ケダモノ社長のお気に入り 男装秘書は淫らに身体を暴かれる 2
第二話
「あ、どうぞ。続けてください!」
「えっ、何を……?」
見ていないでフォローしてほしい。自己紹介よりも前にこんなことになってしまって、私は結構困っている。どうしようか迷ってもう一度社長に向き直ると、彼は顔を近づけるのをやめてスッとその場に立っていた。やっぱりこの人おっきいな。
「突然触れて悪かった。ごめん、新しい秘書の人」
「篠崎侑李です」
「篠崎。篠崎ね。オーケー」
彼は腕を組み、片手で自分の顎を触って何か考えながら私を見ている。品定めはまだ続いているらしい。私は堂々とした男を演じるべく、キュッと顔の筋肉に力を入れる。
すると鳳穂高はまたきょとんとして、それから気を緩めて笑った。挑発的な、誘うような……どう形容していいのかわからない。なんだか、胸がザワザワする笑い方。
「いいじゃん、気に入った。おいで篠崎」
「え」
「これから商談なんだ。五分後には地下の社用車に乗ってここを出ていないと間に合わない」
「なっ……なんでそんなにギリギリなんですか!」
まだ名乗られてもいませんが!?
そんなツッコミを入れさせる間もなく、鳳穂高は風のように私の横をすり抜けた。いつの間にか手にビジネスバッグを持ち、出かける準備万端の状態で。私はわけがわからなかったけれど、今は彼の後を追うしかない。隣では高野さんが両手で可愛くガッツポーズをつくり「篠崎さん負けないで!」とエールを送ってくる。
勢いよく駆け出し、ようやく社長に追いついてエレベーターに滑り込む。初っ端から走らされてゼエゼエと息を吐く私に、彼はまた心がザワザワする笑顔を向けた。
「俺の秘書は大変だと思うけど、頑張ってね」
フェニクシアで鳳穂高の秘書になって一日目。
この日は連れまわされて一日が終わった。
鳳穂高は分刻みのスケジュールであらゆる場所を回った。大口顧客との商談の後は一度社に戻って社内プレゼンを受け、その後はまた外に出て著名人との対談を撮るスタジオへ。夜になると会食のため料亭へ赴き、今度はその足で一回りは年上の取引先の社長と共にゴルフの打ちっ放しへ。相手を見送る頃には二十二時を過ぎていた。
「お疲れ様でした」
次回ゴルフコースを回るのを楽しみに上機嫌で車に乗り込んでいった相手方の社長のお見送りを終え、私たちは社用車を停めた屋外駐車場へと戻る。夜のゴルフ練習場はライトアップされていて明るい。初夏の夜風がやんわりと頰を撫でていくなか、前方を歩く鳳穂高の背中に話しかける。
「……いつもこうなんですか?」
「うん? どういう意味?」
彼の多忙さには純粋に驚いた。けれどそれもまあ、社長という立場を考えれば納得の範囲だ。彼のような過密スケジュールの役員はこれまでにも見てきた。
私が本当に驚いたのは、彼が本当に、何ひとつとして人に頼ることなく自分でやってのけたことだ。
「スケジュールは全部自分の頭の中に入っていると仰ってましたね」
「そうだな。特にどこかにメモしたりはしてないよ」
「今日お持ちになった手土産もすべて自分でご用意されたと」
「うん。自分がいいと思うものを渡したいし」
「お店の予約も?」
「自分でした」
「あまつさえ役員運転手すら付けず、ご自分で運転されて」
「こう見えて裏道にも詳しいんだ。俺の運転悪くなかったでしょ?」
なんだこの人。
雑誌には決して書かれていなかった一面に戸惑う。鳳穂高はすべてを一人でこなしてしまうスーパーマンだった。自分一人で事足りると。まるで秘書など必要としていないかのように、やり切ってしまう。
怒濤の一日を終えてもけろっとしている鳳穂高は、屈んで下のほうから私の顔を覗き込んだ。自分に自信のある笑い方で。
「どう? 俺の秘書できそ?」
試すような笑い方で、私を少し侮っているみたいに。
「俺が全部自分でやっちゃうから、やること探すほうが大変なんだって。それで自信なくしちゃうのか、新しい秘書がきてもみんなすぐ辞めちゃう」
「……そりゃそうでしょう」
秘書は上司の役に立ってこそやりがいを感じられる。そもそも人のサポートを好む人が志す職業だ。〝自分は必要とされていない〟と感じて離れていってしまうのは仕方がない。
たぶんこの人は、それもわかっていてやっている。
