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エリートパイロットは身代わり妻を離さない 1

第一話

 ついてないときは、とことんついてないのか。
 結婚の約束をしていた男性が詐欺師と発覚。被害に遭いそうになった上に警察沙汰になったせいで辞職に追い込まれ……そして遠い異国の地での今……。
 如月穂香(二十八歳)は、目の前に立ちはだかっている大男をオロオロと見上げた。
 理解不能な言葉をまくしたてている大男──ムキムキな体つきの外国人は、怒りの形相で拳を握り、今にも襲い掛かってきそうだ。
 本能が逃げろと要求する。けれども脚が震えてまったく動けないし、なにより目的を遂げるまでは逃げるわけにはいかない。
「だ、誰か、助けて」
 すがる思いで周囲を見た。
 通りすがっていく人はみな外国人。遠巻きに見る人の中にも日本人らしき人は皆無で、誰にも助けを乞えない。
 ──ああ、もうっ、フランスになんて、来るんじゃなかった……。
 しぼんでいく一方の勇気を奮い起こすためにも、メガネをかけなおして深呼吸をし、キッと大男を睨む。
 とはいえ……。
『私は、あなたに正当な要求をしています。お金をください』
 口から出たのは、情けないほどに震え声のつたないフランス語。説得力は微塵もなさそうだ。
 穂香のフランス語が通じているのかいないのか、大男は首を横に振って何事かを早口でまくしたてる。
 最低限の旅行仏語しか話せない上に、ネイティブの聞き取りも難しいため、大男が怒っている理由が分からない。
 穂香は支払った代金のお釣りをもらいたいだけなのだ。
 パリにやってきて二日目、通りを歩いていて見つけた露店の雑貨屋。
 屋台のような店構えで、旅行者向けの土産ものを扱っていると思えた。
  可愛い品ぞろえなのに店主は筋肉ムキムキの大男というギャップにおののきつつも、天使を象った置物に一目惚れして購入を決めた。価格を見ると十ユーロほどだったので、財布の中にあった五十ユーロ紙幣を出したのだ。
 しかし天使はもらったが、なんと大男はお釣りをくれなかったのだ。請求すると屋台から出てきて、あろうことか追い払うようなジェスチャーをされたのである。
『私、五十ユーロ出しましたよね?』
 再度言ってみるが、大男は首を横に振る。
 理解不能の状況に目には涙が滲んでくる。
 女一人の旅行者だと思って甘く見られているのかもしれない。
 でも、お釣りは食事を二度できるくらいある。日本円で言えば、五千円ほどだ。
 懸命に働いて貯めた大切なお金なのだ。一円たりとも無駄にしたくない。
 けれど……大男は穂香を睨むばかりだ。
 ──手痛い勉強代だと思うしかないのかな。ああぁ、五千円……。
 しょんぼり肩を落とすと、ぽんぽんと優しく背中を叩かれた。
「やり取り聞いてたよ。あの大男相手によく頑張ったね。俺に任せて」
 突如かけられた言葉は日本語だった。
「えっ?」
 視線を上げると、すらりと背の高い男性の背中があった。
 オロオロして震えている穂香と違い堂々としている彼は、筋肉ムキムキの大男と対面しても引けを取らない威厳がある。
 黒髪の短髪。服装はベージュのコートと細身のスラックス。バックスタイルからは上品なフレンチカジュアルだと判断できた。
 聞こえてくるのはとても流暢なフランス語で、トラブルに慣れた雰囲気がある。おそらく現地在住の日本人だろう。
 頼れそうな助っ人の登場だけれど、不安はぬぐえない。
 大男は男性を睨んでいて、今にも殴り掛かりそうな雰囲気なのだ。穂香はハラハラしてしまう。
 ──どうか、喧嘩になりませんように……!
