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この街角で、君に恋して 3

第三話

 

 地下鉄に乗っている最中に、エルダーがリホという字はどう書くのか聞いてきたので、メモの一番後ろに李帆、と書いてみせた。
 意味を聞かれ、夏生まれなのと、帆を上げてしっかりと自分の人生が進むように、という願いを込められたことを説明した。
 李(すもも)は夏の果物で、母がこの果実酒が好きだったらしい。名前は父が考え付けてくれたものだ。
 帆を上げて自分の人生が進んでいるとは思わないが、それでもきちんと真っ当に生きているから、両親には感謝しないと、と名前の意味を説明しながら思った。
「素敵な名前だ」
 頭の上から降ってきた低い声は、李帆の名を褒めてくれた。
 何の変哲もない、日本語では読み方も普通で、どこにでもあるような発音の名前だ。おまけに二文字の発音だから、愛称もリホのまま。
 そんなに良いものでも何でもないのに、彼は素敵だと微笑んでくれた。
「そうでしょうか? 日本人にとっては普通の名前なんですが……」
「でも、しっかり自分の人生を生きているから、ニューヨークに旅行に来れたんじゃないかな?」
 李帆は彼の言葉に少しだけ笑ってうつむいた。
 確かに彼の言う通りかもしれない。胸に空気を入れるように大きく息を吸った。両親の愛というものにはあまり縁がなかったけれど、それでも親としての務めを果たしてくれた。
 おかげで、李帆は薬剤師として生計を立てているし、だからこそ外国へ旅行するなどの計画も立てられた。
 漠然と行ってみたいと思っていたニューヨークへも、来ることができている。
 隣にいる彼を見上げると、ブルーの目が微笑んで瞬きをする。
「名前、褒めてくれて……ありがとうございます」
「これからずっと李帆と呼んでもいいかな? もうすでに呼んでるけどね」
 確かに彼の言う通り、ずっと李帆の名を呼び捨てにしている。日本人は普通苗字で呼び合うから、ちょっと慣れないが、アメリカ人なのだからこれが普通なのかもしれない。
「それは、もちろんです」
「ありがとう」
 微笑む天使が目の前にいて、ジッと見てしまいそうなので下を向く。
 私の人生は、いったいどうしてしまったんだろう。
 一度リセットしたくて仕事を辞めようと思ったら、二週間以上の休みをもらった。だから行ってみたかったニューヨークに来たものの、怖気づいてホテルに引き返そうとしたら、エルダーというイケメンにぶつかって。
 しかもこのイケメンは、李帆が思うに、結構育ちが良くてそれなりの家柄のような気がした。
 値の張る時計をポンと買っているし、先ほどの三つ揃えの高そうなスーツは常に着ている雰囲気があり、似合っていたし慣れていた。
 彼の今の服装は、今は白いシャツとスニーカー、踝が見える丈のスリムパンツという、普通の組み合わせだ。だけど、服はすべて縫製が良くて高級そうな感じだ。
 メッセンジャーバッグはマンハッタンポーテージでニューヨークらしいけど、肌の質感、彼が出す雰囲気、そのうえ容姿が抜群なのが、普通ではないと思わせる。
 なぜこんな人が李帆を褒め、好意を持っています、という言葉を口にするのかさっぱりわからない。
「エルダーさんの名前は、なんていうんですか? フルネームは……?」
 李帆はきちんと苗字を名乗ったが、彼はエルダーとしか名乗らなかった。
 ああ、と彼は気が付いたように口を開く。
「僕の名前は、エルダー・ネビル・カニンガム。エルダーというと年長者とか、そういう意味合いに取られるけど、僕のはエルダーフラワーから取った名前でね。心を癒し、思いやりがある人になるように、という意味が込められているんだ」
 エルダー・ネビル・カニンガムと聞いて、なんだかカニンガムというのに聞き覚えがある気がした。なんだっけ、と思いながら彼に視線を向ける。
 エルダーはずっと見ていて飽きないほど綺麗だ。まるで天使がこの世界に降りてきたかのようで、見ると目が離せない。
「ミドルネームは母が付けたかったネビルになった。仕事でサインする時は、Nしか書かないけどね」
