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ケダモノ社長のお気に入り 男装秘書は淫らに身体を暴かれる 1

第一話

 休日だというのに喫茶店は空いていた。木とレンガと漆喰の壁で構成されたレトロな雰囲気。その喫茶店は二階建てで、一階から常連らしき壮年の男性たちの声が聞こえてくる。二階には私たちしかおらず、静かな空間の中をジャズピアノのBGMが流れている。
 ホールスタッフである老年の女性が可愛らしい笑顔を浮かべ、「何にしましょうね」と注文をとってくれた。ブレンド、ストレート、カフェメランジュ、カフェロワイヤル、カプチーノ、アイリッシュコーヒー。様々あるコーヒーの中でどれにしようか迷ったものの、結局私はいつものやつを選んだ。
「結局、ソレを頼むんですね」
 テーブルを挟んで正面に座る眼鏡の男が淡々と指摘する。呆れているような、小バカにするようなニュアンスを含んだ言葉。私も淡々と言い返す。
「喫茶店ではコーヒーを飲まないといけない決まりでもあるんですか?」
「いえ、別に。外見に似合わず可愛らしいものを頼まれるなぁと」
「一言も二言も多い……」
 私が頼んだのはミルクセーキだった。優しいクリーム色。ストローで吸い上げると、牛乳と卵黄と砂糖の素朴な甘みが口の中いっぱいに広がって幸せな気持ちになる。幸せの味。甘く優しい記憶を呼び覚ます味。子どもの頃から、この店で飲むミルクセーキが好きだった。
 ――そんなことはさておき。
「早く本題に入りましょう」
 そう言って、私は飲みかけのミルクセーキを脇に置いて話の先を促した。グレンチェックのスーツを着た眼鏡の男――桐生は、エスプレッソを一口飲んでゆっくりと口を開く。
「鳳穂高については知っていますね」
「もちろん」
 鳳穂高は国内有数のメガベンチャー『フェニクシア』の現社長。新しいネットサービスを次々にリリースし、一代で地位を築き上げた創業者・鳳一峰の一人息子だ。最近父親から社長職を引き継ぎ、その動向は各メディアから注目されている。
 高身長に長い脚、甘めのルックス。日本人離れした端整な顔立ちと独特の存在感が凄まじいと絶賛する記事が目立った。とあるファッションブランドが彼をブランドモデルに起用しようとしているという噂もあるらしい。いずれも経営の手腕への興味は二の次といった記事内容で呆れた。
 彼が特集されている雑誌やネットのインタビュー記事にはほぼすべて目を通している。
 何しろ彼は――。
「だって、これから私が復讐をする相手なのですから」

 私の父も会社を経営している。鳳のフェニクシアには遠く及ばない小さな会社だ。
 昔はそうではなかった。その昔、まだ私が幼い頃、父は当時自分の会社と同じ規模だった鳳の会社と熾烈な競争を繰り広げていた。立ち上げられたばかりのふたつの会社は、どちらも同じ新業態に挑戦していくスタイルのベンチャー企業。どちらが先に新しいネットサービスを打ち出すか。ネットベンチャー界隈でも一挙一動が注目されていた2トップの争いは、父の会社が負ける形であっさりと終焉を迎えた。そして、その闘いに勝利した鳳のフェニクシアは瞬く間に、国内で名の知れた有名企業へとのし上がった。
 私は幼い頃から父に常々聞かされていた。鳳がいかに卑劣な手を使ってあの闘いに勝利したか。父の会社に勤めていた社員を買収し、企画を盗み、手段を選ばず会社を大企業にまで成長させた。その結果、父の会社は長期にわたり停滞を余儀なくされ、後続の会社からも追い抜かれてしまった。
 鳳への復讐は父の悲願であり、同時に私の悲願になった。私には母がいない。私を出産した直後に母は病で亡くなってしまって、それから父は男手ひとつで私のことを育ててくれた。大事な父が苦しみ恨んで泥水を啜っている姿を近くで見てきたのだ。どうにか鳳の鼻を明かしてやりたい、と――大人になった私は、父の復讐の役に立てる日を今か今かと待ち望んでいた。