 祈るような気持ちで男性の背中を見ていると、大男の態度が急に軟化した。
 困ったように眉を下げて待つようにジェスチャーをし、屋台の中に引っ込んでいく。
  男性は大男の行動をじっと見ているようで、こちらに振り返らない。
 すぐに屋台から出てきた大男は男性にお金を渡しながら、バンバンと肩を叩いて笑っている。
「この差は、なんなの……」
 大男は穂香にも笑顔を向けて、ウインクまでしてくる始末だ。手のひら返しとはこのことか。
「はい、お釣り。数えてみて足りなかったら彼に言うから」
「すみません、えっと……」
 差し出されたお金は十ユーロ紙幣とコインだ。受け取る手が震えていたけれど、急いで確認する。
「合っていました。ありがとうございます。大変助かりました」
「どういたしまして」
 お金を財布にしまうと、安堵感がどっと押し寄せてきた。
「ああ、怖かった~」
 ヘナヘナと膝から崩れてしまいそうになるが、通りで座り込むわけにもいかずグッと堪える。メガネを取って、情けなくも滲んでいた涙をぬぐった。
 名前を聞いてお礼をしたい。ぐずぐずしていると立ち去ってしまうだろう。メガネをかけなおしながら彼に向き合った。
 しかし「あの」と口を開きかけて、そのまま固まる。
 どういうわけか、穂香を見る彼の表情が険しいのだ。
「きみは……!」
「は?」
「きみは、ここでなにをしているんだ!?」
「えっ!?」
 ──なんで急に怖くなった?
「一緒に来てもらおうか」 
 冷たく言って穂香の手首をガッと掴んだ男性は、強引に引っ張っていく。仰天の変貌である。穂香はただただ戸惑うばかりだ。
 ──ひょっとして、警察!?
 だから大男の態度が豹変したのか。
 そう納得するも、穂香は悪いことをした覚えはない。
「あの、人違いじゃないですか!? 私は如月穂香といいまして、二十八歳の無職で善良な日本人ですよ!」
「それは偽名か? 言い訳は後で聞く」
 取り付く島もない。
「偽名だなんて、そんな……違います」
 オロオロして言葉を返すも、彼の歩みを止める効果はない。
 どこに連れていかれるのだろう。手首を握る手は強く、抵抗しようにも力の差がありすぎて、ぐいぐい引っ張られてしまう。
 絶対勘違いされている。
 ──あっ、そういえば昔、違法な品の運び屋に間違われて、現地の警察に捕まった人がいたよね!?
 その人は言葉が通じないために冤罪を主張できず、長い拘留生活を送っているという記事を読んだのを思い出していた。
 穂香は青ざめた。
 たった今金銭のやり取りで苦労したところなのだ。そんな事態に陥ったら、どうしたらいいのか。ゾッとする。
 焦燥からネガティブな想像ばかりが脳内を駆け巡る。
 だが、幸いにも相手は日本人なのだ。現地の警察に連行される前に、なんとかしなくてはならない。
 そのためにはちゃんと話を聞いてもらうのが最善だろう。下手に逃げれば、〝心当たりがある〟として、さらに不利になりそうだ。
「ど、どこに連れていくんですか!」
「俺の部屋だ。言い訳があるなら、そこで聞こう」
 とりあえず警察のところではないようでホッとする。
 しかし〝俺の部屋〟とは、自宅に行くのだろうか。名前も知らない男性とふたりきりになるのはどうなのか。新たな不安が湧き起こる。
 ──でも、でも、さっきは助けてくれたし、いい人だと信じたい……。
「あ、あなたは誰で、何者ですか!」
「ふん、知っているくせに、しらじらしいな」
 吐き捨てるようにつぶやく。
「知らないから、聞いているんです」
「……まあいい。そのうち真実が分かることだ」
 通り沿いにある大きなビルに連れられて行く。
 ──え、アパートじゃない。ここは……ホテル?
