憧れの旦那様は私専属ストーカー!? イケメン御曹司の重すぎる求愛 1
第一話
「ああ~……っ! もう、一人暮らし最高っ!」
ある木曜日、私は1Kの部屋で自分で作った夜ご飯のカレーを食べ、桃の缶酎ハイをグビグビ飲んで、やや大きめの独り言を呟く。
一人暮らしを始めたばかりでテンションが上がっているわけじゃない。大学入学と同時にこの部屋に住み始めたので、もう八年目を迎えている。
八年間、ずーっと言い続けていた。だって一人暮らしって本当に最高!
私の名前は平岡五十鈴(ひらおかいすず)、今年の七月で二十五歳になる。
私は大学に進学するまで、ずっと北海道の田舎町に住んでいた。
自然に囲まれて、のんびり暮らしたい……と言って、都会から田舎に移住する人もいるらしいけど、私は絶対に戻りたくない。
私の生まれた町は人口がとても少なくて、みんな顔見知り。近所の人たちとは家族のような距離感で暮らしていた。
玄関ドアの鍵をかける習慣がないので、知り合いはインターフォンを鳴らさずに普通に家に入ってくる。
地元以外の人にその話をすると、「温かい人間関係でいいね。みんなが家族なんて素敵!」という反応が返ってくるけど、そんないいものじゃない。
町での暮らしはプライバシーなんてどこにもない。知られたくなかったことも、次の日には近所中に知れ渡っているのが日常だ。
そんな暮らしがとても息苦しくて、ずっと地元から出たいと思っていた。
なので私は必死に勉強を頑張って、両親に東京の大学に行きたい、卒業したら東京で就職したいとお願いした。
両親が出した条件は、東京では恋愛しないこと。勉学と仕事を頑張って、遊ばないこと。そして二十五歳になったら、必ずこちらに帰ってきて、父の決めた人と結婚すること――それが守れないのなら、上京は認めないと言われた。
ちなみに父の決めた人とは、私の大嫌いな同級生で不動産屋の息子の中島大弦(なかじまたつる)だ。中島家は開拓時からいる家系でかなり権力があり、お金持ちだ。
うちの先祖が中島家に色々とお世話になったそうで、今でも頭が上がらない。というか、中島家に逆らえる人は町の中にほとんどいなかった。
大弦のお父さんが生まれたての私を見にきた時、私はおじさんに笑いかけたそうだ。
たったそれだけのことでとても気に入られてしまい、将来自分の息子の大弦と私を結婚させようと言い出したらしい。
父は喜んで「うちの娘なんかでよければ、どうか貰ってやってください!」なんて言ったのだという。ふざけないでよ!
中島家と揉めると村八分にされるので、みんな媚びへつらうことはあっても逆らうことはしない。
大弦もそれをわかっていて、同級生の子分を作って悪さばかりしていた。
誰かを虐めて怪我をさせても、大弦が怒られることは一度もなかった。
私も子供の頃は叩かれたり、蹴られたり、「ブス」や「キモい」と暴言を吐かれたり、虫を持って追いかけ回されたりしたものだ。
中学校に上がってから暴力はなくなったけど、暴言は継続……そして意地悪は陰湿なものとなって、靴を隠されたり、机の上に仏花を飾られたり、机に油性ペンで落書きされたりする虐めを受けた。
私を庇えば今度は自分がターゲットになるからと人が離れて行って、私は孤立するようになった。
大弦の目が届かない時は話しかけてくる子もいて、私も普通に話していたけれど、「普段はあいつが怖くて避けてるくせに……」と心の中では恨んでいた。
でも、話しかけられたことにホッとしている気持ちもあって、そんな自分が惨めに感じて仕方がなかった。
大弦に意地悪をされている。何とかして欲しいと両親に何度もお願いした。
でも、「中島家には逆らえるわけがない」「お前が大げさに言っているだけなんじゃないか?」と言うばかりで、ちっとも取り合ってくれない。
しまいには「お前が大弦くんの気に障ることをしたんじゃないか?」と実の娘よりも、権力者の息子を庇う発言しか返ってこなくなった。
学校に行きたくないと言えば、不登校だなんて近所の噂になるからだめだと、無理やり登校させられ、やがて私は反抗することをやめてしまった。
地元も、実家も大嫌い……!
大弦なんかと結婚したくない。でも、このまま地元に留まっていても結果は同じ。あいつと結婚させられる。
どっちにしろ同じ未来しか待っていないのなら、少しでも自由な時間が欲しい。私はその条件を受け入れ、上京したのだった。
都会での暮らしは、とても快適だった。
地元と違って、誰も私のことになんて興味がない。隣近所に誰が住んでいるかわからないし、幼稚で陰険な虐めをする人間もいない。
最高すぎる~~……!
上京した私は、あまりの快適な生活に衝撃を受け、素晴らしい毎日を送っていた。
でも、私はもうすぐ二十五歳になってしまう。お父さんからは「わかっているだろうな?」と毎週のように連絡が来ている。
「うう、やだ……戻りたくない」
大好きだったお菓子メーカー『天賀谷製菓(あまがやせいか)』に入社して三年目、毎日が楽しいのに辞めて大弦なんかと結婚したくない!
どうやったら、帰らなくて済む? 逃げる? でも、どうやって?