「新卒でフェニクシアに入ったほうが手っ取り早かったですよね……。何の関係もない企業で二十八になるまで働くなんて、お父様には申し訳ないことをしました」
「お嬢さんももう二十八ですか」
「……二十八なので、その〝お嬢さん〟呼びももうやめません?」
「何を仰るやら。お嬢さんはお嬢さんです」
 そう言って桐生はまたエスプレッソを優雅に一口。レンズ部分の小さい洒落た眼鏡がコーヒーの湯気でうっすらと曇る。それをスーツのジャケットから取り出した眼鏡拭きでいちいち拭うのだ。眼鏡をはずすと見える切れ長の一重は、いつも何を考えているのかよくわからない。私が生まれたときから近くにいたのに。
 桐生秀(しゆう)爾(じ)はずっと昔から父の右腕だった。父が大学卒業後にベンチャー企業を立ち上げたときから父に尽くし、父の秘書として会社と苦楽を共にしている。
 物心ついた頃から傍にいた彼は私の教育係でもある。おしめも替えてもらったらしいし、学校に上がると勉強を教えてもらったりもした。眼鏡で表情が読みづらいため一見すると冷たく見えるが、彼は私が知る中で最も面倒見のいい男。そして、信頼できる大人だ。
 そんな桐生は今、父の命令でフェニクシアの人事部に入り込みスパイをしている。
 私は気になっていたことを尋ねた。
「フェニクシアがベトナムの大手企業と業務提携することが大きくニュースになっていましたが、あの件は本当に事前にはわからなかったんですか?」
 業界紙のみならず、日刊の全国紙でも大きく取り上げられたニュースだ。現社長の鳳穂高が取り纏めたというこの提携により、フェニクシアは世界でも名の知られる企業へと躍進を遂げるだろう。
 父いわく、「内部にいながら会社のそんな大きな動きを摑めないなどあり得ない」と。
 しかし桐生の答えはこうだ。
「ええ。一介の人事部員の耳には何の情報も入ってきませんでしたね」
「そうですか……」
「あなたのお父上にも叱られてしまいました。本当に不甲斐ない限りです」
 そう言ってまた優雅にエスプレッソを一口啜った桐生の言動は、なんだか少しチグハグに見える。本当に不甲斐ないと思ってる……? あまりそうは見えないけれど。
 ただ、私の知る限り桐生秀爾はとても有能な人だ。そんな彼にも情報を摑ませないくらいなのだから、鳳一族の人間はよっぽど用心深いに違いない。
「桐生だけではダメだ」と父が新たに私を投入した経緯を思うと、私も気を引き締めてこの件に臨まなければ……と決意を新たにした。
 緊張で少し身体をこわばらせた私に、桐生は世間話を投げかける。
「前の職場はもう辞めてこられたんですか?」
「ええ。一カ月しっかり引き継ぎをして、立つ鳥跡を濁さずで辞めてきました」
 大学を卒業した後、私は大手飲料メーカーに就職して秘書室に配属された。一般的に新卒で秘書として採用してもらえることは稀だが、最終面接にいた社長が「人のサポートに興味があるならウチの秘書室に来てみるかい」と声をかけてくれた。
 秘書に憧れていた私には願ってもない話だった。本人には絶対言わないけれど、物腰柔らかくなんでもスマートにこなしてしまう桐生のような秘書になるのが夢だった。「是非お願いします」と就職して、その秘書室で働くこと五年。本来なら即戦力の経験者しか任せてもらえないような仕事をたくさん経験させてもらった。社長と秘書室の面々には感謝してもしきれないくらいだ。
「あなた、随分とあの職場を気に入っていたでしょう。周りの人がみんないい人だと」
「……それは、まあ」
 最後に寄せ書きまでもらって泣きそうになってしまったことは、桐生には黙っておく。
「辞めずともよかったのでは」
「いいんです。お父様の復讐は私の悲願でもありますから」
 新卒で右も左もわからぬ私を育ててくれた恩を、まだ何も返せていない。不義理を働いてしまった後ろめたさはある。だけど父の復讐は何をおいても果たさなければ。
 いろんなものを残して、私はこの復讐のステージに立った。
