ほんの少し胃が刺激される。
 だがそれは、痛みを伴って百合を圧迫してきた。
「食べて。姉さん最近、少し痩せたんじゃない?」
「量っていないから分からないけど、たいして変わっていないと思うな」
 実際、会社の健康診断でもなければ体重を把握していない。それでも自分が健康的とは言えない程度に貧相な身体つきなのは理解していて、百合は曖昧に流した。
 食事を蔑ろにしていないものの、一人ではどうしたって適当になる。元来食に対して貪欲ではないので、栄養バランスなどがおざなりになっているのは否めなかった。
 ──沢山食べると『太ってみっともない』ってお祖母さんによく言われたし……
 つまらないことを思い出し、百合は緩く頭を振った。
 もう過ぎたことだ。事ある毎に嫌味を言ってきた祖母は既にいない。いつまでも引き摺っている自分がもどかしく、うんざりした。
「今日はたまたま早く帰れたから待たせなかったけど、いつもは残業だってあるし、無理してうちに寄らなくていいよ」
 来ないでくれという本音は辛うじて呑み込んだ。
 春陽の訪問が、正直なところ負担だ。
 百合には他者との約束や用事は滅多にないので、突然弟に押しかけられても困ることはない。それでも『万が一のため』と作られた合鍵で勝手に出入りされるのはいい気分がしなかった。
 さりとて『やめて』と強く言い出せず、こうして弟の来訪をズルズルと受け入れてしまっている。
 家族であればこれくらい普通だと言われてしまえば、逆らえない。
 何故なら一般的な家庭を知らない百合には、自分がはみ出していると見做されるのがとても恐ろしかったためだ。
 人目を過剰に気にすること。これはもう一種の病気なのかもしれない。
 百合の判断基準は『自分がどう感じるか』よりも『周囲にどう見られるか』を中心に置きがちだった。これもまた祖母の影響と言えば、それまでだ。
「無理なんてしていない。僕が会いたいから、姉さんの顔を見に来るんだよ」
「私より春陽の方が多忙なんだから、こっちのことは気にしなくていいのに」
 謙遜や遠慮ではなく、心底本心だ。
 残念ながら弟には通じなかったようで、にこやかな笑顔を返されただけだったが。
「──それより、食べて」
「……ありがとう、いただきます」
 悔しいが春陽の作る料理はいつも絶品だった。
 父の期待を一身に受けて厳しい後継者教育を受けていながら料理の腕まで磨くとは、嫌味なくらい何でも器用にこなす人だと感心する。
 複雑な心情は捻じ伏せ、百合はとりあえず食べることに専念した。咀嚼している間は、少なくとも弟と喋らずに済む。
 話題を懸命に探し会話するよりは、その方が遥かにマシだと思えた。
「美味しい?」
 口内に食べ物を含んだまま百合が頷けば、春陽が艶やかに微笑んだ。
 反応が薄い自分にではなく、気心が知れた友人やもしくは恋人に振る舞えばいいのにと頭の片隅で思う。
 百合と違い交友関係の広い彼ならばいくらだって手料理を披露する機会はあるだろうに、何故自分に食べさせようとするのか以前から疑問だ。
 しかしあまり深く考えるのも億劫で、百合は思考諸共嚥下した。
「……春陽が作ってくれるものは、どれも美味しいよ」
「そう言ってくれると、嬉しいな。励みになる。これからも頑張って作るよ」
 しまった。失敗した。
 咄嗟に後悔したが、もう遅い。今の言い方だと『今後もよろしく』と要求しているみたいだ。
 実際には金輪際やめてほしいくらいなのに、やる気を出させてどうするのか。
 場を繋ぐために吐き出した台詞が彼を焚きつけてしまったのが不本意で、百合の手が数秒止まった。
 ──いっそ口に合わないと伝えれば、もう来なくなるのかな……でもそこまでひどいことは言いたくない。
 嫌いな相手に対しても、わざと傷つける真似をするのは、倫理に反する。それとも単純に『他者を嫌う自分』が許せないせいか。
 答えは出せず、再び食べることに専念する百合の横で、春陽も食事を始めた。
「……急に来て、ごめん」
「……っ、謝る必要ないよ」
 唐突に謝罪され、喉奥がギュッとなった。
 いつもこうだ。彼は百合のパーソナルスペースへずかずか踏み込んでくるくせに、妙なところで気を遣う。急にしおらしく頭を下げられたら、まるでこちらが悪者になった心地にさせられた。
