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御曹司に恩返しを強要されています 執着王子と子作り契約結婚 3

第三話

「今ならまだ……治療は間に合いますよね……っ?」
「できるだけ早い方がいい」
 はっきり『大丈夫』だと明言してくれない要は、ある意味誠実なのかもしれない。
 この場限りの嘘は吐かず、真摯に春乃へ向き合ってくれていた。
「は、母が入院しているのは、どこの病院ですか? 私、すぐに行きます。……ぁ、会社にも連絡しないと……」
 おそらく明日は出社できない。数日間は欠勤になる恐れもあった。
 仮に出勤しても、心ここにあらずで使い物にならないに決まっている。
 春乃は鞄から携帯電話を取り出したが、戦慄く手では掴み損ね、端末は指先から滑り床に落ちた。
「あ……っ」
 思った以上に動揺している。
 堪えきれず両目から涙が溢れた。
「ご、ごめんなさ……っ」
「何を謝る必要がある? ショックを受けて当然だ。職場への連絡は道中でも大丈夫だから、まずは落ち着いて」
 止まる気配のない涙のせいで視界が滲み、嗚咽を抑えるのに必死だった春乃は、自分が彼に抱き寄せられたことにしばらく気づかなかった。
 ふわりと要の香りに包まれる。
 思いの外広い胸板はがっしりとしていて、スーツ越しにも、逞しさが窺えた。
 後頭部に添えられた彼の指先が春乃の髪を梳いてくれ、優しく頭を撫でられる。
 背中を摩ってくれる手も温かい。
 耳に吹きかかる吐息も。低く「泣いていい」と囁く声も。温もりが心地いい。
 何もかもが自分に安心感を与えてくれた。
「ふ……っ、ぅ」
 尚更涙が止まらなくなったのは、当然の成り行き。
 春乃は夢中で要の背中に腕を回し、彼の胸に顔を埋めた。
「……っぅ、う……っ」
 人前で泣いたのは、随分久し振りだ。
 大人になってからは初めてかもしれない。感情的に振る舞って、他者に面倒だと思われたくなかった。
 特に要には一番迷惑をかけたくなくて、絶対にしないと秘かに決めていたのに。
 けれど今は、傍にいてくれたのが彼で、心底よかったと感じている。
 他の誰かであれば、それがどれだけ親しい友人だったとしても、春乃はこんな風に思い切り嘆くなんてできなかった。
 冷静な振りをして、本当は混乱したまま気丈でなくてはならないと、己を叱咤したに決まっている。
 傷つき不安塗れの心を殴りつけてでも。
 自分のせいで母が悪く言われるのを避けたくて、平気な振りが癖になっている。そうしなくてはならないと、無意識に心を縛っていた。
 だが無理にごまかしたところで、心が負った傷は消えてなくなることがない。
 精々かさぶたになるだけ。その下では膿み、悪化しているとしても、見て見ぬ振りをするのに慣れるしかない。
「っく、ぅう……っ」
「……僕がいるよ。春乃が落ち着くまで、ずっとこうしている。我慢しなくていい」
 甘やかす言葉に促され、思い切り泣いた。そうすることで、多少は気持ちの整理がついたのか、次第に春乃は平静を取り戻す。
 無理やり頭を切り替えようとするよりも早く、心も呼吸も凪いだものへ変わっていった。
 時間にすれば、十分程度。
 それでも体中の水分が溢れてしまうくらい泣いた両目は充血し、瞼は腫れぼったくなってしまった。
 その間、要が宣言通り春乃を抱きしめ、慰め続けてくれたのがありがたい。
 嗚咽が止まった後も春乃は、どこか茫洋としたまま彼に身を預けていた。
「……す、すみません……いい年をして……」
「大事な人が病気になれば、年齢なんて関係ない。目が痛々しいな……少し冷やそう」
