御曹司に恩返しを強要されています 執着王子と子作り契約結婚 1
第一話
「君が僕の子どもを産んでくれ」
一瞬、時間が止まったのかと思った。
耳にした台詞は簡潔で、誤解を挟む余地もない。聞き間違えようもなく、シンプルなものだ。
しかしだからこそ、空耳を疑ってしまった。
彼がそんなことを口にするはずがないという、思いも相まって。
「あ、あの……もう一度おっしゃっていただけますか? 私、上手く聞き取れなかったみたいで……」
口元を引き攣らせた鈴城春乃(すずしろはるの)が無理に笑うと、彼――神宮寺要(じんぐうじかなめ)は表情を変えることなくこちらを凝視してきた。
その眼差しの強さに怯みそうになる。
普段は柔和な空気を漂わせている彼が真剣な面持ちになると、急に圧が増した。
この表情には見覚えがある。
十七年前、まだ九歳だった春乃を守るため、要が見せた顔と同じものだった。
あの時も彼は微笑みを消し剣呑さを宿した双眸で、毅然とし春乃を背に庇ってくれた。
九歳の少年の背中は小さく華奢で、あまり性別の違いも現れていない頃だ。
それでも普段声を荒らげることのない要が春乃のために怒ってくれているのだと思えば、途轍もない安心感と頼り甲斐を覚えた。
子どもらしからぬ利口さと冷静さを併せ持つ彼が、不快感を露わにしたのも驚き。
常に穏やかな優等生であり、特に女子に親切だった要が見せた憤怒の様子に、春乃を取り囲んでいた者たちが怯んだのは当然だった。
当時の気持ちが春乃の中で鮮やかによみがえる。
ただしあの時と違うのは、鋭い視線の矛先が春乃を虐めていた同級生ではなく、自分自身に向いていることだ。
まっすぐ突き刺さる真剣な眼差し。
目を逸らすこともできやしない。呼吸すら滞り、春乃は無意識に喉を震わせた。
「――かつてした約束を今果たしてほしい。……春乃は昔、『何でもする』と言ってくれたよね? 覚えている?」
勿論、忘れてなどいない。
忘れられるはずがない。
小学三年生だった当時、父親がおらず裕福とは言えない春乃は、学校内で明らかに異分子だった。
というのも、その小学校は都内の富裕層が子息を通わせることで有名で、言わばセレブ御用達だったためだ。
私立であり、授業料や制服、その他諸々に金がかかる。寄付金も強制ではないが、暗黙の了解で莫大な金額が必要。
他にも、親の付き合いや習い事、特別なカリキュラムに校外学習。
一般的な家庭には、到底費用を賄えない。
そんな学校に何故春乃が入学できたのかと言えば、母親が神宮寺家の住み込み家政婦だからである。
本来ならば、近隣の公立小学校へ通えばいい。言わずもがな、春乃も母もそのつもりだった。
けれど神宮寺の主夫妻、及び息子である要の強い希望によって、春乃は彼と同じ学校へ通うこととなったのだ。
恥ずかしながら、かかる経費の全ては神宮寺の家が負担してくれることとなった。代わりに求められたのが、要の身の回りの世話を焼くこと。
とは言え、幼い子どもにできることなんてたかが知れている。
実際のところは、『いつも一緒にいる友人』でしかなかった。登下校中は勿論、授業中何らかのグループを作る場合、そして放課後も。
だが、それこそが同級生たちには面白くなかったようだ。
旧家のお嬢様や大会社経営者の子息にしてみれば、確実に『住む世界が違う』春乃が奇異に思えたに決まっている。
しかも毛色が違う羊が、富裕層が集まる学校内でも特に目立つ、神宮寺家の坊ちゃんに張り付いているとなれば、幼心にも嫉妬心が抑えられなくても不思議ではなかった。
要は家柄の良さだけでなく、容姿がずば抜けて整っており、生まれて間もなくから『天使』と讃えられた。
印象的な黒目に、繊細な唇。きめ細やかで白い肌。
少女と見間違われたことは一度や二度ではない。
知性を宿した瞳は大人をたじろがせるほどでありつつも、子どもらしい愛らしさを兼ね備えている。
更に聡明で性格がいいとなれば、老若男女問わず魅了された。
神宮寺家は政治家や医師、弁護士などを多数輩出している名家なので、保護者たちも是非お近づきになりたいと目論むのが、自然な成り行き。
彼はどこにいても場の中心になるタイプだった。
そんな要の隣に、異質なオマケが四六時中引っ付いているのである。
小学校入学当初はまだ幼くて、己の心情がよく理解できなかった少女たちも、いずれは気が付く。