「やっとお父様の役に立てると思うと嬉しいんです」
「……そうですか」
「私は実の娘なんですから、家族のために手を尽くすのは当然でしょう?」
「……」
 桐生は何も言わなかった。その沈黙が何を意味するのか、私にはわからない。
 ただよくない沈黙だということは察して、すぐ次の話題を振った。
「それで、桐生。私に与えられたミッションのことなのですが」
「はい」
 父から一カ月前に「鳳穂高をお前に任せる」と命令を受け、詳しいことは桐生に聞くようにと言われていた。復讐に向けて本格的に動き出す。本業の片手間で成し遂げられることではないだろうから、私は前の職場を退職し、身辺整理を済ませてこの場に来ている。
 父のため私にできることは何だろう。
 一人息子がターゲットで、女の私が差し向けられるということは――。
「〝鳳穂高を誘惑しろ〟……ということですね?」
 気が急いていた私は桐生が言うより先に言葉にした。潜入するだけなら既に桐生が人事部にいる。その上で更に私を送り込む意味は、それくらいしか思いつかない。
 しかし桐生は、私の洞察に対し「は?」という顔で眼鏡の奥の目をまん丸にしている。
 あれ?
「いえ、色仕掛けとかそういった類のことはあなたに一切期待していません」
「えっ。あの……でも。……えっ?」
「というか、よく色仕掛けなんて案が出てきたものですよ。男性経験もろくにないくせに」
「……なぜ知っているのですか!」
「お嬢さんは私に隠し事ができるとお思いですか?」
「そんな」
「あなたに殿方を誘惑できるような手練手管は備わっておりません。慣れないことはおやめなさい。身を滅ぼしますよ」
 にべもなく切り捨てられてぐうの音も出ない。
 加えて桐生はとどめを刺すようにこう言った。
「それに鏡をよく見てご覧なさい。あなた、どう見ても〝可愛い〟というタイプではないでしょう。どちらかといえば〝格好いい〟に分類されるお顔立ちだと思います」
 ……そう。ミルクセーキを飲んでいて「外見に似合わず可愛いものを頼む」と揶揄されてしまうくらいには、私は中性的な見てくれをしている。父親譲りの凛々しい眉と目鼻立ち。女性の中で並ぶと頭ひとつぶん飛び出てしまう身長。低めの声。
 髪を伸ばしていないとすぐ男性と間違えられる。女性から告白されることはあっても、男性から言い寄られたことは一度もない。可愛げのない容姿だと自覚している。そんなちょっとしたコンプレックスを、桐生は容赦なく突いてきた。
 そのくせシニカルな笑みを浮かべてこう締めるのだ。
「まあ、私にとってはいつまでも可愛いお嬢さんなのですけどね」
「今更そんなフォローを入れられても……。なら私は何をすればいいのですか?」
 女としての自分を利用できないならば、私はどういう形で復讐に貢献できるのだろう。
 自信がなくなってきた私が身を小さくして尋ねると、桐生は「得意なことで勝負すればいいのですよ」と答えた。
「得意なこと……?」
「あなたは大学を出てから一流企業の秘書室で研鑽を積んでこられましたね。お嬢さんは真面目で、細かく、気配りができる。秘書としてのスキルはたいしたものです。それは同じ秘書業をやってきた桐生が保証いたしましょう」
「……褒められると居心地が悪い」
「褒め言葉を素直に受け取れる余裕が身につくとなおいいですね」
 淡々と褒め、淡々と足りない点を指摘する。桐生は私が子どもの頃から少しも変わらない。私は指摘されたことを〝それはそうだわ〟と心の中で受け止め、ミルクセーキを一口飲んで切り替える。
「……では、秘書としてフェニクシアに潜り込むべきだと?」
「ええ。鳳穂高の社長秘書として彼の傍に仕え、弱みを握る。これが今のあなたにできる最善策ではないでしょうか」
「なるほど……」
 それなら確かに、私が他社で秘書業をやってきた意味がある。前の会社での実務経験は採用時に役立つだろうし、即戦力になれる自信もある。手応えを感じた私は再び前のめりになった。
「今フェニクシアは秘書の採用をしているんですか?」
