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この結婚、なかったことにしてください! 初恋の彼に催眠アプリを使ったら極甘新婚生活が始まっちゃった!?  1

第一話

 
 吉祥寺駅北口から、徒歩三分。古いビルの一階にあるホクラニコーヒー吉祥寺店は、ハワイ好きの社長が経営するチェーン展開のカフェだ。
 名前の『ホクラニ』はハワイ語で天国の星を意味する。店の入り口にはハワイで買い付けてきたという古いロングボードが飾られ、白木の木目を活かしたテーブルとエメラルドの壁紙も相まってハワイの海を思わせる。社長の趣味で置かれたレトロな木製のテーブルサッカーは、たまに「写真撮ってSNSに公開してもいいですか?」と尋ねられることがあった。
「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりですか?」
 この店で、更家凛世(さらやりせ)は今日も朝七時から働いている。開店時間は八時だが、早番のときは一時間前に来て店内の清掃をするのが日課だ。逆に遅番のときは閉店時間の二十一時以降に、精算業務と店の戸締まりをするため、店を出るのが二十二時になる。
 不規則なシフトと、土日祝日にあまり休めない点はさておき、凛世は憧れていたコーヒーショップの店長として毎日仕事に励んでいた。
 凛世が幼いころ、父はコーヒー豆専門店をやっていた。店に連れていってもらったのは一度きりだったけれど、父に抱き上げられるたび鼻の奥まで感じるコーヒーの香りが大好きだった。
 六歳で父が他界したため、凛世には父の記憶があまりない。その分、コーヒーの香りだけが鮮やかに思い出されるのかもしれない。
 まだ小学校にも上がらない凛世に、父はよく言っていた。
『凛世、コーヒーが好きな人に悪い人はいないんだぞ』
 今にして思えば、父なりの冗談だったのだろう。けれど、凛世は素直に父の言葉を受け止めて生きてきた。実際、コーヒー好きで悪い人には出会ったことがない。
「ドリップコーヒー、ホット、トール、テイクアウトで」
「七二〇円になります」
「QRコードで」
「かしこまりました。バーコードを読み取らせていただきます」
 カウンター内では、アルバイトの木原夢見(ゆめみ)が慣れた手付きで商品の準備をしている。夢見は大学二年生。吉祥寺店のオープニングスタッフとして採用され、週に三日から四日のペースでバイトを続けていた。遅刻や欠勤の少ない子なので、シフトの安心感がある。
「商品は、あちらのランプのあるテーブルでお渡しします。進んでお待ちください」
 出社前の会社員たちが列をなす、朝の店内は混み合っていた。いつもの平日、顔なじみの常連客たち。
 凛世は、いわゆるオフィスで働いた経験がない。大学を卒業後、都内に当時十五店舗を経営していたホクラニコーヒーに就職し、これまでに新宿本店、市ヶ谷店、立川店に勤務した。昨年吉祥寺店のオープンにともない、店長を任されたのだ。
 入社から五年が過ぎ、今ではホクラニコーヒーは都内三十店舗、関東近郊の出店も拡大してきている。
 ――皆さん、今日も一日がんばってください!
 手際よくレジをこなしながら、凛世は客を見送る。
 平日、朝八時から九時の一時間はひっきりなしに注文が入る。この時間は圧倒的にテイクアウトが多い。九時から十一時までは、店内でモーニングを食べる客が増える。ホクラニコーヒーは、食事メニューもなかなかおいしいと評判なのだ。
「店長、アイスティーの補充に行ってきます」
「お願いします」
 朝のテイクアウトが落ち着いて十時を過ぎたあたりから、バイトの子たちを順番に十五分休憩に送り出す。ランチタイムに活躍してもらうため、多少余裕のあるときに体を休めてもらうのが肝要である。
 休憩を定期的にとらないと、仕事の効率が落ちてしまう。店長研修の際に、そのあたりはしっかりと教え込まれた。
 実際、こうした業態のコーヒーショップでは、スタッフのほとんどをパートとアルバイトでまかなっている。小規模店舗の吉祥寺店には、凛世のほかに社員はいない。
 アルバイトの待遇が悪いと接客の品質が下がることは、本部の統計資料に記されている。凛世は、この吉祥寺店を居心地のいい場所にするため、バイトの子たちに誠実な対応をすることを心がけてきた。
 その甲斐あってか、吉祥寺店ではスタッフの入れ替わりが少ない。夢見のほかにも、オープニングから続けてくれているバイトが八人、今年になって新規で採用したバイトが四人。最少人数ではあるものの、少数精鋭の信頼できる者ばかりだった。
「アイスティー、冷蔵庫に補充しておきました」
「ありがとう、夢見ちゃん。休憩どうぞ」
「行ってきます」
 夢見がバックヤードに消えると、入れ替わりでそれまで休憩していたパート主婦の新野由香里(にいのゆかり)が戻ってきた。
「店長、戻りました」
「おかえりなさい。新野さん、来月のシフト希望、提出ありがとう。いつも早めに出してくれるから助かってます」
「え、そんな。こちらこそ、吉祥寺店は雰囲気がよくてありがたいですよ」
 由香里は、学生時代にもほかの店舗でバイトをしていたという。経験があり人当たりのいい彼女には、オープン時からスタッフを支えてもらっている。
「週末には、シフト調整終わると思うのでもう少し待ってくださいね」
「よろしくお願いします」
 そんな会話をしていると、ロングボードを飾った入り口からひとりの男性が店に入ってきた。時刻は午前十一時二分。ランチタイムの混雑にはまだ早く、店内は空いていた。
 由香里がテーブルを拭くためにカウンターを出ていく。指示がなくても自分で仕事を見つけて動けるスタッフが多い――とは、本社の視察が吉祥寺店を評した言葉だ。
「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりですか?」
 レジ前に立つと、凛世は長身の青年に声をかける。仕立てのいいスーツを着た人物だ。左手首の腕時計は、スイスの有名ブランドに間違いない。
「水出しはありますか?」
 低くかすれた声が、妙に甘く鼓膜を震わせる。ふと顔を上げると、一瞬目を瞠るほどの美形だ。黒髪は丁寧にセットされ、自然な凛々しさを感じさせる眉が左右対称に弧を描く。目尻がきゅっと上がったアーモンド型の双眸と、精悍な輪郭。ファッション誌から抜け出してきたような佇まいに、凛世はかすかな胸騒ぎを覚えた。
「ホットとアイス、どちらもご用意がございます」
「じゃあ、アイスで。サイズはトール」
「かしこまりました。店内でお召し上がりでしょうか?」
「いや、テイクアウトで」
「八一〇円になります」
 長財布からカードを一枚取り出すと、彼が支払いを済ませる。
 手が大きい。指が長い。爪の形がきれいだった。
 ――なんだろう。初めて見るお客さまだけど……。
 凛世が当惑しているのは、彼が人並外れた美貌の持ち主だからでも、高級品を身に着けているからでもない。既視感があるのだ。
 レシートを手渡すときに、目が合った。美しい黒い瞳は、どこか厭世的な雰囲気を感じさせる。
 仕事柄、店に来る客の顔は覚えていた。常連にいたってはコーヒーの好みまで把握している。だから、凛世が働いているときに彼が来店したのはこれが初めてだろう。
 見覚えがある理由が思いつかない。もしかしたら、芸能人か、有名人か。こちらが一方的に顔を知っているのだろうか。
 ――こんなにきれいな男の人なら、一度会ったら忘れない気がするんだけど。
「お待たせいたしました。水出しアイスコーヒーのトールサイズです」
 朝の混雑時と違い、凛世は自分でコーヒーを準備してレジ前で袋に入れて差し出した。大きな手が紙袋を受け取る。
「ありがとう、更家さん」
「えっ……?」
 なぜ、この人は自分の名字を知っているんだろう。
 驚きに硬直した凛世を残して、彼は何事もなかったように店を出ていく。まっすぐに伸びた背中が、正午前の陽光を受けてやけに眩しい。
 レジに残された凛世は、しばらくぼうっと彼の背中を見送っていた。いつの間にかテーブルを拭き終えた由香里が戻ってきて、「店長」と小声で呼びかけてくる。
「あ、はい」
「今のお客さま、すっごい美形でしたね……」
「そう、でしたね」
「それに、店長のネームプレートまでチェックしてお礼を言ってたじゃないですか? 感じがいいっていうか、そつがないっていうか。うーん、美形は言動まで美しいんですね」
 ――あっ、そうか。
 由香里の言葉に、彼が自分の名字を呼んだ理由がわかった。黒いブラウスの左胸に漢字とアルファベットの二種類の表記をしたネームプレートをつけている。知り合いでなくとも、それを見れば凛世の名字がわかって当然だった。
 やはり、知り合いではなかったのかもしれない。
 ――でも、どこかで見たことがあるような……?