 仕事でサインをする、の意味合いが印鑑的な感じだとは次元が別物のようだ。
 ずっと彼の素敵な顔から目が離せず、李帆はごまかすために笑みを浮かべた。
「じゃあ、カニンガムさん、って呼んだ方がいいですね」
 やっぱりカニンガムって、どこかで聞いた響きだな、と思った。そもそも、李帆が聞いたことがある程度のことは、みんな知っていることが多いから、日本国内でも有名な名前かもしれない。
「親しい人は、エルって呼ぶ。だからエルでも」
「いや、そこは……カニンガムさん、で」
 またジッと見ていたため、李帆はごまかすように笑みを浮かべた。
 自分で何度も口に出すと、やっぱりカニンガムという響きに覚えがある。
「カニンガムさんは、もしかしてちょっと有名ですか? なんか私、カニンガムっていう名前をたぶん知ってるんですけど、思い出せなくて」
 李帆が首を傾げて考え込む仕草をすると、エルダーはクスッと笑った。
「僕は全然有名じゃないけど……思い出したら教えてくれる?」
「そう、ですね」
 彼は笑みを浮かべたまま、左手の時計を見る。その青い目が透き通っていて、宝石みたいで綺麗だと思った。
 もちろん、青い目の人を見たことがないとは言わない。海外映画でだって彼のような青い目の俳優や女優を何度も見たことがある。
 けれど、間近で実際に空色の瞳を見ると、なんだか心が吸い寄せられそうな気さえする。
「もうすぐバッテリーパークだ」
 低い声は、男らしい。
 たった少し声を聞いただけなのに、時々心臓が跳ね上がる。
 ダメだよ、聖女になるんだよ、と自分に言い聞かせる。聖女は男に惹かれたりしないはずだ。
 そもそも、こんなことでドキドキしていてはいけないのだ。
 李帆自身、こういう口説かれたり優しくされたりするのが初めてで。しかも天使のように甘い顔立ちをしたイケメンから言われたからこそ、こうなってしまうのだと思う。
 これは今だけの感情だ。異性を好きになったりしないと心に決めているのだから。
 心を落ち着けようと深呼吸して、李帆は極力エルダーの顔を見ないように心掛けた。

 ☆

 自由の女神を見に行くには、リバティ島行きのフェリーのチケットがいるため、まずはそれを買わなければならない。もし一人だったらドキドキしていたが、エルダーがスイスイ行くため、付いていくだけでよかった。
 それからフェリー乗り場へ行き、チケットを確認され、セキュリティチェックを受けてから乗船。
 デッキとベンチどちらがいいかと聞かれたので、デッキを選んだ。天気がいいため、外の方がいいかと思ったのだった。
 進行方向の右側端に案内されて、そこに座ると船が動き出す。リバティ島へ近づくにつれ、自由の女神が見えてきた。
「わ、大きい」
 潮風を感じながら、自由の女神を見る。
 そして視線を移せば、マンハッタン島が見え、すごく景色が良かった。
「カニンガムさんは、こういう景色も見慣れているんでしょうね」
 李帆が聞くと、彼はそうだね、と答えた。
「でも、改めて見てると、新鮮な気持ちになるよ」
 目を細めて自由の女神を見ても、彼の瞳は十分に大きくはっきりとしていた。縁取る睫毛は金色、バサバサ生えているのが見えた。
 またジッと見てしまっていると、彼が視線に気付き、にこりと笑う。
「いま、目を見てた?」
 あれだけ見ていたらわかるよね、と李帆は少しだけ笑って頷いた。
「睫毛長いし、色が綺麗だと思いまして」
「君も長くない? 黒い瞳を縁取る睫毛、キレイだ」
 確かに睫毛長いとは言われるけれど、目の前にいる彼に比べたら、普通のことだ。
「カニンガムさんほどでは……」
 ありません、と言葉を続けようとすると、彼の指先を軽く顎先に触れ、顔を上げさせる。
「こっち見て」
 季帆が彼をまっすぐに見て瞬きをすると、青い瞳はゆっくりと瞬きをして、視線を合わせたままにした。
「美しいよ、君の瞳」
 一気に血が集まったように、ボンッと顔が赤く染め上がった気がした。
 言われ慣れていないどころか、言われる立場になったことがないから、余計に威力が大きい。
 まだ会って数時間しか経っていないのに、こんなことってあるだろうか。
「女性相手だと誰とでもこんなことする、ってわけじゃないですよね?」