 ──悪いと本気で思うなら、来なければいいのに……
 表情筋を駆使し、笑みを取り繕う。
 元来饒舌とは言い難いので、百合は「いつでも来ていいよ」と心にもない言葉を無理に吐き出した。
「──姉さんは優しいな」
「皆こんなものでしょう?」
「いや……僕が知るどんな人より──優しいよ」
 ──真実優しい人間なら、どれだけよかっただろう。
 込み上げる自嘲で窒息しそうだ。
 会話は弾まず、沈黙が重苦しい。音楽を流すか、テレビでもつけて静寂を薄めたい。
 そんなことを考えていると、不意に春陽がカトラリーを置いた。
「──実は姉さんに相談したいことがあるんだ」
「え?」
 彼が百合に相談事なんて珍しい。
 そんな話を持ちかけられたのは初めてで、強張っていた背中が一瞬緩んだ。
「私に、春陽が?」
「うん。聞いてくれる?」
「それはいいけど……」
 姉より何でもできる器用な人が、至らない相手に聞くことなんてあるのか。
 アドバイスとは、あくまでも同等以上の人にしてもらうからこそ価値があると思う。
 まだ相談の内容も不明ではあるが、百合は首を傾げずにいられなかった。
「私で答えられることなら」
「是非、姉さんの意見を聞きたい」
「悩みでもあるの?」
 完璧な貴方に? と内心付け加えつつも、役に立てるならと真摯に耳を傾けた。
 頼られたことに仄かな喜びもあったのかもしれない。
 けれど「うん」と言ったきり、彼は口籠った。よほど話し難い内容なのか、幾度も言いかけては迷う素振りで口を閉じる。
 急かせる雰囲気ではなく、百合は春陽の決意が固まるまでじっと待った。
 時間にして数分。やがて意を決した彼が百合と視線を絡めてきて、思いの外強い眼差しに気圧された。
「結婚、するかもしれない」
「えっ」
 予想外の台詞が飛び出して、つい大きな声が出た。
 計算した反応ではなく、百合の素が出る。それくらい驚いて瞬きも忘れた。
 ──春陽が、結婚? ああ、でも弟だってもう二十六歳。一宮(いちみや)コーポレーションの後継者として今以上に認められるためには、後ろ盾になる家柄からお嫁さんを迎えるのが一番確実よね。
 彼は非常に優秀だが、如何せん父の実子ではないという問題がある。
 血統を重んじる人間は少なからずいて、そんな輩を黙らせるには、相応しい伴侶を得るのが近道だった。むしろそういう話題が出るのが遅かったくらいだ。
 ──姉の私に浮いた話がないから、考えもしなかったけど──そうよね。世間一般的には適齢期なのかも。それに──家庭を持てば、春陽が私にかまける頻度が減るんじゃない?
 妻がいて、今後子どもでも生まれれば、義理の姉の優先順位なんて格段に下がるに決まっている。
 自然と疎遠になるのも夢ではない。何なら春陽たちが実家で同居してくれたら、百合の帰省をもっと減らすことだって自然だ。
 刹那のうちに素晴らしい未来を妄想し、思わず口角が緩んだ。
「急にこんな話をしたら、吃驚するよね。でも僕──」
「お相手はどこの方? 九条(くじょう)さんには妙齢のお嬢さんがいらしたわね? 春陽、昔一緒に遊んだことがあるでしょう? あ、ひょっとして大学の同級生? それともお父さんと昔から懇意にしている藤小野(ふじおの)家の──」
「姉さん、嬉しそうだね」
 いつになく冷淡な声音で問われ、百合の弾んだ気持ちへ冷水が浴びせかけられた。
 ハッとして弟を見遣れば、彼は半眼でこちらを見つめている。その鋭さを帯びた双眸は、『睨んでいる』と言った方が正解だった。
「え、あの」
「賛成なの?」
「あ、貴方が選んだ方なら間違いはないでしょう?」
 春陽が色恋にうつつを抜かし、会社や家に不利益になる女性を妻に迎えるとは思わなかった。
 優しく紳士な弟だが、冷静な部分がある。一時の感情で相応しくない相手に入れ込む迂闊さは持っていないと、百合は信じていた。
「僕が選んだわけじゃない。お見合いだよ。強制されているわけじゃないが、遠回しに勧められている」
「あ、ああ。そうなの」
 てっきり交際している女性と結婚が近いという話かと思ったら、違ったらしい。
 早とちりした気恥ずかしさで、百合は意味もなく耳に髪をかけた。
 ──でも、着地点は同じじゃない? つまり春陽が誰かを妻に迎えるってことで──結果は変わらないよね?