 その日は、夕方までずっと彼の姿が脳裏にちらついた。

・‥…━…‥・‥…━…‥・

 十五時半、早番の勤務時間を終えてバックヤードで売り上げを確認してから凛世は帰りのしたくをしていた。朝早くから働いたぶん、通勤ラッシュに巻き込まれず夕方前に帰宅できるのはカフェ店員のいいところだ。
 店の制服を脱ぎ、通勤用のワンピースに着替える。仕事中は結んでいた髪を下ろすと、鏡に映る自分の姿が目に映った。胸の上まである黒髪と少し切りすぎた前髪。化粧は肌を整えるだけで、アイメイクは色味を押さえている。小柄で童顔のため、年齢よりも幼く見られがちなのは悩みのタネだ。
 ――早番の日は、どうしても顔色がいまいちなんだよね。
 学生時代から、貧血気味で低血圧なのは変わらない。たまに色白なのを褒められることがあるが、日に焼けるとすぐ真っ赤になってしまうので、冬場も日焼け止めが手放せない。本人としては、それほど嬉しいことでもなかった。
 ――そろそろファンデ買わないといけないんだった。帰りに買おうかな。でも、あと数日はいけそうだし……。
 さて帰ろうかとロッカーを開けて、バッグを取り出す。すると、バックヤードのドアが開いてバイトの長谷勇気(はせゆうき)が入ってきた。
「店長、もう帰っちゃうんですか?」
「帰りますよ。明日も早番だからね。早く帰って早く寝て、早く起きるんです」
「元気すぎだし、早くって言いすぎ。店長、ほんと店のこと愛してますよね」
 春から大学四年になる長谷は、親戚の経営する企業に就職することがすでに決まっている。そのため、あと一年はバイトを続けると聞いていた。彼は、吉祥寺店の明るく楽しいムードメーカーだ。
「あ、そういえばアレ知ってます? 催眠アプリ」
「催眠、アプリ?」
 眉根を寄せて怪訝な顔をした凛世に、長谷がエプロンのポケットから取り出したスマホを見せてくる。
「これ。最近流行ってんですよ」
「……催眠術が簡単にかけられる、って。なんか怖いんだけど」
「ぜんぜん怖くないですって。寝付き悪い友だちとか、これで改善したって言ってました」
 なんとなくうさんくさいと思いつつ、一度試してみてくださいよと言われて、凛世はその場で催眠アプリなるものをインストールした。最近は、こんな奇妙なアプリが流行っているのか。
 社会人になってから、使うアプリはスケジュール管理と時間つぶしのパズルゲームばかりになった。学生のころは、もっといろんなアプリを入れていた気がする。
「じゃ、お疲れさまです。俺は仕事に戻りまーす」
「はい。お疲れさまでした」
 長谷が店に戻っていき、スマホをバッグにしまおうとすると手の中でブ、ブ、と小さく振動する。中学からの友人たちのグループトークにメッセージが届いていた。
「えーと、同級会のお知らせ……?」
メッセージと共にクラス写真が送られてきている。
 それを見て、不意に脳の回路がつながった。
「あっ!」
 ――昼前の美形って、もしかして明日見虹大(あすみこうだい)くん!?

 中学三年生の春。
 クラス替え直後の教室では、女子の視線が一箇所に集中していた。
 出席番号二番、廊下側の前から二番目に座る彼――明日見虹大は、学年一の有名人だった。
 周囲の注目を気にする素振りも見せない、涼しげな横顔。すらりとしなやかな少年体型に、大人びたまなざし。クラスのほかの男子とは違う憂いのある表情が印象的な彼には、両親が芸能人だという噂があった。
 凛世は過去二年、彼と同じクラスになったことがなかったのできれいな顔の男の子としか認識していなかった。
「あっ、凛世ちゃん。今年も同じクラスだね。よろしく!」
「加恵(かえ)ちゃん」
 昨年も同じクラスだった、チア部の加恵が声をかけてくる。彼女は友人が多く、いつも彼氏が途切れない。同じ中学生とは思えないくらいおしゃれで目立つ子だ。
 加恵の紹介で、未央(みお)と志都香(しずか)と四人で過ごすようになり、中学最後の一年が始まった。積極的な友人たちに囲まれながら、凛世は平凡な日々を送っていた。調理部の副部長と保健委員を兼務する毎日は、それなりに忙しかったように覚えている。
 志都香が虹大を好きだと言い出したのは、ゴールデンウィークに入る直前のこと。もともと学年の女子の三分の一が虹大を好きという噂すらあったので、彼に恋する子は珍しくなかった。ただ、ほかの子が虹大と話していると志都香の機嫌が悪くなる。加恵と未央も同調するので、凛世は虹大にかかわらないようにしようと決めてきた。そもそも、彼はあまり自分から人に話しかけるタイプではない。そして、凛世も同様だったので、懸念せずともふたりに接点はなかった。
 ただ、直接話さなくとも彼がいかに魅力的な人物かは伝わってきた。
 特別目立つことをするわけではない。だが、彼の一挙手一投足に目を奪われる。
 英語の発音がきれいで、テキストを持つ指が長い。いつも休み時間にはふらりとどこかへ消え、ひとりでいるのが好きそう。でも、体育の授業ではサッカーでパスをたくさん集めてハットトリックを決めてしまう。彼自身が周りに声をかけなくても、男子が虹大を中心に輪を作る。放課後には、図書室で本を読む。
 ――男の子って不思議。
 虹大には、人を惹きつける何かがある。女子たちが騒ぐのも納得できる気がした。
 期せずして明日見虹大と接する機会が訪れた。五月も下旬の体育祭で、学年別クラス対抗リレーのアンカーとしてゴールテープを切った彼は、後続の他クラス男子から激突されて転倒した。あわや、クラス同士のケンカが起こりかけたところで、虹大がゆらりと立ち上がる。
「ねえ、保健委員の人いる? 保健室ってどこだっけ?」
 三年間も通っていて、今まで一度も保健室に行ったことがないとは考えにくい。皆が唖然としたところで、凛世はハッとして右手を挙げた。
「保健委員です。保健室、付き添うよ」
「よろしく」
 クラス間にみなぎる一触即発の空気をものともせず、虹大は胸元についた土埃を払って歩き出す。それを追いかける凛世の耳に「いいなあ、保健委員」と女子の声が聞こえてきた。
 虹大は背が高い。当時、凛世は一五〇センチだったこともあり、彼とは歩幅に差がありすぎた。
 ――急がないと、置いていかれちゃう。