 身体を起こした春乃の目元を、彼の指先がそっと撫でた。あまりにも繊細な手つきに戸惑って、反応が一瞬遅れる。
 その隙にキッチンへ向かった要は、冷凍庫から取り出した保冷剤をタオルで包み、こちらへ戻ってきた。
「これを」
「あ、ありがとうございます。ぇ、自分で――」
「いいから」
 てっきりタオルを手渡されると思ったのに、彼は自らそれを持ったまま春乃の瞼へ当ててきた。
 しかも背後から。
 つまり背中側から抱きしめられているのに似た距離感に、どうすればいいのか分からなくなる。
 結構ですと立ち上がるのは、あまりにも冷淡。
 さりとてこのままじっとしているのも正解ではないと思え、春乃は閉じた瞼の下で忙しく視線を揺らした。
「あの……本当に平気です……」
「僕が平気じゃない。それより、今から病院へ向かうつもりだが、出られるか?」
「は、はい。すぐに準備します。……あ、でも面会時間はとっくに終わっているんじゃ……」
 神宮寺家が懇意にしている病院なら、おそらく都内にあるだろう。
 仮にこれから出発すれば、到着はかなり遅い時間になる。場合によっては、零時を越える可能性もあった。
「個室を用意させたし、融通は利くから問題ない」
「個室……」
 入院・手術となれば、当然先立つものが必要になる。母の病を知ったばかりでそこまで思い至らなかったが、春乃はハッとした。
 自分の貯金額はさほど多くなく、母も同様に違いない。保険である程度補填できるとしても、個室料金を賄えるとはとても思えなかったのだ。
「あ、あの……大部屋は、空いていなかったのでしょうか」
 勿論、母のためにいい環境を整えてやりたい気持ちはある。しかし長い目で見れば、無理は禁物だった。
 ――私が支払える金額ならいいけれど、神宮寺家と付き合いのある病院なら、きっと安くはないわ……
 病院はボランティア団体ではない。
 残念ながら、完全なる平等はあり得ない。
 幸いこの国は最低限の医療は保証されていても、プラスαとなれば、対価が必要なのが事実だった。
 つまり長期入院も考えられる中での個室代金は、春乃の財政状況で、かなりの負担になる。
 きっと要は、特に疑問もなく春乃の母親を個室へ入院させることを要求したのだろう。
 そういう世界に住んでいる人だから。
 彼にとってはそれが常識なのだ。だが、自分は違う。
 その差を自ら口にするのは惨めな気持ちになったものの、弱気なことは言っていられない。
 春乃は強く手を握りしめ、意を決した。
「要さんのお気持ちはありがたいのですが、私には高額な医療費を支払いきれません。ですから大部屋に……」
「心配しなくても、僕が全部負担する。先ほども言ったが、おばさんは家族と同じだ」
「で、でも……っ、実際には他人ですし、そこまで甘えられません」
 春乃が『他人』と口にした瞬間、心なしか瞼に当てられているタオルがピクッと動いた気がした。
 けれど変化はそれだけ。
 視界が塞がれたのも同然の状態で、春乃は背後にいる彼を振り返ろうとした。
「……要さん……?」
「……これまで君たち母娘が僕にしてくれたことを思えば、安いものだ」
「安くありませんよ!」
 身じろぎは、彼がさりげなく体勢を変えたことで封じられた。
 気のせいでないのなら、抱きしめられている気がする。
 男の両腕が春乃の前へ回り込み、迂闊に動けない。重心を後ろに預けるよう軽く引かれ、春乃は自然と要の胸板に寄り掛かる形になった。
「え……」
「とにかく治療費の件は気にしなくていい」
「そ、そういうわけには……」
「どうしても気になるなら、別の方法を考える」