この八年の間、私は親から逃げる手段を自分なりに探し、調べていた。
この家の連帯保証人と会社に入る時の身元保証人は、お父さんだ。
住所がバレてるから、保証人不要の物件か、保証人代行システムを使って引っ越して、住民票をロックすれば新しい住所が知られることはない。
でも、住所がわからないとなれば会社に連絡がいく。お父さんのことだ。私を困らせるために、何度もしつこく連絡するだろう。そうなれば、会社に居づらくなってしまう。
転職はしたくない。この会社が大好きだから。
就職する前に行動すべきだった。大学を中退して、身元保証人がいらない職についてお金を貯めて逃げていたら、もっと違う未来があったのかもしれない。
もっと早くに気付けていたら……。
大学時代はマンションの初期費用と学費は両親が出してくれたけど、生活費は自分で稼ぐように言われてたから、バイトに必死でそこまで考える余裕がなかった。
……ううん、言い訳にしかならないよね。余裕がなくても、考えないといけなかったんだよ。私の馬鹿。
何もかもを諦めれば逃げられるかもしれない。でも……。
「あー……もう、どうして私、あんな町に生まれちゃったんだろう」
私は冷蔵庫から缶酎ハイをもう一本出し、蓋を開けて、グッと喉に流し込む。
こんなのもう、飲まないとやってらんない!
第一章 結婚してくれるって言ったよね?
「えっ! 勿体ないよ~! 親の言うことなんてぇ、聞くことないってぇ!」
翌日のお昼休み、私は同期で仲のいい坂西(さかにし)杏奈(あんな)ちゃんと社食でランチを一緒にして、七月で会社を辞めようと思っていると伝えた。
ちなみに私は企画部で、杏奈ちゃんは事務だ。
「でも、言うこと聞かなかったら、家は解約されちゃうし、会社にも嫌がらせの電話をかけられると思う……」
「あ~……毒親ってやつなんだぁ。最悪だね。そういえば、五十鈴ちゃんって彼氏いたっけぇ?」
「ううん、いない」
というか、できたことがない。彼氏どころか、好きな人も。
親から恋愛するなって約束させられたけど、守る気は全くなかった。
田舎では大弦に虐められてたし、周りの男子も庇うどころか奴に媚を売るために、嫌がらせしてくる始末だったので、好きな人なんてできるわけがない。
上京すると決まった時、東京でなら好きになれる人が見つかるかもしれない! とすごく期待した。
恋愛ができる環境に行くことはできたけど、好きな人はできなかった。長年男子に虐げられていた経験から、男の人が来ると身構えてしまう。
緊張しちゃうせいか、好きっていう感情が生まれてこないんだよね。
ていうか好きって何? どんな感情?
「そっかぁ、彼氏が居たら結婚しちゃえっ! て言うところなんだけどねぇ~」
「けっこん……」
目からうろこだった。
そうか、その選択肢があったか!
「そうそう、結婚させられそうならぁ、先手を打って、自分の選んだ人と結婚しちゃえばいいんだよぉ」
「なるほど……っ」
会社に電話諸々はおいておいて、結婚してしまえば結婚させられずに済む!
「結婚……結婚したい!」
「あはっ! しちゃえ~!」
大弦以外なら、もう誰でもいい! って言っても、私には彼氏どころか、男友達もいないんだけど。
「お疲れ様、ここ座ってもいい?」
後ろから、低くて心地よい声が聞こえてきた。
我が社の食堂はとても広く、昼時でも空席がたくさんある。そんな中、相席を頼んでくるのは一人しかいない。
「天賀谷常務、お疲れ様ですぅ」
「どうぞ」
「ありがと。あ、これ五十鈴ちゃんが好きな林檎ジュースと、坂西さんにはお茶にしてみたけど、よかったかな?」
「ありがとうございます」
「えー嬉しい~! 天賀谷常務、ありがとうございますぅ」
ニコッと眩しい微笑みを浮かべる芸能人顔負けの美貌を持つ彼は、天賀谷久遠(くおん)さん。苗字が示すとおり、私の勤めるここ天賀谷製菓の社長の息子で、現在は常務だ。
少し長めのサラサラの髪、目はたれ目で、右下に泣きぼくろがあるのが色っぽい。高い鼻に形のいい唇が完璧な位置に配置されている。
神様が本気を出して作った――そう表現しても大げさじゃないぐらい綺麗な顔立ちだ。しかも背も高くて、スタイルまでいい。完璧すぎる。
そしてこの見た目なので、もちろんすごくモテる。モテないはずがない。
「五十鈴ちゃんがお弁当じゃなくて社食にするのは珍しいね」
「たまには自分じゃなくて人の作ったご飯が食べたくて」
社食は持ち込みOK、何か頼まなくても席を使うことが可能なので、いつもはお弁当を持ってきたり、おにぎりだけ作っておかずを頼んだりすることもある。
経済的には毎日お弁当の方が節約になるけど、無性に人が作ったご飯が食べたい時ってあるんだよね~。
両親は苦手だけど、お母さんの作るご飯は、とても美味しかった。悔しいけど、あの味がとても恋しくなるときがある。
「じゃあ、今度俺が作ってあげるから、交換しようよ。五十鈴ちゃんのお弁当食べたい」
「また、そんなこと言って……というか、天賀谷常務、お弁当作ったことあるんですか?」
「ないよ。でも、俺って結構器用な方だし、料理教室とかに通えば作れるようになると思う。期待していて」
「ふふ、またそんなこと言って」
天賀谷製菓は老舗ブランドだ。国内お菓子メーカーのトップの座を守り続けていて、海外でも愛されている。
そんな家の御曹司なのだから、そもそも社食を使うイメージがない。
レストランとか、料亭で特別なお弁当を頼んでいそうだけど、実際の彼は、私と同じくオムライスを頼んでいた。
私が社食のご飯を食べることって滅多にないけど、利用する時は必ず天賀谷常務とメニューが被る。食の好みが同じみたい。
天賀谷常務の企画したお菓子が、私の一番のお気に入りなぐらいだしね。
天賀谷常務がこうして私に絡んでくるようになったのは、彼の企画したお菓子がキッカケだった。
彼は常務になる前は企画部に居たそうだ。