 昇降口で上履きに履き替えて、凛世は急いで虹大のあとを追いかけようとした。けれど走り出したとたん、鼻から何かにぶつかる。
「大丈夫?」
「だ、だいじょうぶ……」
 ぶつかった相手は虹大本人だった。彼の背中に激突して、転びそうになったところを腕をつかまれた。
「更家、前見てないから」
「そう、かな?」
 当たり前のように名字を呼ばれて、一瞬戸惑う。
 クラスメイトなのだから、名前くらい知っていてもおかしくない。だが、今まで一度も話したことのない相手から――しかも、明日見虹大から名前を呼ばれるだなんて、考えもしなかった。
「そうだよ。この前も、教室掃除のときに机にぶつかってた」
 言われてみれば、そんなこともあったような気がする。だが、虹大がそれを見ていたのは知らなかった。もしかしたら、彼は周囲をよく見ているタイプなのかもしれない。
「今のは、明日見くんを待たせないようにしようと思って」
「……?」
 凛世の弁明に、彼がわかっていない表情で二度まばたきをした。
「脚の長さが違うから」
「ああ。俺、怪我してるけどね」
 それでも速度に差があると思う? 彼の言葉の行間から、質問が聞こえてくる気がした。
 何か言うべきと思いながら考えこんでいると、歩きはじめた虹大がちらりとこちらに振り返る。
「一緒にいる相手を置き去りになんてしない。それに、更家がいないと保健室の場所もわからないし」
「え、ほんとに知らなかったの?」
「保健室なんて普段行かないだろ」
「それはそう……かなぁ?」
 今まで、なんとなく虹大のことを遠く感じていた。彼が周囲から一目置かれる存在だったり、女子の多くから好意を寄せられているのもあって、凛世からすると自分とは違う世界の人のように思えたからかもしれない。
 ――話してみると気さくな人。普通の男子、なんだ。
「保健室は知らなかったけど、更家が保健委員なのは知ってた」
 ぽつりとこぼした彼の言葉は、どことなくぎこちなく聞こえる。どういう意味だろうと考えてから、虹大が「保健委員の人いる?」と名前を出さずにいたことを指しているのに気づいた。
 ――えっと、わたしが保健委員だって知っていたってことなのかな。
「明日見くんは何委員だっけ?」
「……教えない」
「え、な、なんで?」
「俺は知ってたのに、そっちは知らないんだろ。だったら秘密」
 前半は拗ねるような口調で、けれど後半はどこかからかう素振りで彼が笑った。
 その瞬間。
 心臓が、跳ね上がった。
 反射的に胸元を押さえそうになるのを、凛世はなんとか押し留める。
 ――明日見くんがモテるの、わかった! 何気なく女子の心をくすぐってくる!
 恋愛は自分とは縁遠いものだと思う凛世ですら、思わずドキッとしてしまう。なるほど、虹大が女子に絶大な人気なのも納得だ。
「あ、保健室ここだよ」
 壁のプレートを指差し、凛世はドアをノックする。背後に立つ虹大の気配に、うなじの肌が妙に粟立っていた。緊張している。彼にもわかりそうなほど、鼓動が大きく響いていた。
「そういえば、名前」
「うん?」
「名前、なんて読むの」
 凛世の名前は、よく『りんぜ』と読み間違えられる。名字は覚えていても名前は知らなかったらしい。「りせ、だよ」とドアに手をかけて答えた。頭ひとつ背の高い彼が、背後でうなずく気配がする。
「凛世」
「っっ……!」
 男子に下の名前で呼ばれるのは、中学生になってから初めてだった。その相手が虹大だなんて、志都香に知られたら事件になる。
 ――ただ、名前を確認しただけ。名前を呼んだんじゃなくて、読み方を知ったから……。
「覚えた。更家凛世」
 凛世の横をすり抜けて、彼が保健室のドアを開けた。
 正面の窓から差し込む光がやけに眩しい。まるでたった今、世界が生まれたような気がした。

 それから、虹大はときどき話しかけてくるようになった。周囲に人がいないタイミングを選ぶのが暗黙の了解になっていった。五分、十分程度の短い会話。週に一度くらいの会話を、友だちと呼ぶのはなんだか歯がゆい。かといって、ふたりの関係をほかの言葉で表すのも難しい。
 凛世は、父親が六歳で亡くなったことや、父がコーヒーを愛していたこと、コーヒー好きに悪い人はいないと言われたことなど、胸の奥の大切な思い出を彼に話した。
 虹大も、普段は決して語ることのない両親の話をしてくれた。彼の父親は演劇界では名の知れた演出家だという。母親は舞台出身でここ十年ほどテレビや映画でも活躍している俳優だ。両親について話すのが嫌で、小学校のころから自宅に友人を呼ぶことはなかったそうだ。
「寂しくなかった?」
「別に。そばにいるのは、誰でもいいわけじゃないから」
 彼の言葉は、いつも凛世に小さな気づきをくれる。あのころ、虹大はたぶん周囲の生徒たちより少し大人だった。凛世には見えていない景色を教えてくれる彼に、憧れの気持ちを抱かなかったと言えば嘘になる。けれど、それを恋だと認めるには勇気がなかった。友人の好きな人を好きになるのは、中学生の凛世にとっては悪いことだったから。
「卒業したら、アメリカの伯父の家に行くんだ」
 あれは卒業式の三日前。
 虹大がどこの高校を受験したのか、誰もが知りたがっていた。彼は進学先について何も語らずにいたのだ。
「アメリカって、アメリカ……」
「まあ、たぶんそのアメリカだろうね」
 大人びていても、彼も十五歳の少年だった。斜に構えた横顔に、かすかな不安が透けて見えたのを今も覚えている。
「両親が離婚するから、俺は父方の伯父に引き取られる。もともと伯父の養子にって話もあったし、いずれこうなるのはわかってた」
 普段より少しだけ饒舌な虹大に、想いを伝えたくなった。あと三日で、卒業したら彼には会えなくなってしまう。十五歳には、アメリカは遠すぎた。
「明日見くん」
「ん」
 あの日、彼に想いを告げることはなかった。
 その代わりに言ったのは、たしか――。

 手にしたスマホが、メッセージを受信してブブ、ブブ、と振動する。
 現実に引き戻されて、凛世は画面に目を向けた。
『凛世も参加しようよ』
『久しぶりにみんなで話そ』
 中学三年のクラスメイト、未央、志都香、加恵、そして凛世の四人のグループトークだ。
 ――同級会、明日見くんも来るのかな。今日の彼って、ほんとうに明日見くんだった……?
