この街角で、君に恋して 1
第一話
小学校から大学まで、すべて公立校を選び、卒業した。
特に、大学にはこだわった。自分が何になりたいかなんて、ちっともピンとこなかったが、さすがに高校二年生になる頃には、考えなければ、と思うようになった。
その主な原因は、両親の不仲だ。中学に入ったあたりからそれは顕著になり始め、高校に入る頃には、母は自立のためか正社員として働き出した。
というか、母の方が、父から離れたがっていたが、自分がいるからしょうがなく一緒にいるという感じだった。父はそんな母のことをもう好きでも何でもなかっただろうけれど、自分に対してはきちんとしたいという思いを持って、接していたように思う。
季帆が進路を明確に決めた頃には、父はほとんど家に帰らなくなっていた。母もまた仕事に打ち込んだり、仕事の付き合いとかで、「よるごはんてきとうに」というメモとお金を置いていくことも多くなった。
もう、家族は元に戻らないと思った。
兄妹もなく、一人っ子であったし、今思えば小学校に上がる頃にはすでに父と母は自分に心がさほど向いていなかったかもしれない。
だから、父と母は離婚し、自分はもういらなくなってしまいそうだと感じた。
そうなると自立が必要になってくる。高卒で就職するより、大学まで進んできちんとした職に就きたい。
一人で生きていくためにも、何か資格が取れる大学を、と思って探した。看護師や医師は大変そうだし、なっても上手く仕事ができるか不安だったので、薬剤師を目指すことにした。
安易に決めてしまった進路の受験勉強は大変で、薬科学科と薬学部ではえらい違いだった。前者は研究職が主らしく、それでは薬剤師にはなれないので、六年制の薬学部を選んだ。
そうして、大学に受かったら父と母は離婚した。
二人は大学の授業料と六年分の生活費が入った通帳を自分に渡した。最後に、と大学生になったら住むアパートを父が探してくれ、敷金礼金を払うと、そこで一家離散となった。
母は連絡先を変え、教えてもらえなかった。父は苦しげに、何かあったら必ず連絡するようにと言い、連絡先を渡してくれたけれど、互いに連絡することはほぼない。
通帳には目が飛び出るような額のお金が入っていたが、学費と六年間の生活費だからおいそれと使うわけにはいかなかった。
勉強とアルバイトに明け暮れつつ、薬剤師の国家資格を取って、街の薬局に就職した。
小さな個人経営の薬局だから給料はめちゃくちゃ高いわけではないが、自分のペースで仕事ができるのは良かった。
大学の頃からこれといって密な人間関係も、恋人も作ることなく、そのまま働き続けて四年経つと、二十八になり。
気付けばもうあと二年で二十代も終わってしまう。父と母とは相変わらず音信不通で、最後に連絡を取ったのはいつだったか覚えていない。
けれど、それぞれまた再婚し、新しい家族と暮らしていることは知っている。
国家資格も持っているし、大学時代のアルバイトや薬局勤務で社会人経験も豊富になったと思う。でもあと二年で二十代が終わってしまうのに、なんだかんだで自分のことで精一杯だったし、働いてばかりだった。
いったい、何をしていたんだろうな、と思わないわけではない。
「杉崎(すぎさき)さんはさ、仕事に真面目で、終わったらさっさと帰っちゃうけど……あれだね! うーんと、そう! 彼氏はいるの? 浮いた話しないよね?」
薬品を棚に補充しているとき、いきなりそんな話を振られ、眉を寄せた。話を振ってきたのは、この薬局の経営者である坂上(さかがみ)裕太(ゆうた)だ。
杉崎李帆(りほ)は、杉崎さん、もしくは李帆ちゃん、と職場で呼ばれている。
恋愛話はそもそもしないし、大学の頃から住んでいるアパートと職場の往復がほとんどだ。浮いた話など、どの時代にもなかった。もちろん、大学の時だって、もともとそんなに頭が良くないので勉強に必死だったし、アルバイトばかりしていたし。生きるのに必死だった気がする。
「……なんでいきなりそんな話を? 最近パートで来てる、事務の寺崎(てらさき)さんの影響ですか?」