「はい。ちょうど穂高社長の秘書を探していて」
「ではすぐにでもエントリーを」
 言いながら私は仕事用のトートバッグの中からノートパソコンを取り出した。善は急げという。他の誰かに搔っ攫われてしまう前に、そのポストは私が頂く。
 しかし、パソコンのカバーを開いたところで、すぐ桐生の手でぱたりと閉じられてしまった。なぜ? 怪訝な顔で正面の桐生を確認すると、珍しくニコッと笑いかけられる。
「ここで悪い知らせがございます」
「えっ、何?」
「鳳穂高なのですが、どうも女嫌いらしいのです」
「……ほんとに?」
 これまで目を通してきた記事にそんな情報は一切なかった。でも本当に女嫌いだとして、別に公にはしないか……。取材記事にその人のすべてが書かれているわけでもない。
「でも、それだと女性の秘書は望み薄なんじゃ……」
「男女雇用機会均等法がありますから募集段階では男性に限定されることはありません。しかし当人が女性を嫌がる以上、女性が採用されることはないでしょうね」
「じゃあダメじゃないですか」
 秘書として働いてきたので秘書業に不安はなかった。経歴もたぶん問題ないだろう。ただ性別が問題で弾かれてしまうとなれば、私にはどうにもできない。
 ――父の役に立てないのではないか。
 いやそんなことはない。私にも何かしらできることがあるはず。そう自分に言い聞かせ、代替案を捻り出そうとした。
 その代替案は桐生の口から出てきた。
「男装してはいかがですか?」
「は?」
「男装して、男の秘書として潜り込むのはどうでしょう」
「桐生……ボケましたか?」
「まだそんな歳ではありません。失敬な」
 桐生は真面目なことも不真面目なことも真顔で言うので、表情だけではどちらなのかわからない。ただ、それにしたって冗談にしか聞こえない。
 男装? ……私が?
「得意なことで勝負すべきだと言ったでしょう」
「得意、って……」
「ひとつはこれまで培ってきた秘書としてのスキル。そしてもうひとつは、中性的なそのお顔、高い身長、そして低めの声を出すその声帯です」
 あ、本気だ。
 桐生が男装案を撤回する様子はない。彼は本気で私に男装を勧めている。話についていけない私に、桐生は畳みかけてきた。
「なに、フェニクシアには私もいます。選考の段階で女だとバレないように取り計らうこともできるし、入社後もある程度はフォローできるでしょう。協力者がいるんですから、そう難しい話ではないと思いますが?」
「いやっ……難しっ……」
「お父上の復讐を手伝うなら男装するしかないですよ」
 何か、口車に乗せられようとしている。わかっているのに。
 本当にそれしか道がないと言われてしまったら、私は……。
「どうします? やめます?」
 圧倒的に優位に立ったまま、桐生は私に決断を迫った。
 ――男装なんてうまくいくはずがない。いくら背が高かろうと、声が低かろうと、私は女。すぐにバレてしまうに決まっている。
(……それでも)
 そういう形でしか、父に貢献できないと言うのなら。
 私は迷いながら、心が決まりきらぬまま、口を動かしていた。
「……やりましょう」
「さすがです、お嬢さん。男気に溢れていますね」
 桐生は温度のない声で私を称賛し、もう冷めているであろうエスプレッソを飲み干す。冗談だと言い出す気配はやはりない。
 これまで桐生が何かを間違ったことはないと、そういう風に記憶している。私が知る限り彼はいつだって正しかった。だけどさすがにこれは……。
「お嬢さん」
「はい……」
「繰り返しになりますが、私はあなたの実直さを誇らしく思っております」
 いや、ここでそんな褒められても……。とっさにツッコミそうになったが、先ほど〝褒め言葉を素直に受け取れる余裕を〟と言われたことを思い出して黙る。
 桐生は優雅に微笑み、最後にこう言った。

「自分の目で真実を探してご覧なさい」


 ◇◆◇◆


 その後の出来事について、まずは採用選考の結果から。