『うん、行く。楽しみだね』
 無難な返信をして、凛世は職場をあとにした。

・‥…━…‥・‥…━…‥・

 東京メトロ有楽町駅の階段を駆け上がると、耳がひりつくほどに空気が冷たい。今年いちばんの寒波に、街を歩く人々はマフラーやストールを身に着けていた。
 凛世も、今日は新しいマフラーをおろした。いつもの帰り道とは違う駅へやってきたのは、同級会に参加するためだ。
 ――ここでいいのかな。間違ってない、よね?
 駅から五分ほど歩いたところにあるビルの地下一階に到着して、凛世はそっと引き戸を開ける。店内からは、ぶわっと熱気があふれてきた。アルコールと油のにおい。
「あ、凛世、こっちこっちー」
 中学のころから変わらず、いつもみんなの中心にいる加恵が手を振って声をかけてくれた。
「加恵ちゃん、遅くなってごめんね」
 開始時間は三十分前だったけれど、バイトの子が遅刻してきたため、凛世がその分をカバーしていたのだ。
 ――こういうとき、加恵ちゃんが声をかけてくれるからいつも助かるなあ。
 もっと積極的に、能動的に動けるようにならなければと思いつつ、凛世はどうにも引っ込み思案なところがある。仕事中はアクティブに動ける。けれど、プライベートではとたんに元の自分に戻ってしまう。
「凛世、遅いよー。待ってたんだよ?」
「ごめんね。仕事でちょっとトラブルがあって」
 志都香と未央の間に座らせてもらうと、グラスをわたされた。「ビールでいい?」と、未央がピッチャーを手に尋ねてくる。返事をするより早くグラスに液体が注がれていたけれど、少々せっかちな未央らしくもあった。
「ありがとう」
「それじゃ、凛世も来たからあらためて乾杯!」
「「「かんぱーい」」」
 近くの席に座っていた数名がグラスを持ち上げる。それとなく周りを見回したが、虹大の姿はなかった。かすかに落胆しながらも、凛世はそれを顔に出さないよう笑顔を取り繕った。
 ――中学卒業後、明日見くんは海外に引っ越した。先日の人も、別人だったのかもしれない。十年以上会っていないんだから、今会ってもわからないかもしれないし……。
「ねえねえ、更家さんってホクラニコーヒーで働いてるって聞いたんだけど」
 凛世が来る前に、きっとみんな仕事の話をしていたのだろう。
「うん、そう。吉祥寺店で――」
「えー! ほんとうなんだ? カフェで働いてるって、まさかアルバイトじゃないよね」
「バイトでもよくない? ホクラニコーヒー、最近人気あるし、おしゃれな職場うらやましい!」
「え、あ、」
 すでにお酒が入っているせいもあって、元クラスメイトたちは盛り上がっている。その速度に追いつけず、凛世は返答に詰まった。
「違うってば。凛世はこう見えて、店長なんだよ? 仕事に生きる女なんだから」
 フォローしてくれたのは志都香だ。けれど、言葉にかすかな棘を感じなくもない。そう思うのは気のせいだろうか。
「そうそう。だから、彼氏も作らず仕事に邁進してるんだよね?」
 未央の言葉に、曖昧な笑顔でお茶を濁す。この手の話題は、それほど珍しくもない。
 二十七歳ともなれば、結婚を意識してもおかしくない、いわゆる妙齢だ。グループの中では志都香が唯一の既婚者だが、未央には長くつきあっている恋人がいる。加恵はいつでも彼氏が途切れない。恋愛の話題がないのは、凛世だけだった。
「社会人になってから、一度も彼氏作ってないんだよ、この子」
「えー、そうなの? 更家さん、結婚願望ない感じ?」
「そういうわけでもないんだけど、仕事が楽しくて……」
「かわいいのにもったいない!」
 ひときわ大きな声に、参加した元クラスメイトたちがこちらに注目する。「何? どしたの?」「誰がかわいいって?」と、聞こえてくる声に凛世は小さく肩をすくめた。
 実際のところ、凛世は飲食店の接客業ということもあり、黒髪にナチュラルメイクのつとめてシンプルな外見をしている。ピアスもつけていなければ、ネイルもクリアネイルで、服装だって華やかさに欠けたほうだ。童顔で小柄なこともあり、年齢より若く見られることはあるけれど、決して目立つタイプではない。
 今日は都心に来るから、いつもよりしっかりメイクしているものの、それでも地味な自覚がある。集まった元クラスメイトたちは、凛世よりずっとおしゃれでかわいい女の子ばかりだ。
 しばし結婚や恋愛の話が続く女子のテーブルで、凛世は黙ってビールを飲んでいた。周りにくらべて自分が仕事にばかりかまけているのはわかっている。恋愛に興味がないわけではないのだが、夢中になれない。恋よりも今月の売上やバイトのシフトのほうにばかり頭が働く。結婚願望がないとまでは言い切れないが、積極的に婚活をしない時点で、やはり自分は恋愛に向いていないのかもしれないと思うこともあった。
「でも、凛世だって大学のころは彼氏いたよね」
「うん。サークルの先輩と少しつきあってた」
「もしかして、あれから誰ともつきあってないの?」
「あー、実は、そう」
 二カ月だけの短い恋人。彼は、凛世とつきあっているうちに三人の女性と浮気をしていた。いや、正しくは凛世が本命だったわけではなく、全員に平等に本気だと言っていた。その気持ちがわからなかったのは、凛世が恋愛初心者だからではないだろう。
「あの先輩の件、まだ引きずってる?」
 事情を知る、同じ大学だった未央が顔を覗き込んできた。
「ううん。たぶん、みんなの言うとおり、わたしは恋愛より仕事に向いてるのかなって」
「そっか。凛世がそう思うなら、それは別にいいと思う。ちょっともったいないけどね」
 友人の微笑みに、凛世はどんな顔をしたらいいかわからなくなった。
 恋愛は人生のすべてではない。けれど、一生ひとりで生きていくのは寂しい。誰かを好きになりたい、誰かに好きになってほしい。そう考えたとき、頭の中に浮かんだ人物がひとりいる。普段は思い出すこともなかった。遠い記憶の中の思い出の初恋だったはずなのに。
 ――中学の同級会に来ているせいかな。
 りりん、と入り口扉についたベルが鳴る。開いたドアから、背の高い男性が店内に入ってくると、参加者たちが一斉に立ち上がった。
「明日見!」
「嘘、明日見くん?」
「おせーよ、明日見」
 きれいにセットされた黒髪の下、涼しげな目元をかすかにほころばせた美しい男性が右手を上げる。丁寧な仕立てのスーツが、彼のすらりとした体型をいっそう際立たせていた。
「あ……っ」
 ――やっぱり、あの日、お店に来たのは明日見くんだったんだ!
