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この結婚、なかったことにしてください! 初恋の彼に催眠アプリを使ったら極甘新婚生活が始まっちゃった!?  2

第二話

――催眠術って、怖い。だって明日見くんの感情を歪めてしまうってことは、彼の未来にも影響する。
 昔から、彼は成績優秀で運動神経も抜群で、ただそこにいるだけで周囲の視線を集める人だった。誰もが彼と親しくなりたがり、彼のそばには人が輪をなす。きっとアメリカでも、虹大は成功していたに違いない。
 ――恋人は、いなかったのかな。
 生活拠点をアメリカから日本に移したばかりだと言っていたから、向こうに恋人を残してきた可能性を脳内で排除していた。けれど、遠距離恋愛の場合だってあるだろう。あとから恋人が日本に引っ越してくる算段ということもありうる。
「……明日見くんって、アメリカで恋人はいなかったの?」
 隣を歩く彼も、今日はマフラーを巻いていた。黒地にグレーと白の模様が入った、やわらかそうな素材のマフラーだ。
 凛世の質問に、彼がかすかに目を瞠った。何か、失礼なことを聞いてしまっただろうか。
「嬉しいよ」
「ん? 何が?」
「更家が俺に興味を持ってくれたのかなって」
「! そ、それは、普通に会話の流れっていうか……」
 しばし黙っていたところからの質問なのに、流れも何もあったものではない。自分でも苦しい言い訳だとはわかっている。
 ――催眠術の悪影響を懸念していたんだけど、実際に明日見くんに興味がないわけではないし、返答に詰まる!
「更家は?」
「ここ数年は仕事が恋人かな」
 つまり、恋人はいない。いたら、少なくともこの状況を相談していただろう。今の凛世には、相談する相手すらいない。よほど信頼できる人でなければ、「アプリを使って催眠術をかけたら、解けなくなっちゃった」なんて言い出すのも躊躇する。
 ――そもそも、言ったところで信じてもらえるかどうか……。
「だったらちょうどいい」
「何が?」
「こっちの話」
 ふっと目を細めて、彼が微笑む。
 冬空を名も知らぬ鳥が飛んでいった。凛世はそれを見上げて考える。
 彼がもとに戻らなかった場合、自分にできることはなんだろうか。催眠術で、自分を好きにさせてしまった。その『好き』はほんとうの意味での『好き』ではないと感じている。作られた感情だ。凛世にとっては偽物の恋。けれど、虹大にすれば――。
 ――わたしの責任だ。
 どうやって、この責任を果たせばいいのか。たとえばふたりの性別が逆だったなら、責任をとって結婚するという方法もあるのかもしれない。いや、さすがに平成を飛び越えて昭和じみている。だとしたら、令和らしい責任の取り方を考えなくてはいけない。
「更家、このまま帰る?」
「そのつもりだけど、何か用事ある?」
「よかったら、夕飯でも行かないかなと思って」
「そういえばお腹減ったね。明日見くん、何が好き?」
「俺は更家が好きだよ」
 夕飯のメニューについて尋ねたつもりが、突然の甘い言葉に息を呑む。『好き』について考えた直後に、彼の少しかすれたやわらかな声で伝えられる『好き』はいっそう特別に聞こえてしまう。
「あはは、赤くなった。更家ってかわいいな」
「からかわないでよ。困る、そういうの」
「どうして? つきあってる人はいないんだよね?」
「それは……そう、だけど……」
 催眠術にかかった彼は、ことあるごとに凛世を好きだと伝えてくる。けれど、凛世はそれに対してなんらかの返事をしたことはなかった。
 ――だって、これは明日見くんの気持ちそのものじゃない。催眠術のせいで、そう思い込んでるだけ。
 わかっていても、彼に告げられる『好き』は凛世の心を揺さぶる。思春期の自分が好きだった人なのだから、赤面してしまうのも仕方がない。
「更家は?」
「えっ!?」
 ――わたしが、明日見くんを好きかどうかってこと!?
 好きか嫌いかと言われれば当然好きのほうではあるけれど、それが恋愛的な意味合いのみなのかわからない。なにしろ十二年ぶりに再会したのだ。再会してから十回以上会っていて、中学生のころより長い時間をふたりで過ごしたようにも思うけれど、それとこれとは話が別で――。
 凛世の脳内で思考が高速回転する。しかし、速度を上げたところで結論が出るわけでもない。
「更家は食べたいもの、ある?」
「そっちの話……!?」
「ほかに、何かあった? ああ、俺のことを好きかどうかって――」
「わ、わたし、お肉が食べたい!」
 これ以上、話を進められては困る。凛世だって自分の気持ちがわかっていないのだから、返事のできない質問はされないほうがいい。
 彼は愛しげに目を細めて、凛世を見つめていた。
「焦ってるのもかわいい」
 からかい半分、愛情半分。そんな気持ちが伝わってくる。だけど、凛世には応える言葉が見つからないのだ。
「……もう、知らない」
 わざと彼に背を向けると、うしろから右手をつかまれる。
「嘘、冗談だよ。肉料理がメインのお店に行くから大丈夫。さ、行こう」
「う、うん」
 虹大の大きな手が、凛世の手を握っていた。彼は手を離す気配はない。このまま、歩いていくのだろうか。
「あの、明日見くん、わたし、手が冷たいから」
「俺はあったかいほうだから、安心して」
「……うん」
 そういう意味ではなかったけれど、緊張の中にほのかな安堵があるのも事実だ。
 昔好きだった人と手をつないで歩く渋谷は、なんだか知らない街の顔をしていた。

 実は、予約してたんだ、と虹大が薄く微笑んで連れていってくれたレストランは、渋谷駅から坂道を十分近く歩いた先にある看板も出ていない隠れ家のような店だった。
 東欧風のレトロでキュートな内観とインテリアに、思わず目を奪われる。手書きのメニューがテーブルに置かれ、老婦人が親しげな笑顔で席に案内してくれた。
「明日見さん、お久しぶりですね。また日本にお仕事でいらしたの?」