 分割払いなどにしてもらえるのか。それなら、ありがたい。
 春乃としても、母が最高の治療を受けられることを望んでいた。
「――詳しいことは道中で説明する。車を待たせているから、出発できるか?」
「車でいらしたんですね……ご、五分いただけますか? 大急ぎで荷物を纏めますので」
「分かった。五分後にアパートの前に来るよう電話しておく」
 つまり運転手は別にいるのか。それもたぶん、専属の。
 色々な意味で、『やはり住む世界が違うな』と感じ、僅かに胸が痛んだ。
 しかしそんな疼きからは目を逸らし、春乃は手早く荷物を用意した。
 数日泊まり込みになることも考え、小さなキャリーバッグに着替えなどを詰める。
 丁度五分経過した頃、要の携帯電話が鳴った。
「到着したみたいだ。出られる? 荷物はこれだけ?」
「はい。……ぁ、自分で持ちます」
「いいから。ガスの元栓は閉めた?」
「あ……!」
 毎朝必ず閉める上に、今日はまだそのままなので、確かめるまでもなくガスの元栓は閉じられている。だが改めて問われると急に心配になってきた。
 反射的に春乃はキッチンへ向かい、一通り確認して戻ってくると、既に彼は荷物を詰めた鞄を手にして玄関に立っていた。
「行くよ」
「あ……っ」
 口を挟む余地はなく、要に先導される形で春乃は外に出る。
 外廊下から階下を見れば、高級車と思しき車がアパート前に停まっていた。
 しかもスーツ姿に白い手袋をした、如何にもな運転手の男性が姿勢よく車の脇に立っているではないか。
 これではああだこうだと押し問答するのも躊躇われ、要から荷物を取り返し損ねた。
 結局、春乃の鞄はそのまま要が運んでくれ、速やかに車に乗り込むことになる。
 後部座席に二人並んで。広い車内で狭さは感じなくても、彼に近い左肩が焦げ付きそうで落ち着かない。
 意識の大半が隣の男に奪われている。
 今考えるべきは母のことだと分かっているのに、春乃の頭を占めるのは、要の存在ばかりだった。
 それが申し訳なくもあり、もどかしくもあり、余計に心拍数は上がってゆく。
 春乃の指先が震えたのは秘密だ。シートベルトを装着すると、音もなく車は走りだし、車内には束の間の沈黙が落ちた。
 都内まで行くのなら、最低でも三時間はかかる。渋滞に嵌れば、日付を跨いでも不思議はなかった。
 その間この空気が続くのかと思うと、流石に気は重くなる。
 しかも考えてみたら、夕食を取っていない。春乃は空腹を感じていなかったものの、要も同じとは言い切れなかった。
 ――たぶん、要さんも食べていないよね。どうしよう……私から何か言った方がいいのかな……
 バタバタと車に同乗してしまったが、遅ればせながら別行動した方がよかったかもしれないと思い始めた。
 この時間ならまだ電車は走っている。
 勢いに押されてつい要の送迎車に乗せてもらったけれど、立場上遠慮するのが筋だったのでは。
 そんなモヤモヤを春乃が持て余していると、不意に隣から声がかけられた。
「夕食を食べていないんじゃないか。空腹なら、これを」
「え」
 眼前に差し出されたのは、紙袋。中を覗けばクロワッサンにハムやチーズ、レタスなどを挟んだサンドウィッチが入っていた。
 おそらくどこかのテイクアウトだ。
 安っぽさのないボックスには、他にピクルスやキャロットラペ、ジャーマンポテトなどが添えられていた。
「スープとコーヒーもある。軽いものの方がいいと思って用意した。他に食べたいものがあれば、言ってくれ」
「い、いいえ……わざわざありがとうございます」
 ――私のために買っておいてくれたの?