 一瞬、虹大と目が合う。印象的な唇が甘く笑みの形を描くのは、中学生のころと変わらない。けれど、何もかもが違っている。今の彼は、完全に大人の男性だ。
「悪い。遅くなった」
「虹大、こっち座れよ。久しぶり!」
「ああ、ありがとう」
 凛世から離れたテーブルに、虹大の席が用意される。もしかしたら会えるかもしれない。そう思っていたけれど、いざ会えたところで話しかけに行く勇気はない。
 あれから十二年も過ぎた。連絡先も知らなかった。彼がどこでどんなふうに生きてきたのかも、凛世はわからない。
「ねえ、見た? 明日見くんの腕時計」
「スイスのブランド品でしょ? すごくない? なんの仕事してるんだろうね」
「アメリカに留学したんだし、もしかして国際弁護士とか?」
「わたし、聞いてこよーっと」
 昔から物怖じしない、クラスの中心人物だった加恵が、グラスを手にして立ち上がる。「えー、いいな」とは、志都香の声だ。
「久しぶり、明日見くん」
 加恵が話しかける声を耳に、凛世はグラスの底に一センチ残ったビールを見つめていた。
 遅れてきた虹大に、店内の温度が上がる。男子も女子も、口々に虹大のエピソードを話していた。誰とも特別親しくしていたわけではない虹大のことを、誰もが「自分だけは知っている」ふうに語りたがる。明日見虹大という人は、相変わらず特別なのだ。皆の視線を集める、不思議な雰囲気の持ち主なところは何も変わっていなかった。
 いったんは虹大の話で盛り上がったあと、加恵が戻ってくると志都香と未央が凛世に男性を紹介する、と意気込みはじめる。
「いいよ。紹介してもらっても、仕事が忙しくてなかなか会えないだろうし」
「そんなこと言ってたら、すぐ三十になって四十になって、一生ひとりだよ?」
「うーん……」
「凛世、わたしたちは凛世のことが心配なの」
「そうだよ。仕事してたって、みんな恋愛くらいするんだから。凛世もできるできる!」
 言っていることはもっともだ。凛世より忙しくても、恋愛している人はいくらでもいる。そう考えると、自分は怠惰なのだろうかと思えてきた。あるいは、不器用なのかもしれない。いつも、目の前のひとつのことに没入してしまうのだ。仕事に夢中になっていると、休日もぼんやり新メニューの手順や、本社の研修会の予定など、仕事のことばかり考えている。
「ごめん、ちょっとお手洗い行ってくるね」
「あっちの鉢植えの奥だったよ」
「ありがとう」
 トートバッグを持って、凛世は席を立つ。仕事帰りで、荷物が多い。そのことをいじられながら、テーブルを離れた。
 個室の鏡の前に立ち、手を洗ってタオルハンカチを取り出した。鏡の中に映る自分は、珍しくビールを飲んだせいで頬が少し紅潮していた。
 ――十二年、かあ。
 別にお手洗いに来たかったわけではない。なんとなく、ひとりになりたかったのかもしれない。
 ――自分では大人になったつもりだったけど、友だちからしたらわたしはずいぶん頼りないのかも。だから、みんな心配してくれる。
 でも、紹介を受けるのはやはり気が引けた。うまくいかなかったときに、友人にも申し訳ない。相手の気分を害さないよう、紹介は不要だと説明しなければ。
 そんなことを思いながらトイレの個室を出ると、観葉植物の裏になった狭い通路にひとりの男性が立っている。
 ――え? 明日見くん?
 壁に背をつけ、スマホを手にした彼が顔を上げた。癖のない前髪が、さらりと揺れる。
 ――男性用トイレ、使用中なのかな。
 何か言おうかと思ったけれど、トイレ前で話しかけるのもおかしい気がして、凛世はうつむきがちに彼の前を通り過ぎようとした。すると、
「更家さん、無視?」
 と、低くかすれた声が鼓膜を震わせる。
 中学生のころとは違う、声。
 ハスキーだけど甘さの漂う声で名前を呼ばれて、凛世は足を止めた。
「無視じゃないよ。その……トイレの前で話しかけるのもどうかなって。なんとなく……」
「相変わらずだな」
 はは、と彼が笑う。その表情が、凛世の知る中学三年の彼のままだったので、親近感が湧いた。
「これでも二十七歳だから、けっこう大人になったんだよ?」
「見た目はね。でも、思ったより育ってなかった」
 一八〇はありそうな虹大に言われると、一五五センチの凛世としてはぐうの音も出ない。高校で身長が伸びることを信じていたけれど、結局平均にはギリギリ足りなかった。
「トイレ、混んでるの?」
「いや。俺は更家さんを待ってた」
 当たり前のように言われて、一瞬意味がわからなくなる。
 ――え、トイレの前で待ってたの? わたしがお手洗いにいるって、知ってたってこと?
「なんて顔してんの。別にストーカーじゃないよ。更家さんどこって聞いたら、お手洗いって言うからさ」
「だ、だからってこんなところで待ってなくても!」
「ふたりで話したかったんだ」
 いっそう、彼が何を考えているのかわからなくなっていく。なぜ凛世と話したかったのだろう。もちろん、凛世は虹大と話したいと思っていた。まさか、その気持ちが透けて見えていた? いや、そんなことはありえない。だったら――。
「あっ、もしかして、この前お店で会ったの覚えててくれたの?」
 凛世の職場に来たのは、間違いなく彼だった。
「なんだ、そっちも気づいてたんだ。だったら、あのとき言ってくれればよかったのに」
「あー、えっと、ごめんなさい。実はすぐ気づかなくて、なんか見たことある人だなーと思って」
「少し話さない? ここはトイレの前なので、せめて少し場所を変えて」
 彼に言われて、店の外に出る。テーブルに戻ったら、なかなか話せないのを彼は気づいていたのだろう。思えばあのころも、ふたりが会話するのは周囲に誰もいないときばかりだった。
 地下一階の入り口を出た横に、喫煙ブースが設置されている。その手前に置かれたベンチに並んで座った。店内はエアコンが効いていたけれど、さすがに通路は冷える。
「はー、寒っ」
 言いながら、虹大が手にしていたトレンチコートを広げた。考えるより早く、彼はそれをふたりの膝の上にかけてくれた。
「え、いいよ。寒いでしょ?」
「寒いからかけたんだよ」
 当たり前のような彼の言い方に、心がくすぐったい。こういう人だった。
「更家さん、中学のころと変わんないなって思ったんだけどさ」
「身長の話なら遠慮します」
「ははっ、まあそれもそうだけど。お父さんが好きだったコーヒーの道を選んだんだなと思って」
「あっ! そういえば、あのときお店に来てくれたのは偶然だったの?」
「当たり前だろ。なんかさっきから、俺のことストーカー扱いしすぎじゃない?」
「だって、中学の同級生がお店に来るなんてなかなかないことだし」
「ま、それもそうか。地元から吉祥寺ってけっこう離れてるよな」
 ――覚えていてくれたんだ。
 凛世の父がコーヒー好きだったこと。凛世もコーヒーに関わる仕事をしたいと言っていたこと。
 十分ほど話し込んでから、唐突に彼が腕時計に目を落とす。
「いつまでも独占してると、更家さんの友人が心配するかな」
「わたしより、明日見くんでしょ。みんな、明日見くんと話したいだろうから」
「なんで俺?」
「なんでって……」
「それとも、更家は俺と話したくないってこと?」
「そんなわけないよ。久しぶりに会えて嬉しい。それに、さっきはちょっと席を離れたかったからちょうどいいっていうか」
 急に彼の呼び方が中学生のころに戻る。ただそれだけなのに、距離が近くなった気がした。
「戻りたくない理由でもあった?」
「んー、彼氏がいないのを心配されるのがちょっとね」
「つきあってる男、いないんだ」
「いないよ。毎日仕事ばーっかしてる」
「俺も、そうだった」
 ――過去形?