「だから正直、秘書とか必要ないんだ。来てもらって早々悪いけど――」
「部下の自尊心を育ててあげるのも社長の仕事では?」
上司の言葉を遮ってしまった。今のはよくなかったなと反省しつつ、社長の目の奥がかすかに揺れたのを見て言葉を続ける。
「それに……私がこれまで仕えてきた上役の方たちは、〝すべてにおいて自分が一番優れていることはあり得ない〟とご存じの方ばかりでした。部下からも学ぶべき点があることを認めて、積極的に力を借りていた。そんな謙虚さを私も尊敬していました」
「……へえ」
飄々とした態度。鳳穂高は余裕のある表情を崩さない。けれど確かに、瞳の奥には苛立ちが揺らめいていた。私の指摘を面白くないと感じたことが、ありありと伝わってくる。
「他の男と比較するんだ?」
「だって今のあなたは正直言ってダサいです」
「……ダ、ダサ……?」
「プライドが高いだけの、とても厄介な社長です。……自覚ないんですか?」
自分の上司に対してこんな失礼な物言いはあり得ない。普通なら即刻クビだ。しかし相手が憎き仇・フェニクシアの社長だと思うと〝この際だから言ってやれ〟という気持ちが勝った。実際、今の私は驕り高ぶっている鳳穂高の鼻を明かしてとても気分がいい。
こんな風に真正面から批判されることがあまりないのか、彼はぽかんと呆けていた。
私は一種の優越感を胸に彼の真横を通り過ぎる。
「帰りは私が運転しますね。ナビを設定するのでご住所を教えてください」
――やりましたよお父様。あなたの娘は憎き鳳の息子を言い負かしました。
そこでふと気づいた。言い負かしてどうする。
これ、本当に解雇されちゃったらどうするの?
(……やばい)
やりすぎたかもしれない。不安になって後ろを振り返ると明らかに落ち込んでいる鳳穂高がとぼとぼと私の後ろをついてきている。解雇はダメだ。こんなちょっと言い負かしたくらいじゃ復讐にはならないし、フェニクシアを転覆させることもできない。
「……あの、ちょっと。すみません。さすがに言いすぎました」
「ごめんで済んだら警察はいらない」
「でも社長、私の顔を触った後〝ごめん〟で済ませましたよね?」
「……」
「じゃあ今のも〝ごめん〟で水に流せますよね」
「…………」
あっ、また言い負かしてしまった……。
半ば強制的に和解に持ち込んだ。解雇は困る。
子どもの喧嘩のように〝ごめん〟で互いを許し、私たちは社用車へと乗り込んだ。
鳳穂高の自宅まで私が車を走らせる間、彼は後部座席で窓の外を流れていく景色をぼーっと眺めていた。私は運転席からバックミラー越しにハラハラとそれを見守る。和解はしたはずだけど……。
「あの。まだ気にしてます……?」
「正論を言われてへこんでいる」
あれだけ振りまいていた自信はどこへいったのか。雑誌で一面に押し出されていたキラキラオーラも心なしか半減している。物憂げに窓の外を眺めている姿は、セクシーではあるけれども。
(…………セクシー?)
男の人に対してそんな感想を抱いた自分にびっくりした。しかも相手は鳳の人間なのに。今のはなし、とバックミラーから視線をはずして運転に集中しようとすると、後部座席から鳳穂高がのらりくらりと話しかけてくる。
「自覚はあるからさ」
「え?」
「プライドが高いだけの、とても厄介な社長」
「……あー」
あらためて振り返るとなかなかに失礼なことを言っていて居た堪れなくなった。でも、自覚はあるんだ……。
余計な口を挟まずに社長の様子を窺っていると、ぽつりぽつりと言葉が続く。
「〝あー自分今めちゃくちゃ嫌な奴になってるなー〟ってわかってても、根がそうなんだから簡単にはなおせない」
「人に何かを任せるのってそんなに難しいですか?」
「難しいよ。だって他人に任せた途端に何事も不確実性を増すだろ。正直今も人の運転する車に乗ってると落ち着かない。事故に遭うかもってビクビクしてる」
「それはあなたが運転しても同じでは……」
「俺が事故るわけないだろ。超安全運転だわ」
「はあ」
そうですか。それはそれは。
「勝手に人に期待して裏切られた気持ちになりたくない。それなら最初から自分でやるほうがいい。失敗も少ないし」
なるほど。これはなかなか根が深そうだ。