 こんな漫画に出てくるような顎クイなんてやられたら、誰でも勘違いしそう。自意識過剰かもしれないが。
「そんな風に見える?」
 見えないけれど、李帆のような非モテ女子になぜ、と思うのだ。
「私、男の人に、目が綺麗だとか言われたこともなければ……話しかけられたこともないし……こんな風に一緒に出掛けるなんて、したことがないんですけど」
 うつむいて困ったように笑いながら言うと、彼は首を傾げた。
「君は今まで恋人がいたことないのかな?」
 李帆はうつむけていた顔を上げ、目を見開いてエルダーを見た。
 今の発言は確かに、誰とも付き合ったことがない処女です、と言っているようなものだ。
「ああ、そうなんだね。僕は実にラッキーな男だ」
 嬉しそうに笑った彼を見て、李帆は眉を寄せ両手で顔を覆った。
「ずっと、そういうことを考えずに一生懸命に生きてきて、それが精一杯で……これが初めての旅行で、初めての贅沢なんです」
 初めての旅行で、初めての贅沢。
 口に出すと、ようやく落ち着いてきて、顔を覆っていた手を外す。
「君はいくつなの?」
「二十八です……夏が過ぎたら、すぐ秋になって……ちょうどいい季節だから、旅行しようと思って」
 大きく深呼吸をすると、いつの間にかもう、フェリーは目的のリバティ島へ着きそうだった。
「もっと若いかと思っていた。日本人は若く見える」
「若くなくてがっかりですか?」
 笑ってそう言うと、彼は首を振った。
「いい年齢だと思う。僕が今の会社に入社したのは、今の君くらいだった。一つ区切って、新たにスタートしたのは二十九になった年だったよ。ずいぶん遅い就職だった」
 一つ区切って新たにスタートしたのがいまの李帆の年くらいだと聞いて、なんだか親近感が湧く。李帆も、今もう一度自分のことを見つめ直したいと思っているから。
「カニンガムさんはおいくつなんですか?」
 海風に揺れる緩い巻き毛を軽く直しながら、微笑む。
「今年の夏の初めに、三十四になった。同じ夏生まれだし、君とは六歳違いだね」
 彼の話し方はとても落ち着いていて、なんだかしっかりしていそうだ。それでいて李帆と違って、自分の好きなことを心から楽しんでいそうな感じだった。
 李帆は日本へ帰ったら有休が終わり、仕事に戻る。また職場とマンションの行き来をする生活だ。
 だったら、こういう非日常をほんの少し、数日楽しむくらい、ありなのかもしれない。
 フェリーがリバティ島の船着き場へ到着し、観光客が下船し始めた。李帆とエルダーも同じように下船する。
 自由の女神は見れたらいい、くらいだったので中には入らないが、写真は撮っておきたいと思った。
「ところでお土産は買うのかな?」
 大学時代の友達は、一年に一、二回誘われるくらいで、それも本当は誘ってあげているという感じだ。グループチャットはあるけれど、それももう三ヶ月近く機能していない。
 あとは職場のみんなに買えばいいが、お菓子などでいいと思う。
「お土産を買う相手はほとんどいないし、空港で買えれば大丈夫です。一応、アイラブニューヨークのTシャツを三、四枚買えばなんとかいけますね」
 ほとんど友達がいない、と彼に言っているようなものだ。けれど差し支えないだろう。
 エルダーとは一期一会の出会いなのだから。
「そう……ご両親には? 自由の女神のキーホルダー、人気があるけど」
 彼が可笑しそうにそう言ったけれど、李帆もまた笑顔を浮かべて答える。
「父と母とはほぼ音信不通だし、二人は私が高校を卒業する頃に離婚して、それきり会っていません。父は、少しは気にかけてくれましたが、母とは全く。二人ともそれぞれ再婚していますから、両親はいないも同然なんですよね」
 李帆は人間関係の希薄な自分を思う。
 寂しい思いをしていないかというと、全くそんなことはない。もっと友達が欲しい、と考えることも時折ある。
 けれど、大学の友人たちのように、誘ってあげてるんだよ、というスタンスでこられても嬉しくはないし、彼女たちと飲んでいても楽しくなかったりする。
 最近は別にもうこのまま友人関係をフェードアウトしてもいいのではないかと心の中で考えてしまいがちだ。