そこで企画した「ポッピングキャンディグミチョコ」という商品が、私の一番大好きなお菓子だ。
ミルクチョコ、苺チョコ、ホワイトチョコの三種類あって、中にパチパチ弾けるキャンディとグミが入っている。
噛み砕いて食べるのも美味しいし、チョコをゆっくり口の中で溶かし、その後出てくるパチパチ弾けるキャンディを楽しみ、最後に残ったグミを噛むのもいい。
私が高校生の時に発売され、以来ずっと買い続けている大好きなお菓子だ。
元々天賀谷製菓から出される商品は好きなものが多かったけど、このチョコがキッカケでここの会社に就職したいと思うようになった。
ちなみに略して『ポピグミチョ』で、同じ名前を付けられた可愛いパンダが、イメージキャラクターを務めている。
「ポーピポピポピポピポピグミチョッ♪」というキャッチーなメロディのCMソングはすごく耳に残って、子供たちがよく歌っていた。ちなみに私も心の中で口ずさんでいた。
入社して一年、課長とエレベーターに乗った時に、偶然にも天賀谷常務と一緒になった。私がこのお菓子を好きだと知っている課長は、私を天賀谷常務に紹介してくれたのだ。
『天賀谷常務、部下の平岡です。平岡さん、この方は我が社の社長のご子息で、キミの好きなポッピングキャンディグミチョコを企画されたんだよ』
『え、あれが好きなの? ありがとう。嬉しいよ』
大好きなお菓子を作った人が目の前にいると思ったら、興奮が抑えられなくて熱い想いを伝えていた。
『あのっ! 私、このポッピングキャンディグミチョコを初めて食べた時、すっごく衝撃を受けて! 世の中にこんな美味しいお菓子があるのかって! ビックリして! 買いだめしようと思って次の日コンビニ行ったら全部売り切れで昨日買わなかったこと後悔したんです。それから今までずっと食べていて……あっ! 今も持ち歩いてるんです。今日は苺です』
天賀谷常務は、私のマシンガントークに驚いたのか目を丸くした。
ヤバ、引かれたかな? と思って一瞬我に返ったけど、嬉しそうに笑ってくれたみたいに見えて、調子に乗った私はさらに『一時期は食べすぎて三キロも太ってしまった』『あと一袋だけでやめようと思っても、また食べてしまう』などと語っていた。
それ以来、天賀谷常務は私の姿を見つけると、こうして話しかけてくれるようになったわけだ。
「五十鈴ちゃん、そのジュースもう空?」
「そうですよ。ちょうどなくなって買いに行こうと思ってたので、いただけて助かりました」
天賀谷常務から貰ったジュースを開封し、一口飲んだ。
「じゃあ、俺にちょうだい。五十鈴ちゃんコレクションに加えるから」
「ふふ、もう、いつも変なこと言いますよね。捨ててくれるなら、そう言ってくれたらいいじゃないですか」
「こんな貴重な品だよ? 捨てるなんて勿体ない」
「やだ~! 天賀谷常務ったら、いつも面白いんだからぁっ」
杏奈ちゃんがケラケラ笑う。
本当に面白い人だ。そのうえイケメンだし、優しいし、気遣いができるし、すごくモテるんだろうなぁ。
大弦のせいで男性不信気味で、男の人と話すのが苦手になっていたけど、天賀谷常務とは楽しく話すことができる。
これは天賀谷常務の人柄がなせる業なのだろう。
私にとって接点がある男の人といえば、彼くらい。結婚して実家から逃れるなんてまず不可能だ。
ちなみに生活圏も被っているか、知り合いが近くに住んでいるからなのか、近所で偶然出会うこともよくある。
コンビニでお菓子を買っていて声をかけられた回数はかなりのものだ。
会社帰りならいいけど、お風呂に入った後とか、休日にフラッと立ち寄る時は思いきり気を抜いた格好だし、スッピンの時もあるから恥ずかしい。
「そうだ。天賀谷常務ぅ、五十鈴ちゃんを助けてあげてくださいよぉ」
「どうしたの? 何か困りごと?」
「ちょ、ちょっと、杏奈ちゃんっ! シーッ!」
まさか天賀谷常務に言うとは思わなかった。慌てて止めようとしても、杏奈ちゃんはとまらない。
「このままだと人生台無しになっちゃうかもしれないんだよぉ? 常務なら顔が広いしぃ、いい人紹介してくれるかもでしょぉ?」
確かに……!
もうこの際、大弦以外なら誰でもいい! 誰か助けて欲しい! でも、他の人に迷惑をかけるのは……。
「実は五十鈴ちゃんのご両親が毒親でぇ、このままだと五十鈴ちゃん、会社を辞めて実家に帰ってぇ、すっごく最低な男と結婚させられちゃうかもしれないんですぅ! だから他の人と結婚しちゃえば? って話なんですけど、五十鈴ちゃん、ちょうどフリーなんですよぉ! 常務ぅ、五十鈴ちゃんとすぐ結婚してくれそうな人、誰か紹介していただけませんかぁ? ちゃんとした人なら誰でもいいですぅ」
私が悩んでいる間に、杏奈ちゃんが全部説明してしまった。興奮しているからか、かなり早口だ。
私のためにこんな一生懸命になってくれて嬉しい……けど、こんな話されても、天賀谷常務を困らせるだけなんじゃ……。
「………………えっ!?」
天賀谷常務は目を丸くし、呆然としていた。無理もない。
「まさか、そんなことになっていたなんて……危うく、俺は何も知らないままで……俺としたことが、とんだ失態だ……」
そして自身の額に手を当てて俯き、ブツブツ何かを呟く。
「あの、天賀谷常務?」
「五十鈴ちゃん、誰でもいいの? 本当に?」
「大弦……じゃなくて、親の決めた相手以外でしたら、もう正直誰でもいいので結婚したいです!」
もしかして、本当に誰か紹介してくれるの!?
「じゃあ……」
天賀谷常務は額に当てていた手を退けて、私を真っ直ぐに見つめた。あまりに真剣な表情に、ドキッと心臓が跳ね上がる。
「相手が俺でもいいってこと?」
「はあ?」と声を出しそうになった。
少し期待した私が馬鹿だった……。
人が本気で困ってる時に、ふざけてくるとは思わなかった。普段は面白い人だけど、これはない! ガッカリ!