これが、『嫉妬』なのだと。
女児の成長は早く、九歳にもなれば色恋に興味も出てくる。はっきり恋愛感情が分からずとも、『羨ましい』を『狡い』と置き換えるくらいはしてしまうものだ。
結果、小学校三年生になった頃から、春乃への嫌がらせは始まっていた。
初めはちょっとした無視程度。そこから私物を隠されたり、偶然を装ってぶつかられたりするようになった。
さりとて、元からクラスに馴染んでいたとは言えない身だ。
だが、気のせいかなと深刻に考えないよう春乃が努めている間に事態は悪化し、やがて教科書や体操服を破られるなどの被害が起こった。
正直なところ、これが一番の痛手である。
何せそれらを買い揃えてくれたのは、全て神宮寺家。
母も文房具くらいは用意しますと言ったのだが、この学校は全てが指定されており、しかもかなり高額だった。
母が賄うのは現実的ではなく、最終的に『春乃ちゃんに息子と同じ学校へ通ってほしいとうちが懇願したのだから、我が家がかかる費用を出すのが当たり前だ』と告げられ、甘えた形だ。
それ故、春乃はボロボロに破られた教科書などを前に打ちひしがれるより他になかった。
母親や神宮寺夫妻に迷惑をかけてしまうことが、心苦しくて。
クラスメイトに意地悪をされていること自体は、たいして気にならない。
そもそも常に要の傍にいて、友人と呼べる女子もいなかった。
だから考えるのは、壊されてしまったものをどうごまかし、どうやれば少しでも修繕できるかだけ。
懸命に隠し、自力で解決しようと足掻いたのだが――現実問題、どうにかなる話ではなかった。
段々陰湿さを増す女生徒たちは、最後の一線を越えたのかもしれない。つまり、春乃を呼び出して、直接的な罵倒と暴力を加えようとした。
それが要の逆鱗に触れたのだと思う。
とても優しく、誰に対しても公平な人だから、理不尽な行いを見過ごせなかったのではないか。
駆けつけてくれた彼は、まさに王子様の如く春乃を助け出し、彼女らに冷ややかな警告を発した。
要が激昂した姿など目にしたことがない少女たちは、さぞや驚いたことだろう。
それは春乃とて例外ではなかった。
――あの時と、同じ。
真剣で苛立ちを滲ませた瞳。
普段の温厚さは、微塵もない。
下手な言い訳や嘘は決して許されないと伝わってきた。
かつての春乃は、直接彼と視線が絡んだのでもないにも拘らず、数秒呼吸ができなくなったほど。気圧され、秘かに震えが止まらなかった。
まして今は、その圧を帯びた視線が、真正面から自分にのみ注がれているのだ。これで、平然としていられるわけがない。
何も言葉を返せない。
瞬きもできず、固まるだけ。
そのままどれだけ時間が経ったのか。
おそらくさほど長いものではなかった。けれど永遠にも感じられる沈黙に押し潰されそうになった時。
「――僕が春乃に対する嫌がらせを解決した後、君は確かに言った。……忘れてしまったのか?」
「……ぇっ、い、いいえっ……ちゃんと覚えています」
颯爽と自分を窮地から救い出してくれた要は、さながら王子様だった。
感謝と申し訳なさが入り交じり、涙が止まらずに困ったのを、なかったことにする気はない。
慌てた様子で双眸を揺らし、『僕のせいでごめん』と言った彼に焦って、春乃は首を左右に振った。
絶対に要のせいではない。そんな風に思わないでほしい。
むしろ迷惑をかけてすみません。
そういう謝罪を告げたかったのに、上手く声にならず泣き続けた。彼はその間、情けない春乃の頭を撫で、ずっと慰めてくれたのに。
結局あの時、しゃくりあげながら口にした約束は『いつか必ず恩返しをします。何でも言ってください。どんなことでもします』だ。
僅か十にも満たない子どもに交わせる、精一杯の約束。
実現性はともかくも、気持ちの上では偽らざる誓いだった。
ただし当時の要は『大丈夫、これから先も僕が春乃を守ってあげる』と微笑んだだけだったが。
だから自分の約束は、宙ぶらりんになってしまったと思っていたのに――
「忘れられていなくて安心した。それなら――今こそ果たしてくれ。君に僕の子どもを産んでほしい」
今度は空耳かと疑う余地もなく、明瞭に言葉が響いた。
数秒の静寂。
言い訳や逃げ道を全てなくす勢いの眼差しに射抜かれ、春乃は愕然としいつまでも動けなかった。