 内装の明るい雰囲気と似た、軽やかな声音の老婦人が虹大に尋ねる。彼はこの店の常連なのだろうか。
「今回は仕事ではなく、プライベートで日本に戻ってきたんです。しばらくはこっちで羽を伸ばそうかと思いまして」
「あら、そうだったんですか。今日はとてもかわいらしいお嬢さんも連れてきてくださって、嬉しいですわ」
 人生のしわが笑顔をいっそう美しく彩る。老婦人から微笑みかけられて、凛世もはにかみながら会釈した。
 店内の雰囲気からすると、ヨーロッパの家庭料理のお店だろうか。虹大がメニューを差し出してくれたので、目を走らせる。鹿児島黒牛の希少部位を使った鉄板焼が並び、タンシチューや煮込み料理など温かいものもそろっていた。外が寒かったのもあって、スープものに心惹かれる。
 そこに老婦人が戻ってきて、
「今日はいいお肉が入ったので、塊肉を叩いてハンバーグの準備もありますよ。タンシチューをかけてお召し上がりくださいね」
 と説明してくれる。ハンバーグ、しかもひき肉ではなく塊肉から作ると聞いて、凛世はそれをいただくことに決めた。虹大も同じものにするというので、あとはサラダをシェアして、旬のヒラメのセビーチェ、チーズの盛り合わせを注文する。
 飲み物は、アルコールを避けてスパークリングミネラルウォーターを選んだ。
 大人数ならまだしも、異性とふたりでお酒を飲むのは関係性によって考えてしまう部分がある。虹大を信用していないというのではなく、自分を律する意味でも言い訳をしなくていい人生を送りたい。何かあったときに、自分の行動のせいで誰かに迷惑をかけるのが怖かった。
「更家、飲まないの?」
「今日はいいかなと思って」
「じゃあ、俺も今日はお茶にしておこう」
「えっ、明日見くんは飲んで大丈夫だよ」
「せっかく好きな子といるんだから、酔ったらもったいないでしょ?」
 好きな子、という言葉にメニューの紙で顔を隠す。
 どうしてこの人は、こんなに当たり前みたいに言えるんだろう。もともとの彼の性格なのか、それとも催眠アプリのせいなのか。
 ――どっちにしても、わたしはそういうのに慣れてないの。顔、赤くなっちゃう。
「更家?」
「……その、あんまり言われると照れるといいますか……」
「なんで敬語になってんの」
 ――照れてるからだよ!
 何も言えずに、メニューのうしろで顔を伏せる。考えてみたら、虹大は十五歳から長期にわたってアメリカで暮らしてきた人だ。つまり、自分の意見をはっきり言う文化の中で生きてきている。それはわかっているのだが、言われ慣れない「好き」に笑顔で対応できるほど凛世の対人スキルは高くない。恋愛偏差値においても同様だ。
「ほんとうは、もともと飲むつもりはなかったんだ」
 ぽつりと聞こえてきた声は、静かで優しい。
「そうだったの?」
「まあね。さすがに酒の勢いでプロポーズしたと思われたくないから」
「あー、なるほど……」
 言いかけて、凛世は顔の前にあったメニューをテーブルに落とした。料理が運ばれる前でよかった。いや、そういうことではない。
 ――えっ、待って、え? プロポーズって、何? プロポーズ……って、プロポーズ!?
 現時点でされたわけではないけれど、これはほぼ予告プロポーズである。
「あはは、更家、今すごい全部顔に出てるよ」
「そっ……そんなの、当たり前でしょ!」
「ごめん、予告編だけで緊張させちゃったみたいだ」
 自覚を持って、予告を打ってきた。その事実だけがはっきりとわかる。
 ――このあと、プロポーズするって意味で、明日見くんがプロポーズするということはわたしは返事をしなきゃいけなくて、返事って、えっ……!?
 イエスかノー。その間に「ちょっと考えさせて」はあるけれど、最終的にどちらかの結論を出す必要のある状況だろう。
 催眠アプリのせいで凛世を好きと思い込んでいる彼を放置するのは、さすがに寝覚めが悪い。だから、ここしばらく虹大と一緒に過ごしていた。催眠術を解ける専門家を求めて都内のあちらこちらへ移動していたわけだが、見ようによってはこれもデートと言えなくない。
 ほんとうに? と自分に問いかける。
 少なくとも凛世の少ない恋愛経験によれば、催眠療法や催眠術師を巡るデートなんて経験がなかった。それを強引にデート側に寄せることに意味があるのか?
 ――わ、わからない。わたしには何もわからない……!
「更家、ごめんね?」
 語尾を上げ気味に、謝る気配のない言葉が鼓膜を震わせる。テーブルを挟んでこちらを見つめる虹大は、幸せそうに微笑んでいた。
「プロポーズするよって予告しておいたほうが緊張しないかなと思ったけど、逆効果だったみたいだ。だから、ヘンに待たせないほうがいいだろうし、今言うよ」
「ま、待って、明日見くん。ちょっと落ち着こう」
 凛世は、震えそうな指でグラスを持ち、水を飲み干した。もう一杯、水がほしい。
「落ち着くのは更家のほうじゃない? 俺は落ち着いてるよ」
「わたしだって別に……」
「だって、それ」
 彼がにこやかに凛世の手元を指差す。
「俺の水」
「! ご、ごめんなさいっ」
「いいよ、別に。ここが砂漠で、それが最後の一杯の水でも、好きな子になら差し出す」
 ――いったい、なんの話なの?
 少なくとも、ふたりは今砂漠にいない。ここは東京で、レストランの店内で、たぶん水くらいはいくらでも出てくるはずだ。
「再会してからそれほど時間が経っていないのに、おかしいと思われるかもしれない。だけど、俺にとって更家はほんとうに特別で大切な人なんだ。きみがいないと、生きていけない。これまで離れていられたのが嘘みたいに思う。もしかしたら俺は、更家といない間、生きていなかったのかもしれない」
「…………」
 声音はいつもと同じ温度で、やわらかな話し方も普段の虹大なのに。
 伝わってくる愛情の量が尋常ではない。催眠状態だとしても、彼が本気でそう思ってくれていると感じられた。
 ――わたしのせいで、明日見くんがおかしくなってるのに、見捨てるわけにはいかない!