「あー……はいはい、そうですね」
「じゃあ、俺と結婚しよう」
最低なギャグ……。
天賀谷常務って、そういう冗談を言う人だったんだ……。
「はい、ぜひ結婚しましょう。ははは……」
私は乾いた笑いを浮かべながら適当に返事をして、お皿に残っていたオムライスをガツガツ口に運び、ジュースを飲んで胃に押し込んでいく。
さっさと自分の席に戻ろう。
「もうぅ~! 天賀谷常務、真面目に相談に乗ってくださいよぉ!」
「いや、大真面目だけど」
「ご馳走様でした。じゃあ、私は先に戻りますので」
「あっ」
二人を残して立ち上がり、返却口にトレイを下げに行った。
「もうぅ! 天賀谷常務がふざけるから、五十鈴ちゃんが怒っちゃったじゃないですかぁ!」
「いや、ふざけてなんていないよ。それよりもさっきの話、詳しく教えてくれる?」
二人が何かを話しているみたいだったけど、私は先に食堂を後にした。
定時で帰宅した私は、作り置きのカレーと冷凍ご飯をレンジで温め、テーブルに置く。
「いただきます」
いつもなら目玉焼きを作ってのせるところだけど、そんな気力はなかった。食欲はないけど、お腹は空いた。
スマホで適当に動画を流し、カレーを口に運んでいく。
作った時はすごく美味しいと思ったけど、今日は不味く感じる。気持ちの問題なんだろうなぁ。
仕事を辞めるなら三か月前には会社に退職するって伝えないといけないから、七月で仕事を退職するなら……って、うわ、もうそろそろ伝えておかないとダメじゃん。
辞めたくない……。
実家になんて帰りたくないし、大弦と結婚はもっと嫌だ。
ようやくちゃんと仕事ができるようになってきて、去年私の考えた企画がコンペを通過して商品化した。ものすごく嬉しかった。もっと仕事を頑張りたい。もっと大好きなお菓子のことを考えて、商品にしたい。
「自由になりたい……」
泣きそうになっていると、スマホが鳴った。
嫌な予感がする。恐る恐る画面を見ると、お父さんからだった。
「うわっ」
嫌すぎて、思わず声が出た。
また、結婚の話だよね。出たくないなぁ……でも、無視してたら、会社に電話してくるかもしれないし……。
迷っていると、インターフォンが鳴った。
あ、お取り寄せで買ったクッキー缶が届いたのかも。
ずっと楽しみにしてたけど、今日の気分だと喜べないな。というか、しばらくは気持ちが沈んだに違いない。
いったん電話を置いて、インターフォンの通話ボタンを押した。
「はい」
『五十鈴ちゃん、俺だよ』
聞き覚えのあるいい声が聞こえてきた。
え、この声って……。
「ま、まさか、天賀谷常務ですか?」
『そうだよ。あ、ここ、カメラがないね。モニターないんだ?』
ななななななんで、天賀谷常務が家に!?
「えっ! な……っ……天賀谷常務、どうしたんですか!? なんで家に……」
『緊急事態なんだ。すぐに開けてくれる?』
「へ!? わ、わかりました」
急いでマンション入り口のオートロックを開錠した。
緊急事態って、一体何? 歩いてる途中不審者に襲われて、近所にあった私の家に逃げてきた? いや、でも、どうして私の家を知ってるの? あ、常務なら知っていてもおかしくないのかな……けど、いちいち一社員の住所なんて覚えてるものなの? うちの会社、社員数半端ないけど。
色々考えているうちに、玄関のインターフォンが鳴った。
誰かが来るとは思ってなかったから片付いていないけど、緊急なら仕方がない。
「はい!」
急いでドアを開けると、目の前に大きな薔薇の花束があった。
「え?」
呆気に取られながら上を向くと、にっこり微笑む天賀谷常務と目が合った。
「五十鈴ちゃん、こんばんは」
「こんばん……は?」
一体、どういうこと?
「はい、これどうぞ」
「え?」
「プレゼントだよ」
差し出されて咄嗟に受け取ると、ズシリと重い。
うっ! 重……っ!
こんなに大きくて重い花束を貰うのは初めてだ。
これ、百本はあるんじゃないの!? なんでいきなりこんなものをプレゼントしてくるの!?
「じゃあ、お邪魔しまーす」
「は、はい、どうぞ」
花束の重さに戸惑っていると、天賀谷常務が部屋の中に入っていく。
そうだ。不審者が付いてきていたら大変!
私は片手で薔薇の花束を持ち、もう一方の手で鍵を閉めた。
これでよし……!
でも、なんでこんなものを持ってるの? 誰かにプレゼントするものだったけど、逃げ込んだお礼にくれた……とか?
あまりに重くて手が震えてきたので、キッチンの作業台に置く。部屋に行くと、天賀谷常務が私の部屋を見回し、目をキラキラ輝かせていた。
「これが五十鈴ちゃんの部屋か~……」
まるで遊園地に連れてきて貰った子供のようだ。
「あ、あんまり見ないで貰えますか? 片付けてないので、散らかってますし……」
「いやいや、綺麗だよ。あ、食事中だったんだ。邪魔してごめんね。あ、記念に部屋の写真撮っていい?」
こんな緊急事態でもギャグを言っちゃうんだ……。
「ダメです。それよりも、大丈夫ですか?」
「大丈夫って、何が?」
「緊急事態だって言ってたじゃないですか。不審者に襲われました!?」
天賀谷常務は目を丸くし、あはは! と声を上げて笑った。
「そっか、だから慌てて入れてくれたんだ。ありがとう。優しいね」
「え、違うんですか!? じゃあ、一体何なんですか?」
「五十鈴ちゃんが、他の男と結婚させられそうになってる。これは俺の人生の中で、一番の緊急事態だよ」
「へ……」
ポカンとしていると、天賀谷常務はポケットから小さな箱を取り出した。
指輪が入っていそうな大きさ……いや、まさか……まさかだよね?