とりあえず面倒くさそうに声を出すと、坂上はあはは、と笑った。
「まぁ、それは、影響ありけり」
ある意味セクハラじゃないか、と李帆は坂上の言葉に大きくため息をついて薬品補充の手を再度動かす。
鏡に映る自分は特に美人というわけでもない普通の顔。少し目が大きいくらいで、それ以外は特筆する何かはない。
「寺崎さん美人ですもんね……でも、伝票整理忘れたり、今日も薬品の補充してくれないし……ああ、そっか、顔がいいと薬局の顔になりますもんね」
我ながら斜に構えた発言だと思うが、本当のことで、最近彼女と話をするのも疲れてしまうのだ。
「すみません。ただの悪口でした。ちょっと疲れてしまって」
季帆が頭を下げると、坂上は「いいよ」と言って首を横に振った。
「杉崎さんも綺麗な顔しているよ? 黒目がデカくて印象的で……」
「私の顔の話はいいです……彼女のミスをチェックする身にもなってくださいよ……」
何度言っても同じミスをするし、薬袋の名前は間違えて印刷するし、伝票もこんもり溜まっているのに処理しない。そして、毎日やっているはずのパソコン入力も未だにしょっちゅう間違えたりする。
李帆がため息をつくと、坂上は経営者なのだからもっと威張ってもいいのに、眉根を下げた。そこが彼の良いところでもあり、卒後四年勤めている理由でもある。
「そんなこと言わずにいろいろと教えてやってよー……」
頼むよ、と言って手を合わせる。
李帆はまた大きくため息をついて、どうでもいいや、と新たに補充する薬の引き出しを開けた。
浮いた話もなにも、ないのは李帆がそういうことに興味がないためである。
だから、男の人と付き合ったことなどない。
好きだという気持ちも湧いたことがない。
好きのその先に伴うらしい、セックスなんて、知識を得れば得るほどしたいと思わない。
好きとセックスのその先にある婚姻なんて、もっとしたくない。
処女のまま死んでしまったら、それこそ天国で聖女待遇にでもならないかな、とさえ考える。それくらいには、とにかく、恋愛もセックスも何もしたいと思えない。
処女喪失は痛いらしいし、痛いことなんてしたくない。血だって出るみたいだし、そんな苦痛なことをしてまで愛してます、好きです、って何だろう。
そういう人に出会う確率はどれだけあるのかと、李帆は心の中でスン……としてしまう。きっとそれは両親の影響もあるはずだ。
「寺崎さん、素敵な彼氏がいるみたいですよね。仕事が手につかないくらい幸せそうだし、彼氏とラブラブみたいだし、そこは良いなぁ、って思うときはありますよ?」
ははは、と坂上が笑って、唇に人差し指を当て、黙っておけという仕草をする。
「杉崎さん、彼女はそのうち仕事ができるようになるよ。まだ、就職して三ヶ月経ったばかりだしね?」
「でも……試用期間過ぎてますよね……三ヶ月経ったばかりっていうか、もう三ヶ月経ってるんですけど……試用期間って採用するかどうか決めるための期間じゃないんですか」
我ながら、キツイ言葉を吐いているのは分かっているが、どうしようもないほど、最近心が真っ黒なのだ。
『杉崎さんって、ただ生きてるだけっぽいですよね。何か趣味とかないんですか? 彼氏もいないみたいですし~』
李帆も十分若いと自分では思っているが、新しくパート事務員として入った彼女は、まだ二十二歳になったばかりで、もっと若い。
面と向かってそんな失礼なことを言う彼女に、返事をする気も失せ、人それぞれよ、とだけ答えた。
でも、言われた内容を考えないわけではなく、それの何が悪いのかと、心の中が面倒くさいことになっている最中。しかし、言い返す方がもっと面倒なので、口を閉ざしているのだ。
別にどうでもいいってわけじゃないんだけどね、と思って、まだ窓口で接客をしている彼女を見る。
名前は寺崎真央美(まおみ)という、可愛らしい名前の美人だ。大きな二重瞼の目はキラキラしているし、指先はよく手入れされていて、大人しい色合いのジェルネイルを欠かさずやっている。
女性らしさ満載だ。時折、見ていていいなぁ、綺麗だなぁ、と思う。だが、李帆は真央美ではないし、何より薬剤師なのだから、素の爪が普通なのだ。