 さりげなく袋を見れば、春乃でも耳にしたことがある有名なレストランの名前が印字されている。
 しかし当該の店が、サンドウィッチなんてカジュアルなものを提供するとは思えなかった。
 ――特別に作ってもらったのかな……
 神宮寺家の一人息子にして後継者の要ならばあり得る。
 相手側も可能な限り便宜を図ってくれるに違いない。
 十中八九――いや、百パーセント無理を聞いてもらったのだ。
「あ、あの……お気遣いありがとうございます。ですが要さんも夕食はまだなんじゃありませんか?」
「気にしなくていい。昼が遅かったから平気だ」
 その言葉が真実なら、まさに春乃のためだけにこのサンドウィッチは用意されたことになる。
 きっと母の件を知れば、食事する時間も食欲もなくなると事前に考え、軽食を準備してくれたのだ。
 ――要さんらしい、気遣いに溢れた優しさだ……
 常に先を読んで対策を練る、彼の気持ちが嬉しい。昔から変わらない、さりげない心配りに春乃の涙腺が緩んだ。
 掴んだ紙袋がガサリと鳴る。
 溢れそうになる涙は、車窓の向こうへ視線をやることでごまかした。
 ――こんな風にされるから、いつまで経っても心の整理がつけられないんだ……諦めなくちゃ駄目なのに……
 一年以上の空白は易々と埋められてしまった。
 鮮やかな恋心が再燃する。
 忘れなくてはいけない恋なのに、そうさせてくれない要が少しだけ恨めしい。
 しかし恨み言を述べるのはお門違いだとも分かっていた。
「……コーヒーをいただきますね」
 心底気遣いはありがたいものの、現実問題食欲は皆無だった。
 無理に胃へ詰め込めば、気分が悪くなってしまう予感がある。
 せめて飲み物だけでもと思い、春乃は冷めてしまったコーヒーに口をつけた。
「……母の容体はかなり悪いのですか?」
「病状の割には、元気だ。少し痩せてしまったが、言われなければ病気とは思わないかもしれない。――すまない。僕がもっとおばさんを気にかけて、早く病院へ連れて行くべきだった」
「要さんは何も悪くありません」
 責められるべきは、むしろ春乃だ。
 娘なのに、離れて暮らす母の変化に全く無頓着だった。
 もっと頻繁に会っていたら。もしくは前回帰った際に、異変を察していたなら。悪化する前に通院を勧められたし、緊急の入院や手術が必要な事態にはならなかったかもしれない。
 己の至らなさが歯がゆくて、自己嫌悪が込み上げた。
 車窓を夜の景色が流れてゆく。
 また泣きそうになり、春乃は気を紛らわせるため別の話題を探した。
「……先ほどの話ですが、母の治療に関してかかる費用は、必ずお返しします。ですから、大変申し訳ありませんが、立て替えていただけますか?」
 逆立ちしても、今すぐに纏まった金額を用意するのは難しい。
 どちらにしても借金しなくてはならないなら、業者よりも彼に頼んだ方が返済や利息などの便宜を図ってもらえると思った。
 ――お母さんも、自分のために私が負債を背負ったと知ったら、きっと気にする。少しでも気掛かりは減らしてあげたい。治療費のことは考えなくていいと伝えたら、安心してくれるよね……
「――その話なら、僕がどうにかする――と言いたいが、春乃は納得しそうにないな」
「当たり前です。何年かかっても、お返ししますから……」
「今の仕事の給与では、現実問題難しいんじゃないか? それにおばさんの傍にいたいだろう?」
「……っ」
 図星のあまり、言葉に詰まった。
 正直、春乃の収入は高くない。副業してもたかが知れていた。しかも目一杯働くとなれば、当然母に付きっきりとはいかなくなる。
 その事実を指摘され、反論が見つからなかったのだ。
 仮に母が無事退院できたとしても、すぐに以前と同じ日常には戻れないはず。
 となると春乃が母の身の回りの世話をしつつ、大人二人分の生活費を稼がなくてはならなくなる。
 ――勿論、お母さんは神宮寺の家政婦を辞めるしかない。その場合、住むところも探さなくちゃ……
 現実の厳しさが、一気に自覚できた。
 ――本当に可能なの? ううん。できるかどうかじゃない。やるしかない。
 想像の域を出ないのに、重くのしかかる重圧で押し潰されてしまいそうだ。
 それでも弱音を吐いている暇はない。春乃は己を奮い立たせて、深呼吸した。
「大丈夫です。最悪、もっと効率的に稼げる職種へ転職します」
 いざとなれば、夜の仕事も厭わない。
 酒は飲めないし、異性と気軽に喋れる性格ではなく、そういった経験は皆無であっても、母のためなら頑張れる。
 膝の上で握りしめた春乃の拳は、小刻みに震えていた。
「……だったら、僕が春乃を雇う」
「ぇ……っ」
 驚いたのは、要の想定外の台詞だけが理由ではなかった。
 そっと重ねられた手。
 春乃の拳の上に乗せられた彼の手が温かい。
 その温もりと重みに動揺したためだ。
「や、雇う?」
「ああ。おばさんの傍にいられて、かつ充分な報酬を得られる方法がある」
 そんな夢のような選択肢が存在するのか。
 半信半疑ながらあまりにも魅力的な話に、春乃はつい要を凝視した。
「今の仕事は辞めて、引っ越ししてもらうことにはなるが」
「……っ、か、構いません。でも私にできる仕事がありますか?」
 しかも好待遇で。
 どんなきつい仕事であっても引き受けるつもりで、身を乗り出す。
 たとえその結果、今より燻る恋心で苦しむことになったとしても、春乃は甘んじて受け入れる心積もりだった。
「何でもします」
「……本当に?」
 迷いなく、頷く。誇張も嘘もなく、心の底からの本心だ。
 違法な行為でない限り本気でどんなこともする気で、真摯に彼の瞳を見つめ続けた。
 視線が絡み、数秒。
 車内を重苦しい静寂が支配する。
 不意に、要の双眸が色を変えた気がするのは見間違いか。
 仄かに細められた瞳は、これまで見たことのない眼差しだった。
「……分かった。それなら――……君が僕の子どもを産んでくれ」
 静まり返った車内で、思いの外彼の声は明瞭に響いた。
 それなのに、まるで意味が分からない。唖然としたまま、春乃は瞬いた。
 ――今、おかしな言葉が聞こえた気がする。お母さんの件で、冷静じゃないせい……?