 清掃の行き届いた広いロビーにカウンターがあり、スタッフの姿もある。
 みんなきちんと制服を身に着け丁寧に挨拶をしてくれる。穂香が宿泊しているところよりもはるかに立派なホテルだ。
 思わぬ光景に驚いてしまった穂香は、スタッフに助けを求めることを失念していた。
「あっ、あの!」
 ハッと気づいて手を伸ばし、声を上げたときにはすでに遅く……エレベーターの扉がぴっちり閉まっていた。がっくりと肩を落とす。
 男性は口を閉ざしたまま前を向いている。
 ──なんてことなの。
 気晴らしの旅行のはずが、一難去ってまた一難。青天の霹靂。男性は糠に釘。脳内ではネガティブな日本語が踊っている。
 やがて一室の部屋の鍵が開かれ、一歩中に入るとドアがパタンと閉められた。オートロックの音がカチッと鳴る。
「とりあえず、座ってくれ」
 ソファに座らされた穂香はビクビクしながら前に立っている男性を見た。
「さっきも言いましたけど、私は善良な東京都民で、フランスには一人旅で、昨日ついたばかりで……」
「ほう、それで?」
 男性の目がすぅっと細くなる。
「たしかに、結婚詐欺に遭いそうになりましたけど、私は被害者ですし。警察に捕まるような犯罪はしてません」
 つらつらと身上を話すが、男性の表情は険しいままだ。
「聞き捨てならないな……結婚詐欺とはどういうことなんだ」
 ──うう、さらに怖くなってる。
 いっそう迫力を増した声にひるむが、ここで負けていたら最悪の場合警察に連れていかれる。なんとか身の潔白を証明しなければならない。
 ──なにを疑われてるのか、さっぱりわからないけど。
 穂香は落ち着くように息を吐き、口を開いた。
「マッチングアプリで知り合った男性と交際して、結婚の約束をしたんです。でも突然警察の人が来て、その男性には結婚詐欺の訴えがきているって言われたんです」
「マッチングアプリだと……?」
 ずっと厳しかった男性の表情が困惑に変化している。もうひと押しかもしれない。
 なにか、証明できるものがあればいい。
 でもパスポートは持ち歩くのが不安だったから、ホテルのセーフティボックスに入れてきてしまったし、うっかりしていてコピーも持っていない。
 まったく、間抜けすぎる。こんなふうだから結婚詐欺に引っかかるし、このようなトラブルに見舞われるのだ。
「あっ、そういえば!」
 財布に入れっぱなしの運転免許証があるのだった。それを出せば、自分を証明できる。
 ムスッとしている顔写真は不細工極まりなくて、年頃の女としては男性に見せたくないものだが、この際仕方がない。
 穂香は慌てて取り出し、彼に差し出した。
「これ、見てください」
 怪訝そうに受け取った彼の様子が一変した。「なんてことだ」とつぶやき、目を見開いて穂香と免許証を見比べたあとビシッと姿勢を正す。
「大変、申し訳ありません!」
 九十度の、実に綺麗なお辞儀をしてくれる。頭を下げたそのままの姿勢で言葉を続けた。
「たしかに、人違いです。乱暴してほんとうにすみません。ですが、あまりにも知り合いに似ていたものですから……」
「わかってくだされば、いいです。それに先ほどは、私のほうが助けていただいたんですし、頭を上げてください。ずっと、その人を探してるんですか?」
「そうです。以前届いたエアメールがフランスの消印だったんですよ。だから、まだこの国にいる可能性があったもので」
 そう言ってがっくりと肩を落とす。うつむき、意気消沈したその姿が気の毒になる。
 探し人は友人か、身内か、恋人か。
 どうか気を落とさないでほしい。
 そう言葉をかけようとした瞬間、彼がパッと顔を上げたからビクッと身体が跳ねた。
「名乗りもせずに、大変失礼しました。私の名前は上月悠人、三十二歳です」
 自己紹介をする彼はすっきりした顔つきをしていた。大男とのトラブルから救ってくれたときと同じ爽やかな雰囲気に戻っている。
 ──あれ? それほど堪えてないみたい……?