 トレンチコートの上に置いた両手を、彼がじっと見つめていた。
「明日見くんは、外国に引っ越したんだよね。今は休暇で帰国してるとか?」
「先月末、日本に戻ったんだ。向こうでやっていた仕事、なくなったから」
「そうなんだ」
 詳しく聞いていいのか、判断がつかない。さっきまでと違って、虹大は少し苦しそうな顔をしている。何か、言いたくないことがあるのかもしれない。
 話題の矛先を変えようと、凛世はトートバッグの中を探った。何か、何か、何か話題になるものは――。
「あっ、そうだ、明日見くん。これって知ってる?」
 取り出したのはスマホである。先日、バイトの長谷に勧められて入れた新しいアプリの画面を見せると、虹大が目を見開いた。
「何、これ。アプリ? 催眠アプリって……なんかヤバそうだな」
「違うの。この前ね、大学生のバイトの子が教えてくれたんだけど、流行ってるアプリなんだって。寝つけないときにいい感じに眠れるとか、そういう感じの」
 話題を探して取り出してみたものの、凛世自身使ったことがない。さて、どう話を広げればいいのか考えていると、虹大が画面を覗き込んでくる。
「催眠か。更家は試してみた?」
「ううん。インストールしただけ」
「じゃあ、催眠術かけていい?」
「えっ!?」
 ――明日見くんが、わたしに催眠術をかけるってこと?
 当惑していると「じゃあ」と彼がこちらにスマホを向けた。
「だったら、俺にかけてみてよ」
「明日見くんに? 催眠術を?」
「そう。これ、そういうアプリなんでしょ?」
 自分から振った話題だ。ここで、やっぱりやめようと言うのもバツが悪い。虹大と凛世は、ふたりでアプリの操作説明を確認した。「次へ」のボタンを押していくだけで、簡単に催眠状態になると書かれている。ただし催眠術はかならずいつでもどこでも誰でもかかるわけではない、とも記されていた。
 ――ほんとうに催眠なんて素人ができるとは思えない。まして、無料アプリなんだから、ジョークみたいなものだろうけど……。
「それじゃ、始めるね」
「よろしく」
 開始ボタンを押すと、オルゴール調の音楽が流れてきた。アプリから聞こえる音声のとおりに、虹大が目を閉じて、体をリラックスさせていく。
 スマホ画面に「あなたがなりたい自分は?」と白抜きの文字が表示された。
 これを見ているのは凛世だけだ。虹大は目を閉じているのだから、見えていない。
 ――どうしよう。どんな催眠をかけるか、相談しておけばよかった。
 彼の薄いまぶたに血管が透けて見える。形良い眉、長い睫毛に、前髪が影を落としていた。
「あの、明日見くん」
「…………」
 返事はない。まさか、ほんとうに催眠状態にあるのか。
「明日見くん?」
 無防備に目を閉じた虹大を見ているうちに、中学三年のころの気持ちがよみがえってきた。ひそかに想いを抱えていた、あの日々。友人の好きな人だった彼に恋をするのは、許されないことで。
 だから、いつだって自分に「明日見くんを好きになっちゃダメ」と言い聞かせていた。自分の気持ちをごまかして、嘘をついて、彼と過ごす短い時間を待ちわびていた。約束もないふたり。次に話せるのはいつなのか、そのことばかり考えていたセーラー服の季節は、もう決して戻らない。
 ――あのころのわたしだったら、明日見くんにどんな催眠術をかけたかな。
 こんなのは冗談に決まっている。きっと彼は、目を開けたら笑って「なんだよ、それ」と言ってくれる。
 だから。
 今だけ、ふたりきりの間だけ。
「明日見くんはわたしを――更家凛世を好きになる。すごくすごく好きになって、一生離れられないくらい夢中になる」
 催眠アプリの誘導に従って、両手をパンと打ち合わせた。画面には「催眠完了」の文字が表示される。信ぴょう性のない紫色の背景と白抜きの文字が、蛍光灯の明かりに照らされていた。
「どう? 催眠術、かかった?」
 ――ちゃんと、冗談だよって言わないと。
 からかうような口調で言うと、虹大がゆっくり目を開ける。美しい双眸の焦点が、凛世にぴたりと合った。次の瞬間、彼は花が咲くような笑顔で、凛世の手をぎゅっと握った。
「好きだよ、更家」
 凛世の冗談への仕返しだろう。わかっていたけれど、理性とは別に心が跳ねる。
「もう、冗談だってば。どんな催眠にするか決めてなかったから――」
「冗談? 俺は本気だけど」
 キラキラと輝く瞳が、凛世を射貫く。
「今まで離れていられたのが不思議なくらいだよ。ずっと更家のことが好きだった。だから、もう二度と離れたくない」
「え、あの、ちょっと待って」
 握られた手が熱い。それまで冷たい空気にさらされていたから、いっそう虹大の体温を温かく感じてしまう。
 きっとそれは、手だけではなかった。心もまた、催眠術「ごっこ」とわかっていてなお、熱を帯びるのを止められない。
「先にふざけたのはわたしのほうだけど、そろそろ冗談やめよう?」
「俺は本気って言ってるの、伝わってないんだな。ねえ、更家。俺さ、今日は更家に会いたくて来たんだ。同級会なんて興味なかった。ただ、更家に会いたかったんだよ」
 ――嘘、でしょ?
 膝の上に置いたスマホの画面にはまだ「催眠完了」の文字が浮かんでいる。こんなアプリでほんとうに催眠術がかかるわけがない。はなからただの遊びのつもりだったのに、まさか彼はほんとうに――。
「もう一生離れないよ、更家」
 夢見るように微笑んだ虹大が、凛世を抱きしめた。
 緊張と興奮と激しい鼓動の嵐に襲われながら、息を呑む。
「あ、あの、明日見くん……」
 ――ほんとうに催眠術にかかっちゃったの!?