 責任を取るというのは、そういうことだ。
 凛世は覚悟して、彼の言葉を待った。
「だから、更家。俺と結婚してくれませんか?」
「わかりました。お受けしましょう」
「……え、手合わせ? 俺、決闘を申し込んでるわけじゃないんだけど」
「違うよ! プロポーズ受けるって言ってるのに、なんで決闘!?」
「ははっ、ごめん、照れ隠し。――ありがと、更家」
 テーブルの上の右手を、虹大の大きな手が包み込んでくる。恋愛結婚ではない、と凛世は思っている。ある意味、これは催眠結婚だし、なんなら責任結婚だ。だが、どんな名目を語ったとしても結婚は結婚なのである。
 そのあとに運ばれてきた料理は、どれも感動するほどおいしかった。虹大が幸せそうで、いっそうおいしく感じたのかもしれない。

・‥…━…‥・‥…━…‥・

「…………む、しょく」
「そう。無職」
 港区某所。とある低層マンションの広いリビングルームで、凛世はソファに座って懊悩している。
「えーと、確認なんだけど無職っていうのは」
「働いていないという意味で無職だよ」
 ――わたしの結婚相手は、無職!
 しかしながら、無職が住むにはあまりに豪勢なマンションだ。虹大の両親が裕福なことは知っているけれど、二十七歳になる息子の面倒を見ているとは考えにくい。
「ああ、でもね、今は無職というだけでアメリカでは仕事をしていたんだ。そのときに会社を売却したから、日本円でいうと八〇億円くらい資産がある」
 無職の土台に、突如札束が積み上がった。しかし、八〇億円というのは、あまりに現実味のない数字すぎる。一、二、三、いっぱい。凛世の給与が手取りで月二七万円。ボーナスや諸々を含めて、年間の所得がおよそ三八〇万前後である。概算でいうと、千六百年働きつづけて稼げる金額が八〇億円だ。
 冗談を言うような人ではないけれど、だからといってその金額がほんとうだとしたら働かないのも当然――なのだろうか。
「……いったい、どんな」
 徳を積んだらその金額になるの、と尋ねるつもりで口を開いた。けれど、続きは言えなかった。
 虹大は明るい声音とは裏腹に、どこか痛みをこらえるような表情で目を細めていたからだ。こちらを見ているのに、彼の目は凛世ではなくそのさらに向こうを見ているように感じる。あるいは、彼のいたアメリカまで心を馳せているのかもしれない。
「もちろん、一生働かずに暮らすつもりはないから、何かしら新しい仕事を考えるよ。たとえば、凛世のためにコーヒー専門店を作るとか?」
「や、いらないから。大丈夫」
「欲がないね」
 あまりに強く漂ってくる富裕層の香りに頭がクラクラする。
 ――ただより高いものはない、ってね。そんなふうに出資してもらったら、対等な関係でいられなくなりそうだもの。
 今の時点で、ふたりはすでに対等ではないのだが、そのことを知っているのは凛世だけだ。虹大は、自分が催眠状態にあると知らないからこそ、凛世と結婚しようとしている。その事実を思い出し、凛世は少しばかり気が重くなった。
 ――結婚のこと、両親も喜んでいたし……。
 そこに至る理由はなんであれ、結婚するとなれば家族に報告はする。披露宴はしないと決めたが、実家挨拶は必須だ。
 凛世の実父は幼いころに亡くなっているけれど、その後に母が再婚した相手――継父との関係は良好である。継父は凛世のことも大切にしてくれた。年の離れた異父妹も、凛世を姉として慕ってくれている。大好きな家族に、嘘の結婚報告をするのは胃が痛いのも当然だ。
 ――嘘、かぁ。
 だからといって、「催眠アプリでわたしを好きにさせちゃったから、責任とって結婚するね」なんて言おうものならそちらのほうが一大事である。虹大の両親に対しても同様で、凛世はこれから大芝居を何本も打ちつづけなければいけない。
 子どものころから、手のかからない子だと言われて育った。実際にそうだったのかもしれないし、父を亡くして母に迷惑をかけないよう努力してきたようにも思う。
 凛世の人生で行動規範をひとつだけ挙げるなら「迷惑をかけない」だ。
 家族に、友人に、職場の同僚に、知り合いのすべてと、まだ知り合っていないすべての人たちに、迷惑をかけないように生きていきたい。もちろん、それを完璧に成し遂げたいと言い出すほど驕ってはいない。できる範囲で、なるべく迷惑をかけないよう心がける。絶対に達成できない目標は、自分を鼓舞する意味以外に効力を発揮しないと考えていた。
 そういう意味で、少しだけ嘘をつくことで周囲が安心してくれるなら、嘘も悪くない。誰も傷つけない嘘は、嘘ではなく配慮だと思う。欺瞞かもしれない。
 ――全部が嘘なわけじゃない。わたしは、中学のころたしかに明日見くんに恋をしていた。
 突然の結婚とはいっても、同級会で再会して気持ちが盛り上がったなんてよくある話だろう。もともと彼に対して好印象を持っていた。嘘はたったひとつ。彼に催眠術をかけてしまったことだけは、誰にも言えない。
「――……や、更家?」
「は、はいっ!」
 考えごとをしていたせいで、虹大の声に気づかなかった。バッと顔を上げると、目と鼻の先に整った顔がある。
「っっ……!」
 反射的に顔を背けてから、失礼な態度だったかもしれないと気づいたけれど、一度そらした顔を戻すのも勇気が必要だ。おそるおそる彼のほうに目をやると、虹大は嬉しそうに微笑んでいる。
「あの、明日見、くん」
「うん」
「なんで笑ってるの?」
「笑ってるつもりはないけど、かわいいなと思って」
「か、かわいいかな? 今、わたしはぼーっとして明日見くんの話を聞いていなくて、気づいたら顔が近くてびっくりしたんだけど」
「それが全部かわいい」
 でしょ? と、同意を求められたものの、いったい凛世にどんな返事をしてほしいのだろうか。
 少しあとずさって、距離を置く。適正距離でなら、普通に会話ができる。けれど、虹大はあまりに顔が良すぎるため、至近距離ではこちらが冷静でいられない。心拍数が上がり、呼吸が乱れ、確実に頬が赤くなってしまう。そんな姿を虹大に見られるのは嫌だ。
「そ、それはそうとして、この部屋すごいよね。明日見くん、日本に帰ってきてからずっとここに住んでるの?」
「んー、正しくはアメリカで働いているころからこの部屋は持ってたんだ。俺、帰国しても帰る実家がないからさ。毎回ホテルも面倒だしね」
「あ、そっか……」
 余計なことを聞いてしまった。
 中学を卒業するとき、彼がアメリカに渡った理由は両親の離婚だった。つまり、父と母はそれぞれ別に暮らしていて、虹大が帰省する家というものが存在しないのだろう。
「いちいち気にしないで大丈夫。俺も、さすがに大人になったよ。いつまでも両親のことで悩んでいたら、生きづらくなっちゃうから」
「……そう、なの?」