私の予感は的中した。
天賀谷常務が箱を開くと、そこには大きなダイヤの付いた指輪が収まっていた。
驚いて固まっていると、天賀谷常務はその場に跪いた。
「な……っ……えっ……!?」
「五十鈴ちゃん、俺と結婚してください」
「……………………っ!?」
何、言ってるの!?
天賀谷常務は箱から指輪を取り出すと、私の左手に触れた。
はっ! 固まってる場合じゃない!
引っ込めようとしたら、手首を掴まれた。
「天賀谷常務、冗談ですよね!?」
「いや、本気だよ。昼間プロポーズしたら『ぜひ結婚しましょう』って言ってくれたよね?」
「だって、それは、タチの悪い冗談だと思って……」
「まさか! 冗談なわけないよ。だって俺は、ずっと五十鈴ちゃんのことが好きだったからね」
「えっ!?」
天賀谷常務が、私のことを……好きっ!? 嘘でしょう!? え、じゃあ、さっきの薔薇の花束は、プロポーズのためにくれたってこと!?
「ただの好きじゃないよ? すっっっっっっごく好きなんだ」
すっっっっっっごく…………!?
狼狽している私の左手の薬指に、大きなダイヤの付いた指輪がはめられた。
「な……なんで、サイズピッタリ……」
「ああ、事前に測っておいたからね」
「えっ!? いつですか!?」
天賀谷常務は何も言わず、にっこり微笑んだ。
いつ――……!?
「そっか、冗談だと思われてたから、了承してくれたのか。……五十鈴ちゃんは、俺のこと別に好きじゃないよね?」
「……っ……だ、だって、天賀谷常務は、庶民で田舎者の私とは住む世界が違うし、そんな風に考えたことがなくて……」
「考えたことがなかったかぁ……」
正直に答えると、天賀谷常務の表情が悲し気に揺れる。けれど、それはほんの一瞬だった。
「でも、ご両親の決めた相手以外なら、誰でもいいって言ってたもんね。結婚しよう。はい、これ、婚姻届」
「ちょ……な……っ」
見せられた婚姻届には、すでに天賀谷常務が記入していた。しかも保証人の欄には、杏奈ちゃんと課長の名前が書いてある。
え、えぇえええ~~……!
混乱して、頭が付いていけない。
四月十日生まれ……あ、もうすぐ、誕生日なんだ……って、そうじゃなくて! ああ、すごい混乱してる。するとその時、スマホが鳴った。
「あ……」
「電話? 出ていいよ。待ってるから」
画面を見ると、お父さんからだった。
さっきも無視しちゃったし、今出ないと会社にかけられるかもしれない。
「……すみません」
スマホの通話ボタンをタップした瞬間、『いつまで待たせる気だ!』と怒鳴り声が聞こえてきた。
うわ……っ!
スピーカーフォンにしてないのに、そうしたんじゃないかってぐらいの声量だ。耳に付けて話したら、鼓膜が破れそうなので少し離した状態で話す。
『五十鈴! なぜすぐに出ない! お前はいつもいつも……もう会社はとっくに終わっている時間だろう!』
「えっと」
これ、天賀谷常務にも聞こえてるんだろうな~……。
『まさかお前、どこかで遊び惚けているわけじゃないだろうな!? 今どこだ!?』
すごい勢いで、全然口を挟めない。
「今、家だよ。ご飯を食べてたから出られなかったの」
『親が連絡しているんだから、食事なんて後回しにしろ! 食い意地を張って恥ずかしい!』
なんで私、こんなこと言われないといけないんだろう。話すほどに、地元に帰りたくない気持ちが強まる。
『五十鈴、聞いているのか!?』
「聞いてる。それで、どうしたの?」
『なんだその態度は! 都会に出てからお前は生意気になったな。でも、そんな生活もこれで終わりだ。早くこっちに帰って来て、大弦くんと結婚しろ!』
やっぱりその話になるんだ。
「お父さん、私は……」
『……まさか、嫌だなんて言うつもりじゃないだろうな? いいか、五十鈴、お前に断る権利などない。子は親の言うことを聞いて当たり前なんだ。自由に生きたいというのなら、お前を育てるのにかかった金を全部返せ! 一括でな!』
怒りが込み上げてくる。
できっこないってわかってるからそうやって言ってるんだ。最低! 最悪! なんで私、こんな親の元に生まれてきちゃったんだろう。
すると肩をツンツンと突かれた。
天賀谷常務の方を見ると、彼は手にしたスマホの画面を見せてきた。そこには『いくらかかったか聞いておいてくれる? 俺が払うよ』とあった。
え、えええええっ!
『まあ、いい。お前が言う通りにしないのなら、こっちにも手がある』
「……っ……何?」
『言うことを聞かないのなら、こっちで婚姻届を出させて貰う』
「な……っ! そんなの嫌! やめてよ!」
『最初からの約束だ』
「お父さん! ねえ、お父さん……っ!」
通話は切れていた。
勝手に婚姻届を出すなんて犯罪だ。普通ならありえない。でも、家のお父さんなら、やりかねない。
「五十鈴ちゃん」
天賀谷常務に呼ばれ、スマホの画面から彼の方に目を向ける。すると、彼は婚姻届を私に見せていた。左手にはペンを持っている。
「先手を打てば大丈夫だよ。五十鈴ちゃん、嫌いな男と結婚するのと、俺と結婚するのだったら、どっちがいい?」
そんなの、決まってる。
私は天賀谷常務からペンを受け取り、婚姻届に名前を書いた。
「はい、確かにお預かり致しました。おめでとうございます」
婚姻届は二十四時間受け付けているそうだ。
夜間の場合は警備室で預かってくれて、開庁時間に職員が内容を確認して不備がなければ、受理されるらしい。
私、結婚したんだ。平岡五十鈴から、天賀谷五十鈴になったんだ……! なんか、変な感じ。
「ありがとうございます」
警備員さんのお祝いの言葉に、天賀谷常務は嬉しそうに微笑んで答える。
「あ、すみませんが、記念に写真を撮って貰えますか?」
「えっ」
「ええ、いいですよ」
天賀谷常務は警備員さんに自分のスマホを渡すと、戸惑う私の肩を抱いた。
「え、ええっ……あのっ」
「はい、撮りますよ」
何度かシャッター音が聞こえ、撮影は終了した。
「こちらでいかがでしょうか?」
画面に映った私の顔は、思いきり引き攣っていた。
「ありがとうございます。五十鈴ちゃん、すっごく可愛く撮れたね」
「は、はは……」
どこが……!