 二重で切れ長の目、高い鼻梁、薄くて形のいい唇。身長は百八十くらいで、しかも小顔である。姿勢もよい、八頭身の美男子だ。仕事はモデルかもしれない。
 ──雑誌の撮影で来てるのかな。
「不愉快な思いをさせてすみません。楽しいはずの旅行を台無しにするところでした。お詫びに観光案内をしますよ」
「それは嬉しいですけど、お仕事があるんじゃないですか?」
「まあ、たしかに今も仕事中といえばそうですが、割合に自由が利くんですよ」
 にこっと笑う。
「それに、如月さんは海外旅行に慣れてないようだし、一人で過ごすのは危なっかしい。犯罪に巻き込まれるかもしれません」
 悠人は、ふと真剣な顔つきになった。
「まず、さっきの雑貨店での一件ですが、彼は言ってましたよ。〝彼女に、お釣りはあげない〟と伝えたと」
「ええっ!? どういうことですか?」
 穂香は思わず立ち上がった。
「フランスでは日常の買い物はカード決済で少額ならばコインを使います。如月さんのように五十ユーロ紙幣を使うことはあまりないでしょう」
「そんな……知りませんでした……」
「個人店では特に〝小さいお金はないのか〟と受け取りを拒否されることもあります。偽札だと疑うこともあったりします」
「えっ、偽札だなんて」
 しかしそう言われてみれば、普段見慣れないなら偽造の判別がしにくいだろう。店舗側が用心するのは仕方がないことだ。
「あ、そういえば……」
 穂香が紙幣を出したとき、大男は嫌そうな顔をしていた気もする。それになにかを聞かれて、よく確かめずにOKなどと言ってうなずいてしまっていた。
 ──天使を包んでからだったから、〝袋はいるか?〟と言われたと思ってた。
 衝撃の事実に愕然とする。
 穂香は了承したことになる。だから、大男は怒っていたのだ。まさか「お釣りはあげない」って言うと思わない。完全に穂香が悪いではないか。
「知らないって、怖い」
「まあ、前提として多くのフランス人は引き算に弱いから、十ユーロで支払ってもお釣りを間違うこともありますからね。特に露店などのレジがない店での買い物は、相当に気を付けないと」
「そうなんですか……」
 悠人はどうやって交渉してくれたのだろう。頭が下がる思いだ。
「だから、現地慣れしてる私の案内が必要だと思いますが?」
「ほんとにいいんですか? お願いしても」
「実は旅行に関わる仕事をしてるんですよ。フランスに悪印象を持ったまま如月さんに帰国してほしくない。仕事の都合上、明日帰国しなくちゃいけないので、今日しか案内できませんが」
 今も仕事中だと言っていたし……旅行雑誌のモデル兼ライターか。イケメンだし、人気がある旅の動画配信者もありえる。
  それならば、旅行者である穂香のリアクションが彼の仕事に役立つこともあるだろう。穂香は彼の言葉に甘えることにした。
「ところで、今日はどこに行く予定でした?」
「あ、決めてないんです。まだスマホが使えない状態なので、調べようがなくて。シムを手に入れようと探していたら、あの露店を見つけて買い物しちゃったんですよね」
 空港でもシムは売っていたけれど少し高く感じたし、長時間の飛行で疲れていたためスルーしたのだ。
「スマホが使えないまま!?……ひょっとして、無計画でパリに?」
 今度は彼が愕然とした表情をしている。
 それはそうだろう。旅先がどこであれ、大抵の人は下準備をしてくるものだ。それが日本語の通じない海外であれば入念になるのが普通だ。
  穂香は苦笑いをした。
「その、今回の旅行はヤケクソというか、飛び込みというか。海外にいくって決めてから、すぐに旅立てるところがパリだったんです。空港からホテルまではタクシーで来ましたし、なにも問題なく過ごせてたんですよ。さっきまでは」
 シムさえ手に入れれば、翻訳アプリも地図も起動できる。無計画でも無知でも大丈夫だと、安易な考えだったのは否めない。
「たとえヤケクソ旅行だとしても、少しは事前に調べるでしょう。きみ、無謀というか、度胸があるというか。ずいぶん面白い人だな」
 くっくっくと笑う。
「子どものころから何度も海外旅行はしていたので、旅慣れていたつもりだったんです。まあ、フランスは初めてですけど。というか、ヨーロッパ初ですが」
 むぅっと口をとがらせてみるけれど、悠人はよほどツボにはまったらしく、ちっとも笑いが収まらない。
 彼にとって、穂香は初めて出会ったタイプのようだ。
 ──彼の周囲は慎重な人ばかりなのね?