 どちらにしてもめでたい話だ。祝福して然るべきだろう。
 それなのに硬い表情をした弟は、明らかに苛立って見えた。
「お父さんの希望なの?」
「いや、どちらかと言うと、母さんが乗り気だ」
「そう。だったら条件的には最高のお嬢さんを紹介してくださるんじゃないの?」
 父経由なら一番の目的は会社のためかもしれない。しかし春陽の実母であれば、息子の幸せを第一に考えるに決まっていた。
 お眼鏡に適う令嬢を妥協することなく厳選してくれるなら、そう悪い話ではあるまい。
「家柄も人柄も申し分ない方でしょう」
 嫌な言い方ではあるものの、つり合いが取れているかどうかは重要な問題だ。格差があると、後々様々な軋轢を引き起こす。
 当人たちだけでなく次の世代や周囲の者にも。
 まさに、百合がそうだ。
 母は祖母の望む要件を備えていなかったために、辛い結婚生活を送ることになった。ひいては娘である百合も一宮で冷遇されることとなったのだから。
 ──端から恋愛結婚でないなら、より好条件を求めるのは自然なことでしょう?
 でないと大変な目に遭う。彼がそれを理解していないとは到底思えなかった。
「姉さんは僕が結婚することに対し、どう思う?」
「どうって……」
 曖昧な質問に戸惑った。
 考えるまでもなく『祝福』一択なのだが、先ほどそれで明らかに春陽は不満を抱いたようだ。
 何が気に入らなかったのか、考えても分からない。そもそも彼が不快感を覚えて見えたことすら、気のせいの可能性があった。
 ──私に何を言わせたいの? 反対してほしいってこと? でもどうして。もしかして相手の女性がお気に召さないの?
 それなら断ればいいだけだ。継母は息子の意思を無視してまで無理やり結婚を強いる親ではあるまい。
 見合い話が持ち上がったのも、我が子が滞りなく夫の会社を継げるよう支えたかったためと思われた。
 春陽は婚姻を焦る年齢でもあるまいし、選べる立場だ。他にもいくらだって候補者はいるはず。
 気乗りしない相手なら、次に目を向けた方が早く話が纏まると思った。
「えっと、面識のある方なの? それとも全く知らない方?」
「それ、重要?」
「当然じゃない。誰なのかも知らないで意見できないでしょう」
 百合はまだ相手の素性どころか名前も知らないのだ。
 これで賛成かそうでないか問われても、答えなど出せるわけがなかった。
 ──もっとも、よほど評判が悪いとか、著しく年の差があるとかでない限り、私が反対するいわれはない。
 しかもそういった女性を継母が選ぶはずもなく、いらぬ心配だった。
 つまり誰が春陽の見合い相手だとしても、答えは『賛成』しかない。だが諸手を挙げて口にできる空気ではなく、百合はやんわりと探りを入れた。
 一応、自分にとっては義妹となる人。全く無関係でもない。積極的に交流しようとは思わないが、苦手なタイプでないといい程度の関心はあった。
 ──あまり気が強かったり、キツイ顔立ちだったりする人は嫌だな。お祖母さんを思い出してしまう。
 祖母は老いて尚美人ではあったものの、気位の高さが滲み出ていた。生まれた時から蝶よ花よと傅かれるのが当たり前の生活だったからだろう。
 言葉の端々に棘があり、命令口調が常だった。
 今も彼女に言われたことを思い出すと、百合は心臓が痛くなる。今後極力心穏やかに暮らすためにも、過去を抉る真似はしたくなかった。
 ──だからお祖母さんには似ていない人なら、誰でもいいわ。
「……母さんの候補は、白蓮寺(びゃくれんじ)家の祥子(しょうこ)さんらしい」
「ああ! お継母さんに舞踊を教えてくださっているお師匠さんの──お孫さん?」
 百合が家を出る前、何度か顔を見かけたことがある。だが当時はまだ十二歳くらいの少女だった。
 物静かで控えめな、如何にも良家の子女。
 躾が行き届いており、将来は間違いなく沢山の家から『我が家の嫁に』と乞われそうなお嬢さんだった。
 あの頃から群を抜いて綺麗な子だったから、今はさぞや上品な美人になっているのが想像できる。春陽と並び立てばお似合いなのではないか──とまで考え、百合はますます反対する理由をなくした。
 ──いい話じゃないの。確か白蓮寺は芸事で歴史が深いだけでなく、財政界でも顔が利く。裕福なだけでは築けない人脈を持っている。何を迷うことがあるの?