撮ってくれた警備員さんの手前、本音は言えなかった。
「じゃあ、帰ろうか」
「そうですね」
待っていて貰ったタクシーに乗り込み、再び私の家に向かう。
「婚姻届って、こんなにすぐ出せるものなんですね……」
「そうなんだ。少し前までは本籍地じゃないところに提出する時は、戸籍謄本が必要だったんだけど、今は必要なくなったらしいよ」
「へえ……」
なんでそんなに詳しいんだろう。調べたのかな?
「五十鈴ちゃん、メッセージで今の写真送るからID教えて。結婚したって口頭で言っても信じて貰えないだろうし、このツーショットと婚姻届の写真をご両親に送って説明すればいいんじゃないかな」
「あ……そうですね」
そうだ。もう、これで大弦と結婚させられることはないんだ……!
まだ、全然実感が湧かない。
私は天賀谷常務から貰った画像と共に『私は天賀谷久遠さんという人と結婚しましたので、大弦とは結婚できません。実家にも帰りません』というメッセージをお父さんに送った。
「送った?」
「は、はい」
心臓がバクバク脈打ってる。両親から罵倒されることを想像したら、なおさら速くなって服の上からギュッと押さえた。
なんて返事が来るだろう……。
お父さんからの返事を考えていたら、胃がキリキリ痛みだす。
「じゃあ、一度電源オフにしておこうか」
「え、どうしてですか?」
「これから、俺たちの未来についての作戦会議をしたいから、邪魔をされたら困るなと思って」
「み、未来……わかりました」
私、とんでもない道を選んでしまったんじゃ……。
相手は私とは住む世界が違う御曹司なのに、私が妻だなんていいの?
というか、天賀谷常務……私のこと好きって言ってたよね? 私みたいな田舎者を好き!? 天賀谷常務が!? なんで!?
今さらながら、混乱してしまう。
「まずは明日の早い時間に引っ越しちゃおうか。ちょうど休みだしね」
「えっ!? あ、明日!?」
「親御さんのお住まいから東京までは、頑張れば明日には来ることができるだろうからね。突撃されたら大変だろう?」
突撃……!
想像したら、ゾッとする。
「……そうですね。家の合鍵、両親に渡してあります」
今まで実際に来たことはないけれど、親なのだから持っていて当然だと合鍵を要求されて渡している。
「五十鈴ちゃんのお父さんを悪く言うようで申し訳ないけど、電話の様子から想像すると、随分横暴な方だよね?」
「その通りです……」
「ヒートアップしてる時に顔を合わせたら危険だし、貴重品や大切な物だけ持ってどこか安全なところに移動する手もあるだろうけれど、そもそも自分のいない時に家に入られるのは嫌だろう? 当てつけで何か壊されてしまう可能性だってあるし」
「はい……」
自分の作り上げてきたテリトリーに入られるのは嫌だ。
「俺も五十鈴ちゃんが悲しい思いをするのは嫌だ。だから全てを安全な場所に移したいと思ってる」
俺も嫌だって、自分の持ち物じゃないのに、天賀谷常務って優しい人だなぁ……。
「お気遣いありがとうございます。でも、安全な場所って……」
「それはもちろん、俺の家だよ」
「えっ! 天賀谷常務の!?」
「夫婦になったんだから、おかしいことじゃないんだよ」
「あ……っ……! そ、そうですよね」
「今時は夫婦別居婚もおかしくないけど、五十鈴ちゃんはどうしたい? 俺は絶対同居したいんだけど」
「同居で大丈夫です。……というか、別居という選択肢はなかったです」
「よかった。じゃあ、早速手配するよ」
「えーっと、朝までに荷物をまとめないといけませんね」
実家から今の家に引っ越す準備をした時、かなり時間がかかった。今はあの時よりも荷物が増えている。
朝までに引っ越しの準備なんてできるかな?
いや、『できるかな』じゃなくて、やらないといけないんだ。頑張ろう……!
「あ、大丈夫だよ。すぐに段ボール持ってきて貰うから、他人に触られたり、見られたりしたくないものだけそれに詰めて貰える?」
「え? 他の荷物は……」
「明日の朝に来る引っ越し業者が、全部代わりに詰めてくれるから心配いらないよ」
「え、えええっ!」
そんなことができるの!?