・‥…━…‥・‥…━…‥・

「とりあえず、そこのソファに座ってて」
「ここが更家の部屋か。なんだか感激だな」
「あんまり見ないでね?」
「気をつけるよ」
 JR中央線三鷹駅から徒歩で十七分。駅から近いとは言いがたいし、築四十年という古い物件だが、2DKで月六万円の家賃に惚れ込んで選んだアパートだ。
 キッチンに立ちながら、ふと思う。そういえば、この部屋に人を招き入れたのは初めてだ。まあ、招待したくてしたのかといえば、なんとも微妙な状況なのだが――。
 同級会の途中で、ふたりはこっそり会場をあとにした。凛世は友人の加恵に会費を払って出てきたけれど、虹大はそのあたりをどうしたのだろう。
 催眠術にかかった彼をあのまま同級会に放置することはできず、凛世の部屋まで連れ帰った。すでに時刻は二十二時を回っている。彼には自宅に帰ってほしかったのだが「更家と離れたくない」と有楽町駅の改札前でごねられて、根負けした。
 ――そもそも催眠術なんて、こんな簡単にかかっていいの? 明日見くん、複雑な精神構造っぽいのに?
 なんにせよ、二部屋あるアパートに住んでいることを今日ほど感謝したことはない。いざとなったら、彼を泊めてもそれぞれ別の部屋で眠ればいい。
「……催眠術、ほんと、なんだよね……?」
 冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、グラスに注ぐ。
 彼が嘘をつきつづける理由はない。凛世をからかうにしては、部屋までついてくるのはやりすぎだ。冗談だったら、もっと早い段階でネタバラしするだろう。
「ありえない……」
「何がありえない?」
 急に背後から声が聞こえて、凛世は「ひゃあッ!?」と声をあげた。
「あ、明日見、くん」
「ごめん、驚かせちゃったね」
 無邪気な笑顔は、同級会の店に入ってきたときとは別人のようだ。なんなら、中学三年のころよりも少年らしい笑顔である。
 ――明日見くんって、こんなふうに笑う人だったんだ。もしかして、これって恋人の前でだけ見せる顔?
「グラス、運ぶよ」
「うん。ありがとう」
「どういたしまして」
 リビングとして使っている部屋のテーブルに、虹大がふたつのグラスを運んでいく。ひとり暮らしの部屋には、客人用のグラスなんてない。ふぞろいのグラスがテーブルに並ぶのを見て、凛世はとても不思議な気持ちになった。
「あっ!」
 ――お水を出したかったんじゃなくて、コーヒーを淹れようと思ってたのに!
 いったん落ち着くために水を飲もうと思った。だが、客人にミネラルウォーターを振る舞う予定ではなかったのだ。
「ごめん、明日見くん。コーヒーを淹れるつもりだったの。ぼんやりしていて、グラスにお水をそのまま注いじゃった。すぐ淹れるから」
「俺は水も好きだよ」
「そういうことじゃなくてね。お客さんに水を出すのはちょっとね?」
 ソファに座り直した虹大が、グラスの水をくいっと飲み干す。軽く呑んだあとだから、水がほしいのは彼も同じだったのかもしれない。
「更家がしたいようにして。俺はいつまでも待ってるから」
「……ありがとう」
 ――わたしの知ってる明日見くんじゃなーい!
 これはすべて、催眠術のせいだ。凛世はそう言い聞かせ、コーヒーを淹れた。

「……うまい!」
「ありがとう」
 あらためてコーヒーを運び、凛世はソファではなくテーブルの反対側にクッションを置いて座った。小ぶりのふたりがけソファは、並んで座ったらきっと密着することになってしまう。
 隣に座ればいいのに、という虹大を笑顔でかわし、なんとかフローリングを確保した。背中がテレビに触れそうな距離なので手狭なのは否めないけれど、落ち着いて話をするためには盤石の配置である。
「ほんとうにうまいよ。店のコーヒーより好みだな」
「お店のは、社長の好みに寄せてるの。あれはあれでおいしいけど、結局は味覚ってとても個人的なものだから、万人が好きな味はないよね」
 そういう意味では、自宅で淹れるコーヒーは凛世の好みにしっかり寄せたものだ。コーヒー豆には、産地による違いがある。一般的にはコーヒー豆といえばブラジルが思い浮かぶだろう。それもそのはず、ブラジルは世界一のコーヒー豆生産量を誇る国だ。ほかには原産国であるエチオピアや、日本では馴染み深いアメリカンコーヒーから、アメリカを挙げる人もいる。ホクラニコーヒーで扱うのは、ハワイ産のコーヒー豆だ。
 凛世が特に好むのは、ケニア産のコーヒー豆である。コーヒーの産地は赤道直下に多く、ケニアも国内に赤道が通っている。しかし、日本国内にはあまり輸入量が多くないため、ケニアコーヒーはそれほど知られていないのが残念だ。
 ケニアコーヒーなら、酸味を活かした浅煎りや中煎りが好まれがちだが、凛世のお気に入りは深煎りだった。苦味をしっかり感じられる。特にケニアコーヒーは、深煎りにしたときにスパイシーさを感じられる。フルーティーなコーヒーも美味だが、いかにもコーヒーの風情がある深煎りを粗く挽いてドリップするのが大好きなのだ。
「そういえば、ホクラニコーヒーの社長はハワイが好き?」
「うん。名前でわかった?」
「ハワイ語っぽいなと思ったから、検索した。きれいな名前だな。ハワイらしい音だし、店内の雰囲気もワイキキを思わせる」
 ホクラニは、ハワイ語で『天国の星』という意味があると聞く。凛世も初めて意味を知ったときに、美しい単語に感動した。だから、虹大が同じように感じてくれたことを嬉しく思う。
「そう言ってもらえると、店長としてはすごく嬉しいな」
「へえ、更家って店長なんだ?」
「うん、そう。念願かなって、去年から吉祥寺店の店長になったの」
「たくさんがんばったんだろうな。夢をかなえたきみを尊敬する」
「そ、尊敬だなんて、そんな……」
 頬が熱くなるのを感じて、凛世は顎を引く。手の中のコーヒーカップに視線を落としながらも、彼の言葉がじんと胸の奥に染みていくのがわかった。
 ずっと、ひとりでがんばってきた。
 凛世は大学に入学してから九年間、ひとりで暮らしている。家族と仲が悪いわけではない。けれど、父が亡くなったあとに母が再婚をした。凛世が十歳のときだった。義父は優しい人で、のちに生まれた妹と凛世を分け隔てなくかわいがってくれている。
 だからこそ、あの家に自分がいることで完全な家族の邪魔になってしまうような気がするのだ。
 いつも心のどこかで、誰かの迷惑にならないように、と声がする。環境を、家庭を、亡くなった父を恨んだことはない。不満があるのではなく、自分が誰かの不満の種になってしまうのが怖かった。
「更家?」
「……ちょっと、感動しちゃった。明日見くんって、相手がほしい言葉がわかるみたい。それもアメリカで学んだの?」
 涙目なのを見られたくなくて、茶化した言い方を選ぶ。けれど、彼はその程度でごまかされてはくれなかった。じっとこちらを見つめているのが、うつむいたままでも感じられる。
 ソファから立ち上がる音がして、虹大が近づいてくるのがわかっても、凛世は顔を上げられなかった。
「更家は、相変わらずだな」
「それ、さっきも言わなかった?」
「言ったよ。相変わらず、優しくて寂しがりやだと思って」
 ぽん、と頭を撫でられる。いつもなら、急に触れられるのは相手が誰であっても抵抗がある。少女漫画の頭ポンなんて、憧れたこともなかった。
 ――でも、結局相手次第なのかもしれない。だって、明日見くんに頭を撫でられても不快じゃない。むしろ、慰めてくれる手を嬉しいって思ってる。
「ごめん、明日見くん」
 思い切って顔を上げる。
「ん?」
 彼は何ごともない素振りで微笑んだ。
「ちょっと疲れてたから、優しい言葉に過剰反応しちゃった。あ、そうだ。明日見くん、さっきほとんど食べてなかったでしょ。お腹減ってない? よかったら何か食べる? たしか冷凍庫に――」
 立ち上がろうとした凛世の左手首を、虹大がつかんだ。そして、ぐいと引き寄せる。体が傾いて、思わず悲鳴をあげそうになるけれど、気づいたときには凛世は虹大の膝の上に抱きかかえられていた。
「あ、ああ、あ、明日見くん!?」
 夜遅くに男性を部屋に入れたのは自分だ。油断していなかったとは言えない。何しろ、催眠術のせいとはいえ、虹大は今、凛世に好意を寄せている。その彼を部屋に入れたのだから、気持ちを受け入れたと誤解される可能性は――。
「あのさ、疲れてるなら無理しないで。ゆっくりしてよ」
 膝の上に横抱きされて、じっと瞳を覗き込まれた。
 ――ち、近い! 美しい顔が目の前に!