 でも一人旅は今回が初。右も左も分からないところでスマホも使えないまま出歩くのは、たしかに無謀だと言える。
 それに、変に深刻がられるよりは、面白いと言って笑い飛ばしてくれたほうが気が楽である。
  彼につられて、穂香もクスッと笑みをこぼした。
「だって結婚詐欺に遭いそうになったし、その関連で会社では変な噂が立ったから、居づらくなって辞めてしまったし。〝もうどーでもいい〟ってヤケクソにもなるでしょう?」
 同僚たちは興味津々で穂香に話を聞きたがった。
『マッチングアプリに頼らないと彼氏もできない地味なメガネ女だから、浮足立って詐欺なんかに遭うのよ』
 トイレで聞いてしまった笑い声。うわさ話をしていたのは、仲がいいと思っていた同僚たちだった。
  信頼して話をしたのに笑いものにするなんて、傷が深く抉られた思いがした。
 だから詐欺被害に遭いそうになったお金を、全部自分のために使ってしまおうと思ったのだ。
 この旅行の目的は、気分転換と現実逃避と嫌な出来事の記憶消去だ。帰ったら心機一転、裸一貫の成りあがりのつもりで頑張る予定である。
 穂香の言葉を聞いてすぐ、悠人は笑顔を引っ込めた。
「笑って申し訳なかった。それなら余計に、俺がヤケクソ旅行から楽しい旅行に変えてあげなきゃいけないな。さっそく出かけよう。時間がもったいない」
「どこに……?」
「フランスでもっとも人気のある観光名所」
 悠人は着いてからのお楽しみだと言って、ニッと笑った。


「わあ、全部ピカピカの金! 富の象徴かな」
 悠人が連れてきてくれたのは、パリから電車で四十分ほど離れた場所にあるヴェルサイユ宮殿。王妃マリーアントワネットが過ごした居城である。
 金色の門と左右に伸びる柵が、太陽の光でますます輝いて見える。
「この王の門は富の象徴だからこそ、フランス革命時に破壊されてしまったんだ。復元されるときには、十万枚の金箔が使われたそうだよ」
「十万枚! 金色のペンキで塗っちゃえば安上がりでメンテも楽なのに」
 穂香の庶民的な意見に悠人は笑顔になる。
「歴史的遺産なんだ。復元とはいえ、そういうわけにはいかないんだろうね」
 ──たしかにそうかも。
 ヴェルサイユ宮殿は世界遺産だ。
 今も世界中から訪れた人が宮殿を見るため入場口に列をなしている。当時のままの姿を見られなければ魅力は半減して、観光客も減るかもしれない。
 金箔の柵の内側に見える宮殿も金色に輝く装飾があり、外観だけでも圧倒される。外がこれなら、中はいかほどか。
「行こう。宮殿内はもっと煌びやかだ。混雑してるから、はぐれないように、どうぞ」
 スッとスマートに差し出された腕を取るべきか躊躇する。けれど、今は現実から離れるために来た旅先だ。
 ──場所が宮殿だし、お姫さま気分を味わってもいいよね?
 腕を出して微笑む彼は長身でスタイルが良く、どことなく品がある。まさに物語に出てくるようなイケメンの王子さまだ。
 穂香はセミロングの髪でメガネ女子。少々胸が大きいことを除けばスタイルもごく普通で、姫君とは言えない容姿だ。
  けれど今は夢の時間。シンデレラ気分を味わってもばちは当たらない。
 少しでも上品に見えるように微笑みかけ、彼の腕にそっと手をのせた。
「エスコート、よろしくお願いしますね」
「もちろん、お任せあれ」
 悠人に導かれて入った宮殿内は、想像を絶する壮麗さだった。
 壁は彫刻や絵画で埋め尽くされ、装飾も豪華で空白な部分が一か所も無い。王族とはいえ、こんなところで生活をしていたら、金銭感覚が狂ってしまいそうだ。
「贅沢の限りを尽くしたって感じ。これじゃ、革命が起きても仕方ないかな」
 寝室には上質な布が使用された天蓋付きのベッド。あんな豪華なベッドで眠ったら、豪遊している夢が見られそうである。
「王が余剰金を使うのは民のためでもあるけど、度を過ぎれば悪になる。豪遊はほどほどがいい」
 そう言った悠人は口を引き結び、少し厳しい顔つきをしていた。その目は遠いどこかを見ているようだ。
  ──まるで自分を戒めているような……気のせいかな。
 じっと見つめていたら、ふとこちらを向いてふわりと微笑む。その綺麗な笑顔は、反則的な魅力があって胸がドキッとする。