この男はどうしてこんな風になってしまったんだろう。フェニクシアの隆盛とともに思春期を過ごし、大人になれば社長の地位を親から譲られた。きっと愛されて育ったんだろうなと想像がつく。それなのに、何をこんなに拗らせているんだろう。
あれだけ真剣に雑誌に目を通したのに、私は鳳穂高のことを何も知らないな。そんな風に振り返っていると、後部座席からミラー越しにじっとこちらを見つめてくる鳳穂高と目が合った。気になるので「何でしょうか」と尋ねる。
「そう言うきみにだってひとつくらいあるだろ」
「私ですか?」
「これじゃダメだって自分でもわかってるけど、簡単にはなおせないところ」
「それは……」
本当はすぐに思い当たったことがひとつある。だけどそれを考え出すと沼なので、そっと意識の下に沈めて「どうでしょうね」と返事を濁す。
曖昧な言葉ではぐらかされたことが面白くなかったのか彼は引き下がらない。
「俺ばっかり自分のこと話してるじゃん。篠崎も何かしゃべろうよ」
「私は特に面白いこともありませんので。ほら、ご自宅に着きましたよ」
ナビが目的地到着を告げたのは、あたりでも一際背の高い超高層マンションの前だった。社用車をコーチエントランスに入れる。適当なところで駐車すると、後部座席からシートベルトをはずす音がした。一応私も車を降りて見送ろうと、シートベルトをはずすべくバックルに手をかける。
そのとき耳のすぐ裏から声がした。
「俺の愛人にならない?」
「……仰る意味が、よく……」
あまりの近さに心臓が跳ねた。寸前のところで声を漏らすのを我慢し、なるべく平静に答える。鳳穂高は後部座席から身を乗り出し、私が座る運転席の後ろに張り付いているようだ。子どもがそうするみたいに。
今なんて言った?
シチュエーションも相まって理解が追いつかない。
「秘書兼愛人」
「どうして」
「物怖じしないところが気に入った。何より顔がタイプだ」
「私は男ですが」
「この令和の時代にその逃げ方はどうだろう? 理由にならないと思うけど」
それはそうかもしれない。鳳穂高が男性を好むとして、そんなことは彼の自由だ。
(……鳳穂高は、男が好き?)
そんなの前情報にはなかった。女嫌いだとは聞いていたけれど。
でもよくよく考えると社内の女性とは普通に会話していたような。そこには特に嫌悪も苦手意識も感じられなかった。ということは? ……どういうこと?
思考を深めたいのに耳元にかかる呼気が気になって集中できない。「近いです」と突っぱねていいものか。でもそうすると、その反応で私が女だとバレてしまいはしないか。
グルグル考えていると、鳳穂高が再び耳元で囁く。
「もう一回言ったほうがいい? ……深い仲になろうよ、篠崎」
偽の名前を囁く声があまりに甘美に響くので、私はぞくりと背筋を震わせた。腰骨から脊椎を通って首筋までもが震えるような、甘くビリビリとした何か。
秘書篠崎ならここでどう答えるか。必死に頭を働かせて返事を紡ぐ。
「……申し訳ありませんが、私は同性に興味がありません」
「ほんとに? 絶対男に興味があると思ったんだけど」
「離れていただけませんか」
「社長室で顔を近づけたときも嫌そうではなかったし」
「鳳社長」
「俺の顔が好き?」
「っ……好きとかっ……」
好きじゃない。ただ穴が開くほど雑誌やインタビュー動画を見ていたから見慣れてしまっただけで。なんだか親しみを感じてしまっただけで、別に好きとかじゃない。
「噓つき」
そう聞こえた直後、べろぉ、と、熱い舌が耳の中を犯した。
「あッ……!」
「……あれ? 結構可愛い声出すね」
「っ……」
驚きとともに漏れた声は少し女っぽかった。慌てて手で口を塞いでも遅い。
「ちょっ……やめ、て、くださいっ……鳳社長……っ」
「おっぱいも大きい。筋肉かな? そこそこ鍛えてる?」
「んっ……!」
社長は私のジャケットの内側に指先を滑り込ませ、爪で私の乳首の上を引っ搔いた。同時に私の口からは喉を締め上げるような嬌声が漏れる。ソコはだめ。まずい……。
男装するために胸は潰している。補整下着を着用して胸を平らにすることで男性的な胸板に見せていた。彼はそれでも残る胸の膨らみを男性の鍛えた筋肉と勘違いしたのか、補整下着の上から私の胸を触った。
私は何をされているんだろう?