 むしろ大賛成以外の回答が見つからない。先を促すつもりで春陽を見つめても、彼は目を逸らしただけだった。
「祥子さんでは不満なの? 女の私から見ても、愛らしくて教養がある方だと思うわ」
 十年前の姿しか知らないものの、そう激変してはいまい。おそらく今でも深窓の令嬢として純粋培養されている。
 春陽とのバランスがいいと考えたからこそ、継母だって第一候補に挙げたに決まっていた。
「姉さんは、賛成なんだ」
「春陽が嫌なら断ればいいと思うけど……」
 どこか執拗に百合の意見を聞きだそうとする彼の真意が読めなかった。
 それも『やめておけ』の一言を引き出したがっていると感じるのは、気のせいだろうか。
 ──結婚したくなくて、断る理由が欲しいのかな? それとも同調してくれる味方を求めている?
 おそらく一宮では全員この縁談に前向きなのだ。それはそうだろう。とてもいい話なのは百合にも分かる。
 しかし何らかの原因があり、春陽が頷けないでいるとしたら。
 ──単純に好みではない──程度で断るのは愚かだと、春陽が理解できないはずがないのに。
 百合は求められている答えが見つからず、眉間に皺を寄せた。
 弟の縁談を根掘り葉掘り問い質すのも気が引ける。自分が口出しする立場でもない。それとも仲のいい姉弟なら、こういう場面では反対するのか。
 不自然ではない程度に春陽が望む返事をしようとして、懸命に頭を働かせる。しかしいくら考えても判然としなかった。
「あの、気にかかることがあるの? それともまだ結婚は早いと思っている?」
 だったら正直に両親へ心の内を打ち明けてみればいい。言葉を選びつつ百合が告げると、彼は再びこちらを凝視してきた。
「……そうだね。今すぐ結婚したいとは思っていないな」
「まぁ祥子さんだって確か二十二歳よね。今年大学卒業? 早いと言えばその通りだわ。だったら婚約だけでもするのはどう?」
 タイミングが問題なら、長めの婚約期間を設けるのも手だ。
 昔ならいざ知らず、現代では女性側が学校卒業と同時に嫁ぐのが当たり前でもない。
 花嫁修業の名の下、多少結婚まで間が空いても支障はあるまいと考え、百合は我ながらいい解決策だと思った。
 だが。
「──はっ」
 吐き捨てられた一言には、紛れもない失望が含まれていた。
 百合の提案は春陽の期待した回答ではなかったらしい。
 ほんの一瞬顔を歪めた彼は、壁側を向いて表情を隠した。
「つまり姉さん的には、祥子さんとの縁を途切れさせない方がいいと言いたいんだ」
「だって、あんなに素敵なお嬢さん、すぐに他で縁談が纏まってしまいそうじゃない? あとから『やっぱり』となって後悔しても遅いでしょう」
「姉さんの意見はよく分かった。おかげで気持ちが固まったよ。白蓮寺家には、正式にお断りさせていただく」
「えっ」
 この流れで何故そんな結論に至るのかさっぱり理解できなかった。
 今の展開であれば、『お見合いする』に落ち着くのが自然だ。百合としてはそちらへ誘導しているつもりだった。
 しかし真逆の結果に行きついて、動揺を隠せない。
 もしや自分が何か失言を犯してしまったのかと思い、大いに慌てた。
「私、春陽を変な方向へ唆した?」
「何それ。唆された覚えはないし、お見合いしないことが変な方向だと思っている?」
「だって、断るのは馬鹿げていない? 願ってもいない良縁だよ?」
 彼にとっても。一宮の家にとっても。そして百合にとっても。
「だからこそだ。僕の都合でいつまでも祥子さんを縛り付けておけない。こちらにその気がないのに婚約だけしたいなんて、先方に失礼じゃないか。それじゃまるでキープ扱いだ」
「あ……」
 言われてみればその通りで、百合は自分の浅はかさを恥じた。かぁっと頬が熱くなる。
 つい己の事情ばかりが目に入り、相手側のことを考慮していなかった。
 中途半端な状態を維持するのは生殺し以外何物でもない。祥子はできるだけ若いうちの婚姻を望んでいるのかもしれないのに。
 それを引き延ばすのはあまりにも不誠実。
 無礼なのは勿論、卑怯な話だった。
「私ったら、とんでもないことを……祥子さんに謝らなくちゃ」
「本人に告げたのでも、実際行動したのでもないのに、いきなり謝られたら向こうが驚くよ」
「あ、そうね。でも申し訳なくて……」
 本人が与り知らぬところで、貶めてしまった気分になる。そんなつもりではなかったとしても、百合は自分の傲慢さを突き付けられた心地がした。