「家の解約手続きと各種手続きもこっちでやっておくから心配しないで」
「そんな、悪いです」
「気にしないで大丈夫だよ。俺が好きでやってることなんだから」
家に着く頃には天賀谷常務が引っ越し屋さんの手配を終え、ひとまず私が詰める分の段ボールが届いた。
あまりのスピードに圧倒され、なんだか頭がクラクラする。
「天賀谷常務、何から何まですみません」
「謝らないで。夫婦なんだから当然だよ。それよりも、名前で呼んで欲しいな」
「名前?」
「そう、夫婦になるのに苗字に役職を付けた呼び方はおかしいでしょ? 五十鈴ちゃんだって『天賀谷』になるんだからさ」
「あ、そうですね。えーっと……じゃあ、久遠さん」
私が名前を呼ぶと、久遠さんがグッと自分の胸を押さえた。
「え、どうしたんですか?」
「いや、キュンとしたんだ。五十鈴ちゃんが俺の名前を呼んでくれると、こんなにもときめくものなんだね」
両親と揉めてる私を励ますために、ふざけてくれてるのだろう。
「ふふ、久遠さんったら、面白いんだから」
「いや、大真面目に言ってるんだけどな」
久遠さんの視線が、テーブルに置いたままのカレーに向く。ラップをしていなかったから、カレールーは固まって、お米はパサパサになっていた。
勿体ないことしちゃった。でも、色々あったし、仕方ないよね。
「そういえば、食事の最中だったんだよね。お腹空いてない? 何か食べたい物はあるかな? デリバリー取るよ」
「いえ、なんだかもう、胸がいっぱいなので大丈夫です」
お皿と飲みかけのお茶を持つと、久遠さんにお皿を掴まれた。
「待って」
「どうしました?」
「それ、どうするの?」
「え? 捨てようかと」
「じゃあ、貰っていい?」
「えっ!? こんなカレーを!? あっ! 久遠さん、夕食まだでした? ごめんなさい。気遣いが足りなくて」
「ううん、軽く済ませて来たんだけど、前々から五十鈴ちゃんの手料理が食べたかったんだ。ちょうだい」
そういえば、お弁当を食べたいって前から言ってたっけ。あれって、冗談じゃなかったんだ。
「いやいやいや! こんなの食べて貰うわけにいかないですよ!」
「でも、五十鈴ちゃんの手作りカレーが食べたい」
手作りを強調された。
そんなに食べたいの!? 私なんかの作ったものを!?
「わかりました。冷凍してありますから! 新しいのをお持ちします! だからこれは捨てさせてください!」
「食べかけも欲しいんだけど……」
「食べ物を大切にするのはいいことですが、口を付けて時間が経ってますし、傷んでたら大変なので」
「口を付けてるからいいのに!」
「いや、何言ってるんですか」
「せめて、お茶だけでも……」
「あ、そうですね。お茶も出さずにすみません。今新しいものを出しますね」
「それがいい! 口を付けてるそれが!」
「何言ってるんですか! ダメに決まってるでしょうっ!」
口を付けたものがいいって、変なギャグ。
でも、笑わせようとしてくれてるんだろうな。
お皿とグラスを下げる時に、とんでもない存在感を放つ薔薇の花束が視界に飛び込んでくる。
そうだ。水に浸けてあげないと!
こんな大きな花束が入る花瓶なんかないし、バケツぐらいしかないけど、花束に申し訳ないなぁ……。
冷凍庫を開けると、久遠さんが後ろから覗いてくる。
「わあ、すごいね。色々冷凍してある」
「自炊するようにしてるんですけど、疲れて作りたくない日もあるのでストックしてあるんですよ。あっ! 引っ越すなら、冷蔵庫の電源も抜かないといけないですよね。中のものは、どうしよう……」
「クーラーボックスも手配するから安心して。五十鈴ちゃんの手作りストックご飯を一つも無駄にしたりしないから」
「ありがとうございます。この前結構作って冷凍したばかりなので、助かります」
カレーをレンジに入れて、新しいグラスにお茶を注ぐ。
そうだ。せっかくだし、サラダも付けよう。
冷蔵庫にあるレタスとミニトマトを洗って、よく水を切った後にオリーブオイルと塩コショウ、そして粉チーズをたっぷりかけて完成だ。
「サラダまで作ってくれたんだ。ありがとう」
「いえいえ、簡単なサラダで申し訳ないですけど」
「すごくうれしいよ。あの、もしよかったらなんだけど……これからたまに、ご飯を作って貰えないかな?」
私を助けてくれた救世主なのに、なんて謙虚なんだろう。
「もちろんです! 私のご飯でよければ、いつでも」
「えっ! 毎日でも?」
「はい、たまにこうして冷凍ものになっちゃう時もあるかもしれませんが」
「ありがとう! うわあ、嬉しいな」
久遠さんは本当に嬉しいみたいで、満面の笑みを浮かべた。まるで遊園地に連れて行って貰える約束をした子供の顔のようだ。
ちょっと、可愛い……。
「でも、私の料理ってすっごく普通なんですが、いいんですか?」
「五十鈴ちゃんが作ってくれるご飯は、普通じゃなくて特別だよ」
嬉しいことを言ってくれるなぁ……。
どうしてこんなすごい人が、私のことを好きなんだろう。
話しているうちにカレーが温まったので、今度は冷凍ご飯をレンジに入れる。
「久遠さんって、普段高級レストランとかで食事をとってるイメージですけど、本当に私なんかが作る家庭料理でいいんですか?」
「どんなイメージ? そんなことないよ。仕事の会食以外は、デリバリーとかコンビニとかで済ませてるよ」
「そうなんですか? 意外です」
冷凍ご飯も温まったので、カレー用のお皿に盛りつけた。
「すごい! 美味しそうだね」
「普通のカレーですよ。お口に合えばいいんですが……」
運ぼうとしたら、久遠さんが代わりに持ってくれた。
カレー皿とサラダを持ってくれたので、私はお茶とスプーンと箸を持って後ろを付いていく。
「いただきます」
「どうぞ、召し上がってください。私、いただいた薔薇の花束をお水に浸けてきますね」
お風呂場に置いてあるバケツにお水を入れて、薔薇を入れた。
これでよし……! できるだけ早いうちに花瓶を買ってくるか、久遠さんの家にあったら貸して貰おう。
部屋に戻ると、久遠さんがカレーの写真を撮っていた。
「え、何してるんですか?」
「ん? 記念撮影だよ」
角度を変えながら、何枚もパシャパシャとシャッターを切っていく。
「なんのっ!?」
「初めて手料理を食べさせて貰える記念」
「手料理って……そんな立派なものじゃないです! 冷凍してたものに、簡単なサラダを付けただけですよ!?」
「立派な手料理だよ。さて、十分写真も撮ったし、いただくね」
なんかハードルをあげられた感じがして、緊張する……!