 まだ人生は折り返しにも来ていないので、新たな人間関係ができるのではないかと思う気持ちもある。
「私って人間関係が薄くて……寂しいという気持ちが多少あっても、別にこのままでもいいかなぁ、って思うことが多いんですよね」
 自由の女神は後ろ姿だ。
 できるならば、正面から等身大の自由の女神を写真に収めておきたい。
 人生で考えることがいろいろあって、勢いでアメリカに来てしまったが、これでいいと思っている。
 エルダーは知らない人ではあるが、彼と会ったことで、心の区切りがつきそうだ。彼が新たなスタートを切ったのが、今の李帆と同じくらいの年齢だと言ったのも、李帆の背を押してくれていると思う。
「人間関係が薄くても、生きていくことはできるから。私は、自由にもっと自分を出して生きていきたいって、今はちょっと思っています」
 歩きながら話していると、自由の女神の横を通り過ぎ、正面を見ることができた。
 自由に、と言ったあと、自由の女神を見ることができるのは、とても贅沢だ。
「そうか……君はやっぱり素敵な人だな」
「いやいや、そんなことはないです。人間関係薄いってことは友達もいないし、親だっていないも同然なんですよ? それのどこが素敵なんですか? こうやって海外旅行にしても、一緒に行きたいと思う人がいないんですよ?」
 初めて会ったエルダーにこんな言葉を、ほぼ間を置かずにぶつけている。
 失礼かもしれないが、彼になら言っても大丈夫なのだと、心のどこかで思ってしまった。
「素敵だと思うよ。だって、本当の意味で自分の意志で、自分の足で立っている人じゃないか。友達の数なんて関係ないし、自分自身に本当に必要な人は、ほんのひとつまみ程度で十分だと思うけどね」
 彼はにこりと笑って、自由の女神を見た。
「思想も、生き方も、付き合う人も自由に選んでいいと思う。君は素敵だよ。黒い瞳も美しいし、この上なく魅力的だ」
 李帆はエルダーから肯定してくれる言葉を、これでもかと言われた。
 誰かにこんな風に認められること、こんな風に言ってもらえることは、この先皆無だろう。なんだか泣きそう、と思ったがそれはどうにか踏ん張った。
 エルダーは李帆とは違って、育ちが良くて、教育もしっかり受けている人なのだろう。きっと皆に優しいのだ。
「ありがとう……カニンガムさん」
「どういたしまして。お礼はキス一つでどうかな?」
 何をそんな、と思った。
 揶揄(やゆ)するような要求に、李帆は首を振った。
「そんなことできませんよ」
 李帆がごまかすように笑うと、彼はさらにグイッと来た。
「じゃあ、電話番号を。あと、SNSもよかったら」
 この人は初めて会った知らない人だ。海外において日本人は騙されやすいとは聞くけれど。でも、エルダーはきっと良い人だ。
「自由の女神の写真を撮ったら考えます」
 冗談めかした李帆の言葉に、エルダーは少し残念そうに笑う。
 心の中ではずっと焦っている。李帆は顔も身体も、なんだか熱い。
「じゃあ早く撮って。こんなことで待つのは辛い。時間がたつのは意外と速いんだから」
 本当にそうだ。
 彼と出会って、ニューヨークでの時間があっという間に経っている。
 李帆は自由の女神が全部入りきらないので、座って写真を撮った。おかげで、自由の女神の全身が撮れて、満足する。
 彼はそんな李帆を待っていた。撮り終えて振り向けば、その目がとても優しくて、本当に口説いているのかと錯覚してしまう。
「カニンガムさんは、なんていう会社で働いているんですか? きっと、とてもいい会社で、それなりに地位のある方なんでしょう? スーツも、今の服も……なんだかとても上等に見えます」
「そんなことより電話番号は教えて欲しいな」
「出会ったばかりの人に電話番号なんて教えませんよ」
 互いに間を置かず言葉のやりとりをした。
 李帆は割と自分のことを話していると思う。でも彼は多くを語っていない。
「……君は東京に住んでる?」
「はい……それが何か?」
 首を傾げると、彼はマンハッタンの方を見る。
「カニンガムホテルは知ってるかな?」
 李帆に視線を戻した彼がそう言った。
「知ってます、けど……あっ」