 ステキな容姿で優しく上手なエスコート。穂香はここまで進む間、混雑している場所でも一度も人にぶつかりそうになったり躓いたりしていない。
 ──歩きながらも、ほけーっと天井を見上げたりしていたのに。
 間違いなく、悠人は女性にモテモテだ。
 そして穂香も好意を抱き始めている。
  ──出会ってほんの少ししか一緒に過ごしていないのに。危ない……これは夢のひとときなんだから。
「次は大回廊だ。マリーアントワネットの婚姻舞踏会をしたところは、最大の見ものだよ。きみも気に入るんじゃないかな」
「わぁ、それは楽しみ!」
 その鏡の回廊には三百五十七枚の鏡と二十四本のシャンデリアがあり、金の装飾と絵画で彩られた空間は透明感と圧倒的な美があった。
「すごい……」
「ここの鏡はベネチアから職人を連れてきて作らせたそうだ。当時の鏡は貴重でベネチアが鋳造を独占していたから、無理矢理に職人たちを引き抜いたんじゃないかな。ここも富と権力の象徴だね」
 天井からさがるシャンデリアだけでなく、燭台を支える金の像が何体も置いてある。
 電気のない時代にこれらすべての明かりが点されたら、シャンデリアのクリスタルと鏡の反射も相まって、さぞかし光り輝く美しい空間になったことだろう。
 息を忘れるほどに見入っている穂香を悠人は黙って見守ってくれた。
 外は美しくも広大な庭園が広がっている。王の宮殿のほかにも見どころがあるようだが、穂香は鏡の回廊を見られたことで満足していた。
「ありがとう。ここに来てよかった」
「きみが楽しめてくれたなら、俺もうれしいよ。じゃあパリに戻ろうか」
  世界一豪華な宮殿を堪能した穂香は、夢見心地のままヴェルサイユを後にした。


 パリのシャンゼリゼ通りはすでに夜の彩りだった。
 店舗には灯りが点されてお洒落なムードが漂う。広い歩道は思ったよりも人通りが少なく、カフェ内では食事を楽しむ人たちでにぎわっていた。
 時刻は夜の七時少し前。十一月に入ったばかりでもパリの夜は結構寒く、厚手のコートを着ていても風に吹かれて思わず身震いをする。
「寒い? 手を繫ごうか。少しは温かくなる」
 こういうことをサラッと言える悠人は、女性慣れしているのだろう。それとも自分に親しみを感じてくれているからか。
 自分に親しみ以上の感情を持ってくれているとうれしい。そう思うのは、彼に惹かれているせいだ。
 ──多くは、私が知り合いに似てるせいだよね。
 王子さま然とした彼の振る舞いには厭味がない。ヴィクトリア宮殿から続くシンデレラの魔法はまだまだ解けない。
 穂香がそっと彼の手に触れると、きゅっと握って「冷たい手だね」と微笑む。
「心はあたたかいの。逆にあなたの手はあったかいね?」
 胸のときめきをごまかすように茶化してみると、彼は参ったなというように笑った。
 ルイヴィトン、ロレックス、エルメス、アルマーニ。名だたるブランドが並ぶエリアにはお洒落な男性の姿が目立つ。
 雑誌のモデルや映画俳優のような容姿で、壁にもたれてスマホを触る格好さえも絵になっている。
 ──雑誌の切り抜きを見てるみたい。でも、悠人さんも彼らに負けていないんだよね……。
 店内を覗くと、ブランドを着こなしたイケメンな渋い叔父さまが商品を見せてもらっている。一緒にいる女性と会話したりして、ハリウッド映画さながらの光景が広がっていた。
「わあ、すごい。カッコイイ」
「入ってみる?」
「とんでもない! ウィンドウショッピングだけで十分」
 穂香は思わず両手をぶんぶんと振った。
 ルイヴィトンの本店前には店内に入るための列ができている。どの人もお金持ちそうに見えて、穂香にはレベルが違うように思えた。
「へぇ、ヤケクソでフランスに来た割には、堅実なんだね。午前中の買い物は結構な無謀だったけど」
 また、くっくっくと笑う。思い出しているらしい。
「あなたに教えてもらったから、もう同じ失敗はしないよ。それに私は、身の程をわきまえてるんで、マリーアントワネットのように豪遊はしないの。それよりもお腹が空いたから、食事したいな」
 お昼少し前に屋台で購入したサンドウィッチを食べたきりだ。それ以来ずっと歩き回っていたから、お腹がぐ~っと鳴りそうである。