けれど、最近思う。
大学に入った十八の頃からアルバイト尽くし、勉強尽くし。
休む間もなく突っ走った感がある。突っ走ったは言い過ぎかもしれないが、アパートと学校の往復が、職場に変わっただけで、劇的に変わったことなど一つもない。
友達もほぼいなくて、たまに大学の友達から気まぐれに連絡が入って、居酒屋に集まったりするけれど、話していてもそんなに楽しいわけではない。
笑っている自分を作るのが、居酒屋とはいえども仕事のようだった。
「あなた若いから、手が綺麗ね」
窓口から聞こえる、薬を処方された患者の素直な声に、真央美は笑顔で答える。
「ありがとうございます。手のお手入れはちょっと気を付けてやってるんですよ」
ちゃんとパソコンに今の患者さんの情報を出していないし、薬手帳を出されているのに、受け取ってもいない。
「なんか……ある意味自由でいいなぁ」
ぽつりと呟き、唇を引き締める。
そして、坂上に顔を向けた。
「坂上さん……私、再来月いっぱいでここ、辞めてもいいですか?」
一応、退職は三ヶ月前に辞表を提出することが、決まりという名の一般的な手続きだ。
貯金もある。
薬剤師免許もある。
数ヶ月はなんとか無職でもやっていけるのではないだろうか。リセットして、もう一度新しくやり直したいという気持ちをとうとう口に出してみた。最近ずっと思っていたことだ。
家と職場の往復よりも、違う何かを見つけてみたい気がしている。
李帆の辞める宣言に目を丸くして首を振る坂上に、すみません、と小さく頭を下げた。
「えっ! う、うそでしょー!」
「本気です。明日辞表書いてくるんで」
もう一度、今度は深く頭を下げると、李帆は補充のため薬を取りに行くのに、坂上に背を向けた。
少しは自分にご褒美と自由を与えてもいいと思う。
毎日同じ時間に起きて、毎日軽く料理をした朝ご飯を食べて、時々お弁当を詰めて仕事へ行く。
仕事があることは、大変ありがたいこと。薬剤師になろうと思って実際に資格を取った自分を褒めたいし、大学に行かせるだけのお金を用意してくれた親にも感謝している。
でもやっぱり、少しだけ変化が欲しかった。仕事を辞めたら辞めたで、適当にゴロゴロした生活を送ってしまうかもしれない。それでも、李帆には変化が必要に感じる。
自分のこれからがどうなるとか考えずに、しばらく休養が欲しいと、そう思った。
☆
李帆は本気で辞表を書いて提出したが、却下された。
坂上が泣きそうになりながら、お願いだから辞めないで、と言った。そしてなぜか奥さんも出てきて、何か悩みがあるなら私が聞く、と真剣な表情だった。
『と、とりあえず、まずは二週間休もう! 二週間有休を取るなんてどう? ずっと休んでなかったでしょ? それでなんとか考えてみてくれない?』
代わりのスタッフを誰も雇わず、二週間穴を開けるのも悪いと思って食い下がったが、辞表は受け取ってもらえなかった。
坂上とたくさん話をし、その内容と終わらない話に疲れた李帆は二週間とりあえず有休をもらうことにした。
『いや、二週間とそうだな、明日から休んでいいからね!』
そう言われたのは水曜日だった。木、金、土、日曜日も休みになったことに、さすがに嬉しさを隠せず笑みを浮かべたが、すぐにその笑みを引っ込める。
けれどやっぱり、明日から再来週の日曜まで休みなんて、初めてのことで仕事帰りには変な笑みが隠せなかった。
なので、木曜日は何をしたいか一日かけて考えた。ずっと、寝て過ごすことも考えたが、現実的に飽きそうだ。買い物をするのはどうかとも考えたが、そもそも物欲は強いほうじゃない。やたらに物を増やすのはどうなのかと思ってやめた。
そこで思い出したのは、ずっと行ってみたいと思っていた、ニューヨークへの旅行だった。
二週間の休みをもらったのだからいけると確信した。しかし、パスポートを作る難関がある。海外旅行に行ったこともないため、パスポートがどれくらいで出来上がるのか、よくわかっていなかった。