 凛世は未だに、自分の家族に対してかすかな引け目がある。彼らはいつだって凛世に優しい。なのに、あの中にいたら完璧な家族を邪魔している気になって離れてしまった。もちろんたまには帰省するし、妹の入学祝いだって誕生日プレゼントだって欠かさない。
 悩んでいるとまではいかないが、心のどこかに小さな棘が刺さっている。そんな感覚はいつまで経っても消えなかった。
「更家、この部屋気に入ってくれた?」
「気に入るも何も、こんなすごいお部屋、見たことないよ!」
 閑静な住宅地でひときわ広い敷地を使った低層マンションは、室内もインテリアデザイナーを雇ったような空間を活かした造りになっている。唐突に床に置かれた間接照明や、ろくにものが置かれていない北欧風のラック。ソファの横には名前を知らない観葉植物がやわらかそうな葉をエアコンの風に揺らしていた。
「じゃあ、結婚後に暮らすのはこのマンションでいいかな」
「……え、っと」
 結婚とは、婚姻届を提出するだけの話ではない。凛世だって、そのくらいはわかっている。
 とはいえ、具体的な話になると尻込みしてしまうのも仕方ない。二十七年、生きてきた。人並み以下かもしれないけれど、少しは恋もした。それでも結婚は未知のステップなのだから。
「やっぱり、ここだと更家の職場に遠い? だったら、新しくマンションを選んでもいいんだけど」
「そういうことじゃないの。こんなステキなお部屋、もちろん嬉しいよ」
「それなら、憂い顔の理由を教えてくれる?」
「え、あの、憂えてないよ?」
 がんばって微笑んでみたけれど、口角は上がりきらない。きっと目も泳いでいると思う。
「更家は、嘘がヘタでかわいいね」
「さっきから、明日見くんのかわいい基準、ちょっとヘンだと思う」
「そうかな」
「そうだよ!」
 クッションを軽く投げつけると、彼がそれをキャッチして笑った。わたしたちはまるで、中学生のころにできなかったことをしているみたいだ。あのころは、いつだってひと目を気にしていた。ふたりで話す時間は貴重で、こういうふうにバカみたいにふざけている暇はなかった。
 お互いに、限られた時間で胸を切り開き、心を取り出して見せ合う。
 今にして思えば、子どもなりの同病相憐れむ行為だったのだろう。
「そういえば、更家はもう家族には話したの?」
「一応、電話で。あらためて挨拶に行くことになってるけど、いいんだよね」
「もちろん。日程を調整しよう。俺はいつでも平気だから、ご実家の皆さんの都合を確認してきて」
「わかった」
 無職ならば、たしかにいつでも問題ない。ただ、両親に彼が働いていないことを説明するのは、なんとなく悩ましい。八〇億円の資産があるだなんて、信じてもらえるだろうか。
「あの、明日見くん」
「…………」
 今度は、虹大のほうが表情を曇らせて考え込んでいる。挨拶に行くのを想像して憂鬱になっているのかもしれない。
「明日見くん、もしかしてだけど、わたしの親に会うの、しんどい?」
「ん? どうして?」
 こちらを向いた彼は、思いもよらないとばかりに目を瞬いている。では、先ほどの表情はなんだったのか。
「あー、いや。更家の両親には会いたいんだ。でも、俺の両親とは会ってほしくない……って言ったら、結婚取りやめる?」
「取りやめる……まではしないけど、理由は知りたい」
 一瞬、悩んだ。
 ここで取りやめると言ったら、結婚しないで済むのかもしれない、と。
 だが、そうなったらもう二度と虹大に会えなくなる。この結婚は間違いだ。なのに、虹大に会いたい。凛世はその理由を、彼の催眠を解いていないからだと思うことにした。
「理由か。更家をあんな人たちに会わせたくない」
「え」
「俺の好きな子に、嫌な思いをしてほしくないのは、理由にならない?」
「な、なる、かな」
 目を見て好きと言われるのには、どうしても慣れない。そもそも彼の本心ではないと凛世は知っている。ほんとうに好かれているわけではない「好き」は、心臓が跳ねるのと同時にほろりと寂しさがこみ上げるのだ。
 ――明日見くんのご両親ってたしか……。
 父親は舞台の演出家で、母親は有名俳優だと聞いている。別に有名人に会いたい気持ちはないが、結婚する相手の家族に挨拶をしないのは不誠実ではないだろうか。
 そう思ってから、誰に対しての不誠実、と凛世は自分の思考の甘さに気づいた。
 たしかにこの結婚は初手からおかしい。それなのに、世間体をいちいち気にしてどうする。いちばん誠実でいなければいけない相手は、世間ではなく虹大だ。彼に対して、凛世は誠実でありたい。迷惑をかけた側なのだから、せめてこれ以上虹大に嫌な思いをしてほしくなかった。
「うん、わかった」
 大きくうなずいて、彼をまっすぐに見つめる。
「明日見くんのご家族のことは、明日見くんがいちばんわかっているんだから、それを無視して無理に挨拶をしたいわけじゃないよ。ただ、必要がある場合や、お父さんお母さんがわたしに会いたいと言ったときには、きちんと相談してくれる?」
「……それでいいのか?」
「いいよ。よくなかったら、提案しないよー」
 笑った凛世に、彼は安堵した様子で頬を緩ませた。
 考えていたよりも、虹大にとって両親の存在は大きな地雷なのかもしれない。
 ――先方のご両親と顔合わせしないことについては、うちの親にうまく話しておかないといけないな。
 離婚していて、双方が有名人ともなれば、容易に同席できないのも納得してもらえる気がする。凛世の親は、年齢なりに礼儀を重んじる部分もあるけれど、他者の事情を慮れないほど考えが固いわけでもない。
「ありがとう、凛世」
「えっ、あ、は、はい……」
 突然名前で呼ばれて、耳がジンと熱くなる。見れば虹大も、うっすら頬が赤くなっていた。照れるなら呼ばないでよ、とは言えない。凛世は、名前で呼ばれて嬉しいと感じている。
「電話で紹介するだけなら、できると思うから」
 ――あ、電話なら紹介してくれるんだ。まったく紹介ナシではない、と。
「驚いた顔してる。俺、別に凛世のことを隠したいわけじゃないからね?」
「う、うん」
「なんなら、みんなに言ってまわりたい」
「何を?」
「この子が俺の好きな人です、って」
 不意に抱きつかれ、心臓が破裂しそうなほどに高鳴った。
 好きになりたくない。
 でも、こんなのもうとっくに好きなのかもしれない。
 この関係は、彼の催眠が解けるまで――。
「……っ、あの、明日見くん、ち、近い」
「抱きしめたら、このくらいの距離は普通じゃない? 凛世はパーソナルスペースが狭いほう?」
 一度呼んだら、以降は当然のように名前を連呼して、虹大が凛世を覗き込んでくる。
「わたしは緊張しやすいので……っ!」
「だったら、もっと慣れないといけないな」
「ひゃッ!!」
 さらにぎゅうと抱きしめられ、ふたりはソファの上で密着した。心臓の音が、聞こえてしまう。
 ――慣れるって、こんなの無理だよ!