久遠さんがカレーを口に運ぶのを、祈るような気持ちで見守る。
どうか美味しい! とまでいかなくても、そこそこの味でありますように! 不味いと思われてガッカリされませんように!
「美味しい!」
久遠さんは満面の笑みで、そう言ってくれた。社交辞令じゃないことが伝わってくる。
「よかったです」
「今まで食べたカレーの中で一番美味しいよ」
「そ、それは言い過ぎです」
「あ、お世辞だと思ってる? 本心だからね」
本当にそう思ってくれていることが表情からわかる。
私と久遠さんって、よほど味覚の相性が合うのかな?
「あの、久遠さんのご両親は、認めてくれるでしょうか」
天賀谷製菓の一人息子の妻に、こんな田舎出身で、何のスキルもない女だなんて……普通ならありえない話だ。
「もちろんだよ。絶対に喜んでくれると思う。早く紹介したいよ」
「いや、喜ぶってのはないんじゃ……」
「どうして?」
「だって、久遠さんは天賀谷製菓の後継ぎじゃないですか。私のような一般家庭の人間より、しかるべき家の女性と結婚するべきなんじゃ……」
「そんなことないよ。両親は、好きな人と結婚しろって言ってくれてるから」
私の両親とは大違いだなぁ……。
「そうなんですね。でも、婚姻届を提出する前にご許可を貰うべきだったんじゃ……」
「大丈夫だよ。あ、でも、近々一緒に挨拶に行ってくれないかな?」
「はい、ぜひ、ご挨拶させてください」
「五十鈴ちゃんのご両親にもご挨拶に行かないとね。今は混乱していて、落ち着いてお話ができる状態じゃなさそうだから、少し時間を置いた方がいいかな?」
「そ、そうですね」
うちの両親は体裁を気にするから、久遠さんに危害を加えるなんてことはまずないと思うけど、今は頭に血が上ってるだろうし、まともに話はできなそうだもんね。
できることなら、永遠に会いたくないけど、連絡を絶ってたら会社に嫌がらせ電話をかけてきそうだから、そうもいかない。
あ! 大切なことを言うのを忘れてた!
「久遠さん、私、結婚しても仕事を続けたいんですが、いいですか?」
「もちろん。五十鈴ちゃんの好きにしてくれて構わないよ。仕事、好きなんだ?」
「はい! 父からの連絡をシャットアウトできなかったのも、私への嫌がらせで会社に電話をしてくるかもしれないからだったんです。まだまだ天賀谷製菓で頑張っていきたいのに、父のせいで居づらくなるんじゃないかって不安で……」
「そうだったんだ」
「今も無視してる状態なので、月曜日が怖いです」
「安心して。会社には俺から話を通しておくから、居づらくなることなんてないよ。あ、結婚のことも俺から言って手続き等して貰うね」
「はい、よろしくお願いします」
月曜日、ものすごい騒ぎになりそう。
そういえば、婚姻届に名前が書いてあったってことは、杏奈ちゃんと課長は知ってるんだよね。どんな流れで、こんなことになったんだろう。
「ご馳走様、美味しかった」
「お粗末様でした。あ、グラスが空ですね。お茶のおかわりはいかがですか?」
「ありがとう。いただいていい?」
「もちろんです。食器下げますね」
「あ、それは、俺が……」
「ついでなので大丈夫ですよ。寛いでいてください」
食器を下げておかわりのお茶を持って行くと、久遠さんがソワソワしながら部屋を見回していた。
私の家って一人でも狭いと思ってたけど、久遠さんがいるとさらにそう感じる。
私でもそう思うんだから、久遠さんだとなおさらだろうな。
「お茶のおかわりどうぞ。落ち着かないですか?」
「ありがとう。いや、そんなことないよ。ただ、ついに五十鈴ちゃんの部屋に入ることができたから、嬉しくて……明日で引っ越しだし、記念に見て回っていいかな?」
「えっ」
き、記念っ!?
「あと、できれば写真に撮らせて貰ってもいい?」
久遠さんはスマホを構え、にっこり微笑む。
「い、嫌です!」
「ええ、どうして?」
「散らかってますし、恥ずかしいです!」
「そんなこと言わず……」
「嫌ですよっ!」
久遠さんって、変なギャグばかり言うなぁ……。
でも、そのおかげで、実家のことを考えずに済んでる。
「ありがとうございます。久遠さん」
「ん? 何が?」
「なんでもないです」
「そう? あ、俺洗い物するから、五十鈴ちゃんは引っ越しの準備をしたらいいよ」
「いえ! お客様にそんなことして貰うわけには……」
「お客様じゃなくて、夫だから! 遠慮せずに、ね?」
夫……! そうだ。正式には明日からだけど、久遠さんは、私の夫になったんだ。
意識したら、急にドキドキしてきてしまった。
「な、何から何まで、ありがとうございます」
「どういたしまして。洗い物が終わったら、俺も手伝うよ」
「あっ! それは大丈夫です。人に見られるのは恥ずかしいなーってものを詰めるので、遠慮してるわけじゃないです!」
「何を詰めるのか、ものすっごく興味があるんだけど、見せてって言ったら嫌われそうだから我慢するよ」
「言ってるじゃないですか」
久遠さんは洗い物を終えると、本当に手伝えることはないか聞いて帰って行った。
人に見られたくないものは下着ぐらいだったので、早々に詰め終えた私は、他のものも
手あたり次第段ボールに詰めていく。
明日プロに手伝って貰えるといっても、申し訳ない! できるだけ終わらせておかなくちゃ!
明け方まで頑張った結果、冷蔵庫の中身以外の荷物を全て梱包することに成功したのだった。
よくやった私! やればできる……!
クタクタになった私は最後の力を振り絞ってシャワーを浴び、髪を半分乾かしたところで力尽きて眠った。