 悠人は腕時計をちらっと見てうなずいた。
「OK。時間もちょうどいいから、レストランに行こう」
 シャンゼリゼ通りから移動し、到着したレストランPerruche。ビルの屋上にあるこのお店は、パリの街並みが一望できる人気のレストランだという。
 悠人はいつの間に予約していたのか、景色が良く見える席に座ることができた。
「ここのメニューはシンプルなんだけど、パリに来たら景色を楽しまない手はないと思って、予約しておいたんだ。どうかな?」
「うん、すごくうれしい」
 さっそくメニューを見るけれど、フランス語で書かれた料理名はよく分からない。
 頭を悩ませていると、悠人が食の好みを聞いてくれてすんなり注文できた。
「なにからなにまでありがとう」
 彼と出会えたのは運命だろうか。こんなふうにやさしくしてもらえれば、パリは忘れがたい町になる。
「ほら、もうすぐシャンパンフラッシュが始まるよ」
「わぁ、すごい。エッフェル塔がキラキラ輝いて見える!」
 シャンパン色に彩られた塔がはじける光で包まれている。花火のような演出に心がワクワクと躍った。
 特別な演出と思いきや、悠人が言うには毎晩定時に光るから見逃さないように待機してればいいらしい。
 景色の感動が冷めやらぬうちに注文したワインと料理が運ばれてきた。
「パリの夜に、乾杯」
 悠人の気障なセリフもパリの夜景マジックと、どことなく漂う彼の品が気恥ずかしさを打ち消してくれる。
「素敵な夜に乾杯」
 グラスを合わせるとルビー色の液体がゆらりと波打つ。
 その向こうにいる彼の目がとても色っぽく見える。自分も同じくらいに色香を放っているだろうか。女性としての魅力を感じてもらえているだろうか。
「今日はきみと過ごして、久しぶりに楽しいと思えたよ」
 そういう悠人の笑顔はとてもやさしい。
「そうよね。あなたは終始笑っていたものね。だけど、私もすごく楽しかった。滅多にできない素敵な経験をしたと思ってる」
 彼が勧めてくれたフリーのシムはとても安価だったし、買い方がよく分からない電車のチケットもすんなり購入できた。
 彼がいなければ、穂香のパリ旅はとんでもないものになっていたに違いない。出会えたことに感謝だ。
 こんな人の恋人になれたら、穂香の人生は変わるのだろう。
 連絡先を知りたいとも思う。
 でもこんな素敵な人なら、日本に恋人がいるはずだ。穂香が彼に好意を持ったように、多くの女性たちも彼に恋心を抱くだろう。
 たとえ彼に彼女がいたとしても、それでも、つかの間でも恋人になれたら……この後の人生頑張っていける。
 テーブルの向こうにいる彼の笑顔は変わらない。
 この食事が終わってしまえば、彼とはお別れだ。そう思うと辛く、焦燥感が湧く。
 話をしながら食事をする時間はとても早く過ぎていく。あっという間にデザートまで進み、テーブルの上にはなにもなくなっていた。
「ここは俺が持つよ。残りの旅も楽しめるように」
「待って」
 伝票を手にした彼の手に、穂香はそっと手のひらを重ねた。悠人の目が驚いたように開かれている。
「俺の厚意なんだ。ダメかな?」
「違う、そうじゃなくて。明日帰国してしまうあなたに、お願いがあるから……」
 胸が躍るようにドキドキしている。でも今の穂香はシンデレラであり、まだパリの魔法は解けていない。だから大胆にもなれる。
 ──断られるかも。だけど……!
 勇気を出して口を開いた。
「旅先の思い出にしたい。だから……あなたと……悠人さんと、一緒に夜を過ごしたいから。今夜だけ、私を恋人にしてほしい」
 自分から誘ったのは初めてだ。恥ずかしくてうつむきそうになるけれど、彼をじっと見つめた。
 ──ここでの私は、私であって私じゃない。
 地味なメガネ女子から脱皮したような、特別な感覚があるのだ。
「も、もちろん、あなたの好みの女性じゃないだろうけど……それでも……」
 見つめ返してくる彼の眼差しが眩しくて、ふと視線を落とすと重ねていた手の甲にぬくもりを感じ、ぎゅっと握られた。
「そんなことないよ……夜を過ごすのは、きみが滞在してるホテルでいいかな?」
 色香を含んだ彼のささやき声に、うなずく穂香の体の熱が急上昇した。