 履歴書は性別と名前以外、噓偽りなく記入した。さすがに公的書類の偽装はできないのでどうなるのかと思いきや、そこは人事部の中で桐生がうまく処理してくれたらしい。
 面接に鳳穂高は現れなかった。社長としての仕事が多忙を極めていて欠席となってしまったこと、そんな状況なので一刻も早く秘書をつけたいということを、面接官だった桐生から聞かされた(茶番である)。面接には形式上、他の役員や人事部の人間も出席していたが、幸い私を女性だと指摘する人はいなかった。
 結果は採用。桐生はどんな魔法を使ったのか、選考用の書類のみならず入社のための事務手続きまで問題なく処理された。私は男の秘書として――小木曽侑美ではなく〝篠崎侑李〟として、フェニクシアの社員になった。
 そんな馬鹿な。


「こちらです。篠崎さん」
 総務部の女性に案内されて社屋を歩く。掃除の行き届いた綺麗なカーペット。落ち着いた暖色の内装。各会議室のドア横には予約システム用のモニター。お金がかかっていそうな設備だなぁと思いながら、私はあたりを観察していた。
(これがお父様を陥れて発展した会社……)
 そう思うと胸のあたりがザワザワする。父の会社にここまでの最新設備はないし、ビルの階数もまったく違う。両社の明暗を分けたのが父の語る昔の事件だとすると、こんなに理不尽なことはない。桐生は毎日どんな気持ちで出社しているんだろう。
 社屋には採用面接で一度訪れている。あのときはいつ男装だと見抜かれてしまうかとヒヤヒヤしていて余裕がなかった。実際は誰にも気づかれていない様子だったので、〝案外バレないものなんだな〟と思った。
(そんなに私って男っぽいのかな……)
 バレなかったことを素直に喜んでいいものか迷う。……いや、でも、いいのか。この見た目じゃなかったら、私は役立たずで終わっていたかもしれない。
 気持ちを切り替えて背筋を伸ばす。
「すみません、少しいいですか」
 前を歩いて先導してくれていた総務の女性、高(たか)野(の)さんに声をかける。歳は私とそう変わらなそうだ。「はい?」と振り返って朗らかな笑顔を浮かべている。
 地声よりももう少しだけ低い音を意識して話しかけた。
「変な質問をして申し訳ないのですが……あなたから見て、私は今どんな風に見えますか?」
「え?」
「率直に教えてください」
「……えーと……とてもスマートで、素敵な秘書さんだなぁと……」
「ありがとうございます」
 こちらも負けないくらいの朗らかな笑顔で返す。
 高野さんを困らせてしまったことを反省しつつ、客観的な評価に安心する。今の感想なら女とはバレていないだろう。
 案内を再開してくれた彼女の後ろをついて歩きながら、ふと左を見た。ガラス張りの壁に男装をした自分の姿が映っている。男性の中に並んでいても違和感のないひょろりとした体軀。スーツの下の肩パッドのお陰で今は骨格もそれっぽく見える。
 大丈夫。これで鳳穂高のことも欺ける。
「篠崎さんは、穂高社長に会うのはこれが初めてなんですよね」
「はい。面接のときはご都合が合わなかったようで……」
 下の名前で呼ばれているのだなと、質問に答えながら思った。恐らく前社長である父親と区別するためだろう。鳳穂高の親である鳳一峰は社長の座を息子に譲り、経営のほとんどを任せている。父親は会長という肩書で在籍しているが、よっぽどのことがない限り表舞台に出てくることはない。――と、桐生から教えてもらった。
(……信頼されている、ということなんでしょうね)
 大事な会社の経営を任せるのだから相当だ。それだけ鳳穂高に才覚があるのか、それとも親の欲目なのかはわからないけれど。
「とても優秀な方なので安心してください」
「ええ」
「ちょーっと摑みどころがなくて困ることも多いんですけど」
「え?」
「篠崎さんなら上手に社長を扱ってくださると、期待しています!」
「ああ、はい。ありがとうございます……?」
 そこで一気に不安が募った。社員からこんな風に言われる社長ってどうなの?