 カニンガムホテル東京は高級ホテルで、大学時代の同級生も泊まってみたいと言いながら、敷居が高いのか、泊まったことがない様子だった。
 有名な雑誌に取り上げられていたのを見たこともある。掲載されている写真を見てすごいホテルだと思ったものだ。
 彼は自分の名をエルダー・ネビル・カニンガムと名乗った。そこで思い浮かんだことは、きっと間違いじゃないと思う。
「僕はカニンガムホテルに勤めていて、今度カニンガムホテル東京へ異動することになったんだ」
 彼はきっと、カニンガムホテルを作った家の人なんだろう。そうじゃないなんて思えなかった。
 某有名なホテルで、父が経営者だという有名な姉妹だっている。こういう家の人は美形な人が多いし、エルダーが天使っぽい整った容姿をしている理由も頷ける。
「カニンガムさんは、カニンガムホテルのその……経営してる人なんですね?」
 李帆の言葉に動じず、ただ笑みを浮かべて話す。
「同族経営ではなく、実力を持ったものが経営をするのが、カニンガムのモットーだったけどね。最近は、叔父と僕が会社の中を動かす時もあるな。あ、でも、本社の社長とかではないよ」
 本来なら会いたいと思っても、会うことができないような人と道でぶつかったんだな、と李帆は思った。会社の中で役職を持っているのだと思う。
 エルダーと出会ったらラッキーだと思う人も多いだろう。
「君はあと数日で日本へ帰るんだろう? 僕もあと少しすれば、東京だ。いろんな思いがあったけど、今はちょっと感謝してるかな」
 李帆は彼を見上げた。
 そのちょっと感謝している、というのはこれからも日本で李帆に会える、という意味なんだろうか。
 そんなに、自惚れていいんだっけ、と思いながら心の中ではダメダメ、と冷静になる。
「私は、カニンガムさんとの出会いは、一期一会と思ってるので」
「……ん? いちご……いちえ、って?」
 めちゃくちゃ日本語がペラペラだから、普通に喋っていた。でも、彼はアメリカ人なので、知らない言葉があって当然だ。
「一生に一度……とにかく、生きているうちにたった一回のチャンスというか……私たちはニューヨークで偶然出会っただけで……こうやって観光して思い出を作れたら十分です」
 海風に髪の毛を乱されたので、手で直しながら少しうつむきがちになり、彼に話す。
「カニンガムさんに出会えたおかげで……私、心がリセットできました。東京でも、また地道に働けるって、そう思いましたし……」
 彼の青い目が何度も瞬きをした。え? とでも言いそうな顔をしている。
「ああいう高級ホテルのえっと……経営者? 血族? とにかくそういう人とは普通は会うことすらないことで。私はただの薬剤師だし……生きている場所? それこそ、ポジションが違う気がしますし、普通に付き合えないですから」
 また青い目が何度も瞬きして、なんだか少し目の色が沈んだ気がした。
「……そんなこと初めて言われた。大抵は、連絡先を交換して欲しいと言ったら、ほとんどが教えてくれていたから」
 これほどの男の人だったら、ほぼ女性の方から言い寄られ、連絡して欲しい、と縋られる側だろう。
「それは……カニンガムさんだからですよ。でも私の連絡先なんて、聞いても何のメリットもないです」
「君の連絡先は、僕にはメリットがある」
「カニンガムさんだったら、誰だって教えて欲しいだろうし、誰だって知りたいと思う人がほとんどでしょうけど……私は知らなくても大丈夫です」
 そう、別に知らなくても大丈夫だ。
 だって、彼はアメリカ人で、李帆は英語すら話せない日本人だ。彼がたまたま日本語を話せたから、会話が成立しているだけのことだ。
「じゃあ、ここでお別れなのか?」
「普通はそう、ですよね?」
 言葉のやりとりをほぼ間を置かずにやったあと、彼は沈んだ目の色をしたまま、額に手をやった。
「日本人は、これが良いのか悪いのかわかりませんが……知らない人について行っちゃいけないし、連絡先を教えるなんてもってのほか、っていう考えだって根強いんですよ」
「僕は変な男じゃない」
 エルダーは胸に手を当て、少し語尾を強めに言った。