「あ……いや……社長っ……」
「んー? なあに?」
「ひぁ……ううっ……」
左右に流した乳房の先の乳首を的確に探し当てられて、補整下着とワイシャツの生地越しにカリカリと執拗に引っ搔かれる。直接ではないもどかしい刺激がじわじわと下半身に滞留していく。更に彼はそうしながら器用にも舌で耳の中を舐めてくるので、私の頭の中はぐちゃぐちゃになった。
――弱いのよ、私は。耳も胸の先も。
「腰がカクカクしてるよ、ねぇ篠崎クン。……感じてるんだ?」
「あッ……ん……誰が……っ」
自分で触るのとはまったく違った。止めてほしくても止めてもらえない刺激に身体が強く疼く。本当なら不快なはずの鳳穂高の舌がぞわりと私の〝女〟を悦ばせる。熱く湿っぽい愛撫に私は運転席のシートの上で悶え、震えていた。男の人に触られてこんなに気持ちよくなれるだなんて、私は知らなかったのだ。
流されてはいけない。気持ちいいけれど。流されては……。
「ねぇ。このスーツ脱がせていい?」
「っ!」
そう言われてやっと我に返った。〝それはまずい〟と危険信号が灯る。スーツの下には胸を潰している補整下着と肩幅を出すための厚手の肩パッドが入っている。
つまり、脱いだら男装バレ不可避……!
鳳穂高の大きな手がするりと私の肩から胸の上を滑り、ジャケットのボタンをはずす。そのままネクタイの結び目に手がかかり、器用にほどいていく――その途中で。
「うぐっ!?」
ごちんっ! と鈍い音がした。私が左斜め後ろに頭を振ったことで、私の耳を舐めていた彼の顎に後頭部がぶつかったのだ。そしてそれはクリーンヒット。鳳穂高は後部座席に退散し痛そうに顎を押さえていた。
「いっ……たぁ~!」
「やめてくださいと言っているでしょう。怒りますよ」
石頭でよかった。少しじんじんするだけで済んだ後頭部を撫でさすりながら、後ろの彼に侮蔑の目を向ける。ネクタイを結びなおす。鳳穂高は後部座席のシートに凭れて気ままな猫のような仕草で首を傾げ、こちらを見ている。
「ごめんて、怒んないでよ。ちょっとしたサプライズだから」
「サプライズ……?」
「焦ったときほど人って本性出すものでしょ。入社テストみたいなもん」
「……面接はもう受けて、合格をいただいたはずですが」
「だね。違いない」
けらけらと軽やかに笑う。摑みどころのないその笑い方に〝苦手だ〟と思った。
「一体これで何がわかったっていうんです……」
「ああいう状況になったら、案外可愛い感じになるんだなってわかった」
「セクハラ、および強制わいせつ罪で訴えますがよろしいですか?」
「えー……気持ちよさそうだったのに」
「よろしいですね?」
「よろしくないです。ごめんなさい」
気持ちよくなってなんかない。
復讐相手に触られて気持ちいいなんて、あってはならない。
(……〝可愛い感じ〟とか)
一体私がどう見えていたのか。「セクハラだ」と強い言葉でいなしたけれど、心の中では本当に女だとバレなかったか心配で仕方がない。彼にいいようにされていたあの瞬間も、私はちゃんと男を装えていただろうか?
「……全員にこんなことしてるんですか?」
「ん?」
「さっきの。新しい秘書がくるたびにこんなふざけたテストしてるのかなって」
尋ねると挑発的な笑顔を返された。
「さあ? どうだろう」
「はぐらかす意味」
「篠崎にはもっと俺に興味持ってほしいからさ」
やけにまっすぐ瞳の中を覗いてくる目が苦手だ。奥の奥まで見通そうとしているのが鏡越しにもありありと伝わってきて、秘密を抱えている私は後ろめたい。本当は男じゃないということも、もうバレてるんじゃないかと不安にになってくる。
「よろしくね、篠崎クン」
フェニクシアで鳳穂高の秘書になって一日目。
この男のことが、余計に苦手になった。
◇◆◇◆
拝啓、お父様。
あなたの娘は男装し、憎き仇・鳳の息子の秘書になることに成功しました。
必ずやこの会社の暗部を暴き、失墜する様をご覧にいれましょう。
鳳穂高の秘書になって一週間が経過した。
うららかな昼下がりの社長室。広報部から頼まれていた資料を書棚からピックアップしていると、急に背後から声をかけられる。
「篠崎さぁ。男のくせに腰細くない?」
「っ、わ」
女性的な悲鳴はかろうじて我慢する。鳳穂高は気配を消すのがうまく、気づけば背後をとられていることが多かった。今さっき見たときはデスクでパソコンを触っていたのに、いつの間に……?