 現状の息苦しさから脱却できると思い、何も考えず飛びついただけ。自身の未熟さが恥ずかしい。
 心底祥子に頭を下げたくなって、猛省せずにはいられなかった。
「姉さんのそういう素直なところ、昔から変わらないな」
「……私はちっとも素直じゃないよ」
「悪かったと思えば心から反省できるのに?」
 真実素直なら、きっともっと楽に生きられた。
 嫌なものを嫌だと言い、誰に何を思われても気に病むことなんてなかったはずだ。自分の本当の気持ちを曝け出し、『普通の家族』の体裁を整えるのに躍起になりはしなかった。
 保身の気持ちがあるからこそ外面を気にするのだ。
 それを痛感している百合は、春陽の言葉に曖昧な笑みを返すことしかできなかった。
「──とにかく、お見合いは断るから」
「そっか。分かった。結婚は春陽の望むタイミングで決めたらいいよ」
 理想の姉なら、こう言って弟を励ますのが当然だ。
 そう考えて、百合は瞳を細め笑みを形作った。
「弟が先に結婚するのも、姉としては少し複雑だしね」
 百合に結婚願望はない。それどころか交際経験もなければ、今後も予定は皆無だ。心にもないことを口にして、場を和ませようとしただけ。
 けれど苦笑すると思っていた弟は、妙に真剣な眼差しをこちらに据えた。
「姉さん、結婚したい相手がいるの?」
「いないけど?」
 今自分の話はどうでもいい。それに三十代が見えてくると、この手の話題はセンシティブだ。百合自身は気にしていなくても、周囲があれこれ口出ししてくることもあるので、辟易している。
 やれ、恋人はいるのか。紹介しようかなど。
 あちらは百合を心配し気を利かせているつもりなのかもしれないが、その気がなければ迷惑行為でしかなかった。
 百合は結婚に夢を見られないし、したいとも思えない。
 故にこの話題はあまり触れてほしい内容でもなく、意識的に大きな声で話題を変えた。
「そんなことより、『まだ独身を楽しみたい』ってお継母さんたちに話した方がいいよ。でないと次のお見合い話を持ち込まれちゃう。二人とも貴方のことを案じているんだから」
「……ああ、そうだね」
 ほんの僅か、春陽の瞳が揺れた気がした。
 だが瞬き一つの間にいつも通り微笑を浮かべた彼がいる。それ以外の変化は春陽がピタリと会話をやめ、食事に集中し出したことだった。
 ──お見合いの件で結論が出て、満足したのかな?
 百合は上手く助言できたとは言えないが、弟の悩みを一つ解決できたならよかった。それにじっと見つめられることに気疲れしていたのもあり、彼の視線が逸れた事実にホッとする。
 気づかれぬよう深呼吸して、百合も皿の上を片付け始めた。
 しばし互いに無言のまま時間が過ぎる。沈黙が重苦しさを増してきた頃、おもむろに春陽が顔を上げ再びこちらをじっと見つめてきた。
「今夜も泊まっていっていい? 明日は早朝の便に乗るから、空港に近い姉さんのところが楽なんだ」
「……勿論、いいよ」
 一秒にも満たない逡巡は、見抜かれていないと信じている。
 声を震わせなかった自分を褒めたい。
 嫌だと本音を告げられたら、スッキリとするのに。けれど言えない。
 弱さと狡さが絡まり合って、今夜も百合は『ありふれたどこにでもいる姉』の仮面を被る。
 血の繋がりはなくても大事な弟を邪険にしない、普通の姉。
 ごく当たり前に家族を一泊させるだけ。それを断固拒否する理由はなかった。
「何時に家を出るの?」
「五時には出なくちゃならないから、勝手に行く。気にしないで」
「土曜日なのに、大変だね」
「仕事は楽しいから、苦じゃないよ」
 大きな契約を取り付けたばかりで、明日は遠方へ出張とは。そんなにもスケジュールが詰まっているのなら、百合のところへ顔を出していないで空港近くのホテルに滞在した方が身体を休められるだろうに。
 ──このひと月近く連絡を取っていなかったから、きっと春陽は私の様子を気にしていたのね。
 あくまでも善意で。
 苦いものが込み上げて、溜め息を吐きたくなる。
 どうしたらこのもどかしさが彼に伝わるか思案し──どうせ分かり合えないなと結論付けた。
 自分たちはあまりにも違う。考え方も性格も。見えている世界が別物なのだと思うと、理解しようという気持ちだって薄れるものだ。
 弟が百合の部屋に泊まることは年に数回あり、最低限の私物が置かれていた。それらを断れないところも、百合の気の弱さでしかない。迷惑だと口にできず、いい顔を見せようとする。
 そういう自分も、大嫌いだった。