 顔を真っ赤にしたまま、凛世は彼の肩にひたいをつける。せめて、この赤面しきった表情を見られないように。
「凛世はさ、優しいから俺と結婚してくれるんだろうけど、俺はそれだけじゃ満足できないんだ」
「どういう、意味?」
「そばにいてくれるだけじゃ、足りない。凛世が俺を好きになってくれたらいいなって思ってる。結婚したら、少しずつふたりの時間が増えて、俺が抱きしめても緊張しないようになるかもしれないけど……」
 耳元に、ふう、と呼気が当たる。凛世はびくっと肩を震わせて、顔を上げた。
「!」
 ふたりの顔の距離は、五センチと離れていない。ほんの少し顔を傾けるだけで、唇が触れてしまいそうなほどだ。
「ねえ、凛世」
「……っ……!」
 キス、される。
 そう思ったけれど、虹大はそれ以上距離を詰めなかった。形良い唇が、戸惑うように開閉する。
 ――しない、の?
「……ごめん、ちょっと聞きたいんだけど」
「な、に?」
 ドキドキしすぎて、声がかすれた。目を伏せて、胸のせつなさに息苦しさを感じる。
「キスしたいときって、なんて言ったらいい?」
「そっ……んなの、もう、それだけで伝わるっていうか……」
「うん?」
 凛世よりよほどキスに慣れているだろう虹大が、真剣に答えを待っていた。
 ――だけど、答えたらキスすることになるよね。
「凛世?」
「う……、なんで聞くの?」
「凛世が好きだからだよ」
 ずるい、と思った。
 この距離で、こんなに優しい声で。
 凛世に選ばせるのは、ずるい。いっそ、キスしたいと強引に奪ってくれたほうが諦めもつく。
 だけど、虹大はそうしない。あくまで凛世の答えを待つ姿勢でいる。それが彼の愛し方なのかもしれない。だとしたら、きっと忘れられなくなる。
 ――わたしを、どんどんおかしくするんだ。明日見くんにキスされたら、きっともう夢中になっちゃうんだよ。明日見くん、わかってるの?
「ねえ、教えて」
「……何も言わなくて、いいと思う」
「いいんだ?」
「た、ぶん」
 大きな手が、凛世の頬に触れた。彼の手は優しくて、温かくて、心まで撫でられているような錯覚に陥る。
 ――どうしよう。どうしよう。どうしようもなく、好きになっちゃう。
「ありがとう」
 嬉しそうに微笑んだ虹大が、ゆっくりと唇を重ねてきた。
「ん……っ……」
 覚悟をして受け入れたけれど、彼は何度も角度を変えてくちづけるばかりで、その先に進もうとはしない。舌を入れるでもなく、凛世を押し倒すでもなく、慈しむようなキスを繰り返す。
 虹大の優しさが胸にじわりと広がる。
 同時に、もどかしさが喉の奥で疼いた。
 だが、それも最初の二十秒ほど。凛世が酸素を求めて口を開けると、そのタイミングを待っていたとばかりに虹大が舌を送り込んでくる。
「んん……っ……!」
「油断、した?」
 ――だって、息ができなくて……。
 満を持した甘い舌の動きに、待ち望んでいた心が震えた。
 肩甲骨の間からうなじにかけて、ゾクゾクと電流に似た痺れがこみ上げる。凛世は応えるように口を開き、彼の舌を迎え入れた。ねっとりと絡みついては、口蓋をあやされる。くすぐったくて、気持ちよくて、体中が粟立つのを止められない。
「んぅ……、ん、ぁ、すみ、くん……っ」
「まだ駄目。もっとキスしたい」
 さっきはキスするまでにあれほど躊躇していたくせに、虹大は一度始めたキスをやめる素振りを見せない。リビングの壁に掛けられたアナログ時計が、カチ、カチ、と時を刻む。
 呼吸まで奪い尽くすように、彼のキスが深まっていく。
 ――ダメ、こんなにされたら、わたし……。
 彼は、足りないと言った。そばにいるだけでは足りない、凛世の気持ちがほしい、と。
 けれど今の凛世は、キスだけでは足りなくなっている。
 ゆうに二分を超える唇への甘い合図で、心も体も潤ってしまうのだ。
 ――結婚って、明日見くんはほんとうにわたしと一線を越えるつもりなの? わたしたち、このままもしかしたら……。
 せつなげな吐息とともに、虹大の唇が離れていく。今の吐息は、彼のものか。それとも自分のものだったのか。
「続き、したい?」
 耳に触れる唇が、無声音で尋ねてくる。
「そ、れは、その……」
「俺はしたいんだけどね」
「っっ……!」
 うなずいたら、このまま結ばれる流れなのは凛世にもわかる。そして、凛世だってここで終わりにするのをせつなく感じているけれど、虹大はなんらかの返事を待っているのだろうか。
 彼の表情を窺うか迷っていると、「安心して」と声が聞こえてきた。
「したくても、しないよ。結婚するまで、我慢する。それと、凛世が俺をほしいって思ってくれるのを、待ってるから」
 優しく髪を撫でられて、心臓のいちばん弱いところに彼の言葉がぎゅんと刺さる。
 好きにならずになんていられるわけがない。
 彼に触れているだけで、彼の手で撫でられるだけで、彼の体温を感じているだけで。凛世の心は、虹大に引き寄せられていく――。

 

「それでは届け出を受理しました。何か不備があった場合、後日連絡させていただくことがあります」
 一月十一日の午前中から、虹大と凛世は婚姻届を提出するために区役所に来ていた。
 お互いに本籍地が別の区にあったため、必要な書類を持ち寄っての届け出になる。前もって彼がしっかり下調べをして、準備を整えてくれていたこともあり、提出まではスムーズだった。
 ――ほんとうに、提出しちゃった。
 婚姻届受理証明書を発行してもらい、区役所ですべき名義変更の手続きがすべて終わったのは正午を少し過ぎたころ。想像していたよりも時間はかかったし、名字が変わる凛世にはやるべき手続きもたくさんあった。このあとも、銀行や保険、会社の庶務課で名前変更の申請をしなければいけない。会社については、結婚したことも伝える必要がある。