 そうとでも考えないと、意味が通らない。
 あり得ない事態に、己の許容値が溢れてしまったらしい。だから馬鹿げた聞き間違いをしてしまったのだと、結論付けた。
「あ、あの……もう一度おっしゃっていただけますか? 私、上手く聞き取れなかったみたいで……」
「――かつてした約束を今果たしてほしい。……春乃は昔、『何でもする』と言ってくれたよね? 覚えている?」
 要が何の話をしているのかは、すぐに分かった。
 小学校時代、虐めに遭っていた春乃を彼が助けてくれ、その際告げたことについて言っているのだ。
 けれどあれは子どもの口約束。
 勿論、感謝の気持ちに嘘はなく、あの時は本気で何でもするつもりだった。
 それは今も変わらない。
 彼が望むなら、大抵のことは厭わないと断言できた。
 それこそ犯罪絡み以外なら、春乃は喜んで身を粉にして働く所存だ。精神的、肉体的にきつくても問題ない。
 しかし想定していた『何でも』の中に、要が要求した内容は含まれていなかった。
 ――子ども? 子どもって赤ちゃんのことだよね? 要さんの子を……産む? 私が?
 追い付かない理解力が空回りしている。
 いくら言われた意味を噛み砕こうとしても、どうにも不可解過ぎた。
 いっそ、今日のことが丸ごと悪い冗談や悪夢であったらよかったのに。
 質の悪いドッキリでもいい。
 全部嘘でしたと、誰かがネタばらしするのではないかと視線を左右に泳がせたが、残念ながらそんな気配は微塵もない。
 真剣な彼の様子は、春乃の淡い期待をものの見事に打ち砕いた。
「――僕が春乃に対する嫌がらせを解決した後、君は確かに言った。……忘れてしまったのか?」
「……ぇっ、い、いいえっ……ちゃんと覚えています」
「忘れられていなくて安心した。それなら――今こそ果たしてくれ。君に僕の子どもを産んでほしい」
 改めて懇願され、最早幻聴とは思い込めなかった。
 そんな逃げ道を許してくれない空気に、搦め捕られる。
 呼吸を忘れ、瞬きも許されない。
 ただひたすら、春乃は要の双眸の奥に真意を探した。
 か細い希望であっても、『冗談だ』と笑ってくれるのではないかと。
 だがいつまで待っても綻ぶことがない彼の唇は、引き結ばれたまま。強い決意を感じさせる様子に、春乃の全身が戦慄いた。
 ――約束……確かに私が言った。でも……いくら何だって頷けない……
 セフレになれと命じられたら、傷つきつつも春乃は引き受けた。
けれど『子ども』を求められているなら、自分だけの問題ではない。命であり、責任が発生する。
 人の人生を変えてしまう要求を軽々しく呑めるわけがなかった。
 何より、その程度のことが理解できない要ではないはずだ。ならば他に目的があるのではないかと思い直した。

 


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