 優秀だけど摑みどころがない。よっぽど偏屈ということなのか……。
 鳳穂高のイメージが揺らぐなか、遂に社長室の前に辿りついた。高野さんは硬質な扉を三回ノックし、「新しい秘書の方をお連れしました」と。
 すると中から「どうぞ」と声がした。輪郭のはっきりとした低く艶のある声。
 目的の人物が、ドア一枚隔てた向こう側にいるという事実に緊張する。心臓が早鐘を打っている。対面まで、間もなく。
 目の前で社長室の扉が開かれる。
「失礼いたします」
 高野さんに続いて足を踏み入れた。丁寧に深々とお辞儀をして視線を上げる。
 一面ガラス張りの壁から射し込む自然光が眩しくて少し目を細めた。目が明るさに慣れてくるのに合わせ、エグゼクティブデスクに着いている人の姿がはっきり見えるようになる。――ああ。
(この男が……)
 ずっと憎くて仕方がなかったフェニクシアの現社長――鳳穂高か。
 雑誌で見た姿と比べて遜色ない。柔らかなウェーブがかかった前髪から覗く瞳には不思議と力があって、視線を吸い寄せられる。目が離せない。別に威圧的なわけじゃない。どちらかと言えば凪いだ海のように静かだと、そう思うのに。
 いざ本人を目の前にして私は、なぜだか一歩も動けなくなってしまった。
(……えっと)
 とりあえず挨拶だ。このままデスクの前まで進んで、挨拶をする。
 たったそれだけのことを行動に移せないでいる間に、鳳穂高が立ち上がる。彼はこちらから目を離さなかった。最初は凪いでいた瞳が、私を視認するとみるみるうちに大きく見開かれた。そのままツカツカと私のほうへ歩いてくる。
 隣で高野さんが「穂高社長?」と不思議そうな声を発した。
 彼はそれにも構うことなく私の目前に立った。背が高い。私が高いと感じるくらいだから、かなり高い。そのまま彼は私の顎を掴んでグイと顔を近づける。
(近い!!)
 こんなに近いといくらなんでもバレてしまう!!
 焦った私は更に身動きがとれず、その場にフリーズした。至近距離に嫌味なほど整った顔がある。その顔が品定めでもするかのようにじろじろと私を観察する。
 そしてボソッとこう漏らした。
「は? ……クオリティーたっか」
「…………は?」
 こっちが〝は?〟である。
 鳳穂高は角度を変えて私の観察を続ける。毛穴の数まで確認するつもりかとツッコミたくなるほど執拗に。呼気すら感じられる距離感で延々見つめられていると、さすがに男ではないとバレてしまいそうで……ようやく動けた私は、バシッと彼の手を叩き落とした。
「いてっ……」
「初対面の相手の顔に触れるのは、失礼だと思います」
 そう言って私が睨むと、彼はきょとんとした顔になった。
 そしてその顔のまま謝ってきた。
「それは確かに。ごめん」
「……ごめん、て」
 およそ初対面の会話ではない。社会人同士の会話ですらない。私は友達か何かか?
 やっぱり失礼だなと思いつつ、どこか憎めない節もある。これが高野さんの言う〝摑みどころがない〟……?
 助けを求めて高野さんのほうを見ると、なぜか祈るようなポーズで私たちのことを興味津々に見ていた。