 でも、とりあえず今日のミッションは終了ということになり、ふたりはスーパーで買い物をしてから、虹大のマンションまで歩いて帰ることにした。
 彼はエコバッグを常に携帯している。こういうところがまめだなぁ、と思う。
 凛世も節約のために無駄な買い物袋は買わないほうだったけれど、虹大には節約をする必要がない。無職だろうと八〇億円の資産があれば一生エコバッグを使わなくても生きていける。
 ――でも、明日見くんはちゃんとエコバッグを持ち歩いてる人。
「凛世、ほんとうに外食じゃなくてよかった?」
 マンションまでの帰路を歩きながら、荷物を持った虹大が尋ねてくる。
「うん。どうして?」
「せっかくの記念日だし、今日くらい作らなくてもいいとは思う。凛世は毎日働いているんだから、家事は俺に全面的に任せてくれてもいいんだよ」
 家事については、彼のマンションに荷物を運び入れるときからずっと、虹大がほぼ担うと言ってくれていた。ありがたいと思うし、掃除については基本的にお願いする話になっている。
 けれど、自分の下着を洗ってもらうのはさすがに気が引けるのと、凛世は料理をするのが嫌いではなかった。だから、洗濯は一部のみ虹大にやってもらい、料理は状況を見て考えようという結論が出ている。
 ひとり暮らしだと、仕事で疲れているときは買ったもので食事を済ませることも多い。コスパ、タイパどちらの面でも効率がいいからだ。それでも休みになれば、常備菜を作るのが凛世の気分転換だ。
 料理をしていると、頭の中がすっきりする。何も考えずにひたすら手を動かす――というのは、仕事も同じなのだが、お客さまのためではなく自分のために作業をするのが大事なのかもしれない。
 だから、ふたり暮らしになってもたまには料理をしたいと考えている。今度は、自分のためだけではなく、虹大に食べてもらう楽しみもあるのだ。
 ――結局、好きになっちゃった。こんなの抗いようがない。
 好きになってはいけないと思っていた。
 それについては、今だってまだ思う部分はある。
 しかし、どうあがいたところで心はコントロールできない。好きになってしまったのなら、その自分を受け入れるしかないのだ。
 だったら、好きな人に自分の作った料理を食べてもらうのは幸せのひとつだろう。
 虹大は、基本的にひとり暮らしに慣れている。彼から聞いた話では、高校時代は伯父の家で暮らし、大学在学中は寮生活、以降はひとり暮らしをしていたそうだ。
 お互いに、長くひとり暮らしをしてきたふたりの生活は、家事に困ることはない。だからこそ、たまには誰かが作ってくれたものを食べたい気持ちを凛世は知っている。
 ――明日見くんも、そうだったらいいな。わたしの作る食事を、少しでも嬉しく思ってくれたらいいな。
「凛世?」
「一緒に作るのも、記念日らしくない?」
「ああ、たしかにそうかも。ありがとう、凛世」
「え、何が?」
「俺と結婚してくれて、ありがとう」
 虹大が左手を差し出してくる。凛世は緊張しながら、その手を取った。一月の冷たい空気の中で、彼の手が温かい。
「こちらこそ、あの……これからよろしく、ね?」
「うん。これからもよろしく」
 手をつないで歩く帰り道は、行きの緊張がほぐれたこともあって、時間がゆったりと過ぎていく。少し遅めの昼食を、ふたりで作ってふたりで食べる。それはきっと、幸せな新しい日常の始まりだ。

 広いアイランドキッチンカウンターに、並んで作った料理はビーフシチュー、ガーリックトースト、モッツァレラチーズと果物のアボカドサラダ、それからきのこのマリネ。本日二度目の一緒に料理だ。昼はシンプルにパスタで済ませたけれど、夜は少し気合を入れて準備した。
「明日見くん、アボカド切るのじょうずだったね」
 料理をテーブルに並べながら、凛世は彼の大きな手を思い出す。長い指に持ち上げられたアボカドは、いつもより小さく見えた。
「アボカド、普通じゃない?」
「普通だけど、なんかすごくきれいに見えた」
「ははっ、ヘンなとこ見てるね」
 カトラリーを運んできた虹大が、照れたように微笑む。
「手が大きいと、アボカドが小さく見えてかわいい」
「それは、俺が? それともアボカドが?」
「アボカドが」
「ふーん」
 順番にキッチンとダイニングを往復して料理やグラスを運び終え、さて椅子に座ろうとした瞬間、虹大がぽんと肩に手を置いた。もう一方の手には、果物ナイフと小ぶりのオレンジが握られていた。やっぱり、手が大きい。
「どうしたの?」
「凛世の手がどのくらい小さいか、確認したいなと思って」
 手のひらを凛世のほうに向けて、彼がニッと笑う。ここに手を合わせろという意味だ。
「別に小さくないですぅ」
「小さいですぅ」
「うー、わたしの手が小さいんじゃなくて明日見くんの手が大きいんだってわかってる?」
「はいはい、ぐずってないで早く」
 急かす言い回しとは裏腹に、彼の声は優しさが滲んでいる。凛世がおずおずと手のひらを合わせると、虹大が「ほら」と破顔した。
「やっぱり小さい」
「そっちが大きいの」
「凛世の手、かわいい」
「……そんな話、してないと思うんですけ、ど……っ!?」
 指の間に、ひたりと温かな感触が広がる。虹大が、指と指を絡めるようにして手を握ってきたのだ。
「ほらね、かわいい」
 そのまま手を引っ張られ、凛世は彼の胸に抱きしめられてしまった。
 彼のことを好きだと思う。催眠状態ということに目をつぶれば、好きだと言われている。そしてふたりは、いまや社会的に認められた婚姻関係にある。
 ――つまり、こういうふうに恋愛的な行動をするのを咎めるものはなくて……!