「腰、ってか全体的に……? ちゃんと食べてる?」
そう言いながら身体のラインを確かめようと手を伸ばしてきたので、察知した私はサッと身を引いて社長の手から逃れる。それを見た社長は相変わらず悪気のない顔でぽかんとしていた。
「随分と警戒されてしまったなぁ」
「心当たりがおありですよね」
「まあ、あるね」
初日のやけにエロティックな接触は忘れろというほうが無理だ。一週間が経ったというのに、こちらは未だに耳の中を舐められた感触を思い出してはゾワゾワする。あのときは〝サプライズ〟で済まされてしまったが、よくよく考えるととんでもない。
さすがにあれほどまでの露骨さはないものの、鳳穂高の距離の近さは健在。パーソナルスペースの概念も持たず、たまに身体に触れてきては私を困らせた。
「相手が男ならセクハラにならないとでも思っているんですか? だったら認識を改めたほうがいいですよ」
「そりゃ篠崎が嫌がってるならセクハラになるだろうけど」
「明らかに嫌がってますよね?」
「そうなの?」
「子犬のような目をしてもダメです」
指摘すると彼は「ははっ」と笑ってあざとい表情をやめた。こんな感じでのらりくらりと躱される。そしてまた絡んでくる。その繰り返しで一週間が経った。
デスクに戻っていく鳳穂高を尻目に、私は大きくため息をつく。
「ちゃんと食べてますし、細いということもないと思います」
「そう?」
「着痩せするタイプなんです」
「えっ、じゃあ脱いだらすごい?」
「……まあ、そこそこ」
何を言わせるんだと思いつつ、男の身体の話をしているんだからそういうことでいいかと割り切った。篠崎侑李は、脱いだらそこそこすごい。この設定を覚えておかなければ。
私のことはいいとして、鳳穂高の食事のほうが気になった。
「社長こそ、まともに食べているんですか?」
「俺?」
エグゼクティブデスクの上にあるプラスチックのシェーカーボトルに目をやる。この一週間、私が目にした限りでは社内にいるときの社長の昼食はこれだけだ。色からしてたぶん今日は抹茶味。
こんなので足りる? というのが正直な感想。
「社長なんですから、もっと良いものを召し上がればいいのでは……」
「いい時代に生まれたな~と思うよ。手軽な栄養補給。完全食って素晴らしい!」
効率主義ここに極まれり。
自信満々に完全食の素晴らしさを主張されて私は眉をひそめた。
「まさか昼食以外もそれで済ませてるなんてことないですよね?」
「まあ、会食のない日はだいたい」
「咀嚼の必要がないものばかり摂っていると嚙む力が衰えます。嚙む習慣がなくなると脳の働きが活性化するチャンスも減りますよ。それにカロリーバランスも乱れて――」
「篠崎」
「はい」
「きみは俺の母親か?」
「秘書です」
「だよな」
「……」
それで一旦会話は閉じられた。秘書なんだから私生活に口を出してくるなと言いたいのだろう。自分は「ちゃんと食べてる?」なんて気にしてきたくせに。
鳳穂高は相変わらず自分の仕事を他人に分け与えることをしなかった。普通の人間ならとっくにキャパオーバーで音を上げているであろう仕事量をこなし、〝俺は一人で事足りる〟と示そうとしてくる。私が仕事を引き継ごうとすると「俺がやるから置いといて」とのたまう。その癖はなおしたいんじゃなかったんですかと目で訴えると、彼は素っ気ない顔で「把握できてないことがあると気持ち悪い」と言い訳した。
ならもう知らん。勝手にすればいい。
私は彼をサポートすることを諦めた。人の手を上手に借りられないワンマン社長の会社は勝手に衰退していくと相場が決まっている。自滅するつもりなら私も止めはしない。フェニクシアに復讐したい私にとっては僥倖だ。
ただ、お給料を頂いている以上は何か仕事をしなければいけなかった。社長の身の回りのことは勝手にやると「置いておけ」と怒られるので他に何かないかと、資料整理や社内の人助けに邁進している。
資料整理はもう一通り終わってしまって手の加えようがない。また背後から腰を摑まれてもかなわないので、今日は人助けルートにシフトすることにした。
「少し社内を見回ってきます」
「行ってらっしゃいませ~」
パソコンの画面にかじりついたまま気の抜けた返事をする社長。
私はまたひとつ大きなため息をつき、社長室を後にした。