 けれど、彼はそれ以上の行動に及ぶつもりはないらしい。凛世を心配してくれているのが表情から伝わってくる。それでも、距離が近すぎるのに変わりはない。
「こんなの、緊張して、ゆっくりできないっ」
 パッと顔を背けた凛世を、彼が追いかける素振りで覗き込んでくる。
「俺といるせいで?」
「……当たり前です。明日見くん、わかっててやってるよね?」
「実は、少しだけ」
「もう!」
「でも、更家のことが好きなのはほんとうだよ」
「……っ……!」
 ――これは、完全に催眠にかかってるとしか思えない……!
 ここまで、凛世は迷っていた。彼がほんとうに催眠術にかかっている可能性と、凛世をからかっている可能性を天秤にかける部分があったのだ。
 だが、今の彼を前にして冗談でここまでやるとは考えられない。十数年会っていなかったとはいえ、凛世の知る虹大だったらこんな展開にはなっていないと思う。
 あんなアプリ、インストールするんじゃなかった。今さら後悔してももう遅い。そう思ってから、ふと気づいた。
 アプリで催眠をかけたなら、アプリで催眠を解けばいいではないか。
「明日見くん、もう一度催眠アプリしよう?」
 勢い込んで彼の目を見つめた凛世に、虹大が不思議そうにまばたきをひとつ。
「なんで?」
 それはあなたが、催眠術にかかっているからです、とは言えない。言ってもいいのかもしれないけれど、まずは現状を打破してからだ。謝罪よりも、今は彼をもとに戻すのが先決である。
「な、なんでも! とにかくしたいから!」
「更家がしたいならいいけど、疲れているみたいだし今度でも……」
「今! したいの!」
 強く言い切ると、虹大が口元をかすかにゆるめて肩をすくめた。
「……そんなに迫られると緊張するよ」
「せまっ……!?」
 誤解を招く言い方だったと気づいても、あとの祭りだ。言われてみれば、「とにかくしたい」「今したい」と、なんともあやしげな発言だった。
「そっ、……んな、つもりじゃなくて、あの」
 一瞬で、頬がボボッと熱くなる。メイクをしていても、顔が赤くなっているに違いない。
「わかってる。ごめん、冗談。それで、もう一回アプリをするんだっけ?」
「! そう、そうなの。アプリやりましょう!」
 動揺から敬語になりつつ、凛世はスマホを取り出した。
 しかし、場所が異なるだけで同じことを繰り返したはずが、虹大はさっぱり催眠状態にならない。それでも強引に進行したものの、何も起こらなかった。
「これって、ほんとうに催眠術にかかるもの?」
「どう、かな……」
 ――さっきはかかったんだよ。だから明日見くんは、わたしを好きなんて言ってるんだよ!
 はあ、とため息をついてから、凛世は考え込む。あとは何が違うだろう。アルコール?寒さ? ほかには何か――。
「まあ、寝て起きたら元通りってこともあるし」
「何が?」
「なっ……なんでもない。なんでもないの!」
 ――膝の上にわたしがいるから、催眠術がうまくいかなかったとか?
 まずは日を置いて様子を見よう。それで駄目なら、あの居酒屋の前まで行ってもう一度催眠アプリを試すことになるのかもしれない。催眠のためだけに、有楽町まで行きましょうだなんて言えるかどうかの問題はあるけれど……。

・‥…━…‥・‥…━…‥・

 東京でも朝夕の気温が十度を下回り、冬の冷たい空気が肌を刺す。早番の出勤がつらい季節だ。
 そして、あの同級会の日から六週間が過ぎた。
「はあ……」
 ため息が出るのは、寒さのせいではない。貴重な休日に渋谷駅近辺まで来ている凛世は、マフラーを巻き直して首をすくめる。
 ――どうやっても、催眠が解けないんだけど!
「奇妙なところだったな。日本でも催眠療法が一般的になってきたのかと思ったけど、前世がどうとか、よくわからないことを言う先生だった」
「そっか……」
 そう。目下、凛世の悩みは虹大の催眠が解けないことなのだ。
 この六週間、ふたりはすでに催眠術を得意とする占い師や、フリーランスの催眠術師、催眠療法士など、催眠と名のつく専門家のところを十箇所以上回ってきた。今日がたしか十三箇所目。けれど、どれもこれも虹大の催眠を解くに至らない。
 アメリカでの仕事を辞めて帰国した虹大は、次の仕事をまだ決めていない。いわゆる充電期間だということで、ある程度時間の自由がきく。インターネットで催眠の専門家を検索し、予約を入れて、彼を連れ回している日々だ。
 ――ほんとうにどうしたらいいんだろう。あの催眠アプリも、サービス終了したみたいだし……。
 一昨日、もう一度アプリを起動しようとしたところ、サービス終了の表示がされていたのである。何か問題でもあったのだろうか。
 とにかく、今日は渋谷駅から徒歩十二分ほどの、知る人ぞ知る催眠療法を扱う医師のもとを訪ねた。毎回、今度こそはと期待して出発し、帰り道には肩を落として冬空の下を歩く。
 もしも、一生このままだったら。
 彼の催眠術が解けず、凛世を好きだと思いこんでいたら――。
 そう考えると、罪悪感でよろけそうになる。