「それは分かっています。カニンガムさんは親切な人です……でも、カニンガムさんなら、美人で聡明な女の子が似合うと思いますし、選り取り見取りでしょうし、こんな地味な一般人じゃなくても……」
 彼は緩い巻き毛に手を入れ、髪の毛を軽く掻き上げた。
「よりどりみどりって?」
「好きな女の子を好きなだけ……チョイス? していいほどの人でしょう、ってことです」
「はぁ?」
 エルダーは少し眉間に皺を寄せ、首を傾げる。なんでそんなことを言うんだ、とでも言いたそうだ。
「今だって、なんで私といてくれるのか……カニンガムさんみたいな方にここまでしてもらえるほどの魅力が私にあるとは……到底、思えず……」
 目が綺麗だって言われたことなんかなかったし、それだけの理由で李帆に好意を示されたことも今までなかった。
 エルダーはとにかく上等すぎる男なのだ。
 彼はとても良い人だと思う。だけど、素敵でお金持ちでラッキー、と思って付き合えるほど李帆は器用ではないのだ。
「すみません、ちょっと言い過ぎました。せっかく貴重な時間を使って案内してくれたのに……」
 李帆が頭を下げると、彼は小さく息を吐き、笑みを消す。
 きっと、幻滅したよね、と李帆は思った。
「カニンガムさんは、初めて会った時から天使みたいで、素敵で優しい男性だと思ってますが……そういうハイスペック設定の人が私のこと好きって思ってくれてるかも、ラッキー! って思うほど、私の心は器用にできていないので。それに、心は変わるじゃないですか」
 李帆の大学の同級生だって、あれだけ好きと言っていたのに、彼氏と半年くらいで別れてしまっている例もある。
 それに李帆の両親だって、ずいぶん若いうちに結婚したからかもしれないが、季帆が小学生になって大人の事情が分かってくる頃には、ほぼ父と母の仲は破綻していた。
「たった数時間で何がわかるって、その人の声と名前と職業、こんな感じの人なのかな、っていうくらいじゃないですか。正直私は、自分で言うのもなんだけど、面白みがない人間なので」
 李帆の言葉をずっと黙って聞いてくれていた彼を見上げると、こちらを見ていた。
 そして、ゆっくりと瞬きして見つめられる。
「僕は感じた物事についてはよく考える方でね。だから今、君が語ったことも……僕には……そうだな……」
 彼は考え込む仕草をして、次に青い目に光を宿したようにして李帆を見る。
「僕には君がすごく正直で、わかりやすくて、きちんと自分を持った素敵な人だと感じた」
 感じた物事、というのは単なる直感。けれど、なぜかエルダーは自信ありげにそう言った。
「素敵……って……」
 李帆はそう呟き、唇をキュッと引き締め、顔を横に向けた。エルダーはさらに言葉を続ける。
「ラッキーって思って欲しいな、李帆」
「……え?」
 首を傾げると、彼は微笑んだ。
「僕はやっぱり君がいいな、って思った。君と出会えて、僕はラッキーな男だと思ってる。連絡先を教えてくれないのなら、自分の運命に賭けることにするよ」
 そう言って彼は自分のバッグから名刺入れを取り出し、そこから一枚名刺を差し出してくる。
「全部英語で書いてあるけど、電話番号はこの番号で変えない。日本へ帰っても、会ってくれる気があったら、電話をしてくれないかな? 僕は二週間後には確実に、日本にいるから」
 李帆は名刺を受け取り、一度見て、彼を見る。
「電話を掛けてくれますように、って願いを込めて待ってる」
 にこりと笑った天使な彼を見て、もちろん心臓は跳ね上がったが、すぐに視線を逸らす。
「今日はホテルまで送っていくよ」
 李帆はその言葉を聞き、少しだけ笑みを浮かべた。
 願いを込めて待ってる、と言われた名刺はボディバッグに入れた。
「もう帰るなら、そろそろフェリーの時間だ」
 ティファニーブルーの腕時計を見た彼は、行こう、と言ってきた道を引き返す。
 李帆はそれに従ってついて行った。
 背が高くて、細身だがなんとなく筋肉質っぽい背中だと思った。
 後ろ姿もイケてるエルダーが待ってると言ったあの言葉は、本当だろうか。
 そう思いながら少し小走りになって彼の横に追いつき、並んで歩くのだった。

 

 

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