とりあえず、オンライン申請をしたのだが、出来上がるまで六日もかかるなんて知らなかったので、何も知らない自分にガックリと肩を落としたものだ。
急いで金曜日に申請をしたけれど、土日を挟んだため、出来上がったのは申請日から数えて八日もかかってしまった。
パスポートを待っている間に一人旅ツアーを申し込み、ニューヨークへは五日間行くことになった。日本に帰ってきたら少し休まないと時差ボケするだろうし、帰ってきたあとはゆっくりと過ごしたいため、休む時間が欲しかった。
二週間以上の有休を取ったのに、目的の時間を果たすのは五日間となったためガックリしたけれど、パスポートが出来上がるまでに旅の本を買い、ニューヨークについて勉強した。
ネットでも情報収集をし、どこに行くのか決めたし、バスの乗り方も何度もシミュレーションをした。
アメリカのニューヨークへは直行便もあるが、乗継便を利用すると、もっと格安になる。しかし、初めてで躓(つまず)いてしまったら大変なので、ツアー申し込み時に日本の航空会社の直行便を使うことに決めた。
初めての海外、初めての一人旅なので、添乗員付きツアーも考えたが、そうなるととても割高だった。なので、空港とホテル間の送迎だけ付けることにした。
行きたいところは自分で決める、完全フリーのツアーだ。ドキドキし過ぎて大丈夫だろうかとずっと心配だった。
しかし、こんな気持ちではいけない、と切り替え、飛行機に乗ってからはしっかり機内食もサービスも受け、お酒を一杯ひっかけて、良く寝た。
到着する一~二時間前に、ピカッと電気がついたのに驚いたが、慌てて拭き取りシートで顔を拭いた。軽くメイクすると、ほどなくして朝食が運ばれてきて。
それから朝食を食べてしばらくするととジョン・F・ケネディ空港に着いた。時間はマイナス十三時間なので、到着した日は出発日と同じ日の同じ時間くらい。
大して時差ボケもない気がした。
「なんか……行けるかもしれない」
とりあえず飛行機を降りたら手荷物を受け取り、鍵などが壊れていないかチェックした。大丈夫なのを目で見て確認し、それから出口へと向かう。
そうすると、頼んだ旅行会社のプラカードが見えたため、そちらへ向かった。
「杉崎李帆さんですね、ようこそ、ニューヨークへ」
日本人の送迎で良かった、と思った。そしてようこそニューヨークへ、というその言葉になんとなく感動した。
「はい、ありがとうございます」
笑顔を向けると、プラカードを持った彼もにこりと笑った。
送迎は混載車なので、予約している数人が集まったらホテルへ送ってくれる仕組みらしかった。李帆を含めて六人集まったところで、車に乗り込み、ホテルへ向かう。
途中の街並みは、やはり洗練された都会というか、人が多いというか。
こんなところで車の運転などできないだろう、と思うくらいだった。窓から見る人々は多様で、新鮮だった。あの雑踏にいたら、アジア人である自分の方が目立ちそうだ。
髪の毛の色も目の色もみんな違っていて、なんだか日本人が髪の毛を染める意味が分かった気がする。見ていると可愛くて、素敵だと思った。
「でも、私は黒が好きだからなぁ」
窓を見ながら小さく独り言を言ってみた。誰も聞こえていなかったらしい。李帆以外の観光客たちはカップルばかりで、それぞれ窓の外を見ながら盛り上がっていた。
「あの、お一人で来たんですか?」
しばらくして、そのうちの一人、髪の短い女性から話しかけられた。
「はい、ちょっと……リセット、で」
「そうなんですね……あ、私は新婚旅行なんです」
ふふ、と言った彼女は隣にいる彼を見る。彼もまた笑って、小さく頭を下げた。
結婚とか恋愛とか、今まで興味を持っていなかったけれど、幸せそうな彼らを見ると、なんだかいいなあ、と思ってしまう。
李帆の目には、幸せそうな彼らが眩しく映った。
「お幸せに」
李帆の言葉に、二人は照れたような笑みを浮かべ、ありがとうございます、と言った。
二人は李帆よりも早く目的のホテルに着いて降りていく。車に最後まで乗っていたのは李帆で、目的のレイモンドホテルへやっと着いた。