 頭の中で言い訳を組み立てながらも、凛世は虹大の心音に目を閉じていた。誰かの鼓動をこれほど心地よく感じたことがあっただろうか。
「……明日見くんだから、かな」
「何が?」
「心臓の音……、気持ちいい」
 すう、と呼吸がラクになる。そこで初めて、凛世は気がついた。
 ――わたし、明日見くんといると緊張する。だけど、明日見くんといるとすごく呼吸がしやすい。
 緊張しすぎて息が苦しいときもあるけれど、それはまた別の話だ。彼と並んで過ごす時間は、いつだって体の中にしっかり酸素が入ってくる。もちろん、それは気のせいかもしれない。だが、そう感じられるほどに凛世は虹大といるのを快適に感じている。
「俺も、凛世のこと抱きしめてると気持ちいいよ」
 そう言われて、彼が果物ナイフを持っていたことを思い出す。
「え、待って。明日見くん、刃物持ってない? 果物ナイフ持った手で、わたしのこと抱きしめてない!?」
「持ってるけど大丈夫。これは、凛世を守るための刃だから」
「何から守るの?」
 ここに敵はいない。まして凛世は殺し屋にも警察にも狙われていないはずだ。
「うーん……。俺?」
「明日見くんから、明日見くんが守ってくれるってこと?」
「そうだよ。ねえ、守ってほしい? それとも――」
「守ってください!」
 即答した凛世の頭上で、ははっと笑い声が響く。
「残念。攻め入るチャンスを自分でつぶしちゃった」
「シチュー、冷めちゃうから、ね?」
「はい。観念します」
 冗談めかした彼が腕をほどき、凛世は真っ赤な顔で虹大を見上げる。
 彼はどこまで本気なのだろう。本気で、凛世に攻め入る気があるのか。それとも、本気で守ってくれようとしているのか。
「あー、凛世がかわいくて幸せだなぁ♡」
「観念してなくない?」
「してるしてる」
 テーブルに並んだ料理が、幸福な湯気を上げていた。
 虹大は凛世のことをかわいいかわいいと言っているけれど、凛世からすれば彼もまたかわいい。こんなに魅力的で大人の男性に対して、かわいいだなんて失礼かもしれないけれど。
 ――好きになると、かわいく見えるのかも?
 だとしたら、彼がかわいいと言ってくれる間は、そばにいられるのかもしれない。少しでもかわいく見えるよう、努力してみようか。そう思ってから、自分の浅ましさに頭を殴られたような気持ちになる。
 こんなに幸せなのに。
 こんなに幸せだからこそ。
 彼の想いは催眠アプリのせいだということを、思い出してしまうのだ。
 だったら、この結婚はなかったことにしてください、神さま。
 ――最初からもう一度出会い直して、もう一度好きになれたらいいのに。
 だが、凛世は虹大に何度も恋するかもしれないが、彼が同じだとは思えない。催眠アプリでもなければ、虹大と結婚なんてありえないとわかっている。
 ――この結婚、なかったことに……したいの? したくないの?
 凛世は、自分に問いかけつづけた。

・‥…━…‥・‥…━…‥・

 ベッドはひとつ。人間はふたり。夜はいつものようにやってくる。これなーんだ?
 寝室のドアを開けて、凛世はパジャマ姿で胸を押さえる。心臓が痛い。まだ何もしていないのに。
 ――ま、まだ何もって、これから何かあるって決まったわけじゃないし。
 自分に言い訳をひとつしてから、スリッパでぺたぺたとベッドまで移動する。
 どちらを望んでいるのだろう。何かがあってほしいのか。なければ安心できるのか。あるいは、何もなかったら落胆する可能性すらある。
 引っ越しの準備を進めていたときから、この問題にはずっと直面してきた。彼がもともと暮らしていた港区のマンションで新生活を始めることになり、引っ越しはさほど大変ではなかった。ウォーキングクローゼットも余っていたし、家具を買い替える必要もほとんどない。
 そして、リビングも寝室も広いけれどあくまで1LDKなのである。
 虹大は長身なことや、アメリカ暮らしが長いせいもあって、ひとり暮らしのときからクイーンサイズベッドを使っていた。ひとつしかない寝室の、完璧に配置されたベッドを見たとき、凛世はここに自分用のベッドを置くことを諦めたのだ。
 ――一緒に寝る覚悟はできてる。でも、その、それ以上の……眠る以上の『寝る』覚悟、できてるの、わたし!?
 やわらかな羽毛布団の上にちょこんと腰を下ろし、凛世は自分の考えを整理する。できるかどうかは不明だが、整理しようとはしている。
 経緯はどうあれ結婚をした。そして、自分は虹大のことを好きだという自覚がある。
 ここまできてもったいぶるつもりは、凛世にだってない。彼とキスしたときに、このまま流されてしまいたいと思ったのも事実だった。今だって、体の奥に甘い疼きが存在している。彼に触れられたいし、彼に触れたい。
 ――ああ、わたし、覚悟できてる。むしろ、明日見くんに抱かれたいって思ってるんだ。
 彼は自分が催眠術にかかっていると認識していない。催眠療法に連れ回していたころのほうが、訝られていたのだろう。結婚準備で、ここしばらくは催眠関連のほうは放置している。あくまで、催眠術を解くことを先送りにしている、というだけで諦めたわけではない。
 ――そろそろ、明日見くんも上がってくる、かな。
 胸に手を当てて、深呼吸を繰り返す。もし彼が、求めてくれたら。そのときには――。
 がちゃり、と寝室のドアが開く。湯上がりの虹大は、やわらかく揺れる黒髪の下からこちらを見た。目尻がかすかに赤らんでいる。
「起きて待っててくれたんだ?」
「ん、えっと、まあ……」
「なんでそこで照れるの。凛世はほんとうにかわいいな」
 近づいてきた虹大が、ほこほこに温まった手で頭を撫でてくる。
「寝る準備、もういいの?」
「うん、大丈夫」
「じゃあ、どうする?」
「えっ!?」
 ――どうするって、何を? 何が? なんの話?
「もう寝る?」
「う、うん」
「わかった。おいで」
 羽毛布団をめくり上げ、虹大がさっとベッドに横たわった。そのまま両腕を広げて、凛世を招く。緊張しながら彼の腕の中に身を委ねると、同じ入浴剤の香りがした。
「凛世、湯冷めしてない?」
「してない、と思う」
 まだ体が火照っている。心臓の音が、喉元から聞こえる気がした。
 虹大はリモコンで天井のシーリングライトを消す。窓際に置かれた間接照明が、ほのかに室内を照らしていた。
「まだ、夢みたいだ」
 彼の両腕が、凛世を宝物のように優しく抱きしめている。力を入れすぎないようにしているのが、なんとなく伝わってきた。
「……うん」
 ――わたしにとっても、この時間は夢みたい。
 だけど、夢はいつかかならず覚める。夢ではなく、夢みたいな現実であってほしい。
「日本に帰ってきて、よかった」
「もう、大げさすぎない?」
「そんなことない。俺にとっては、凛世と再会できたことも、今ここにふたりでいることも、奇跡みたいに幸せだから」
 形良い唇が、凛世のひたいに触れる。こめかみ、耳、頬、鼻先。順番にキスされるのを、凛世は目を閉じて受け止めていた。
 まぶたの上に、しっとりと唇が押し当てられる。
「……俺、自分はもう少し語彙があると思っていたんだけど」
「う、ん?」
 ――なんの話?
「凛世といると、言葉が見つからなくなる。ただ幸せで、愛しくて、好き。そればかりになる」
「そ、それはその、ありがとう、というか……」
「ありがとうは俺のセリフだよ。こんなに幸せをくれた凛世に、心から感謝してるんだ」
「……っ……」
 胸が痛くて、泣きそうになる。そのくらい、虹大の声が優しい。
 ずっとこのままでいたいと思うのは、自分のエゴだと知っている。彼にとっては、この時間はのちに不本意なものと変わってしまうかもしれない。
 それでも今だけは、凛世も幸せだと言っていいのだろうか。
「あのさ、大事な話があるんだけど」
「だいじな……」
 ――まさか、催眠が解けたとか……。
 背筋がすうっと冷たくなる。緊張で、体がこわばった。
「えーと、もしできたら、でいいんだけど」
「うん」
「俺の名字になったわけだよね」
「……うん?」
 婚姻届を提出した。名字の変更手続きも進めている。たしかに今の自分は、明日見凛世だ。
「だから、名前で呼んでもらえないかな」
「あっ……、そ、そうだよね。そのほうが普通だよね」
 言いながら、心がもぞもぞと気恥ずかしさでいっぱいになる。
 凛世は、結婚して初めて過ごすふたりの夜に、するのかしないのか、そのことばかり考えていた。彼が話があると言えば、催眠についてのことかもしれないと怯えていた。
 ――だけど明日見くんは、これからのわたしたちのことを考えていてくれたんだ。
 あらためて、彼に対して申し訳ない気持ちになる。結婚は、人生において大きなイベントだ。もし彼が日本に帰ってこなければ、こうして凛世と出会って催眠アプリを使われることも、あまつさえ結婚することなんてなかっただろう。
 ――人生の責任なんて、取りようがない。わかってる……。
「りーせ」
 わざと音を伸ばして呼びかけて、虹大が目を覗き込んでくる。
「もしかして、俺の名前、知らないなんて言わないよね?」
「し、知ってる」
「ああ、よかった。急に黙るから、夫の名前も知らないのかとハラハラしたよ」
「……知ってるけど、急にはほら、あの」
「急に結婚したんだから、急に名前で呼ぶくらいなんてことないと思わない?」
 言われてみれば、それもそうだ。より高いハードルを飛び越えたのだから、名前で呼ぶくらい――。
「あのね」
「ん?」
「思ったより、恥ずかしい……っ」
 羽毛布団の中にもぐり込み、両手で顔を覆う。まだ呼んでもいないのに、想像しただけで顔が熱くなった。
「こら、逃げないで」
「や! こういうの、なんかすごいダメなの」
「駄目じゃないよ。俺は、凛世に名前を呼ばれたい」
「だって……」
 虹大も一緒になって布団を頭の上まで引っ張り上げる。ふたりは、暗がりの中に閉じ込められた。うっすらと見える彼の輪郭に、なぜか胸が締めつけられた。息苦しいのは、布団の中にいるから。
「呼んで、ほしいな」
「う……」
「時間をかければかけるほど、きっと恥ずかしくなるよ。だったら、ここでさらっと呼んだほうが――」
「こ、こうだいっ」
 目をぎゅっと閉じて、彼の名前を唇に乗せる。
「……もっかい」
「虹大、虹大、こうだい……」
「凛世」
 ぎゅうう、と強く抱きしめられて、耳元に彼の熱い吐息が触れた。
 ――明日見くんの鼓動、すごく速い。
 同時に、凛世の心臓も同じくらい早鐘を打っている。
「……やばい、ね」
「え……」
「好きな子に名前を呼ばれるのって、すごく来る」
「あす……う、違う。虹大、さん」
「サン、いらない」
「虹大」
「あー、もう! 俺のこと煽るの、うますぎるんじゃない?」
「煽ってないよ。虹大……が、名前で呼んでって言ったの、忘れた?」
「忘れてない。嬉しい。好き」
 カタコトみたいに区切って、彼は凛世を抱きしめたままため息をついた。
「好きすぎて、ほんとやばい。凛世、ありがとう。おやすみ」
「おやすみなさい……」
 結婚後、初めての夜は、喉元までこみ上げる愛情で凛世を溺れさせながら更けていく。
 ――眠れるかな、わたし。
 先におやすみを言った虹大も、しばらく寝付けずにいるのを感じた。ふたりの夜はぬくもりの中にあった。

 

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