荷物を下ろしてもらい、フロントへ向かう。そこでスタッフに案内され、メールに添付されているQRコードをかざすと、部屋のカードが出てきた。
このあたりはシミュレーション済みで、スムーズにいった。このレイモンドホテルを選んだのも、英語ができない李帆でも簡単にチェックインできるからだった。
「レイモンドホテルって、東京にもあるんだよね……今度泊まってみようかな……」
レイモンドホテルはイギリス発祥のホテルグループで、ユーロ圏を中心に欧米諸国にあるみたいだが、最近は日本にも進出をした、とガイドブックに書いてあった。
割とリーズナブルながらも綺麗なホテルで、客室の写真を見て気に入ったのだ。それにホテルの朝食も結構良いらしくて、楽しみにしている。
客室へ入ると、やや高層階のため、あたりの景色が見えた。
さすがタイムズスクエア近くで、人通りが多い。
「行きたいところは決めてるんだけど……」
李帆はやっぱり疲れた、とベッドの上に仰向けになる。目を閉じると、睡魔が襲ってきて普通に意識を失いそうになり、カッと目を開ける。
「いやいや待って……ここには今日合わせて正味三日くらいしかいないんだから。のんびり寝てらんない!」
李帆はガバッと起き上がると、メイクのヨレを軽く直し、ボディバッグの中にメモを書き散らした小さなノートを入れた。
「今日は、自由の女神を見に行く!」
自分に言い聞かせるように決心して、ホテルの部屋を出た。
そして深呼吸して、エレベーターに乗って一階へ。ホテルから一歩出ると、目の前に広がるのは別世界だった。大通りから少し離れた場所にあるホテル前の道でも、かなり人が多かった。
何度もシミュレーションした道を歩き、大通りに出てタクシーを拾ってそれから……、と頭の中で考える。考えながらも歩いて、いざ大通りに出ると、さらなる人の多さに圧倒された。
もちろん、李帆だって東京に住んでいるのだから、人の多さには慣れている。けれど、なんだかパフォーマーっぽい人もいるし、ご飯を路上で食べてる人もいるし、しかもここは日本語が通じない場所だ。
「私はなんでニューヨークに来てみたかったんだっけ? えっと、どうしよう?」
自由の女神は必ず見てみたかったし、メトロポリタンミュージアムにも行ってみたいと思った。今は911メモリアルというのもあるので、見て知っておきたいと思っている。
それに、アンティークのお店もあると聞いたことがあるので行ってみたい。何より一度だけでいいからティファニーの本店へ行って、アクセサリーを一つ買ってみたいという気持ちもあった。
だが、ボヤボヤしてたら悪い人に声をかけられたりするかもしれない。そういう恐怖心も出てきてしまった。いくらシミュレーションしたとはいえ、初めての一人旅、初めての海外なのだ。
「急激に不安に駆られる……私ってば、ほぼアパートから学校や職場の往復くらいしかしてなかったから、いきなりこういう日本語も通じない場所って、大丈夫だっけ……?」
特段遊びもしなかったので、一気に弾けてニューヨークはやりすぎだっただろうか。国内で、少し遠い場所の温泉でまったりした方が落ち着いたかもしれない。
「とりあえず……一回戻って、やっぱり寝よう……」
我に返って考えると、目がなんだか疲れている気がした。今日は自由の女神を午後にして、と踵(きびす)を返す。だがよく前を見ていなかったので、人と思いっきりぶつかってしまった。
「わっ……!」
ぶつかった拍子にバランスを崩し、尻もちをついた。ちょっとだけ開いていたボディバッグから何かが飛び出し、手にしていたノートも落としてしまう。
落ちたのはスマホだったが、無事なようだった。
膝をついてノートとスマホを拾っていると、上から男の人の声が降ってくる。
「Sorry! are you okay?」
「あ、はい、大丈夫です。ぶつかってごめんなさ……」
李帆は大丈夫? と英語で言われたのがわかったが、とっさに日本語で返してしまった。ここはニューヨークなのに、と眉を下げながらぶつかった相手の顔を見上げると、とてつもなく美しい顔が目の前にあった。